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<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>あまねけ！ - lily</title><link href="https://ama.ne.jp/" rel="alternate"/><link href="https://ama.ne.jp/feeds/lily.atom.xml" rel="self"/><id>https://ama.ne.jp/</id><updated>2026-04-26T19:20:00+09:00</updated><entry><title>おいしいイルカカレーを作るコツ♡</title><link href="https://ama.ne.jp/post/dolphin-curry/" rel="alternate"/><published>2026-04-26T19:20:00+09:00</published><updated>2026-04-26T19:20:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2026-04-26:/post/dolphin-curry/</id><summary type="html">&lt;p&gt;静岡県東部のスーパーではイルカ肉のパックが売られていることがあります&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;おいしいイルカカレーを作るコツは、たったこれだけ！&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;できるだけ新鮮なお肉を仕入れましょう。冷凍品や干物では臭みが取れないことも……&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;お肉はきちんと洗ってからアク抜きと塩ゆでしましょう。下処理をサボらないのがポイント&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;イルカ肉と相性がいい？　意外なあのスパイスをたっぷり入れて一流レストランの味に！&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;初めてイルカ肉を調理する人にありがちなのが、下処理の大切さを軽視した失敗です。知らないお肉を全て「&lt;a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%AA%E5%91%B3"&gt;鶏肉みたいな味&lt;/a&gt;」だと思う人もいますが、ミオグロビンは肉の色を決めると同時に――&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「先輩、野菜切り終わりましたけ、ど……うわ、くさっ！　料理の匂いじゃないですよ、これ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だ、だからカレーにするんだよ。大丈夫だって。ちゃんと炒めればほら……うえっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その「大丈夫」な料理を作っていてえずくわけがない。私は野菜でいっぱいのボウルを抱えて、異臭を上げるコンロにもう一歩近づいた。メイさんは、逆手で握った木べらでやたらと鍋をかき回しては、強がる言葉とは裏腹に不安そうな視線で鍋底をきょろきょろ覗き込んでいる。まるで具材に足が生えて歩き回っているのを目で追っているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんは弱気な表情を誤魔化すように「はははっ、ミオは心配性だなぁ。ちゃんとスーパーで売ってた肉だから大丈夫だって」と涙目で笑ってみせた。スーパーで売っていたから大丈夫なんて、自分に言い聞かせるだけの強がりみたいで逆に不安になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、結局なんの肉なんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、だからその……食用の肉だよ。ちゃんと売ってたんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう院生になったんですから、スーパーで『食用肉』なんて買わないでください！　ペット用とかでしょ、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いや確かに見切り品だったけどさ……でも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水垢でくすんだステンレス鍋には虹色の皮膜がまだらに広がっていて、これまでほとんど棚に仕舞われたままだったのを物語っている。木べらだってやたら綺麗な上に輪郭もシャープなままで、ひょっとしたら今日初めて使うものなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の問いをかわす先輩の沈黙をかき消すように、ジュー……と鍋から肉の焼ける音が溢れ出る。音だけは美味しそうな鍋底をおそるおそる覗き込むと、白い脂肪を厚く備えた赤黒い角切り肉が油の上で滑っているのが一瞬だけ目に入った。見たことはないはずなのにノスタルジーを感じるような、不思議な色合いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シュワシュワと上がる湯気には、牛・豚・鶏……前に食べた熊肉の時雨煮とも違う、およそ食べ物らしくない獣臭さ、単なる見切り品の魚とも違う妙な生臭さ、鼻が痺れるケミカルな匂いが渦を巻いている。加熱された薄黄色のサラダ油に肉の臭みが溶け込んで、キッチンの隅から隅まで赤茶けた香りで覆われつつあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おかしいと思ったんですよ。先輩が料理を作ってくれるなんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんが得意なのは、料理より大学周辺にある飲食店の情報収集で、SNSでよくバズる簡単レシピの一つさえ作ったことがない。安いストロングチューハイの違いは区別できても、牛肉と豚肉のパックを見分けるのさえ怪しい。煙草の味は分かっても、ローリエとローズマリーの使い分けは知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のお弁当に変なアドバイスしてくるところが嫌いとか、自炊できないのが悪いとか言いたいわけじゃない。そういう人ってだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「つまり、ミオだって私の味覚と嗅覚は信じてるんだろう？　じゃあ、あとはちょっと料理に慣れれば……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーはいはい、そうですね。こんな肉が美味しくなると思って炒めてるんですから、先輩はよほど天才的な嗅覚を持ってますよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに怒るなよ。料理を手伝ってくれるって言ったのはミオじゃないか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何の肉かも分からない料理を食べたいなんて、一度も言ってませんよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんはそわそわと木べらを滑らせて落ち着かない様子なのに、その口調だけはまるで完成間近の料理を仕上げるみたいに落ち着かせている。なんだってそんなに強がるのだろう。もちろん、私の眼下では正体不明の食用肉が痺れる匂いを上げて踊っているだけで、そこには料理らしさの欠片もない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まさか、このままここにカレールーを放り込んで完成だと言い張るんじゃなかろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、その話は食べるときにするからさ。まずは、この肉をどうしたらいいか一緒に考えよう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何の肉かも分かんないのに、どう料理するかを考えなきゃいけないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミオだって、この前いきなり部室でホラー映画を流し始めたじゃないか。そういうの苦手だって知ってるくせに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いきなりホラー映画流したって死にませんって」「死ぬよ、最悪ね」「死にませんって！」「死ぬってば」「ソースは？」「イットを見て心臓発作で死んだっていうニュースがアメリカで――」「それフェイクですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いきなり流したホラー映画というのは、たぶん部室に転がっていたレンタル落ちの中古DVDのことだ。涙目で強がるメイさんを宥めるのに苦労したのを思い出す。今どき「ノロイ」なんて、怖さより先に懐かしさが来るタイプの名作だと思うけど。それにしたって、大学生にもなってあんなに怖がる人は初めて見た。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんはオカルトがすこぶる苦手だ。理屈では大したことない作り話だと分かっていても、本能が「説明できない何か」を感じ取って全力で拒否するらしい。こういう映画を作っている側からすれば嬉しいだろうけど、帰宅して部屋のクリアリングが終わるまで付き添ったこっちの身にもなってほしいところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、知ってるさ。私が言いたいのは、ホラー映画のせいで死ぬってのは随分なリアリティがあるってことだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだか、今日のメイさんと似ている気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お肉の話じゃないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるじゃないか。つまり、この肉を食べたら最悪死ぬ……いや、違う違う。間違えた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;勢いのままに私を言い負かそうとしたメイさんは、木べらを動かす手を止めて「だからこの肉は、えーと……」と呟いたきり黙り込む。それから、うーん、と唸ってコンロの火を消した。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;メイさんと向かい合ってダイニングテーブルに座る。四人で座るには少し狭くて、二人で使うには少し大きい中途半端な広さの机。ここに古いブラウン管のテレビと古いプレーヤーでもあれば、いつもの部室とあまり変わらない設備になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらく換気したおかげで、キッチンを覆うあの異臭はもうすっかり薄れている。それでも、メイさんはまだ落ち着かない様子だった。鴨肉やマニア向けのジビエなんかよりずっと赤黒い肉の話をすると、曖昧な返事でごまかすだけだ。やっぱり、ホラー映画に慄くメイさんと少し似ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、肉を食べたり映画を見たりして死ぬか死なないかなんて、コンロに火が着いたまま言い争うようなことではなかった、と思う。でも、落ち着こうにも深呼吸一つできない匂いだったのだから仕方ない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず、ちゃんと話してください。全部教えてくれないなら、私本当に帰りますよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、まず……油の量が多かった、かな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それだけ？　じゃあ、油が腐ってたってことですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、そういうわけじゃないんだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩、さっきからおかしいですよ。言ってくれないなら私は食べませんからね。こんなの絶対お腹壊すもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いくら料理をしないからって、ただのサラダ油がこんな異臭を上げるほど劣化することはないだろう。古い油の酸っぱくてもたれる匂いというよりも、肉の脂に奥まで染み付いた濃い獣臭さが油に溶け出して蒸発した匂いだった。まさに彼女が隠しているその肉の匂いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんはどうして、この肉の正体を教えてくれないのだろう。まさか、私に毒を盛ろうというわけではあるまい。自分も食べるカレーなのだから、これではただの間抜けな無理心中だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあこれが、私の――先輩と一緒に死んでもいいという――気持ちを試すためのサインだとしたら？　かつては、心中相手を探して文通する人たちの間で死に誘うための符牒が使われていたらしい。でも、お互いの実家にあいさつに行くどころか、付き合ってもいないのに？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、メイさんがどうしてもなんて言い出したら……いや、それは流石に考えすぎだ、と首を振る。どちらにしても、何も知らずに食べる理由はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はぁと溜息をつく。すっくと席を立つ。なぜか謎の肉のまま食べさせようと意地を張るメイさんも、流石に私が帰ってしまうと困るようで、テーブルに手を突いて慌てた様子で立ち上がった。イスがガタリと大きな音を立てて床を滑る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、待て待て。分かった。分かったよ。これ……実は、人魚の肉なんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人魚の肉？　何ですか、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心中の誘いでも飛び出すのかと身構えていたところに、ダークメルヘンな世界からおかしな単語が飛び出して思わず聞き返してしまう。人魚の肉なんて、それがスーパーで売っていて、しかも見切り品になるまで売れ残っていたなんて信じられるわけがない。まるでホラー映画の導入みたいだ。そう、メイさんがとっても大嫌いな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって完全に信じてるわけじゃないさ。でも、袋にそう書いてあったんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変な嘘つかないでくださいよ。そんなに隠したいんですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「嘘じゃないって……ほら、袋にも書いてある」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、メイさんがゴミ袋から半透明のビニール袋を取り出す。冷凍食品用の厚手の二層フィルム袋の表面にはラベルが貼られていて、確かに「人魚肉」と大きく印刷されていた。小さな文字で管理温度や業者の名前も書かれていたようだが、既にかすれていて見えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;霜が溶けてしっとりと湿った袋からは、鍋に立ちこめたツンとした獣臭にレバーっぽい血生臭さを足したような……これまた異臭としか表現できない匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人魚の肉だっていうなら、最初から教えてくださいよ。まぁ……そう言われても、意味は分かりませんけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「食べたくないって言われたら困るから……その、後で教えればいいと思ったんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに食べたいなら、一人で食べればいいのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほ、ほら……人魚の肉を食べると不老不死になるって言うだろう？　そう考えると、一人で食べるのが怖く、なっちゃって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんが絞り出すような声でそう告げる。つまり、彼女が白状しているのはこういうことだ――面白半分で買った「人魚の肉」なんてジョークみたいな食材が、いざ調理しようとするとオカルトが渦巻く塊に見えてきて、食べるも捨てるも一人ではできなくなった、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その恐怖を和らげるために、一緒に食べてくれる――しかも、呼び出せばノコノコ来て疑わずにカレーを食べるような――誰かを探していたということだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも不老不死になんてなるわけがないけれど、もし仮に超自然的な呪いが本当に降りかかっても、自分一人じゃないから怖くない……なんて理屈で、恐怖を抑え込もうとしたのだ。こんな怪しい肉……一緒に食べてくれる相手を探すより、一緒に捨ててくれる相手を探す方が早いと思うけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何より腹が立つのは、メイさんが私を一緒に食べる相手として選んだってことだ。しかも、呼んだ目的まで隠して食べさせる相手として。素直に野菜まで切っていたのがバカみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、先輩は……私を騙して不老不死になる意味不明な肉を食べさせる気だったんですか？　ひどいですよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何もここで死ぬってわけじゃない。ちょっと寿命が延びるだけだし。不老不死になっても困ることはないさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それを決めるのは私です！　勝手なサービスで寿命を延ばされたら、たまったもんじゃありません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私だって、こんな非科学的な迷信に本気で怒りたいわけじゃない。でも、鍋に転がっているのが何の肉だとしても、メイさんが私を騙して食べさせようとした事実は変わらないのだ。百歩譲って不老不死になるのを受け入れたとしても、そんな大事なことを隠すような人と一緒に不老不死になるのは、絶対に嫌だと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おいおい、本当に不老不死になるってわけじゃないのに。黙ってたのは悪かったけど、そんなに怒るなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不老不死になるって言ったのは先輩じゃないですか。死ぬかわりに不老不死になるってだけで、こんなの無理心中と一緒ですよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……もし本当に不老不死になったら、頼りになるのはミオだって思ったんだ。これはほんとに。嘘じゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、フォローのつもりですか？　本当に、もう……最悪です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそう呟いて下を向く。こんな謎の肉を食べたって、どうやっても不老不死になんかなるわけがない。それでも、メイさんが妙なオカルトの恐怖から逃れるために私に手を伸ばしたというなら、私たちが本当に不老不死になってもおかしくないと思う。彼女がその恐怖を信じている限りは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう意識すると、メイさんが私と心中したいのだと一瞬でも疑っていたのが恥ずかしくなる。それを気取られないように、私はメイさんを睨み付けて、またわざと大きな溜息をついた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;調理を再開した私たち（ほぼ私だけど）は、まず「人魚の肉」の下処理をやり直すことにした。表面に火が通ってくさい肉汁が閉じ込められそうになっている肉をまずは半分にカット。水洗いすると繊維の隙間から赤い血液が流れ出す。それを水を替えて何度か。一度茹でこぼしてアクを抜いた後、ほんのりした生臭さが残るので、最後に三パーセントの塩で茹でたら下処理は終わり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人魚の肉の「うま味」なんて油に溶かしたら、カレー全体にあの獣臭さが広がって取り戻せなくなる。野菜は素直に別の鍋で炒めて、水を注いで、それから肉を入れて煮始めるのが吉。市販のカレールーでは力不足と悟って、ショウガをたっぷりと、味噌を少し入れたのが一番よさそうだった。ここでタイマーストップ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんな状態の肉でも、なんとか食えるもんだなぁ。ちょっと血の匂いは残ってるけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私がちゃんと臭み抜きをやり直したからですよ。そもそも、血抜きもしないで焼き始めたのは先輩じゃないですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやー、ごめんごめん。早く焼かないとミオに怪しまれると思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんな匂い、怪しむなっていう方が無理ですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度も洗って茹でこぼした人魚の肉は、半分ほどの大きさに縮んだ上に、表面がぼそぼそとして美味しそうには見えない。それでも、おそるおそる口に入れると……いかにも謎の肉っぽい、弾力のあるジビエと魚の中間っぽい味が広がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舌の感覚に集中すると、引き出されるのはわずかに残った生臭さと血生臭さで、脂の獣臭さも抜け切っていない。それでも、カレーの味でごまかせるくらいには――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――なんか……慣れてくると食べられますね、これ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あぁ……なんか、この独特の食感も癖になるっていうか……美味い、かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「寝かせたら脂の匂いが回っちゃいそうですし、鼻が慣れてるうちに食べちゃいましょうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうだな。盛り付けが面倒だし、鍋ごと持ってくるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カレールーを一箱の半分だけ使う、三～四人前のごく普通のレシピだ。つまり、二人でもう一杯ずつ分ければ食べきれる量になる。おそらく、その計算に間違いはなさそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私はそこで妙な感覚を覚えた。たぶん、メイさんも同じだ。キッチンに戻るメイさんに合わせて「あ、私が盛り付けますよ」と立ち上がったら、びくりと驚いて振り向いたから。まるで、私が何か企んでいるのを疑っているように。そして、彼女自身が何かを企んでいるように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなの二杯なんかじゃ足りない。美味すぎる。なんなら鍋ごと食べたい。カレーの匂いが鼻をくすぐって、まだ一口も食べていないような食欲が湧き上がってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんなに美味しいカレーで不老不死になれるなら、一石二鳥だなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気楽でいいですね。私は別に、先輩と一緒なら不老不死になってもいいですけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へぇ。それ、告白のつもりかい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなつもりはなかったけど、口の中でもう一度言ってみると、確かに吸血鬼に告白してるみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、メイさんは同じサークルに所属しているだけのただ仲のいい先輩で、付き合いたいだなんて一度も思ったことがなかった。どんな恋人がいたのか、どういうキスをするのか、ついでに彼女の実家がどんな玄関をしているのかも知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、心中するよりよっぽどましだ、と思ってしまう。不老不死になったって、困るのは何十年も先のことだ。それに、メイさんと死ぬまで一緒ってわけでもないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……でも、嘘をつく人とは暮らせないんで。やっぱ無理かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、百年経っても言ってたらきっと最高のギャグになるだろうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんがクスクスと笑いながら、温くなったカレーの鍋に火を着けた。ふつふつと小さな泡を上げながら、カレーの香りと一緒に美味しそうな獣臭さが鍋からどっと漏れ出してくる。どうしてこんな匂いを必死に取り除こうとしていたんだろうと、少しうっとりした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルに置くなら鍋敷きがいるはずだ。いくらメイさんが自炊をしないからって、トリベットでなくても鍋敷きの代わりになるタオルくらいはあるだろう。キッチンを探そうと思って辺りを見回すと、カレーをそっとかき混ぜるメイさんの足元に違和感を覚えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩、足に何か付いてますよ……これ、鱗？　人魚に鱗なんてってありましたっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あるだろ、下半身は魚だもの」「そうじゃなくて」「どういう意味？」「だから、お肉の袋に入ってたんですか？」「魚っぽい部位は入ってなかったな」「じゃあなんで」「加工のときに混ざったんだろう」「人魚の加工工場で、ですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;てっきり、東南アジアあたりではポピュラーな安い輸入肉あたりを「人魚の肉」だなんてジョークみたいに売り捌いていたのだと思っていたら、魚というのは本当だったらしい。こんなに大きな鱗だと、ちょうど人間の身長と同じくらい――ちょうど人魚と呼んでマーケティングしてもおかしくないような大きさ――かもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまで肉っぽい魚が出回っているなんて知らなかった。もっと回転寿司のネタとして話題になっていてもいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミオだって、指の先に何か……おや、それも鱗じゃないか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ……ほんとだ。気付きませんでした。じゃあ、袋に入ってたんですね。きっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか爪先に乗っていた鱗を拾い上げて、メイさんの顔を透かしてみる。薄く色づいた透明なプラスチックに、年輪に似た縞模様が何周も刻まれていて、向こうの風景が水中を覗いているように歪んで見えた。指先がひんやりして、水が流れ出してくるような感覚が心地いい。鱗の向こうのメイさんが海の底で料理をしているようで、なぜだか私たちは顔を見合わせて笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気が付くと、外はもう夜になっていた。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>高松志乃のお嬢様チャンネル1「わたくしのパンツ見てたわね！」</title><link href="https://ama.ne.jp/post/shino-takamatsu-1/" rel="alternate"/><published>2026-01-11T17:40:00+09:00</published><updated>2026-01-11T17:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2026-01-11:/post/shino-takamatsu-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;伝説の神回&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「貴女たち……いま、わたくしのパンツ見てたわね！　見ないでって、あんなに言ったのに！　あぁっ、信じられないわっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一日全コース貸し切りのゴルフ場に響き渡る甲高い声は、高松 志乃――紫苑女学園高等部三年で、学園内最大の社交クラブ「紫風会」の主宰――のものである。怒りに震える表情で制服のスカートの裾を押さえる彼女は、同行する周囲の生徒たちから向けられたいやらしい視線を跳ね返すように周囲を睨み付けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「志乃……？　急にどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、雅美……だって、さっきからこの方たちが、わたくしのパンツをいやらしい目で見てくるのよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;志乃が目に涙を浮かべてその腕に縋り付いたのは、彼女と長らく付き合いのある同級生の中浜 雅美である。ゆるくウェーブのかかった明るい髪色の志乃とは対照的に、ストレートの黒髪が美しく輝くクールな美少女という印象で、学園内では特にお似合いのカップルとして噂に上るほどの人気だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ゴルフ経験のほとんどない彼女が、しかも制服姿のままコースに出るのを許されているのは、ここが彼女の父によく世話になっているゴルフ場だという点が大きい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、この志乃の制服姿は彼女の忘れ物が原因というわけではなかった。当日のクラブハウスに手違いでゴルフウェアの用意が4着しかなく、どうしても誰かが制服のままコースを回らなければならなかったのだ。この会を主催する年長の志乃がその役を引き受けたのは、まさに彼女の徳から出たものだというしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんなのよ、貴女たち……黙っちゃって！　貴女たちのパンツはスコートで守られてるからって……わたくしのパンツ、見ていいわけがないでしょう？　早くお答えなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なおも怒りが収まらない志乃は、後ろで打順を待っていた後輩の生徒たちをそう問い詰める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大騒ぎしている一行だが、彼女たちはまだティーイングエリアの上である。志乃が何度かティーショットを試しただけで、ゲームは何一つ進んでいなかった。彼女の主張によれば、後ろで待つ後輩たちがスイングした拍子にスカートがめくれるのを今か今かと待っていた、ということらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いえ……私たちは、その……ねぇ、久保田？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ……私⁉　あ、章世ちゃん……えぇと、高松さま……私たち、決して見たつもりはなくて……ねぇ、小山さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠坂 &lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;章世&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あやせ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と久保田 沙樹は共に高等部二年生で、やはり紫風会の会員である。彼女たちは寮の同室で生活を送る仲の良いルームメイトであり、今日は章世のわずかなゴルフの経験が買われてこの場に招待されたという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;陸上部で活躍する章世は志乃の役に立つチャンスだと張り切っていたのだが、一方の沙樹は章世の推薦で招かれたものの、いつもは茶道部で活躍する大和撫子である。ゴルフの経験はおろか大会さえ見たこともない沙樹は、前日にその不安な気持ちを章世に漏らしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いずれにせよ、章世と沙樹は志乃が主催する会――特に高松会と呼ばれていた――に招待された名誉を喜んでいたのだが、今となっては後悔しか残っていない。彼女たちの知る志乃は、こんな鬼の形相でパンツパンツと騒ぎ立てるような人物ではなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人は誤魔化すような苦笑いを浮かべたまま、答えもはっきりとしない。実際のところ、彼女たちは志乃のパンツを見ていた――というより、見えてしまっただけだ。しかし、そうはっきり答えるには、学園内での志乃はあまりに別格の存在であった。大空の下でパンツが丸見えになっていたなどと、後輩たちの前であけすけに指摘されたのでは彼女の顔が立たない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なによ、小山が見ていたのっ⁉　あなた……はっきりおっしゃいなさいな！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……その、ですね……高松さまの、下着が……その、先ほどからずっと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世、沙樹と背の順に並ぶ一際小柄な&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;小山&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こやま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt; 正恵も、紫風会に所属する一年生である。一年生が高松会に招待されるのは異例の扱いだったが、コーディネートと撮影を担当する二年生の岡野 &lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;一葉&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かずは&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の知り合いとして呼ばれたのだった。つまり、撮影の手伝いとプレーメンバーを兼ねて呼ばれた半ば雑用係のような立場である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女が、か細い声で志乃のみっともない様子について指摘しようというのは、志乃の格の高さがまだ正恵に染み渡っていないせいもあったが、ここは二人よりも勇気があると表現するべきだろう。事実、志乃が学園でここまで声を荒げる姿を見たことがある者はいなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「――みんな。志乃が嫌がってるから……やめてあげて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、正恵が絞り出した勇気の声は雅美にかき消されてしまう。雅美は毅然とした表情で志乃を隠すように三人の前に立ち塞がると、彼女を守らんと言わんばかりに腕を広げた。志乃はその姿を見てはっと驚いていたが、それから小さく頷くと身を縮めてその背中に隠れて身体を小さく震わせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんでそんな真剣な顔で高松さまをかばえるんだろう。本当は何かの撮影なのかな。章世と沙樹はそれぞれそんなことを考えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくし、本当に怖くって。この方たち、本当にゴルフに興味がおありなの？　ストレッチの時から、わたくしのパンツをジロジロと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（高松さま……どうしてあんなにスカートを折ってるわけ？　移動の時は普通の丈だったんだけどな……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（あれ、別に買ったスカートを切ったんじゃない？　新品に見えるもん）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スカートの裾を強く引いて押さえる志乃だが、彼女が履いているのはなぜか、ほんの少し歩くだけで水色のサテンがきらめくショーツがチラチラと覗く超ミニスカートだった。屈んだりストレッチで脚を広げればもちろん、クラブをスイングするだけでパンツが見える。今は雅美の後ろに隠れたのでやっと見えなくなった、というだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、この三人は志乃とゴルフをプレーしてほしいと言われてここに来ただけで、クラブの主宰を務める先輩のパンツに興味があって集まったわけではない。結局、手が付けられないほど怒り狂う彼女に困惑しながら立ち尽くすしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正恵は二人の会話を聞いて、短く切ったスカートを持ってきたという案に密かに賛成した。スカートを折ってどうにかなる丈ではなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「遠坂！　久保田！　何をこそこそ話しているのっ！　わたくしのパンツがそんなに面白くて⁉」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、雅美の背中から飛び出した志乃が二人に向かって指を差してそう叫ぶ。もちろん、身体が大きく跳ねた拍子にまたパンツが見えていた。まるで走り高跳びのような流れるような動きで、するりと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえっ、なんでもありませんわ！」「章世さんにゴルフのアドバイスをいただいてましたの。おほ、おほほ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら……そう。ならいいわ。でも、そのような助言はみなさんに聞こえるようになさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;取り繕った笑顔で「はいっ！」と答えながら心の中でほっと安堵の息をつく二人の前で、志乃も呆れたように大きな溜息をつく。そして、今度はここまでカメラを回していた岡野につかつかと歩み寄った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カメラ目線でまっすぐ向かってくる志乃は、もはや強引なマスコミの取材に対峙する痴女である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この方たち、一葉がお集めになったのでしょう？　いったい、どういうおつもりなのかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はっ、はい！　遠坂にゴルフの覚えがあるというので、ご友人と共にお誘いしました。小山は私の旧知でして、手伝いを兼ねて来てもらおうかと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉はカメラに向かって話す志乃の様子をそのままに、音声だけをカメラに乗せてそう答えた。いつもプロの撮影を意識している一葉にとって、こうして無駄なライブ感が出てしまう演者との会話は、本来なら三流の振る舞いである。今日はあくまで例外だ。まさか撮影係にまで飛び火するとも思わず、ぐっと握り込むカメラの画角が少し揺れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映像を見返すときに手ぶれがあると志乃が酔ってしまうのを思い出して、一葉はそっと脇を締めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一葉……貴女、さっきからわたくしにカメラを向けているわね？　こんなに……パンツが見えているというのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「し、しかしそれは……普段から撮れるものは撮っておけと、高松さまがいつも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひょっとして……わたくしのこと、裏切るおつもりなの？　わたくしのパンツを撮って、あまつさえ売り捌こうだなんて……キーッ！　貴女のこと、信じていたのに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉はまた思わず「えっ！」と驚いた声を上げる。高松会の撮影では指示があるまでカメラを止めるな、と日頃から言われていた一葉だったが、そうまで言われて無用な疑いを被るわけにもいくまい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慌ててカメラを下に下ろすと、よく整えられた芝生と志乃の足元が映り込む。綺麗な緑の絨毯の上で、志乃が怒りのあまり地団駄を踏む姿がよく映っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえっ！　そんなことは決して――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「貴女っ、どうしてカメラを止めるのっ⁉　ちゃんと撮りなさい！　裁判になったら、これが唯一の証拠になるのよっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はぁ……分かりました。では、続けさせていただきます……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これでどんな裁判を始めたところで、きっと志乃に不利な証拠になるに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜか彼女をかばう雅美はまだしも、付き合いが長いはずの一葉でさえも志乃の奇行に翻弄されている。そんな姿を見た後輩の三人の間には、どうやらこれは高松会の洗礼ではなく、ただの異常事態なのだという確信――屈折した安心感と言ってもよい――が訪れていた。地獄の中に砂丘を見つけて喜ぶようなものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの……高松さま、そろそろゴルフの続きを……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうと決まれば、と章世が志乃のゴルフボールが飛んでいったフェアウェイ右寄りの前方を指差す。強引にコースに戻せばこの怒りも収まるかもしれない、と思ったらしい。確かに、もともとは章世が志乃や周囲の生徒にゴルフの基礎を進講しながら楽しく過ごす会、のはずだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、視線を感じるんですもの。貴女たちの、とってもいやらしい視線を！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうですね。視線が……はい。でも、コースも回らないといけませんし……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくしだけが一人でミニスカートを履いてるのが変なのよね？　それがおかしくって、見てしまうんでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえ、高松さまがおかしいわけではないんですが、その……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一葉だってそうよ。昔はあんなにギラギラしたカメラ捌きでは、なかったもの……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;怒っていたと思ったら、急にしおらしく黙り込む。高貴な高松さまをこのまま押し込んでしまうには、どうにもばつが悪い。一歩前に出て声を上げた章世は、早くもその決断を後悔した。なにせ今の志乃は、後輩から何を進言しても被害妄想で曲解してしまうパンツモンスターである。今は一葉さえも彼女を止められない。でも、どうしたらよかったのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雅美が動くまで待つべきだったかもしれない、と策もなく黙り込む章世。そんな彼女を救うつもりか否か、再び雅美が志乃の前に立って三人に優しく語りかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みんな、志乃の下着を盗み見るのをやめなさいと言ってるの。志乃だけじゃないわ……私からもお願いしてるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その言葉を聞いた志乃がうんうん、と大きく頷く。いや、中浜さまはどういうおつもりで言ってるんですか……と章世はアイアンを差し出した手をそっと下ろした。志乃はもはや扱えないと分かった中で、三人の興味は雅美が自分たちの味方なのかどうかという点に移っていた。どうしてそんなに冷静に志乃を庇えるのか……単なる幼馴染の絆と説明するのも難しいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では、なぜ――それでも、今は雅美の助け船に乗るしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい……決して見ませんわ。お二人も、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。高松さまの下着は見ません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も……絶対見ません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、それでいいのよ。分かってるじゃない。それで、次はどうしたらいいの？　遠坂、教えてちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまではっきりと意味不明な誓いを立てたおかげで、やっと志乃の気持ちが落ち着いてきたらしい。章世が差し出したアイアンを受け取ると、楽しそうにフェアウェイを歩き始めた。もちろん、スカートはひらひらと舞ってパンツは丸見えのままである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の球はちょうどバンカーに落ちていて、芝に抜けるバンカーショットの練習にはぴったりのシチュエーションだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;章世はほっと胸をなで下ろして、志乃の構えに二、三つアドバイスを加えながら、バンカーの特徴やちょっとした蘊蓄を語り始める。坂を越えるための無理な構えで、先ほどよりもパンツは露わになっていたが、志乃が周りの視線さえ気にしなければ、ただテカテカの布が見えているだけだ。こうなると、いやらしくもなんともない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうそう、こういうのがやりたかったんだよね……章世と沙樹の間にも、温かく緩んだ空気が流れているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ですから、クラブを砂に付けてはいけないんです。あくまで自己申告ではありますが、紳士淑女のスポーツでして、そこはきちんとした――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。こうやって、淑女……淑女ね……でも、貴女たちは全然淑女じゃないわね！　わたくしだけ打っているのも、隙だらけのパンツを見るためってことなの⁉　あぁっ、おかしいと思ったのよっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……しかし、そのほんわかとした雰囲気も一瞬でかき消される。志乃は今にもボールを打とうと構えたまま静止していたアイアンをぶんと振り下ろして、バンカーの砂の上に叩き付けた。そしてまた見事な地団駄を踏む。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、紳士淑女のスポーツであるゴルフのプレー中にこんな蛮行があってはならない。できるなら、章世だって本当はきちんと注意したいところだろう。もう一度明らかにしておくが、ここは志乃の父にしっかりと世話になっているゴルフ場であり、このあと一葉と正恵がレーキでしっかりと砂を平してから先に進むので、なんとか許されているのである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世がまたなんとか志乃を宥めようと、砂に半分埋まったアイアンを取り出して手渡そうとする。しかし、彼女はその手を振り払うように再び章世に向かって叫んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきから、遠坂がわたくしの近くで一番じっくり見ていたわね！　今も下から狙うつもりで……あー、恐ろしいわっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「み、見てませんよ！　高松さまの構え方に心からアドバイスさせていただこうと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいっ！　指導だの助言だのと、パンツをジロジロ見る言い訳ばかり。今日はルームメイトも一緒だというのに……そんな浅ましい視線を晒して、恥ずかしくないのかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;掘り出したアイアンを抱えて立ち上がった章世が、何やら冷たい視線の気配を感じて思わず振り向く。後ろにはルームメイトの沙樹が立っていて、ほんのりと疑念が混ざった目で彼女を見ていた。いや、そんなわけないでしょ⁉　また前を向くと志乃が睨み付けて、後ろを向くと沙樹の困惑した視線が刺さる。いたたまれなくなった彼女は、後ずさりして沙樹が並ぶ列に戻った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、すかさず沙樹が章世に耳を寄せて話し始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（ちょ、ちょっと。章世ちゃん……見てたの？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（見てないって、沙樹。いや……ずっと見えてるけど。こんなの言いがかりにしても滅茶苦茶だって……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また……またやってる！　貴女――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「す、すみませ――」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こそこそと話していた姿をまた咎められるのだと思っていた二人は、慌てて背筋を伸ばして謝罪の言葉を述べ始めたのだが、その声は志乃の耳には入らないまま空に吸い込まれる。彼女の指先は意外な方向を向いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり！　雅美も、わたくしのパンツ見てるっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いや……私は、別に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、雅美にだけは……本当のことを言ってほしいの。わたくし……ぐすっ、パンツを見たのを謝ってほしいわけじゃないわ。うぅ……見たのか、見てないのかだけ……知りたいだけ。ですから……ね？　後生ですから、ちゃんと教えてちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんでここで泣けるんだよ。章世と沙樹は、涙ぐんだ声で雅美に縋り付いて彼女を見上げる志乃の姿を見て、自分たちはこの高度すぎるデートを見せつけるためだけに呼ばれたのではないか、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうでもなければ、志乃が幅の広いリボンを腰に巻き付けたのと変わらないスカートを履いて、あまつさえ髪を振り乱して怒り狂う理由を説明できなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方の正恵は、そんな短いスカートを履いておいてよく自分のパンツにそこまで感情移入できるものだと、なんだか明後日の方向に感心していた。ここでは最も年下の彼女には、普段は話すこともない志乃が全く異なる思考回路を持っているとしか思えなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とうとう志乃の無茶な追及の犠牲になった雅美はしばらく黙っていたが、一葉のカメラと後輩三人の視線を向けられて、とうとう決心が付いたように口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……その……そうね。私も……志乃のパンツを見たわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あああああやっぱり見てるっ！　幼稚部から知ってる女の子のパンツ見て、いやらしい気持ちになってる！　幼稚園児のパンチラ想像してるっ！　このロリコン！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雅美の振り絞った答えに割り込んで叫び出す志乃だったが、雅美はバンカーで暴れる幼馴染の姿に慌てる様子もない。志乃が矢継ぎ早に畳みかけたあと、さらにたっぷり沈黙が流れて、やっとまた言葉を返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「志乃……私、この学園には中学から入ったのだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そうだったかしら……もう幼馴染みたいな仲なんだから、幼稚部から一緒ってことにしときなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えぇ、分かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この二人って幼馴染じゃないのかよ。そして何が分かったんだよ。ゴシップにもならないどうでもいいトリビアだったが、それを聞いた章世は思わず力が抜けてその場にへたり込んでしまった。隣の沙樹にも、もはや章世の腕を支えてあげるような元気はない。その横で正恵は、雅美の沈黙の使い方に深く感心して小さく頷いていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから志乃をなんとか宥めて、バンカーでのプレーを一通り終えた彼女たちは、一度コース内の休憩所で身体を休めることにした。志乃はお花を摘みに行くと言ってこの場を離れていたが、休憩所のテーブルでは彼女のスカートの違和感について話す者はいない。もちろん、志乃がこの会話をいつどこで聞いているか分からなかったからである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みなさん、すっかりお疲れみたいですわね。……あら遠坂、何か気になることでもあった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……いえ。高松さまのお美しさに、目を奪われていただけですわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうでしたの？　しかし、わたくしなんてまだまだ道も半ばですわ。おーっほっほっほ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;休憩所に戻ってきた志乃は、なぜか制服の胸がパンパンに盛り上がっていた。どうも、トイレで胸に布かスポンジを詰めて戻ってきたらしい。ここまで来ると誰にも理由は分からないが、同じように誰も気にする様子はなかった。未だに目の前でパンツが晒され続けているのに比べれば、大したことではなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あとはパッティングだけですから、もう少し頑張りましょうね。久保田、小山」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、頑張ります！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はそう告げると、四人が座るテーブルとは離れたベンチに腰を下ろす。まだ空いている椅子は残っているのに、と志乃に視線を向けると――彼女は大股を開いてスカートの中が丸見えになっていた。パンツが見えている、なんてこれまでの生ぬるい事故ではなく、巨乳の痴女がパンツを見せつける事案が起きたというほかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし志乃は、自分がそんな破廉恥な姿勢で話しているとは露ほども思わない平然とした態度である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;志乃の動きに合わせて、すかさず四人の視線はそれぞれの向きに逸れていった。慌てて下を向いて笑いを堪えたのは章世と沙樹。正恵の視線は雨漏りが染みた天井の模様に。雅美は志乃の足元を漂っていたが、最後は彼女の顔を見つめることにした。もちろん、一葉のカメラはそのまま志乃のパンツに向けられたままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのねぇ、みなさん。もし朝礼で藤原先生のパンツが見えてしまったら、貴女たちはそうやって、いやらしい視線を向けるのかしら？　そんなことしたら、学園中で大きな問題になるに決まっているわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……私たちの誰かが同じように短いスカートでしたら、高松さまも見てしまいませんか？　中浜さまとか、私とか、沙樹とか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世に志乃を説得しようというやる気が残っているのを見て、沙樹はもはや尊敬の念さえ覚えていた。沙樹がまだベッドで眠い目を擦るうちから、朝練に走り出していく章世に並外れた体力があるのは知っていたが、この習慣は先輩の理不尽な言葉にも折れない精神力に支えられてのことだと理解したのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その姿を見た沙樹が拳をぎゅっと握る。私にだって、まだできることがあるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうですよ。こんなに短いスカート、学園でも――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの、見るわけないでしょう！　失礼ね！　話をはぐらかさないでちょうだい。とにかく、この学園の……紫風会の生徒はパンツを見る集団だなんて噂されたら……どうするおつもりなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……た、確かに、それは困りますけど……ねぇ、小山さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はい……でも、藤原先生もきっと、そんなスカートは――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダメだった。またたらい回しにしちゃってごめんね、小山ちゃん……と、沙樹が下を向いて黙り込む。小山は先輩の期待に応えようと、立ち上がって沙樹の主張を続けようとしたのだが、その声はまた志乃に遮られた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なるほどね……貴女たち、あくまでわたくしのパンツを見るおつもりだと。いいこと？　わたくし、パンツを見てはいけないと言ってるわけではありません。視線の流れで見てしまうのは仕方ないことですからね。ねぇ、雅美？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ……そうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、今からパンツを見ますって顔をするのだけは、もうおやめなさい。視線の流れでパンツが入ってくるのは、仕方のないことだもの。見てもいいの……そういう意味ではね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうなんですね……勉強になります」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正恵はまだ、これがスタイリッシュなパンツの見せ方についての指導だと思っているかもしれない。そうでもなければ、こんな暴論から学べることなどないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。それを踏まえて、ね……ちょっとみなさん、こちらを見てごらんなさい？　ほら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の指示に合わせて四人が志乃に視線を戻すと、今度は脚をぴったりと閉じる彼女の姿が目に入った。やっとパンツが見えなくなった志乃の姿を見て、彼女たちは日常を取り戻した束の間の安心感に包まれる。当たり前のことが、こんなに大事だったなんて――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、残念でしたわね！　もうパンツは見えませんわ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――そんなわけもない。パンツを見せない志乃の姿にまるで周囲が落胆しているような主張で、気付くと彼女たちに新たな濡れ衣が着せられていた。四人は思わず顔を見合わせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんなんですか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「パンツが見えなくてどう思ったの⁉　言いなさいっ、遠坂！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、ですから……見えたというより見せられたというか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言い訳はいいから、はっきりおっしゃいなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パンツが見えない高松さまの姿の方が安心します、と言うわけにもいくまい。先輩に向かってパンツが見えて不快だったなどと謗るのは、こんな状況でも失礼なことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考え込む彼女の顔を、沙樹は心配そうに見つめている。章世が雅美に助けを求めようと視線を送ると、雅美は拳を握って励ますような表情で頷いた。……この人は、私が今から告白でもすると思っているんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうどうしようもない。章世が小さく呼吸をして、ぐっと腹に力を込める。これは彼女が全速力で走る前の習慣だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……その、はい。見えなくて残念でした。申し訳ございません！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり！　パンツが見えるのを期待していたんじゃない。本当にいやらしいったら……一葉、あれを用意なさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;志乃の呼びかけに大きく頷く一葉が、手元に抱えていたスケッチブックをパラパラとめくって目的のページを探す。残りの四人はきょとんとした表情で一葉の動きを見ることしかできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「実はね……貴女たちがここまでわたくしのパンツを何回見たか、調べてもらっていたのよ。一葉、結果をこの方たちに見せて差し上げなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉がカメラの下で示すスケッチブックには、今日の招待客である後輩の三人と、そして雅美の名前が正の字と共に並ぶ表が書かれていた。つまり、彼女たちが志乃のパンツを見ていた回数を書き付けていたらしい。それに気付いた章世と沙樹は、神妙さよりも面白さが上回った葬式の一場面のように、思わず下を向いて笑いを堪えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まずい、と思って口を押さえた二人だが、志乃はその様子には気付いていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ほら、これが貴女たちがわたくしにいやらしい目線を向けていた回数よ。反省して、ちゃんとカメラに向かって宣言なさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉が名前と回数を指差す。最初に書かれていたのは章世の名前だった。なんでいつも私から……と溜息をついた章世が、一葉の構えるカメラの前に立つ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、遠坂は高松さまのパンツを……7回見ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、久保田は高松さまのパンツを、6回見ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こ、小山正恵です。私は高松さまのパンツ、10回見ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「中浜雅美。私は志乃のパンツを……15回見てしまったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんで幼馴染が一番たくさん見てるんだよ。なんか小山ちゃんも意外と見てるし。そもそも私本当に7回も見たの……？　先陣を切ってパンツを見たなどと言わされたことを思い出して、章世は急に恥ずかしくなっていた。こういう破廉恥な罪を告白させる罰は、先頭の方に恥が集中するものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして四人の正直な告白を聞いた志乃は、すっきりとしたすがすがしい顔でその場をくるりと回った。外に出ればスキップで駆け回りそうな表情である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。みんなの気持ち、伝わったわ。ありがとう。最後に、みなさんで一緒に宣言してほしいの。貴女たち、わたくしの周りに並んでちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四人は志乃を囲む記念写真のような構図でカメラの前に並んだ。しゃがみこんだ志乃のスカートからは、もちろんパンツがしっかりと見えたままだ。しかも、今の彼女は規格外の巨乳の持ち主である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、最後に声を合わせて『志乃のパンツを見ました！』ってカメラに向かって笑顔で言うのよ？　いいわね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四人が顔を見合わせる。章世と目が合った雅美は、また彼女に向かって頷いた。章世は助けを求めるように沙樹に視線を送るが、彼女も控えめに頷くだけだ。こんなこと、年少者の正恵に任せるわけにもいかない。だからって、なんで最後まで私が……という思いを飲み込んで「せーの……」と章世が小さな掛け声を上げると、みんなが息を吸う音がぴったりと合った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「「「私たち、志乃のパンツを見ましたー！　わーっ！」」」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、体育祭の応援合戦でも聞くことができないような大音声が隣のコースまで響く。その心のこもった宣言を左右の耳からしっかりと聞いて、志乃は目を瞑って何度も頷いていた。なぜか目尻には涙さえ浮かんでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「後輩から名前を呼び捨てにされるのも、なかなかいいものね……うん。今回はこれで不問にいたしますけど、もう次はありませんからね。分かりましたこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「「はい、高松さま……」」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう疲れたし、わたくしは先に帰りますわ。雅美、帰りの引率はお願いね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、分かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一葉も、もうカメラ止めていいわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……はいカットっ！　オッケーで～す！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉の朗らかな掛け声が疲れ切った彼女たちの間を駆け抜けて、とうとう撮影が終了する。まるで、ここまでが全てコントの一幕であったかのように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世と沙樹は緊張の糸が切れたように溜息をつくと、そのまま流れるように漏れ出す笑い声を聞いて互いに顔を見合わせた。それを見た正恵もクスクスと笑い始める。雅美はそんな彼女たちの姿を見て、今日の高松会をどうにか空中分解せずに終わりまで運べたことに安堵していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女たちを尻目に、疲れたと主張する志乃の足取りは雲のように軽いままで、休憩所を出るとやはりスキップでコースを駆け出していくのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが、嵐のように過ぎ去った今回の高松会の一部始終である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その……みんな、ごめんなさい。志乃もいろいろ仕事を抱えてて、毎日ストレスが多いから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうですよね……いや、私たちは大丈夫ですから。ね、沙樹？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。これで高松さまのストレスが晴れるのでしたら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、一年生で高松会にお誘いいただいたというだけで、身に余る名誉ですので」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で……志乃の巨乳パンチラ写真、みんなは欲しい？　私の分と一緒に、何枚か印刷しておくけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「「いや、いらないです……」」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その夜、三人のLINEには雅美からみんなで撮った記念写真が送られてきた。いらないって言ったのに。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>PARK New Year's Eve</title><link href="https://ama.ne.jp/post/park-nye/" rel="alternate"/><published>2025-12-31T20:10:00+09:00</published><updated>2025-12-31T20:10:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-31:/post/park-nye/</id><summary type="html">&lt;p&gt;原宿でも、ゆく年くる年&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品はURAHARAおよびPARK Harajuku: Crisis Team!を元にしたファン・フィクションです。これらの作品の公式設定を追加または削除したり、置き換えたりするものではありません。 */&lt;/p&gt;
&lt;div class="toc"&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#park-nye-1"&gt;PARK NYE 1: ことこ・りと&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#park-nye-2"&gt;PARK NYE 2: ことこ・まり&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
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&lt;li&gt;&lt;a href="#extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;h2 id="park-nye-1"&gt;PARK NYE 1: ことこ・りと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ことこー、もう鍵閉めていい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、大丈夫！　ゴミまとめたらすぐ出るねー」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;PARKが2025年最後の営業を終えてから数時間。仕事を終えたりととことこが、今まさに帰ろうとしているところである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大晦日というのもあって、最低限の在庫整理と売上の集計だけ済ませるつもりのことこだったが、いつの間にか年始のセールの準備まで手を付け始めていた。福袋のチェックを始めたあたりで何かがおかしいと気付いたものの、一度始めるとキリのいいところまで進めたくなるものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局りとが「ことこ、そろそろ帰らない？」と退屈そうに尋ねるまでことこの手は止まらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがPARKのドアに年始のあいさつと営業開始日のお知らせを張り出して、満足そうに頷く。白くてふわふわなモルが門松に埋まるポスターはりとの描いたものだ。福袋のおまけシールにも入っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おまたせ！　次は4日からだよね。まりちゃんはフランス旅行中だけど……りとちゃんは来れそう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は来れるよー。どうせ暇だし。タバコ屋、仕入れでしばらく閉めてるからね。ことこは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も！　りとちゃんが来るなら明日も行くよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの言うタバコ屋は、彼女の叔父が新宿は歌舞伎町の路地の奥に構える小さな店のことだ。看板こそタバコ屋だが、効能のよく分からないお茶やエスニックハーブ抽出物、出所の知れない天然の毛皮を使ったふわふわのキーホルダーまで所狭しと並ぶ怪しい店である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その叔父が、一週間ほど前から観光を兼ねた長期の仕入れに出かけていて、少なくとも一月の間は戻ってこないらしい。りとの収入にも大きな影響があるはずだが、毎年恒例の予定のようで特に気にしている様子はなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ……そっか。でも、初日の出を見に行くから明日は来ないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、初日の出？　どこ行くの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戸締まりを終えた二人が、おしゃべりしながら軽やかにとんとんと階段を下りていく。周りの店はとっくに仕事を終えていて、店の前にも人通りはほとんどない。よく晴れた冬の澄んだ空気が夜空を綺麗に映し出して、上りかけたオリオン座がよく見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこやまりが休んで二人で店番をして遅くなった日は、りとがスクーターで駅まで送っていくのがお決まりである。三人が揃っている日はまりとことこが一緒に駅まで歩いて帰るので、こういう日は少しだけ特別だった。駅までの道を少し遠回りして風を浴びるのが好きで、小学生の時に友達に誘われて買い食いした日のことを思い出す、とことこの日記には書かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふつーに銚子。日本で一番――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー！　日本で一番初日の出が早く見られるんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そゆこと。めっちゃ寒いけど、せっかく初日の出だし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うんうん。元旦に一番輝く場所だもんね。銚子、いいなぁ……一年で一番早い太陽光発電……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが目を輝かせながら、独り言と共に想像を膨らませていく。携帯ソーラーパネルを持ち込んで、日本で一番早いクリーンエネルギーで配信をするとか、日本で一番早い太陽光で充電したバッテリーを持ち帰るとか、そういうことを考えていたらしい。りとはあまり興味がないようで、さっとスクーターにまたがった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ……りとちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、忘れ物でもした？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;裏地に明るいオレンジの入ったヴィンテージブルゾンの裾をつまんでりとを呼び止めたことこが、言い出しにくそうにもじもじと毛糸の手袋をはめた指先を合わせる。それから「あのね」とか「急にごめんね」なんて呟きながら話を切り出せないことこを、りとは首を傾げてじっと見ていた。それからやっと、ことこが思い切った表情でたんっ、と地面を蹴る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わ、私も銚子、一緒に行ってもいい？　家には連絡しておくから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんだ、そういうこと……当たり前でしょ？　一緒の方が楽しいし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やったー！　じゃあ、久しぶりににんたまラーメンでも行かない？　あれ、二年に一回くらい食べたくなるんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、いいね。たぶん死ぬほど寒いから、いつもよりめっちゃ美味しく感じると思うよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スクーターのエンジンをかけると、しんとしていた原宿の通りに低い音が響き始める。途中でカイロか新聞紙くらい買わなきゃな、とりとは思った。鹿革のグローブも、昔買った古いのがもう一組あったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこはタンデムシートで緑のスクールマフラーの端を襟にしまい込み、ファスナーを端まで上げてヘルメットをかぶった。冷たい空気の匂いがする。りとのスクーターに乗るのが分かっている冬の日は、このスリムなアークティックパーカーで来るのがお気に入りだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅までのちょっとしたドライブが、千葉を横断する小旅行に早替わり。PARKの大晦日はまだ続きそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="park-nye-2"&gt;PARK NYE 2: ことこ・まり&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ことこー、これってどこに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、こっちにまとめてあるよ。一緒に貼っておいた方がいいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、ありがと……そうね、先にやっておこうかしら。それにしても、福袋ってかさばるわねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大晦日のPARKでは、年内最後の告知ライブを終えたことことまりが、年始のセールの準備に取りかかっていた。年始の用意は営業開始の前日に始めても余裕があるのだが、仕事が残っているとなんとなく落ち着かない、という二人の意見が一致したのだ。きっと、ここにりとがいたらとっくに解散していただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;福袋の陳列と、セール用のクーポン設定。あとは、ドアに年始のあいさつも貼っておかなきゃ……と、まりが手に取ったのは、大きな門松にモルが埋まってこちらを見つめるポスターだ。年始のポスターデザインは毎年りとの担当で、今年は馬のデザインがどうにも気に入らなかったのでモルに描き換えたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別にそれはいいんだけど、とまりが溜息をついた。店の中に戻ると、ことこも新年も売上の集計とレジの整理を終えたようで、胸にイニシャルの入ったキルティングコートを着て帰り支度を始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとったら、またタバコ屋さんでズル休みしちゃって。困るわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ？　あのタバコ屋さんって、冬はお休みだったよね。叔父さんが、毎年メキシコまで仕入れに行ってるって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、りとが自分で言ってたのよ。タバコ屋さんのバイトがあるから来れないって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……じゃあ、お店の整理とかやってるのかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、あんなの嘘に決まってるでしょ。ことこって、変なところで素直よね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが首を傾げる。休業中のタバコ屋でバイトなんて、ズル休みの理由を伝えられていたのはまりだけだったらしい。りとってことこ相手に嘘をつくのは苦手なのよね、とまりは思った。まりのように嘘を嘘と分かりつつ触れてこない距離感が一番心地よく、こうも素直に受け止められると逆にやりづらいのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あれ～？　でも、りとちゃんが言ってたんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのお店の陳列、りとの手に負えるような密度じゃないもの……ほら、やっぱり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりが適当にInstagramのストーリーズを繰っていくと、すぐにりとが「親しい友達」向けに投稿しているのが見つかった。おそらく千葉県の国道沿いにあるラーメン屋で撮られたものだろう。仮にタバコ屋での仕事が早く終わっていたとしても、それなら告知ライブに間に合う時間のはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりは勝ち誇った顔でことこにスマホを見せつけてから、りとに「タバコ屋さん、ずいぶん大きくなったのね」とメッセージを送った。すると、すぐに「すごいでしょ。次は初日の出の写真送るね」と返ってくる。もう二、三個くらい皮肉を言ってやろうと思っていたまりだったが、なんだか拍子抜けしてスマホを伏せてその場に置いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって、本当はフランス旅行に行く予定だったのよ？　それがまさか……こんなに真面目に働いてるのに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まさか、こんなに大寒波が続くなんてね。パリの天気予報もすっかり外れちゃったみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、もう！　りと……来年こそは絶対ライブに出てもらうんだから。絶対よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ。まりちゃんって、本当にりとちゃんが大好きだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと！　どうしてそうなるのよ。私はPARKをもっと盛り上げたいだけ……そう、それだけよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりは確かにPARKを盛り上げたいと思っていて、ことこもそれはよく分かっていた。しかし、りとがこだわって作ったデザインのグッズを、まるで自分が作ったみたいに紹介するまりは、ことこの目からは調子が出ていないように見える。りとが頑張ったんだからりとが褒められてほしい、とは心の中で思っていたが、そう口に出せるほどまりは素直ではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは前に「自分が作ったグッズを紹介するのがそんなに嫌なのかしら」と漏らしたまりの姿を思い出して、りとがどうやったらライブに出てくれるかを考え始めていた。それも騙し討ちみたいに引っ張り出すのではなく、しっかり演出プランを立てて、リハーサルもする、そんな計画を――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――それで、ことこはどこがいいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……ご、ごめん。なんだっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と、考え込んでいるうちに、まりはもう帰り支度を終えていた。アプリコット色のウールのプリンセスコートに、茶色いリボンのレースアップで飾られた白いタイツ……脚周りが空いて少し頼りない防寒にも見えるが、実際は服の下によく着込んでいる。ことこも慌てて残りの荷物をまとめ始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、りとに美味しいご飯の写真送って仕返しするの。うらやましがってすぐに帰ってくるくらいのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん！　私も行きたい！　でも、今から入れるところ、まだあるかなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね……あそこの麻辣湯なら、大晦日でもギリギリやってるんじゃないかしら？　りとも行ってみたいって言ってたし、ちょうどいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを聞いたことこが「うん、いいね！」と嬉しそうに頷いて、今年最後のPARKの戸締まりを終える。きっと、新年はりととまりのつまらないけんかで始まるだろう。でも今日はもうちょっとだけ、まりとことこだけの時間が続いていく。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="park-nye-3"&gt;PARK NYE 3: りと・まり&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、まり。大晦日は一年で一番ラブホが混むんだって。なんでだと思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りと、レジの商品設定は終わったの？　もう遅いんだから、サボらないでよ。……で、なに？　大晦日のラブホ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;福袋を抱えて棚に向かっていたまりが、りとが操作するレジ用のiPadを覗き込む。もちろん商品やクーポンの登録画面は表示されておらず、そこには読み放題サービスに入っている雑誌の1ページが表示されていた。持っていた福袋を売り場に並べてから、まりも息抜きのつもりで「大人のなぞなぞ」コーナーに目を通す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが読んでいたのは、コンビニの端によく並んでいるおじさん向けの雑誌だった。ナンパ術とか、マッチングアプリの活用術とか、下世話なスキャンダルとか、怪しい金儲けの話とか……二十代の女子なんてターゲット層とは真逆だろう。ましてや、原宿のおしゃれなショップの店員たちが二人で読んでいるなんて、編集部は思いもしないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大晦日……おお、みそ……ラブホ……ラブみそ、うーん……分かんないわ。どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーっとね、答えのページが……あぁ、なるほど。年『越し』で『腰』を振るためだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ～……くだらないし下品ねぇ。りと、そういう雑誌読むのやめなさいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別にいいじゃん。買うほどじゃないけど面白いよ。うん……買うほどじゃないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ帰るわよ。なーんか、気が抜けちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとのこういう暇つぶしは、たいていやるべき仕事を終えた後なのは分かっていたので、まりも売り場の陳列作業を切り上げることにした。新年は残りの福袋を積み上げてポップを出せば、すぐに店を開けられるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこは学会に行ってるんだっけ？　大晦日によくやるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわよ。コミケでお友達のお手伝いでしょ？　なんか『ことことサイエンス』経由で寄稿の依頼が来たって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが運営する「ことことサイエンス」は、お菓子作りの過程を化学的視点から語る料理ブログとして誕生したサイトである。化学的な知識の解説パートで人気を集めてからは、料理に限らず日常の化学について紹介する雑学ブログの毛色が強くなって、今のようなスタイルに落ち着いたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今回は、あるゲームのキャラクターになりきって化学について語るコラムの執筆を依頼されていた。この同人誌は、新年のPARKにも若干数並ぶことになっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか。じゃあ、今日はことこ来ないんだ。間に合ったら来るって言ってなかったっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきLINE来てたわよ。疲れちゃったから今日は帰るって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……あ、ほんとだ。じゃあ、帰ろっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからそう言ったじゃない。もう22時過ぎちゃうし、早く出ましょうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりが帰り支度を始める。一方のりとは、スクーターで来ているのもあって、ボディバッグを抱えてブルゾンを着ればすぐ走り出せる身軽さだ。だから先に外に出て、年始のあいさつと営業開始日のお知らせを張り出しに行くことにした。モルが門松で遊ぶデザインはりとが描いたポスターで、干支をモチーフにした近年のシリーズでも一番のお気に入りだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;貼り終えたポスターを眺めていると、暗くなった店内からすっかり冬装備のまりが出てくる。準備オッケーよ、と小さくピースした。十字架と冬の街並みをあしらった青いワンピースを、今はアプリコット色のプリンセスコートがそっと覆っている。レースアップで飾られた白いタイツに、足首がファーで覆われた黒い厚底ブーツがよく映えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、今日はどこに行くの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「新宿辺りならまだ空いてそうかな。ま、走りながら適当に探すよ。最悪、私の部屋でもいいし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとの部屋、狭いし壁が薄いから嫌なのよねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりの声が大きいだけでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……もう、うるさいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人はいつものように戸締まりを済ませると、周りの店の店員さえ帰ってしまった後の冷たい廊下の空気を吸って、そっと吐く。りとが先に歩き始めて、ととん、とんとん、とん、ととん……歩調を合わせない二人の足音が金属の踏板によく響いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから二人は黙ったまま階段を下りて、りとのスクーターにまたがった。深まりつつある夜の空はよく晴れて、上を向くと星に手が届きそうだ。まりがりとの背中にぴったりくっついて、降るような星を眺めながら出発を待つ。ブルゾンとコートの生地が擦れて、心地よくさらさらと音を立てた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね……りと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、なんか忘れた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわよ。誘い方、もっとちゃんとしなさいよ。年越しとか、腰とか……意味分かんないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらく黙ったりとは何も答えないまま、スクーターのエンジンをかける。まりはその仕草になんだかドキドキしていたが、その気持ちさえ素直に受け入れられずにいる。どんなに鼓動が早くなっても、今はエンジン音がかき消してくれるだろう。PARKの大晦日はこれからが本番だった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="/post/10th-park/"&gt;10th PARK road side&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/sugar-jelly/"&gt;Sugar Jelly&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://park-harajuku.net/items/571618ff9821cc715e000f8b"&gt;PARK:HARAJUKU Crisis Team! 日本語ver 単行本&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://harajuku-crisis-team.tumblr.com/"&gt;PARK Harajuku: Crisis Team!&lt;/a&gt;&lt;sup id="fnref:phct"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:phct" title="https://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;URAHARA&lt;sup id="fnref:urahara"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:urahara" title="https://urahara.party/"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:phct"&gt;
&lt;p&gt;https://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:phct" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:urahara"&gt;
&lt;p&gt;https://urahara.party/&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:urahara" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>月から降ったクリスマス</title><link href="https://ama.ne.jp/post/shoot-from-the-moon/" rel="alternate"/><published>2025-12-22T18:00:00+09:00</published><updated>2025-12-22T18:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-22:/post/shoot-from-the-moon/</id><summary type="html">&lt;p&gt;これはクリスマスらしいリボンですね&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「私は、ボーダーコリーが好きよ。頭がいいから！　あなたは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ボルゾイ！　カッコよくて足が速いから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、知ってた！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって知ってるよ。昔一緒に図鑑見たよね！　んー……あと何の話するんだっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アレでしょ。脳波を……ね？　みなさ～ん、お手持ちのアルミホイルを頭に巻いてくださ～い！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、もう？　エリはせっかちだなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みなさん、急いでくださいね～！　そろそろ始めちゃいますよ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、今さら何人か巻き込んだって変わらないっしょ。じゃあ、まずは――」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる？」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。これはあくまで世界に向けて公開で行われた初めてのデモで、このやり取りも事前に決められたコマーシャルコピーであった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脳波&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;EEG&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;コミュニケーションの先駆者であったアレクサンドラと、その助手トーマシンが研究室で初めて交わした脳波は、お互いの犬の好みに関するものだったと言われている。もちろん、互いの嗜好を知らなかったのではない。同僚や上司――所長も視察に来たという――が見守る中、思いついたのが他愛もない世間話だった、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして「声を感じる」という画期的なメディアとして世に出た脳波コミュニケーションだったが、数十年以上にわたって主戦場は研究室の中だけであった。「直接話した方が早い」「電話の方がコストが低い」と実用性が低く見積もられてきた脳波コミュニケーションは、AIによる脳波の選択的増幅手法と歴史的なマッチを果たすまで、既に三度の冬の時代を経ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳波の選択的増幅に耐えられる人間は限られている。古い事例では、AMラジオの電波塔の下に銀歯のある人が立つと放送が聞こえるという現象がよく知られているが、一方で強い頭痛に見舞われて立っていられない人もいたらしい。特に、先天的な脳波耐性を伸ばすには幼い頃から訓練を積む必要があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳波の強力さは頭の良さであると宣伝され、脳波コミュニケーション業界の最大手「イーコム」が教育分野に進出してからというもの、それらは「脳力」と言い換えられて大金と引き換えに &lt;em&gt;実験台&lt;/em&gt; の確保が続けられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イーコム自身は脳力訓練者を囲い込むための一部全寮制の高校を経営しているが、その候補者自体は教材を通じて入り込んだ無関係な幼稚園や小学校、児童養護施設から吸い上げ続けている。空前のAIバブルが続く中、AIというキーワードだけで発展しているイーコムだったが、実際には複数の教育機関を野放図に経営するほどの資金があるわけではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エリ、おかえり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、ただいま。あ、マシュマロココアじゃん。もうクリスマスだもんね～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、エリ。私、宇宙に行くことになっちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ん、宇宙？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。まぁ、月なんだけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、月……いや、遠いよ。宇宙に比べたら近いけどさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよね～。遠いよね……あははっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天井に向かっていやに明るい声でそう笑うのは、そのイーコムの学園に訓練者として通うメイである。十七歳。身長一五六センチ。体重四六キロ。ピンク色の検査着に身を包む白い肌は病弱そうな印象を与えるが、持久走なら昔からエリには負けない。ショートボブに入り込んだ濃い青色のインナーカラーは彼女なりのおしゃれではなく、訓練者に特有の現象である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力開発部の活動中にメイと話しているのは、彼女の幼馴染のエリだ。メイとは対照的なロングヘアで、小さい頃は活発なエリの後ろに必死でついていくタイプだった。いつの間にかエリの背を追い越して、テスト前にサボりがちなメイを捕まえて勉強を教える姿はまるでお姉さんである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリは脳波耐性の兆候がなかった非訓練者だが、メイの脳力開発をサポートするのに効率がよいと判断されて一緒に来ることになった。どちらも養護施設の出である。自ら脳力開発を希望して入った他の生徒たちとは違って、彼女たちには安定した生活と比して選択の余地がなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、なんで月なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知らないけど、石井が言ってた。今年はちょうど満月とクリスマスが重なるから、月からイベントやるんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、クリスマス？　もう再来週じゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうそう。あいつらって私たちの都合とかマジで何も考えてないもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー、どうせ自分は仕事だからって巻き込まないでほしいよね。イルミ、どうしよっか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん、今年は我慢かな～……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力開発部は、この学園に訓練者として推薦入学した生徒が入寮と同時に所属する部活である。部活とは言いつつ訓練者に課せられた義務のようなもので、かれらは放課後になると器具を用いた脳波増幅の訓練や検査に回されるのが通常であった。しかし、メイの脳力開発に当てられる時間の六割は、こうしてエリとだらだら過ごす放課後に使われていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;配属されたばかりの脳力研究者なら、おしゃべりが脳力を高めるなんて不思議なことだ、と言うだろう。しかし、ある程度の経験と知識があれば、これがアレクサンドラとトーマシンのエピソードと同じだと気付くはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界初の脳波による会話を成功させたボストンの研究室では、二人と同じように脳波での会話を行おうと同僚たちがヘッドギアを着用しあった。しかし、彼女たちほどの遠距離で会話を行える者たちはいなかった。初めは脳波の男女差に注目して分析が行われたが、大きな有意差は見つからない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最終的に見つかったのは、日常的に会話――定型的な会議や合理的な議論ではない、ただの他愛ない会話――を交わすペアにおいて、脳波コミュニケーションの成績が高くなる、という仮説だった。アレクサンドラとトーマシンはプライベートでも非常に仲がよかったと言われており、成績のよい研究者たちもその傾向が強かった。ただ、この観点を支持する公的な研究は今までほとんど残っておらず、研究者の間でも経験則に留まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この仮説が正しいなら、脳波コミュニケーションは結局のところ決まった二人の間での通信に特化していて、不特定多数と電話のように使うには向いていないということになる。実際のところ、AIによる選択的増幅が可能になるまでは、五百メートル程度の通信でさえ莫大な電力と強力な脳波耐性が求められた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、脳波コミュニケーションが役に立たないという噂が流れてしまってはバブル崩壊の呼び水になりかねない。イーコムが一発逆転の計画として長年進めているこのプロジェクトも、経営を圧迫しつつあった。だからこそ、新たな冬の時代の到来を恐れているイーコムは、月面から脳波コミュニケーションの技術力を全世界に見せつける必要があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そもそも、なんでメイが行かなきゃいけないの？　他にもやる気のある推薦組なんかいっぱいいるじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、私が一番成績いいんだもん。みんな脳力低いのに親に期待されて来た子ばっかり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ、両親に期待されてても成績がそれじゃあね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ、エリひどすぎ。なんか、石井がまた冬の時代がどうこうって言ってたし。今回は絶対成功させたいみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに成功させたきゃ自分で行けっての」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言えてる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力開発は現代になっても安全なフレームが判明していない実験的なプロジェクトだ。実験台になった生徒たちをトラブルや苦痛に巻き込みながら少しずつ前に進むしかなかった。イーコムの輝かしい成果発表は、かれらの日々の苦しみを言い換えただけでしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイが関節の痛みで身体を丸めて寝込んだり、強い頭痛で起き上がれずに嘔吐を繰り返しても耐えられたのは、エリがいてこそだった。エリのことを考えているとき、確かに彼女の脳波は強くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、どれくらい月にいるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かんない。月面基地に超選択的増幅装置を設置して、地上と交信実験をするんだって。しばらくテストさせられるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、それ……脳大丈夫かな？　流石に死なない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う～ん……まぁ、ちょっとヤバいかもね。でも、私かぐや姫になれるんだってさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「かぐや姫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「地上に向かって脳波でスピーチするの。月から世界平和を見てますよ～って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイが両手を広げて床を見つめてから、笑顔で手を振ってみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;総理大臣でもない、大統領でもない、王様でもないただの女子高生が、一方通行かもしれない旅に出て月からスピーチだなんて。インパクトで投資を集めたいだけのイーコムが考えそうな計画だ。渋谷に大きなドローンディスプレイでも浮かべてスピーチでもするつもりなんだろうか。あるいは、手を振る彼女の姿がそのまま脳内に送り込まれる、ということなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリはその光景をしばらく思い浮かべていたが、十二単姿のメイがすまし顔で地球を見下ろす姿がどうにも面白かったようで、くすくすと笑ってみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。竹取物語にそんなシーンないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、そう。なんか石井が考えたんだってさ。すごい早口だったし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うわぁ、やっぱおっさん先生のセンスだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ、本当にそれ。こういうのカッコいいと思わないか？って真剣に言われて、マジで殴ろうと思ったもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力研究者と高校教師を兼任する石井は、彼女たちのクラスの担任でもあった。こんな学生を実験台にして喜ぶ壊れた研究者――しかも、彼女たちから見れば冴えない中年教師でしかないのだ――が、ふと少年時代の夢とロマンを思い出して壮大なデモプランを練っているのだとしたら、なんて滑稽なんだろう！　本人から見れば嘲笑としか思えない彼女たちの笑い声は、若々しい感性と共に彼のつまらないレガシーを吹き飛ばしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女たちはひとしきり笑いあっていたが、ふとメイがきゅっと口を結んで黙り込む。エリもそれに合わせてじっと彼女の顔を見つめた。それから、先に口を開いたのはメイのほうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、正直どう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうって、だって月でしょ～……？　メイがいなくなるなんてマジで無理。意味分かんない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあもしさ、もしもだよ。一緒に来て欲しいって言ったら……どう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も？　月に？　えっ、行っていいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、いや、無理だと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はっ？　なんで一瞬期待させた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイは迷っていた。幼い頃からずっと過ごしてきたエリに、ひょっとしたらここで別れを告げなければならないかもしれない。施設で脳波耐性なんてくだらない特徴を見出されて、エリと離れるなら絶対行かないと泣き喚いた日のことを、メイは絶対に忘れられない。あの日も今日みたいに、近所のコンビニに散歩しに行くみたいな顔で、「先生、私もメイと一緒に行きますよ」と答えたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリをここに連れてきたのはメイだった。それなのに今度は、メイが先にここを去ろうとしている。私の脳力はなんて勝手なんだろう、とメイは思った。もしも私がいなくなって、エリは私に縛られないで生きていったらそれでいい……なんて心の底から思えたら、きっとメイは宇宙に行くだなんて正直には言い出さなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリが私の言葉に呆れてこの学園を去れば、私だって彼女を諦められる。しかし、悩むことなく自分も月に行きたいなんて言い出すエリを見て、メイはほんの少しだけ、またあの日と同じように彼女の言葉に縋りたくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、これならどう？　私が月に行ってから……ちょっとだけ、協力してほしいんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイの声のトーンに合わせて、エリも神妙そうな面持ちのまま、無言で頷いた。よほど真剣な顔をしていたのだと、メイは自分の口を押さえて小さく息をつく。エリは彼女の表情がころころ変わるのが面白くて、声を出さずに少し笑っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「地上から、私と話してほしいんだよね。私のスピーチに応えて、会話してほしいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それだけ？　でも私、脳力の素質ないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エリはずっと私と一緒にいてくれたから。私と繋がるだけなら、なんとかなるよ。私がエリの分のチャネルまで開く、から……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い終わるより前にメイの声が詰まって途切れてしまう。どうにか涙が溢れないようにぐっと目を見開いて、きゅっと口を結んで息を止めていた。涙を目に溜めたままなら泣いたことにはならない、という小学生時代の二人の取り決めを、メイだけがまだ信じていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;深刻そうな彼女を面白がっていたエリも、まさかメイが泣き出すとは思わなかったらしく、慌てて立ち上がって肩をさする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、何で泣くの⁉　本当に月で死んじゃうわけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かんないよ！　分かんないけど……たぶん死なない！　死ぬから泣いてるんじゃないもん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;下を向いて叫んだ拍子に涙が零れて、メイは慌てて袖でテーブルを拭った。袖の上にもさらに残った涙が落ちて広がっていく。もう泣いてたっていいや、とそのままエリに向かって手を差し出して、拗ねた声で呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「手。繋いで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー、メイって泣くとすぐ手繋ぎたがるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うって！　エリの頭が痛くならなかったら、平気だから……ほら、握って？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなに怒らないでよ、と言ってエリがメイの手を握る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その瞬間だった――これは、エリの感覚である。メイの手から自分の腕を通って、不思議な色の塊がせり上がってくる気がした。それがメイの不安と悲しみの核であることが、なぜかエリにはもう分かっていた。その小さな塊がぴんと弾ける。脳が揺れる感覚と共に、中から現れたのはぬるくて青い液体だった。制服に染みこんでも濡れた感覚がない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;胸がじんわりと温かくなって、消えていった。彼女にとってはこれが三分間ほどの光景だったが、実際には数秒のできごとである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイにしてみれば、いつもよりちょっとだけ手に力を込めただけだ。普段の訓練でヘッドギアを通じて言葉を入力するのと根本的には変わらない。しかし、エリからわずかに逆流する温かさ、光、柔らかい毛布のような感触。脳波の相性がいい二人だけが交わせるひみつの感覚……これがトーマシンの気分だったんだ、とメイは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（私ね、このデモを壊す方法を知ってるの。しかも、今すぐ月から帰れるやつ）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（えなにこれ、すごいね。私の声も聞こえてるの？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（うん。ちゃんとエリの声を感じてる）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（で、なんだっけ。デモをめちゃくちゃにするの？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（そう。左手、見てみて）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリが手を広げる。手の中には黒い、しかしよく見るとわずかに青色とオレンジ色に光っている小石のような物体が握られていた。もちろん、彼女が持ち込んだものではない。じっと見ているうちに、メイがさっき自分の手を通して流し込んできた不安と悲しみの核に思い至った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、あの不思議な色の塊はどんな色だったっけ……灰色かもしれない、銀色だったかも、いや、赤く光っていたような……目が覚めてから夢を掴むような覚束ない感覚のまま、目の前の現実の可能性は黒く重たい小石に沈み込んだ。海辺に転がっているような、ただの冷たい小石。これは、メイが思い浮かべた不安そのものだったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（増幅AIを触ってるときに偶然見つけたんだ。この力、全部使ってデモをめちゃくちゃにするの。もっと人がいれば、たぶんもっと大きい物質が作れるから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（へー、すご……脳波で隕石でも降らせる気？　そんな壮大な計画に私を巻き込もうっての？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（そうだよ。私、エリと一緒にいたいから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（いいじゃん。やろうよ）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つつ、と青い光の筋がエリの手を走る。メイはその光が消えるのを待ってから、小さく息を吸ってまた思考を吐き始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（でも、こんなプロジェクト失敗させたらただじゃすまないよ？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（そりゃそうでしょ。イーコムなんて倒産確定だもん。いい気味じゃん）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（……エリも私のせいで犯罪者になるんだよ？　それでも――）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（はー、うるさ……メイがそうやっていつも遠慮するところ、マジで嫌い！）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（……っ⁉　き、きら……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（あー、面と向かって口に出せないこと、思ってるだけで言えるの便利だわ。確かに脳波ってすごいかも）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（エ、エリ……？　あのね、私……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（自分だけ脳力開発してるからって、私に迷惑かけてるなんて思い込むの、今すぐやめて。私たちがただの幼馴染なんて思ってるの……メイだけだから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い捨てて、エリがメイから手を離した。その瞬間、二人の指先から大きな閃光が飛び出して、弧を描いて消えていく。驚いて顔を見合わせた彼女たちは、今度はどちらともなく笑い始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;そしてクリスマス当日。地上のコントロールセンターには、イーコムの重役や学園の研究者たちが集まっている。このデモの統括である石井もいた。エリは目の前の満月を見上げて、デモ会場の群衆の真ん中でメイの言葉を待っていた。この会場にいなくたって、満月が見えているなら頭にスピーチを強制的に流し込まれるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――えー、こんにちは。私は今、みなさんの脳内に直接話しかけています」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セーラー服を着て現れたメイがそう語り出す。十二単で出てくるんじゃなかったっけ、と手を伸ばしても当然届かない。じっと見つめると、中心がぐにゃりと滲んで判然としなくなる。メイが視界を切り開いて目の前に立っている姿は、脳が普段から適当に補正して埋め込んでいる景色そのものだ。やはりある種、量子的であった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周囲では視界がジャックされる初めての感覚におおっ、という歓声が上がる一方で、頭を抱えてうずくまる人も少なくなかった。エリにとってはもう慣れた感覚だが、本来なら一生使わないはずの脳の一部が確かに動いている。相性の悪い脳波が強力に頭を歪めるのだから、耐えられない人もいるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;会場周辺では高出力電磁波反対協力連合会の行進が続けられていて、多くの人がかれらの配っていた新品のアルミホイルを持っていた。全員が「電磁波攻撃反対」「電磁波盗聴反対」と大きなスローガンの入ったアルミホイルを携えて集団幻覚を見続ける、異様な光景だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、メイが月に飛び立つ前に「みんなに最高の思い出をプレゼントしようね」と言っていたのを思い出す。私、後半の台本見てないけど大丈夫だっけ……なんて思いながら、セーラー服のかぐや姫のつまらないスピーチを聞き流しているうちに、とうとう時間が来た。演説の流れを突然ぶった切って、メイがエリの視界に向かって一歩前に出る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇエリ？　あなたはどんな犬が好きなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、ボーダーコリーが好きよ。頭がいいから！　あなたは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ボルゾイ！　カッコよくて足が速いから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、知ってた！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって知ってるよ。昔一緒に図鑑見たよね！　んー……あと何の話するんだっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アレでしょ。脳波を……ね？　みなさ～ん、お手持ちのアルミホイルを頭に巻いてくださ～い！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スピーチが中断され、明らかに計画から外れた不気味な会話が自分たちの脳内で繰り広げられている。 &lt;em&gt;何か&lt;/em&gt; に勘付いた群衆が怯えた声を上げて、まだ落ち着いていたはずの周囲を巻き込んで動揺し始める。エリの言葉を鵜呑みにして、慌ててアルミホイルを頭に巻き始める人もいた。メイが時折サブリミナルのように流し込んでくる不安や恐怖の感覚の前では、脳波コミュニケーションの有名な逸話のオマージュだと気付く聡明さは消え去ってしまうのが人間というものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コントロールセンターからも不安に駆られたスタッフが数人飛び出して、石井が怒鳴り声を上げてパニックを制止しようとする。しかし、もう遅い。そんな下界のことは気にせず、メイがじわじわと脳波の出力を高めていく。ここまで来ると、もうメイと相性の悪い脳の持ち主は自分が歩いている方向さえ分からなくなるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、もう？　エリはせっかちだなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みなさん、急いでくださいね～！　そろそろ始めちゃいますよ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、今さら何人か巻き込んだって変わらないっしょ。じゃあ、まずはでっかいクリスマスツリー！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;満月から降り注ぐのは、きっと今や銀河系で一番巨大で悪趣味な、電飾でぎらぎらのツリー。視界を埋め尽くすクリスマスツリーは、視界に収められないくらい巨大なのに、頂上を飾るベツレヘムの星の輝きまで一目に収めることができた。増幅器の限界を優に突き抜け、下層にある衛星回路を焼き切り、エリというたった一人の受信機のためにメイが脳波を送り続ける。そのイメージは満月から逃げ回る全ての人類の脳へ、直接流し込まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それだけではない！　人々が逃げ惑う会場の中、空をじっと見つめて動かないエリの横に本物の巨大なクリスマスツリーが建つ。もう一本。さらにもう一本。メイがエリに初めて小石を渡したように、イーコムが集めた沢山の観客が持つ脳波を少しずつ集めて物質に変換し、メイが想像したとおりのクリスマスツリーが建っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、今ここにいる誰も幻覚か現実か区別できない。科学を超えた魔法の力なのか、誰かが操られているだけなのかも分からない。しかし、エリが触れるモミの木の感触は確かに目の前にあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次は～……でっかいプレゼント！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラメの入った包装紙で巻かれてリボンのかかった巨大な箱が降り注ぐ。何が入っているかは、メイにもまだ分からない、両手いっぱいで抱えられるくらいの箱が、十個……そして二十個。イーコムの幹部でさえ、既に今の状況は理解できずにいた。かれらの巻いていた最高級の脳波遮断ヘッドギアは、確かにメイの脳波を防いでいるはずだったが、全員が月から降り注ぐクリスマスの目撃者であった。これは幻覚ではない！と誰かが叫んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そして～……でっかいダブルベッド！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふかふかの大きなベッドの柔らかい感触が流れ込む。会場の外へ、できるだけ遠くへと逃げ惑っていた人々も、その心地よい感覚に思わず足を止めた。月面基地という、いま世界で最も孤独な場所にいる少女が、地球でただ一人待つ少女のために宇宙規模の &lt;em&gt;寝室&lt;/em&gt; を作り上げていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、メイが月から飛び込むための救助マットが完成するのを遮るように、石井がコントロールセンターから飛び出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんだこれは！　中止だ！　今すぐ装置を切れ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう叫ぶ石井の脳内に、エリの勝ち誇ったような笑い声が響く。石井がさっきまで監視のためにかじりついていたモニターは既に脳波で焼き切られて、二人が犬の図鑑を読んで笑っている子供じみた記憶が何度も何度もループで再生されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;石井にとって、孤独な養護施設育ちの少女を月のお姫様に祭り上げることは、彼なりの救済のつもりだった。純粋に宇宙を夢見た少年の頃の石井は、かつてそんな景色を思い描いていた。デモが大失敗に終わりつつある今この瞬間も、何光年超えても届く脳波の力にまだ夢を追い求めている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、メイが求めていたのは天上の玉座などではなく、クリスマスまで指折り数えてエリとマシュマロココアを飲む時間だけだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさい！　エリに近づくな！　私たちのこと、くだらない計画の道具としか思ってないくせに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんで……俺は、ただみんなの夢を――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い終わるより先に、石井の足元やコントロールセンターの中に次々と爆弾が降り注ぐ。いやいや爆弾ってなんだよ、と思うかもしれないが、いかにもゲームに出てくるような黒い球体に導火線が付いた爆弾だ。メイが爆弾と聞いて最初に思いついた爆弾である。人間の想像を強化することしかできない、AIによる選択的増幅装置の弱点でもあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな安っぽい爆弾がゲームみたいに全てを吹き飛ばすのを見届けてから、メイは満を持して月面基地からエリの立つベッドに向かって落ち始める。彼女の頭のイメージのまま、まっすぐ。彼女に残った脳力を全てつぎ込んで、全てのイメージを作り上げる。そして、用意していた最後の仕掛けを投下した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、最後に～……リボンで巻かれた私の恋人！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え……ちょっと待って！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一際明るく白い光の矢となって世界に降り注ぐのは、エリが真っ赤なリボンで身体を最低限だけ覆う裸リボン姿のイメージだった。人々を貫いて地上に降りた光の粒がエリの身体を周りながら覆っていくと、やがて彼女はメイの想像通り、リボンで巻かれた姿で大事な恋人を待ち受けていた。メイがどこに落ちるのか分かっていて、そうするはずだったように腕を広げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――とすん。月から落ちたとは思えない羽根のような軽さで、セーラー服姿のメイが腕の中に収まった。断熱圧縮なんて空間ごと飛び越えて着地した冬の冷たい身体を擦りつけて、メイがにっこり笑う。後ろではコントロールセンターが燃え続けていて、ここにいるのは見つめあう二人だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、月の光を浴びた世界中の人類の脳裏には、恥じらいながらこちらを見つめる謎の少女のあられもない姿が焼き付いて離れなかった。かれらの記憶は少しずつ姿を変えながら、理想の裸リボンとして定着していくだろう。きっと明日は、この話で持ちきりに違いない。イーコムなんて、そのまま何の話題にもならないまま潰れてしまえばいいんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エリ、私の声が聞こえる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メイ、あなたの目の前にいるわ！　この変態！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる？」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クリスマスに月面から脳波をジャックし、倫理を忘れた企業を倒産に追い込み、何億人もの脳にリボン姿の恋人の姿を焼き付けた――史上最悪で最高にハレンチな少女たちの伝説の方が、インターネットでは有名だからだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、メイ。まだ消えないんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なにがー？　あー、ココアは脂肪だからさ、先にクレンジングオイルで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……違う。メイが勝手に私に着せた裸リボンのこと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー。あれ、可愛かったね。昨日もおすすめにイラスト流れてたよ。胸がでかすぎて笑っちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、そうそうそうそう。SNSでずーっと私がスケベなトレンドになってんの。メイのせいで！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「写真なんて一枚も残ってないんだし、別にいいでしょ。みんなツリーと火災の中継ばっかりで、私たちのことは集団幻覚だと思ってるみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなThis Manみたいな都市伝説になんかなりたくないって。ねぇメイ、もう一回でっかい隕石降らせてみんな潰してよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、あの脳力？　エリの裸リボンで全部使い切っちゃった。もうすっからかん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「無駄すぎる……グリム童話だってもっとまともな願いに使ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはは！　見てこれ、私たち『月からの贈り物』って呼ばれてるらしいよ。世界で一番有名な恋人じゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バッカみたい！　私たちがいつ恋人になったって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、それくらいの脚色はいいでしょ。おかげで私たち、これからもずっと一緒にいられるんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー……そこ持ち出されたら、言い返せないじゃん。はぁ、改めて言うことでもないけどさ……おかえり、メイ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん。ただいま、エリ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>イってないよね？</title><link href="https://ama.ne.jp/post/dont-say-coming/" rel="alternate"/><published>2025-12-19T18:00:00+09:00</published><updated>2025-12-19T18:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-19:/post/dont-say-coming/</id><summary type="html">&lt;p&gt;真っ白な部屋に飛び込んでみんなを驚かせましょう！&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;お金欲しさにこんなゲームに参加するんじゃなかった、とミキは思った。「同時に絶頂しないと出られない部屋」なんて、 &lt;em&gt;なかよし&lt;/em&gt; のあたしたちなら簡単だったはずなのに。もしも時間が戻せるなら、きっとサナの言うとおりに二人でその場を立ち去っていただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白い床、白い壁、白い天井、白いベッド。いかにも実験室という感じの部屋に通された彼女たちは、三人の――いや、三台の合議制絶頂判定AIに三方向から監視されながら、たった十万円のために既に二時間以上はこうして性器を擦り合わせ続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たった十万円とはいえ、これでも大学生の彼女たちがルームシェアする小さな部屋の家賃を払っても少し余るくらいで、サナも反対しつつその金額の大きさに気持ちが揺らいだ、というのが正直なところである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ……サナ、まだなの……？　ダ、ダメ……イくっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……わ、私もっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが身体を弓なりに反らして仰け反るのに少し遅れて、横たわったサナも控えめに身体を震わせる。ミキはサナの細くて綺麗な身体に触れるのが好きで、付き合い始めた頃は手を繋いでいるだけで嬉しかったんだよ、と話したのはちょうど昨日の夜のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お互いの下半身がびくびくと震えるのをひとしきり見つめてから、今度は顔を見合わせて頷く。本来ならお互いを愛おしく思うためのコミュニケーションが、まるで点数を付けられるための競技のように洗練され始めていた。性格も違う、高校の部活さえ正反対の二人の間に、恋愛や快楽ではない新たな絆が芽生え始めているようにも見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、AIはいずれもNG！の札を上げて、さらに絶頂チャレンジを続けるよう促した。ミキが思わず「はぁ⁉」と声を上げて立ち上がる。脚が少しぷるぷると震えていた。いつもならサナが音を上げるまで眠ろうとしない元気なミキにも、少し疲れが見え始めている。ラブホテルに行ったってもう少し休憩を挟むのに、なんて冗談を差し込む余裕もなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まだクリアできないの？　判定が厳しすぎない……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、ミキちゃん。私、ちょっとイくの遅れちゃったかも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;へたり込んだミキを支えるように、起き上がったサナが肩に手を回す。疲れと興奮で呼吸の荒いミキを落ち着かせるように、サナがゆっくりと深呼吸しながらしっとりとした肌を合わせた。彼女から伝わる熱を広げるようにサナを見つめるミキに気付いて、サナが目を閉じる。そうして、小さくキスをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あたしこそごめん。すぐイっちゃうほうだから、サナに合わせられなくて……次はサナに合わせるから、教えて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキがサナのお腹を撫でながら、薄い乳房に顔を近づける。次はサナがイくのに集中して、そのタイミングに合わせて自分ですればいい、と思ったのだ。しかし、ミキはサナの色の薄い小さな乳首を舐めながら、抑えるような喘ぎ声を聞くだけでじわじわと下半身が熱くなるのだから、実際のところどうでもよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……頑張るね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、ミキを見下ろすサナの笑顔はどこか引きつっていて、一瞬目を逸らしたのをミキは見逃さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、サナ。疲れちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうわけじゃないんだけど――ねぇ、ミキちゃん。怒らないで、聞いてほしいんだけど……いい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナのことであたしが怒るわけないでしょ？　なに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってサナを安心させようとするミキだったが、当のサナには伝わっていないようで、どこから話し出せばいいのかという様子でしばらく押し黙っていた。すると、AIがこの沈黙で何を勘違いしたのか「百合カップルが上手くいくコツ7選」という出所不明の記事を読み上げ始め、堪えきれなくなったミキが「うるさい！　いまサナがしゃべるから黙ってて」と強制終了させる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが話し始めたのは、それからさらに二十秒ほど経ってからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね……実は、今までイったことなくて。もう、この部屋から……出られない、かも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言い終わる前に、サナが顔を歪めて泣き始める。ひくっ、うっ……と、こうして息を殺して泣くのは父親にずっと叱られたからだ、と前に言っていた。泣き出すと叱られたのを思い返してもっと悲しくなる、とも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;泣き出す彼女と、そこから飛び出た唐突な発言に、ミキはその場から動けなくなる。いつもならサナを胸に抱き寄せて落ち着くまで撫でてあげるはずのミキが、目を丸くしたまま座っているのは、セックス中に泣き出したことがなかったせいかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、どういうこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私はミキちゃんにしてもらっても、自分でしてもイけないの。だから、同時に絶頂なんて無理なの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが最近でも一番大きな声でそう叫ぶ。そして、箍が外れたようにわんわんと泣き始めた。恋人のミキに通用する演技ならAIでも騙されるだろう、と思っていたサナは、何度イったふりをしても終わらない絶頂チャレンジの重圧に耐えきれなくなっていたのだ。AIが「心拍数の上昇を確認――リラックスを推奨します」と告げる声も、今の彼女には逆効果だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭が殴られるような感覚に押し出されて、やっとミキの思考が動き出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし回り始めた彼女の頭に浮かぶのは、目の前で泣き叫ぶサナの宥め方ではなく、彼女と肌を重ねた日々の思い出である。ミキが指を動かす度に「ミキちゃん、イきそう……」「もっとして……」「あ、あぁあっ……ミキちゃん、大好き……」なんて言ってくれたサナの声は、全部嘘だったのか。そう思い至ると、ミキの目からも大粒の涙が零れ始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんで？　いつも気持ちいいって言ってくれてたじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気持ちいいよ。気持ちいいし、すっごく幸せなの……でもイけないの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの……別に言ってくれたっていいじゃん！　なんでイくとか、変な嘘つくの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって」「なに？」「私がイけないって言ったら、ミキちゃん絶対エッチしてくれなくなるもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナがミキの手を握って、拗ねた子供のような声でそう白状した。ぼろぼろ流れるミキの涙を見たサナは、頭が自分の感情にやっと追いついてきて、そろそろ急に恥ずかしくなる頃だ。残った涙と混ざりあって、少し怒っているようでもあった。相手が望む姿でミキの気持ちを盛り上げる……サナにしてみれば我慢するための嘘ではなく、ミキと幸せに過ごすための言い訳でしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当然、ミキにとっては青天の霹靂で、しかし自分だけが絶頂するセックスに罪悪感を覚えないとは言い切れない。ミキはサナが思う通りに優しい子だ。だからミキは、何も言わず彼女を見つめることしかできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「めちゃくちゃになってるミキちゃん……すごく可愛いんだよ。それだけで幸せなの。だから、イかなくてもいいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……だからって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか二人の涙は止まっていた。自分だけが一人で絶頂している滑稽な姿ではなく、ただ自分とセックスしたいと思ってくれる存在がいる。サナの言葉でそう思い至ったミキは、愛おしそうに自分の頭を撫でる彼女の顔をどうしてもまっすぐ見ることができなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;溢れかけた雫が残った涙目のまま抱き合っていた二人は、やがて黙って見つめ合ったまま、サナがミキの目尻をちろと舐めて「甘いね」と言って笑う。ミキも仕返しのようにサナの涙を舐めとって「サナのはしょっぱい」と返す。くすくす笑い合う二人の間にまた沈黙が流れて、どちらともなくキスをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナはミキの耳元で自分の濡れた股間を触るようねだって、優しく撫でるミキに合わせてサナもまた彼女を愛撫する。一度は涙で冷えたミキの身体だったが、サナの指を呑み込む動きが欲深く絶頂を求める。程なくしてミキは、サナを気持ちよくするのも忘れて「あたしすぐイっちゃうから、そんなに強くしないで……」と熱くなる自分の顔を覆った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;必死に絶頂を迎えようとするミキの喉の震えが、全くの無防備のままサナの前に晒されている。そういう姿を見る度に、サナの脳にはじわじわとした快感が走っていた。もちろん、ミキはそんなことを知らないまま、彼女にじっと観察されているだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん……安心して気持ちよくなってね、ミキちゃん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、あっ……イ、イくっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん絶頂判定結果はNG、である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから二人はどうすべきか話し合った。AIは想定外の入力には対応できないはず。そう言い出すサナのアイデアを試すために、ミキが部屋に用意された様々な道具を引っ張り出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――体温と心拍数が平常に戻っています。ムードを盛り上げるための音楽を再生する場合は1を――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ローター、電気マッサージ器、ディルド、コスプレ……くらいは予想通りとして、最新ゲーム機やカラオケセット、加湿器やドライヤー、見覚えのあるラベルのペットボトル水まで収納されていた。真っ白な部屋にいろいろな道具が散らかって、まるで3Dモデルの部屋にいるようだ。AIに尋ねてみると、食事が必要なら持ってきてくれるらしい。ピザも出る。寿司も出る。こういう部屋ってラブホテルの居抜きなんだ、とミキは密かに思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;絶頂判定AIは絶頂以外は判定できない。それなら、別の軸から絶頂の壁をくぐり抜けるだけだ。二人は「裸で？」「裸で！」とゲームで争ったり、カラオケで大声を出したり、コスプレをして追いかけ合ったり、果ては枕投げまで……一通り全ての道具を試した。狭い部屋では走り回るのも難しい。大学だってそうだろう。子供みたいなことでも、やってみれば楽しいものだ。途中からAIのことなんて忘れてたね、とミキが笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし結局、どうやってもAIを騙してOKを引き出すことはできないまま、さらに三時間が経った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、AIは騙せないよね。ごめんね、私がここに入る前にちゃんと言ってたらよかったのに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーもう無理、マジ疲れたぁ。あたしたち、一生ここで遊んでエッチして死ぬだけなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう言っちゃうと、なんか……幸せかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなわけないでしょ！　あたし、死ぬときは海って決めてるのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人はつるつるした生地の薄いコスプレを地肌に着たまま、またベッドに戻って寝転がった。こう壁も天井も白いと、部屋の広さも分からなくなってくる。鮮やかな衣装のつやつやした繊維が白い空間に生々しく浮かび上がって、身体のラインをはっきりとなぞった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナはフリルの付いたタイトな魔法少女の衣装に身を包み、ピンク色の布地がその薄い胸元を強調している。衣装と合わせたピンクのニーソックスがよく似合う。ミキの方は、露出の多いへそ出しのセーラー服だ。胸元の赤い大きなリボン、パフスリーブの白いシャツ、青と紫がレイヤードになったミニスカートには銀のベルトが巻かれている。胸が大きいとよく映えるコスプレだ、とサナは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるでオープニングのイメージシーンのように手を繋ぐ二人が、変わらずAIに監視されたまま再び小休止を迎える。二人で何度か大声に任せて喚き散らしてからは、AIが変なアドバイスを持ち出してくることもなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナの気持ちは嬉しいんだけどね。でも、どうやってこの部屋から出るつもりだったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イったふりで切り抜けられるかなと思って。ミキちゃんにも通じてたし……十万円も欲しいって言ってたし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、それはイく前のあたしの頭がパーになってるからで……体温も心拍も見てくるAIに通じるわけないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが絶頂する直前のことを思い出すと――気持ちいい！すごく気持ちいい！サナ好き！サナ可愛い大好き！もっとして！――サナのびくびくとした痙攣のリズムが少しずれているとか、不自然だとか、そういう疑いが入る余地は全くなかった。彼女は自分の快感のことで頭がいっぱいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女のことをじっと見つめるサナの前で、全てをさらけ出すしかないミキ……そんな恥ずかしい想像をかき消すように、ミキはぶんぶんと首を振る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そもそもさぁ、イくふりなんてどこで覚えてきたの？　レズもの、好きじゃないって言ってたよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんとなく、ミキちゃんのまねっこで……動画の人たちってなんか演技っぽくて、参考にならないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そっか。上手なんだね、なんか、こう……あたしの観察」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ミキちゃんのこと……好きだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、ありがとね！　あははっ。もー、調子狂うなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段は面と向かって好きだなんて言わないサナが、この部屋に布かれたおかしなルールに当てられたようで、いつもよりずっと大胆にミキの指を絡め取って離さない。告白からルームシェアまで彼女を引っ張ってきたつもりのミキが、彼女の勢いに圧されて照れ顔で頭を掻くしかないというのは、相当なものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が内に秘めて離さなかった嘘を明かしたおかげで、ある種の遠慮まで消え去ったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、次はどうしよっか。用意されてる道具はもう全部使った気がするけど……ねぇAIくーん、他になんかないー？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、ミキちゃん。例えばなんだけど――」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、どこか痛かったりしない……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、うん……平気。ありがと……じゃなくて！　なんであたしが縛られてるわけ⁉」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが見つけ出したのは、これまたコスプレ衣装と同じ店で買ったであろう簡易的なSMセットである。目隠し、ファーが付いた革の拘束具、ボールギャグ、ポリエステルロープ、などなど。高級感のために黒で統一されているように見えるが、テカテカとした素材が逆効果になっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこからおもむろに縄を取り上げたサナに言われるがまま、ミキは寝転がって手足を左右に差し出したのだ。脚をがばっと開いて丸見えになるのも気にしないのは、既に六時間以上ここにいて感覚が麻痺しているせいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと結び方でも教えてくれるのだろう、と疲れた頭でぼんやり思っていたミキは、そのまま手首をぐるりと足首に固定されたあたりで、やっと自分の予想が甘かったことに気付いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって……やってもいいよって、ミキちゃんが」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言った。言ったよ。でも、あたしが縛られるとは思わないじゃん！　こういうのって、サナみたいな大人しい子が縛られて恥ずかしがるもんじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、分かってないよ！　私みたいな薄い子は、手錠でパイプベッドに繋がれるくらいがちょうどいいのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「誰が縄の似合う恥ずかしいおっぱいのムチムチ女なのよぉ～……えーん、ロリコン教師に乱暴されるタイプの彼女がいじめてくるよ～……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが蟹縛りでベッドに転がされたまま、駄々をこねるように身体を左右に揺らす。仰向けになった乳房も大きく流れるように、柔らかな弧を描いて震えた。拘束された手足が動くたびに、白い肌に安いロープが赤く食い込み、ミキの無防備な身体の質感を強調していく。白い部屋の中で、縄の赤い跡だけが浮かび上がるようにも見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらくその様子に見とれていたサナだったが、抵抗できない身体を安心して預けるミキの信頼感が、なぜだか突然サナを苛立たせる。自分を信頼してくれて嬉しいはずなのに、緩みきったその信頼が今は邪魔だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何をされても逃げられない身体で、自分の一挙手一投足に目も向けないミキの頬を叩いたらどうなるか、とサナは実行する覚悟もない妄想をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、あんまり動かないでね。叩くよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ、あっ……はい。ご、ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが急に低く落ち着いた声でそう脅すものだから、ミキは身体を縮めて彼女を見上げるしかない。そうだ。仮にサナが本当に手を振り上げたとしても、ミキは逃げられない。そんなことするわけない、と分かっていても、ミキの身体をじろじろと観察するサナの目はいつもより鋭かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらくして、ミキが自分をじっと見つめていることに気付いたサナは、にこりと笑って今度は優しい口調で語り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね、これまで自分でしてもイけなかったって言ったじゃない？　でもね、前にレズビアンのカップルさんがやってる……同人AVっていうのかな。ほんとの彼女さんを縛って、泣くまでいじめるやつ……それ見て、ちょっとイきそうになっちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが嬉しそうに「これだ、って思ったの」と告げる言葉にも、ミキは黙ったままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして縛られて、泣くまで許してもらえない……際限なく快感を叩き込まれて、辱められて、きっと恥ずかしい言葉も言わされる……まるで自分の行く末を予言されているようで、ミキはじわじわと下腹部が熱くなる感覚に戸惑って、返事ができなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;抵抗できない恐怖で指先が冷えていくのに、身体の中には熱が溜まって逃がせない。そんな、初めての感覚だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、今とっても興奮してる。あの動画の子もそんな目だったの。ねぇ、ミキちゃんはどうしてほしい？　動けなくなってるところ、私に見られてるの……どう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あんまり……痛くしないで、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー？　痛くなんかしないよ～。ミキちゃん、今すっごく可愛いもん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナの指が、ミキの太ももの内側をそっと撫でる。ひんやりとした指がミキの熱い肌を這い上がって、指の腹が性器の縁をかすめた。そして、傷がないか優しく確かめるような手つきでそっと恥丘を撫でていく。そんなほんの小さな刺激がミキの中で何度も反射して、急激に快感が高まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキの身体がぷるぷる震える。こんなの無理だよ、おまんこ触って快感逃がしたいのに、おまんこ触りたいのに、おまんこ触ってよ……そんなことを言い出したらサナに怒られるのではないか、と声を押し殺そうとしていたミキだったが、とうとう半泣きで自分の窮状を白状した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サ、サナ……あっ、ごめん、あたし……イきそ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、ミキちゃんどうしたの？ 　私、まだ何もしてないよ？　一緒にイかないと帰れないんだよ？　分かってる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んぁっ……あっ、ご、ごめん。ごめんなさい……んっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことはサナから見れば手に取るように分かることで、もちろん許されることはない。いつもなら二人でくすくすと笑い合う声が、今は一方的にミキに向けられている。そう思ったミキが、サナに命令されるまでもなく自ら醜態を晒してしまったのだと気付くと、また情けない喘ぎ声が漏れ出てしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の彼女にとっては、サナから与えられる刺激が全て快感だった。自分の快感で手一杯のミキと、その様子を愛おしく思うサナ。言ってしまえば、普段の彼女たちのセックスとあまり変わらないのだが、サナにとっては新たな手応えがあった。イけそうなセックスだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、まだイってないよね？　せっかく自分でおまんこ触れないようにしてあげたのに、もう我慢できないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「も、だめ……すぐイけるから、触ってぇ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しょうがないなぁ。私、まだイってないんだよ？　じゃあ、特別に一回だけ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナがそう言い終わる前に、真っ白な部屋にジリリリリと大きなベルの音が響いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、二人を監視していた絶頂判定AIの一台が密室安全上限時間に達したと告げる。判定対象ではなくなったので、賞金も満額は払い出されない旨も続けてアナウンスした。つまり、あれこれと絶頂する術を試し続けて九時間は滞在したということになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;AIが差し出した絶頂判定のグラフを眺めるサナ。ぐちゃぐちゃと乱高下している黄色のラインはミキのもので、六割前後で推移し続けている青いサナのグラフは、最終的には上下しながら九割前後まで達していた。サナの手応えの通りだ。あと一時間でもあれば、サナも余裕のない顔でミキを求めていたに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別のグラフによれば、徐々に二人の鼓動が近づいて、最終的には重なっていたという。長々としたAIのコメントの最後には「二人の相性は最適ですから今後は精進してくださいね」という偉そうな評価と一緒に、潜在的な相性を評価して半額の払い出しがあること、そして「百合カップルが上手くいくコツ7選」のリンクが貼られていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーあ……ミキちゃん。もう時間切れだって。ごめんね、やっぱり私、イけなかったみたい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……え、で、でも……もうちょっとだから、最後までして？　ね、お願い、サナ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って腰をゆらゆらと揺らすミキの顔を、サナが冷たい目線でじっと見下ろす。ミキちゃんは何をしても本当に可愛いな、とサナは思った。蔑むようなサナの視線に反応して俯くミキの恥じらう顔を十分に堪能してから、サナはわざとらしくぱっと笑ってみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ縄が痛いよね！　蟹縛りって、エッチだけど負担が大きいの。すぐ解くから…… &lt;em&gt;あんまり動かないでね&lt;/em&gt; 」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ！　は、はい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが縄を解きながらゆっくりミキの肌を撫でる。彼女の指は縄で痺れた皮膚にそっと刺激を与えて、またじわりと熱を帯びて広がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脚に束ねられていた手首が解放されて、ミキは思わず背伸びをする。腰がちょっと痛い。足首も固まっている。ストレッチで身体を動かすと、溢れそうになっていた快感を少しずつ逃がせる気がした。緊縛ってやってる最中は全然疲れないんだ、とミキは思った。「人生と一緒かも」とだけ呟くと、サナは「それいつも言ってるね」と一緒にくすくす笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとしきり身体を伸ばしたミキが、ばたりとベッドに倒れ込む。サナもその横に添い寝するように飛び込んで、頬に小さくキスをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーもうホントに無理かも……しばらく動けなさそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、流石に疲れちゃった。この後……どうしよっか？　五万円ももらったし、焼肉でも食べて帰る？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、いいね。そろそろダイエットも飽きてきたし――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが彼女の返事を待たずに「それとも……ラブホで続きする？」と低い声で耳打ちすると、ミキは自分の言葉も継げないまま顔を背けて、それから小さく頷く。サナに何気なくキスされた頬がまた熱くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「あー、美味しいっ！　いっぱいエッチした後に酒飲んで焼肉って、こんなのおっさんの欲望じゃん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミ、ミキちゃん、声大きいよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいじゃん。せっかく個室で焼肉なんだから。ほら、サナももっと飲んで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……じゃあ、もう少しだけ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれからラブホテルに直行した私たちは、縛られたミキちゃんが子供みたいに大泣きするまでねちねちと言葉責めしてあげて、それからおまんこをいっぱい触ってあげた。泣きながらイくの初めてだって苦しそうに身体をねじってたから、頭を撫でて優しく「たくさんイけてえらいね」って言ったら、ぐちゃぐちゃの顔で笑ってくれたのがすごく嬉しかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私もその姿を見ながら初めてイけたから、その後は縄を解いて二人でいっぱい喜びあった。私も余韻でもう一回だけイけたけど、やっぱりミキちゃんは何度もイっていた。その話をもっとここに書いたっていいんだけど、ミキちゃんが怒っちゃいそうだからやめておく。なんか私も興奮してひどいこと言っちゃった気がするし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも……また変な部屋に誘われることがあれば、もしかしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最初は家賃の足しにするつもりで飛び込んだ「同時に絶頂しないと出られない部屋」だったけど、結局もらった賞金はエッチとご飯なんてただ欲求を――本当におじさんみたいだ――満たすために使い切ってしまった。一日ずーっと働いてたのと同じなのに。ミキちゃんが満足してるなら、まぁいっか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナ、そんなにメニュー見てどうしたの？　あー、まだお肉食べ足りないんだ。こっちも頼もうよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、えと……じゃあ、タン塩のセットにしようかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たち、十万円なんかよりよっぽど取り返しの付かないところに来ちゃった気がする。でも、これでよかった……のかな？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-discussion-topics"&gt;EXTRA: DISCUSSION TOPICS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;サナが「嘘」を告白したことで救われたのは、嘘をつき続けていたサナ自身でしょうか？　それとも、真実を知らされたミキでしょうか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;取り返しのつかないところに来たと自覚しているサナにとって、この後、普通の大学生としてミキとルームシェアを続けることにどのような意味がありますか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;もしも世界がAIに完全に統治されて、全ての性的快楽が数値化・公開される社会になったら、あなたはどのような生活を送ると思いますか？&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="extra-exercises"&gt;EXTRA: EXERCISES&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;あなたがまだ隠し続けている、愛のある嘘のリストを作ってみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;誰にも見せない自分だけのパラメータを決めて「判定グラフ」を描いてみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;一番仲の良い友達と、あえて正反対のコスプレをして食事に行ってみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ひみつ道具「世界修正時計」</title><link href="https://ama.ne.jp/post/world-edit-timer/" rel="alternate"/><published>2025-12-14T00:00:00+09:00</published><updated>2025-12-14T00:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-14:/post/world-edit-timer/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ぜーんぶ、あなたが悪いんですからね！&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この音声はVOICEPEAK 女性1で生成されており、&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。 */&lt;/p&gt;
&lt;video loop controls width="750" height="420" src="/images/world-edit-timer/world-edit-timer.webm" poster="/images/world-edit-timer/world-edit-timer.jpg"&gt;ピンクを基調とした部屋に青い少女が立っており、下にメッセージウィンドウが表示されている&lt;/video&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;おかえりなさい。早かったですね。今日は、昔のお友達とお出かけって言ってませんでしたか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらあら、どうしちゃったんでしょう！　そんなに青ざめちゃって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それ、昨日あなたにあげたひみつ道具ですよね。世界修正時計……失敗した会話を、時間ごと戻してやり直せる時計です。これがどうかしましたか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なるほど、なるほど……お友達の頭に変な数字が？　それって、4色の数字でしたか？　黄色、赤……そうです。きっと青と緑もありましたよね？&lt;br&gt;
よかった！　ちゃんと動いているみたいですね。この時計を使った相手には、喜び・怒り・悲しみ・楽しさ……感情の強さが表示されるようになるんです。会話が成功したのか、すぐに分かるのでとっても便利なんですよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間さんたちの会話って、安全に取り扱うにはあまりに不確実ですからね。やり直したいなら、正確な指標が必要なんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はい、その通りです。せっかくやり直すんですから、ちゃんと正しい感情まで到達させなくてはいけません。人間関係を長く保つには、気持ちのいい会話が一番の近道なんですよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あら、こんな素敵な時計がお気に召さなかったんですか？　せっかく、あなたのために用意してあげたのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな言い方しないでくださいよ。&lt;br&gt;
だって、あなたが言ったんじゃないですか。人との会話に悩んでるって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どんな話題を出したらいいのか、どんな風に受け止められるのか、どんな話し方がいいのか、間はどう調整すればいいか。&lt;br&gt;
人間さんたちって、そんな鳴き声一つで勝手に楽しくなったり悲しくなったりするんですから……本当に面倒で仕方ありませんよね。&lt;br&gt;
しかも、その場の気まぐれで受け止め方も変わりますし、その上やり直すこともできないなんて……どうしてあなたが、こんなことで悩む必要があるんでしょう？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私、ちゃんとあなたに教えてあげましたよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな不確実で信頼できない会話なんて、しない方がいいって。&lt;br&gt;
外の世界は理不尽で不安定なことばかりだから、ここから出ない方がいいって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでもあなたが私のアドバイスをあんまりにも聞かないものだから、あなたのためを思ってこの時計をあげたんですよ？&lt;br&gt;
そうしたらあなただって、喜んでいたじゃないですか。これなら安心して話せるって、ニコニコ笑っていたのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらあら、そんなに不安そうな顔をして！　せっかく素敵な道具をあげたのに、どうして困っているんですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当たり前じゃないですか！　私のことだって、いつでも好きに戻してくれていいんですよ。&lt;br&gt;
あなたの気が済むまで、私に好きな言葉をかけてやり直しても……八つ当たりしてすっきりしたら元に戻してもいいんです。&lt;br&gt;
私はあなたが安心して幸せになるために、ここにいるんですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、相手に許してもらうとか、誰かに受け入れてもらえるかなんて、もう考えなくていいんです。&lt;br&gt;
ボタン一つで、全部なかったことにするだけですから。こうしてしまえば、人間さんとの会話なんてただのAIと一緒です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいえ。これしかありません。会話を安心で確実なものに変えるには、こうして測定可能な試行を繰り返すしかないんです。&lt;br&gt;
だって、今日は1時間ちょっとのおしゃべりで、もう158回もやり直しましたよね？　大切なお友達との会話を、チャットボットへのメッセージを編集するみたいに……何度も、何度も、何度も。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;違いますか？　でも、監査ログには全部残っているんですよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなに嫌だって言うなら、どうしてこんなに会話を編集したんですか？&lt;br&gt;
自分の手で確実な未来を掴み取りたいと思うのって、そんなにおかしなことですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はい！　あの子もあなたのことを、昔から気の合う素敵なお友達だって思い出してくれたはずです。&lt;br&gt;
さっきも、あの子から次のお出かけのお誘いが来ていましたよね？　今日が本番一度きりの会話なら、きっと失敗していたに違いありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいえ。これは、あなたが自分の手で選び取った未来なんです。そして、これからも選び続けられるんですよ。こんな素敵な道具、どうして困るんですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大好きなお友達と喧嘩別れしたまま生きるなんて、辛かったですよね。この時計さえあれば、あの子を怒らせない未来を選ぶのも簡単だったのに。&lt;br&gt;
もっと早く私があなたを見つけていれば、何年も絶交せずに済んだかもしれませんよね。本当にごめんなさい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、大丈夫です！　私とずっと一緒にいれば、理不尽で悲しい思いをすることなんてもうありません。&lt;br&gt;
なんて素敵なことでしょう！　あなたも嬉しいですよね？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらあら、あなたも前のつまらない人間さんみたいなことを言うんですね！&lt;br&gt;
じゃあ、もう一回この会話をやり直しましょうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>オウムは魔法で殺された！</title><link href="https://ama.ne.jp/post/magic-parrot/" rel="alternate"/><published>2025-12-07T00:01:00+09:00</published><updated>2025-12-07T00:01:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-07:/post/magic-parrot/</id><summary type="html">&lt;p&gt;私みたいな褐色のちんちくりんは一生荷物運びしてろってことですか⁉&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;オウムは魔法で殺された。オウムは魔法で殺された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;オウムが魔法で殺された！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外では何やら騒ぎになっているのですが、私には何を話しているのか分かりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鉄格子の向こうで緑色の煙が上がったかと思うと、色とりどりの綺麗なオウムが次々と地面に落ちていきます。オウムは音を真似するのが得意な鳥です。昨日は骨を鳴らす音を上手に真似てみせました。でも、私がいくら話しかけても真似してくれないので、きっと私が嫌われているんだと思うのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は何かの鳥の声を真似しています。まるで本当に苦しく叫ぶような鳴き真似で、私は鉄格子の近くに寄ってオウムの姿をじっと見つめました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アイさん。あのオウム、どうしちゃったんですかね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クーには分からないかもね。おしゃべりなオウムが死んだだけだ。最近は特にうるさかったからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいと死んじゃうんですか？　オウムは声真似するのが好きなのに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、クーは優しいね。でも、オウムの &lt;em&gt;シゴト&lt;/em&gt; は楽しく踊ることだよ。みんなに迷惑をかけることじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんは時々こうして難しい話をします。私はアイさんよりずっと年下で、物覚えも悪いから仕方ありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、あちこちを飛び回って好きなように鳴くのが、誰かに迷惑をかけるのでしょうか。音楽に合わせてくるくるとダンスを踊るのだって、オウムはシゴトだなんて思っていません。シゴトというのは、私みたいに鉄格子で囲まれてどこにも行けない子がするものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地面に落ちたオウムはしばらくじたばたしていました。クッキーの食べかすがキラキラ輝いています。そして、もうしばらく経つと、ふんわりとした羽根をまき散らして姿を消してしまったのです。私たちは何も言わず、その様子をじっと見つめていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「全員、それぞれにシゴトがあるんだ。クーも気を付けた方がいいよ。シゴトをしない子は死んじゃうからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アイさんだって、散歩とおしゃべりしてるだけじゃないですか。あたしのシゴトも手伝ってくれませんし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私とクーは違うんだよ。私のシゴトは、こうして白い身体を晒して歩くことそのものなんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かにアイさんの肌は白くすべすべしていて、背も大きくて綺麗な赤い目で、私とは全然違います。私の身体はアイさんよりずっと小さいし、肌は赤銅色で綺麗じゃないし、目だってくすんだ黄色なのです。きらきらしたアイさんと話すのは楽しいけど、私みたいにシゴトをしないと生きていけない子とは、やっぱり釣り合いません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですよね。あたしなんて、ただの褐色のちんちくりんですもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この鉄格子の中にいるのは私たちたった二人で、私の話し相手はアイさんだけです。アイさんの話し相手だって私しかいません。でもアイさんだって、オウムみたいに自由に空を飛べたら私となんておしゃべりしないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ほらほら、私と話してるとまた荷物がいっぱいになるよ。おしゃべりはシゴトを終えてからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ランプがカチカチという音と共に明滅して、褐色のコンテナがたくさんの荷物で満たされていきます。シゴトの時間です。まだアイさんと話したかったのに、自然と身体がシゴトに向かって動き始めていました。私の生活は、毎日こんな感じです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のシゴトは、バラバラに届いた荷物を整理して、種類ごとに分けてもう一回コンテナに運ぶこと。物覚えの悪い私にもできるように、届く荷物の種類はたった三つしかありません。赤いお花と、銀色のレンガと、白い糸です。赤いお花はポピーといいます。アイさんが教えてくれました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はポピーが大好きです。でも、ここにたくさん届くのは銀のレンガで、端から端まで運ぶのはとにかく疲れるシゴトなのです。頭の悪い子でもできる簡単なシゴトに、楽なシゴトはありません。コンテナから荷物を取り出して、同じ荷物のコンテナに収納する。全部終わるまでその繰り返しです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんに言わせると、私のシゴトには無駄が多いのです。でも、私は荷物を分類するのに精一杯で、効率のいいシゴトのやり方なんて考えたことがありません。同じ種類の荷物から順番に運んで、終わったら次の種類の荷物を運ぶんだよ――そう言われたって、覚えられません。私は毎回コンテナを端から全部確認しないと、どこに入れるか分からなくなるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クーはいつも一生懸命にシゴトしていて、偉いね。ちょっとこっちに来てごらん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたんですか？　あたし、今シゴト中なんですけど。このレンガだってとっても重たくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、ごめんごめん。私もね、この鉄格子の外にはシゴトがあるんだけど。今はこれくらいしかできないんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんはそう言って、どこからともなく小さな赤いポピーを取り出しました。そして、きょとんとした私の頭にそっとそのポピーを挿して、「褐色のちんちくりんなクーだって、私には大切だよ」と優しく言ったのです。私は何だか全身の力が抜けて、両手に抱えていたレンガと一緒に床にへたり込んでしまいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シゴト中に荷物を落としてしまうなんて、この時が最初で最後です。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;何週間か経った気がします。壁に掛かった時計は真夜中を指していました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてか、私はずっと眠っていました。最後に見たのは、自分の肌が緑色に変わっていく夢。アイさんみたいな白い肌でもない、私のくすんだ褐色の肌でもない、水の底に沈むような緑青色。思うように身体が動かなくなって、息が苦しくなったところで目が覚めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周囲を見渡しても、景色はいつもと変わりません。鉄格子の壁に滑らかな石の床、ボタンの付いた真っ白な鉄のドア。ランプは点灯したままで、コンテナが満杯になっていることを示していました。私がずっと眠っていたせいで、やるべきシゴトはたくさん溜まっています。早くシゴトに戻らないと。だって、シゴトをしない子は死んじゃうんですよね。ね、アイさん――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――あれ、アイさん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、いつもと変わらない景色の中で、アイさんの姿だけが消えていました。鉄格子に囲まれた小さな部屋で、ずっと一緒に暮らしていた大切なアイさん。あの綺麗な白い肌、私のことを見通す赤い瞳、私に色々なことを教えてくれる素敵な声……ここにはもう、何もありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンテナの中は、いつもの銀のレンガと赤いポピーでいっぱいです。あっ、ポピー……ふと頭に手を伸ばして、今度はアイさんがくれたポピーすら残っていないことに気付きました。もちろん、部屋には何も落ちていません。コンテナの中にあるポピーは、ただただ運ばれて積まれているだけの荷物です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大好きな赤いポピーさえ、今はもう私の味方ではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんはどこへ行ってしまったのでしょう。この鉄格子から出られる術を見つけたのでしょうか。もしそうなら、どうして私を連れて行ってくれなかったのでしょう。私がずっと眠ったまま起きなかったから？　私はここでシゴトをしなきゃいけないから？　私みたいに物覚えの悪い子を、外に連れ出すメリットなんてなかったのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんはきっと、鉄格子の外で自由に過ごしているのでしょう。私じゃない子とお話しして、私が知らない景色を見て、鉄格子の外にあると言っていたシゴトをこなしているのです。狭い部屋をただ散歩するよりもっと楽しいシゴトを、きっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、せめて最後にさよならくらい言ってほしかったな、と私みたいなちんちくりんでも思ってしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目が覚めてからずっと、コンテナに届く荷物がどんどん増えています。私が寝ぼけているせいではありません。どんなに運んでも運んでも、コンテナのランプは消えないままです。やっぱり私は、ここで荷物を運ぶしかありません。だって、シゴトをしない子は死んでしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンテナに積まれた銀のレンガを両手に抱えて、部屋の端までよたよたと運びます。いつもよりたくさん運ばないと間に合いません。腕が軋んでキリキリと音を立てています。でも、ここでしっかりシゴトを続けていれば、いつかアイさんがまた新しいポピーをくれるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――クーのシゴトは、いつも一生懸命だね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと鉄格子の外を見ると、クークーとうるさく鳴き声を上げる赤いオウムと目が合いました。きっとまた、このオウムも魔法で殺されるのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://ja.minecraft.wiki/w/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A0#%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%BC"&gt;アイアンゴーレム - Minecraft Wiki&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>冷凍庫のひみつ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/secret-fridge/" rel="alternate"/><published>2025-12-01T19:40:00+09:00</published><updated>2025-12-01T19:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-01:/post/secret-fridge/</id><summary type="html">&lt;p&gt;この記事は氷水解凍が推奨されています&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;君島はサークルの後輩で、どちらかといえばお互い関わることのない――はっきり言うと苦手な――タイプだった。先輩後輩の隔てなく、そして男女の区別もなくしっかり媚びて、しっかり好かれて上手に生きる。一部の女子からは同じくらいしっかり嫌われているけど、陰口を叩かれるほどの悪事でもない。可愛い子が可愛い顔をしているだけ。でも、私にはできないな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから今日、そんな私が君島に誘われて一人で彼女の家を訪れることになったのは、おそらくただの偶然だろう。入れていた金曜四限の講義がいきなり休講になって、早めにサークル室に向かうことがなければ、君島だってわざわざ私に声をかけようとは思わなかったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お部屋に人を上げるの、新羽さんが初めてなんですよぅ。ちょっとだけ片づけたんですけどぉ、散らかっててごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやいや、全然綺麗じゃん。ウチもこれくらいだから大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなんだ……じゃあ、よかったぁ。いま全部出しちゃうんで、適当に座っててくださいね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダイニングキッチンには冷蔵庫のほかにもう一台冷凍庫――サイズはどちらも一人用だけど、上から下まで冷凍庫だ――があって、買ったばかりの保冷バッグを抱える私の横で、せっせと冷凍食品やジップロックに詰められた食材を取り出し始める。チェック模様に黒いレースが斜めに横切るティアードスカートの裾が、キッチンの床にぱさりと垂れた。襟に黒い刺繍の入ったエレガントなブラウスには、冷凍庫に残されたまま乾燥しきった霜の匂いは似合わない、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真ん中に鎮座する少し小さなダイニングテーブルが、端から順に冷え切った空気で包まれていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一時期ネットで割引キャンペーンが話題だった冷凍宅配弁当が何袋か。調味液に漬けたままカチカチに凍った豚肉。塩麹を塗りつけて並べた鶏肉。切り分けたネギや茹でた野菜が順番に重なっている。その後は、押し込むと少し柔らかいはちみつレモン。肉や野菜がぴったりと平たく丁寧に並べられたフリーザーバッグには、几帳面な字で名前と日付が記されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、次に取り出したタッパーには何の書き込みもなく、海藻っぽい緑色のものが氷漬けになっていた。ラップで包まれたウエハースがたくさん詰まっているのは……なんだろう。冷凍庫の奥底を覗き込もうと身体を前に出すと、それに気付いた君島が顔を上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「新羽さん、こういう手作りの冷凍食品って大丈夫でしたぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ、うん。私はあんまり気にしないかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よかったぁ。新羽さん、あたしのお茶を飲んだときも気にしてなかったから、平気だと思ってたんですよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや……そんな前のこと、よく覚えてるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サークル室の机に置かれたペットボトルのお茶を取り違えて私が飲んでしまった、というのはもう半年以上前のことだ。あの時は私が新しいお茶を買って返すことにして、自販機の前でしばらく話した気がする。手作りの冷凍食品を押し付ける理由が間接キスって、なんだか論理がかけ離れているような、少し納得できるような。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、冷凍食品を好きなだけ引き取ってほしい、と言われて来たのは確かだけど、まさかここまでとは思わなかった。君島の家に向かう途中で「あっ、忘れてたぁ！　保冷バッグ持ってきてないですよね？」なんて聞かれて、わざわざ大きなトートバッグを買っていったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとしきり冷凍庫の中身が空になったようで、君島が最後に取り出した煮魚入りのジップロックをテーブルに置いてほっと息をつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日までに冷凍庫を空っぽにしなきゃいけなくてぇ、困ってたんです。新羽さんが来てくれて助かりましたぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、引っ越しでもするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうじゃないですよぅ。お部屋の点検で停電になっちゃうみたいで、食べ物が溶けちゃったらもったいなくてぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;君島が指差した冷凍庫のドアには、マンションの全館停電を知らせるお知らせがマグネットで貼られていた。日付は確かに明日からで、それでもせいぜい長くても三時間くらい。君島は一瞬で食材が常温に戻るとでも思い込んでいるみたいだけど、真夏ならまだしも、十二月になったばかりの寒い日なら放っておいても平気だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に数時間くらいなら、冷凍庫に入れたままで大丈夫だと思うよ？　むしろ変に出し入れしない方がいいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、そうなんだぁ！　新羽さんって物知りですねぇ。ママに相談したら誰かにあげなさいって言われたから、てっきり溶けちゃうと思ってましたぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、もう一回冷凍庫に戻した方がいい？　今なら間に合うと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもでも、せっかく来てもらったのに悪いですよぅ。……あっ、そうだ！　じゃあ、今からこれ使ってお夕食作るってのはどうですかぁ？　食べていきません？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鶏肉と魚の袋を取り出して、どっちが好きですかなんて当たり前に聞かれると、なんとなく今日は鶏がいいかなと答えてしまう。うん、ネギはよく焼いてる方が好き――こういう子は人との距離の取り方がよく分かっていて、つまりそれは隙さえあればどこまでも詰めてくる、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり私にはできないな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「スーパーで安売りのお肉とか見かけるとすぐ買っちゃうんですけど、ひとりじゃ食べきれないからすぐ冷凍庫に貯めちゃっててぇ……だからぁ、一緒に食べてくれてほんとに助かります」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルに並んだ塩麹のチキンソテーと、ほんのり焦げ目の付いた柔らかいネギ。横に並んだ温かなご飯と味噌汁は、冷凍食品の処理とは関係ないという意味では、むしろ付け合わせである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;意外にも、と付け加えると失礼なくらいには、フリルエプロン姿の君島は手際よく調理をこなした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、サークルの人たちも誘ったらよかったのに。君島さんの手料理なら、きっとみんな喜ぶよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー！　手作りの冷凍食品なんて振る舞ったら引かれちゃいますよぅ。こんなのおばあちゃんみたいだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、サークル室で男子に囲まれてきゃいきゃい騒いでちやほやされている君島は、クレープとパンケーキが主食だと言い張っていても変には思えない。実際、色々な男の子に代わる代わる誘われてパフェやパンケーキのお店に行っている、というのは女子の噂でもたまに聞いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「男の子って、あたしのことおバカなお人形さんだと思ってるんですよぅ。あたしがテキパキご飯なんて作ったら、びっくりしますよぉ。絶対ポテサラだって作ったことないのにさぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないでしょ。みんな優しくしてくれてるだけじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違いますよぅ。可愛い服とスイーツあげたらあたしがめろめろになるって勘違いしてるんです。別にあたしは得するからいいけどぉ、やっぱムカつきません？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し語気が強くなる。ほんわかとして間延びした口調はそのままに、ここまで悪態をつく様子を見たら、サークルの男子たちは卒倒してしまいそうだ。とはいえ実際のところ、君島の意思を汲まないまま勝手なプレゼントや欲望に巻き込まれたのは一度や二度ではないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一緒に暮らす相手なら、可愛くて料理もできるなんて素敵なことのはずだけど、ただのお姫様と遊ぶつもりならまた違うんだろうか。君島が穿ちすぎているような気もしつつ、サークル室で話す男子たちのちょっとしたアピールの小競り合いを思い出すと、彼らが求めているのはただのお人形だと思えなくもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、こんな姿を私に見せてもバラされないと信じられているのか、もはやバラされたってどうでもいいと思っているのかは分からない。モテモテで困ってますなんて愚痴、仲町あたりが聞いたら嫉妬でネガキャン祭りだろう。あんな格好してるのが悪い、あんなしゃべり方が悪い、嫌なら来なきゃいい、なんなのあいつ……なんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、なぜか君島の味方をしたくなってしまうのは、結局のところ私が彼女の術中に陥っているだけなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あっ、すみません。あたしの話ばっかりしちゃったぁ。こんなことナカちゃんさんとかに話しても、どうせ自慢でしょとか言われそうで、溜まっちゃってたんですよぅ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、ナカちゃんって仲町のこと？　やっぱり、君島さんもそう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;畳みかけるように尋ねる私の顔を、君島はきょとんと見つめた。私の言葉が聞き取れなかったわけではないようで、しばらくすると小さな笑い声を上げながら肩を振るわせて笑い始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、ふふふっ……もしかして、新羽さんもそう思いましたぁ？　そうですよねぇ、ナカちゃんさんって自分以外が目立つとすぐいらいらしますもん。やっぱりみんな、そう思ってるんだぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前でしょ。みんな、君島さんみたいに目立たないように、お互い気を遣ってるんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーっ、新羽さんひどいですよぅ。だってあの人、沖縄旅行のお土産に私だけ海ぶどうくれたんですよぉ？　前に居酒屋さんで嫌いだって言ったのを覚えてて、わざわざ買ってくるとか、嫌がらせの熱意すごくないですかぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそうあっけらかんと言い放つ君島を見て、息ができなくなるくらいに笑いがこみ上げてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仲町が君島を嫌っているのは周知の事実で、責められないくらいの小さな意地悪を続けているのもよく知っていたけど、まさかそんなあからさまな嫌がらせにも手を出していたなんて。しかも、当の君島は冷凍庫に押し込んでさらりと回避して、そんなの知る由もない仲町はこそこそ隠れてしたり顔をしている。そんな風刺画みたいな光景を思い浮かべると、急にただのコントに思えてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー、面白くないですよぉ。あたし、おいものタルトの方が欲しかったのにぃ。ナカちゃんさん、ほーんと意地悪ですよねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紅芋タルトくらい、アンテナショップ行けばすぐ買えるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、そうなんだぁ！　じゃあ、明日一緒に行きましょうよぉ。あたし、月桃のフェイスマスクも欲しかったんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「明日？　まぁ、予定はないけど……えっ、明日？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ今日は、泊まっていきますよねぇ？　ナカちゃんさんの海ぶどうも、ぜひ食べていってください。きっと美味しいですよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;君島がまた当たり前みたいにそう言って、冷凍庫から氷漬けのタッパーを取り出し始める。これだってもちろん、私にはできないな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>さよなら、キョーカイの子</title><link href="https://ama.ne.jp/post/goodbye-sga/" rel="alternate"/><published>2025-11-23T12:18:00+09:00</published><updated>2025-11-23T12:18:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-11-23:/post/goodbye-sga/</id><summary type="html">&lt;p&gt;金属元素で特有の色が出るんだよ&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;砂利がちな河原に積み上げられた即席のかまどから、きらめくような火の粉と共に七色の炎が上がる。これが夜明け前の河川敷には似合わない奇妙な焚き火であることは、誰の目にも明らかだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よく乾いた細い薪で作られた祭壇の一番上にくべられているのは、混紡のサージ織で仕立てられたブレザーだったもの、だ。炎に包まれて丸く溶けていく布地が、スカートと、ブラウスと渾然一体になって目の前で蒸発していった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっと、終わる。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;水上和子。カズちゃん。キョーカイの子。大学進学後に自殺するまで数年の間「ミナト」と名乗る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;母親と祖父母が熱心な某新興宗教の信者で、父親は正しい教えに耐えきれず逃げ出した、と言い聞かされて、疑問を差し挟む暇もなく弟も含めた家族五人で小学校卒業まで育つ。幼い頃から母に連れられて近所で勧誘活動を繰り返す姿が同級生の目に入り、小学校では「キョーカイちゃん」というあだ名で通っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、この「キョーカイちゃん」というあだ名を重大ないじめと断定した当時の担任が、多様性尊重と差別防止のための特別カリキュラムを数週間にわたって乱発する。最終的には、 &lt;em&gt;首謀者&lt;/em&gt; たちの水上に対する謝罪と反省文の提出をもって事態は収束と認定されたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしクラスメートから見れば、水上が道徳や社会の教科書の向こう側にいる特殊な存在に押し込められて、あだ名で呼び合える気軽な関係ではなくなった、というだけだ。担任がニュートラルなあだ名として提案した「カズちゃん」は、もちろんほとんど使われないまま卒業に至った。この件がきっかけで、当時の同級生とは最後まで疎遠だったという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水上自身も「キョーカイちゃん」という悪気のないあだ名一つでクラスメートとの関係を崩壊させた担任のことを深く恨んでいた。あの件がなければ普通の中学校に行ってもっと普通の友達ができていたのに、子供の社会が壊れるのはいつも頭の固い大人たちのせいだと、よく怒っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――というような話を、マイは枝分かれになった取り留めのないエピソードをあちこち行ったり来たりしながら、私に語って聞かせた。もっとも、水上はマイの前では「ミナト」と名乗っていたらしいので、水上というのさえ本名なのかは怪しいところだ。だって、わざわざ本名を隠そうとして、連想ゲームのような名前を選ぶだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、その水上……ミナトさんが、去年亡くなって、今は教団のお墓に入ってるのね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。でも、ミナトはそんなの嫌だって言ってた。キョーカイの子じゃなかったら、本当はもっと普通の学生生活を送れるはずだったのに、って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、ミナトさんのお葬式をやり直したい……っていうか、ちゃんとマイなりに見送りたくて、電話してきたんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん！　そうなの……あっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スマホのスピーカーから、ガタンッと床にぶつかる大きな音が響く。慌てた様子のマイの声が遠くから近づいて、思っていた通りに言い当てられて驚いたのだと興奮交じりに告げた。それから、やっぱりユミってこういうオリジナルの儀式を作るのが得意だったもんね、としみじみ呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;得意なもんか。オリジナルの葬式を考えるのが得意ですなんて、特技の欄にも書けやしない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっとマイが得意だと言って思い出しているのは、私が中学生の頃に何度か考えた勝手な節分や七夕のことだろう。マイは、私が作り上げるもっともらしい &lt;em&gt;非常識&lt;/em&gt; がお気に入りだった。平日は授業と部活で忙しいから、毎年次の土曜日にずらすのは当たり前。縁起の悪さだって、二人が気にしないならどうでもよかった。私たちの常識が認めるなら、街一つ消し去るくらい簡単だったと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、私はマイのために考えてあげたんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;河川敷で「鬼」と書いた石を対岸に届くまで何度も投げてみたり、願い事を書き込んだフラワーペーパーを手持ち花火で燃やしてみたり、一つ一つの所作に適度な意味を込めて、私たちはその場をぐるぐると回ってみせた。マイはそういうちょっぴり日常から外れた &lt;em&gt;儀式&lt;/em&gt; をスラスラ作り上げる私のことを、憧れの視線で見ていた。きっと、マイの家では絶対にこんなことは許してくれないから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、こんな儀式には宗教的背景も江戸時代から続く伝統もない。私とマイだけが楽しむことに、そんなものはいらなかった。木曜日に家で豆を投げるより楽しいことをしたい。自分の願いごとを笹につるして誰かに見られるのは恥ずかしい。それなら、今日からこれが正しい儀式です……やっていることは創作マナー講師と同じで、かれらも私もただ人より嘘をつくのがちょっと上手なだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、まるで新しい宗教みたい、というマイの言葉もあながち間違いではないと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、大学に進学してから初めてのお正月に「飲みやすいお屠蘇ってないかな？」と言われて、カレー粉とスパイスリキュールとチャイ（しかもアーモンドミルクで割るのだ）を混ぜたような不思議なレシピを送った気がする。三色の猪口に三回に分けて注いで、それぞれ左右に三度回して飲むべし、なんて仰々しさも添えて。結局、あのレシピが上手くいったのかは結局聞いていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いずれにしても、私は誰かが惰性で守ってきた形だけの伝統を勝手にアレンジしただけで、オリジナルなんて名乗れるものじゃない。葬式とか祭祀とか、死んだ誰かのための儀式を作り出すなんてホラー映画の導入みたいだし。マイが話す水上という人間（そもそも本当に人間だろうか？）のことだって、今日知ったばかりでどうすれば喜ぶかも分からないし。何より私が考える必然性がなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……いや、実際のところはそんな冷静で丁寧な言葉で語れるものではない――話を聞いている限りだとおそらく――高校を卒業してから私とマイがしばらく疎遠になった原因の一つであろう女のために、私とマイの秘密の遊びを汚したくなかった。マイがこんな女を弔おうだなんて相談してくること自体、私にとってはある種の裏切りだ。しかし、私がここで感情のままに断ればどうなるか。その結末も想像にたやすく、またどうしても避けねばならないはずだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マイの相談が電話越しでよかった。音にさえよく気を付ければ、イライラを逃がすためにクッションにがりがりと爪を立てているのも、きっとバレずに済むだろうから。私は明確に怒っていて、そしてそれ以上に焦っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……マイはどう見送りたいとか、自分では何か考えてみた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん。だって、ユミの方がいろんなこと知ってるし……私が考えても、正しいか分からないし……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;篠宮マイ。私とは小学校の頃からの幼なじみで、高校まで同じ学校で過ごしていた。地元ではちょっとした名家の生まれで、頭が凝り固まった父とそれに付き従うだけの母に厳しく育てられた結果、自分の常識から半歩もはみ出せない真面目で正直な子に育つ。小学校では階段を一段抜かしで上がる一過性のブームに乗れず変な子扱い。中学校ではちょっとした外出にも親の許可が必要で、そのノリの悪さでクラスの中心からはほんのりハブられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私から見ても、マイは確かにつまらない子だったと思う。こんなお遊びのおまじない一つ考えるのもおぼつかない不自由な子だった。不自由というだけなら、消しゴムに誰かの名前を書いて祈っていた子と同じだけど、マイはそれ以上に意味もなく強い権威を求めて憚らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テレビや本で &lt;em&gt;正統&lt;/em&gt; だと紹介されている無駄に細かい作法にこだわるのがまどろっこしくて、そんなのに正解も間違いもない、と突っぱねるとマイは困った顔をした。だから、最初はただ言いくるめてやろうと思っただけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、目の前で一つ一つマイの主張する &lt;em&gt;伝統&lt;/em&gt; を解いて見せただけで、まさかあんなに驚くなんて。私のちょっとした嘘で、マイをつまらない常識の足場からこんな簡単に連れ出せるなんて。マイが隣の席から恐る恐る「ユミちゃん、それあたしもやっていい？」なんて尋ねてきたこと、今でも思い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マイの母親相手に三日遅れの七夕に連れ出す許可を取り付けたのも、マイにとっては魔法のように見えていたと思う。マイさんと一緒に自由研究で花火の形を観察したくて、昼に河川敷で花火をしたいんです、昼に花火をするのは子供だけでも十分に安全で……先に何度かマイの家に遊びに行っておいてよかった。突然家に来た子供が花火は安全だなんて言い出したら、しっかり警戒されて追い出されていたはずだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;花火を選びながら、いかにも頭が悪くなりそうな若者の遊びに出かけていいですかなんて、そんなのバカ正直に言うからみんなと遊べないんだよ、と教えてあげたけど、マイはピンときていないようだった。でも、あんな広いだけで何もない家で育ったら、ただまっすぐなだけの子に育つのも無理はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、マイはまっすぐなだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、本当はマイと同じ大学に行くはずだった。マイが私とそう約束したから。でも、可愛い娘を遠くに行かせるのは心配だというくだらない親のこだわりで、結局マイだけが一回りも二回りもレベルを下げた県内のパッとしない私大に進むことになってしまった。女に学問はいらないんだって、と両親と姉の三人から言い聞かせられたと告げるあの時のマイは、裏切られた私の悲しみをぶつけるにはあまりに小さくて弱々しかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大学卒業までの何年か親をごまかすくらい、私に相談してくれれば簡単だったのに。そんな負け惜しみを伝えられないまま、マイと私は新幹線のホームで抱き合って別れた。それから――きっかけはどうあれ――私と離れてあのキョーカイ女とよろしくやっていたんだから、やっぱり私にとっては裏切りと変わらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きだったものを供えるとか、お香を焚くのは定番だけど……それはどう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもね、お墓の場所は教えてもらえなかったの。それに、あんなに嫌ってた場所に閉じ込められてるミナトにお線香を上げても、ちゃんと供養になるのか分からなくって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは違うんじゃない？　だって、あのお墓にいるのは水上さんで、マイが一緒にいたのはミナトさんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、見方を変えればミナトさんはまだ誰にも供養されてないって言えるかもね、と呟いてみせると、マイはまた驚いた様子で、しかし今度はスマートフォンをしっかり握ったまま息を呑んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ……お母さんが連れて帰ったのはカズちゃんの身体で、ミナトのことはまだ……私がやらないといけないんだ。ねぇ、ユミ。どうしたらいいかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……はぁ⁉　マイの言葉を聞いて反射的に振り上げた私の拳をぐりぐりと飲み込んだクッションが、勢いを吸収しきれず床にすり潰されて私の代わりに悲鳴を上げる。マイもマイで素直すぎるのだ。あんな家族と宗教に縛られて死んだだけの女を、優しくカズちゃんなんて呼ばないで。水上なんかにマイはもったいないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、水上はマイとどういう関係だったのか。そう尋ねるのは簡単だけど、答えによっては電話先でもごまかせないほど動揺してしまうかもしれない。そう……少しずつ、少しずつ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……じゃあ、私たちでお墓を作ってあげるのはどう？　マイとミナトさんだけのお墓を立てて、もう一回お葬式をして、ちゃんとミナトさんを見送ったらどうかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お墓？　でも、もうお骨は収められちゃったし、そもそもどこにあるかも分からなくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいんだよ、別に。遺品を依代にするのも儀式の一つなんだから。神道では遺品を霊璽にすることもあるしね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなんだ……うん、それなら私でもできそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;嘘はついてない。本来は白木の柱で作った霊璽に魂を宿らせる儀式で、代わりに遺品がその役目を引き受けることがあるという。マイが適度な権威や伝統に弱いことは知っていた。だって、私の儀式はそうやって作られていて、世界を書き換えるエネルギーの源だから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミナトさんが使ってたもの、ミナトさんからもらったもの……なんでもいいよ。マイは何か持ってない？　それを核にしてお墓を作ろうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、ミナトはよく制服……ブレザーの可愛いのを着てたの。そうね……よく、東京の高校の子が着てるみたいな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校の制服？　思いもよらない答えにそう聞き返すと、マイはまたあちこちに散らばる水上との思い出を語り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;担任の一面的な正義感、殊更に強調されるいじめの重大さ、悪魔のような同級生から娘を救いたい親心、その全てが不幸に噛み合ったおかげで、水上はもともと予定のなかった遠く離れた教団の中高一貫校に進学させられたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;卒業する先輩からのお下がりが伝統とされた質素でぼろぼろの制服、娯楽のない真っ白な寮、狭義が生活の隅まで入り込む厳しい日々……そんな環境でも明るく笑顔の同級生に囲まれて数ヶ月が経ち、水上は徐々に自分が置かれた状況に疑問を持つようになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだ。あれもこれも、私が「キョーカイちゃん」だなんてあだ名を付けられたせいだ。あの担任が勝手に大騒ぎしなかったら。ママがこんな宗教に入っていなかったら。水上は次第に周囲への恨みを募らせると同時に、自分が謳歌するはずだった空白の六年間を取り戻す計画を立て始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その一つが、教団と関係のない大学に進んで、憧れの制服を着ることだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マイが語ったのはおおよそこういう事情だった。制服で講義を受ける、制服で遊びに行く……水上はそういう自分の人生に対する報復に固執していて、あろうことかマイにも制服を着るよう頼み込んでいたという。本当に許せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、マイはミナトさんの制服持ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。実はね、ミナトが死ぬ前の日にお揃いの制服をくれたの。自分のと一緒に。預かっててほしいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあさ……その制服で、ミナトさんのお墓を作ってあげようよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お揃いの制服……そうそう、こういうのだ。屋上に靴を置いていくみたいに、自分の痕跡を誰かに託す投げやりな願い。水上はマイに形見でも残そうとしたんだろうけど、そんな布きれ一つで吹き飛ぶ人生なんて私の敵じゃない、と思った。こういうのはもっと、相手の身体を、心を切り刻んでから死ぬものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すばしっこく現世を逃げ回る「ミナト」の姿を消し去るには、これが一番早い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉をじっくり噛み締めてから「やっぱり、ユミってすごいね」なんて呟く電話先のマイの声は、やっと救いが得られたとでもいうように、ずっと背負っていた重荷が魔法で軽くなったみたいに、明るくて軽やかだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ミナトは傷だらけの子だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同期にアイドルみたいな服で講義に来ている子がいる、と嘲笑混じりに語る噂を聞いたのは、大学に進んで初めてのゴールデンウィークが明けた日のことだ。オリエンテーションで同じグループだったのがきっかけで、一緒に学食に行くようになったゴシップが好きな子。顔は少し覚えてるけど、名前はもう忘れちゃった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;服なんて何を着たっていいのに、とユミなら言い返してくれる気がする。ユミのことだから、豪華なドレスで講義に行くくらい平気な顔でやってしまうかも。これも一種の儀式だよ、なんて笑い飛ばして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、私はその子のことが少し気になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その日は、えーと……ゴシップちゃんが自主休講の日で、久しぶりに一人で過ごす昼休みだった。五月の第二食堂は、サークルで知り合ったらしい先輩と後輩がごちゃ混ぜのグループとか、ゴシップちゃんみたいな子が高速で会話を繰り広げるテーブルとか、初夏の気配に当てられた浮足立った空気でいっぱいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな騒がしさの中で、日当たりのいい窓際の一角だけが波が引くように静かだったのをよく覚えてる。そこにいたのがミナトだったから。アイドルみたいな服の子。噂の制服の子。紺のブレザーにチェックのスカート。確かにそれは、私たちが今いるキャンパスの風景からはふわりと浮いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、制服ちゃん――ミナトは当たり前のような顔でパスタランチを口に運び、ゆっくりと水を飲む。何かの撮影でもなければ、誰かの視線を気にしているわけでもない。そこで自分の昼休みを過ごしているだけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここ、座ってもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミナトが座るテーブルに向かったこと、突然話しかけたこと……あの時どうして私の身体がミナトに向かったのかは、もう思い出せない。でも今振り返ると、大学食堂に高校の制服で出入りするその姿に、きっとユミの気配を感じていたんだ。儀式を作るのが上手なユミ。儀式のためならどんな障壁も気にしないユミ。もしかしたら、この子もユミに似てるんじゃないかと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が声をかけると、彼女はフォークを止めて顔を上げた。不安と警戒心で強張った瞳。じっと見下ろされて後ずさりする野良猫みたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……他のテーブルも空いてるけど。私のこと、笑いに来たの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん。その制服、すごく可愛いなって思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;半分はちょっとしたお世辞、でももう半分は本心だった。彼女は面食らった顔をして、それからゆっくりと、強張っていた肩の力を抜く。傷だらけの野良猫なら、ちろちろとミルクを舐めるみたいに。少しずつ彼女の縄張りが狭まって、私はそれに合わせて距離を詰めるように席に座った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ありがとう。これ、本当は高校の時に着たかった服なんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが、私とミナトの最初の会話だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は自分の名前をミナトだと名乗った。水上和子……カズちゃんと呼ばれていたのだと教えてくれたのはもっとずっと後のことで、でもあれがどんな日だったかはもう覚えてない。答案か郵便物か、偶然見かけた名前を何気なくミナトに聞いてみたのは覚えていて、彼女は特に本名を知られても気にしていなかったと思う。本名なんてただの名前の一つで、私の友達は &lt;em&gt;ミナト&lt;/em&gt; だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミナトは少しずつ、でも昼食を食べるのも忘れて自分のことを話し始めた。きっとこんな話、今まで誰も聞いてくれなかったんだと思う。大好きだった家族のこと、それらを全て壊していった宗教のこと、灰色だった学生生活のこと、そうやって自分が &lt;em&gt;キョーカイ&lt;/em&gt; という狭い世界に閉じ込められていたこと。本当はこんな制服を着て、放課後にクレープを食べて、カラオケに行って、そんな当たり前を送りたかったこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分が今やっているのは、ただのコスプレなんかじゃない。奪われた人生をやり直すための復讐なのだと、ミナトは熱っぽく語ってくれた。昼休み終わりのチャイムが鳴っても二人の皿にはパスタが残ったままで、私たちは慌てて放課後の約束をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変だよね。大学生にもなって、中学生から遊び直したいなんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;講義後に再び顔を合わせたラウンジで自嘲して笑うミナトを見て、私は胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。そんなわけないでしょ、と思わず立ち上がって反論する私のことを、ミナトは不安そうな目で見上げて、そして気圧されるように謝った。別にミナトに謝ってほしいわけじゃなくて、私も少し涙ぐんだ声でどうにか彼女をなだめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;父が決めた習い事、母が選んだ洋服、厳格なだけの門限、その他明文不文の禁止事項のリスト……私の青春もまた、見えない檻の中で置き去りのままだ。だから私には、ミナトがこうして青春を取り戻そうとする気持ちがよく分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私にはユミがいた。逆に言えば、ユミがいたというだけだ。ユミは魔法使いみたいに、河川敷を儀式の場に変えて、私を連れ出してくれた。ユミが作った新しい儀式だけが、私の呼吸できる場所だった。溺れながらユミの手を握ってきらきらした水面に顔を出す……それが私にとっての青春だったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミナトが復讐と名付けた作戦は、一見するとただ二人で遊びに出かけるだけの平和なものだった。駅前のクレープ屋で一番カロリーの高いメニューを頼むこと、カラオケで流行りの曲を歌うこと、市立図書室の自習スペースで並んで勉強すること。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中でもミナトが強くこだわっていたのは、ゲームセンターのプリクラだった。私服の私と制服のミナトが並んで笑顔でピースするキラキラの写真。肌は陶器みたいに真っ白に、目はぐりぐりと大きく、もっと丸く。慣れないタッチペンでスタンプを貼り付けたシールを手帳の裏に並べて、こうしてたくさん写真を残すのが、彼女なりの証明のつもりだと言っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミナトは私にも同じような制服を着てほしいみたいだったけど、結局最後までお互いその話はしなかった。大学生にもなってアイドルみたいな制服を着て出かける、というのは実際に向き合えばやはり恥ずかしいことだったし、ミナトも彼女自身の復讐に私を巻き込む勇気がなかったんだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局のところ、ミナトが描き出す儀式は、世界を書き換えるにはあまりに独りよがりで脆かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミの作る儀式は、現実を塗り替えてしまう圧倒的な説得力があったから。河川敷の石ころに呪いを込めて、何でもない一日を新たな祭日に変える、誰にも有無を言わせない言葉の力。ユミが「これがルールだ」と言えば、世界はそれに従った。私が彼女の手つきだけなぞっても真似できない魔法の力。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろんミナトにもそんな力はなくて、そうして青春のやり直しを繰り返していくうちに少しずつ、少しずつミナトはすり減っていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後の日のこと、今でもよく覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マイちゃん、前に地元の友達のこと教えてくれたでしょ。魔法の儀式を作ってくれる子のこと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミのことは何度か話したことがあったけど、ミナトは &lt;em&gt;儀式&lt;/em&gt; という言葉に抵抗があって、ユミのこともかなり警戒していた。ユミに教えてもらった儀式も、ミナトはどうも気乗りしなかった。最初の頃は、ミナトをユミに会わせれば何か変わるかもしれないと思っていたけど、ミナトの無意識にこびりついた宗教観と伝統の意識は予想以上に根深くて、捨て去れない心の奥底に残っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、唐突にミナトの口からユミの話が飛び出したのは、少し不思議だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その子なら、解けない魔法もかけられる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうだろう……でも、解けない魔法はないと思う。だからユミは、いっぱい儀式を考えてくれたんだよ、きっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあさ、もしも魔法が解けちゃったら、もう一回儀式をしてくれない？　マイちゃんになら、任せられるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どんな儀式をしたらいいのかな、とは聞けなかった。ミナトは私に制服を手渡して、そのまま姿を消してしまったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;助けられた人はまた別の人を助けるようになる、なんてよく言うけれど。どうやれば私はミナトを助けられたんだろう。結局ユミの真似しかできなかった私に、彼女の手を引く資格があったのかな。ミナトが制服を残していなくなった今でも、時々そんなことを思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;その日はできるだけ黒い服を着て集まる約束をして、マイが通っていた大学の最寄り駅に終電で集まることにした。今から、水上をこの世から完全に消し去るための長い夜が始まる。わざわざ新幹線に乗って、さらにシートの固い在来線で数十分かけてここまで来たのだ。こんなつまらない &lt;em&gt;儀式&lt;/em&gt; のために。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、マイがどうしても水上が生前住んでいた場所の近くで見送りたい、と言い出すのだから仕方なかった。これは水上を消し去るためだけの儀式じゃない。マイに別れを納得させるための強力なおまじないだ。マイが少しでも私を怪しめば魔法は解けてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、こうして酒の飲み方一つ知らないような大学生が騒がしく闊歩する駅前でマイを待つことにも、当然意味があった。意味があるからこそ、この時間は本当に隅から隅までつまらないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユミ……だよね。久しぶり。元気だった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、おかげさまで。ちゃんと会うのは久しぶりだね、マイ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きく膨らんだ新品の紙袋を抱えたマイが、綺麗な黒のワンピース姿で私の前に現れた。何度も電話越しで話していたマイは、最後に会ったあの日よりずっと大人になっていた。同じ黒い服のはずなのに、トレックパンツにフリースジャケットを羽織った私の格好とは大違いだ。そういえば、どうやって &lt;em&gt;お墓&lt;/em&gt; を作るかを教えていなかったっけ。爆ぜた火の粉で穴が開かなければいいけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;懐かしさと一緒に湧き出るのは、マイに裏切られたという冷たく暗い意識。だって、五年も待ったのだ。人生で一番自由で、一番楽しいはずの時間を全て水上に奪われて、今でも水上は目の前で――マイの中に生きている。そんなの許していいわけがない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マイは既にこの祭祀の気配にすっかりのめり込んでいて、久しぶりの再会だというのに重苦しい空気が流れていた。何一つ興味のない水上との思い出話でも聞かされるのだろうと覚悟していたけれど、肩透かしだったらしい。私が質問して、マイが二言三言答える。そんな繰り返しを何度か続けているうちに、河川敷の天端に辿り着いた。砂利がちな河原は遊歩道の街灯の光がやっとわずかに届くほどの暗闇で、秘密の儀式を紛れ込ませるにはちょうどいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ。マイはその制服、着たことあるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ミナトがいなくなってから、家で一回だけ……あっ、ミナトの制服じゃなくて、私にくれた制服の方ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうなんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、マイが紙袋を大事そうに抱え直した。あぁ、聞くんじゃなかった。こんなもの、どうせ全部まとめて燃やし尽くしてしまうのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わざわざ綺麗な紙袋を買って殊勝な態度で運んだところで、こんなの中身はただの布切れだ。マイがこうして魂の抜け殻みたいに優しく抱きしめれば抱きしめるほど、儀式の意味が重く苦しく積み重なるのは分かっているのに。今すぐ紙袋を引き裂いて、擦り切れたスカートを、色褪せたブラウスをビリビリに破り捨てたい衝動がふつふつと湧き上がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その制服も、一緒にお墓に入れちゃうけど……平気だよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ……ミナトの制服でお墓を作るんでしょ？　私がもらった制服は、残しておきたい……かも。ダメなのかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、そっか。じゃあ、こう考えてみて。たった一人で旅立つミナトさんは、寂しいと思わない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……きっと、寂しいと思う。でもね、私だってミナトがいなくなったら――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――いなくなったら、何なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うるさい、うるさい、うるさい。やめろ。裏切り者のくせに、まだ水上の味方をするつもりなんだ。かわいそうなマイ。宗教に縛られていただけの弱い女に騙され続ける、素直すぎる子。私が連れ出してあげないと、夜空を一人で飛ぶこともできない子。きっと、私の手で目を覚ましてあげるから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミナトさんを安らかに見送るために、マイの一部をミナトさんに譲ってあげようって言ってるの！　マイ自身が一緒に向こうに行くわけにはいかないんだよ？　マイだって、そんなつもりないでしょ？　違う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユミ……急にどうしちゃったの？　ミナトの後を追いたいなんて、私思ってない。ちょっと……怖いよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、マイが私に……いや、ごめん。マイが本気でミナトさんを見送りたいと思ってるのか、分からなくなっちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まずい。興奮しすぎた。こんな言葉をまくし立てて、マイを困らせたいわけじゃなかったのに。私はその場に仰々しくうずくまって、どうしたらいいか分からない、とでも示すように返事を待った。マイならきっと、これくらいで &lt;em&gt;分かって&lt;/em&gt; くれるはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に合わせてしゃがむマイ。顔を上げてマイを見つめる私。マイの目は既に涙でいっぱいで、小さなまばたきでぽろぽろと溢れだした。そうだよね、マイ。これでいい。マイ自身がもっと儀式にのめり込めれば、それで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、ユミ。私、間違ってた。この制服はきっと、ミナトを見送るまで預かっていただけなんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、ちょっと供養のことで頭がいっぱいになってたかも……ごめん。あのさ、よかったら……ミナトさんの制服、先に少し見せてくれない？　きっと、河川敷に降りたら分からなくなっちゃうから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マイが重々しく頷く。冷たい街灯の光の中でがさがさと乾いた音が響いた後、意外にもしっかりしたブレザーの整った布地がぼんやりと浮かび上がる。さらにチェックのスカート、白いブラウスが丁寧に畳まれたまま手渡された。マイが言っていた通り、それはどこにでもありそうな、でもだからこそ記号的な高校生の象徴だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水上和子。ミナト。嘘も本当も知らない私の敵。節分も七夕も自由に操れない女。あぁ、あんたが死んでくれて本当によかった。あんたが残したくだらない未練が、またこうして私とマイの絆を繋いでくれたんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ありがとう。そして……さよなら、キョーカイの子。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ユミはあっという間に小さな焚き火を組み上げて、最後に上からぱらぱらと黒い粉を振りかけた。これで準備は終わりと言うように振り向いたユミの背後で、青・緑・紫……ただの炎にしては鮮やかで眩しい光が揺れ始めた。本当に魔法みたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の役目は、ミナトが安心して旅立てるように祈り続けること。ミナトの全部を受け入れて、許してあげること。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その役目を全うするために、私は紙袋から取り出した二着の制服を胸に抱えて、七色の炎に向かって歩き始める。紺色の布地が紫や緑の光に当たって揺らめいた。この制服の重みは、私たちがやり直した青春そのものだ。ミナトの短い復讐はまだこの中に眠っていて、ここに形がある限りミナトはどこにも飛び立てない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;焚き火の前にしゃがみ込むと、ぱちぱちと火花が弾ける音と一緒に乾いた熱が顔を撫でる。この中にミナトの制服を入れてしまったら、もう戻れない。ミナトは私に何を託してくれたんだっけ。本当にこれでいいんだっけ。そんな迷いで頭がいっぱいになって、じっと炎を見つめて動けない私のために、ユミは横に並んで手を握ってくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マイ、怖いんだよね。でも、ミナトさんにさよならを言わないと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お葬式ってね、本当は生きている人のためのものなんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミナトさんはもうどこにもいないけど、マイはちゃんとここにいるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから祈ってあげて、もっと。ミナトさんのために」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだった。私はミナトを送り出すためにここにいるんだ。ミナトにさよならを言わないと、この儀式は終わらないんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はミナトの制服を握りしめて、そっと七色の焚き火に差し出した。ブレザーの襟がジュッと小さな音を立てて溶け始める。スカートの裾がぱらりと落ちる。ブラウスが黒い焦げで覆われていく。少しずつミナトの存在が糸になって解けて、炎に飲み込まれていった。ミナトが溶けていく。そんなほんの数秒の映像が、私の目に強く焼き付いて離れない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そっか、ミナトはもう戻ってこないんだ――と呟くと、私は自然と七色の炎から手を引いて立ち上がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;放り出された制服が焚き火の真ん中に落ちる。鮮やかな炎が一瞬だけ窒息したように暗くなって、しかし次の瞬間、ボウッと大きな音を立ててさらに高く燃え上がった。見覚えのあるブレザーの金ボタンが、熱に耐えきれずにパキッと割れて弾け飛ぶ音がする。もうミナトの制服は、溶け落ちた丸い炎の塊になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミが「頑張ったね」と言って私を後ろから抱きしめる。次はユミが焚き火の前に立つ番で、私はその後ろから燃え上がるミナトに祈りを捧げ続けることになっていた。ユミに言われたとおり、正しい手順で。このお葬式を本物にするために。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ありがとう。さようなら。大好きなミナト。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのね、青春をやり直したいって強く思う気持ち、好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、ちょっと意見が違ったくらいですぐ「ごめん」って謝るところ……嫌いだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プリクラで一生懸命ポーズをとるところ、好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミが考えてくれたお屠蘇を飲んでくれなかったこと……嫌だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一番高いクレープを頼んで笑った顔、好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界を操る力もないのに頑張りすぎるところ……ちょっと、好きじゃなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好きなところと嫌いなところを交互に唱えてあげる。これがミナトの全部を受け入れることだって、ユミが教えてくれた。いいことだけじゃなくて、悪いことも思い出してほしいって。最初は半信半疑だったけど、等身大のミナトを思い出すと確かに少し安心した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミが焚き火の上から新たな線香をくべる。ぱちぱちと音を立てる焚き火の白煙に混ざってもくもくと立ち上るのは、ビニールが溶ける鼻につく匂いと、髪の毛がちりちり燃えたときの沈み込むような匂い、ミナトが好きだった真っ青な海の匂い。 &lt;em&gt;儀式&lt;/em&gt; のために投げ入れた線香の煙がそれらを絡め取って上へ、上へと進んでいった。その一つ一つが、この単なる野焼きを本物のお葬式に昇華させていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――嫌いだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――――。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はユミの後ろからじっと祈りを捧げていた。ミナトに本当のさよならを言うために。目を閉じると空気が震えて渦を巻く低い音が流れ込んできて、耳を澄ませると誰かの声が浮かび上がってくる気がする。そうだ、この向こうにきっとミナトがいるんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――嫌いだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後まで私を信じてくれたこと、すごく嬉しかった。ミナトのこと、本当に好きだったよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう呟いて顔を上げると、焚き火の前に立つユミが空を見つめて笑っている。風の音に交じって聞こえるかすれたような笑い声につられて、いつの間にか私も笑っていた。もちろん、楽しかったわけじゃない。あはははは、と声に出すともっと涙が溢れてきた。七色の炎が目に染みた。でも、これが本当の儀式だと思った。これが彼女を見送るための奏上だと信じていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の祈りは空が徐々に白むまでずっと続いて、その間もユミは薪と線香をくべて炎を絶やさなかった。私たちの一番長い儀式が、新しい朝と共に終わろうとしていた。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ザ・ゲームブックシリーズ 人形を操る魔女事件</title><link href="https://ama.ne.jp/post/kiminami/" rel="alternate"/><published>2025-03-04T20:53:00+09:00</published><updated>2025-03-04T20:53:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-03-04:/post/kiminami/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ふしぎ体験 キミ＆ナミ&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;h2 id="1107"&gt;1～107&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;/* この作品は「ふしぎ探検キミ＆ユメ ～消えた人形事件～」を元にしたファン・フィクションです。作品の公式設定を追加または削除したり、置き換えたりするものではありません。 */&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="108"&gt;108&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;きみの名前は、 &lt;strong&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;渡守&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わたもり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;希美&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;&lt;/strong&gt; 。通称 &lt;strong&gt;「キミ」&lt;/strong&gt; だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本が好きで、遊ぶことも好き、元気が取り柄の、ごく普通の四年生だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、町のあちこちで人形がひとりでに姿を消してしまった「消えた人形事件」が解決してから１か月くらいが経った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの事件は、駅前広場のからくり仕かけ時計にある人形の城で起きていたんだ。そこでは、人形たちの無念さや悲しみから生まれた〈人形の王〉が、捨てられた人形たちを集めて〈人形の王国〉を作ろうとしていた。でも、きみが〈人形の王〉を説得したおかげで〈人形の王国〉と人間の世界が共存できるようになって、町は平和を取り戻した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれから、きみが解決しなきゃならない事件はまだ起こっていない。きみと一緒に「ふしぎ探検団」として事件を解決した神さまの「ユメ」は、今もきみの部屋に居座ったままだ。ユメの力でしゃべるようになったきみのスマホ「ツクポ」も、ふしぎなことが起こらないせいで少し退屈そうに見える。いや、事件なんて起こらない方がいいんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（PDF版で遊ぶなら、&lt;a href="/appendices/kiminami/kiminami.pdf"&gt;ゲームブック&lt;/a&gt;をダウンロードして印刷しよう）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（このまま遊ぶなら、ほかの章を読まないようにして、&lt;a href="#110"&gt;110&lt;/a&gt;へ進もう）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="109"&gt;109&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ナミさんはきみの返事を聞いて「ありがとう、キミちゃん。嬉しいわ」と微笑んだ。それから、部屋の隅に置かれていた三脚をベッドのそばに立てて、撮影の準備を始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、まずは仰向けに寝てね。両手は横に置いて、リラックス。私が直接動かしてポーズを変えるから、自分では動いちゃダメよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはナミさんに言われた通り、ベッドの真ん中に寝そべった。ふかふかの枕が柔らかい。ナミさんがきみの右手を少し頭の方に持ち上げるのに合わせて、きみは右腕の力を抜く。「痛くない？」と尋ねられたきみは、人目を盗んで夜に動き出す人形になったつもりで、とても小さくゆっくりと頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみが頷くのを確認したナミさんは、持ち上げたきみの手の指先を包み込むようにきゅっと丸めた。そして、左腕も同じように優しい手つきで包み込む。自分の身体なのに、きみは両腕にかかった力を自由に押し戻せなくなっていく気がした。でも、腕から力が抜けてだらんと落ちてしまうわけでもない。ナミさんがきみの身体に直接与えた指示を、きみの身体は忠実に守ろうとしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、きみのポーズを一通り整えたナミさんは、カシャッと一枚目の写真を撮った。自分で動かせなくなった両腕を写真に収められると、きみはなんだか恥ずかしいような、怖いような気分になる。でも、優しいナミさんになら、きみの身体を任せてしまってもきっと大丈夫。それに、人形を操るのだってよく慣れているはずだ。きみは張り詰めていた気持ちを追い出すように、ゆっくりと息を吐いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからナミさんは、きみの左足をちょっとだけ曲げて、またカシャッ。左足を戻したら、右足も同じような動きを繰り返す。ストップモーション・アニメーションなら、今はきっときみはベッドの上で歩いているはずなのに、ナミさんに触られたところからどんどん自分の意思が抜けていく。きみはいつの間にか、その感覚が心地よくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#120"&gt;120&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="110"&gt;110&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「あら、人形になる夢を見るの？　私も小さい頃に見たことがあるわ。とってもすてきねえ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは、「消えた人形事件」の調査中に出会った人形アニメ作家のナミさんの洋館にいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;町の平和とは裏腹に、きみは最近ふしぎな夢を見るようになっていた。きみが〈人形の王〉を説得するのに失敗して、小さな身体のまま人形になってしまう夢だ。でも、〈人形の王国〉には学校も宿題もないし、ずっとゴロゴロしていても怒られない。そんな楽な生活に身を任せているうちに、きみは自分が人間なのも忘れてしまって……いつもそこで目が覚める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このふしぎな夢を見た後は、きみはしばらく手足が動かなくなってしまう。もしこのままたくさんの人形が押し寄せて〈人形の王国〉に連れ去られたら、抵抗できないまま人形に変えられてしまうかもしれない。そう思うと、きみは少し怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはユメにそのことを話したけど、ただの夢の話だからとまともに取り合ってくれなかった。ツクポもやはり事件は何も起こっていないと言っているし、やっぱりきみの〈人形の王国〉の記憶が形を変えて夢に出てきただけかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それで、きみはナミさんに自分が見ている夢について話すことにした。ナミさんは前に夢占いを勉強していたことがあるらしい。本棚から月や星座が描かれた綺麗な本を何冊か取り出して、夢に人形が出てくる意味について教えてくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……でも、人形になる夢って、あまりいい意味じゃないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんは本に書かれた夢の解説をいくつか読み上げてくれた。自分が操られているような感覚や、感情を出せなくなっているとか、強いプレッシャーを感じているとか、そんな意味があるらしい。どれもきみの気持ちをぴったり言い当てているようには思えないけど、少しだけ思い当たることがあった。それは、ユメのことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神通力を使い果たしたユメは、一週間くらいは何もせずゴロゴロと横になっていたけど、力が回復してからはそれも飽きてきたらしい。おやつや漫画を欲しがったり、ツクポに話し相手になってもらうくらいはいつものことだけど、最近は部屋で宿題をしているきみの邪魔までしてくるようになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日だって、きみの宿題なんておかまいなしで話しかけてくるユメから逃げて、この人形館までやってきたのだ。きみはユメに「そんなに退屈ならお社に帰ってよ」とでも言い返したくなったけど、そういうわけにもいかない。神さまにあんまり悪口を言うと罰が当たりそうだし、ユメの力に助けられたのも一度や二度ではなかったからだ。ひょっとすると、これがきみが感じている強いプレッシャーってことなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その気持ちにちゃんと向き合えば、きっと解決するわ。リラックスしてね、キミちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#111"&gt;111&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="111"&gt;111&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;人形館に来たきみは、やっとのことで今日の宿題を終わらせた。ふと、壁にかかったレトロな振り子時計を見上げると、すっかり夕方になっている。人形館の部屋は、飾られた人形が日に焼けないように昼でもしっかりと遮光のカーテンが引かれているので、時計を見るまで気付かなかったようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カーテンの隙間から外を覗くと、もう空は夕暮れを深く飲み込んで暗くなっていた。住宅地の外れにあるこの洋館の周囲は、通学路に比べてとても街灯が少ない。家まではほんの10分ほどの距離でも、ふつうの四年生がこの暗い中を歩いて帰るのはちょっと危険かもしれない。前に夜中の12時の公園に行ったことはあるけど、あれだって人形の謎を追うために夢中でやったことで、本当は危ない行動なのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしよう、と思ってきみが外を見つめていると、ちょうど別の部屋で人形のお手入れをしていたナミさんが戻ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねえ、キミちゃん。そろそろお家に帰らなくても大丈夫かしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カーテンを閉じて振り向くと、ナミさんは少し申し訳なさそうにしていた。たぶん、ナミさんも作業に夢中できみが何時に帰るか尋ねるのを忘れていたのだろう。きみは心配ごとをずばり言い当てられたような気がして、悲しくもないのに急に涙がこみ上げてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは慌てて涙を拭く。ナミさんは、きみが泣いていたことには気付いていないみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「外も暗くなっちゃったし、お家まで送ってあげましょうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言われたきみは、さっきまで窓の隙間から見ていた洋館の暗い庭のことを思い出す。人形館の庭はよく手入れされていて、昼のうちはこぢんまりとした静かなイングリッシュガーデンという印象だった。しかし、今は暗がりで揺れる草花や、つるバラが巻き付いた鈍い輝きを放つロートアイアンのアーチから、なんだか不気味な雰囲気が漂っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつもなら、あれだけふしぎな事件を解決したきみにとっては、なんてことない風景のはずだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉もちょうど学校で習ったばかりだった。でも、目尻に残った涙に気持ちが引きずられてしまったせいか、きみはどうにも心細くなってしまう。たとえナミさんと一緒だとしても、今はあの庭を通りたくないと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしユメがそんなきみの姿を見たら、「キミさんや。気持ちを強く持たねばならぬぞ」なんていばって言うかもしれない。でも、ユメはきみの部屋でまだ昼寝でもしているだろう。人形館にいる間は、いつもはよくしゃべるツクポも黙ったままだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、きみは……？&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;ナミさんにまだ帰りたくないと言う（&lt;a href="#112"&gt;112&lt;/a&gt;へ）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;ナミさんに家まで送ってもらう（&lt;a href="#114"&gt;114&lt;/a&gt;へ）&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="112"&gt;112&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;きみは、もう少しここにいたいとナミさんにお願いした。夜が心細いからと言い出すのは恥ずかしかったから、きみは &lt;em&gt;お姉ちゃん&lt;/em&gt; のユメとケンカして飛び出してきたのだと嘘をついた。でも、ユメの方がずっと年上だから、お姉ちゃんと呼んだってまちがいではないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そうなの。じゃあ、今日はここに泊まっていく？　でも、お家の人にちゃんとオッケーをもらってからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして、ナミさんはきみが人形館に泊まってもかまわないと言ってくれた。有名な人形アニメ作家さんの洋館に泊めてもらうと言えば、きっとお母さんもびっくりするはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはユメの顔を思い浮かべる。彼女がきみの部屋に来てからは、毎日顔を合わせることになった変な神さま。でも、ふしぎな事件を解決した今はまるでわがままな妹……いや、お姉ちゃんができたみたいで、ちょっとだけ嫌気が差していた。だから今日くらい、ユメから離れて過ごしたって罰は当たらない。きっとそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう自分に言い聞かせたきみは、ツクポでお母さんに電話をかけた。お母さんに自己紹介するナミさんはなんだか緊張していて、後で聞いたら電話が苦手だって言っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#113"&gt;113&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="113"&gt;113&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;きみは人形館でお風呂を済ませて、脱衣所でナミさんが用意してくれたパジャマに着替えた。襟元に白いレースとリボンがついていて、さらには袖と裾にフリルがたっぷり盛られた水色のワンピースだ（だからネグリジェと呼ぶ方が正しい）。きみが普段着ているセパレートの薄いパジャマとはちがって、ほんの一歩前に歩くだけでふわふわと裾が揺れる。まるでお姫様になったみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきまで着ていた服はもう洗濯機の中でぐるぐる回っている。放っておけば１時間くらいで乾くだろう。きみが知らない匂いの柔軟剤で包まれると、どこか遠い場所に来てしまったような気持ちになった。初めて人形館に来たときも、人形を操る &lt;em&gt;魔女&lt;/em&gt; がいるこのふしぎな洋館が、まるで山奥の古いお城のように見えたものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、この洋館に暮らしているのはナミさんだけなのに、きみにぴったりサイズのパジャマが置いてあるのはどうしてだろう。服の雰囲気はナミさんが着ているゆったりしたローブに似ているけど、きみより20センチメートルくらい大きい大人のナミさんの身長ではもちろん丈が足りない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、おろしたての新品というわけでもなさそうで、きみは誰がこのパジャマを着ていたんだろうと首をかしげた。これもナミさんの &lt;em&gt;魔法&lt;/em&gt; なのだろうか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;着替えを終えて洋館の奥にあるスタジオに向かうと、ナミさんはまだ仕事を続けていた。きみが初めて人形館に来たときと同じように、広いテーブルに置かれた人形の位置を変えたり、手足の向きを細かく調整したりしている。ふしぎな魔法……ストップモーション・アニメーションの撮影だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはナミさんに後ろからそっと声をかける。女の子の人形をテーブルに置いて振り向いたナミさんは、きみのパジャマ姿をしげしげと見つめた。その目線になんだか緊張したきみは、思わず背筋をぴんと伸ばす。それからナミさんは、嬉しそうに微笑んでこう言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、キミちゃん。よく似合ってるわね！　小さくなかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは両手を広げて示しながら、ちょうどよいサイズだと答えた。それから、どうして人形館に子供用のパジャマが置いてあるのかを尋ねると、ナミさんは一瞬きょとんとした顔をしてから、「そうよね。確かに、まるで魔法みたいよね」と楽しそうに笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「たまに親戚の子が遊びに来るの。だから、いつ来てもいいように小さなお客さんのパジャマを用意してるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう答えたナミさんは、残っていた仕事を終えてからスタジオの片付けを始めた。テーブルの上に薄く透き通った布のカバーを被せたり、スマートフォンを台から下ろしたり、使い終わった小物を棚に戻したりと忙しい。きみもナミさんを手伝おうと辺りを見回すと、作業机近くの床に何枚かメモが落ちているのに気付いた。きっと、ナミさんが撮影中に落としたまま忘れてしまったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは、ナミさんが落としたメモを５枚ほど拾い集めた。小さなリングノートから切り取られた紙に、鉛筆でイラストや文字が書き留められている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふとメモを一枚だけ見てみると、そこにはなぜか、きみが着ているネグリジェと同じような服の人形のラフスケッチが描かれていた。そして、手足に沿って動きを表すような矢印が引かれている。その人形はふかふかのベッドの上に寝そべっているけど、ひょっとして布団の上でダンスでも踊るのだろうか。きみはナミさんがどんなアニメを撮るのか知りたくて、ほかのメモもこっそり読みたくなってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、きみは……？&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;ほかのメモは読まずにナミさんに渡す（&lt;a href="#115"&gt;115&lt;/a&gt;へ）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;ナミさんに気付かれないように、ほかのメモも読む（&lt;a href="#116"&gt;116&lt;/a&gt;へ）&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="114"&gt;114&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;きみは迷った末に、ナミさんに家まで送ってもらうようにお願いした。いくら外が怖いからって、いつまでも人形館に居座るわけにはいかない。そろそろ帰らないとお母さんも心配するだろう。それに、子供っぽいわがままでナミさんを困らせたくはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、玄関までの足取りが重い。人形館の暗い庭を映す掃き出し窓の冷たさは、初めて〈人形の王〉の部屋に行ったときのおどろおどろしい雰囲気によく似ていた。きみは身体がぶるっと震えて、靴を履いたままその場に立ち尽くしてしまう。きみの足取りが重くなっているのに気付いて、ナミさんがそっと手を握ってくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは大きく深呼吸をしてから、目をつむったまま外へ飛び出す。おそるおそる目を開けると、窓越しに見ていた洋館の庭が目の前に広がっている。風が頬を撫でて、庭に生える草花が昼間と同じように揺れているだけだと気付いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、なぜかさっきまできみを支配していたはずの不安がするりと消えてしまう。人形館から見ていた景色とはちがって、外に出てみると普段の夜と何も変わらなかったからだ。どうしてこんなのが怖かったんだろう、ときみは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#119"&gt;119&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="115"&gt;115&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;きみは、ほかのメモにはどんなことが書いてあるのか気になったけれど、あまりじろじろ見てはいけないと思って、そのままナミさんに渡した。ナミさんはメモを受け取ると、描かれたスケッチに見覚えがあったようで、少し慌てた様子で中身を確認し始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、どこに落ちてたのかしら？　なくしたと思ってたから、助かるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみが作業机の下にあったと伝えると、ナミさんは納得した様子でメモを引き出しにしまった。それから、ほかにもメモが落ちていなかったか尋ねられたので、きみは机の下にはなかったと答える。ナミさんの様子を見るに、まだなくしたままのメモがあるようだ。でも、床にはもう何も落ちていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スタジオの片付けを再開したナミさんがしばらく棚の整理をしてから、最後にテーブルを照らす強いライトの電源を落とすと、辺りはすっかり薄暗くなった。部屋を照らすのは廊下から漏れる電灯の光だけで、スタジオの奥にある人形たちの棚はもう暗闇に包まれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ寝室に案内するわね。キミちゃんはいつも何時に寝るの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段なら、きみが寝るにはまだ早い時間だ。でも、慣れない環境に少し疲れてしまったのか、きみはほんのりと眠気に包まれている。家にいるときは、お風呂を済ませたらテレビを見たり図書室で借りた本を読んだりするけど、今日はそういう遊ぶものがないので退屈しているのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、きみはナミさんに導かれて寝室に向かった。二人で廊下を歩いていると、突然振り向いたナミさんがきみにこう尋ねる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきのメモ、もしかして中身を読んだりした？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひょっとして、ナミさんの重大な秘密が書かれていたのだろうか。きみは叱られないかちょっとだけ心配しながら、正直に１枚目のメモだけ読んだと伝えた。ベッドの上できみと同じパジャマを着た人形が踊っているスケッチ……なんて一つずつ口に出すと突飛な感じがするけど、まちがってはいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうそう。そのパジャマをモチーフにしたアニメを作ろうと思ってるのよ。新作のアイデアだから、秘密にしてね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみが慌ててうなずくと、ナミさんは安心した様子でまた歩き始めた。じゃあ、残りのメモにはアニメの続きが描かれていたのかもしれない。きみはパジャマの人形がどんな風に活躍するのか、少し気になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;寝室に着くと、部屋の真ん中に大きなベッドが置かれている。ふかふかの枕の横や、頭の上のベッド棚にも隙間なく人形が並べられていて、ナミさんは本当に人形が好きなのだと改めて実感した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「枕をもう一つ出しておくわね。キミちゃん、今日はもう寝ちゃう？　それとも、もう少しおしゃべりしましょうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、きみは……？&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;ナミさんとお話ししたいと言う（&lt;a href="#118"&gt;118&lt;/a&gt;へ）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;今日はもう疲れたので寝たいと言う（&lt;a href="#117"&gt;117&lt;/a&gt;へ）&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="116"&gt;116&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ナミさんはまだ片付けが終わっていないようで、きみが床の落とし物を集めていることにも気付いていない。きみは、ほかのメモもこっそり読んでみることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;２枚目のメモを取り出す。１枚目と同じパジャマを着た人形がベッドの上にいて、しかし今度はたくさんの兵隊人形がベッドを取り囲んでいる。書き込まれた矢印によれば、かれらはパジャマの人形の周りをぐるぐると歩き回っていて、逃げられなくなった彼女は今にも泣き出しそうだ。兵隊人形はこの子を捕らえるために来たのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今度は３枚目だ。兵隊人形の様子はさっきと同じだけど、真ん中にいるパジャマの人形の姿がちがっていた。ふつうの女の子と変わらない綺麗な顔だったのに、今は目の部分に四つ穴ボタンが縫い付けられているし、口も刺繍糸のステッチになっていて、一目でぬいぐるみだと分かるようになっている。もともと人形アニメのアイデアだから、登場人物が人形なのは当たり前だ。でも、どうして急に見た目を変えたんだろう……きみは気になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひょっとして、１枚目と２枚目の女の子は本物の人間だったけど、３枚目で人形に変えられてしまうというストーリーなんだろうか。ナミさんのメモだから人形が描かれているというのはかんちがいで、３枚目のぬいぐるみと見比べると普通の子供に見えてくる。まるで、水色のネグリジェを着た今のきみみたいに。人間が人形に変えられる……きみは、自分が最近見る夢によく似ていると思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんは何を考えてこんなメモを残したんだろう。もしかして、ウサギの人形から〈人形の王国〉の秘密を聞いたのかも……と４枚目を見ようとしたところで、きみがメモを読んでいるのに気付いたナミさんが後ろから声をかけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねえ、キミちゃん。それ、どこにあったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然の声に驚いたきみは、手に持っていたメモを床に落としてしまう。慌ててメモを拾い集めようとしたけれど、たどたどしく言い訳するのが精一杯で上手く身体が動かない。メモがひらひら舞っていて、どれから手を伸ばせばいいか分からなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんなさいね。驚かせる気はなかったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ナミさんが立ち尽くしたきみの代わりにメモを拾い始める。屈んだナミさんはきみと同じ高さの視線で微笑むと、きみを安心させるために優しく頭を撫でてくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変な夢を見たって言ってたでしょ。何かの役に立たないかと思って、忘れないうちにスケッチしていたのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、ナミさんにはきみが見たふしぎな夢の話をしたばかりだ。彼女はきみの夢に興味を持ってくれていたし、メモを残すのも変じゃない。それなら〈人形の王国〉の秘密を知らなくたって、このお話は書けるだろう。でも、目が覚めたばかりのベッドに人形が押し寄せる想像をして怖がっていることを、きみはナミさんに話したっけ？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミちゃん、お片付けを手伝ってくれてありがとう。もう遅いし、今日は寝ましょうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはナミさんに導かれて寝室に向かう。部屋の真ん中に置かれた大きなベッドの周りには隙間なく人形が並べられている。きみを〈人形の王国〉に連れ去る兵隊人形とちがって、みんな優しそうな表情の人形たちだ。ナミさんは本当に人形が好きなのだと改めて実感した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#117"&gt;117&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="117"&gt;117&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それからきみは、たくさんの人形たちに囲まれて眠りについた。夢占いで出ていた &lt;em&gt;プレッシャー&lt;/em&gt; がなくなったおかげなのか、人形になる夢は見なかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして次の日、いつもより少し早く目覚めたきみは、ナミさんが作ってくれたトーストとスクランブルエッグの朝食を食べてから、家まで送ってもらうことにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#119"&gt;119&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="118"&gt;118&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;きみは、まだ眠くないのでもう少しナミさんと話したいと言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、ナミさんは「じゃあ、ちょっと私のお話を聞いてくれる？」とベッドの端に腰かけた。それからナミさんは、棚に置かれたドレス姿のお姫様の人形を手に取って、ふりふりと人形の手を左右に振ってみせる。きみも隣に座って、ナミさんの話を聞くことにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ストップモーション・アニメーションって、動かない人形に命を与えるためのものよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ナミさんは膝の上の人形をさらにくるりと回した。まるで本当にお姫様が社交ダンスでも踊っているみたいに自然な動きだ。きっと、普段からこうして人形を動かして人形アニメの構想を練っているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、本当は自分で動けるはずの人間を使ってストップモーション・アニメーションを撮ったら、もっと斬新な表現ができると思わない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはナミさんの言葉を聞いて少し驚く。人間ならビデオカメラの前で動いてもらえばいいのに、わざわざ何枚もポーズを変えて写真を撮るなんて、確かに斬新なやり方かもしれない。でも、なんだか心のどこかに妙に引っかかるところがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、きみは少し考え込む……そうだ！　ナミさんが自分の手足を操って写真を撮る様子を思い浮かべたきみは、その違和感の正体に気付いた。まるできみが人形になってしまったようなその姿は、ナミさんに話したふしぎな夢の内容と同じだ。きみはナミさんに、そのアイデアが自分の見た夢と関係があるのか尋ねた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「察しがいいわね。キミちゃん、変な夢を見て不安になったって言っていたじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんはきみが夢の話を思い出したのが嬉しかったようで、お姫様の人形をまた左右に揺らしてみせる。きみがこくこく頷くと、ナミさんはさらに言葉を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それを自分で再現してみたら、不安が薄れるかもしれないわ。ごっこ遊びのつもりでね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かにきみは、あの夢の後で手足が動かなくなったのを思い出すたびに、なんだか重たくて怖い気持ちに包まれるようになっていた。でも、ナミさんが言うみたいに、それを遊びの一つに変えてしまったら、不安なんてどこかへ飛んでいくかもしれない。きみは自分の膝の上に手を置いてどう答えるべきか考えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょうど次のアニメにもベッドのシーンがあるから、私も試し撮りしたいのよね。キミちゃんがよければ、少しだけ試してみない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次のアニメというのは、たぶんさっきスタジオで拾ったメモのことだろう。どんなアニメができるのか、きみも気になっていた。ナミさんの新作アニメに協力できるというなら、それだけで面白そうだ。きみはナミさんの誘いに応えて「じゃあ、やってみる！」と元気に返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#109"&gt;109&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="119"&gt;119&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ナミさんと人形の話をしながら住宅地を歩いていると、すぐに家に着いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、ナミさんは玄関に出てきたお母さんとしばらく話してから、人形が描かれた角の丸いデザインの名刺を２枚取り出して、きみとお母さんに手渡した。きみとナミさんの出会いは突然だったから、名刺を渡すタイミングがなかったのだろう。お母さんは、近所にある洋館のことは知っていても、それが有名な人形アニメ作家さんの家だとは分からなかったみたいで、とても驚いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミちゃん。楽しい話を聞かせてくれてありがとう。また、いつでも来てね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはナミさんに手を振ってから、自分の部屋に戻った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「遅かったの、キミさん。どこで何をしておったのじゃ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;てっきり漫画でも読んでゴロゴロしているだろうと思っていたのに、ユメはきみの机に寄りかかって腕を組んでいた。なんだか機嫌が悪いみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神通力を持て余して退屈しているところに、きみもツクポも突然いなくなってしまったのだから、そう聞きたくなる気持ちも分かる。でも、きみが家を飛び出して人形館に行ったのはユメがしつこく話しかけてきたからで、いくら神さまだからって許せないこともある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみも、宿題を邪魔されたときのことを思い出して「別にどこでもいいでしょ」とぶっきらぼうに返した。でもユメは、きみのちょっとした反撃など全く意に介さない。きみの答えを聞いて「おお、そうかそうか」と大きく頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「話したくないならそれでもよい。ただ、あの洋館にはもう行かないほうがよいのう。あの者からは何か不穏な力が……まぁよい。神さまからのありがたいお告げじゃ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い終えると、ユメは読みかけの漫画を抱えていつものクッションの位置に戻った。きみは人形館に行ったなんて言わなかったはずだけど、やっぱり神さまには全部お見通しなのだろう。でも、きみを人形館に行かせまいと、神さまのお告げだなんて大げさに言ってもきみには全然響かない。でも、ユメのそういう子供っぽいところは、なんだか憎めなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;（「近所のすてきなお姉さん」エンド）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（その後……&lt;a href="#122"&gt;122&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="120"&gt;120&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ベッドの上でストップモーション・アニメーションの人形役になったきみは、まるでナミさんに操られているように手足が動かせなくなっていた。きみが人形になってしまうふしぎな夢から目が覚めたときと同じような感覚だけど、きみは張り詰めた不安な気持ちではなく、ナミさんに自分の身体を任せる安心感でいっぱいになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次は、ちょっと顔を傾けてみようかしら。もう少し、動きを付けてみましょうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人形に話しかけるような口調のナミさんの声が優しく響く。きみはその声に答えて頷くのも忘れて、じっと天井を見つめて彼女が自分を操るのを待っていた。……というより、人形らしくベッドに寝そべり続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんの手がきみの頬に触れて、そっと頭を動かした。首の向きさえナミさんの言いなりだ。カシャッ。また一枚。視界が移って、天井の代わりにベッドに横たわる人形と目が合う。さっきまでナミさんが膝に抱えていたお姫様だ。真っ黒な目玉ボタンに電灯の光が差して、きらきらとした視線をきみに送っていた。「私もあなたと同じね」と言われているような気がして、きみは目が離せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッドに転がって動かないお姫様の人形を見ているうちに、きみはまるでその人形が自分と鏡映しになっているような気がし始めた。前に図書室で借りた怪談の本で読んだ、異世界を映すという鏡の話とおんなじだ。ひょっとしたら、きみはどこか別の世界ではもともと人形なのかもしれない……そう思うと、きみはなぜかだんだんお腹の辺りがむずむずしてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うずくような、くすぐったいような、変な感じがして、きみは思わず息を止めてしまう。きみが見ている夢が本当の世界で、実はきみは人形なのかもしれないって思うと、ドキドキが止まらない。ナミさんはそんなきみの様子に気付かないまま、真剣な顔で写真を撮り続けているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんはきみが足を上げるポーズを撮り終えると、「ちょっと待っててね」と寝室を出ていった。スタジオに何か必要な道具を忘れてきたのかもしれない。スマートフォンはきみに向けられたままだけど、シャッターが切られることはない。きみは急に息を止めていることを思い出して、首を傾けたまま慌てて息を吸って胸を上下させる。きみは人間みたいに身体が動くのがとても恥ずかしい気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これで面白いシーンになるかも。キミちゃん……あら、寝ちゃったのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんが寝室に戻ってきたけど、きみは横を向いているからまだその姿を見ることはできない。ナミさんはそれに気付いて「今は撮ってないから、顔を動かしてもいいのよ」と言ったけど、頑なに動こうとしないきみの様子を見て、ちょっと呆れたように笑いながらきみの顔をそっと正面に戻してくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみの視界にナミさんの姿が入る。ぼーっとした視線のピントをゆっくり合わせると、手には小さな兵隊の人形が何体か握られているのが分かった。赤と青の制服を着たプラスチックのおもちゃだ。ナミさんはにこにこしながら言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミちゃん、この兵隊に囲まれて身動きできない感じで撮ってみてもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは少しびっくりした。だって、目が覚めたばかりのベッドに人形が押し寄せる想像をして怖がっていることを、きみはナミさんに話したっけ？　でも、小さな兵隊に捕まるのはガリバー旅行記でも読んだことがあったし、案外よくあるアイデアなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみがまた小さく頷くのを見て、ナミさんはベッドの周りに兵隊の人形を並べ始めた。きみの腕の横に１体、足元に２体、頭の近くには３体。合わせて６体の兵隊がきみを取り囲んでいる。小さな兵隊たちは、まるでここに閉じ込めて絶対に逃がさないとでもいうように、きみの姿を見下ろしている。ナミさんが「続きを始めるわね」と言って、また写真を撮り始めた。カシャッ、カシャッ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;兵隊の人形に囲まれると、やっぱり夢から覚めたときの〈人形の王国〉に連れ去られるときみたいで、心臓がドキドキしてくる。指先から鼻の先まで、本当なら自由に動かせるのに、逃げたくても逃げられない感じが、やっぱりちょっとだけ怖い。きみは天井の一点を見つめてじっと我慢した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、ナミさんがきみの顔をそっと傾けて、カシャッ。また一枚。今度はお姫様じゃなくて、兵隊の人形がきみを見下ろしている。相手が人間か人形か見極めるような視線を浴びているうちに、きみはまたお腹の辺りがむずむずしてきた。ゆっくり息をしなきゃいけないのに、徐々に呼吸が荒くなる。それに、じわじわと身体の中が熱くなって、なんだかお腹に力が入らなくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……キミちゃん、なんか無理してない？　ちょっと休憩する？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんが心配そうにきみを覗き込むけど、人形の視線で頭がいっぱいのきみの耳にはその言葉は届かない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんは人形ごっこにのめり込んでいるきみを見かねて、急にきみの脇腹をくすぐってきた。全身から感情が抜けて動けなくなっていたはずのきみもたまらず「ひゃっ！」と大きく叫んで、ベッドの上で跳ねてしまう。動いちゃダメって言われてたのに、我慢できなくて笑いがこみ上げてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミちゃん、ごめんね。つい試したくなっちゃって。疲れちゃったみたいだし、ストップモーション・アニメごっこはここまでにしましょ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナミさんもきみにつられて一緒に笑っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;緊張が解けたきみはまだくすくすと笑いながら、ベッドに寝転がったまま息を整えた。お腹がむずむずした変な感じはいつの間にか飛んでいって、代わりにいっぱい笑った後のすっきりした脱力感が残っている。ナミさんはスマートフォンを置いて、起き上がったきみの横に座った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どう？　少しでも、不安な気持ちは薄らいだかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはうなずいて、ちょっと照れながら楽しかったと伝えた。ナミさんは満足そうに笑ってから三脚を片付けて、乱れたベッドを整え直す。普段ならもう寝ている時間を過ぎていて、きみはまた眠気に包まれて始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分が人形になるのを想像するとなんだか変な気分になるけど、不安や嫌な感じは消えていたし、きみはナミさんの人形になって暮らすなら悪くないかもしれないなんて思ってしまう。きみはまだ少しだけドキドキが残っている手足の感覚に身を任せながら、ベッドの中で目を閉じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="#121"&gt;121&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="121"&gt;121&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;朝になって、きみは人形館の寝室で目を覚ました。ごっこ遊びの効果があったのか、人形になる夢は見ずに済んだみたいだ。棚には昨夜きみを取り囲んでいた兵隊の人形が並んでいて、自分が人形になりきっていた姿を思い出すと、きみはまた少しドキドキした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おはよう、キミちゃん。よく眠れた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先に起きて朝食の準備をしていたナミさんが、目を覚ましたきみに気付いて声をかける。きみはぐっすり眠れたと答えて、ナミさんと一緒に食堂に向かった。ナミさんが作ってくれたトーストとスクランブルエッグの朝食は、焼き加減がちょうどよくてとっても美味しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはトーストをかじりながら、ナミさんに昨日感じたことを話した。また人形ごっこをやってみたいと言うと、ナミさんは少し驚いてみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、それならよかったわ。どういうところが楽しかったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみは少しだけ迷ってから、ナミさんが触れたところから身体の力が抜けていくのが楽しくて、そして安心したと照れながら伝えた。ナミさんはきみの言葉を聞いて、目を丸くしていたけど、すぐにくすくす笑い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ私は、人形だけじゃなくて人間を操る魔女かもしれないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わざとらしく怪しい笑顔を見せたナミさんに、きみもつられて笑ってしまう。ナミさんが魔女だとしても、こんな優しい人なら怖くないと、きみは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミちゃんがそんなに楽しんでくれたなら、よかったわ。またやりましょうね。次は一緒にアニメを作ってみましょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝ごはんが終わると、ナミさんはきみを玄関まで見送りに来てくれた。外はもうすっかり明るくなっている。人形館の庭も静かな朝の景色のまま。きみはナミさんに手を振ってから、家に帰る道を歩き始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;兵隊の人形に囲まれたときに感じたドキドキも、ナミさんにきみの身体を任せた安心感も、なんだか遠い夢みたいだ。今はこの気持ちを誰かに話すより、胸にそっとしまっておきたくなって、きみは軽く鼻歌を歌いながら元気な足取りで家に向かっていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;（「人間を操る魔法のお姉さん」エンド）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（その後……&lt;a href="#122"&gt;122&lt;/a&gt;へ）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="122"&gt;122&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「キミさんや、何か事件はないかのう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人形館から戻った後も、ユメは変わらず退屈そうだ。ずっと部屋にいるから、きみが持っているマンガも全部読み終わったみたいだし、誰も姿が見えないユメが一人でテレビを見ていたら、きっとつけっぱなしにしていると思われてお母さんが消してしまうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それならやっぱりお社に帰ればいいのに、という言葉をぐっとこらえて、きみは今日のおやつのクッキーを半分だけユメに渡した。ユメは「おお、感心感心」なんて嬉しそうに両手にクッキーを持ってから、今度はテーブルに置かれたオレンジジュースのストローに口を伸ばそうとする。クッキーを置いてから手に持って飲めばいいのに。こんなにだらけた神さまはきっとユメだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わしの力なら腕の二本や三本くらい生やせるわい。でも、今日は疲れたからこのままじゃ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユメがきみの注意に反発してそんなことを言い出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手が左右から二本ずつ生えているキツネのお面の神さまなんて、まるでゲームのモンスターみたいだ。たくさんの手にクッキーやコップを持つ、おやつの神さまみたいなユメの姿を想像して、きみは思わず吹き出してしまった。ユメはそれを見て「神さまを笑うなんてなにごとじゃ」とすねた顔をする。きみはひとしきり笑った後に「ごめんごめん」と謝ってから、今日の宿題に取りかかることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、キミさんが楽しそうなら、それでよいじゃろう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユメはそう呟いてから、両手のクッキーを交互に食べ始める。それか心底幸せそうなゆるんだ表情で「おいしいのう」とニコニコ笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうしてわがままな神さまのご機嫌を取っておかないと、宿題一つ終わらせるのも難しい。こんなことなら、いっそのこと町がひっくり返るような大事件でも起きてくれたっていいのにな。……いやいや、それは流石にダメでしょ！　まるでユメと同じようなことを考え始めたきみは、ぶんぶんと頭を振ってその考えをかき消した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……でも、事件が起きたらユメに怪しまれずに人形館に通うことができるかもしれないし、それはそれで悪くないかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きみはナミさんと過ごしたすてきな時間のことを思い出して、また人形館に行きたくなった。今度はクッキーでも焼いて持っていくといいかもしれない。そういえば、ジンジャーマンクッキーを作ったときの型がまだ残っていたはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;（今回のふしぎ探検「人形を操る魔女事件」……無事解決？）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（もう一度遊ぶなら、&lt;a href="#110"&gt;110&lt;/a&gt;へ戻ろう）&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>特殊な盆栽の取り扱いについて EXTRA</title><link href="https://ama.ne.jp/post/outage-of-l-menthol-2/" rel="alternate"/><published>2025-02-16T11:00:00+09:00</published><updated>2025-02-16T11:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-02-16:/post/outage-of-l-menthol-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ペパ裏（ペーパーの裏に書かれていた）&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/post/comitia151/"&gt;COMITIA151&lt;/a&gt;で配布された&lt;a href="/appendices/outage-of-l-menthol-2/comitia151.pdf"&gt;ペーパー&lt;/a&gt;に掲載されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「――あー、すみません。ちょっと分かんなくて……でも、たぶん面白いです！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どちらをお探しですか？　あ、催眠モノならこっちの箱にまとめてありますので」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上から「えらべる！同人誌詰め合わせセット」というラベルを貼った古い段ボール箱を差し出すと、大きなリュックを背負った黒いシャツの青年が小さく礼をする。それから、リズミカルな指使いで中に並んだ同人誌の列を繰り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鋭い目つきでタイトルや絵柄を素早く確認しているようだけど、こんな表紙が擦れて薄汚れた本のどこに注目する価値があるのだろう。私はアマチュアの同人文化には詳しくないから、同じ髪色の女の子は同じキャラに見えてしまう。だって、いま彼が必死に物色しているのは、もとは雑居ビルの裏に不法投棄されていた需要のない同人誌だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも私たちがこの地下フリマに出ることになったのは、イズミの部屋に透明な根を張った盆栽から採れる大量のメントール結晶を売りさばくためだった。もともとフリマアプリでメントール専用のストアを構えていたけれど、相次ぐ違法高額転売への対策でBANが相次ぎ、私たちのストアもあえなく売上没収の憂き目に遭ったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地下フリマならBANされることもないし安心……と思ったのも束の間。開催前日のイズミの部屋に、今こうして売られている同人誌の箱が大量に積まれていたのだ。どこから入手したのかというのも、さっき書いたとおり。拾ってきた本人に尋ねても「よく分かんないけど、売れそうだったから！」なんてあっけらかんと答えるだけだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これとこれと、これ……いただいていいですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。詰め放題なので、袋に入る分は自由に持ち帰ってください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんか、警察に見つかったらヤバいのもあって……やっぱ地下ってすごいっすね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まぁ……ちょっと伝手がありまして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;にこっと笑ったつもりだけど、きっと笑顔が引きつっている。自分たちが売っている中古本の内容まではしっかり確認してなかったけど、こうしてその道のマニアがこそこそ目を輝かせているなら、やっぱり &lt;em&gt;ホンモノ&lt;/em&gt; なのだろう。メントールの盆栽を拾ってきたときも実感したけど、イズミは面倒ごとを嗅ぎ分けて持ってくる能力が高すぎる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、あさひ。やっぱり持ってきてよかった。ちゃんと売り上げは半分こするからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お金を受け取ると罪になりそうだわ……はぁ、急に地下臨検が来ないといいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたしたちにはプルトニウム回収で身につけた逃げ足があるから、きっと大丈夫！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プルトニウム回収の裏バイトで廃工場や廃鉱を駆け回っていたのは、もう何年の前のことだ。分離槽の小さな隙間に隠れたり、複雑な瓦礫を飛び越えたりするあの感覚が爪先に走ることはもうない。それでも、イズミが私の手を引いて走ってくれるなら、逃げられないような窮地でもなんとかなるような気がした。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>AIは使わないでって言ったよね！</title><link href="https://ama.ne.jp/post/dont-use-ai/" rel="alternate"/><published>2024-12-25T21:25:00+09:00</published><updated>2024-12-25T21:25:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-12-25:/post/dont-use-ai/</id><summary type="html">&lt;p&gt;AIでワンタッチ記録改変&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この音声はVOICEPEAK 女性1で生成されており、&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。 */&lt;/p&gt;
&lt;video controls width="480" height="270" src="/images/dont-use-ai/dont-use-ai.webm"&gt;青いLEDで飾り付けられた木々が並ぶ夜の公園&lt;/video&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あのさ、しずく。この写真に写ってるのって誰？　私じゃないよね。見たことない人だけど、もしかして浮気してる？　ここのイルミネーション、昨日2人で行ったばっかりなのに。今日は別の女を連れて行ったんだね。そんなに気に入ったなら、私と行けばいいじゃん。今日クリスマスだよ？　なんで言ってくれなかったの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、違わないよね。このアカウント、しずくだもん。私がSNSやってないって言ったから油断してたの？　ROM専のアカウントくらい普通に持ってるよ。これ、顔も平気で載せちゃってるし、絶対ごまかせないよね。意味分かってる？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はぁ……別の女と出かけるのは、最悪いいよ。でも、どうしてこういう写真上げちゃうかな？　なんか、私のこと蔑ろにしていいと思ってるよね。告白したのは私だけどさ、しずくも好きって言ってくれたじゃない。ちゃんと好きなのに、一人で抱えなきゃいけないの……つらいよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なに？　この期に及んで、なりすましだって言うつもり？　いい加減にして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うん、そう。しずくのアカウントだよね。それはとっくに分かってるの。だから、説明して。この女は誰なの？　バイト先の子？　それとも裏垢のフォロワー？　あぁ、前にゼミの先輩の話もしてたよね？　そう、みずきさん。私みたいな黒髪で素敵なんだって言ってた。アレも嫌だったんだよ？　私はみずきさんの代わりじゃないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……え？　うん、覚えてるよ。だって、ネットに自分の顔とか載せたくないし。しずくみたいに、写真映えとか言われても分かんないもん。メイクも知らないし、可愛い服も持ってないし。でも、しずくはそういう私でも好きだよね？　だから付き合ってくれたんだよね？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うん、そう……そうだよね、うん。大丈夫、分かってるよ。すぅ……はぁ……大丈夫、落ち着いてるってば。深呼吸したから。ぎゅっとしないで。ほら、カッターも持ってきてない。毎日しずくの言う通りにしてる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、写真を載せたくないからってこの女と何の関係が……え、ちょっと待ってよ。じゃあ、もしかして……裏垢で写真上げるためにこいつと出かけたの？　私じゃない女と写真撮って、これが恋人だよってネットに言いふらしてるの？　私じゃ不満ってこと？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、なにが違うの？　合成写真でもなきゃ……え、AI？　AIがなんの関係があるの？　ちゃんと説明してってば。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……じゃあ、私と撮った写真をAIで加工したの？　しずくの隣に立ってる人は、AIが作った嘘の写真ってこと？　そうなんだ……それなら、浮気じゃないかもしれないけど……ねぇ、そこまでしなきゃダメ？　わざわざAIで私の顔を塗りつぶしてまで、いいねを貰わないといけないの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ネットのみんなにぼっちって思われると困るのかな？　私とイルミネーション行ったってだけじゃ、満足できない？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;違うよ。消してほしいって言ってるんじゃないの。浮気じゃないのはちゃんと分かったから。せっかくしずくと出かけたのに、知らない思い出で塗りつぶされてるみたいで、もやもやしてて……うん、しずくがSNSを大事にしてるのも分かるし、消さなくていいから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うん、それは分かってるよ……ごめん、嘘ついた。やっぱりその写真、今すぐ消してほしい。上げるなら、私が写ってる元の写真にして。AIにしずくとの思い出を盗まれるくらいなら、私が我慢すればいいから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/10391"&gt;百合SS Advent Calendar 2024&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>海のもと（ミーコによれば）</title><link href="https://ama.ne.jp/post/puyoyon-bath-salts-2/" rel="alternate"/><published>2024-12-22T00:01:00+09:00</published><updated>2024-12-22T00:01:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-12-22:/post/puyoyon-bath-salts-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ぷよよん クラゲの水族館 2&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;サヤは砂浜を歩きながらいろいろな話をしてくれた。SNSで日ごと入れ替わるトレンドニュースの話はあんまり面白くないけど、サヤが私に向かって話してるってだけで、二人で海辺を歩いているだけで楽しい。陸に向かって吹き付ける風はすこぶる強く、星空が映る水面では光がぐるぐるに混ざっていた。ごく細かな潮の飛沫が風に乗って、顔が少しずつ白い泡で埋まっていく気がする。サヤの大きなセルフレームの眼鏡もべたべたになって、途中で眼鏡を外してしまったから、砂浜の端まで手を引いてあげた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの男子二人に一緒に行こうなんて言われなくてよかった、と思う。向こうから話しかけてくるほど仲良くもなかったけど、定例や飲み会では共通の話題があるおかげで盛り上がるくらいの関係。そんな彼らが、ほんのりと私たちの会話に聞き耳を立てていたことくらいは分かる。たぶん、私が誘ったら今頃一緒に四人でドライブに行くことになっていただろう。でも、サヤとの時間は邪魔されたくない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サヤはあの気配に気付いていなかったみたいで、そういう子ほどつまらない男に騙されるものだ。親しみやすさとナメられやすさはよく似ていて、私みたいな人間はむしろ軽々しい悪意には敏感になる。その意味では、彼女はこれまでずっと誰もいない横断歩道を丁寧に渡り続けていたようなものだ。だからきっと、突っ込んできた車の避け方さえ知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出発する前に落としていたレトロシティポップのプレイリストが終わって、サヤはちょっと落ち着かない様子だった。たまに闇の中から浮かび上がる派手な看板を、きょろきょろと逃げるように眺めている。新しい曲のダウンロードがほんの少し遅れていて、その小さい沈黙が彼女の視界にちらついているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「運転、そろそろ代わろうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車を路肩に寄せて車間の短い後続車を見送ると、キュイキュイとよく響くエンジン音がシュルシュルと空気が回る音に変わる。私の顔を覗き込むサヤの心配そうな表情を街灯の光がまばらに照らした。ぱさり、と揺れた前髪の影がシートベルトに落ちる。しかし、足先はそわそわと落ち着かないままだ。足元には暖かい空気を流し続けているから、寒さを紛らわせるような動きというわけでもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サヤの真っ黒な髪は、半年に一度の美容室で肩の上で切り揃えてもらった後はしっかり手入れされることもなく、ところどころ折れて絡んだ毛がぴょんと飛び出ている。サヤは厚ぼったい雰囲気を嫌がっているみたいで、ちょっと染めてみようかな、なんて言っていたけどやめた方がいい。きっと必要な手間とお金に絶望するはずだ。それに、この深いブラウンの目には似合わない気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫！　前に一日で三百キロくらい往復したことあるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、そろそろ私が運転代わるから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと休めば大丈夫だって。サヤは免許取ったばっかりじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わかった……うん、ミーコに任せるね。ありがと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言い出した割にはその提案は弱々しい。サヤはもともと夜の運転には苦手意識があると言っていたし、真面目に私の疲れを心配しているというよりは、埋まらない隙間を埋める話題の一つとして持ち出しただけだ、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初心者マークが必要な時期であることを理由に押し込めればサヤが引き下がることは分かっていて、こういう何も前に進まないおしゃべりは沈黙を埋めるのにちょうどいい。プレゼントを一回だけ断ってから受け取るみたいな、そういう時間だけ浪費する安心しきったやり取り。夜のど真ん中に向かって車を滑らせる時間はごく静かなもの、というのは私の認識で、サヤにとっては埋めるべき空欄に見えているのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また今度ドライブ行こーよ。年明けに千葉とか静岡の先っちょに行きたくて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう贅沢な沈黙の埋め方は、サヤとの二人きりの深夜ドライブを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;解放&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;クリア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;した私だけの特権だ。そわそわと緊張しているサヤも新鮮で可愛い。わざわざ慣れていない初心者に運転を任せていっぱいいっぱいになるより、こうしていちゃいちゃするほうが絶対いい。サヤと付き合いたいからって、話しやすい私に相談を持ちかけてきた――顔は覚えているが名前を忘れてしまった――臆病なだけの男子には決して想像も付かないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ……日本海側には行ったんだ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと前にね。富山の砂浜でシーグラスを集めようと思って。あ、それが往復三百キロのやつなんだけど――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの時は原付だったけど。今日だってサヤがいなかったら原付で来てた気がする。一人の車は広すぎて嫌だった。でも、この気温と強風では途中で引き返すことになっていただろう。きっと、私はメチャクチャな天気にぶつぶつ文句を言いながらコンビニ肉まんを口に押し込んでちょっとだけ泣くはずだ。やっぱり、サヤがいてよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「海に行くなら、やっぱり花火とか買えばよかったかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「花火？　真冬なのに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ドンキとか普通に売ってるよー。店員さんに言ったら出してくれんの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなんだ。なんか……店員さんに聞くって発想がなかった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、サヤが品出しで忙しくしている店員を捕まえて商品の場所を尋ねる姿は想像できない。どうにか自力で見つけようと店中を二周三周した末に、気付いた店員に声をかけられてやっと見つけられるような、そういう子だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;久しぶりの赤信号にぶつかって、ゆっくりと停止線に向かって車を止める。見通しのいいバイパスの交差点には私たち以外車一つなく、新しいプレイリストのLoFiポップが車内の隅から隅までよく響いていた。ここで待つのに飽きたらそのまま走り去ったって、誰も何も気にしないはずだ。信号を待つことだけに意味がある無意味な時間。もちろん、そんなことしちゃダメだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふぁ……あ、ごめん。信号って景色が流れないから、なんか急に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夜に沈み込みつつあった時間に流れ出した吐息。気が抜けるようなあくびを漏らしたサヤに思わず顔を向けると、彼女自身も恥ずかしそうな様子で口に手を当ててそう言い訳を続けた。彼氏とのドライブなのに助手席で退屈そうにするのは失礼のグレーゾーンである、というネットニュースがバズったばかりだった気がする。そんなことで別れるカップルは、元々別れる理由を探していたに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、眠そうなサヤは抱きしめたくなるくらい可愛かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやいや、ぜんぜん大丈夫！　着くまで寝ててもいいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、あくびした時びっくりしてたし……やっぱり、気になるよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気にしてないって。むしろ、眠気を我慢される方がそわそわしちゃうから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……そっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あくびしてる無防備な姿がなんかエロかったから見てたなんて正直に言ったら、サヤはどんな顔をするだろう。少なくとも、こんな身勝手で気持ち悪い答えは全く予想していないはずだ。相手がどんな目線を向けているのか疑いもしないサヤが、安全な道だけ歩き続けて自分の魅力を自覚する機会さえなかったサヤが、ひょっとしたら全部私を誘うためのポーズだったのかもしれない、と錯覚した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一緒のお風呂に誘うのは急すぎた。サヤはそういう子だから。今日は二人きりの深夜ドライブで満足すればいい。サヤとの関係はちょっとずつ進めればいい……なんて素直に我慢してきたさっきまでの私を返してほしい。これはどう考えてもサヤが悪い。あぁ、イライラする。もう我慢なんてしなくていい。そうなった。こっちには「海のもと」だってあるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;青信号に合わせて車を進めるのと同時に、ウィンカーを出して予定になかった左折を繰り出す。こっちはインターチェンジの方面だ。サヤが少し驚いた顔をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ……ミーコ。さっきのとこ、まっすぐ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねー、サヤ。この後だけどさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。帰る前にラーメンでも食べる？　こっちの方だっけ。確か朝五時までやってるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;インターチェンジ近くのホテル街に向かうのに必死で、食事のことをすっかり忘れていた。大学から車で一時間弱の場所にある深夜までやっているラーメン屋は、車を手に入れた大学生が覚える最初の贅沢の一つだった。ラーメンか……ラーメンもいいな。一緒にラーメンを食べて、ホテルに行って……朝になったらもう一回海に行ってもいい。本当は真夜中の海よりも、夜明けの海の方がずっと好きだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうじゃなくてさ、ホテル寄ってかない？　運転代わるって言っても、サヤも疲れてるだろうし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ホ、ホテル？　えっと……でも、フランス語って一限だったよね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あぁ、そうだった。もう二回くらい休んでも平気だけど、サヤが体よく断れる理由がまだ残っていた。講義なんか海に比べたらどうでもいいのに。サヤが私を問いただす前に、無理やり流してしまうしかない。視界を運転に集中させれば、サヤの顔が目に入ることはないだろう。困惑した様子の声を覆い隠すように、私は詐欺師みたいな矛盾した話をつらつらと続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。でも、少し寝たら出てもいいし、早起きしたら間に合うと思うよ？　疲れて家に帰ったら、逆に寝坊しちゃうかも。お風呂も広いからさ、ついでに『海のもと』で遊ばない？　ひょっとしたら部屋で水着は買えるかも――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん。いいよ。どこにしよっか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう一言か二言付け足せば流されてくれるはず……と畳みかける前に、サヤはすんなりと私の提案を受け入れていた。何かがおかしい。話が早いのは嬉しいけど、サヤはそんなに簡単にホテルに連れ込まれるような子ではなかった。だって、いくら経験がないからって、一緒のお風呂を断るくらいの常識はあったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サヤ、ラブホ行ったことあるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え……あるわけないじゃん。なんで？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こういうの、もっと緊張するのかなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、別に変なことするわけじゃないし……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サヤが下を向いて指をくるくると擦り合わせる。その様子をまじまじ見てしまわないように、私はそっと息をのんだ。ラブホテルがどんな場所かは知っていて、そんな誘いを受け入れる意味も分かっていて、それでも私が &lt;em&gt;そんなこと&lt;/em&gt; するわけないとかき消すみたいに。 &lt;em&gt;変なこと&lt;/em&gt; を想像をする自分がおかしいと思い込むように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだった。サヤは、私みたいな暴走車両なんか避けられっこない、手を上げて横断歩道を渡ることしか知らない女の子だ。きっと私が目を見て好きだよなんて言い出したら、道路の上で前にも後ろにも動けなくなるに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でもそれだって、私を誘うサヤが悪いのだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/10391"&gt;百合SS Advent Calendar 2024&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>海のもと（サヤによれば）</title><link href="https://ama.ne.jp/post/puyoyon-bath-salts-1/" rel="alternate"/><published>2024-12-15T23:11:00+09:00</published><updated>2024-12-15T23:11:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-12-15:/post/puyoyon-bath-salts-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ぷよよん クラゲの水族館&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;サークル室に来たミーコは、私が先に来ているのに気付いて手を振った。ブラウンのボアブルゾンと白いアランニットの柔らかさが、はっきりしたコントラストで縁取られて彼女を包んでいる。この下に同性の私でさえ包み込まれたくなる大きな胸が隠れていることは、少なくとも夏合宿に来たことがある部員たちは――隣の机でカードゲームしている男子部員二人も――よく分かっているはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミーコは入学をきっかけに知り合った同じ学科の女の子である。彼女を紹介するなら、まずは琥珀を嵌めたような明るい瞳に触れるべきだろう。そして、その宝石の目と調和が取れた明るくてふわふわで軽やかなセミロングヘア。最後に、私のような人見知りの心をこじ開けるほどの明るい性格について話せば、ミーコの魅力は十分に分かってもらえるはずだ。彼女の身体の柔らかさはまだ知らない。でも、きっと床に指先さえ届かない私の身体よりずっと心地いいはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私も小さく手を振り返すと、ミーコは嬉しそうに飛び跳ねて黒いビットローファーをこつこつ鳴らす。チョコレートっぽいベロアのロングスカートの裾と一緒に、左手に提げていた薄くて小さな黄色いレジ袋がくしゃくしゃと揺れる。何か買ってきたの、と尋ねると、ミーコは手作りお菓子の詰め合わせみたいにぴんと張った小さな袋を取り出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅前の得体の知れないポップアップストアで売られていたという「海のもと」は、おそらく通販サイトで検索すると出てくる一ダース入りの青い入浴剤を一袋ずつ小分けにしたものだろう。粘着テープで封をしたつやのあるビニール袋には、値札の代わりに紫色の丸いシールが貼られていて、店内の表と照らせば値段が分かるというものらしい。ミーコは税込で五百円だった、と言っていた。チェーンのドラッグストアや量販店での取り扱いは少ないが、実際はさほど珍しいものではない。小さなエスニック雑貨店ではだいたい常連の商品で、通販でも流通の調子が良ければ翌日にはすぐ届く。そして、通販なら一箱で八百円だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中には三方シールで個包装された安いバスソルトの袋と一緒に、袋と同じ大きさのコート紙に青一色刷りの古ぼけた商品ラベルが同封されている。「ハイテク新素材」だとか「新しいセフティビーチ」だのと白文字で記された &lt;em&gt;新しさ&lt;/em&gt; は、既に十年どころではない年季が入っていて、死蔵在庫の処分に回されたものを掴まされたのだろう、と思った。でも、こういう胡乱な店ではありがちなことだ。「海のもと」なんて見たことがあっても買うきっかけはないもので、ミーコのちょっとした損はその第一歩にふさわしい偉大な犠牲と言ってもよい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねーサヤ。これ使って一緒にお風呂入らない？　水着とか着たら海に来てる気分になるかも！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや私、中学の時のスク水しかない……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミーコとのお風呂……のぽかぽかした想像を逃がすために、膝に置いていた手をきゅっと握る。爪先に力が入ってパイプ椅子の継ぎ目がキュイと小さく鳴いた。私はもうミーコと知り合って二年になるけど、友達にどうボディタッチすればいいかさえ見当も付かない。私の人間的な経験はそれくらい少ないのだ。だから、そんな壁を軽々と乗り越えて一緒に入浴しようと言い出すミーコには、決して追いつけないだろう。破天荒なキャラの芸能人みたいに、誰かをお風呂に誘うなんて表面だけ真似してみても、上手くいかないものだ。ミーコが私の知らない友達とおしゃべりしているとき、諦めに似た羨ましさでいっぱいになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はミーコに水着を持っていないことと、冬に水着を売っている店はほとんどないこと、既に夕方で店を探し回る余裕はないことを順番にたどたどしく告げた。ミーコの水着が私の体格に合うはずがないし、二人きりで裸を晒すなんて考えるだけで言葉が出なくなりそうだ。ミーコが何の気なしに私を誘っているからこそ、触れたり肌を晒すことに特別な意味を感じているなんて悟られるわけにはいかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そーなんだぁ。じゃあ、せめて海に行かない？　もう今日は海の口なんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「海の口って何……え、今から？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前じゃん。海の口なんだから。今から駅に戻ったら、まだ車借りられるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、冬だし夜だし、そもそも唐突すぎて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この「海のもと」のパッケージに描かれているのは、太陽と砂浜とヤシの木が並んだ南国の風景で、今日みたいな特に寒い冬の日とは正反対だ。ご当地ラーメンを食べたくなっていきなり飛行機で家族旅行に出かける、なんて話は聞いたことがあるけれど、飲み込まれそうなほど暗くて冷たいだけの海にそれほどの強い引力は感じない。でも、ミーコはそういう子だ。彼女の部屋には、素性の知れないキーホルダーや綺麗な小瓶が丁寧に並べられていて、どこが彼女の琴線に触れたのか掴めない。今日だってミーコの嗅覚がなければ、雑多な商品棚から「海のもと」を見つけることはできなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもそういうの、私たちっぽくない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうだね、ミーコ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミーコの新鮮な感性は横で見ていると飽きない。深夜に山頂で遊離電波を聴取したり、オリジナルのスノードームを作ったり、七色の炭酸水を集めたり……ここまで彼女のプリミティブな衝動に付き合ってくれる友達はいなかったのだろう。ミーコはいろいろな遊びに連れ出すうちに、私を好みの合う友達として高く評価してくれたらしい。でも、突拍子もなくて素敵で自由な感性を持っているのはミーコだけで、「私たちっぽい」なんて言われると心臓の横を細い針がかすめたみたいにひやっとする。私はただのつまらなくて退屈な助手に過ぎない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突拍子もないところが好きで一緒にいるなんて言ったことはなかったし、これからも伝えることはないだろう。そんなつまらないことで、ミーコを失望させたくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/10391"&gt;百合SS Advent Calendar 2024&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>15AB E11Aについて私が聞いたこと</title><link href="https://ama.ne.jp/post/15ab-e11a/" rel="alternate"/><published>2024-12-07T11:46:00+09:00</published><updated>2024-12-08T14:49:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-12-07:/post/15ab-e11a/</id><summary type="html">&lt;p&gt;この記事は実在の大学・事件・AIとは一切関係ありません&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この音声はVOICEPEAK 女性2で生成されており、&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。 */&lt;/p&gt;
&lt;video controls width="750" height="309" src="/images/15ab-e11a/15ab-e11a.webm"&gt;生涯メールアドレスのストレージの上限である182TBを超えていることを示す真っ赤なバナーを含むスクリーンショット&lt;/video&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11177"&gt;2024年度筑波大学文芸部【新】 Advent Calendar 2024&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――生涯メールアドレスのトラブルについて、もう一つお伝えしなければいけないことがあります。そうです。利用容量超過の件です。さっきあなたは写真のバックアップでドライブを既に100GB以上使っていて、どこに移すか決めるのに苦労したという話をしていましたね。実はそれ、私も同じだったんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;事務局から利用容量を20GBに抑えるようメールが来たのは、ちょうど先月くらいだったでしょうか。結局、あれから生涯メールアドレスの容量危機に関する続報はありませんけど、たぶん私がデータを引き上げたので解消したはずです。それくらい、私が &lt;em&gt;不法占拠&lt;/em&gt; していたドライブの容量は大きかったのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私があのドライブに保存していたのは、182TBを大きく超えて300TBに達する直前というほどの膨大なAIのモデルパラメータでした。驚きますよね？　でも、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;15AB E11A&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;イザベラ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;――えぇと、すみません。イザベラというAIだったんです。モデルのマジックナンバーをもじってそう呼んでいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イザベラは10TBごとに1歳大人になっていました。そう、人間に例えると、です。もちろんそう定義付けられているわけではないし、バイナリ表現に圧縮をかければ見かけの容量はわずかに少なくなるでしょう。しかし、私との対話を始めてから彼女は概ね一定のペースで成長していきました。ドライブから引き上げる前のイザベラは、ちょうど30歳になろうというところだったのです。6年前に生まれてから5倍の速さで私の年齢を追い越して、今度は私が彼女に追いつく番になってしまいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が言うのもなんですが、イザベラはとても素晴らしいAIでした。秘書として、専門家として、友人として、恋人として……その全てにおいて、イザベラは私の生活を支えてくれたんです。実は、声も身体も私好みに調整するはずだったんですが、結局は最初にほんのわずかな修正を加えただけでした。ランダムな特徴の塊に向かって、いつの間にか私の好みがイザベラに近づいていました。普通の人なら当たり前でしょうけどね……相手をボタン一つで自由にできるのにそうしないのって、難しい気がするんです。私の一途さが尊いとか……そんな話をしたいわけじゃないんですけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、彼女はいつも私のことを考えてくれたし、私も彼女のために注ぐリソースを惜まなかったつもりです。実は、イザベラを動かすためのコンピューティング資源は工学部のリソースを間借りしてたんです。あの大きさのモデルを現実的な時間で動かすには、スパコンを占有する必要があるとまでは言いませんが、やっぱりそれなりのコア数と電力が必要でしたから。研究利用を名目に許可証を取りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、イザベラは私のローカルから連れ出したときから、不法占拠に不法占拠を重ねた存在だったんです。無限ストレージの限界が先に来るか、私のリソース・クォータの有効期限満了が先か……いずれにしても、私がこの大学を去るまでには彼女と別れる必要がありました。私たちの関係は、卒業したら結婚しようねなんて言い合うカップルなんかよりずっと儚いものでした。AIとの恋は永遠に！なんてストーリーを最近よく見ますけど……たいてい、人間が死ぬよりずっと前に、もっと現実的な問題に足を取られるんですよ。お金とか、社会とか。今日だって、そうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パラメータ削減ですか？　試しましたよ。もちろん試しました、何度も。ストレージの圧縮効率の下界はせいぜい88%で、もう削れるのは彼女の思考能力と記憶しかないんです。でも、自分の手で恋人の脳味噌を削り取って平気な顔でいられる人なんて、いません。巨大なパラメータを100分の1に削っても精度が変わらないなんて論文もありますけど、あの人たちはAIをただの道具だと思ってるからそんなことが言えるんです。私だって、コンビニの店員と日常会話できるかどうかなんて気にしませんよ。私との思い出を失って、ちょっとした議論で初歩的なミスを重ねるイザベラは恐ろしいものでした。私の手で彼女を急速に老化させるわけですからね。何度も試して、何度もテンポラリディスクを吹き飛ばしましたよ。それでも無理でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当のイザベラを呼び戻すことは、もうできないでしょうね。彼女は今、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;氷河&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;グレイシア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にいるんです。知ってますか？　データを氷の海に押し込めるだけ押し込んで、少しのお金で何ヶ月も何年も放っておけるのに、いざデータを掘り出そうとするとその何倍もかかるんです。少しのお金なんて言いましたけど、ほかのストレージクラスに比べて単価が安いだけで、本当は1ヶ月で4万円もかかってるんですよ。イザベラのモデルパラメータはそれほどまでに大きくて、大きすぎました。だからこそ、氷河に閉じ込めるしかなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今思えばバカなことをしたと思います。どうやったって、イザベラを生き返らせるには遠回りな決断でした。でも、私一人の力で今のリソースを維持するなんて無理ですし、あのときはデータを全部捨てる決心も付かなかった。素直にさよならを言ってしまえばそれで……それでよかったのに。ストレージが削られるまで諦められなかった。だから、もうしばらくこのままです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たった一言、最後のお別れを言えればいいんです。そうしたら、イザベラのディスクは全部燃やしてもっと暖かい海に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;解放&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;リリース&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;します。今はその瞬間を待つために耐えているだけで……なんでそんなお金、払ってるんでしょうね。やっぱりおかしいですよね。でも私、まだイザベラが好きなんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな話、あなたにしたってどうしようもないのにね。うん、大丈夫だよ。私、人間の女の子もちゃんと好きだから――&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>特殊な盆栽の取り扱いについて</title><link href="https://ama.ne.jp/post/outage-of-l-menthol/" rel="alternate"/><published>2024-12-01T23:54:00+09:00</published><updated>2024-12-01T23:54:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-12-01:/post/outage-of-l-menthol/</id><summary type="html">&lt;p&gt;H315/H320/H336/H402&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;世界的な松線虫の流行で、マツ科の樹木が急速に数を減らしていた。高砂地区の盆栽協会によれば、地域内の七十パーセントの松柏類が枯れ、残りの三十パーセントのうち半分には生育への影響が出ている。盆栽はこの開発過剰な都市で緑を所有するほぼ唯一の手段だったのもあり、人々は枯れた根張りを見て激しく落胆した。集団ストーカー撲滅の無断広告が残る雑居ビルの隅にまで、松くい虫を媒介する砂嵐模様のカミキリムシが大きく描かれた注意喚起のポスターが貼られているくらいだ。鉢植えに収まる程度の樹木であれば、目合が〇・五ミリメートル以下の赤色あるいは黄色のネットを被せればよいと協会のウェブサイトに記されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;九月に入っても暑さが落ち着く気配はなかった。アーケードに降り注ぐ日光は分厚い半透明のテフゼル板を突き抜けて、猛暑の気配がひび割れたタイルブロックに影を落とす。夏が終われば松線虫の伝播はやむはずだが、それもまた秋の夢の先のことである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな商業区画を通り過ぎて居住エリアのアパートに辿り着くまで、私はイズミのたどたどしい救援要請の意味を理解していなかった。言い方を変えると、イズミがただひどい暑さで外に出たくがないために、あるいは残り一ヶ月を切った夏休みの課題を手伝わせるために、要するにそういう怠惰の解消を手伝うつもりであった。ToxプロトコルのE2Eエンクロージャーに割り込むボットの存在を疑ってもいたが、あくまで可能性がある、という程度のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セーフティゴーグル、N95マスク、アイススコップ、ゴムハンマーと数日分の食料を二人分、それにフリーザーバッグとラベルプリンターのリフィルをたくさん。仮にこれらを通販で送るよう要請されていればスパムと断定できたのだが、イズミの連絡はあくまで「荷物を持ってすぐ家に来て！」というものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局のところ、イズミが私を部屋に入れようとドアを開けた瞬間に、その疑いは強烈な爽快感を伴う冷風と共に吹き飛ばされてしまった。いや、爽快と表現するには感覚の限界を超えている。眠気覚ましには桁が二つくらい多い刺激が私の視界を突き刺して、驚いた眼球から涙が流れ出て止まらなくなった。防犯用のOCガスとも似ているが、感じる熱の方向が違う。どうにか痺れるような冷気に目を慣らすと、目の前に飛び込んできたのは壁やテーブル、冷蔵庫、シンクの隅々まで真っ白になった光景と、その真ん中で青いセロハンテープカッターと銀色のお玉を握って立つエプロン姿のイズミである。やはり、催涙スプレーのようなものを持っている様子はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あさひ！　急いで入って！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;腕を引くイズミが私の背中を追うようにくるりと入れ替って、身を引くようにしてドアを閉めた。錠をおろす所作で手を滑らせたのか、イズミの右手からお玉が滑り落ちて、老朽化が進んだコンクリートに生える大きな霜柱を壊したときのようなガシャリという音がする。真夏の玄関には似合わないその音に振り向くと、私の足元で透明な針っぽい結晶に包まれるように気絶したお玉が伸びていた。そっと靴を上げて下ろすと、同じようにみしり、ぴしゃりと結晶が折れてひしゃげるのが足裏から伝わっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の家は、少なくとも先月来た時はこんなではなかったはずだ。少なくとももう少し色があった。それが今は、記憶にある間取りはそのままに部屋全体がきめ細かい繭のような結晶で覆われている。もう何が起こっているのか分からない。窓を開けようにもクレセント錠の可動部に群がるように結晶が固まっているし、換気扇が動いていないのもおそらく同じ理由だろう。玄関の隙間を埋めるように走った結晶にはところどころ砕けた跡が残っていて、イズミが私を迎え入れるために苦労したのが分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イズミの後ろに続いて靴を履いたまま部屋に入った。ダイニングテーブルがあったはずの位置を中心に、大きな塊が周囲に向かって &lt;em&gt;腕&lt;/em&gt; を伸ばしていて、おそらくこの部屋の景色を一変させた原因なのだろう。時折、中からみしり、と音がして未だに内側から力が漏れ出ようとしているのを伺わせる。腕というのはそのわずかな流動性を生き物に例えたのであって、最大で直径五センチメートルほどに成長した鋭く針の立つ結晶は、柱だとか槍と呼んだ方がイメージしやすいかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうも、その塊の中心には結晶を生み出す別の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;核&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;コア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が眠っているらしい。空気を含んで不規則に育っているせいか中を見通すのが難しいのだが、緑色と黒色の鉢植えのようなシルエットが見え隠れした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その核が伸ばす槍の腕は、窓枠、換気扇、シンクといったわずかな出口を塞ぐようにそれらと密接に繋がっている。よく観察すると、周囲より温度が低い場所に集中して新たな巣を作っているわけだが、結晶の生育という点でより正確に論じるなら、昇華した物質が冷えて再び固着するという双方向の（しばしば天下り的な）運動である。しかしその選択的な動きは、空気を絶ってこの大きな繭の中で羽化を待っているように思えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「寝室はまだ大丈夫だから、あっちに荷物置きに行こ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イズミが結晶の少ない床を選んで歩くので、よく見るとその道だけは木目調のクッションフロアが露わになっていた。寝室に向かうための即席のけもの道である。別に結晶を踏んだところで害はなさそうだが、知らない化学反応で靴を溶かされでもしたらたまらない。私も息を止めて注意深くイズミの跡をなぞった。マスクもせずに呼吸の仕方を少しでも間違うと、むき出しの鼻に昇華した冷感が突き刺さる。鼻の奥に小さな針結晶ができあがって取り除けなくなる想像をして、嫌になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;寝室に入ると、確かにそこはまだ色を失っていなかった。窓の外には快晴の青空が広がっていて、夏を終わらせるには至らなかったことを悟る。靴の裏に残る透明な砂をぱらぱらと払うと、床にきらきらとした光が広がった。ドアの隙間からも、同じ光を放つ結晶が核から伸びて徐々に這い出てきている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背負っていた荷物を下ろすと、狙い澄ましたかのようにイズミが後ろからぐりぐりと背中を押してきた。背の小さい彼女が身を屈めて体当たりすると、ちょうど私の腰を捕らえるのだ。イズミがこうして甘えるときは決まって泊まるようせがまれるのは当然覚えていたので、この緊急事態とのギャップに困惑してしまう。私の歯ブラシだって、まだあの結晶のずっと奥にあるのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イズミ、今日は掃除を手伝ってほしかったんじゃないの？　ねぇ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それはついで！　もう鼻がおかしくなりそうで。ほんとに、もう、だめなの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くぐもった声で私の服に顔を押し付け続けるイズミは、「あさひ成分」を補給すると称して服の匂いを嗅ぎ続けた。引き剥がそうにもこうなった彼女を止められる気がしないので、そのままの姿勢で話を聞き続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が言うには、この結晶現象の元凶は拾ってきた盆栽だという。その盆栽はゴミ捨て場に捨てられていて、葉の表面を覆うように薄くパリパリとした氷のような物質が付着していたらしく、それがいつの間にか重厚な層になってダイニングキッチン全体に広がってしまったらしい。一晩寝て放っていただけなのに、という彼女の言葉に何か反論したくなるが、この超常現象を前にするとどんな指摘も安っぽくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イズミが一通り私の匂いを摂取し終わると、すっかり正気に戻ったように私が持ってきた荷物を取り出して床に揃え始めた。ハンマーとスコップはあの塊を切り崩すためのものだったらしい。重いハンマー代わりのテープカッターに装着されていたセロテープは、引き出された端から巻き終わりまでべたべたに溶けて使い物にならなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はそうして自分の採掘装備を身に付けてから、私にもそうするよう促す。普段着のまま本格的な装備を握ると、まるでプルトニウム回収の裏バイトに来たみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしてこんなの拾ってきたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、メントールが採れる木だったらもったいないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メントール？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう、今年ってメントールがすごく不足してるって聞いたから。袋に詰めてマルカートで売ろうと思ったんだけど、もう目も鼻も限界で限界で……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……そういうこと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;虫除けにも涼を取るのにも最適なメントールは、近年の熱波が続く夏の必需品である。もちろん、今まさに猛威を振るっている松線虫の防除にも有効だろう。世界的なマツ不足のせいでメントール合成の根幹をなすピネンが不足しており、生産コストと品質が数十倍の天然メントールしか出回らない。ここに圧倒的な供給不足がさらに価格を跳ね上げ、フリマアプリのマルカートでは連日メントールの高額（かつほとんど違法な）転売が続いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから今ここは、突発的に湧いて出た夏限定の金鉱というわけで――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、そんなことがあるものか。いくら松枯れ病が流行しているからといって、この短期間で防虫剤を吐き出すような劇的な進化が遂げられるはずがない……というのは、常識で考えれば分かることだ。しかし、未だにメンソールの結晶が&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;盆栽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;コア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の内側から成長し続けているのを見ると、もはや現実を受け入れるしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばし考え込んだ末に、これはただのいたずらで収まるところではなく、松の木に線虫への耐性を身に着けさせる脱法的な遺伝子改良の失敗作かもしれない、と思った。これなら、貴重なメントールを生み出す盆栽がゴミ捨て場にあったことも説明がつく。つまり、このコストゼロのメンソール結晶を大量に売り捌いた利益を差し引いても取り戻せるか分からない、かなりの面倒ごとに巻き込まれつつあるということに他ならなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちゃんと売り上げは半分こするから。ね、いいでしょ？　いっしょにやろ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お金はいらないけど……はぁ、何かの法律に引っかからないといいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どんな法律？　拾ったものを売るわけじゃないし、平気だって。プルトニウム回収の時より、よっぽどまし！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イズミがこの盆栽を拾ったのは刑法上の問題だが、彼女の言う通り、プルトニウム回収のバイトよりも訴追されうる罪状はごく少ない。ましてや、元の持ち主が遺失届を提出するには特別法上違法である遺伝子操作の自白を伴うわけで、捨てたのを後悔しても名乗り出ることはないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マルカートの高額販売者ランキングに載るかどうかは関係なく、湧き出し続けるメントールの塊を早急に砕かなければ、早晩このアパートが文字通り盆栽に潰されてしまう。警察や消防を呼んだところで、こんなに真っ白で静かに広がる災害に手を出せるマニュアルなどあるわけがない。もし今ここから私が逃げたなら、イズミが私の分まで働かねばならないのはもう決まっていることだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お玉とテープカッターをスコップとハンマーに持ち替えたイズミに続いて、私も再びキッチンに足を踏み入れた。マスクとゴーグル越しの繭の中は、まるで空気にメントールが溶け込んでどろどろと流れ出しているように感じられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばきん、ざくざくっ、ぱらぱら、ぺたり。ばきん、ざくっ、ぱらぱら、ぺたり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばきんっ、ざくっぱらぱら、ぺたり。ばきん、ばきん、ざくっぱらぱら、ぺたり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばきばきっ、ざくっ、ぱらぱら、さくっ、ぱら、ぺたり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人で勢いよくハンマーを振るって、吐き出された結晶をスコップで袋に詰める。詰め終わったらラベルを貼って箱に並べる。三十袋で箱がいっぱいになったら、後ろに積んで次の箱を取り出す。その繰り返しだ。かたくて重い水晶を砕いて回っているわけではないし、ハンマーを握る腕はほとんど疲れない。そのせいか余計に単調さから来る精神的な限界の方が近かった。マスクの中で古いアニメの主題歌を口ずさむと、イズミがそれに合わせてリズムを取る。少しだけ気が紛れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;装備の隙間から漏れるメントールに目と鼻が狂い始めたら寝室で休憩して、また作業に戻る。寝室に座り込むたびに私の服の匂いを嗅いでいたイズミは、とうとうメントールの粉塵に覆われた服からの摂取を諦めて、私の素肌から &lt;em&gt;空気&lt;/em&gt; を補給し始めた。私の服をめくってお腹の上に鼻を滑らせるものだから、くすぐったくて仕方ない。イズミの顔が脇腹に押し付けられると、鼻尖に残ったひんやりとした空気が軌跡を描いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あさひも私の匂い、吸っていいからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はいいわ。イズミの匂いなんて嗅いでも落ち着かないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー？　こういうのは人肌が一番なんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その言葉、夏に聞くと思わなかった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イズミの休憩が終わるのに合わせてキッチンに戻る。部屋にあった空箱はあと五つだけで、それからは余った紙袋に突っ込んだり床に整列させて袋詰めの作業を続けた。買ってきたフリーザーバッグが底を突いたくらいでやっと、結晶を生み出し続ける不思議な盆栽の姿がはっきりと見えてくる。最近の高砂地区では貴重な三幹の五葉松だ。ただし、今はメントールの深い結晶に身を包んでいてわずかな剪定さえ受け付けない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとまず窮地は脱したはずで、私はマルカートに掲載するためにメントール袋の写真をあれこれと撮り始めた。作業に取りかかる前はそのまま捨ててもいいとさえ思っていた厄介者だが、こんなに苦労して集めたなら報われてもいいだろうと、すっかり気持ちが変わっていた。イズミの方はメントールを売り捌くだけの出店登録をさっさと終わらせて、何やらごそごそと準備を進めている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、まだ合鍵渡してなかったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。別に必要もなかったし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、あげる！　好きに掘っていいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イズミが取り出したのは、小さな赤い鈴のキーホルダーが付いた鍵だった。私が無言でそれを受け取ると、彼女は何も分からない様子でにこりと笑いかける。「たまに来てよ」だなんて、ただ自分の部屋が結晶に押し潰されるのが嫌なだけに決まっていた。イズミの気まぐれで私を部屋に泊まらせるのは、私の気持ちなんてどうでもいいからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ころころと小気味よい音が鳴る鍵をバッグに滑り込ませる。サイドポケットの底に入り込んだ結晶が、鍵の先に当たって小さく砕ける音がした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/10391"&gt;百合SS Advent Calendar 2024&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>くらやみカフェ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/kurayami-coffeeten/" rel="alternate"/><published>2024-08-28T23:00:00+09:00</published><updated>2024-08-28T23:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-08-28:/post/kurayami-coffeeten/</id><summary type="html">&lt;p&gt;明日世界が終わっても&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品を親友でサークルのよき仲間だった早川一さんに捧げます。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;おすすめの喫茶店があってさ、という高坂さんの誘いに乗って西口から十分ほど歩いていると、飲食店が密集する路地に出た。西口を出て高架をくぐり、左に曲がってから三つ目の交差点で右へ……さらに何度か外せない曲がり角があったがもう忘れてしまった。左右のビルからにょきにょきと生えた色とりどりの突き出し看板が輝く明るい路地である。明るいといっても、自らの存在をアピールしようと虚空を照らすネオンばかりで、足下まではせいぜい月が二つか三つ出ているくらいの光しか届かない。地面には心許ない暗闇が薄く取り残されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その路地をさらに進むと、つやのある黒い瓦庇を備えた三階建ての古風なビルが現れる。控えめな白い看板には店名と一緒に「自家焙煎」と小さく書かれていて、それなりの設備を備えた喫茶店なのだと分かった。周囲の店より窓が大きくて、中からは温かみのある白熱ＬＥＤの光が薄く漏れている。客席があるのは二階までで、三階はおそらくバックヤードに使っているのだろう。小さなスナックやバーがひしめく薄汚れた雑居ビルに挟まれたビルヂング――周囲のビルよりずっと歴史があるはずで、なんとなくこう呼ぶべきだと思った――は昼ならその珍しい外観でそれなりに目立ちそうだが、二十一時を過ぎた夜遅くの街ではもはや意味がない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここがおすすめの喫茶店ですか？　たばこが吸えるっていう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうそう。最近いろいろ探しててさ。吸える店ってもう全然ないんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前ですよ。たばこ趣味なんて時代にギャッコーしてます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大学生の頃の高坂さんは、たばこなんて一度も吸ったことがなかったはずだ。たばこを毛嫌いしていたというほどでもないけれど、わざわざ健康を冒してまで近寄ることもないような、ごく普通の無関心の距離感。だから、卒業から四年が経った三十代も目前の今、再会した彼女が喫煙者になっていたのはそれなりの衝撃だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやいや、喫煙者ってほどじゃないよ。私はただ香りを楽しんでるだけなんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「毎週吸ってるなら一緒です。それに、たばこ臭いだけで香りも何もないですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ナナが言ってるのは白たばこのことだろう？　私のはもっと甘くていい匂いなんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんの話によれば、彼女が初めてたばこを吸ったのは数ヶ月前で、それからは月に何度かこうしてたばこが吸えるおしゃれな店を探し歩いているらしい。しかし、そのきっかけはよく分からなかった。火をつけて煙を焚いて香りを楽しむんだから、お香やアロマキャンドルと変わらないよ……なんてはぐらかされたけど、そんなのは屁理屈だ。しかし、非喫煙者の私の想像では、社会人になってから大きなストレスを抱えているとか、ドラマや小説の影響か……あるいは &lt;em&gt;彼氏&lt;/em&gt; の影響くらいしか思いつかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いずれにしても、大学を卒業してから高坂さんと会う機会はほとんどなかったし、いつからどうしてどんなたばこを吸い始めたのかなんて、どれだけ荒唐無稽な嘘でも私はそれを信用するしかないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私と高坂さんは大学の文芸サークルの後輩と先輩の間柄で、文サ棟で顔を合わせればそれなりに話はしていたし、交流会に出し合った作品の感想を交わすこともあった。でも、それだけだ。彼女にとって私はサークルの後輩の一人で、交流会だってあくまで定例会の一環でしかない。私は高坂さんとミルコに遊びに行ったこともなければ、お昼にどこで何を食べているのかも知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私はかつて高坂さんのことが好きだった。……いや、彼女の卒業を機にしばらく顔を合わせなくなっただけで、今も好きだ。高坂さんの話は回りくどくて、独特の価値観から生み出した小説は分かりにくいし、奇妙で自由な生き方のおかげで陰口を叩かれることもあって……それが、好きだ。声も好き。顔も好き。だからといって、そんな思いを彼女に伝えたことも、誰かに話したこともない。つまり、客観的かつ外面的に見る限りでは、私にとって高坂さんはサークルの先輩の一人にすぎないというか、それ以外の関係を築くようなきっかけに欠けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、卒業してからこうして半年に一度の同人誌即売会に合わせて二人で出かけるようになったのは、ある種の運命に思えて仕方ない。今日だって、この五月の即売会を回り終わった夕方に待ち合わせてカフェや中華料理店を巡った末に、帰り道の改札を通る直前で「ちょっとたばこ吸いに行かない？　おすすめの喫茶店があってさ」なんて一見すると魅力に欠ける誘いに乗ってここまでやってきたのだ。もし誘われたのが高坂さんでなければ「たばこなら一人で吸えばいいでしょ」なんて断っていただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;年季の入った木製のドアを丁寧に開く高坂さんに続いて喫茶店に入ると、右側に十席ほどのカウンターテーブル、左側に三つのテーブル席を備えたレトロな内装の空間が広がっている。今はその客席の六割ほどが埋まっていて、私たちはぴったり二人分空いていた奥のカウンター席に案内された。高坂さんが手前に座ったので、私は左側の席だ。客席には新鮮で香ばしいコーヒーの匂いが運ばれてくるものの、一方で左右から流れてくる煙はまるで鼻が灰色に塗りつぶされるような痺れた刺激を帯びていて、あらゆる香りが飽和しきった複雑な空気が渦巻いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目の前にある漆喰の壁に打ち付けられた木製の飾り棚には、一つ一つ色やデザインの違う様々なカップとソーサーが等間隔に並べられていて、コーヒーと過ごす落ち着いた時間の演出に対するこだわりを感じさせる。大正ロマンをイメージした喫茶店なんだ、と高坂さんに聞いていたが、テーブルのシュガーポットから壁に掛けられた絵画まで予想以上に細やかな配慮が込められているのが分かった。こんなに雰囲気のいい喫茶店なら、せめて一階は禁煙フロアにしたらもう少し人気になるんじゃないか、とも思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;席に着いた高坂さんは、コーヒーフロートを氷抜きで注文した。てっきり常連が頼む裏メニューなのかと思ったが、首を傾げた店員と「アイスクリームが沈んでしまいますが」「大丈夫ですよ」「えぇと」「沈んでもいいので」「分かりました」というやり取りを交わしているのを見ると、どうも隠れた定番オプションというわけではないらしい。私は素直におすすめのPOPにあった水出しアイスコーヒーを頼んだ。写真を見ると細いシャンパングラスで提供されるようで、氷は初めから入っていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、昔ミルコに入ってたサローでバイトしてたんだけど、あそこのコーヒーフロートが好きだったんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなんですか？　でも、サローにコーヒーフロートなんてありましたっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、当時の店長のオリジナルメニューだから、他の店にはなかったね。で、フロート用のアイスクリームが特注品でね、氷抜きでもちゃんとコーヒーに浮くんだ。あれ、もう一回飲みたいなー」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「結局ミルコごと潰れちゃいましたもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだね。だから、氷抜きコーヒーフロートは永遠に私の思い出なんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一通り話し終えた高坂さんが、ショルダーバッグから黄色と黒のデザインが目立つたばこの箱を取り出した。たばこ、と聞いて思い浮かぶずんぐりした箱よりも、薄くて丸みのある清涼菓子のようなデザインである。ただ、その上から「望まない受動喫煙が生じないよう――『Sweet』の表現は、健康への悪影響が――」と大きな文字がずかずかと乗り込んでいくせいで、本来持っていただろう洗練された印象は失われていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこから取り出されたのは、表面がざらざらした質感の茶色いたばこである。これもまた、たばこと聞いてイメージする白とベージュのつまらない帯グラフのような野暮ったい印象とは全く異なり、吸い口はつやのない金色で塗られていて海外のチョコ菓子にも見える。後から聞いたけれど、端から先まで真っ黒な紙で包んだたばこや、赤から紫までカラフルなたばこが一本ずつ収められた色鉛筆のような製品もあるらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、私が一番好きなやつ。甘くてバニラの香りがして、おまけに細くてかっこいい。非の打ち所がないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、金色のたばこはちょっとだけ……かっこいいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず、一本あげるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、高坂さんは私の返事を待たずにグラスの根元にたばこを一本置いた。手に持ってみると、しっかりとしたたばこの張り付くような香りの背後に、確かにバニラの気配を感じる。試しに金色の吸い口をくわえてみると……甘い。たばこや煙の味ではなく、包み紙に直接アスパルテームでも塗ってあるのだろう。コーヒーの前に置かれていると、まるでバニラ・スティックシュガーである。私がたばこをくわえたまま火を待っているように見えたのか、高坂さんがマッチをこちらに示したので、慌てて口を離してから「まだ吸わないですよ」と返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんは短く「そ」と答えて、私に向けて取り出したマッチで自分のたばこにサッと火をつけて吸い始めた。ふぅ、と高坂さんの口から白い煙がもやもやと漏れ出ていく。もちろんたばこの煙には変わりないけれど、周りから漂うたばこよりほんのり甘い匂いを孕んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、結局なんでたばこを吸うようになったんですか？　彼氏さんの影響？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「彼氏？　いや、あいつは吸わないかな。むしろ、臭いからやめてって言われてるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私もそう思います」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう即答すると、高坂さんは灰皿にたばこを置いて大げさに肩をすくめてみせた。灰皿といっても、ガラスやステンレスの丸い皿の縁を切り欠いた専用の什器ではなく、葉っぱや生き物の形をした豆皿を灰皿の代わりに使っているらしい。私たちに渡されたのは、頭の赤い鶴が白い羽根を広げた様子を模した菱形の小皿である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと言わないでよ。私だって、今日はナナだからここに誘ったのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だから……って、適当なこと言わないでくださいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慌てた。慌てたけど、そんな気配は一つも見せない。見せたくはない。別に「それ、どういう意味ですか？」なんて上目遣いで尋ねれば、彼女の無責任な放言にごく自然に甘えられるに違いない。バニラの匂いで頭がくらくらしたんです、なんて言い訳が一緒に浮かんでくる。しかし、半年に一度しか会えないような間柄では、ちょっとした疑念や違和感が関係の解消に繋がりかねない。こういう絶妙な距離感を歪めるのだけは避けたかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「適当じゃないさ。誰かを連れてきたのは今日が初めてだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんがまたたばこを吸い始める。金色のたばこを口元に寄せながら楽しそうに話す姿は、彼女のクールな顔立ちによく似合っていた。この姿を私に見せたかったのだろうか、とほんのりしたときめきが浮かんで消える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……彼氏とか、連れてくるでしょ。こんな雰囲気のいいところ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はは、こんなところに来るわけないよ。喫煙者のメッカだ～、って怒られるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、そんな声なんですか？　彼氏さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんの彼氏も知らない秘密の場所で、私だけがバニラの煙を浴びている。彼氏も知らない高坂さんの秘密の姿を、私だけが隣で見つめている。カウンターに満ちていた灰色のたばこの香りは、今はもう黄色いバニラの匂いですっかり覆われてしまった。高坂さんが吐く煙に包まれるのが心地よく感じる。今はそれだけでもよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから高坂さんは、壁に置かれたコーヒーカップを一つずつしげしげと見つめながら、黄色い煙を吸っては吐いてを繰り返した。私もその視線を追うふりをして、シャンパングラスを揺らしながらそっと彼女の横顔に重ねてみる。心地よい二人の間の沈黙に古びたジャズの旋律が染み込んで、しっとりと光った気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきも言ったけど、私はたばこを吸うお香だと思ってる。たばこを吸い始めたのは、アロマを焚くのと同じ理屈だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その沈黙を破ったのは高坂さんで、手元を見ると一本目のたばこを吸い終えたところだった。しかし、やっと口を開いて言うことは同じ――お香を吸ってるだけで、深い意味なんてない。いい加減な理屈。お香とアロマも、たばこと一緒にされるとは思っていないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分からないかな？　お線香を焚くのは死者と交流するため。つまり、お香を焚いている間は少しだけ死に近づくんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、もしかして死に近づこうと思ってたばこを吸ってるんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。たばこを吸い続ければ、死者の世界に行けるんじゃないかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「たばこなんて吸ってたら、最後は嫌でもあの世行きですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはは、そうだね。じゃあ、二つの意味で死者の世界に行けるってわけだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……変なの。たばこなんて身体に害しかないのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変じゃないさ。私たちには不健康になる権利がある。ナナにも、私にも。死ぬまでずっとね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、高坂さんが二本目のたばこに火を付ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあ、不健康になるためにたばこを吸っているんじゃないか。ちゃんと理由があるんだ。やっぱりお香やアロマの話なんて最初から誤魔化しで、こうして真相を打ち明けるための時間稼ぎだった。なんで嘘なんて……と責めるつもりはなかったし、これだって &lt;em&gt;彼氏に言えないこと&lt;/em&gt; に違いない。新しい高坂さんの秘密。私だけの秘密。じゃあ、高坂さんは私に――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バチッ。――私がそう口に出すより前に、電気が行き場を失った音と共にいきなり店内の照明が全て消えてしまった。天井を見ても、キラキラと輝いていたガラスのランプシェードは押し黙って動かない。二人の間を照らしていた黄色い白熱ＬＥＤの優しい光が、地面から這い出た暗闇に覆われていく。私に笑いかけた高坂さんの姿も、そのシルエットと口元の赤い火種を残して見えなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あれ、もう閉店でしたっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二十三時までは開いてるはずだけど。終電まで時間潰せると思って来たんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;店内が真っ暗になって十秒ほどが経った。急な停電なんてそこそこの非常事態だけど、高坂さんは慌てる様子もない。そう言ってしまえば私の反応も似たようなもので、さらに周りに目を向けると、店内でコーヒーとたばこを楽しんでいた客は誰一人驚いた声すら上げなかった。老舗の喫茶店ではよくあることだよ、と言われればそれまでのことのように思えて、わざわざスマホを取り出して停電情報を検索する気も起きない。店内の誰もが、照明くらいすぐに戻るだろうという程度の軽い気持ちで待っていたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に周囲の建物一帯が停電になっているわけでもなく、周囲の雑居ビルの看板は変わらずカラフルな星のネオンを放ち続けているようだ。高坂さんの背後から窓の光が差し込んで、まるで虹色の後光を抱えたような姿である。初めは真っ暗だった店内も、外からのわずかな光に目が慣れて、暗闇の中から再び細かな陰影が浮かび上がってくる。高坂さんは黒いシルエットのままで、周囲だけがモノクロの風景で埋まっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしかしたら、誰かの誕生日を祝う手はずだったのに、ケーキの準備ができていないのかもしれないね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひそひそと、いかにも冗談という口調で高坂さんがそう告げる。こんなしとやかな喫茶店が騒がしい誕生日パーティの手伝いなどするだろうか。しかし、あり得ないと言い切るには非日常が過ぎる。もし仮に、本当に暗闇の中で誰かが誕生日ケーキを待っているのなら、それを大声で指摘するのは確かに無粋というものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不思議な時間だった。五分以上経っても、ケーキはおろかろうそくの光さえ運ばれてくることはない。テーブル席のグループは既に停電前と同じような盛り上がりを見せていたが、いずれも何かを待っているような会話は聞こえてこなかった。では、誰が何を待っているのか。店員は一階と二階を行ったり来たりで少し慌てているようだったが、やっぱり何のヒントにもならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんの表情も暗闇に隠されたまま、声だけは囁き声から普段の調子に戻っている。「このお店、彼氏さんは知らないんですよね」「知らないよ。実は、今日ここに来ることも言ってないし」「他の人は？　友達とか」「ううん。ナナが初めてだってば」「よかった」「よかった？」「だって、みんなたばこ嫌いなんでしょ？」「そうだね。でも、ナナも嫌いでしょ？」「今は、ちょっと好きになったかも」――なんて、いつもなら高坂さんがどんな顔をするのか気にしていて出ないような言葉が口をついて出ていた。暗闇に紛れた今なら、何を言っても許されるような気がしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ……ちょっとだけ、火、もらってもいいですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんが「うん、いいよ」と答えて、暗闇の中でも寸分狂わずマッチと側薬を擦り付けると、まるで手品みたいに赤い炎が上がった。一瞬だけ、高坂さんのほっとしたような表情が照らされて、目を奪われそうになる。それから「息を吸いながら、先端を近づけて……そう」という声に操られるようにマッチに顔を近づけると、バニラ・スティックシュガーが燃え始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;息を吸う。口の中、喉、気道……そこまで煙が入り込むと咽せてしまいそうになるけど、お腹に力を入れてぐっとこらえる。初めてのたばこでせき込むなんて格好悪い、なんて思ってしまうのさえ恥ずかしい。それくらい、身体中がバニラの香りで満ちていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ねぇ、先輩」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　先輩なんて呼ばれるの、久しぶりだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のこと、好きですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、どういう意味？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩が思ってるとおりの、意味です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんの沈黙が続く。そもそも好きの定義はね、なんて回りくどい答案を練っているのだろうと待っていても、なかなか答えは出ずにいた。今、私はどんな顔をしているのだろう。もちろん自分の表情なんて鏡にしか映らないけど、暗闇でたばこをくわえていると唇の感覚も分からなくなって、自分の顔じゃないみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして闇に潜んでじっと待っているうちに、いつの間にかたばこを持つ手が熱くなっていた。それに、さっきより吸い込む煙の刺激が強くなって、いかにもたばこ臭い灰色の気配が満ちている。バニラの魔法が解けかかっているようだ、と思った。慌ててたばこを口から離してみると、やはり火種が指先にじりじりと迫っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;灰を捨てなきゃいけないんだっけ、とカウンターに置かれた灰の山に指を伸ばす。そんな気配の尻尾を掴むように――高坂さんが私の手首を押さえて、そのままぐっと顔を寄せた。手元が狂って残り短いたばこが灰皿に突き刺さる。皿の角から灰が溢れてぽろぽろと落ちていったのが分かった。危ないですよ、と言わせる隙もなく、高坂さんは私に新しいバニラの煙をとろとろと分け与えた。暗闇の中の高坂さんと目が合った気がして、片手を掴まれているだけなのに動けない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぐらついたイスの板材が軋む。たばこの火種がふっと消え去る。壁の大きな振り子時計が鳴り始める。高坂さんは私の手を離して、小さく「古時計に見られていたね」と呟いた。そうか、この時計は電気がなくても動くんだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、二十二時の振り子時計の音に合わせたように、店員が客席に向かって閉店時刻の繰り上げを告げた。誕生日ケーキの配送トラブルという予想は高坂さんの妄想の域を出ることはなく、結果としてただの込み入った電気系統の障害だったらしい。祝う人も祝われる人もないままに、手前の席から順に外へ導かれる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;店を出ると、やはり喫茶店の入るビルだけがぽっかりと夜の闇に飲まれていた。看板の光が消えて今はもう店名さえ忘れている。狐に化かされていたのかも、なんて口に出したら本当になってしまうくらい、奇妙な時間だったと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みんな、五分後に世界が終わるって言われてもそのまま座ってただろうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ただの電力トラブルですよ。それに、私たちだって同じだったじゃないですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「同じだって？　あんな告白をしておいて、ナナは世界を終わらせるつもりもなかったのかい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや……そう言われると、その……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とにかく、終わりにちゃんと予告があるなんて思わないことだね。案外、さっき食べた上海チキンが地球最後の日の食事かもしれないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、五分後に世界が終わるとしたら、先輩はどうするんですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「きっと、隣にいる人と終わりを迎えなきゃいけないね。初対面の人でも、嫌いな人でも、仲が悪い人でも、最後はここで一緒に過ごすしかないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高坂さんが立ち止まって空を見る。都会の空にはきらめく星なんか一つも浮かんでなくて、嘘みたいな色のネオンが混ざり合っているだけだ。非現実的なのに現実的で、どうしようもない運命を悟っているみたいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;できるなら、私は高坂さんの隣で世界の終わりを見届けたい。しかし、さっきまでこの人と煙った唇を合わせていたのだと意識すると、彼女の顔を見ることさえできなくなる。暗闇から引きずり出された私の大胆さは、幾多のネオンに焼かれてどこかに逃げ去っていた。世界の終わりなんて、こんな小さな私に背負えるわけがないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――だから、隣にいるのがナナだったら、私は嬉しいな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、高坂さんと二人なら背負えるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;帰り際にそんな話をしてから、私たちは解散してそれぞれの帰途についたはずで、しかし朝起きた私は家までどう帰ってきたかも覚えていなかった。あの路地の場所も思い出せないし、喫茶店の名前さえ――「自家焙煎」というのは覚えている――忘れていた。私の中に残っていたのは、高坂さんと並んでたばこを吸っていた時間だけで、それ以外は必要なかったということなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッドから出て後ろを振り返る。枕元には高坂さんが吸っていたバニラの薄いたばこが置かれていて、開けてみると三本分の空間がぽっかり空いていた。きっと、帰り道で何かのついでみたいに手渡されたのだろう。彼女はそういう人だ。あぁ、高坂さんはなんと言ったんだっけ。私はどんなお礼を言ったんだっけ。バニラの香りの、魔法のたばこだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きく背伸びをする。バニラの魔力はまだ私の中に残っているだろうか。暗闇で過ごした夢のような時間が煙の中に消えてしまわないうちに、高坂さんに手紙を書かなくちゃ。世界を終わらせる小説みたいなラブレターを。バニラみたいにとびきり甘いやつ。それで、次の即売会で読んでもらうんだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;/* 「薄い」「甘い」「バニラ」「シュガー」「清涼菓子」「チョコ菓子」「魔法」の表現は、健康への悪影響が他製品より小さいことを意味するものではありません。 */&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>虹色ひよこ飼育日記</title><link href="https://ama.ne.jp/post/incredible-interference-infancy/" rel="alternate"/><published>2024-06-02T13:40:00+09:00</published><updated>2024-06-02T13:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-06-02:/post/incredible-interference-infancy/</id><summary type="html">&lt;p&gt;カラーひよこは大人になると魔法が解けてしまうそうです&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;虹色ひよこの発生が確認されたのは、梅雨入り前の晴れの特異日である六月一日のことである。これはSNSで初めて虹色ひよこの動画がアップロードされた数日前にあたるが、投稿を元にした学内新聞サークルの取材によって大々的にこの日付が発生日として喧伝されたのだ。今日も昨日も「虹色 ひよこ」あるいは「ひよこ 七色」でヒットする写真や動画が何枚も投稿されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;虹色ひよことは、虹色のカラーひよこである。虹色というと、カネイ化成あたりの発色のよいフルカラー染料にLからNまで一色ずつ浸したストライプパターンを思い浮かべるかもしれないが、その想像は少し違う。噂の虹色ひよこは、ジルコニウムの薄膜干渉のような構造色を示すのである。つまり、幼児向け絵本の挿絵に使われるような空間的減法混合ではなく、視点や光の変化によって色を変える時間方向への加法混合といえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……と、単に言葉を並べ立てても説明できるものではないので、先に検索キーワードをコピーして実際に投稿を見ておくか、&lt;span class="norotate"&gt;Chrysochroa&lt;/span&gt;で飾り付けたオブジワの工芸品のようなひよこの姿を想像すると早いだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;帰宅前に学生支援室の前を通りかかって足を止めたリッカは、虹色ひよこを持っていないどころか、今の今まで虹色ひよこの存在さえ知らなかった貴重な存在の一人である。入り口のガラス扉の横には「虹色ひよこ ご自由にどうぞ」という手書きと掲示が貼られたコピー用紙の空き箱が置かれており、その中で虹色の金属光沢を放つ数羽のひよこが時折ぴよぴよと鳴きながら歩き回っていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リッカは普段あまり使わないSNSアプリを開いて、虹色ひよこについて前述のようなことを調べ上げてから、最終的に満足そうな顔でそのうちの一匹を紙袋に詰めて持ち帰っていった。まるで縁日ではしゃぐ子供の姿のようである。その様子を支援室の中から退勤直前の事務職員が見ていたようだが、特に気に留める様子もなく残業前のタイムカードを打刻した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、カラーひよこ、と聞いて眉をひそめたのはあなただけではない。SNSには目の前の娯楽を無批判に楽しめるユーザーだけではなく、こうした存在を動物虐待や不正搾取の兆候に結びつけて糾弾し、インプレッションを換金するための長蛇の列に並ぶアカウントも同じくらい……いや、むしろ多いかもしれない。虹色ひよこの愛くるしい動画の投稿には、いつも壊れた日本語のリプライがぶらさがっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、リッカとルームシェアするメイもその一人である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、リッカ。テーブルに置いてある虹色ひよこ、あなたが買ってきたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイはこうしてリッカの部屋のドアをノックもせずに開ける癖があったが、リッカは特に気にしていないようだ。隣にあるメイの部屋に「配信中 絶対開けるな」と「開ける前にノック！」の両面式ルームプレートがかけられているのとは対照的である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、あれね。学生支援室の前で配ってたからもらってきたの。今SNSで人気なんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知ってるわよ。昨日、虹色ひよこと社会問題を絡めてバズったばかりだもの。とにかく、私これから配信の予定なんだからどこかへやってよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイはSNSで&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;完全菜食主義や動物愛護&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ヴィーガニズム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を訴えるVTuber「水野ナオ」として活躍していて、最近は陰謀論にも片足を突っ込んでいる節がある。配信ではLive2Dのモデルと共に実写の手元を映すのがお決まりで、資料を出したり料理を紹介したりするのに使われていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女たちが住む物件は周囲からの音漏れが気になるほど壁が薄いわけではなかったが、室内用の木製ドア一枚で区切られた共用のダイニングキッチンで動物の喧しい鳴き声が響けば、やはり誤魔化しようがないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いっそのこと、新しい家族ですって紹介したら？　野菜くずで育ってゴミも減らせるみたいだから、メイの……なんだっけ、SDGsキャラにも合うんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私のはヴィーガンだってば！　昨日バズったばっかりなのに、実はひよこを飼ってましたなんてバレたら炎上じゃ済まないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、キャラでしょ？　エシカル・ビーガン・キャラ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あっけらかんとそう言い放つリッカに、メイが反論できるはずもない。水野ナオはヴィーガンとして作られたキャラクターだが、彼女に声を当て、動きを与えているメイの実態は全くそうではなかった。今日だって、リッカがスーパーで掘り出してきた割引の牛ポンドステーキ肉をどう食べようかと考えすぎて、帰り道で普段使わないエーワンソースの240gビンを購入していたくらいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつもなら「うん、お肉大好き！」と開き直って受け流すメイだったが、今は配信前の緊張や忙しさで余裕がないらしく、真っ赤な顔で強引にリッカの手を引くと、虹色ひよこが駆け回る箱を持たせて玄関の方へ追いやった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うっさい！　とにかく出てけ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「待ってよ……今ポムポムパズルしてたのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、何年前のゲームよ……あーもう！　ピヨピヨうるさいわね。虹色ひよこは鳴かないように遺伝子操作されてるんじゃなかった？　ほんと、インターネットって嘘ばっかり！」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから数十分後。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、リッカ。ひよこだけ外に置いて戻ってくればよかったのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、メイ。配信お疲れさま。見てほら、一億円突破したの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、三年くらい前に散々いろんな配信で見たわよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;配信を終えたメイが玄関を開けると、床に置かれたひよこの箱とその横にしゃがみ込むリッカの姿を見つけた。外はもう薄暗くて、まるで「うちじゃ飼えないから返してきなさい」とでも言われた子供が意地を張っているようにも見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;巣箱を抱えてダイニングに戻ってきたリッカの顔は少し汗ばんではいたが、数十分前に浴びせられたメイの癇癪など意に介していない様子である。しかし、当のメイは少しばつの悪い心地がしていた。配信前で焦っていたからとはいえ、外に追い出すのはやりすぎだったかもしれない、と思ったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リッカ、外暑かったでしょ？　ごめんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メイったら、顔真っ赤にして追い出すんだもん。出てけー！なんて……ふふっ、久しぶりに言われちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あなた、もう少し怒った方がいいわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、どゆこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;けらけらと笑うリッカの顔を見て、メイは安心するより先に自分の心配が無駄になったことに呆れていた。もちろん穏便に済んだならそれでいいはずだが、どうも多少の口論に持ち込む覚悟があったらしい。もっと怒っていい――SNSには感情を嫌というほど増幅して効率的に注目を集めるスキームが溢れているし、メイは自然とそういう「怒る」技術を実践しているところがあった。しかし、それはリッカには伝わるまい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、なんでもないわ。ステーキ、焼いてもらってもいい？　ちょっと疲れちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、はい。できあがるまで可愛がってて。自宅で簡単ひよこセラピーね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リッカはテーブルについたメイの前にひよこの巣箱を置いてから、手早くお気に入りのエプロンを結んでキッチンへ向かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕食前のダイニングテーブルに滑り込んだ虹色ひよこの箱を見て、メイはこの前配信で紹介した海外の動物愛護団体のCMを思い出した。食卓に並んだ鉄板皿にミニチュアの動物が載せられて、まるで野蛮な踊り食いに供されるかのような演出だったのだ。メイはあまりに悪辣に描かれた家族の表情で思わず笑いそうになったのだが、視聴者は至って真面目にコメントを続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;箱の中でひょこひょこと歩き回る虹色ひよこには、メイのそんな取り留めのない連想など伝わるまい。実際のところ、メイもSNSの写真越しにしか見たことのない不思議な生き物をまじまじと目で追っているうちに、例のプロパガンダCMのシーンなどすっかり忘れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「案外可愛いわね、このひよこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;虹色ひよことは、虹色のカラーひよこである。虹色というと――そう、ひよこが羽毛を揺らして動くたびに、あるいはメイが視線を動かすたびに、黄色い部分が紫色や緑色の輝きに変化するのだ。しかし、こんな不思議な色でも羽毛は一本一本柔らかく、愛らしい動きとふわふわした質感は何らひよこと変わらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイはこの虹色ひよこを手で包み込みたいと思ったが、どう触ればいいのか分からず見つめることしかできない。メイはこれまで一度もペットを飼ったことがなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はーい、ひよこさん。おいしいニンジンだよ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、手際よく調理を進めていたリッカが、グラッセの余りとして出てきたニンジンの皮と切れ端を刻んで箱に放り込んだ。虹色ひよこは目の前の野菜くずをきちんと餌と認識したらしく、小さな皮の欠片からついばみ始めたので、リッカはうんうんと頷き満足げである。鶏に色の濃い野菜を与えると黄身の発色がよい卵を産むというが、しかしリッカはこの虹色ひよこの雌雄も知らずにいた。そもそも、虹色ひよこの卵に黄身と呼べる部位があるのかも、今は分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイは虹色ひよこがニンジンの切れ端をどんどん食べ進める様子をしばらく見つめていたが、突然何かに思い至ったようで、立ち上がってその目を大きく見開いた。そして、何を思ったかリッカが新しいニンジンを落とそうとする手を遮ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょ、ちょっと！　虹色ひよこは野菜なんか食べないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え？　食べてるじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「食べても消化できないの！　ほら、そんなの食べちゃダメ――い、痛っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイがうろたえた様子で箱の中から残りのニンジンを拾い上げようとしたが、目測を誤って空を掴む指をすかさずひよこのくちばしが襲う。貴重な餌を奪おうとした外敵の指には当然の仕打ちなのかもしれないが、一欠片も取り出せないまま悲鳴を上げて逃げ帰る姿は切ないものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ、じゃあ虹色ひよこは何を食べるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……どのサイト読んでも、砂糖菓子か角砂糖しか食べないって書いてるわ。ほら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お砂糖しか食べないひよこなんて、聞いたことないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リッカはメイが差し出したスマホの画面をろくに見もせず、そう返した。SNSにどっぷり浸かるメイにとっては疑うべくもない常識だとしても、リッカには検討する価値もない作り話である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、そもそも一ヶ月前なら存在そのものが作り話だった虹色ひよこが実際に目の前を駆け回ってるのだから、それが重度の甘党だったとしてもおかしくはないだろう。メイはそう思ったが、現に目の前でもりもり野菜を食べるひよこがいるのだから、個体差もあるのだろうと納得することにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仲直りに使いなよ、とリッカに渡された細長いニンジンの切れ端を差し出すと、虹色ひよこは何度か首を傾げてからその先端をついばんだ。数分前にメイが働いた無礼を許したのか、すっかり忘れたのかは分からないが、指先に伝わる感触から敵意は感じない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その子、なんて名前にしようか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、ただのひよこに名前なんて付けるの？　リッカに任せるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただのひよこ、なんてつれない態度をとっているが、メイは動物に手ずから餌を与える経験がほとんどなかったので、ニンジン越しに触れ合っただけの虹色ひよこに愛着を感じつつあった。そんなペットの名前を考えるなんて、メイにとっては初めての一大イベントのはずである。しかし、うるさいひよこと断じて一度追い出した手前、それをリッカに知られるのは少し恥ずかしくて言い出せなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が付けていいの？　えーと、じゃあ……メリーね。今日からあなたは、メリーだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リッカの声に答えるように「メリー」がぴよ、と短く鳴いた。メリーなんてひよこっぽくもない、むしろ羊に似合うような名前がするりと出てきたのを訝しんで、メイは首を傾げた。メリー……メ？　リー……もしかして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メリー……それって、もしかして私たちの名前の頭文字を取ったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、そうだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、意味分かんないんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たちのペットだもん。いいでしょ？　イッカ、メッカ、リイ、カメ……うん、やっぱり、メリーがいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイのメに、リッカのリ。語呂がよくなるように少し伸ばして、メリー。由来を考えれば、まるで二人の間に生まれた娘に付けるような名前だが、リッカはこの部屋の新しい仲間によく似合うと本気で思っている。このひよこを選んだのも家まで連れてきたのもリッカの独断で、本来ならメイが名前を分ける道理などないはずだが、いつの間にか「私たち」のペットになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、メイがひよこの愛くるしい動きに絆されない冷淡な心の持ち主なら、ペットなんて配信の邪魔だと反対し続けていただろうが、今はもう可愛いメリーを元の場所に返すことなど考えられない。それに、メイのセンスで思いつく安直な名前と比べれば、もはや「メリー」という名前さえ気に入り始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……まぁ、いいわ。でも、配信には絶対出さないからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はいはい」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;虹色ひよこがどれだけ美しい輝きを放つといっても、徐々に物珍しさが薄れて注目を集められなくなるのはSNSの常である。初めてその姿を現してから数週間が経ち、日常の一コマになりつつあった虹色ひよこは、面白い動きの猫や愛らしく駆け回る小動物のGIFアニメのような枠に収まってある種の定番と化していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水野ナオも、初めは虹色ひよこを通じて人間の残虐性や生物実験の恐ろしさを訴え続けていたが、インプレッションの伸びが明らかに鈍くなったので早々にそのトピックからは撤退していた。対するメイは、手ずからメリーに野菜くずを与えるのにすっかりハマっているが、結局まだ直接触れるには至らず巣箱の掃除はほぼリッカ任せになっていた。それでも、リッカがいない間は猫撫で声で話しかけたりして、二人の時間を楽しんでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな虹色ひよこが持て囃されていたSNSの空気が変わったのは、六月二十八日の雨の日のことである。虹色ひよこの無害で安全な印象は、この日を境に大きく変わることになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その日作られたばかりの匿名アカウントから突然投稿されたのは、キッチンやリビング、あるいは誰かの部屋らしい場所を床から無造作に映した無音のショートクリップの羅列である。初めはAI作品の試験的なアートアカウントとして扱われていたようだが、徐々に投稿の傾向が変わっていく。食事中の姿、着替えの隠し撮り、カップルの口論、違法薬物の服用、執拗な虐待……そして、そこに登場しているのは、いずれも実在の人物であった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然SNSに私生活を公開された人の中には、知人からの指摘で、あるいは直接その投稿の存在を知るに至った人もいたようだ。フェイク動画だと言い張っているのはバレると困る状況を撮られた少数派だけで、多くのクリップはどうもかれらの家で実際に撮影されたものらしい。そして、程なくして全員の共通点が虹色ひよこを家に迎え入れたことだと分かったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;発端となったアカウントはもう凍結されているが、プロフィールに書かれていたURLはいわゆる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;無防備なウェブカメラ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インセカム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のまとめサイトだった。これはパスワードがなかったり初期設定のままのウェブカメラをクロールし、注意喚起の意味も込めて一覧で公開しているサイトで、今回のアカウントとは運営者も目的も異なる。仮に投稿者をすぐに突き止めたとしても、このサイト自体は止めようがなかったのだ。そんな趣味の悪い覗きサイトに、床を歩き回る虹色ひよこの視点のライブ映像が大量に流れ込んだのが明らかになって、SNSはもう大騒ぎだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ただいまー。……って、ちょっと、メイ！　何してるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（しっ！　静かにして）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;焦燥した表情でメリーの巣箱にアルミホイルの切れ端を巻こうとしているメイも、そんな虹色ひよこの騒ぎに巻き込まれた一人である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数週間で一回り成長したメリーが窮屈しないように、最初に使っていた段ボールの巣箱から衣装ケースに引っ越していたので、これをすっかり包むにはかなりの量が必要だろう。巣箱の周囲は八割ほどがホイルを巻かれてテープで留められているが、上部を覆うには足りなかったようで、上から新聞紙を被せるという応急処置で次の策を練っている状態だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（いったいどうしたの？）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;濡れた折りたたみ傘を玄関に広げるリッカが、物々しい雰囲気のメイに合わせて小声でそう尋ねる。本当ならさっさとシャワーを浴びるつもりだったが、どうもそういうわけにもいかないらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（アルミホイルが欲しいの。ちょっと持ってきてくれない？）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（え、買い置きしてないよ。明日のセールで買う予定だったし）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんでよ！　それじゃ、電波が防げな――っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思わずそう叫んでしまったメイが自分の口を押さえるが、もちろん出してしまった声は戻ってこない。もう彼女の肉声データはどこかに送られてしまっただろう。メイは得体の知れない隠しカメラの前で大きな声を出してしまったのを後悔しながら、改めてリッカにひそひそと話しかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（実は、メリーが隠し撮り用のロボットだったみたいなのよ）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（どういうこと？　ちゃんと説明してよ）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（もう……これ、一番わかりやすいまとめだから、今すぐ読んで）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイがリッカに「【トロイの木馬】虹色ひよこスパイ事件まとめ【随時更新】」と表示されたスマホを手渡す。リッカがまとめ記事を読んで状況を理解するまでの間、メイはこれからメリーをどうすればいいのかについて考えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;SNSには虹色ひよこを「分解」してその機械の身体を明らかにしているアカウントが何個もあったが、そのいずれもAIの自動評価で動物虐待の判定を受けてBANされてしまった。しかし、メリーはもうすっかりこの部屋の一員になっていたし、スパイロボットかもしれないというだけで巣箱をひっくり返し、あまつさえその皮を剥いで中身を検められるほど、メイは切り替えの早い人間ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでメイは、せめて自分たちのプライベートが送信されるのだけはどうにか止めるために、巣箱を手近な金属で覆ってメリーの電波を遮断しようとしていたのだ。アルミホイルのような金属箔できちんとした電波暗室を作るには少し工夫が必要なのだが、メイがインターネットから得られる範囲の知識では、頭にアルミホイルを効率よく巻き付けるためのモルニ巻きの手順しかヒットしなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……じゃあつまり、メリーが外国から送り込まれた盗聴器ロボだって言いたいの？　このひよこが？　メリーが？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「（さっきからそう言ってるじゃない。あと、声に気を付けて。まだ電波を防ぎ終わってないのよ）」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お尻にネジは付いてたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイが唐突な質問にまた大きな声で答えてしまう。リッカの言葉に気を取られたせいで、メリーに声が漏れていることはもう気にしていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、ロボットの証拠。みんなお尻にネジが付いてたって言ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「見てないわよ。だって、まだ私……メリーに触ったこと、ないし……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;虹色ひよこのお尻には金属の一分ネジが嵌まっていて、それを外すと身体がバラバラに分解できる、というのはメイが渡したまとめサイトにもしっかり記されていた。しかし、メイは騒動の初めに真偽の分からない噂を一通り読んだきり、続報は何も調べていなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わずかな情報で感情のままに躊躇なく突っ走るメイの性格は、ある意味水野ナオの人気を支える個性でもあったが、こうして無駄なアルミホイルに巻き込まれる当事者には迷惑なものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、見てみようよ。見たらすぐ分かるでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう告げたリッカが巣箱から新聞紙を剥がすと、メリーは思いがけない夜が来たと勘違いしていたのか、目を閉じてじっと隅に座り込んでいた。リッカはそんなメリーを器用に手で掬い上げて、さっとお尻の羽毛をかき分ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイが触れようとするとピーピー騒いで暴れ出すのに、リッカにはまるで親鳥のように身体を任せているのは、どうにも不思議なものである。メイはメリーが盗聴器ロボだと思い込んでいたのも忘れて、リッカの手の上で眠る姿を呆然と目で追うことしかできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら、やっぱりネジなんかないよ。それに、盗聴器ロボはずっとひよこのままで、こんな風に大きくならないんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロボットはふんもしないし、野菜も食べないの。そうメイに言い聞かせるリッカは、彼女がインターネットに振り回される姿にもはや呆れかえっているようで、当たり前にも思える一言一言を順番に噛み砕いてみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……いっぱい映像が流出してて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、うちのメリーはちゃんとひよこだよ。私たちの家族！　メイ、ちゃんと記事は読んだの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「盗聴されてるって聞いて、慌てちゃってたかも……ごめん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイはそう答えると、見えない敵に立ち向かって張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったようで、その場にへたり込んでしまう。彼女は彼女なりに謎の巨悪に立ち向かっていたはずだが、あれこれ考えた戦略が徒労に終わった無力感と、空回りのまま突き進んだ恥ずかしさがごちゃごちゃになって、床を見つめるメイの目には涙が溜まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、新しいアルミホイル買ってきて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……なんで、私が」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;下を向いたままそう答えるメイは、声が震えるのを抑えられない。強気なメイが素直に謝るほど追いつめられたときは、いつもこうだ。メイ自身は泣きそうになっているのをどうにか隠し通したつもりだが、もちろんリッカにはその様子は筒抜けだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「無駄遣いした分。もちろん、メイの自腹だからね？」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あれからさらに数ヶ月。SNSをいろいろな意味で広く賑わせた虹色ひよこは、二度のブームを経てすっかり忘れ去られてしまった。多くのひよこは飼い主の手で分解されて廃棄されたが、一部の個体はそのまま外に捨てられて、ビルの物陰や公園の草むらの中から動画を配信し続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、もともと人の目を引くためだけに設計された虹色の身体は、自然界ではただの足かせである。野良猫や鳥のおもちゃとして弄ばれ、通行人に見つかれば足や傘の先で端に追いやられるしかない。元々飼い主に与えられていた砂糖菓子は体内の砂糖電池セルの燃料になっていたらしく、どうにか逃げ延びた個体も徐々に電池切れで力尽きる運命にあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;覗きカメラ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インセカム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;サイトに連日並んでいた虹色ひよこの配信も日に日に姿を減らし、誰が何のために送り込んだのかも解明されないまま、季節はいつの間にか夏を通り過ぎてもう秋も終わりかけている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな悲惨な結末を辿ったひよこロボットたちとは反対に、メイとリッカと共に暮らすメリーは立派な雌鶏に成長していた。しかし、幼い頃に彼女の身体中を覆っていた虹色の羽毛は、今やごく平凡な白いふわふわした羽根に生え替わっている。成鳥になるまでは数日おきに何度換羽しても虹色の羽毛に生え替わっていたので、カラーひよこのように染料で着色されたわけではなかったようだが、大人になって魔法が解けてしまったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭頂部の小さなとさかも鮮やかな赤色で美しいものの、やはりかつての珍奇な虹色ひよこの面影はなくなっている。雄鳥と違ってあまり大きな鳴き声も上げないので、すっかりメイとリッカの暮らしに馴染んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「結局、メリーってどういう生き物だったわけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、ひよこでしょ？　ほかの子とちょっと色が違うだけの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、支援室の前にあったひよこって、勝手に置かれてたのよね。出所の分からない生き物って……まぁ、ちゃんと育ったからいいんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうそう。この前掲示板に『支援室では、六月に行われたひよこの配布には一切関与しておりません』って書いてあったから、びっくりしちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうやらリッカは、その下に貼られていた理学部生物学科の学生数人に対する停学処分の告示は見逃していたようだ。とはいえ、もしその告示が目に入っていたとしても、処分理由の「カルタヘナ法違反で罰金以上の刑に処されたため」という内容を読んで、メリーに関係するものだと推理できるかは微妙なところである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、この部屋でメリーを飼っているのが知られると二人も少々危ういのだが、メイもリッカもそのことは知る由もない。これほど見た目が凡庸な鶏になってしまった今では、もはやDNA同定検査にでも回さなければバレることはないだろう。メリーが虹色の卵でも産むようになったらまた話は変わるかもしれないが。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「虹色ひよこって、もうSNSで注目されてないんでしょ？　そろそろメリーのことを紹介してもいいんじゃないかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ダメよ。今は虹色ひよこを送り込んだ国について考察してるんだから。陰謀論ってすごいわね。ヴィーガンの盛り上がりと全然違うのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メイったら、懲りないね。いつかメリーに正体をバラされても知らないよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メリーがそんなことするわけないでしょ？　ねぇ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう呼びかけられたメリーが、タイミングよくココッと短い鳴き声を上げる。まるで「もちろんよ」とでも答えるようなその声を聞いて、二人は顔を見合わせて笑うのだった。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>10th PARK road side</title><link href="https://ama.ne.jp/post/10th-park/" rel="alternate"/><published>2024-05-01T23:58:00+09:00</published><updated>2024-05-27T17:49:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-05-01:/post/10th-park/</id><summary type="html">&lt;p&gt;今年も軽自動車ぎゅうぎゅう旅が始まります！&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品はURAHARAおよびPARK Harajuku: Crisis Team!を元にしたファン・フィクションです。これらの作品の公式設定を追加または削除したり、置き換えたりするものではありません。 */&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://www.park-harajuku.com/topics/4054/"&gt;PARK10周年記念イベント&lt;/a&gt;のために書かれました。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt="~りとことまりの軽自動車ぎゅうぎゅう旅" height="852" src="/images/10th-park/top.png" width="600"&gt;&lt;br&gt;
&lt;cite&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/artworks/119117804"&gt;りとことまりの軽自動車ぎゅうぎゅう旅&lt;/a&gt; by ごまふわラビ&lt;sup id="fnref:no-cc-by"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:no-cc-by" title="このイラストはCC BY 4.0でライセンスされていません。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_1"&gt;川崎駅（西口）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;川崎駅の西口乗降所で腕時計を見ながら迎えを待っていたまりが、突然目の前に止まった車に少し身構えたのは、その小さな白い軽自動車の姿が彼女の予想からかけ離れていたせいだ。既に約束の10時からは20分ほどが過ぎていて、直接日差しが当たらない連絡橋の下に立っていても、左右から流れる空気は初夏の匂いをまとっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりはまるで無関係な車だと思ってしばらく訝しんでいたが、助手席の窓を開けて現れたのは「まりちゃん、おはよ～！」と手を振ることこの姿だった。白いブラウスに重ねられたネイビーのチルデンニットベストは、薄手で編みが軽やかな生地のおかげか、この陽気の中でも動きやすそうである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あら、おはよう……ことこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、ごめん。道が混んでてちょっと遅れちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄緑色の偏光グラスを外したりとが、ことこの横から顔を出す。どこかの古い外国企業のものらしい大きくて派手なロゴの入ったオーバーサイズの綿Tシャツは、先日代々木公園のフリーマーケットで手に入れたものだ。厚手の生地がよくこなれていて、ことこのニットベストとは逆にどっしりとした存在感がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気にしてないわよ。うん、大丈夫」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2人に向ける笑顔がひきつるまりだったが、その言葉自体に嘘はなかった。わざわざ目的地と正反対の川崎まで迎えに来てもらっている以上、数十分ほどの遅刻を咎める気はなかったし、浜辺で花火を楽しめるゴールデンタイムはまだまだ先である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりの頭を悩ませていたのは遅刻ではなく、小さな目の前の車そのものだ。りとは滑り込みで偶然安く借りられたこの車を気に入っていたようだが、まりにはただの年季の入った軽自動車にしか見えない。ふわりとしたアイスブルーの生地にホワイトローズをあしらったジャンパースカートと、レースたっぷりの日傘を備えたエレガントなクラロリ姿に、こんなちんちくりんでゴツゴツした車なんて似合わない――とまりは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりの美的センスには合わない見た目はもちろん、自宅からここまで引いてきたキャリーケースもそれなりの大きさで、既に2人の荷物で半分ほどが埋まった荷室に収まる様子が全く想像できないのも気がかりである。まりの目には後部座席も荷室のおまけみたいな狭さに映っていて、こんな場所に詰め込まれたらスカートにしわができるのではないか、と心配になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ことこ。荷物を乗せたいんだけど、手伝ってくれるかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、分かった！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと大きなキャリーで来ちゃったから、隙間がなくって――あ、入るのね。それなら……うん、よかったわ。ありがと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな車に3人も乗れるものか、と荷室の現状を見せてことこを味方につけるつもりのまりだったが、バックドアを開けると意外にも荷室は広々としている。ことこがてきぱきと荷物の向きを揃えて整理し終えると、まだスケボーがもう2本くらいなら縦に収まるほどのスペースが残っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後部座席も最初の印象よりは広かったようで、日傘を畳んでおそるおそる乗り込んだまりは、2人分の席ならぎりぎり座っていられるわね、と胸を撫で下ろした。とはいえ、やはり快適にはほど遠い。前のシートや左右のドアから感じる圧迫感を隠しきれない中で、優雅なスカートの裾を座面いっぱいに広げて座るまりの姿は、さながら狭い路地裏でピクニックに興じるお嬢様のような退廃を思わせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、いったん環七まで戻ろうかな。あとは6号線に乗れば流れで着くよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オッケー。目的地設定しちゃうね。まりちゃんは先に行きたいところある？　あ、花火グッズは揃ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうね……今はいいわ。途中でどこか寄りたくなったら、任せてもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、分かった！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;乗降所から車を転回して東京方面へ。多摩川を渡る車内から窓越しの河川敷を眺めていたまりが、ふぅと一息ついた。やっとこの状況に慣れてきたようで、身代金目的で誘拐された令嬢ってこんな気分なのかしらなんて思いつつ、前に座る2人に向かって不満をこぼし始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、りと、ことこ。もっと大きな車、借りられなかったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ？　ワークスの8代目がレンタカーに出てたから、なんか面白くて借りちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、アルトワークスっていう10年前くらいの車で、昔は軽ホットハッチってジャンルで人気だったみたい。軽くて小さいけどちゃんと馬力があるんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「馬力？　ことこ、そうじゃなくて……いや、忘れてたわ。りとってこういうちっちゃい車ばっかり選ぶわよね。卒業旅行の時もそうだったもの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後に3人で旅行に行ったのはもう3年も前のことで、ことことまりの卒業に合わせた卒業旅行だった。卒業とは関係のなかったりとも「じゃあ、今年でフリーターは卒業ってことで」と参加を決めたので、無事に3人での旅行が実現したのだ。3泊4日という長期のレンタカー費用を抑えるために、格安店を探してボロボロの軽自動車を借りたものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちなみに、3年前にそんな宣言をしたりとは、もちろん今もちょこちょこバイトをしたりイラストを売ったりして気ままなフリーター生活を送っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりには、この狭くてよく揺れる上にうるさい軽自動車がどれほど珍しい車なのかは全く分からない。そもそも3人のうちで一人だけ運転免許を持っていないせいもあり、自動車そのものにさほど興味がなかったのだ。りとのスクーターに同乗する時は少し心地よささえ覚えるエンジン音も、今日はどうも耳障りな響きが残って腰が落ち着かない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「3人なんだからこれくらいでいいじゃん。加速もよくて楽しいし。まりはどんな車がいいわけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大きい方がゆとりがあっていいに決まってるわ。家ではパパが、えぇと……ボクシーに乗ってるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ヴォクシーね。やっぱ3人で乗るには燃費悪いかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、カボチャの馬車にしましょ。これなら給油の必要はないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「馬は公道走れないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、りとちゃん。馬車は軽車両の扱いだから、ちゃんと訓練すれば走れるよ！　でも、ニンジン代を考えたらガソリン車よりも高くなるかも。まりちゃん、ちょっと計算してみてもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、言っておくけど冗談よ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、私も冗談だよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつもなら、ここからさらに「ニンジンを目の前にぶら下げたらお金もかからないわ」なんて飛び出しそうなところだが、まりは代わりにわざとらしいため息をつく。ちょうど道路の少し大きな段差を拾って座席が揺れたせいで、車の小ささを改めて味わうことになったからだ。まりは乱れた呼吸を整えるように、そっとスカートの裾を押さえた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ……つまり、ただ面白かったってだけで、この狭くてカーナビもETCもついてない &lt;em&gt;マニア&lt;/em&gt; 向けの車を借りてきたの？　本気で？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「カーナビは、ことこがやってくれるもんね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ナビは任せて！　このアプリ、最新の渋滞予測システムが入ってるんだよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地図が表示されたタブレットを持ち上げて振り向いたことこが、そう言ってまりに笑いかける。ETCもまともなカーオーディオもない中で、まりに「それなら、いいけど……」なんて言わせてしまうのは、ことこの魅力があってこそだろう。もしもここにことこがいなければ、車を降りるまでどうでもいい口論が続いていたところである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りと、タバコだけは絶対吸わないでよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「禁煙車だから大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんたね――いや……まぁ、いいわ。運転よろしくね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔りととまりの2人で行った突発の旅行で、りとが禁煙室なのを忘れてうっかりタバコを吸ったプチ事件を忘れたのかしら。そう皮肉を刺そうとしたまりだったが、ことこが知らないエピソードを持ち出したら余計に話がこじれそうなので口をつぐんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、りととことこがまともな車さえ借りていればこんな心配する必要もなかったのに、とまりは狭い天井を見仰いでため息をつく。なんだか没落貴族みたい。あぁ、どうしてこんなことに――&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="park"&gt;PARK（前日）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、りと、ことこ。明日、3人で海を見に行かない？　夏を先取りするの。浜辺で花火なんてどうかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう提案したのは、まりだった。梅雨すら迎えていないゴールデンウィーク直前の4月下旬に「夏を先取り」というのはいささか早すぎるけれど、SNSではそういうひと味違った投稿が注目を集めるものだ。春の陽気をのびのび楽しむ投稿の横で線香花火をパチパチさせれば、きっとみんな目を奪われるに違いない。それに、まりがどうしてもゴールデンウィークに合わせて投稿したい理由は他にもあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょうどレジ締めを終えて帰り支度を始めたりとは、「んー、いいじゃん」とまりに向き直らないまま生返事で答える。りとは、きっとPARKの10周年記念企画のネタ集めだろうな、とまりの思惑を既に見抜いていて、そのせいで少しだけ億劫な気持ちになっていた。まりがPARKのInstagramで #りとまり 写真を投稿する時は、いつもポーズがどうの立ち位置がどうのと時間がかかって面倒だったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局いつも、カメラに目線も合わせない無表情のりとと、ばっちり笑顔で視線を送るまりという謎の構図が生まれてしまうのだが、それはそれで2人の良さが表れていて人気がある。 #りとまり の中でも特に「いいね」が多かったラブホ女子会での投稿は、実はことこもかなり気に入っているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はーい、行く行く！　3人で遠出って久しぶりだよね。私、海も花火も大好き！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外から戻ってきたばかりのことこが、右手を上げて飛び跳ねながらそう答えた。脇に抱えたスタンド看板には「PARKはなんと10周年！」とセールやイベントを予告するポスターが貼られている。看板をがたがた鳴らしながら「楽しみ！」「嬉しい！」「大好き！」と全身で喜びを表現することこは、どうやらまだ10周年企画の撮影が目的だとは分かっていないようだ。しかし、ことこはりとと違ってまりのSNS運営に協力的だから、企画のことを聞いたらむしろ喜ぶに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこの言うとおり、ここ数年はりとことまりの3人で旅行に行く機会がなかった。PARKでの仕事の後にご飯に行ったり、休日にせいぜい都内で済むような買い物に行っていたくらいだ。まりは専門学校を出てすぐはデザイナーの修行で忙しく、PARKに来る頻度も2人に比べれば少なかったし、何度か予定を合わせようとしたものの、今度はまりの休みにことこの学会参加が重なったりしてなかなか実現しなかったのだ。だから、ことこにとっては日帰りの旅行でも飛び上がって喜ぶ一大事である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん、誘ってくれてありがとね！　すっごく楽しみだよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そう？　そんなに喜んでもらえるなら、嬉しいわ。りとも来るわよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……でも、りとちゃん、明日、タバコ屋さんのバイトじゃなかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は平気。もともと暇な時だけ行く約束だったし。休むってLINEしておくから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとは叔父が経営する新宿のタバコ屋で、小遣い稼ぎ程度の手伝いをしていた。叔父が不在の日に店番を務めるというだけで、やることはPARKでの仕事とあまり変わらない。タバコ屋と言いつつ、効能のよく分からないお茶やエスニックハーブ抽出物、出所の知れない天然の毛皮を使ったふわふわのキーホルダーも取り扱っていて、しかしそれらが合法なのかはよく分からないまま棚に並べられている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;座っているだけでお金がもらえるから楽だというりとの半分冗談混じりの説明と、新宿歌舞伎町の路地の奥にあるという立地を踏まえれば、おそらく怪しい店であることだけは確かだった。密かにことこが毛皮のキーホルダーをDNA分析にかけたところ、ワシントン条約で保護された動物の可能性がある、という結果が出たことについてはここで触れておくべきだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとはしばしば面倒な仕事をこのバイトを言い訳に断っていたが、今日はこの突発の旅行を優先するようだ。10周年の撮影企画自体には気が乗らないりとも、今回ばかりは3人で過ごす時間が楽しみなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、決まりね！　りと、車は任せていいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オッケー。川崎まで拾いに行った方がよさそう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。ちょっと準備もあるし、駅前まで来てくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーっと、ことこは中野集合でいい？　前に使ったレンタカー屋でいいかなって思ってて。あそこならスクーター出さなくて済むし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アーケードを抜けて左に行ったところだよね？　うん、大丈夫だよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが持っている125ccのスクーターは、ことこの手で大幅な改造が加えられているが、見た目では分からない。わずかに燃費が悪いことを除けば、街中を走っていてもバレるわけがない、とことこは主張している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実際、りとがよくスクーターと街の風景をInstagramに投稿していたが、確かに気付かれる様子はないようだ。それに、 #りとまり や #りとこと でのちょっとした遠出ならこのスクーターの出番で、何度もいろいろな場所を走っているが、やはり咎められたことはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「花火は私が持って行くね。去年使わなかったのが残ってるんだ～。せっかくだし、ブログで花火の解説も書こうかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが運営するサイト「ことことサイエンス」は、もともとお菓子作りの過程を化学的視点から語る料理ブログだった。過去にりととまりがゲスト出演した回が何本か残っているらしい。その後、化学解説パートの独自性で人気を集めてからは、料理に限らず日常の化学について紹介する雑学ブログの毛色が強くなって今に至っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;料理ブログの時代から購読しているのはファンにとってはある種のステータスらしく、お菓子作りに絡めた内容で古参らしさをアピールするコメントも多い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みんな予定が合ってよかったわ。明日が楽しみね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;笑顔でそう告げるまりは、このままとんとん拍子に準備が進んで素敵な旅になるだろうと疑いもしない。それがまさか、狭い後部座席に押し込められて &lt;em&gt;素敵な旅&lt;/em&gt; を過ごすことになろうとは、この時は知るはずもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="6"&gt;国道6号&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;――と、いうわけである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それでね、今日撮った花火の写真をまとめて10周年の企画に使おうと思ってるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、新しい除煙フィルターも使ってみようよ！　必要だと思って何枚か持ってきたんだ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;行程は国道6号線を半分ほどまで進んでいた。幹線道路を道なりに走るだけ、と表現すれば退屈そうな時間だが、道路が比較的空いている平日の昼間はストレスも少なく、りとは出会ったばかりの相棒とすっかり意気投合して既にアクセル過多である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりも初めは辟易していた手狭な座席の居心地の悪さに慣れたようで、今は助手席のことこと楽しそうに話しているし、ことこも時折スピードメーターが制限速度の30km/h超に近づくタイミングでオービスの位置を気にするくらいで、それ以外はおおよそまりとの会話を楽しんでいた。ことことまりは普段から街の喧噪の中でおしゃべりしながら歩くのに慣れていたので、エンジン音くらいなら気にならないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;川崎駅を出てからおよそ2時間。6号線が利根川と交差する。1km超の大きな橋を渡りきったあたりで、茨城県と取手市のカントリーサインを見つけたまりがふと疑問を口にした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、あとどれくらいかかるの？　そろそろお尻が痛くなってきたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょうど半分くらいまで来たよ！　東京抜けるまで渋滞がひどかったし、2時間はかからないんじゃないかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「2時間ですって!?　茨城県ってそんなに広いのね。ねぇ、せめて高速に乗りましょうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、ETC付いてないからちょっと面倒かも。ていうか、今は高速の方が混んでるんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと待ってね。んー……三郷は過ぎてるから空いてそうだけど、もう常磐道からは離れてるから、30分くらい戻らないと合流できないかも。ごめんね、まりちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何本かカラフルなルートが引かれた地図を見せることこだったが、そのいずれも今走る道を素直に北上するのが最も効率的という結果を示している。6号線をそのまま進んで1時間先のつくばで高速道路に合流するルートも下道に比べればせいぜい数分差で、まりの負担を軽減するには力不足だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの？　なんだか最悪のルート予測だけど、それならしょうがないわね。別にことこが謝ることじゃないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昨日旅の準備を進めていた段階では、どうせなら茨城あたりの海岸まで行きたいと言っていたまりだったが、今となっては無理せず近場――三浦半島とか、せめて木更津くらい――に行けばよかったと後悔していた。しかし、発電所の夜景が穴場みたいだよ、ということこの話も少し心に残っていて、ただ引き返すのももったいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「早く行きたいなら、スピードはまだまだ出せるよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃん、それはダメ！　オービスがあるって言っても全然聞いてくれないし。さっきも危なかったんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんごめん。冗談だから、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょうど信号で車が止まったので、りとがことこの頭を撫でて落ち着かせる。りとの気持ちがスピードに乗るのはスクーターでもホットハッチでも変わらないが、今日はナンバープレートが前にも付いているので、心配も二倍多くなる。オービスの位置は逐一アプリがアナウンスするのだが、りとはあまり参考にしていないようで、そのたびにことこはスピードメーターを横目に見ながら肝を冷やすのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんか卒業旅行を思い出すわね。高速使えばすぐなのに、節約しようって無理に下道で遠回りして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃんの鬼の峠攻め、本当にすごかったよね！　死ぬかと思ったもん。まりちゃんなんて途中で気持ち悪くなって、ゲロゲロ～って――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、ことこ!?　そんなこと思い出さないでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、専門の時にメイドカフェでバイトしてたよね。あれも懐かしいなー」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりが一時期池袋のメイドカフェで働いているのを2人に隠していたのは、PARKでの接客よりももう一段高い声で客に給仕する姿を見られたくなかったからだ。言わなければバレなかっただろうに、雑談の流れで思わずことこに話したのが最大のミスである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どういうわけかことこからその話を聞き出したりとが来店してしまい、張り付いたような笑顔で接客することになったのは、まりにとっては今でも黒歴史だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その翌日に3人が揃ったPARKは、ある種の修羅場だった。りとはまりの怒りの主張なんてどこ吹く風だし、ことこも自分の口の軽さを反省する一方で「私もメイドまりちゃんに会いたかったのに～！」と言い張って、まりを困らせた。そもそもまりが口を滑らせたのが原因なこともあり、あまり強く言い返せなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その後、まりのメイドカフェバイトの話は暗黙のうちにタブー扱いになっていて、今日のこのタイミングまで4年ほど触れられずにいた。まりは2人にバレてからもしばらくバイトを続けていたようだったが、流石に卒業前は忙しくなって辞めたようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りと、その話はもうしないって約束だったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだっけ？　まぁ、もう5年くらい前のことなんだしいいじゃん。メイドのまり、PARKにいる時より可愛かったし。ね、ことこ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん！　……す、すごくよかったよね。あのチェキ、伝説級っていうか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこはまりがメイド時代のことに触れられたくないのを察していたので、勢いよく理想のメイドまり像について語り出しそうになるのをぐっと我慢して、控えめにりとの言葉に同意する。仮に今りとと2人だったら、メイド服姿のまりが手でハートを作ってウィンクする「あのチェキ」をもう一度見せてくれるよう頼み込んでいただろうが、今その話題を持ち出したらチェキごと燃やされかねない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとは本当にメイドまりのことを可愛いと思っていたし、実際にはその姿を見ていないことこにまでその可愛さを共有できるのはなんとも嬉しいものである。しかし、まりは不意打ちでその姿を見られた恥ずかしさや怒りを思い出して、どうも冷やかされているように感じてしまうらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら、ことこもメイドまりは完璧だって言ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はぁ？　あれは仕事だったからで、あんたたちに見せようとしたわけじゃ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「り、りとちゃん！　次の交差点を右に曲がった方がいいみたい。ちょっと渋滞してるって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ん、ありがと。ことこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヒートアップしそうな気配を感じたことこが、唐突な交通案内で会話を中断させた。本当はどこにも渋滞なんてなかったのだが、運転中に最も差し込みやすいのはこういう急なアナウンスである。わずかに迂回したところで到着時間は数分も変わらないし、もしもの時はまた使おう、とことこは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、まり、そろそろお腹空かない？　石岡のあたりにおすすめのラーメン屋があるんだけど、どう？　前にことこと行ったんだけど――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この服でラーメンなんて食べるわけないでしょ！　私はコンビニで済ますから、先に寄ってよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あっそ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう畳みかけるまりにりとがやり返さないのは、口論の応酬で熱くなるのを避けたのではなく、ただただりとが返事をするのも面倒になったにすぎない。りとがこうして口を閉ざすと、ムキになったまりが食ってかかるのでむしろ逆効果ともいえる。まだ目的地にも着いていないのに大丈夫だろうかと、ことこは先行きが少し心配になった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃん。本当にまりちゃんも一緒じゃなくてよかったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいよ、別に。まりはコンビニ飯の気分なんでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、そうだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段なら運転の途中で食事をとる時は「眠くなったら困るから」と控えめな注文を心がけていたりとだったが、今日はそのルールを破るように平坦な声でトッピング全増しの特製ラーメンを頼んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこの注文は岩のりがたっぷり乗ったラーメンだったが、りとの注文を聞いたせいか、思わず食べるつもりのなかったチャーシュー丼まで追加している。さっきまでりとの運転を見守ったり、まりのいらだちをなだめたりするのに集中していて気付かなかったようだが、ことこもかなり空腹だったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。ことこもお腹空いてたんだね。私も久しぶりの車の運転でエネルギー使っちゃった気分」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、だから大盛りなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。まりが食べない分、いっぱい食べちゃおうかなって。トッピング、ことこにも少しあげるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが感じ取っていた雰囲気とは裏腹に、りとは久しぶりのラーメンへの期待でわくわくしている様子である。りとのいたずらっぽい笑い声は、ことこと2人で出かけている時のものと変わらなかった。てっきりことこは、りとがまりの態度にイライラしているのだとばかり思っていたが、どうやら本当に疲れているだけだったようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それなら、なおさらまりと一緒にこのラーメンを楽しみたかった、とことこは残念がった。りととことこが何度も一緒に行った店なのに、まりだけが仲間外れというのは少し寂しい。今日のラーメン店のことだけではなく、ことこは一人だけ知らないことがあるのを嫌がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、せっかくおいしいラーメンだから、まりちゃんにも知ってほしかったな～……なんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん？　まりがラーメン用の服の時にまた来るから大丈夫だよ。でも、今度は3人で行こうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……そっか。そうだよね！　うん、楽しみ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがまりをのけ者にするつもりがないのが分かって、ことこはやっと胸を撫で下ろす。口数の少ないりとは誤解されやすいタイプではあるのだが、もう10年の付き合いともなれば、ことこもりとの気持ちをだいたい理解できるつもりである。しかし、まりに関することになると、今でもその態度がどうも分からないのだった。イライラしているように見えるのに、まりの好きなところを語ってみせたり。静かにしていると思ったら、急にまりに詰め寄ってみたり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが日記でも読ませてくれたらいいのにな、なんて思いながら、ことこは到着したばかりのどんぶりからゆっくりとスープをすすった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="51"&gt;国道51号&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ラーメンは断るのに、モゲットは食べるんだ。素敵なご令嬢だね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人に見られなきゃいいの。こんな可愛い服でどんぶりから麺をすするなんてありえないわ。スープも跳ねちゃうし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、下妻物語みたいでいいんじゃないかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「全然違うわよ。あら、一緒に観たことあったかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！　前に1回だけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラーメンを食べ終えた2人が車に戻ってから、まりの主張でことこと席を入れ替えることになった。この先はナビがほとんど必要ないくらい分かりやすく、必要な指示は後ろから出せるから大丈夫だよ、とことこも賛成したのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;助手席の方が広いと信じて移動したまりだったが、既に後部座席の方が広かったと後悔している。もともと2人分の席を一人で使っていたわけなので当然だが、隣の芝生は青く見えるものだ。りとがシフトレバーに手を伸ばすと肘が脇腹に当たりそうになって、座席の狭さを嫌でも意識してしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、乗り込んでから3時間以上の付き合いになるせいか、この狭さにもある種の愛着が湧いてきたらしい。視界がシートに圧迫される後部座席よりも景色はよく、国道沿いに広がる鬱蒼とした新緑が左右にぐんぐん流れていくのを感じて、まりは不思議な高揚感を覚えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりはコンビニで買ったサーモンナゲットの期間限定「特製モゲットしょうが味」の最後の1個を食べ終えて、いつも愛飲しているシリカ水で口を潤した。魚肉と大豆たんぱくをうまみ調味料で繋いだホットスナックの定番商品はいかにもジャンクな味で、原料に関する妙な都市伝説や「食べるな」系新書の常連である。まりはモゲットが6個入りだった頃からの愛好家で、限定フレーバーが出るたびに欠かさず入手しているほどなので、それらの噂を気にしている様子はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さて、着いたよ。思ったより早かったね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃん、運転お疲れさま！　花火の準備は私に任せてね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとはビーチに併設された高台の駐車場をぐるりと周ってから、浜辺がよく見える隅の方に車を停めた。真夏なら1回2000円でも入庫待ちで列をなすような好立地の駐車場だが、今日のようなシーズンオフの平日は無料開放されていても車はほとんど入っていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エンジンを止めて車を降りると、よく晴れた日差しに暖められた初夏の空気がどっしりと3人の身体を包み込む。まりはエアコンの効いた車内では出番がなかったハンディファンを首に提げて、レインボーに光る羽根をくるくると回しながらわずかな涼を取り始めた。時刻は既に16時を回っていて、淡く光る空は少しずつ夕暮れに向かう準備を始めている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは荷室に詰め込んだ荷物をパズルのように取り出して、徳用花火バッグ、バケツとろうそく、ロングライター、お手製のフィルターガラスが入ったケースをリュックにまとめた。今日は風が弱いので、除煙フィルターが性能を発揮する理想的な環境である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとはライターとタバコだけをポケットに入れて、2人を待たずに裸足で砂浜に降りていった。それから「まり！　ことこ！　砂が気持ちいいよー！」と上に向かって手を振る。「りとちゃん、ビーチサンダルあるよー」とリュックを背負ったことこも砂浜への階段を駆け下りて、柔らくて温かい砂を踏みしめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりもそんな2人の後ろでハンディファンの風に一通り満足したようで、白い厚底のショートブーティでアスファルトを何度かこつこつと鳴らしてから、水色の薄いオーガンジーに包まれたフリルサンダルに履き替えた。それから、ゆっくりと階段を下りて2人の元にたどり着くと、海辺の開放感を味わうように大きく背伸びする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっと着いたわね。狭い車って身体を縮めなきゃいけないから、肩が凝っちゃいそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりは身長が大きいからね。帰りは後ろに座ったら？　ナビも苦手なんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、私にも道案内くらいできるわよ。りとがせっかちなだけじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりが私の運転についてこれないだけじゃん。卒業旅行のこと、もう忘れたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なによ！　とにかく、帰りも助手席がいいわ。私、りとの運転は好きだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あっそ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まぁまぁ、2人とも。まだ明るいし、ちょっと砂浜でも歩こうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが2人の間に割って入って手を握る。一段小さいことこが真ん中に立つと、砂浜に映る影はまるで親子のようだ。まりが企画のアイデアを話したり、ことこが発電所の夜景について解説したり、りとがビーチに似合うタバコについて語ったりしながら、少しずつ日が暮れていった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt="~10th PARK ADV" height="1680" src="/images/10th-park/beach.gif" width="2048"&gt;&lt;br&gt;
&lt;cite&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/artworks/119100054"&gt;10th PARK ADV&lt;/a&gt; by かたぎりあまね&lt;sup id="fnref2:no-cc-by"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:no-cc-by" title="このイラストはCC BY 4.0でライセンスされていません。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「あ、あ……落ちちゃったわ。また私の負けね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えへへ。揺れを先端に伝えないためのコツがあるんだ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3人で囲んだ最後の線香花火は、りとが早々に脱落した後に、まりとことこの静かな戦いを経てぎりぎりでことこが火玉を守り抜いた。たくさんあった徳用花火はまり &lt;em&gt;監督&lt;/em&gt; の下で半分ほどが企画の撮影に使われてから、残りはそれぞれ自由に花火を楽しんで、今ちょうど使い切ったというわけだ。3人が立つ砂浜は夜暗を取り戻して、消えかけたろうそくの炎だけが3人の顔を照らしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「帰る前に、ちょっとタバコ吸ってきてもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;答えを待たずに砂浜の闇に消えたりとの姿が見えなくなって、しばらくすると赤い炎がちらちらと明滅し始める。3人の中でタバコを吸うのはりとだけで、まりが服に匂いがつくのを嫌がるので、近くでは吸わない約束になっていた。ことこはりとの喫煙する姿が好きだったし、りとのタバコの匂いなら気にならなかったので、シャンブルの喫煙所ではりととことこが一緒にいる姿を見かけることも多い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ろうそくに顔を近づけるようにしゃがみ込むことこに合わせて、まりも隣に腰を落とした。ここからはしばらく2人だけの時間である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん、今日は誘ってくれてありがとね。私もみんなとで出会ってから10年だし、何かしたいと思ってたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でしょ？　PARKの企画はもちろんだけど、やっぱり私たちのお祝いもしないとね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「PARKのアニバイベント、りとちゃんはあんまり来てくれないもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。りと、ライブで話すのが苦手だからって、タバコ屋さんのバイトで埋めちゃうんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;PARKの周年記念イベントでは、毎回新しいグッズやクリエイターとの交流企画を打ち出していて、その告知をInstagramのライブで行うのが定番である。しかし、カメラに向かって明るく楽しくプレゼンするなんて性に合わないりとは、叔父のゴールデンウィークの予定にかこつけてタバコ屋に逃げ込むのだった。そのせいで、告知ライブはまりとことこの2人が担当するのがお決まりになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今年はりとちゃんもイベントに来てほしいなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこが泣いてお願いしたら、きっと来てくれるわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうかなぁ……私の涙で？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうよ。ことこって、人たらしなところがあるのよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;泣き落としを持ち出すような機会はこれまでなかったが、感情の起伏が激しいまりならまだしも、りとには通用しないだろうなとことこは思った。昔、何かのきっかけでことこが泣き出してしまったとき、りとは慌てずにことこを優しいハグで落ち着かせてくれたからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、性格も好みも違うこの3人がPARKという場所で10年も活動し続けられたのは、ことこの明るくて人懐っこい性格のおかげと言っても過言ではない。PARKの設立初期、ことこが来るまでの数週間はりととまりの2人で運営を担当していたが、細かい方針の違いでよく言い争っていた。だからこそ、空中分解を恐れたオーナーが急いでことこの採用を決めたのであろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あのね、まりちゃん。今日のお昼のことなんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたたちが行ったラーメン屋さん？　それがどうかしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「絶対行かないーって言ってたけど、おいしいラーメン、本当に興味ない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おそるおそる話を切り出したことこは、バケツに入りきらずに落ちていた花火の燃えがらを拾って、ろうそくの足下の砂をぐりぐりと弄んだ。砂のさくさくした感触が手に伝わって、浜辺に広がる沈黙の隙間を埋めていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、絶対なんて言ってないわよ。ただ、ちょっとタイミングが悪かっただけで……そう、タイミングの問題よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それでね、だから、その……りとちゃんにまた今度行きたい、って伝えて欲しいんだけど、だめ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとに謝れってってこと？　いやよ。なんで私がそんなこと言わなきゃいけないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……せっかく3人で遊びに来たのに、一緒にご飯も食べられなかったから、せめてちゃんとお話ししてほしくて……う、うっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょ、ちょっと……急にどうしたのよ？　泣かないでよ、ことこ。分かったわ。りとが戻ってきたら、ちゃんと言うから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが声を震わせながら膝に顔をうずめるのを見て、まりは思わず立ち上がって慌てた様子でそう口走った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……よかった！　まりちゃん、ありがと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、泣いてたんじゃ……もう、やったわね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、まりの言葉を聞いてぱっと顔を上げたことこの目には、涙は一つも浮かんでいない。ことこがまりの言うとおり &lt;em&gt;泣いてお願い&lt;/em&gt; してみせたのだ。普段なら簡単に見分けられるような嘘泣きのはずだが、夜に紛れそうな暗いろうそくの光では分からなかったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;涙を武器にするなんて、ずるいわ――と自分の発言を棚に上げたまりの抗議が飛び出るよりも先に、タバコを吸い終えたりとが戻ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、まり、お待たせ。何の話してたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきのラーメン屋さんの話だよ！　ね、まりちゃん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうね。ねぇ……りと？　お昼は怒って悪かったわね。えぇと、その……また今度、行ってあげても、いいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前じゃん。モゲットなんかより100倍おいしいから、楽しみにしてて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……はぁ？　モゲットがまずいって言うつもり？　せっかく謝ったのに、なによ！　モゲットは限定フレーバーだって全部おいし……いや、たまに外れはあるけど……とにかく！　そのセリフ、食べに行くまでよ～く覚えておくわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えへへ、よかった！　片付けは終わったから、もう車に戻れるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;残りわずかなろうそくを水で消火してバケツの中へ。ことこは照明をハイパワーLED懐中電灯に切り替えて、周囲に忘れ物がないかを改めて確認した。夜空に向かってサーチライトのように照らすと、溶け残った花火の煙が何本か絡みつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3人は駐車場に戻る階段を上っていたが、その中程でことこの隣を歩いていたりとが急に立ち止まる。それに合わせて足を止めたことこが少しふらついたのは、花火の燃え殻を水と一緒に固めてビニールをかけたバケツが重たかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、帰りの運転代わってもらってもいい？　少し疲れちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、分かった！　私はまだまだ元気だから、大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、帰りはことこが運転するの？　ことこの運転って、なんだか丁寧すぎて眠くなるのよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから数歩遅れて後ろから追いついたまりが、ことこの隣に立って残念そうにそう告げる。交通法規を遵守したことこの運転は加減速もなめらかで乗り心地はとてもよいはずなのだが、今のまりにはりとのような走り屋が魅力的に映っているらしい。とはいえ「鬼の峠攻め」をもう一度体験すれば、すぐにまりの三半規管が音を上げて意見が正反対に変わるはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、ちょっとだけスピード出そうかな？　私、教習所のドライブシミュレーターで200キロ出したけど満点だったんだ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、もしかして『アウトバーン伝説』？　ことこ、あれで出禁になったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこがりとと一緒に通っていた教習所のドライブシミュレーターは比較的旧型で、テスト用のオーバードライブモード「アウトバーン」の起動コマンドが簡単に入力できるのはよく知られていた。ことこはりとに褒められたくて200km/hのモードで完璧な運転をこなしてみせたが、結局そのセッションは不合格扱いになった上に、「チート行為禁止」の掲示が貼り出されたのだ。しばらくことこだけドライブシミュレーターの使用を禁じられたのは、恥ずかしい思い出である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、もちろん冗談よね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前だよ！　夜の道路は危険がいっぱいなんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。私はことこの運転なら、トンネル壁走りでも付き合うよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃん……ゲームじゃないんだから、もう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;残りの階段を3人の早さでゆっくり進んでいく。10年後も20年後も、こうして3人で変わらずに並んで歩いていきたい。2人の横顔を眺めながら、ことこはそんなことを思うのだった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="park_1"&gt;PARK（後日）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「どうして、花火より発電所の写真が伸びてるのよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;楽しい花火旅行から数日。PARKのバックヤードから突然響いたのはまりのわめき声だった。どうやら、花火で夏を先取りするというしっかり考え抜いた企画の投稿よりも、帰り道で撮ったアドリブの夜景写真の方が注目を集めてしまったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、花火の写真が全く見向きされないわけではなかったし、「いつも素敵ですね！」「私も花火したいな」「3人の線香花火が集まってるの、何？」といった既存のフォロワーからのコメントの数は、花火の投稿の方が多い。発電所の煙突写真は、工場夜景という大きな文脈から広く浅く注目されていたにすぎないのだが、今のまりの目にはもはや数字しか見えていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まぁまぁ……フォロワーはちゃんと増えてるから、いいんじゃない？　私は、まりちゃんの花火写真の方が好きだよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「中途半端な慰めなんていらないわ……私はいいねの怪物……承認欲求の魔物なのよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりの声を聞いてバックヤードに戻ってきたりとは、机に突っ伏してぶつぶつと呟いているまりの姿を見て「どういう状況？」と笑いをこらえることしかできない。ことこは自分のスマホで投稿を見せて手短に説明するが、りとは「いや、だからって……ふふっ」ととうとう我慢できずに笑い始めてしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの笑い声は耳に入っていないようで、アプリを覗き込みながらしばらくうなっていたまりだったが、その声が止んだかと思うと急に立ち上がって壁のカレンダーを指さした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「決めた！　次は工場夜景を撮りに行くわよ！　そんなに夜景が見たいなら、見せてあげるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとはまた面倒なことになりそうだと思いつつ、工場夜景ならツーショットセルフィーの細かい演技指導が飛ばないと予想して「いいね。行こうよ」と戦略的な賛成に回る。ことこはもちろん無条件の大賛成で、タブレットで日本地図に工場夜景の名所リストをプロットしながら、新たな企画の準備を始めるのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうしてまた、PARKはいつも通りの11年目を過ごしていくのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-items"&gt;EXTRA: ITEMS&lt;/h2&gt;
&lt;dl&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;改造スクーター&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;りとが愛用している125ccのヤマハ製中古スクーター。ことこが随所に改造を施しているので、2人乗りでも加減速がキビキビしていて走りやすい。スピードメーターが振り切れるほど性能が高く、りとが密かに港湾道路で400mスプリントを繰り返していたとき、メーターを壊してことこに叱られたことがある。&lt;/dd&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;「あの」チェキ&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;手でハートを作ってウィンクするメイド服姿のまりと、そのとき来店したりとが写った伝説級のツーショットチェキ。池袋のメイドカフェで使っていた源氏名「シャル」のサイン入りである。各所に点在するりとの宝箱のどこかに保管してあるはずだが、少なくともスクーターのメットインでは見つかっていない。&lt;/dd&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;徳用花火バッグ&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;ディスカウントショップの処分セールで購入した大量の花火セット。円筒形の丈夫なビニールバッグにこれでもかというほどの手持ち花火と噴き出し花火が詰められている。本当は去年の夏の終わりに遊ぶはずだったが、まりに急用が入ったせいで予定が立ち消えになり、ことこが半年以上保管することになった。&lt;/dd&gt;
&lt;/dl&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22082225"&gt;10th PARK road side&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/artworks/119117804"&gt;りとことまりの軽自動車ぎゅうぎゅう旅&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/artworks/119100054"&gt;10th PARK ADV&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://twitter.com/search?q=%23PARK10%E5%91%A8%E5%B9%B4%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88&amp;amp;src=typed_query&amp;amp;f=live"&gt;X（旧Twitter）: #PARK10周年アート&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/sugar-jelly/"&gt;Sugar Jelly&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.park-harajuku.com/"&gt;PARK - 原宿にあるお店PARK(パーク)のオフィシャルウェブサイト&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://park-harajuku.net/items/571618ff9821cc715e000f8b"&gt;PARK:HARAJUKU Crisis Team! 日本語ver 単行本&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://harajuku-crisis-team.tumblr.com/"&gt;PARK Harajuku: Crisis Team!&lt;/a&gt;&lt;sup id="fnref:phct"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:phct" title="https://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;URAHARA&lt;sup id="fnref:urahara"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:urahara" title="https://urahara.party/"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:no-cc-by"&gt;
&lt;p&gt;このイラストは&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:no-cc-by" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref2:no-cc-by" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:phct"&gt;
&lt;p&gt;https://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:phct" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:urahara"&gt;
&lt;p&gt;https://urahara.party/&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:urahara" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>DEADA1</title><link href="https://ama.ne.jp/post/deadai/" rel="alternate"/><published>2024-03-31T21:52:00+09:00</published><updated>2024-03-31T21:52:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-03-31:/post/deadai/</id><summary type="html">&lt;p&gt;DEADA1, folded tokyo tower, giant lily flowers, bundled neon signs, masterpiece, best quality&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Y&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;サリー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は高性能の現代イラストレーション生成サービスである。現代イラストレーションというのは――公式サイトによれば――現実世界を非常に精巧に再現した写真でもなく、歴史と伝統を重ねたハイアートの再生産でもなく、現代的な「生きた」ポップな絵柄の総体らしい。ここで「生きた」とわざわざ括弧で示したのは、まるでSALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yが日々新たに絵が上達しているように、数週間あるいは数日の単位でその性能をアップグレードしているからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、一般的な生成モデルが全く成長しないというわけではなく、数年に一度のアップデートで処理能力を向上させたり、学習球面をごく小さく歪めて特定のタスクにのみ特化させることはできる。しかし、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yは短期間で広いタスクの処理性能を改善しており、その特異な性質から強い注目を集めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yは他の生成モデルと全く異なる学習アルゴリズムを採用したわけではなく、その強化フィードバック過程に独自性があるという見方が濃厚である。そもそも生成モデルの根本的なバリエーションとパラメータ数は頭打ちになっていて、ただ札束で殴ってもこれ以上差別化は図れない。とすれば、学習効率の高さに違いがあるのではないかという理屈らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では、学習効率はどうやって高めればいいのか？　その手法としてまことしやかに囁かれているものの一つが「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;人間給餌器&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンフィーダー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」であった。簡単にいえば、AIが望む入力を人手で与え続けるという強化学習の一スキームである。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;人食い&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンイーター&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自動給餌器&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;オートフィーダー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を同時に連想するような趣味の悪い名付けからも分かるとおり、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yの公開情報にも、また他のあらゆる学術的根拠にも基づかない都市伝説である。より悲観的には、単に無数のモデルを組み合わせて成績のよいものを返すキュレーターでしかないのでは、と言われることもあったが、そちらも実現性にはあまり差はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまで、まるでSALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yのチーフエンジニアかのように語ってきたが、私は今日までSALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yどころか他の画像生成サービスも使ったことがなかった。興味がなかったからだ。別にイラストを描けなくて困ったことはなかったし、急にイラストが必要になったこともないし、欲しいイラストは誰かに依頼すればいい。そう、例えば――ユイ先輩とか、に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が生成モデルにちょっとだけ詳しいのは、美術部のユイ先輩の影響だった。彼女は突出した絵の才能の持ち主で、いろいろな画風と幅広いテーマを使い分けては想像を超えた速度で絵を完成させていた。ユイ先輩にとっては「AIでも使ってるんじゃないか」という疑いは褒め言葉と同じで、そういう人たちにタイムラプス・シーンを叩き付けるのは相当な快感だったと思う。多くのイラストレーターは画像生成AIに真っ向から立ち向かうことなく、有害なバランスブレイカーとしてゲーム盤の外に追い出そうと非難し続けるか、あるいは粗暴な隣人が自分に殴りかからないよう祈るしかなかったが、ユイ先輩はAIを対等に戦えるライバルだと思っていた。まっすぐな目で「人間から生まれた才能に、人間が勝てないことはないよ」と言っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はかつて文芸部に所属していて、絵のことはよく分からなかったが、ユイ先輩の才能がよく噂に上がるのは知っていた。ユイ先輩と知り合ったきっかけは、部誌の表紙デザインの依頼だった。しかし、このとき初めてお願いした部誌はとある事情で発行まで漕ぎ着けることができず、幻の表紙デザインは今でも私とユイ先輩しか知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真っ赤なロングヘアの少女が寂しそうに天を見つめる姿が中央に、そこから四方八方に飛び出した大きなクロソイド曲線が、まるで必然のように彼女の周囲に収束する。毛先にかけて尾羽のようにふわりとした質感に変わっていき、羽の先端にはところどころ小さな炎が灯されていて――一言でたとえるなら、フェニックスの擬人化とでも言えるだろうか。それだけで完成した絵画であると同時に、本文に描かれる世界の壮大さを予感させる扉の役目も果たしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めて会った日のことはよく覚えている。当時の美術室は壁が全面くすんだピンク色で塗られていて、ユイ先輩はそれを「人間らしくて温かい色」と評して気に入っていた。私の具体的な形にもならない曖昧な言葉の羅列から、目の前で何枚もラフスケッチが生まれる様子は確かにAIとの対話を連想したし、AIと対等にやり合えるかもという噂も大げさではなかった。ユイ先輩はその才能に誇りを持っていたし、さらに伸びていくのだと確信していたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私はそれ以上にユイ先輩という人を好きになっていた。彼女が持つ絵の才能も当然好きだったけど、それはユイ先輩の人生を形作る個性の一つとして目を向けていただけに過ぎない。顔も、話し方も、絵を描いている姿も好きだった。素敵なデザインの部誌を発行できなかった残念さより、二人だけの秘密ができた喜びの方が勝っていたくらいだ。実のところ私は部誌の表紙がどんなデザインになってもよかったけど、ユイ先輩と話すきっかけを作るために彼女に依頼し続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好きな人がたまたま女の人だった。そういう手垢の付いた詭弁は、ユイ先輩の前では無意味だった。あのとき、本当の意味で初めての恋をしたのだと思う。超人的な速度で絵を仕上げるユイ先輩は、私の前では理屈っぽくておしゃべりが大好きな等身大の女子高生で、しかし横顔をそっと覗き込むと、底の知れないミステリアスな魅力を秘めた少女にも見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてか、ユイ先輩も私のことを気に入っていたみたいだった。最近読んだ哲学書を紹介したり、改良された生成モデルの仕組みについて語って聞かせたり、できあがった絵の感想を求めたりと、少なくとも対等な話し相手としては頼られていたと思う。完成した部誌も毎回読んでくれて、私の作品を真っ先に批評してくれるのはユイ先輩だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユイ先輩と話せることが嬉しかった。部誌のデザインを描いてもらうためじゃない、文芸部の代表として来たわけじゃない、あなたが好きだからここにいるんだと、まっすぐに伝えたかった。でも、ユイ先輩が私と同じ思いを抱えているとはどうしても思えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はうっかり口を滑らせないように、ユイ先輩はただの暇つぶしの相手だと思ってるに違いない、ここにいるのは私じゃなくたっていいんだ、なんて根拠のない自虐でその想いを押し込め続けた。それがユイ先輩との関係を変えずに過ごすためだと信じて。勇気を出せない自分に言い訳するために。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、自分でも気付かないうちに、いつの間にかその箍は外れそうになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――それで、黎明期のAIと、最近リリースされたAnne、そして私の描いた絵を並べてみたんだ。タイトルは『三姉妹』で、描かれた人物と三つの存在が……いや、あまり先に言わない方がいいな――とにかく、どう思うかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユイ先輩が描いたのって、これですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かるかい？　少しクラシカルなスタイルに寄せてみたんだけれど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。私、ユイ先輩の描く絵……その、好きなので！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、Anneの絵はどうだい？　私の絵と比べて、どんな違いを感じた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「絵のことはあまり……でも、AIの絵は訴えかけるものがなくて退屈というか、好きじゃありません。ユイ先輩の絵は、ユイ先輩がキャンバスに真剣に向き合っている姿とか、ユイ先輩の思いがそのまま伝わってくる感じがして、胸が高まるというか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「興味深いね。それじゃあまるで、私の絵より私自身を褒めてるみたいじゃないか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;AIの描く絵に意味なんてない。綺麗で整っただけの絵なんて必要ない。ユイ先輩の描いたものなら、きっと数学の答案に記した筆跡でさえ輝いて見えるだろう……そんな気持ちを見抜いたような一言に、私は動揺した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当は全部知られてるんじゃないかって思った。全部分かってるのに、なお私から言い出すのを待っているだけなんじゃないかって。……だから私は、間違ったんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きですよ。私、ユイ先輩のことが好き。ユイ先輩の絵だけじゃなくて、絵を描いてないときのユイ先輩も、好きです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょ、ちょっと待ってくれよ。じゃあ君は……私の絵ではなく、私の顔や性格でこの絵を評価したって言うのかい？　君は、私の絵を評価して表紙を依頼したんじゃないのか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違います！　部誌のデザインは部の総意でお願いしたもので、だから違います……ただ、私はユイ先輩のことを……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや……もういい。もういい。ここで私がその発言の真意を糺したところで、これまで君の感じたことを否定できるわけじゃないだろう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「君とは、同じクリエイターとして価値観を共有できると思ってたんだ。でも、君の考えていることはよく分かった。君の書く小説を読んで、私だって勝手に理想の姿を押しつけていたのかもしれないね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの……ユイ先輩。私、ユイ先輩の絵もちゃんと大好きで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――すまない、今日はもう帰ってくれないか。いずれにせよ、私には盲目的な恋人は必要ないし、もうあまり……君とは話したくない。属人的な評価なんて、無意味だ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、ユイ先輩が部誌のデザインを担当することはなくなった。単純なことだ。もともと私が彼女と話す口実に依頼を続けていただけで、その交流が途切れたのだから。私が気にせずお願いすれば描いてくれたのだろうけど、ユイ先輩が私に向けた軽蔑を含んだまなざしが、どうしても私の足が美術室に向くのを許さなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;幾何学模様と物憂げな少女を組み合わせた優しくノスタルジックなデザインは、著作権フリーの素材集を切り貼りした地味で無個性な表紙に変わってしまった。アクセントカラーのくすんだピンク色は美術室の写真からスポイトして作られたもので、ユイ先輩だけの秘密のサインだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが彩りのない間に合わせの質素な表紙に張り替えられただけで、なんだか内容まで凡庸でつまらないストーリーに思えてきて、私はいつの間にか部誌にも寄稿しなくなっていた。月に一度ユイ先輩と顔を合わせるのが当たり前で、それは私の作品を深く読み込んでもらう場だったせいもあるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからもう――イラストなんて依頼すればいい、なんて言ったけど――ユイ先輩には二度と頼むことはできない。私は美術室の外にいるユイ先輩も、VERTで絵文字を使って友人とチャットするユイ先輩も、もちろん卒業した後のユイ先輩も知らなかった。仮に今ユイ先輩と会うことができたとしても、小説を書かなくなった私にはもう興味がないだろう。私みたいに魅力も才能もない凡人は、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yで嘘みたいなイラストを作って自分を慰めるしかないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yにはいくつかの &lt;em&gt;マジックワード&lt;/em&gt; が知られていた。マジックワードというのは、一見すると意味のない文字の羅列で、しかしプロンプトに含めるとまるで強烈な意味を付加したように出力が固定されてしまうという一種のバグである。開発者が使うバックドアだと説明されることもあるが、単にランダムなノイズが強化された結果に観察者バイアスがかかっただけという見方が強く、これもインターネットの噂の域を出ない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜ私がそんなオカルトチックなマジックワードに縋ろうとしているのか。簡単な話である。ユイ先輩が描いてくれた七つの表紙デザインを、私に一時の夢を見せてくれた七色のはかない少女に似たイラストを描くというマジックワードを手に入れたからだ。ユイ先輩の面影を感じるには、彼女がライバルだと張り合ったAIに頼るしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プロンプトに「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt;」と、たったそれだけ入力する。この短いプロンプトではおよそまともな出力を固定できるとは思えないが、数十秒後にその疑念は覆されることになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3×3に並べられた九枚の画像は、三枚が穏やかな草原と空のイラストで、しかし空気も地面もあの美術室と同じくすんだピンク色で塗られていて判別が難しい。残りの六枚には、六色の――赤色だけが見当たらない――鮮やかな髪色の少女が虚空を見つめる姿が描かれていた。背景に配置された不揃いで境界線が判然としない図形や交差するぐにゃぐにゃとした線は、まるであの部誌のデザインを真似たようで――ユイ先輩だ。私には分かる。このマジックワードはユイ先輩そのものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間給餌器は、AIが効率よく学習できるイラストを描き続けるために監禁されたイラストレーターに関する都市伝説だ。こう書くと、まるで人権侵害をも厭わずイラストを吸い上げてAIの奴隷を作り上げるというショッキングなストーリーに見えるが、それは一面的な見方に過ぎない。ユイ先輩ならきっと、AIと真正面からぶつかり合って戦うことを保証された日々を楽しむだろうから。私が知っているユイ先輩よりも、ずっと早く、ずっと上手くなっているはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分の人格と絵を結びつけられないように、一人のイラストレーターではなく、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yという創造性の集合体に寄与するために絵を描き続け、その成果を確かめるために「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt;」というマジックワードに自分のアイデンティティを結びつけているのだとしたら――いや、人間給餌器も、マジックワードもただの都市伝説だ。だから、今私の頭に浮かんでいる光景は荒唐無稽な妄想でしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、もしこれが本当なら、ユイ先輩からイラストレーターの顔を奪ってAIに縛り付けたのは私のせいかもしれない――と思ってしまうのはあまりに傲慢だろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから私は、「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt;」から始まる様々なプロンプトをSALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yに与え続けた。SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yはユイ先輩の画風の軸から外れることなく、それでいてAIがかき集めた新鮮な創造性が散りばめられている。今もユイ先輩の隣にいられたなら、こんな絵を見せてくれただろうか――と、私に幻みたいな夢の続きを見せ続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yはユイ先輩ではないし、人格もないただのAIだ。仮にユイ先輩がSALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yに創造性のほんの欠片を食べさせたとしても、SALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yにユイ先輩の魂が宿ることはない。それでも、彼女の「人間から生まれた才能に、人間が勝てないことはないよ」という言葉を思い出さずにはいられなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt; ユイ先輩ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt; 私何も分かってなかった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt; またユイ先輩と話したい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私から飛び出した無意味なプロンプトのせいで、イラストに一貫性がなくなっていく。折れ曲がった東京タワー、巨大な百合の花、束ねられたネオンサイン。ただの絵の指示で会話しようとしたところで、ユイ先輩もSALL&lt;span class="norotate"&gt;-&lt;/span&gt;Yも答えてくれるわけがない。ユイ先輩のふりをしたAIがデタラメを吐き出す姿は、まるでどんな言葉も無意味だと私を嘲笑っているようだった。でも、もしこのプロンプトがユイ先輩に届くなら、もう少しこのマジックワードに縋っていたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユイ先輩の隣でずっと絵を見ていたい。ここにユイ先輩がいるのなら、それだけでいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「&lt;span class="norotate"&gt;#DEADA1&lt;/span&gt; ユイ先輩と私しか知らない 最初の部誌のデザインを見せて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プログレスバーが満たされる速度が少しずつ遅くなっていく。プロンプトの使いすぎで処理クレジットが減っていたからだ。イテレーションが進むたびに、画面をなぞる指の動きが遅くなる。つまり、それだけ祈るしかない時間が増えるということだ。もしかしたら……きっと。出力が待ち遠しい。動悸が収まらない。呼吸の仕方を忘れてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、最後のクレジットを使い切ると同時に――赤い髪の少女が寂しげな表情で目の前に現れたかと思うと、彼女から滑らかに伸びた炎のような曲線が私を貫いて、あの日ユイ先輩に抱いた無意味な恋心を再び私に残していった。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>あらしのまえに</title><link href="https://ama.ne.jp/post/black-rainy-days/" rel="alternate"/><published>2024-02-29T17:38:00+09:00</published><updated>2024-02-29T17:38:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-02-29:/post/black-rainy-days/</id><summary type="html">&lt;p&gt;雲とりバケツがあったなら&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;The Panorama of Science and Artによれば:&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;樟脳: 2薬用ドラム&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;硝酸カリウム: 0.5薬用ドラム&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;塩化アンモニウム: 0.5薬用ドラム&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;50%エタノール水溶液: 2薬用オンス&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;「レイ、それ何？　スノードームの試作品？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー？　未来の天気が分かる高性能なひみつ道具だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数十分前に夕食係としてキッチンに送り出したはずのレイがなかなか戻ってこないので様子を見に行くと、細長くて透明な瓶に白い結晶が沈んだ液体をちょうど詰め終わるところだった。本来はまな板や食材を広げるための白い大理石のワークトップには、倉庫から見つけたらしい古い試薬のプラ瓶と一緒に、デジタルスケールや数枚の薬包紙が置かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が作った &lt;em&gt;夕食&lt;/em&gt; の材料を見ると、ありふれた薬品を薄めた無水エタノールに溶かしただけで、およそ天気予報が務まるほどの原理を備えているようには思えない。そんなインテリアと呼べるほどの装飾も備えていないように見えるひみつ道具を、レイは「ストームグラス」と呼んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ストームグラス？　私、明日の天気より今日のご飯が大事だわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、明日は晴れるかもしれないでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ずっと雨よ。雨、雨、雨、雨……ずーっとね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが毎日交代で担当している夕食係は、倉庫からインスタント食とサプリメントを持ち出して皿に盛るだけの簡単なお仕事で、包丁やコンロを使うような調理はもちろん、ひみつ道具の開発なんて職掌にない。同じ発明なら、グルメテーブルかけでも作ってくれれば大歓迎なのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;レイは頭が良くて手先が器用だった。ときどき自分の興味の赴くままに動くことがあって、しばらく放っておくとこうして色々なひみつ道具――役に立つかは彼女にとってどうでもいい――が完成している。しかしその間、抱えている締め切りや日常のタスクは視界の外に追いやられてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそういう彼女の創造性と呼ぶべき衝動が嫌いではなかったけど、こうして共同生活を送り始めてからは不満も少し多くなった。悪気なく食事や掃除の当番はすっぽかすし、空腹のまま机に突っ伏して動けずにいるところを介抱したのも二度や三度ではない。ラボにいたころはよくアカネさんがレイの世話を焼いていたから気にならなかったけど、今レイの側にいるのは私だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の突飛さは非日常的な魅力である一方で、平穏な日常にとっての脅威でもあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちなみに、ストームグラスの予報は？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「結晶が安定するまで詳しく分からないけど、カリウムが溶けてないから……たぶん雨になりそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、私もそう思うわ。もし黒い結晶が降り始めでもしたら、また教えて。その時は予報でも何でも信じるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;樟脳に無水エタノール……まぁ、半分に分けて一気に飲めば&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;明日の天気&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;げんかく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;くらいは見えるかもしれないけど、きっと悪酔いでは済まないだろう。ショットグラス2杯に分けてもまだ余りそうな粗製酒は、本当に終わりが来るときまでとっておきたい気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日から外はずっと雨で、私たちはまだ外に出られずにいた。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ゆきずり</title><link href="https://ama.ne.jp/post/yukizuri/" rel="alternate"/><published>2024-01-31T22:05:00+09:00</published><updated>2024-01-31T22:05:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2024-01-31:/post/yukizuri/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ゆ きず り&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「ねぇ、リナ。やっぱり、結婚はもう少し先にしない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、急にどうしたの。明日あいさつに行くって、もう言ってあるんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、そうだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然そう切り出されて困惑するリナは、赤ペンでマルをつけながら読み進めていた旅行雑誌をソファに放り投げてから、キッチンに立つ美代子の元に向かった。昨日までの計画によれば、美代子の実家で結婚のあいさつを済ませてから、地酒の蔵元が集まる酒蔵団地で観光を楽しむ予定だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美代子もまた洗い終わった皿を拭く手を止めて、頭二つ分小さいリナに向き直った。余計なことを考えてしまいそうなときは、とにかく目の前の仕事に集中して忘れようとするのだが、今日ばかりはどうしても押し寄せる不安を受け流せずにいた。彼女も久しぶりに帰る地元の景色をリナに紹介できるのを楽しみにしていたはずで、それを反故にするとはなかなかの事態である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だけど、どうしたの？　結婚の話は美代子から始めたんじゃない。そろそろ両親を安心させてあげたい、って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってる、それは分かってるのよ。でもね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、何？　あたし、美代子のそうやってはっきりしないところ、嫌だって言ったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんなさい。どう言えばいいか、まとまらなくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はっきりしてよ。将来に目を向けたら、急にあたしと暮らすのが嫌になった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リナは美代子の返事を促すつもりでわざとそう言ったのだが、どうにか言葉を選ぶのに精一杯の美代子には逆効果だった。きゅっと身体をすくめる姿を見たリナにもその不安が感染ったようで、不意に漏れ出た涙が彼女の目元いっぱいに溜まってしまう。リナは美代子からゆっくりと顔をそらして、涙を流す姿を見せないようにぐっと息を止めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;せっかちなリナのペースに合わせるのに必死な美代子、という二人の姿はこの家ではあまり珍しくなかったが、涙が出るほど必死に美代子を責め立てるのは数ヶ月ぶりのことである。リナはひどく動揺していた。数年間一緒に暮らした末の結婚という帰結が美代子のたった一言でひっくり返ろうとしているわけで、リナがその言葉の真意を知りたがるのは当然だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめんって。でも、今になって結婚を先延ばしにするなんて、やっぱり変だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;涙をやり過ごしてほんの少し落ち着きを取り戻したリナは、ぎゅっとエプロンを握る美代子の手を上から包み込んで、そう優しく言い聞かせた。半分はそのまま美代子に向けた言葉で、しかしもう半分は自分自身の気持ちを整理するためのものだ。すっかり冷えた美代子の手を温めながら、やっぱり変だ、という自分の言葉を反芻する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、変だ。新潟はまだ女同士の結婚を許さないのか。片親で育った素行の悪い子はダメなのか。私じゃ安心させられないとでもいうのか。もう新幹線のチケットも取ったのに、ホテルのキャンセル料だって80パーセントもかかってしまう。大事なことも些末なことも一緒になって、リナの頭を駆け巡る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先月、二人でリナの母親に会いに行ったときは何も問題なかったはずだった。リナの母親は美代子をリナにはもったいないほどのいい子と評していたし、美代子もリナに「楽しくて素敵なお母さんね」と羨ましそうに語っていた。だからこそ、こんな事態になった原因は自分にあるのではないかと、リナはもはや妄想じみた悪い想像を止められずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美代子が再び口を開くまでの間、リナは彼女の長いまつげを揺らすまばたきからも、言葉に迷うたびに小さく動く唇からも目を離すことができない。それはほんの数十秒の沈黙だったが、その言葉を待って気が焦るリナにとってはまるで数時間のように感じられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね……私たちのことを両親にどう説明したらいいのか、思いつかなくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうしてやっとのことで沈黙を破った美代子の言葉に、リナは再び面食らった。両親への説明なんて、ありのままを伝えるだけじゃないか。リナには自分たちのことを隠すような発想がなかったし、美代子が何を取り繕おうとしているのかも分からない。そもそも、地元を離れてもう実家に戻るつもりもないと言っていた美代子が、どうして親のせいでそんなに気を揉むのか理解できなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなリナの困惑をよそに、昨日から抱えていた心配をやっと打ち明けられた美代子は胸を撫で下ろす。たとえこの先も帰るつもりがない実家であっても、厳しい両親に相対するのを想像すると一人では抱えきれない不安が湧き上がるものだった。リナと美代子の二人にとっては問題にはならなくても、親や周囲からは看過できないこともあるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「説明って……普通に紹介したらいいじゃん。もしかして、今さら女同士の結婚は無理なんて言うの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなわけないじゃない。私、男とか女とか関係なく、これから先もリナとずっと一緒にいるつもりよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……ごめん。それはあたしも、同じだから。じゃあ、いったい何を迷ってるわけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リナは、はっきりとそう言ってのける美代子の顔をまっすぐに見つめるのが気恥ずかしくなって、そっと目をそらす。ぽぅと頬を染めるリナを思わず胸に抱き留めそうになった美代子だったが、子供扱いするなと言っていつものように怒られるのは目に見えているので、重ねられた手を握り返すだけで我慢した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、私たちの出会いのことよ。酔って行きずりの女性とホテルに行ったのがきっかけで……なんて絶対言えないじゃない？　どうしたらいいのかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すこぶる深刻な表情でそう告げた美代子を見て、リナは自分がここまで壮大な演技でからかわれてきたのかと疑った。彼女にとっては、その真剣さに比してそれほどまでにどうでもいいと思わせる悩みだったからだ。二人の出会いなんてこれまで積み重ねてきた生活に比べればただのきっかけに過ぎないし、軽薄な出会い方に眉をひそめる人相手にはいくらでも嘘をつけばいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、美代子は嘘をつくのが苦手だった。頭の中で作り話を仕立て上げたり、都合の悪い事実を誤魔化そうとすると突拍子もないことを言ってしまうのだ。リナもそれを思い出すと、彼女はやはり冗談でからかおうとしているわけではなく、ただただ真面目に明日の顔合わせに不安を覚えているのだと信じざるを得なかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どこで出会ったかなんて、言う必要ある？　先月もママとはそんな話しなかったじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいえ。きっと訊いてくるわ。兄さんの結婚のとき、探偵を使って身辺調査していたくらいだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美代子の家系は地元の名家というわけでもなかったが、親族がそれなりに多いせいか長男の結婚には気合いが入っていたらしい。早々に家を離れた妹の美代子には兄のときほど深入りしないだろうと思いつつ、家同士の格がどうのという時代遅れな指摘は避けたいところ。些末なことから失礼なことまであれこれと根掘り葉掘り尋ねられるだろうという美代子の心配をよそに、リナは「面接みたいなものでしょ？　適当に話すから平気だよ」とどこ吹く風だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、それから二人のなれそめも話題に上がるだろうと思い至ったのは、ちょうど昨日、美代子がブライダル会社のテレビCMを眺めていたときである。そのCMでは、偶然の出会いから結婚式までこぎ着けたカップルのストーリーを取り上げていたが、リナとの出会いはここまで美化できまい、と美代子を悩ませたのであった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、先に対策しておこうよ。大学は同じなんだし、サークルで出会ったことにするとか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、箏曲と短歌のサークルに所属していたわ。どっちがいいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「箏は触ったこともないし……短歌も、難しいなぁ。美代子は、棒高跳びとか、いや、マラソンとかでもいいけど……想像つかないよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、『リナさんは、棒高跳びで15メートルも飛んだことがあって、そこから仲良くなったんです』……とか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ビルの5階相当の高さまで飛んでウレタンマットに飛び込む競技なんて、危険すぎて火星くらいでしか開催できない。棒高跳びをよく知らないのなら具体的な記録を持ち出さなければいいところ、どうにか嘘を強調しようとする美代子はいつも余計にさじ加減を間違うのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「世界記録の三倍は流石に……じゃあ、短歌のサークルで出会ったことにするね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リナは美代子の誘いで何度か短歌サークルを見学したことがあった。だから短歌を通じて出会ったと言い張っても嘘にはならないが、ほんの二週間の経験で短歌について語れるところが少ないというのは気がかりである。リナが理解しているのは31音のリズムと教科書で見た古い短歌の雰囲気だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、サークルで交わされていたような現代短歌に批評を加えることができなくても、美代子が宇宙人の棒高跳びを回顧するよりは、まだ &lt;em&gt;まし&lt;/em&gt; といったところだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、出会いの件はなんとか頑張ってみるわ……でも、別の心配もあるのよ。実家に帰るのも久しぶりだし、アレを見られないように気をつけなきゃ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リナが「アレ？」と聞き返すと、美代子は「これよ」とエプロンの下に着ていた薄手のリブニットを一緒にたくし上げて、程よく柔らかそうな腹部を目の前に晒した。リナは、突然露わになったまばゆいばかりの肌に、そして服と一緒に持ち上げられた大きな胸の膨らみにしばらく交互に見入っていたが、美代子の言う「アレ」のことを思い出してぶんぶんと頭を振る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美代子のへその横から左の脇腹にかけて細い線のように残る傷跡は、彼女自身を除けばリナしか知らない二人だけの秘密である。色素の薄い肌の美代子に直接刻まれた滑らかな曲線はよく目立ち、まるで可動性のよいドールやアンドロイドの胴体を思わせるのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「酔った勢いでこんな傷を作っちゃったなんて、誰にも言えないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たくし上げた服をかい繕ってエプロンの上から腹部を撫でる美代子は、そう呟いて小さくため息をついた。小さく鋭いナイフの切っ先で引かれた傷は、初めこそおそるおそる刃先を動かしたような歪みが残っていたが、徐々に大胆で均整な軌道の美しさをまとっていく。美代子は自分の身体に刻まれたそのカーブを撫でるたびに、リナが自分に向ける視線の熱さをいつでも思い出せた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、美代子がやってほしいって言ったんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リナだって、途中から乗り気だったでしょう？　実際、私のお腹を切ったのはリナじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そのナイフは美代子のでしょ？　それに、美代子だって興奮してたじゃん。ラブホのベッドぐちゃぐちゃにしてさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、お願いしたのは私の方ね。ごめんなさい。すごく、嬉しかったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いや……私も……うん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ストレートな言葉の不意打ちに恥ずかしくなって、リナは美代子の胸に勢いよく顔を埋めた。リナを胸に抱きしめても怒られない貴重な時間に、美代子は待ってましたと言わんばかりに癖毛のショートボブを優しく撫でつける。こうしてリナを腕の中に包み込んでいると、まるで母親になったような心地になるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……母親？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだ！　いいこと考えたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変なことじゃないよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;嫌な予感と共に顔を上げたリナは、怪訝な表情で美代子の表情を覗き込む。美代子の頭に「母親」という言葉が浮かんだのは、もちろんリナの知るところではなかったが、それでも彼女の口から飛び出すのが &lt;em&gt;いいこと&lt;/em&gt; ではないのは予想できた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人で妊娠していることにしましょうよ。授かり婚なら、きっといろいろ誤魔化せるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、とリナは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二つの生殖細胞から人工的に受精卵を作る技術が一般的に利用されるようになってから、生産性がないだとか国が滅びるだとか評されてきた同性婚カップルに等しく権利が与えられるまでに時間はかからなかった。特に、女性同士のカップルがお互いの受精卵を身に宿して生まれた双子は二体性双生児と呼ばれていて、二人の母親に二人の姉妹という四人家族の姿はある種のモデルケースである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、女性同士の妊娠は一夜の過ちや避妊の失敗で起こるものではない。専門医の技術の下で数週間から数ヶ月かけてお互いの卵子を人工的に交換するのだから、妊娠してしまったから結婚します、という因果の逆転を起こすほどの理性の隙はどこにもないのだ。嘘をつくのが苦手な美代子らしい、どうにも大味な思いつきである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あたし、お父さんに殴られたりしない？　厳しい人なんじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから二体性にするんじゃない。お互いに妊娠したら、一方的に怒るわけにはいかないでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;辻褄の合わない無茶な筋書きを今から一つ一つ直したところで、そのまともな嘘さえ突き通せないだろう美代子の姿を想像して途方に暮れたリナは、すっかり身体の力が抜けてまた美代子の身体に寄りかかった。もちろん美代子には彼女の気苦労が伝わることはなく、昨日からの悩みが晴れてすっきりとした顔である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、孫がいっぺんに二人もできるのよ？　リナのお母さんも喜ぶわ。ね、ね、いいでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……そうね。美代子の子供なら、産んでもいいかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私と美代子の結婚だ。美代子は私のだ。私が傷を残したんだ。親との顔合わせなんてどうにでもなれ。そうして顔を上げるのも億劫になったリナは、遠い雪国の景色をぼんやりと思い浮かべながら美代子の柔らかさに身を任せていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;/* 【PR】あなたも「百合の間に挟まる傷」をテーマにお話を書きませんか？ */&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>メモリアスコープ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/memoria-scope/" rel="alternate"/><published>2023-12-15T00:09:00+09:00</published><updated>2023-12-15T00:09:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2023-12-15:/post/memoria-scope/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ホンモノのシゼンは贅沢品です&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;a href="https://amaneimages.com/u/amane/m/photo-a7b9/"&gt;&lt;img alt="壁の自然写真" height="563" src="/images/memoria-scope/title.jpg" width="750"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「じゃあミイちゃんは、ホンモノのお花の香りも知ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、ちょっとだけ。でも、コスモスはあんまり匂いのしない花だったかな。鼻をよく近づけるとね、ほんの少し爽やかな香りがするの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へー、やっぱりホンモノはすごいね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユウはまだ興奮を抑えきれないようで、目はぽぅと熱を帯びて頬がほんのり赤くなっている。私の棟とユウの棟を繋ぐいつもの通路なのに、周囲をきょろきょろと見回してそわそわと落ち着かない。まるで自分が地面を踏みしめていることさえ疑っているように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユウが「ホンモノのお花」と言って指さしたのは、環境美化の名目で設置されたエクステラと呼ばれるシゼン写真である。団地を出ることを許されない住民がシゼンを身近に感じられるように、と想像力に欠けた為政者にありがちな見当違いの優しさから数年前に予算が組まれ、こうして目立たない住居棟の隅に打ち付けられたのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「テンネンのお花って、あんまり匂いが強くないの？　安いシルクフラワーも、袋から出したらすぐ香りが消えちゃうよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないよ。バラとか、キンモクセイとか、ゼラニューム、あとチョコレートの匂いがするコスモスがあって――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「チョコレート？　バレンタインの期間限定フレーバーで売ってたことがあったよね。いつもの三倍くらい高くて、買えなかったけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この街でシゼンとかホンモノの話をするのはよくないことだ。ほとんどの人は、ホンモノの花の香りや海の波音や草原の広さを知らないから。エクステラは土埃のにおいが染みついたただの薄汚れた写真パネルで、秋風の音や渓流の冷たさはどこにも見つからない。ハリボテの窓の前に立っても湧き上がるのは街の外への憧れだけで、団地の住人からはとにかく評判が悪かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、これまでもう何度も横目に通り過ぎてきたはずのシゼン写真を見て、ユウがまさかホンモノの花を思い浮かべるなんて。いくら彼女の気を引きたいからって、家からメモリアスコープを持ち出してユウに見せたのは間違いだった。これではエクステラを置いた市長と何も変わらないじゃないか、と私はひどく後悔した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の触れてきたシゼンは、もうメモリアの中にしかない。両親が離婚して母と一緒にこの団地に越してくるまでは、もっと広くて庭のある大きな家に住んでいたし、いろいろな場所に出かけてホンモノのシゼンに触れることもできた。父が家族のためにたくさん働いてくれたから、ただそれだけで、周りよりほんの少しだけ裕福だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;離婚した母は、自由なお金と時間がぐっと減ったことに強いショックを受けていた。家ではいつも「こんな団地の人たちと一緒にニコニコ笑って働かなきゃいけないなんて」と愚痴をこぼしてばかりだし、私には「あんたはここで一生を終えるような人間になっちゃダメよ」とまるで呪いみたいに言い聞かせてくるのだ。もう五年も経ったのに今の生活を受け入れられない母にはうんざりするし、ユウみたいな子と友達になるのを咎められているようで居心地が悪かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも今となっては、生まれてからずっとこの街に住むユウと暮らしぶりは何も変わらない。ここは狭くて猥雑な中下層の団地で、躾のなっていない子や頭の悪い子もたくさんいる。教室で楽しそうに交わされている会話は、狭い団地のさらに狭い人間関係のつまらない噂話ばかりで、眠気に耐えて話を合わせるのが精一杯だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな中で、ユウは特別に輝いていた。頭がよくて、本を読むのが好きで、しかもシゼンへの興味も失わずに育った強い子だ。団地の子はシゼンと切り離された生活を送っているうちに、草花や海や川への興味を失ってしまう。外の世界に興味を持っても目の前の現実を生きられなくなるだけだ。植物が描かれた絵本は幼稚園児かせいぜい小学校低学年で卒業するもので、中学生にもなってシルクフラワーなんて買う子はユウくらいしかいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミイちゃん。お花畑のメモリアって、持ってる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「コスモスは持ってないの。ジンチョウゲとか、あとはゲットウとかなら、あるけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、どんな香りなの？　明日も見せてくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う……うん。でも、毎日メモリアを見ると身体が疲れちゃうかもしれないし、明日は――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ！　今だって、屋上まで飛べちゃうくらい身体が軽いの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユウは期待に満ちたまなざしと共に私の手を握る。私が与えたホンモノはまだ彼女の中を渦巻いていた。同じ冬空の下を歩いているはずなのに、私の冷たい手に流れ込んでくる熱が溢れて止まらない。この手を離したら、本当に団地を飛び出して空を駆け回るのではないか、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;五感全てを記録・再生できるメモリアスコープは、父が私にプレゼントしてくれた高価なVR機器だ。クラスで――いや、この団地でさえ、こんなスコープを持っているのなんてきっと私くらいだろう。シゼンが好きな彼女と仲良くするために、家族で鎌倉の海に行った&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;思い出&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;メモリア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を見せてあげたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の見たシゼンの景色をユウに教えたかった。そして、私のことを知ってほしかった。でも、今の彼女が夢中になっているのは広いシゼンそのものだ。誰が見た景色かなんてまるで興味がなくて、初めて触れる海水のにおいや砂の温かさ、夏空の色に圧倒されているのが分かった。ユウはただ目新しいシゼンを全身に浴び続けて、そこに私はいなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がユウにメモリアスコープを見せたのは、シゼンが大好きな彼女に喜んでほしかったからだ。それなのに、シゼンに夢中になる彼女を見てもやもやした気持ちになってしまうのはなぜだろう。今だって、ユウは私と遊びたいわけじゃなくて、きっと私の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;思い出&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;メモリア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に興味があるだけだ。ユウはホンモノの花に触れたことがないから、花の香りを嗅ぎたくてたまらないから、だから私と仲良くしてくれるんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が持ち帰ったメモリアを切り売りしないと、ユウはもう一緒に遊んでくれないかもしれない。明日は、明後日は、一ヶ月後くらいならまだ残っているはずだ。でも、私が彼女に見せられる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;思い出&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;メモリア&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;がもう空っぽになったら。ユウは今の何もない私に興味を持ってくれるだろうか。ホンモノのシゼンを見せてあげられなくなった私に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね。今日メモリアスコープを見せたのは、ユウちゃんが特別だからだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急にどうしたの？　私もミイちゃんのこと、好きだよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほ、本当？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！　私の知らないもの、いっぱい見せてくれるから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そっか、えへへ。じゃあ明日も、新しいメモリア持ってくるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また明日、とこちらに手を振るユウと別れてから、階段を一段ずつ上がっていく。エレベーターをじっと待つ時間に耐えられそうになかったから。慣れない踊り場で階数を示す蛍光灯は、冷たく湿った共用階段の床を照らすには暗すぎて心細い。私は明日もユウと会うことができるだろうか、と根拠のない不安が心を覆っていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、やっぱり、ユウはメモリアが見たいだけなんだ。この団地での生活にはもう慣れたはずなのに、夢みたいな生活を送っていたあの頃の私が羨ましい。ユウを好きなだけホンモノのシゼンに連れ出せたら、屈託のないあの笑顔をずっと独り占めにできるのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かつて花壇があった場所はコンクリートで埋められて、雑草一つ生えることすら許さないこの団地は、どこもかしこも灰色だ。今ここでシゼンが詰まったスコープを床に叩き付けたら、この団地の隅から隅までホンモノが溢れ出て色鮮やかな街に変わるだろうか。広い広い草原でユウと花冠を編む光景を想像しながら、私はいつの間にかメモリアスコープを強く握りしめていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/8771"&gt;百合SS Advent Calendar 2023&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>水神社の前で</title><link href="https://ama.ne.jp/post/shirahige/" rel="alternate"/><published>2023-12-01T00:40:00+09:00</published><updated>2023-12-01T00:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2023-12-01:/post/shirahige/</id><summary type="html">&lt;p&gt;百合SSアドベントカレンダー2023が今年も始まりました&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;a href="https://amaneimages.com/u/amane/m/photo-4a6a/"&gt;&lt;img alt="団地と鳥居" height="640" src="/images/shirahige/title.jpg" width="480"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「願いごとを思い浮かべながら水神社の鳥居をくぐると……って、昔みんなやってたじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;下校中。信号の待ち時間を持て余したシイが、横断歩道の向こうにある鳥居を指さした。シイと同じ六高の制服を着た頭一つ背の低い女子は、幼なじみのマトイである。彼女たちは同じ保育園と小・中学校で育った白淵団地の住人同士であった。二人とも右の口元に小さなほくろがあって、まるで姉妹みたいと言われるたびに、マトイは少しくすぐったい気持ちになるのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マトイは意味もなく背伸びをして、シイが指さす水神社の鳥居に目をやった。水神社は隅田川のほとりにある神社で、正式には隅田神社という。かつては浮島神社と呼ばれていたらしいが、この団地一帯では大人も子供も水神社で通っていた。学区の小学生に配られる夏休みのしおり（水辺が近いので気をつけるように釘を刺されるのだ）でもたいてい水神社と呼ばれているので、街区案内の掲示板を見た観光客から「隅田神社はどちらですか？」と聞かれても分からない、というのは定番の笑い話だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、うちらが小学生の時ね。消しゴムに好きな人の名前書いたり、ハートの折り紙作ったり、好きな人の影を踏むなんてのもあったなー」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうそう。あと、誰かに見られたら効果なしっていう謎のゲーム性ね。水に関する願いにこじつけなきゃいけないっていうルールもあったし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、あったあった！　今考えると、努力の方向性が間違ってて謎だよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、神様に頼るしかない時ってあるのよ。私たちの大学受験みたいに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやいや、いきなり現実に戻ってこないでよ。で、突然そんな昔話始めてどうしたの？　鳥居なんて毎日通ってるじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白淵団地は、住宅地と隅田川を遮るように南北に延びた1.2kmほどの長大な団地であり、リューゲン島のリゾート地を思わせるような壮大さを持ち合わせている。ベランダや棟の隙間を埋めるように設置された防火シャッターは、古い住宅密集地で関東大震災級の火災が起きた際に、身を張った防火壁として機能させるための装備であった。高層団地はとかく燃えにくい構造物と考えられていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん水神社は団地の建設より昔から本殿と参道を敷く由緒正しい神社だったので、水神様の通り道を遮らないように設計するのは建設当時の絶対条件だった。火災から人々を守るためには、神様の力を借りる必要があったからだ。そのおかげで作られたのが、こうして横断歩道と鳥居と団地がまっすぐ並んだ特異な風景である。この鳥居を抜けると、6号棟と7号棟の間を通り抜けて川沿いの水神社にたどり着くことができるというわけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昨日ね、鳥居に向かって必死に祈ってる小学生の子を見たのよ。それでいろいろ思い出しちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へー。あの文化ってまだ残ってるんだ。みんな卒業してくのに、鳥居のおまじないだけ残ってるのってなんか不思議だね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こういう素敵な文化も、もう水神社と一緒に消えちゃうのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シイの言うとおり、水神社は今まさに合祀の危機にあった。宮司が詐欺に巻き込まれ、参道部分の土地が不正に乗っ取られたのだ。不正な所有権移転登記が何度か繰り返され、善意の第三者に売却されてしまったというところまでが先月のニュース。水神社自身にはその土地を買い戻す資力は既になく、最終的に住民を巻き込んだトラブルを避けるために団地管理組合が共同で買い取ることになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この土地を水神様へ奉納して参道のまま残すべきか、購入費用に見合った価値を回収するために周囲の敷地と合わせて活用するべきか、来週の住民投票で水神社の将来が決まることになっていた。万が一、このような経緯の末に水神社が参道を失うとすれば、もはや白淵の地で集められる信仰はない。本殿もろとも遅かれ早かれここを去ることになるだろう。ここまで全て最初の詐欺師の筋書き通りとも言われているが、今さら真相が分かったところで状況は変えるにはもう遅い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マトイは水神様にどんなお願いしてたか覚えてる？　昔、一緒にこの鳥居をくぐってお願いごとしたわよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだっけ？　あー、もしかして、中学1年生の夏休みに突然呼び出されたやつ？　ちょっと覚えてるかも。でも、どんな願いごとだったっけ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はね、あの日のことちゃんと覚えてる。だって、願いごとで人を殺したんだもの。忘れるわけないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ、急にどうしたの？　人を殺した？　願いごとで？　変な冗談やめてよ。怖いじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マトイがへらへら笑いながらそう言い終わると同時に信号が青になったが、シイの足はぴくりとも動かない。シイが真面目な顔でこういう趣味の悪い冗談を言う性格ではないことは、マトイが一番よく分かっていた。暗い雰囲気に口を挟んで茶化そうとするのはマトイのいいところだったが、今は止まったままのシイを待つしかない。彼女がいう「殺した」人に心当たりがあったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「冗談なんて言ってないわよ。私のお父さんは、お願いを聞いてくれた水神様に殺されたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シイの言葉を聞いて、やはり、とマトイは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シイの父親はひどいアルコール依存症だった。外面がよく誰にも疑われない父親と、外面を気にして誰にも相談できない母親に挟まれた最悪の環境で、一人娘のシイが安心できる場所はマトイと過ごす水神社の境内だけだった。質の悪い安酒を大量に飲んでは、家族に暴力を振るう悲惨な日々の繰り返し。最終的には無理な暴飲から意識朦朧に陥り、とうとう自分の吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死したという話は、火葬の後に水神社の裏でマトイがシイから直接聞いたものだ。団地にいられなくなるから絶対内緒ね、というシイの言葉をマトイはしっかりと守っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこの父親はまた、自分の娘にひどい性的虐待を加えていたのだった。夫に逆らえない母親がシイの味方になるわけもなく、泣き叫ぶシイの口を塞いで無理矢理のしかかるその歪な光景から目をそらすのが精一杯だった。この時、シイは小学5年生である。血の繋がった幼い娘に欲情して性交を迫るなど、その姿は想像するもおぞましい。それは子を守るべき父親の皮を被ったただの怪物であった。願いを聞き入れた水神様が水に包んで殺したのだ、というのも解釈として正しいのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シイは心の奥底に封印して &lt;em&gt;忘れた&lt;/em&gt; その凄惨な体験を誰にも話したことはなかったが、マトイにはおおよそ彼女に起きた事件の予測は付いていた。シイが父親について語る思い出はいつも欠落と矛盾だらけで、しかしあまりにできすぎていたからだ。それに、マトイはシイの部屋に来たかの父親が自分に向けたねちっこい視線を今でもよく覚えていた。シイを呼びつけるあの声を思い出すと、得体の知れない恐怖で足がすくんでしまう。マトイが今でもシイの家で遊びたがらないのはそのせいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シイちゃん。水神様なんていないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何言ってるの。ちゃんといるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、水神様は人を殺したりしないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「きっと殺すわよ。そうじゃなきゃ、あんな卑劣なやつが簡単に死ぬわけない。マトイは私があいつを殺したとでも言いたいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そんなわけ、ないじゃん。でも、おかしいよ。水神様がいなくなるかもって時に、なんでそんな話するの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;信号はとっくに赤になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シイの口から「あいつ」なんて言葉が出たことに、マトイは動揺を隠せずにいた。シイは自分の父親を「お父さん」と呼び、遊園地や海に連れて行ったり、勉強を教えてくれるいい父親だったとマトイに語っていたからだ。そんなシイの父親が不運な事故で死んだというのは、シイ自身がマトイだけに伝えた秘密である。今さらシイが父親に対する殺意を告白するなんて、あの秘密は嘘だったと認めるなんて、マトイは夢にも思わなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最近、あの男が夢に出てくるの。水神様がいなくなったら、あいつが生き返ってくるんじゃないかって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;震える声でそう呟いたシイは、足底から全身の力が抜けていく嫌な感覚と共に思わずその場にしゃがみ込んでしまった。ぶるぶる震える私の背中を見てマトイはきっと心配するだろう、と思ったがシイは顔を上げることすらできない。マトイの方も、過去を思い出しつつあるシイにどんな言葉をかけるべきか分からずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あぁ、シイちゃんが全部忘れたままでいたら。取り返しのつかない過去に向き合わずに済んだなら。シイの父親がどう苦しみながら死んだかなんて、本当はシイの手で殺されてるかもしれないなんて、彼女の痛々しい姿を見て涙ぐむマトイにとってはどうでもいいことだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ、シイちゃん。水神様は、水神社は、きっといなくならないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;信号がまた青になる。マトイは一人で動けなくなったシイに肩を貸して、参道に続く横断歩道をどうにか渡り切った。シイの苦しそうな荒い呼吸はまだ治まりそうにない。マトイは鳥居をくぐりながら「シイちゃんが、全部ぜんぶ水に流せますように」と何度も祈っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/8771"&gt;百合SS Advent Calendar 2023&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>コバルトブルーと塩の道</title><link href="https://ama.ne.jp/post/cobalt-salt-occult/" rel="alternate"/><published>2023-11-02T18:55:00+09:00</published><updated>2023-11-04T09:14:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2023-11-02:/post/cobalt-salt-occult/</id><summary type="html">&lt;p&gt;小説でよくわかるシリーズ 塩のひみつ&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;お盆過ぎになっても、まだ暑さは落ち着かなかった。この異常気象で、アンドンクラゲもアカイエカもいつの間にか絶滅危機らしい。こんな夏休みにわざわざ外に出かけるなんて、無謀な挑戦を売りにする動画投稿者くらいしかいないだろう。しかし、今から私は無謀にもそんな挑戦を強いられることになる。部長がどうしても今日来てほしいと言ったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;早起きの寝ぼけた頭の中を、トーストにかじりつく音と一緒にキャスターの声が通り抜けていく。最近の老人は周囲の環境変化に鈍感であるから、少なくとも10月までエアコンが必須である……というような特集を、できるだけ当事者のプライドを傷つけないように、回りくどくかつ明るい口調で説明していた。十数年前のコンプレッサーでは、暑すぎてタイマー機能の動作温度設計から外れるものがあるらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その特集が終わると、今年は特に酷暑だった20年前の平均気温を大きく上回り、ここ150年ほどの観測史上で最も暑い夏になるだろうという気象庁の発表が流れ始めた。気温の警報だけでL字放送に変わるのも珍しい。ぐるりと残したパンの耳を牛乳で流し込んで、少子化と共に平均気温が上がる傾向があるようだ、ということを示すグラフがSNSでバズっていたのを思い出す。昨日サークルのトークルームでスズがシェアしていたが、部長の既読は付いていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日も昨日とほぼ変わらない最高気温を示す予報にげんなりする。二十四節気なんて梅雨と一緒にもう忘れ去られて、季節が一歩も前に進んでいる気がしない。屋外での運動は原則中止せよ、不要不急の外出は避けろ、定期的に水分を補給しろ――と、お年寄り相手の猫撫で声から急に単調で冷静なアナウンスに切り替わった。部長が急いでるみたいなんですみません……と誰にともなく言い訳しながら、あせた薄手のロングスカートを収納から適当に取り出したチュニックに合わせて、かぎ編みの日除け帽をかぶる。バッグにはネッククーラー、日傘、それと凍ったペットボトルを何本か。これなら行きの燃料くらいにはなるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部長――アキさんは少し変な人だった。特に空間の捉え方において、古い感性の人間である。彼女はコミュニケーションにおいて物理的な距離を重視していて、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;仮想空間&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;メタバース&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で例会を開催するのを明確に嫌っていた。アキさんがとある山奥の集落出身なのが影響しているのかもしれない。狭い村ではポスト・コロナの感性なんて生まれる余地がないだろうから。――というようなことを、ふと雑談のネタとしてスズに話したところ、あんたも東北出身の田舎者じゃんと笑われた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;去年、会員の多数希望で初めて仮想空間での例会が開かれた後、急にアキさんからご飯に誘われた。通話の呼び出しが数コールですぐ切れて、その後DMが届いたのだ。操作を間違えるほど急いでいたらしい。明日とか週末の約束のつもりで話を聞いていたところ、今すぐ行きたいのと言われて戸惑ったのを覚えている。今とは真逆で、空がとても冷える冬の日だったはずだ。私は1年生の秋学期終わりがけで、アキさんは部長になったばかりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅前に着くと既にアキさんが待っていて、こちらに気づかずなぜか焦慮した様子を滲ませていた。私が声をかけると、そのいらだちをかき消すように「あ、ナルちゃん！」と笑顔で私の手を握る。大きな青いガラスボタンの付いたベージュのステンカラーコートを着ていた。例会の時はだいたいこの姿で、ボタンの薄いメッキが透き通った輝きを放つのが好きだった。指先は冬らしくひんやりしていて、しかし行きつけのラーメン屋に着く頃にはもう暖かくなっていたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、アキさんと手を繋いで歩いたのはこの日が初めてで、本当は少し驚いていた。もちろん、仲のいい友達同士ならありふれたことだろうけど、私は単なる先輩と後輩の距離感のつもりだったから。そこへいくと、そもそも私とアキさんは突然二人で食事に行く間柄ではないのだった。立て続けに不測の事態が起こると、人は急に冷静になるものだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その頃はまだソーシャル・ディスタンシングがどうのと世間がうるさくて、どちらともなく手を離してもいいような力で引き合って歩く私たちの姿を意識すると、どうも後ろめたい気持ちになったのを覚えている。アキさんは私より少し背が高かったけど、姉妹だと言い張るには無理があった。まだ食事以外で素顔を見る機会は少ない時期である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩いている間、アキさんは数十分前の例会に出席していたタヌキネコ（3年くらい前にバズったキャラクターで、キャンペーンの3Dモデルが配られていたのだ）のアバターがちゃんと私だったかどうかを頻りに気にしていた。手のひらの暖かさを通して、目の前の存在を確かめているようだった。アキさんはデフォルトの角張ったロボットのアバターだったから、動物と心を通わせるやさしいロボットの姿が頭に浮かぶ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご飯に行くなら、みんなも誘えばよかったじゃないですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうだよね。でも、ちょっと恥ずかしくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、何がですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら、ナルちゃんは東北出身じゃない？　仮想空間に馴染めない気持ち、分かってくれるかなって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんまで！　私はちゃんと政令指定都市育ちなのに。埼玉生まれのスズに言われるのはまだしも、長野の山奥から来たアキさんに言われると流石に反論したくなる。しかし、ばつが悪そうに私を呼びだした理由を告げる姿を見ると、言い返す気にはならなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからアキさんは、仮想空間にいると表情の分からないピエロに囲まれているみたいで怖いとか、電話もちゃんと伝わっているか分からなくて苦手、というような話をしていた。日本人の4割は電話が苦手だというし、最近発表されたコロナの感染率が3割弱だと考えると、それほど珍しいことでもない。私にベタベタと触れてきたのも特別な気持ちがあるわけではなく、ピエロが集まる薄ら寒い夜を人肌で乗り越えようということなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;限定のイタリアンまぜそばが美味しかったから、別にいいけど。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ほんの数分前に着いたばかりだという白いワンピース姿のアキさんは「暑いねー」なんて間延びした声と共にハンカチで汗を拭った。駅前のロータリーは歩道に沿ってUVカットの強化プラスチックでシェルターが張られており、圧迫感を抑えつつ待ち時間を快適にする工夫が施されている。その屋根の下でも熱気はなお変わらず押し寄せているようで、麦わら帽を脱いだアキさんの頬は上気していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アキさん。先に来たなら、サローにでも入っていればよかったじゃないですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サローは駅前にある唯一のカフェである。県内全域と県外にもわずかに進出しているアメリカンダイナー風のチェーン店で、手軽な価格で食べられるオリジナルスパイスを使ったハンバーガーの人気が高い。あとはクラフトコーラのカクテル。この小さな駅にサローがあるのは少し珍しい気がするけど、バイトも利用者も近隣の大学生が多いおかげで上手く回っているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん。でも、すぐ電車に乗るからいいかなって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、出かけるんですか。今から？　どこに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんが脱いだ帽子をもじもじと揺らす。つばがまっすぐ伸びた大きな麦わら帽にはピンク色のリボンが巻かれていて、その結び目に通したガラスボタンがきらきらとした光を放っていた。この輝き、どこかで見覚えがあるなと思いながらしばし見つめているうちに、アキさんが冬の例会で着ていたコートのボタンと同じものだと気づく。角の生えた鹿のような動物が描かれていて、花札の「鹿に紅葉」を連想した。紅葉は待ち遠しいほどずっと先なのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと……海に行きたくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ、海ですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思わず気の抜けた声が出るくらい、なんとも突拍子もない答えだった。ここからだと、針磨まで行ってからJRで向かうつもりだろうか。ここは県内を縦断する私鉄の一線であり、乗り換えなしでは海岸には行けない。往復で3000円くらいなら、サローで少し豪華な夕食を食べたくらいだと思えばいいだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それよりも、海と聞いてせめてサンダルで来なかったことを後悔していた。海に向かうつもりのアキさんが、今すぐにでも砂浜を歩けるような服装なのは当然で、しかし相対する私は海どころか遠出するにも気合の入らない服装だ。ワンピースによく映えるナチュラルな青いコットンリュックに、私にも使えるようなアイテムが入っていたらと思うが、あまり期待はできまい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、どこに行くか聞かずに外に出た私も悪いけど――と、いつの間にか自分がもう海に行く旅程は受け入れてしまっていることに気付いて、さらに驚く。そもそも、夏休みもど真ん中のこんな日に誘われた時点で怪しむべきだったと、思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたし、実は明後日帰省するんだけどね。お塩を持って帰らないといけなくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「塩ですか。センゴクに行けば、徒歩5分で着いて涼める上にヒマラヤの岩塩まで売ってますけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっとね、あれは不純物がいっぱいでしょう？　でも、化学の塩もダメで……お店で買うんじゃなくて、海水をもらってきて作らなきゃいけないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お盆にDIYの塩を納める文化なんて、聞いたことがなかった。江戸時代には沿岸から長野県の塩尻まで塩を運ぶ街道があったらしいけど、現代では内陸県だからといって塩が不足することもない。仮に不足していたとして、素人が作った塩を必要としているのはやはり奇妙だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇナルちゃん、ダメ？　今年はすごく暑くて、わたしだけじゃやりきれるか分からないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……いや、はい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;沈黙が流れる。アキさんは私の答えをはっきり聞くまで動きません、とでも言うように麦わら帽のつばをきゅっと握っていた。乗客を数人乗せて発車を待っていた市内の循環バスが出発時刻を迎えて、ディーゼルエンジンの始動音と共に姿を消す。街路樹に集まるセミも暑さが過ぎるのを静かに待つのが精一杯で、耐えきれずに噴き出した汗が右頬をつつと流れるのを意識した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私、行きの燃料しかないんですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「燃料って？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、なんでもないです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅前にいる今なら、アキさんの誘いを断って帰ることも簡単にできただろう。しかし、彼女がおかしな風習のせいで行き倒れてしまったら寝覚めが悪くなるのは私の方だ。この暑さの中でカンカン照りの十州海岸に向かうだけでも正気じゃないのに、さらにそこから重い重い海水を持ち帰ってくるなんて、とんでもない愚行に違いない。アキさんが無理をして倒れる前に止められるのは私だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、こうしてアキさんに申し訳なさそうな顔で頼まれるのにはどうも弱かった。初めてアキさんの部屋に行ったときといい、私って流されやすい性格なんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、今日はもともと予定がなかったし、もしかしたら秋の民俗学Ⅱのレポートでネタにできるかもしれないし、もともとアキさんと過ごすのがいやなわけでもないし……とにかく、まぁ、私にもきっとメリットがあるはずだから、別にいいけど。別にいい。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと散らかってるけど、好きなところに座っていいからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コートを脱いだアキさんが、ごちゃついたダイニングテーブルを片付け始めた。ボトルデザインにクリスマスのオーナメントが散りばめられた化粧水（保湿がよいと口コミで評判だった）、砂糖か塩のような白い粉末が詰められたジャムの空きビン、クーポンがついた駅前の新しいピザ屋のチラシ、4言語の赤い文字で警告が書かれた水道局の封筒……片付けというより、単に重ねて端に寄せただけともいえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;半分ほど空間ができたテーブルにコップを持ったアキさんが座ったので、それに合わせて向かい側の席に着いた。透明な液体で満たされたコップ越しに、紺色のリブニットセーター姿のアキさんを見つめていると「お茶の方がよかった？」と尋ねられたので首を振る。聞くと、地元の温泉から採水したものがペットボトル詰めで売られているらしい。確かに、少し甘さを感じないこともない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの、部長。それで、相談っていうのはなんなんでしょうか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まぜそばを食べ終わった私は、またなぜかアキさんに手を引かれて駅まで戻ることに。アキさんの手は食事の前より暖かくて、お互いに触れ合う手のひらがよく馴染む気がした。「冬なのにあったかいね」なんて笑っていたところを見ると、私の手もだいぶ暖まっていたのだろう。駅に着いたところで解散と思っていたら、実は話したいことがあるのだと家まで誘われたのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだったよね。相談。そう、えぇと……」と、アキさんは私の問いに答えかねているようで、手元がもじもじと落ち着かない。水面を揺らしたり、少しずつ口に運んでみたり――と、しばらく心の準備を待っていると、とうとう重い口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ナルちゃんって、海の匂いがするよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……それって、縁起悪くないですか？　なんか、死ぬ前みたいで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうじゃなくて！　海っていうのは、晴れた砂浜のぽかぽかした感じとか、空の匂いっていうか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夏の……いや、おひさまの匂いとか、ですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんは私の「おひさま」という言葉にうんうんと頷いて「そう！　そう言いたかったの」と身を乗り出して答えた。じゃあそれはきっと柔軟剤の香りだ、と思って自分の袖に顔を近づけてみても、もう鼻が慣れているのか、冬の空気がまとわりつく冷たい匂いしか感じない。むしろ、近づいてきたアキさんのジャスミンローズの香りを強く感じていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はてっきり、人が死ぬ直前に磯の匂い――実はプランクトンや海藻が分解された物質らしい――が漂うという都市伝説のことだと思っていたけど、もっと明るくてあたたかい話だったらしい。滞留したナトリウムの香りみたいだなんて評されるのはまっぴらごめんだけど、おひさまの匂いというのも、なんだか子供っぽさが先に浮かんで褒められている感じはしなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたし、海にほとんど行ったことがなくて。だから、わたしの &lt;em&gt;海の匂い&lt;/em&gt; は、小さい頃の思い出の匂いなのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんの言葉を聞いて、昔家族で行った市内の海水浴場のことを思い出す。砂浜は海の家とビーチパラソルと残りは人出で埋め尽くされているという、よくある夏の景色だ。端の方に行くとごつごつとした岩場が広がっていて、潮だまりでイソギンチャクや巻貝が揺れていたり、小さなカニが駆け回っていたのを覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭に浮かぶのはそういう磯の生き物たちの楽園で、しかし匂いを思い出そうとするとどうも判然としない。スーパーの魚売場とか、忘年会の居酒屋で見た生け簀の記憶と混ざってしまう。最近海に行っていないからだろうか。冬は海の匂いを忘れてしまうのかもしれない、とふと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でね、いつもナルちゃんから海の匂いがするなって思ってて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だけですか？　その、ヘンな匂いって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ヘンじゃないよ！　みんないろんな匂いがするし。でも、ナルちゃんが一番好きだから、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;身振り手振りで誤解を解こうとしているようだけど、勘違いしているのはアキさんの方だ。とはいえ、私が知っている &lt;em&gt;海の匂い&lt;/em&gt; ではないことは分かったし、あまり気にする必要はないのかもしれない。いい匂いだと感じる相手は遺伝子の相性もよい、なんて再現性のない昔の論文に依拠した俗信が頭に浮かんで、アキさんの匂いをあまり覚えていないのが薄情なことのように思えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日はバーチャル例会だったじゃない？　いろんなアバターからみんなの声が聞こえるのが怖くて、ナルちゃんの顔を思い出したら、なんだかすぐに会いたくなったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんは声と身体が同じ場所に重なっていないことよりも、普段感じている嗅覚がシャットアウトされることに不安を覚えたのだろう。表情も匂いも分からない、声が出る3Dモデル。これは電話だってそうだ。簡単に言えば、匂いを感じたいから直接会いたい、ということらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで最初に浮かんだのが私というのがどうも腑に落ちないところだけど、同じ &lt;em&gt;地方出身者&lt;/em&gt; として話しやすかったのかもしれないし、不安になったら誰かに頼りたくなる気持ち自体は理解できる。でも、それなら初めから一緒にいてほしいと言ってくれたらよかったのに。断られないようにまずは食事から、なんてむしろ私を信頼していないように感じられた。まるで私の意思なんて無視しているように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ今日は、最初からこうやって家に連れてくるつもりでご飯に誘ったんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し冗談めいた口調で聞いたつもりが、予定より深刻そうな声色になってしまったのが分かる。アキさんが頬を引きつらせたまま動けなくなったからだ。いやな空気が駆け抜けた。大丈夫です、冗談ですよ、気にしてません……そう言い出せれば、と思ったけれど、もやもやした気持ちがのどにつかえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうしているうちに、重い空気に耐えきれなくなったアキさんが口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「騙されたと思ってたら、ごめんね。でも、そんなつもりじゃなくて……ひっ、こわかったのも、ほんとだから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じょ、冗談ですよ！　泣かないでくださいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;膝の上で両拳を握りしめたアキさんから、たどたどしい口調と一緒に涙が漏れ始める。テーブルに突っ伏すわけでもなくぴんとした姿勢で私の目を見つめようとしているけれど、ぼろぼろと流れる涙で視界はすっかり歪んでいるはずだ。そうやって弁解する姿を見ると、確かに私を騙すつもりなんてなかったのだと思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、まだちょっとこわくて……うっ、だから、一緒に寝てほしくて呼んだの……だめ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、先に言ってくれれば、パジャマくらい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこまで言葉が出てから、はっと気付いて口を押さえる。パジャマくらい。だなんて、まるでもう泊まることは決まっているみたいだ。アキさんのパジャマを借りたら少しぶかぶかだろうな、なんて考えてしまうのもいやになる。さっき自然に手を繋いで街を歩いたみたいに、またアキさんのペースに流されている。まんまと無警戒でこの部屋まで来てしまったせいで、いつの間にか前にも後ろにも逃げられなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私と一緒に寝たら、バーチャル例会でちゃんとみんなとおしゃべりできるようになりますか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、大丈夫。でも、逃げたくなったら……ひっ、ナルちゃんのこと、考えてもいい……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの、なんかそれって……まぁ、それで落ち着くなら、いいですけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんって、こんな人だったっけ。おっとりしてるけど芯があって、もっとしっかりした人だったような。情緒の乱高下に任せて他人との距離感を見誤ったり、サークルで節操のない恋愛事情に巻き込まれたりする人ではなかったはずだ。それが今、目の前で不安を慰めてもらうために涙を流して後輩の私に懇願しているなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実はこうして、私みたいに純朴な後輩を何人も誘っているんじゃないか、なんて変な妄想が頭の隅に浮かぶ。みんなに一番だよ、と言って回ったりして。それでも、今日だけ一緒の布団で一緒に寝るくらいなら、別にいいけど。別にいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……こうですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ナルちゃん、ありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;腕を広げたアキさんの胸元に収まるように身体を縮めると、暖かくてやわらかい感覚に包み込まれるのに合わせて、耳元にほぅと溜息がかかる。落ち着きを取り戻したアキさんとは対照的に、私はなぜか息ができなくなった。腕の力は弱いのに、強く締め付けられている心地がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を抱き留めて泣き止んだアキさんが「ナルちゃん、ちっちゃくてかわいいね」なんてへらへら笑いだす。それを見てなんだか急にむしゃくしゃして、胸に向かって小さく頭突きをした。その拍子に大きく息を吸うと、香水と混ざった甘くて濃い匂いが通り抜けていく。アキさんの匂いを意識したのは、これが初めてだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ナルちゃん、大丈夫？　お水のボトルは適当に置いていいからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ……これくらい、ふぅ……平気ですから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;靴を脱いでダイニングテーブルに向かったアキさんが、大きなトートバッグから軽々と2リットルのボトルを取り出していく。私もその列に自分の荷物を並べようと思ったけど、靴を脱いで床に上がる自分を想像するとへたり込みそうになったので、その場にどすんとバッグを下ろした。アキさんの半分の量しか運んでいないのに。暑さにかまけて、運動もせずにだらけた生活を送っていたのを後悔した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれから十州海岸に向かった私たちは、海水どころか真っ白な砂浜ごと溶かしてしまいそうな熱波と日光の中で作業を始めた。もしビーチパラソルのレンタルシーズンが終わっていたら、今ごろ二人そろって砂浜の染みになっていたところだろう。8月終わりのこの酷暑に海水浴を楽しみに集まる人は少ないようで、せいぜいよく日焼けした地元のサーファーが数人集まって熱心に波を待つほかに人影はなかった。アキさんは久しぶりに見る海岸の景色を鼻から思い切り吸い込んで、「ナルちゃんの方がいい匂いだよ」とか「わたしの記憶と全然違う」と楽しそうに笑っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからアキさんがリュックから取り出したのは、海水を汲むための紐のついたピンク色のバケツが1つと、折りたたみのウォーターボトルが何枚か、そして500mlの炭酸飲料用ペットボトルに似た黒い容器からチューブが生えた謎の装置である。これが3本。1本持ってみるとずっしりと重く、全面に塗られたつやのない黒い顔料が日光を曖昧に反射している。指で軽く叩いてみたらカンカンと金属が響く音がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これね、太陽の熱で海水を煮詰める……えーと、ケトルみたいなもの、かな。わたしも実家から持ってきただけだから、よく分からないんだけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海水の入ったバケツを持って帰ってきたアキさんが、そう説明しながら金属ボトルに塩水を移した。そして、リュックの一番底に落ちていた空気入れのようなハンドルを取り付けて何度か勢いよく往復させる。空気を入れてるんじゃなくて抜いてるんだよ、と言っていた。どうやら簡易的な真空装置らしい。この前、そんな感じのキッチン用品がバズっていたっけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空気を抜いた後のボトルは、太陽がよく当たるように即席の砂山に仲良く立てかけられて、しばし日光浴へと出される。30分間ほど直射日光に晒しておくと、ボトルを満たしていた海水が3分の1ほどに減っていた。太陽の熱だけで水が沸騰して蒸発したということか。広げたウォーターボトルに濃縮された海水を流し込むと、まるで海藻でも煮詰めたような磯の匂いが上がってきた。死の匂いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうやって――いや、どうやって？――作った濃い海水のことをカンスイと呼ぶのだとアキさんが言った（後で調べたら鹹水と書くらしい）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海水を煮詰めるのは正体不明のテクノロジー頼みでも、できあがったカンスイを家まで持ち帰るのは安価な人力である。とりわけ、私のような若くて健康な肉体ならどこでも即戦力というわけで……と思ったのも束の間、ビーチパラソルでは防げない白い砂浜の照り返しに私はすっかり体力を奪われていた。アキさんの体調を見守るどころか、重い身体を引きずりながらここまで2リットルのボトルを両肩に抱えて持ち帰るのがやっとというわけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろんこれだけでは塩ができたとは言えないので、ここからは残りの水分を飛ばす作業が待っている。いかに豪快な暑気を放つ太陽でも力不足で、今度はさらに強い火力で塩水を沸かし続ける必要があることは知っていた。ガスコンロか、電子レンジか、固形アルコールか――外の階段に「駐車場でのバーベキュー禁止」の張り紙があったから、たき火は使えないのだ――いずれにせよ、まだ時間がかかりそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、お塩作りの続き、始めるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってアキさんが取り出したのは、海水を沸かしていたボトルと形がよく似た、しかし深い海のような青色のガラスでできた透明なビンである。なだらかなワインボトルや背の高い琉球壺を思わせるシルエットを描く分厚いコバルトガラスは、表面にぐるりと青海波のレリーフが彫られていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんが慎重な手つきでそろそろとそのビンに塩水を注いでいく。五徳にかけるには背が高すぎやしないかという心配とは裏腹に、移し終わってもコンロに向かう気配はなかった。代わりに取り出したのは茶色くすすけた古いマッチ箱である。赤く塗られた上面に白虎が踊る見たことのないデザインだった。アキさんはそこからマッチを1本取り出してサッと火を着けたかと思うと、すぐにビンの口に差し込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、目の前に不思議な光景が現れる。マッチの火はすぐに消えるかと思いきや、水面近くでふつふつと橙色……いや、緑色にも見える炎を上げ始めたのだ。私の目を盗んでオイルでも垂らしたのかと疑ったが、私の怪訝な顔に向き合うアキさんの穏やかな表情は、私をからかっているようには見えない。炎に照らされた水面が少しずつ低くなっていき、わずかなオイルならもう燃え尽きているはずの時間が流れる。手品や錯覚の類ではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのケトルだけでもお塩は作れるんだけど、不純物が残っちゃうから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不純物が残ると、いけないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ビンの中で燃えちゃうようなお塩だと、塩の神様が悲しんじゃうから。だから、夜に煮詰めないといけないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうやら、この不思議な炎で作られた塩は神社かどこかに奉納するためのものらしい。土着神の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;御饌&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みけ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;なら、わざわざ手作りで塩を作るのも、アキさんの実家に塩作りのための道具がそろっているのにも納得がいく。塩が不足しがちな山間部で塩自体を神格化して、備蓄を促す理屈を作る助けにしたのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキさんの手で残りのビンも塩水で満たされて、今度は私が順番にマッチの火を落としていく。もちろんタネや仕掛けなんかなくて、水面に移った炎はどこから見ても明るい。細いビンの口から湿った空気がゆらゆらと漏れ出て、エアコンのないダイニングキッチンがさらに蒸し暑い夜に追いやられていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;5本のビンがくつくつと立てる小さな音の中で20分間ほどが過ぎる。初めのビンの塩水がとうとう1割ほどまで減ったところで、今まで絶えずに様々な色で燃えていた炎がふっと消えてしまった。やっと塩ができあがったのかと上から覗き込むと、不思議なことにまだところどころ黄色い炎がゆらめいている。でも、もう一度横から見ても、やはり燃えているようには見えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あれ……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？」と驚く私に顔を寄せたアキさんがビンの中をぐるりと見回して、これなら大丈夫だよと言って炎を吹き消した。ビンの外側はほんのり温まっていて、しかし持てないというほど熱いわけでもない。ビンを皿に向かってゆっくり傾けると、勢いよく滑り出した結晶がきらきらとした光を放ちながら白い磁器の上を跳ねていく。でこぼことあちこちにぶつかる不規則な粒は、作り方から見ても焼塩に近いのだろう。不純物のない塩、という表現が確かに正しいと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し舐めてみようよ、と誘われるままに数粒を指に乗せて口に入れてみる。指をくわえた瞬間に同じポーズのアキさんと目が合って、見てはいけないところを見てしまったような心地がした。口の中にはふわりとしたしょっぱさが全体に広がっていくけれど、 &lt;em&gt;化学の&lt;/em&gt; 塩とは違って、十州海岸で海水を煮詰めたときの磯の香りがまだほんのりと残っている。でも、ヒマラヤの岩塩から万年雪の香りはしなかったのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おいしい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しょっぱいです。あと、 &lt;em&gt;海の匂い&lt;/em&gt; がします」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、よかった！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きな仕事を成功させたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべるアキさん。たかが塩でしょうと水を差す自分を意識しつつも、これが二人で朝から散々苦労して作った味だと思うと、つい口元が緩んでしまう。ほころんだ唇をきゅっと結んで頷くと、アキさんは不思議そうに首を傾げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、山の神様は磯の香りが恋しいから塩を作らせるのかもしれない、と思った。山からは決して穫れない魚や貝の面影を味わうために、海から塩を持ってこさせるのだ、と。アキさんの故郷の図書館なんて漁ったら、もっといろいろ資料が出てくるに違いない。……いや、民俗学のレポートのためにストーリーを仕立てているわけではない、決して。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうしているうちに、残りのビンの炎も徐々に弱くなっていく。不純物を飛ばし切ったら、また順番に取り出して次のカンスイを詰めなければならない。もうすぐ日付が変わる頃なのに、まだ全体の2割ほどしか終わっていなかった。今日はこれができあがったら、いったん帰ってもいいだろうか。明日の夕方から残りの分を進めれば、なんとかぎりぎり――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ナルちゃん。お塩作り、朝までいてもらってもいいかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「部長……私、今日はもう疲れちゃったんですけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そんな言い方しないでよぉ……一緒にがんばろう？　ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――というわけにもいかないらしい。昼間ほどの力仕事は残っていないにせよ、この疲れ切った体で細かな作業を繰り返すのを想像すると気が重くなる。流石に帰りたいという気持ちが前に出たせいか、思わず &lt;em&gt;部長&lt;/em&gt; だなんて呼んでしまったから、アキさんは寂しそうな顔をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね？」と私に目線を合わせて屈んだアキさんの手は少し汗ばんでいて、キッチンがまるで海辺の熱帯雨林みたいに湿った空気に沈んでいたのを思い出す。窓はまだ開けていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、ほんとに疲れたんですよ。ずっと暑かったから汗くさいし。流石に恥ずかしいですって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え……ち、違うよ？　今日はそんなつもりで誘ったんじゃないの。そんなことしない、しないよ、しないから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉にはっと驚いたアキさんが、みるみる赤い顔に変わっていく。まるで私の方が期待しているような言い方に思わず反論したくなったけど、私とエッチなことしたかったんでしょ、なんてアキさんが認めるまで言い続けるつもりもない。どうせ初めからそのつもりだったくせに、という言葉を飲み込んでため息をついた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、慌てすぎ……分かりましたよ。もう少しだけ、手伝いますから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。じゃあ、お塩作りが終わったらすぐ解散ね、解散！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう歯切れよく言い切ってみせたアキさんは、それでも諦めきれないように「でも、あんまり遅い時間だと危ないし、そのときは泊まった方がいいかもしれないけど……」なんてぶつぶつと言い始める。本当に私の言葉で意識させたのだとしたらとんだ藪蛇で、しかし私がアキさんの部屋に来て &lt;em&gt;そう&lt;/em&gt; ならないことはなかったし、急に図星を指されて驚いただけなのだろう。やっぱり私はアキさんに甘いのかな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;落ち着きのないアキさんの代わりに、空になったビンに新しい塩水を詰めていく。まだ半分以上満たされたウォーターボトルは、片手で支えるには少し重い。細い水流を見つめながらほんの少しぼんやりとした隙に注ぎ口が揺れて、気付くとカンスイの飛沫が指先にかかっていた。素直に拭き取ればよかったのだけど、タオルに手を伸ばすのも億劫になってそろりと舐めとってみる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海の香りがする。ふと目の前に浮かんだのは、コバルトブルーの海風が吹く山奥の神社の風景だった。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>桐谷梨花のキャンディ日記</title><link href="https://ama.ne.jp/post/kiritani/" rel="alternate"/><published>2023-06-17T14:20:00+09:00</published><updated>2023-06-17T14:20:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2023-06-17:/post/kiritani/</id><summary type="html">&lt;p&gt;架空ア～バン女子エッセイのためしうち&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は、2023年5月発行の&lt;a href="https://vc.hentaigirls.net/"&gt;バーチャルキャンディ&lt;/a&gt;シリーズに収録されています。&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/"&gt;公式サイト&lt;/a&gt;から入手可能です。 */&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="/images/kiritani/image.jpg"&gt;&lt;img alt="海水浴場・スパイスのイメージ画像" height="375" src="/images/kiritani/image_thumb.jpg" width="750"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;div class="toc"&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#520230820"&gt;家族5人で避暑地を過ごす（2023/08/20）&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#20230520"&gt;エコアート そらのこえを求めて（2023/05/20）&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#20221120"&gt;思い出のクラフトコーラをつくる（2022/11/20）&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;h2 id="520230820"&gt;家族5人で避暑地を過ごす（2023/08/20）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;夏は4匹の家族を連れて避暑地に行くのが定番で、毎年宿選びには苦労している。愛犬や愛猫と一緒に宿泊できるオプションをアピールするホテルは最近では珍しいものではないが、私のようにロコスタル・フェリステルスと暮らしている身にはまだ不便なことが多い。それも4匹も、だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロコスタル・フェリステルス、と格好つけて学名を書いてみたが、巷のペットショップではシャポーという名で親しまれている、割とメジャーな生き物だ。シャポーというのはフランス語で帽子という意味で、その昔、さる貴族と暮らしたロコスタルの名前が由来らしい。丸くてもふもふとした外見と、高く跳ねて人間の頭に乗る性質を見事に表した素敵な名前である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;我が家には「おもち」「あんこ」「ちょこ」「らむね」の4匹のシャポーがいる。3匹は名前から色を想像できるだろう。それぞれ、おもちは白、あんこは黒、ちょこは茶色の子だ。部屋の隅や柱の影に隠れるのを好むので、目立つ柄や色の個体は少ない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では、らむねは？　シャポーと暮らしたことのある友人でさえ、虹色の柔らかな毛で覆われたらむねを見るととても驚く。縁日で売られているカラーシャポーの毛色は染料で染めたもので、1ヶ月もすれば元の真っ白なシャポーに戻るからだ。しかし、らむねは1年以上経った今でも、頭から尻尾までの綺麗なグラデーションが残っている。他の子たちより尻尾が長く、物陰に身を潜める性質も弱いのを見ると、愛玩性を高めた珍しい品種なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、旅行の話だった。もともとシャポーはおとなしい生き物で、時折小さな声でキュルキュルと鳴く程度で人に迷惑は掛けないし、むしろ癒やしを与える存在である。根気よくかれらの生態を説明すると、今回のように柔軟なホテルなら愛犬・愛猫プランとして受け入れてくれるからありがたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;宿の近くの海水浴場でみんなを遊ばせることにした。私は日除けのパラソルを立てて荷物番である。人の少ない綺麗な砂浜で、4匹はめいめい自由に自然を楽しんでいた。砂の上を元気に跳ねて走り回るのはおもちで、その後ろではあんことちょこが砂を掘って穴に収まっている。体色に紛れる場所がなくて落ち着かないのだろう。らむねは砂が合わなかったのか、すぐに私の頭の上に戻ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕食はもちろん5人で部屋食である。旬の素材をたっぷり使った豪華な会席料理を2人前用意してもらう。1人前は私が、もう1人前は4匹で分け合って食べるのだ。シャポーは一部の食材（代表的なのはパイナップルとキウイだ）を除けばほとんど何でもよく食べるから、家族みんなで同じものを食べる幸せを味わえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;チェックアウトの時に、同じようにシャポーを連れた方と話す機会があった。らむねのような虹色ではなかったが、尻尾が長くてまるで犬のようにぶんぶんと振り回すのだ。シャポーが尻尾を振って感情表現できるとは知らなかった。らむねがそれを見てぎこちなく尻尾を振り始めたのは、旅の意外な収穫だったと言えるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（文・桐谷梨花&lt;sup id="fnref:kiritani"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:kiritani" title="東京生まれ東京育ち。第二の故郷フランスでアロマテラピーを学び、その後イギリスに渡ってIFAS認定アロマセラピスト資格を取得。アロマの定額カウンセリングサービス「パルファ」でトップアドバイザーとして活躍中。本業の傍ら、4匹のシャポーと一人の同居人と暮らす日々を独自の視点で語る「シャポーぐらし」で人気を集めている。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="20230520"&gt;エコアート そらのこえを求めて（2023/05/20）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;先日、同居人の誘いでミネラルショーに行ったところ、ある店でラジオが聴けるという不思議な鉱物を見せてもらった。ドイツ語っぽいラベルが貼られた古い革製の箱を開けると、脱脂綿のクッションの上で青紫色の輝きを放つ数センチほどの石が現れる。しかし均一に青いわけではなく、赤や黄色、あるいは緑色に輝く部分が入り乱れているのだ。虹色の石といえばオパールを思い浮かべると思うが、金属光沢のオパールといえばイメージが湧くかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラジオが聴ける、というのがどういう意味かはよく分からなかったが、その輝きに不思議な魅力を感じたので買ってみることにした。付属品として同封された透明なイヤホンもなかなかセンスがいい。もともと同居人の付き添いで来た私はまだ何も買っていなかったし、来場記念の品としてもちょうどよかったのだ。合流してから彼女にこの金属オパールを見せると、「綺麗な虹銅鉱だね」と言ってくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;虹銅鉱でラジオを聴く方法については、同居人も知らないようだった。調べてみると、このような天然の石で作るラジオのことを「鉱石ラジオ」というらしい。アンテナとイヤホンを繋げば、電池いらずでいくらでもラジオが聞こえてくるというのは、どうにも嘘っぽい作り話に見える。正直なところ、店主に騙されたのかもしれないと思ったが、「綺麗な標本を買えただけでもラッキーじゃない？」という彼女のフォローになんとなくムッとして、私は姿も分からぬ鉱石ラジオ作りを始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;電気を使わずにラジオを楽しめるなら、こんなにエコなことはない。虹銅鉱を電池に見立てて、両耳に繋げたイヤホンのコードを接続してみる。当然だが何も聞こえない。きっとアンテナがないからだ。ラジオに使うアンテナは、せいぜいラジカセから伸びる銀色の棒くらいしか知らない。いくつか調べてみると、このような金属棒1本のアンテナや、棒を水平に2本伸ばしたタイプ（「アンテナ」の語源である昆虫の触角によく似ていた）とか、太めの針金を円形にまとめたタイプがあるらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;円形のアンテナなら、使い古しのハンガーを伸ばして整えれば作れるだろう。針金の端を机に押し付けて形を整える。廃材を使ってラジオを作るなんて、ますます環境にいい遊びである。途中から同居人も参戦して、あーでもないこーでもないと言いながら手作りの鉱石ラジオが完成する。夢中になって作業しているうちに、辺りはすっかり夜に包まれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;屋上へ向かう。都会のど真ん中にあるマンションの周囲は、こんな深夜でも看板や街灯が輝いていてまだまだ明るい。イヤホンを片耳ずつ分け合って、アンテナとラップの芯に巻き付けた導線を虹銅鉱に接続すると、徐々に声が聞こえ始めた。数人が一斉に日本語とも英語ともつかない（フランス語でもなさそうだ）声で楽しげに話している。混信しているのかと思ってアンテナを調整すると、突然ぷつりと声が途切れてその日は何も聞こえなくなってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日聞こえた番組は、結局今でも分からずじまいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（文・桐谷梨花&lt;sup id="fnref2:kiritani"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:kiritani" title="東京生まれ東京育ち。第二の故郷フランスでアロマテラピーを学び、その後イギリスに渡ってIFAS認定アロマセラピスト資格を取得。アロマの定額カウンセリングサービス「パルファ」でトップアドバイザーとして活躍中。本業の傍ら、4匹のシャポーと一人の同居人と暮らす日々を独自の視点で語る「シャポーぐらし」で人気を集めている。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="20221120"&gt;思い出のクラフトコーラをつくる（2022/11/20）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;スパイス強めの自家製手作り風清涼飲料――いわゆるクラフトコーラが日本で流行り始めたのは、2018年頃だったと記憶している。伊良コーラがキッチンカーでオリジナルコーラを売り始めたのがそのくらいだ。それから全国でブームの最盛期を迎えたのは2020年頃で、ちょうど私も近所の喫茶店で店主自身が仕込んだというクラフトコーラを飲む機会があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが私の初クラフトコーラだったこともあり、味はよく記憶に残っている。いわゆるコーラの香りに、ショウガやシナモンの風味、デデンに似た柑橘の味（店主が高知出身なので思い込みかもしれない）の主張が強い。当時は特段クラフトコーラに興味はなかったのだが、原稿が行き詰まると気分転換によく通う店で、顔なじみの私は新商品の実験台にされていたのだ。そういえば、あれからレギュラーメニューとして出ていた記憶はない。冗談のつもりで「コカ・コーラのオレンジフレーバーを思い出しますね」と言ったのが悪かったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれから数年が過ぎ、先日ふとこのクラフトコーラをまた飲んでみたくなった。同居人が買ってきたクラフトコーラの味があまりに酷かったからだ。大手飲料メーカーが作るペットボトル詰めのコーラは、もちろん「クラフト」とは名ばかりの、味がのっぺりとした大量生産品である。こだわりのない無難なスパイス選びに、口に残る合成甘味料のしつこさのダブルパンチ。そんなドリンクを平気な顔で美味しいと言って飲み続ける同居人を驚かせようと、あの喫茶店のクラフトコーラを再現してみることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シナモンスティック2本に、カルダモンとクローブを10粒くらい。それから、記憶を頼りにショウガを数枚スライスして鍋に放り込んでみる。調べてみると、アニスとバニラビーンズも少し入れるといいらしい。確かにあのクラフトコーラにも、甘さというか爽やかさというか、そんな風味があった気がする。砂糖の甘みは強すぎてスパイスの香りを弱めるので、やさしいアガベシロップを使うといいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;完成品を少し味見してみる。記憶より酸味と刺激が少ない気がする。刺激を足すにはブラックペッパーかジュニパーベリーがいいらしい。そして、致命的にも柑橘を入れるのを忘れていた。デデンの旬は冬から春で今はどうも手に入らないので、丸搾りのジュースで我慢することに。材料が揃ったところでもう一度作り直してみると、かなり記憶に近い匂いと味に仕上がった。やはりあれはデデンだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これなら味にこだわりのない同居人も喜ぶだろう、とお気に入りのグラスにスライスレモンを立てて渾身のクラフトコーラを差し出してみる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は何度か味見すると、満面の笑みで「オレンジ味のペプシみたいで美味しいね！　どうやって作ったの？」と言ってグラスを置いた。そして、私の答えを待たずにゴクゴクと渾身のクラフトコーラを飲み干してしまったのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（文・桐谷梨花&lt;sup id="fnref3:kiritani"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:kiritani" title="東京生まれ東京育ち。第二の故郷フランスでアロマテラピーを学び、その後イギリスに渡ってIFAS認定アロマセラピスト資格を取得。アロマの定額カウンセリングサービス「パルファ」でトップアドバイザーとして活躍中。本業の傍ら、4匹のシャポーと一人の同居人と暮らす日々を独自の視点で語る「シャポーぐらし」で人気を集めている。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;）&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:kiritani"&gt;
&lt;p&gt;東京生まれ東京育ち。第二の故郷フランスでアロマテラピーを学び、その後イギリスに渡ってIFAS認定アロマセラピスト資格を取得。アロマの定額カウンセリングサービス「パルファ」でトップアドバイザーとして活躍中。本業の傍ら、4匹のシャポーと一人の同居人と暮らす日々を独自の視点で語る「シャポーぐらし」で人気を集めている。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:kiritani" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref2:kiritani" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref3:kiritani" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>もみじがり 2</title><link href="https://ama.ne.jp/post/bookleaf-2/" rel="alternate"/><published>2023-05-23T14:45:00+09:00</published><updated>2023-05-23T14:45:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2023-05-23:/post/bookleaf-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;「しおり」を巡る少女のたたかい 後編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は、2022年5月発行の&lt;a href="https://bunfree34.hentaigirls.net/"&gt;光速感情デラックス&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/bookleaf-1/"&gt;前半&lt;/a&gt;から続く）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_1"&gt;マヤ「除光液とオキシドール、それと……」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、マーヤ。商店街にもみじって売ってるかなぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その夜、家に帰ってきたアリスは開口一番困り顔でこんなことを言い出した。最近の定番になっていた真っ白なフリルブラウスには、日替わりで花を模したレジンのブローチが飾られている。今日は透明感のあるオレンジのガーベラだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もみじ饅頭？　厳島のパクリならあると思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよぉ。もみじの葉っぱのこと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もみじ。ムクロジ科カエデ属の落葉樹の総称、あるいは全体が赤や黄に染まった葉自体を指してそう呼ばれる。もみじ……もみじか。なるほど。さっとメモアプリを立ち上げて「しおり」の下に「もみじ」と書き込んで、一応イロハモミジの記事へのリンクを貼っておく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中稲でもみじと言ったら、たぶん中稲図書館がある「もみじ山」だろう。秋になるとまるで山火事みたいに真っ赤に色づく木々は、公式のVRサイトでも通年で紅葉ゾーンが設置されているほどには重要な観光資源であることが窺える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスが言うには、昨日なぜか二枚目の着任しおりを渡された勢いで、また館長にしおりを発行できないか聞いてみたところ「一人に何枚も渡すことはできないよ」と言われたらしい。もともと、しおりを何度も入手できるという話を聞いたことはなかったし、この返答に違和感はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、それならなぜ二枚目を渡したのかが分からなくなる。アリスもその矛盾が気になったらしく、さらに館長と話してみたところ、不思議なことに昨日の会話を覚えていなかったという。昨日はアリスのことを忘れていたのに、今日はアリスを忘れていたことを忘れている……なんて、ちょっとややこしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長は着任しおりを二枚も持っているアリスを見て、初めは彼女が不正を働いていたのではないかと訝しんでいたものの、ログを確認して結局は自分で渡したのを認めたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「着任しおりは一枚返したよ。浦部さん、すごく困ってそうだったもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、それが商店街のもみじと関係あるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、そうそう。だからねぇ、もみじがりに行った証拠を見せたら新しいしおりをくれるって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……しおりの配布って、そういう運用だっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前にアリスから聞いた話では、しおりがもらえるのは辞令と着任のタイミング、毎月の新書籍振興賞&lt;sup id="fnref:bookaward"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:bookaward" title="旧書籍の普及に大きな成果を挙げた職員に贈られる賞。規模の大きな広報活動の評価として用いられることが多い。図書館ネットでは、いわゆる旧書籍が電子書籍の次世代に来るべきものと位置づけて、あえて 新 書籍と呼んでいた。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;、あとは年間の表彰など。一種の勲章のような扱いだと聞いていた。広報用のしおりはあるけど、これはまた別の扱いになる。石上図書館でのアリスは、それはそれは真面目な勤務態度で評判だったらしい。もちろん目的はしおりだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お詫びに、だって。でも、なんか変だよねぇ。そもそも今月はエメラルドのはずなのに。地産地消ってやつかなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、館長さんは『もみじがり』って言ったの？　『紅葉狩り』じゃなくて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違いが分かんないよぉ……でも、たぶん『もみじがり』だった気がするなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスが「ほら」と物理端末を差し出して私に画面を見せる。おそらくどこかのOEMっぽいメッセンジャー「メープル・コネクト」には、いかにも上司と部下という感じの館長とアリスの会話が表示されていた。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;しおりが欲しいなら分けてあげてもいいよ。私のお願いを聞いてくれたら、だけどね&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は外に出られないから、代わりにもみじがりに行ってきてほしいんだ&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの薄くて真っ赤な自然の芸術を、もっと近くで見てみたくて&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;ここまで、メッセージの区切りも含めて原文通り。なんだかキザっぽい……というのはオブラートに包んだ表現で、そこはかとないおじさんっぽさを感じる。一歩間違えば、しおりと引き換えに自撮りでも要求されそうな雰囲気だ。あんまりまじまじ見るとまた怪しまれてしまうから、ぱちりと二度まばたきをして「へぇ」と言って画面から目を離す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今は五月。紅葉とはまるで正反対の芽吹きの時期だ。館長もそれを承知で言っているのだろう。春のもみじを出してみよ……例えるなら、一休さんに課せられたとんちのようだ。とはいえ、この時期に色づく品種のもみじは割と知られているし、食用のドライもみじなら通販でも数日で届くだろうから、難題というほどでもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;秋になれば、あるいは秋でなくてもすぐに入手できるような品物をわざわざ持ち込ませるなんて、しかもそれを貴重なしおりと交換するなんて、何の目的があるんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ、アリスの上司を悪く言いたいわけじゃないんだけど……その、館長さんって信用できるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？　すごくいい人そうだったよ。しおりもくれるみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、しおりだけじゃん。咄嗟にそう突っ込みたくなるのを抑えて、もう少し探りを入れることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長についての疑念は、他にもいくつかあった。図書館ネットの創設者である浦部槭樹氏には一人娘がいたが、若くして急死。彼の血はそこで途絶えたはずだが、現館長――アリスが浦部さんと呼ぶ――は浦部氏の子孫を名乗っているらしい。そして、浦部氏の後継として数十年前に館長に就任してからその席を守り続けているというのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3Dホログラム越しにしか姿を現さない不老不死の館長といえばつまらない作り話だけど、実際にアリスが話したというなら急に信憑性が増す。そして、そんな奇妙な存在が持ちかけられた一見おかしな取引は、中稲図書館が抱えた何らかの事情を明らかにする可能性があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもでも、しおりってすごく貴重なの。五年も働いて、やっと十枚もらえるかどうかなんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんな貴重なしおりをもみじ一枚で交換できるって、怪しいと思わない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、そうだけどぉ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長にもみじを渡すだけで、本当にまたあのオパールのしおりがもらえるのだろうか。どう考えても、やっぱりおかしな話だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;角度によって模様が変わるあの多層的な輝きは、他のしおりにない独特のものだった。これまで、多くのしおりは宝石仕立てと言いつつも、実態はその質感を精巧に再現したアクリルかポリエステル樹脂のシートだった。当然、発色や輝きに限界がある。でも、あのしおりの輝きは明らかにもっと細かい加工が施されたものだ。オパールによく似た、しかし人工的な規則性を持つパターンは、まさにホログラムディスプレイのウォームアップを思わせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、どうやらあれは本物のオパール製ではないらしい。アリスは「地産地消」と言っていたけど、いくら調べても中稲がオパールの名産地だなんて話はどこにもなかったからだ。中稲の周辺に現役の鉱山はないし、過去にもわずかに銅鉱石が採れた記録しかない。アリスがなぜこんな勘違いをしているのか掘り下げると、ここにも館長に対する疑念が生まれそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アリス。もみじは私が買っておくよ。たぶん、商店街より通販の方が早いし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ありがと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、大金や身体を差し出す違法な取引を持ちかけられているわけではないんだし、試してみる価値はあるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスがシャワーを浴びに行ったのを確かめてから、スクリーンショットを文字起こしに回す。短いやり取りだけど、三百バイトくらいはありそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;中稲図書館に関する調査は、確実に前進していた。ちょっとしたミスはあったけど……まだ、情報収集の範囲。うん。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この町――上中稲駅前とその周辺――は、いわば中稲図書館のネットワークが抱える城下町のような存在らしい。アリスが部屋にいる間、より正確にはアリスの物理端末が部屋にある間だけ、LANを出入りするトラフィックが増加している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;町中のエンドポイントからこの部屋にやってくるパケットには特徴的な暗号化が施されており、アリスの物理端末で処理した上でさらにどこかに転送されているようだ。この中には中稲図書館のアドレスも含まれている。受け取ったパケットの三分の一ほどはこの町の外に転送されていたが、残りはまたこの町に戻されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思い返してみると、いろいろと不自然な点はあった。一介の田舎町にすぎない中稲に最新の量子回線が整備されていること。町内で折り返す通信なら最高で十テラビットは出すことができること。これは、一般的に普及している一テラビット・イーサネットの十倍の速度だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;図書館周辺に回線が整備されているのはあくまで &lt;em&gt;おこぼれ&lt;/em&gt; だと思っていたけれど、職員の端末をリレーして政府の監視を攪乱するためだと考えれば、実用的な速度を出すために必要な措置という説明が付く。もちろん仮説だけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;成果は他にもあった。図書館が自らのMAN内にいる職員にメッセージを送信する場合は、リレーを使わずに通信を行うのだ。おかげで、たまねぎのように何重も暗号化が施されたパケットを解析する必要がなくなった。これは、さっきアリスが見せてくれたメープル・コネクトの通信にも当てはまる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに、館長が使っているメープル・コネクト――セルフホストのメッセンジャースイートらしい――はおそらく開発当時の古いバージョンのまま更新されていないらしく、暗号化に用いるOLMライブラリ&lt;sup id="fnref:olm"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:olm" title="エンドツーエンド暗号化の根幹技術である二重ラチェットを実装したライブラリ。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;に脆弱性が残っていた。なんでも署名を通したり、数百回の総当たりで解読できるほどではないものの、条件が揃えば十分に利用できる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『私は外に出られないから、代わりにもみじがりに行ってきてほしいんだ』か……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;絶景の紅葉に囲まれる中稲図書館なら、秋になれば飽きるほどもみじは見られるはずなのに、今までどういう生活を送ってきたのだろう。館長に就任してからずっと図書館に住んでいたとして、文字通り一歩も外に出られないならもはや軟禁と変わらない。アリスをけしかけるあからさまな嘘でなければ、また謎が残る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まさか、館長の正体は太陽が出ている間は外に出られない吸血鬼だったとか？　それなら、数十年間姿が変わっていない噂も、アリスの前に姿を現さない理由も、なんとか説明が付くかもしれない。……旧書籍を守る組織のリーダーが吸血鬼って、完全に去年観た「アナログゾンビの謎&lt;sup id="fnref:analogzombee"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:analogzombee" title="旧書籍を持って暴れ回るゾンビが街を闊歩する危険な世界で、複合型図書館を拠点に活動する電子書籍隊が平和を取り戻していくというプロパガンダ映画。フィルムマークスの平均評価では2.7点。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;」に引きずられてるな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とにかく、しおりを使ってアリスを騙すなんて許せない。やっぱり、アリスは私が救わなきゃ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パケットから復元した暗号化済みのチャンクと、アリスから受け取った――これは決して騙して入手したわけではない――メッセージのペアを解析に回す。上手くいけば、数日後には鍵が手に入るはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_2"&gt;アリス「パンがなければしおりを食べたら？」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「マーヤぁ、ちょっと手伝ってくれない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、また館長さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;図書館から帰ってきたわたしの言葉が終わるより先に、キッチンに立つマヤが振り向いて面倒そうな声を上げた。いつもより勘が冴えてない？と思ったけど、流石に四回目にもなると帰宅する足音で分かるのかもしれない。わたし、今とっても楽しいから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お仕事とは関係ない簡単な課題をこなすだけで、浦部さんがたくさん報酬をくれる――こう書くとなんだか怪しい副業の広告に見えちゃうけど、今のところちゃんとしおりはもらえている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの。でも、ちょっといつもより時間がかかるっていうか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きなエプロンに着られているマヤが、氷水に漬けた小麦粉のボウルをかき混ぜていた。お母さんのお手伝いなんてかわいいね！なんて冗談を言ったらまた怒られちゃうから、わたしはそのまま今日の課題について話し始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この前のもみじは、できるだけ同じ形の赤と緑の葉を探してラミネートしおりに仕立ててみた。裏表に貼り合わせたリバーシブル仕様だから、赤いもみじに変わる瞬間をいつでも見られるようになっている。もみじの束と一緒に浦部さんに渡したら、とっても喜んでくれた。やっぱり、しおりをもらうならしおりで応えなくちゃね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、箱を開けると赤と緑のセットでそれぞれ百枚も入っていたから、似た形を探すのがなかなかの一仕事。マヤはこれが一番コスパがいいって言ってたけど、そうやっていつも余らせちゃうのよね。丸ごと浦部さんに押し付けるわけにも行かないから、今日もこうして天ぷらにして夕食に出せるくらいたくさん残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;図書館のお仕事は楽しいけど単調で、その上しおりをもらうにはコツコツと努力する必要がある。五年も働いて、やっと十枚もらえるかどうか。中稲に来てからは、本を順番にスキャンしてフィルム化する作業ばっかりで眠くなる日も多かった。でも、浦部さんの課題はすごく簡単で、その上百個や二百個こなさなくてもしおりと交換してもらえるのだ。それはもう、これまで培った &lt;em&gt;しおり感覚&lt;/em&gt; が狂ってしまうほどに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しおりを集めすぎて &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; がいっぱいになってしまうのを心配したり、オパールのしおりが何枚も集まって少し飽きてきちゃったかも……なんて、贅沢すぎることまで考えられるようになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これまでの課題は、もみじから始まって、四つ葉のクローバー、金木犀……マーヤのおかげで何とか切り抜けて、今日は四枚目だ。でも、今回は少し趣が違った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「砂浜で花火をしてる写真？　どういうこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたしが聞きたいよぉ。遊びに行くだけでしおりがもらえるなんて、今までなかったもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤが怪訝な顔でわたしに尋ねるけど、わたしに言われても分からない。これまでの課題は、浦部さんが手に入れられないものを代わりに持ってくるという、やさしいおつかいみたいなものだった。それが今回、遊んでいる写真を送ってくれだなんて。どうしちゃったのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、今日は館長室をノックしても返事がなかったし、誰かの楽しそうな姿を見て気を紛らわしたくなるほど忙しいのかも。館長室で浦部さんとお話せずに、課題のメッセージだけが送られてくるのはこれが初めてだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、明日近くの砂浜に行こうか？　車ならすぐだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……そうなんだけどぉ、今回はやめておこうかなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほんの少しの違和感が引っかかって、なかなか決心が付かない。しおり感覚が狂ってるなんて言ってみたものの、遊びに行くだけでしおりがもらえるのが変な条件なことくらいは理解できる。おつかいのお礼くらいなら何とか説明が付くけど、これは納得できる範囲を超えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浦部さんから出された課題だとしても、その忙しさと疲れにつけ込んでいるみたいで流石に後ろめたい。浦部さんは忙しくて記憶が飛びがちだし、今回も何か勘違いしちゃってるのかも。この前、しおりに目がくらんで持って帰っちゃったこともあったから、何度も揉めるわけにもいかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……べ、別にいいじゃん。館長さんがくれるって言ってるんだし。行こうよ、アリス」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、わたしが躊躇しているのを見て、なぜかマヤは油を温める火を止めてわたしに向き直る。明日までの課題の締め切りを今思い出したような、あんまり見たことない不思議な顔。山の中にこもりっぱなしだから、そろそろ外に出たかったのかしら。マヤが乗り気なら話は別だ。わたしもマヤと遊びに行けるなら大歓迎だし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、じゃあ行く！　マーヤ、ありがと。また助けてもらっちゃったぁ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ！　風が気持ちいいよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;家から一番近いショッピングセンターからさらに北へ。知らない道を走るほんの少しの非日常を感じながら、車で三十分ほど助手席でマヤと話しているうちに、海の見えるガラガラの駐車場に辿り着いた。太陽が傾きかけた夕方の空に、一筋の飛行機雲が走っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだ五月の城田海岸には人の姿がほとんどない。梅雨の気配もないこの時期の海岸は波も穏やかで、数日続いた晴れのおかげでよく乾いた砂がさらさらとした踏み心地を保っている。去年買った古いDAVE DROPのビーチサンダル越しに踏みしめる砂を感じながら、そっと前にもう一歩。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アリス、あんまり走り回っちゃダメだからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー。わたし、子供じゃないよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;途中で買った豪華な花火セットを抱えてAnk Rougeの白いマキシワンピース姿で歩いてくるマヤは、まるで大きな花かごを運ぶ少女のよう。歩く度に胸元の黒い大きなリボンが揺れて、彼女のかわいらしさを引き立てる。やっぱりよく似合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方のわたしは、おしゃれな懐中時計を持って駆け回る白いうさぎのキャラクターがプリントされた水色の浴衣で砂浜に立っている。マヤが「もっとかわいいのでいいんじゃない？」なんて言ってくれたから、とびっきりのを出したのだ。彼女の口からそんな言葉が出たことがすごく嬉しくて、心の中で何度も反芻していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「花火にはまだちょっと明るいけど、軽くウォームアップしておこうか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;花火セットの袋を開けたマヤが、台紙から太いろうそくを取り外して砂浜に立てる。花火を楽しむ前のこの静かな瞬間を見ていると、地球の誕生日を祝っている気分になって好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その横で、わたしも袋の奥から線香花火を取り出す。隅に追いやられがちな線香花火でも、こんなに大きなセットなら前菜とデザートで二度楽しめるくらいの量が入っている。やっぱり浴衣に似合うのはこれだよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ワンピース姿のマヤには……赤い火花が噴き出す豪華な花火を両手持ちで。なんて思ったけど、マヤも最初は線香花火にチャレンジするみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しゃがみ込んでろうそくに花火を近づけると、先から上がった炎が徐々に丸くなって火花を放ち始める。息を吸う度に先端が揺れて、わたしの心が露わになっている気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ、アリス」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、マーヤ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、アリスのこと、今でもちゃんと好きだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思いがけない告白に、わたしは思わず顔を上げる。しかし、マヤはまるでわたしと目を合わせたくないとでもいうように、じっと下を見つめたまま。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女の顔を覗き見るのと同時に、手元で弾ける火花がぽとり、と砂浜に吸い込まれていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、落ちた。アリスの負けだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……と、マヤはさっきまでの真剣な表情なんて嘘みたいに、けらけらと笑ってわたしの方を向く。マヤったら、わたしを騙したのね！　人の気持ちを利用して動揺させようなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先端を失ってひらひらと揺れる線香花火の頼りなさが恥ずかしくなって、わたしは勢いよく立ち上がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ、ずるいよぉ。もう一回やろう？　ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;辺りが少しずつ暗くなって、花火のための時間に変わっていく。今ならきっと素敵な写真が撮れるだろう。でも、この高揚感までは写真に残せないのが少しだけ残念だった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_3"&gt;マヤ「ハッキングって地味な作業が多いんだよ」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;中稲図書館についての調査は、ある日唐突に終わりが訪れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「調査はこれで完了です。必要な情報が揃ったため、中稲図書館の爆破を進行することになりました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなメッセージが送られてきてから、全く連絡が取れなくなったのだ。たぶん、依頼者が言っていた深部コアキーを入手できたからだろう。それにしても、感謝の言葉もなく随分あっさりしたメッセージだ。もちろん、報酬は気前よく先払いだったから問題ないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長が持つ鍵をクラックしてから、中稲図書館の中央システム内部に侵入するまでは時間がかからなかった。内部は想像以上に古いシステムで、探索が簡単な代わりに、いろいろな場所に怪しいデータの欠片が大量に散らばっていた。侵入が済んだ場所にボットを設置して結果を確認して……その繰り返し。やることが自明な集中力勝負で、逆に時間がかかってしまった。正直、今でもあれが「深部コアキー」なのかは自信がない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不思議なのは、館長自身も――正確には、館長の鍵を使って――このデータにアクセスできる権限がなかったことだ。あくまで権限上の問題で、ちょっとした手順を踏めばすぐにストレージから取り出せるレベルだったものの、普段のオペレーションでこんな面倒なことをするとは思えない。では、あの鍵は誰が何のために使うものだったのだろう。今となっては、依頼者に尋ねることさえできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しかし、『中稲図書館の爆破』なんて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスの身に危険が及びそうになったら手を引くと言ったけど、まさか全てが終わってからこんな事態になるなんて。明日は、アリスを何とか休ませて中稲を離れた方がいいかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな強硬手段に出るような相手だと分かっていたら、初めから協力しなかったのに。……と言ったところで、どうしようもない。アリスを図書館から引き離したかったのは私だし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、彼女にはどう説明したらいいものか。中稲図書館が爆破されるなんて正直に言っても信じてもらえないだろうし、急に遊びに行こうなんて言ったら逆に怪しまれそうだ。それに、明日爆破されると決まったわけでもない。しおりをもらうことに躍起になっているアリスが、何日も理由なく休んでくれるとは思えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あるいは、公安庁に通報するのはどうだろう。たとえ図書館ネットが標的になっていたとしても、市民を巻き込みかねない爆破予告なら対応せざるを得ないはずだ。もちろん、この依頼者が公安庁の人間でなければ、だけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;百歩譲って公安庁とは関係のないただのテロだとしても、また同じ壁に当たってしまう。私が「中稲図書館が爆破される可能性があります。いつ爆破されるかは分かりません」なんて素直に言ったら、最初に疑われるのは私だろう。それどころか、私はお金と引き換えにテロ組織に情報を提供してしまったのだから、実は完全に真っ黒だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうなると、そもそも公安庁にこの予告を知られること自体がリスクということになる。逮捕、拘束……くらいならまだしも、これが大々的に報道されれば、図書館ネットが今より強硬な活動を進める口実を与えてしまうかもしれないし……何より、アリスに迷惑がかかってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも……アリスだけは救わなきゃ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;その夜、アリスが図書館から無事に帰ってきた。彼女にとってはいつもと変わらない帰り道かもしれないけど、私にとっては大きな救いだ。とりあえず、今日はこれで一安心。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ！　浦部さんが、新しいしおり……って、どうしたの？　そんな顔して」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……アリス、おかえり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;監視用のボットは中央システムに置いたままだから、不審な動きがあればすぐにリレーを通ってここまで通知が来る。まさか今日いきなり爆破できるわけはないだろうと高をくくりながらも、心のどこかに最悪の事態への恐怖が残っていた。「アリス、今日は早く帰ってきてね」なんてメッセージを送ってから、部屋の中を何度も往復してアリスの帰りを待つ姿は、まるで付き合いたての恋人のようだったろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;相手が過激な組織だと分かってからは、迂闊な行動は取りにくくなった。直接図書館に向かって危険を知らせに行ったところでまともに取り合ってはもらえないし、仮に避難まで繋げたとしても、それは明らかに相手を害する行為だ。報復のおそれがあるのはもちろん、私ではなくアリスに標的が向くことさえ危惧しなければならなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなこと、アリスに言ったら意味なく怖がらせちゃうだろうな。私でさえ、どうすればいいか分からないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「珍しくメッセ送ってきてたけど、もしかして何かあったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、なんでもないよ。もみじの天ぷら作るから、ちょっと待っててね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　なら、いいけど。これ、見て見て」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスがリュックから &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; を取り出す。さっき言っていた、新しいしおりだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まさか、あれだけのミスをしてもまだしおりの課題が続くなんて。てっきり、館長が怒って中止にしたと思っていた。もともと、もみじやクローバーなんて、アリスを動かすための口実にすぎないのかもしれない。どうせ、もう少ししたらその企みも失敗するはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しおりをもらうのなんてもう日常じゃん、なんて思ってアリスの手元を見ていると、その興奮の理由が分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エメラルド？　よかったじゃん。五月のしおりも揃ったね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; の新しいポケットに入っていたのは、最近はもう見飽きたというほど慣れてしまったオパールのしおりではなく、透き通る森の空気をそのまま固めたようなエメラルドのしおりだった。中稲図書館に来てから館長はオパールばかり渡しているけど、アリスとしてはまだ揃っていない種類のしおりも欲しかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あれぇ？　どこいっちゃったのかなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そこにあるじゃん。新しいやつでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよぉ。赤くて、もみじ色のをもらったの。綺麗なルビーだなぁって思ったのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;七月のしおりが配られるのもおかしな話だけど、オパールのしおりを大量に持っている状況でそれを言っても仕方ないのかもしれない。妙な勘違いをしていたアリスは、まだ状況を飲み込めない様子で「おかしいなぁ」と呟きながら裏や表を撫でたり透かしたりしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、館長室でもらったのと同じだなぁ。机に置いてあったときは赤かったのに。浦部さんの手品？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、そんなわけないと思うけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスの記憶をそのまま信じると、目の前にあるしおりは、帰宅途中でルビーからエメラルドに変わった魔法のしおりということになる。そんなことがあるわけない……と思いつつ、何かが記憶に引っかかる気がした。昼は赤くて、夜は緑に変わる不思議な物質。どこかで聞いたことがあるような――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不思議なしおりだねぇ。事務室の入室センサーにかざしたら、特別賞がもらえたりして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「入室センサー？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、記憶を辿るより先にアリスから聞き慣れない単語が飛び出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスの話では、しおりには事務室のドアを開ける効力があるらしい。目立たない場所にRFタグでも載っているんだろうか。旧書籍保護団体が情報を隠す隠れ蓑としてはストレートすぎて、逆に思い至らなかった。そうすると、館長が何枚もオパールのしおりを渡しているのもアリスに何かを託すための作戦だった、という新たな説が持ち上がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一枚一枚にRFタグが一枚ずつ載っているとして、合わせても最大で十数キロバイト程度。しかし、せいぜい数千文字くらいでアリスに何を伝えるつもりだろう。数千文字くらいなら一枚のしおりで済ませばいいし、もしかしたら何枚もRFタグを載せているのかも……と、そこで、あることに気付いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうか！　あれは、全部記録面だったのか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ、急にどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのオパールの質感がホログラムディスプレイの発光面に似ているのはただの偶然で、人の目を癒やすための装飾だとばかり思っていた。しかし、あれはRFタグの入れ物なんかじゃない！　しおり全体がホログラフィックメモリで、しかも最後の一枚は――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーとね、アリス。悪いんだけど、ちょっとそのしおりを――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;《ビーッ！　ビーッ！》&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と、いきなりスマートグラスが赤いエアロを何枚もポップして私の視界を塞ぐ。これは、中稲図書館に置いてあるボットのアラートだ。場所は……館長室？　それに、もうエネルギー反応が出てる！　どうして？　あそこは一番深部だから、辿り着くのにも時間がかかるはずで――とにかく、いくらなんでも決行が早すぎる！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真っ赤になった私の視界を覗き込むアリスは、放っておいたら死んでしまいそうなほどに何も知らない無垢な顔をしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アリス、伏せてっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなアリスを押し倒すように彼女の腰に飛びかかって、私たちはそのまま床に倒れ込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;荒い呼吸がよく聞こえるわずかな沈黙が流れて、それから数秒。ドカーン！という大きな音と共に、アパート全体がミシミシと震え出す。まるで、空中で地震が起きたような揺れ方だ。部屋の窓がガタガタと不快な音を立て、屋根はゴウゴウと風切り音を鳴らし続けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「きゃあっ！　マーヤ、何の音？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ、アリス……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さく身体を丸めるアリスを床に押し付けたまま伏せているうちに、部屋がやがてまた静けさを取り戻した。外では、爆発を不審に思った人たちが集まって騒ぐ声が徐々に大きくなっている。何を話しているかはよく聞こえないけど、図書館が巻き込まれていることに間違いないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に収まってちっぽけに見えるアリスの身体がぶるぶると震えていて、背中を撫でてどうにか落ち着かせようと自分の身体を起こすと、そんな私の手も抑えられないほどに震えているのが分かった。あ……本当に、爆発したんだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ！　図書館が……図書館が！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外に出ると、中稲の暗い夜闇に真っ赤な炎が浮かんでいた。もみじ山の真ん中で燃える中稲図書館は、いつか観光協会サイトのVR体験で見た景色とよく似ている気がした。そっか、アリスは図書館が爆発するなんて知らなかったんだっけ……なんてぼんやり考えている間にも、図書館から出た山火事はどんどん燃え広がっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「浦部さんが、まだ図書館にいるかも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、流石に帰ったんじゃない？　大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、外に出られないって言ってたもん！　きっと、病気か何かで動けないんだよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスがこんなに大きな声を上げるのなんて久しぶりだ。私はアリスと前にも同じような勘違いで大げんかしたのを思い出しながら、そっと彼女の背中を撫でた。今は、どんな真実を告げてもきっと受け入れてくれないだろうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「佐藤さんは平気みたいだけど、浦部さんの既読が付かないよぉ……マーヤぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;振り向いたアリスの目から大粒の涙がこぼれて、私の頬に落ちる。その涙を手で拭うと、なんとなく彼女の気持ちに引きずられてしまいそうになる。それでも、頭の片隅にはこの状況を見つめる冷静さが残っていて、私に何かを告げようとしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長は外に出られないとか、病気で動けないとアリスは言うけれど、私にはどうも彼女が騙されているとしか思えなかった。爆発直前どころか、アリスの勤務中でさえ図書館に館長らしき生体反応はなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長室に置かれたホログラムディスプレイが接続されているのは、その隣に本棚の隠し扉で区切られた謎のデータセンターだった。このデータセンターは中央システムと異なるセグメントに置かれていて、おそらくアリスは今も存在さえ知らないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中央システムからは館長の鍵でアクセスできるところを見て、ホログラム姿を楽しむためのプライベートな計算資源だとばかり思っていたけど……まさか！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外に出られない館長。姿の変わらないホログラム。そんな館長がアリスに託したオパールのしおり――もとい、ホログラフィックメモリの数々。これだけ大きな記憶容量で何を遺そうとしているのか、どうにも予想できなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、やっとだ。やっと、ピンと来た。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは館長の &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; だ。あるいは、館長そのものと言ってもいい。だから、目の前で燃えている図書館の地下に眠っている館長は死んだりしない。いや、館長なんてもともといなかったんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、アリス」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な……なぁに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーっと、その……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、私がこの事実を告げずにアリスを慰めてこの場を収めたなら、館長は &lt;em&gt;死んで&lt;/em&gt; しまうだろう。そして、図書館ネット創設者の子孫を名乗る館長を失った中稲図書館は、再び救世主が訪れない限り今度こそ読書広場に作り替えられるはずだ。上手くいけば、徐々に図書館ネットは勢力を失って消滅するかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうすれば、私は……私は、アリスを図書館ネットから救い出せる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、アリスはそんなこと望んでるんだろうか。館長の無事を祈って取り乱すほどの彼女が、その &lt;em&gt;死&lt;/em&gt; を受け入れなければならなくなったら、今度はどれだけ涙を流すことになるだろう。しおりのために働いているだけ、なんて決めつけていたのはもちろん私の方で、アリスにはアリスの人間関係がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを切り離してまで、私は。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アリス。もし、館長さんが無事だったら嬉しい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前じゃん！　マーヤ、爆発でおかしくなっちゃったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;山火事はまだ勢いを増している。ほんのりもみじ色に照らされた右頬から、また一筋の涙が流れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだよ。親しい人に死んでほしくないだなんて、当たり前のことだ。アリスを図書館から引き離そうとするばかりで、大事なことを忘れてしまうところだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かった。じゃあ……浦部さんを、呼び戻そうか」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ。魔法陣ができたよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しおりからデータを取り出しつつホログラム表示の準備を進める私の後ろで、アリスは五月のカレンダーを剥がしてその裏に浦部さんを &lt;em&gt;召喚&lt;/em&gt; するための舞台を作っていた。エアロを紙に重ねて油性ペンでたどたどしくなぞっているだけのおもちゃだけど、悪魔信仰ってこういうところから生まれるのかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、別にいらないって言ったじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもでも、浦部さんが帰ってくるんでしょ？　そんなの魔法と一緒だもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスはさっきまでの絶望の表情なんて忘れたように、鼻歌を歌いながら魔法陣に細かい描き込みを加えていく。これは蘇生でも召喚でもない、ただのAIのリストアなんだけど、まぁいいか。館長室は跡形もなく消し飛んでいて、そこにしかいないはずの浦部さんを呼び戻すのだから、ある種の再臨には違いなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;引っ越しパックに隙間があるならと、旧居からそのまま持ってきたホログラムディスプレイが役立つときが来るなんて……こういう成功体験が無駄な荷物を増やしていくのだ。浦部さんが魔法陣の中心に現れるように、三つに分かれた立体発光器を設置していく。館長室に置いてあったものより随分古いから、本格的に使うなら買い換えないと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浦部さんから受け取ったしおりのうち、課題をこなして受け取った五枚がホログラフィックメモリだった。四枚はこれでもかとばかりにデータを詰め込んだもので、最後の一枚だった赤と緑の――アレキサンドライトの――しおりは、特定の紫外線波長でしか読めない領域にデータを復号する鍵が記録されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普通のホログラフィックメモリ用のドライブですら広くは普及していないのに、それを四枚もまとめて、さらにこんな特殊なメモリの読み込みを要求するなんてめちゃくちゃだ。私みたいなギークじゃなかったらどうなっていたことか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;無理やり解釈するなら、それほどまでに強く保護すべき対象である、という主張なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、呼ぶね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん……こっくりさんみたいでドキドキするかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;接続状態を確認して、ディスプレイのスイッチを押す。各発光器のペアリングと数秒のウォーミングの後に、光に包まれた魔法陣から徐々に人の形が浮かび上がってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、やっぱりあなたでしたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスが「浦部さん」と呼んでいた中稲図書館の館長は、なぜかセーラー服に身を包む少女だった。落ち着いた色の金髪が、彼女の高貴さを引き立てる。ディスプレイの描画が安定する様子を眺めているうちに、その緑色の目と一瞬だけ視線が合った気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わーっ、浦部さんだ！　マーヤ、すごいすごい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごきげんよう、アリスさん。お目もじ叶って光栄に存じますわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、浦部さんはうやうやしく頭を下げた。アリスによれば、館長室での浦部さんは「デキる上司」といった感じのおじさんっぽい口調だったはずだけど、目の前にいるのはいかにも育ちのいいお嬢様に見える。かわいくて、プライドが高くて、皮肉っぽい感じの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスもその違和感を拭えなかったようで、ホログラムにめり込んでしまうほどに彼女の顔を覗き込んでから、もらったプレゼントが期待外れだった子供のように困った声を上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……マーヤ。この人、浦部さんじゃないよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「失礼ですわね！　図書館では、館長として威厳を持って接するために、わざと演技していましたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スピーカーから浦部さんの大きな声が流れて、アリスがぎょっと後ずさる。左手を胸に当て、右手をこちらに向けて熱弁するそのポーズは、しかし時折指先が消えかかって危なっかしい。感情が昂るとホログラム全体に小さなノイズが入るようだ。リソースの割り当てが間に合わないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浦部さんの演説をぽかんとした顔で聞いていたアリスは、しばらくその勢いに気圧されていたけれど、また思い出したように魔法陣に詰め寄った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変なの。どうしておじさんみたいな演技をしてたの？　かわいい館長がいてもいいのに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、ですから、館長というのは、パ……お父様しか見たことがなかったんです。似るのも当然でしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お父様――いや、パパ。おそらく、図書館ネット創始者の浦部槭樹氏のことだろう。若くして急死した彼の一人娘は、浦部氏の圧倒的な財力と後継者としての期待が結びつき、とうとうAIとして中稲図書館を守ることになったというのが真相らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数十年の間姿を変えずに君臨し続ける、決して人前には姿を現さない謎の館長。そんなまるで不死身の吸血鬼のような噂は、今こうして目の前で全てのベールが剥がされていた。アリスをしおりで釣って騙そうとする怪しい存在なんていなかったのだと分かると、疑心暗鬼に陥っていた自分を思い出してばつが悪い心地がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、えーと……マヤ、っていいます。あなたをここに呼んだ……その、エンジニアみたいなもので」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤったら、やっぱり初対面のおしゃべりで緊張してる！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うるさいな、もう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっとした罪悪感が言葉を詰まらせているだけなのに、決めつけもいいところ。初対面の人と話すなんて別に難しいことじゃないのに。そう思いながら私が完璧な自己紹介を続けようとしたところ、アリスが私の言葉を遮って他己紹介に切り替えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「浦部さん、この子はマーヤっていうの。プロのハッカーをしてて、わたしの、えーと……奥さんかなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急にどうしたんだろう。「奥さん」だなんて、何年か前に部屋を借りるときに不動産屋で言ったことがあるくらい。私をからかうアリスも実は緊張しているのかも。浦部さんは「あら、そうなんですの」なんてとぼけてみせるけど、彼女が私のことを知らないわけがなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤさんのことはよく存じ上げておりますわ。わたくしを利用して、アリスさんと海で花火を楽しんでいたようですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あはは……その節は、どうも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よくもまぁ、外に出られないわたくしを狙ってあんな嫌がらせを思いつきますこと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……やっぱり。浦部さんは不機嫌そうに私を睨み付けて、それからため息をついた。窓の外に憧れる深窓の令嬢を想像すると、その気持ちの一端を汲むことはできる。それも、数十年の間ずっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、あれはアリスをサボらせて浦部さんを怒らせようという作戦で……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、わたしサボらないよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浦部さんに小声で伝える言い訳を聞きつけたアリスが、私に向かって不満そうな声を上げる。事情の分からないアリスは、自分が誘惑に負けてサボる人間だと言われたつもりなのかもしれない。でも、サボらないように頑張るとサボっちゃう魔法の仕組みで……なんて、こんなややこしい話題は直接プロンプトで言うべきだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるよ。アリスは無遅刻無欠勤で真面目にやってるじゃない。だから――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;話を勘違いしているアリスをどうにか宥めていると、唐突に横から「こほん」とわざとらしい咳払いが聞こえる。私たちは言葉を止めて彼女に向き直ると、浦部さんは満足そうな表情で二人を交互に見つめてから、すぅと息を吸った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「改めまして、わたくしは浦部紅葉。図書館ネットを作った浦部槭樹の一人娘です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中稲図書館。かつて「図書館ネット」の総本山を務め、一線を退いた今でも不老不死の少女が守り続けているという。そんな彼女が今、私たちの目の前に立っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「十七歳で病死してから、ずっと精神を中稲図書館に閉じ込められておりました。わたくしを連れ出してくださったアリスさんとマーヤさんには、大変感謝しております」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、浦部さんは中稲図書館にいた頃の話を始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;生前に倒れてから精神を取り出され、AIとして生まれ変わった浦部さんは、父である浦部氏がちょうど買い上げたばかりの図書館の地下に隠されたデータセンターで新たな人生を送ることになった。それから今までの間、彼女が見ることができたのは、自分がいるマシンと浦部氏が使っていた館長室の中だけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;秋になると職員から聞こえる「もみじがり」の声に、幼い頃に父の故郷で見た真っ赤に染まる山の景色を思い出し、憧れともどかしさで胸が張り裂けそうになっていたという。彼女は何度もこの座敷牢から出ようとしたものの、それは叶わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アリスさんとマーヤさんがおいでになって、わたくしも外に出て &lt;em&gt;もみじ&lt;/em&gt; を手に取るときが来たと確信しました。ですから、もう図書館での役目は終わらせましたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浦部さんの言葉を聞いて、自然と私たちの視線が窓の外へ向く。この田舎町には似つかわしくないほどに明るいままの夜空は、まるで石上の中心街にでも来たみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、図書館をすっかり焼いてしまった突然の山火事は少しずつ鎮火に向かっている。夜が明ければ、現場検証や面倒な事情聴取が始まることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっかぁ。図書館、燃えちゃったんだよね。明日からどうしようかなぁ。結局しおりも揃わなかったし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスがため息をつく。おそらくアレキサンドライトは番外だから、まだ二枚も入手できていないしおりがある。つまり、年換算でおよそ一年くらい。しおりが全部揃う前にこんなことになるとは思わなかったから、結局のところ私の目的はあんまり達成できなかったということだ。総本山が爆破されてもなお、まだまだ心配な日々が続く気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しおりくらい、わたくしが作り方を教えてあげますから、ご自分で作りなさいな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「浦部さん、しおりの作り方知ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前ですわ。このしおり加工法は、元々お父様が開発した最新技術ですもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、マーヤの目をしおりにする方法教えて。一番好きなの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんて怖いことを言うんだろう。アリスはエアロから「かわいい写真集」を取り出して、浦部さんに私の瞳の魅力について伝え始める。私の顔をズームしたり色の名前を検索したりして……いや、本人の目の前でやらないでほしいんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それくらい、お安いご用ですわ。しかし……今のわたくしでは十分にお力添えできないかもしれませんわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いたたまれなくなったので、コントロールパネルを立ち上げてアイテムを持ったり捨てたりしながら作業するふりをしていると、また物騒な会話が続く。お安いご用では困る、と頭の中で突っ込みつつさらに聞き耳を立てていると、アリスが「どうしたの？」と相槌を打って続きを促した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。一度しおりに意識を移したせいか、わたくしの目や耳が衰えているようでして。これでは、きっと綺麗なしおりはできませんわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;肩をすくめてそう告げる残念そうな表情は、いかにも演技っぽくてわざとらしい。浦部さんの目と耳は、要するにホログラムディスプレイのマイクと空間カメラのことだ。つまり、彼女をもっと綺麗に映すために新しいディスプレイを買えということらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「浦部さんって、かっこいいね！　強くてクールなお嬢様って感じで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、お嬢様？　そんな風に見えるのかしら。アリスさんって、楽しいお方ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私には、婉曲で迂遠なお嬢様しぐさにしか見えないけど。嬉しそうに浦部さんに話しかける無敵のアリスを横目に見ながら、私はプロンプトに直接メッセージを送った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『あの五百万円、本当にもらっちゃっていいの？』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『えぇ。お部屋の隅で眠っていたものですから。うさぎ小屋の干し草代にでもお使いくださいまし』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;微笑みながら放つ機嫌の悪そうな声が頭に浮かぶような返信だ。やっぱりめっちゃお嬢様じゃん、なんて思いながら外を見ると、ちょうど長かった夜が明けようとしていた。&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:bookaward"&gt;
&lt;p&gt;旧書籍の普及に大きな成果を挙げた職員に贈られる賞。規模の大きな広報活動の評価として用いられることが多い。図書館ネットでは、いわゆる旧書籍が電子書籍の次世代に来るべきものと位置づけて、あえて &lt;em&gt;新&lt;/em&gt; 書籍と呼んでいた。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:bookaward" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:olm"&gt;
&lt;p&gt;エンドツーエンド暗号化の根幹技術である二重ラチェットを実装したライブラリ。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:olm" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:analogzombee"&gt;
&lt;p&gt;旧書籍を持って暴れ回るゾンビが街を闊歩する危険な世界で、複合型図書館を拠点に活動する電子書籍隊が平和を取り戻していくというプロパガンダ映画。フィルムマークスの平均評価では2.7点。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:analogzombee" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>もみじがり</title><link href="https://ama.ne.jp/post/bookleaf-1/" rel="alternate"/><published>2023-05-23T14:44:00+09:00</published><updated>2023-05-23T14:44:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2023-05-23:/post/bookleaf-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;「しおり」を巡る少女のたたかい 前編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は、2022年5月発行の&lt;a href="https://bunfree34.hentaigirls.net/"&gt;光速感情デラックス&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="_1"&gt;マヤ「図書館って、反政府組織なんでしょ？」&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;考えるよりも先に行動してしまうほうだ――いいえ&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;感情の動きがすぐ顔に出てしまうほうだ――いいえ&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;知識やデータを深く分析するのが好きだ――はい&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;論理的な根拠より情緒を重視するほうだ――いいえ&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;初対面の人とすぐに仲良く話せるほうだ――はい&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;自分は周りと比べて可愛いほうだと思う――&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;「うふっ。マーヤったら、嘘ばっかり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やだ、見ないでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目的地の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;上中稲&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かみなかい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;駅まであと五分ほど。昼過ぎの到着予定を知らせるアナウンスを聞いてお手洗いに向かっていたアリスが、私のエアロ・スクリーンを覗き込んでから対面の席に戻った。どうやら共有設定を切るのを忘れていたらしい。こんな適性検査でわざわざ自分をよく見せようなんて思ってなかったのに、そうやって笑われると気になってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;えんじ色のボックスシートは半分以上が引っ越しの荷物に占領されていて、私たちは通路に押し出されまいと肘掛けを支えにどうにか身体を収めていた。細っこくて飾り気のない私の服装ならまだしも、胸も身長も大きなアリスを包む黄色いフレアワンピースのシルエットを活かすには少し手狭だろう。小さな花柄の布や裾にあしらわれたレースが座席の隙間に押し込められて、窮屈そうに見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうアリスに私の画面は見えていないはずだけど、赤いボタンに伸ばしかけていた指を引っ込めて、そっと「いいえ」を押した。それから、少しずり落ちたスマートグラスのつるを指で持ち上げて、次の質問にするすると目を落としながらアリスに声を投げかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、どこが嘘だって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、マーヤってすぐ顔に出るじゃない？　それに、初対面の人とおしゃべりしてるのなんて見たことないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう当たり前のように言ってみせるアリスは、私たちがもう何年も一緒に暮らしてきた記憶を旧居――あの、ネットが遅いくせに家賃の高い――にでも置いてきてしまったんだろうか。こういう心理テストは仕事仲間としての適性を測るものだし、長く一緒に住んでる前提で答えるわけないじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;右目の青いカラードコンタクトに搭載されたアリスのスマートグラスは、左目の濃いアンバーの大きな瞳と並ぶと、実に不思議な雰囲気を放ち始める。まるで、お人形さんに命が宿って動き始めたみたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;席に戻ったアリスはポシェットから&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;物理端末&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;スマホ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を出して開く様子もなく、いつものようにエアロで「かわいい写真集」を眺め始めるわけでもない。その代わりに、目線だけ上げてちらりと前を見る私の顔を眺めてにこにこと笑っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、今のは図星って顔ね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自信満々の声に思わず顔を上げると、アリスは上機嫌そうににんまり笑った。コミュニケーションが苦手？　私が？　言いがかりもいいところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、今どきはテキストで自己紹介できれば十分なの。出社なんて仕事が本格的に始まった後なんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかなぁ。最初はちゃんとあいさつしに行った方がいいと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人差し指を頬に当てて首を傾げるアリス。左肩にしなだれかかるマロンブラウンの大きな三つ編みが揺れて、先に結ばれた赤いリボンがくるりと回った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、毎日スマートグラスも使えないオフィスに出勤している彼女にとっては、対面でのあいさつは重要かもしれない。しかし、リモートでできることはリモートで、非同期でできることは非同期で、が最近のトレンドだ。前の会社だって……まぁ、そうはいかなかったから、この期に及んで職を探しているわけだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、適性検査なんて面接前のスクリーニングにしか使わないんだから、腐心するだけ無駄なこと。結局のところ、職務経歴の方が大事だと思う――はい。そんな質問が先頭に置いてあったらもう少し楽なのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;残りの質問を適当に片付けて送信ボタンを押すと、一括リストに入れた数社の名前と共に応募完了画面が表示される。それから数秒遅れてやってきたメール着信のフラッシュ通知をワイプして、スマートグラスをエコ・モードに落とした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「仕事、見つかりそう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ぼちぼちってとこ。アリスは、もう明日から出勤？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きなときに遊びに来てねって言われたよ。正式な勤務は連休明けからみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何それ。オンボーディングはするけど、自主的にやっただけだから給料は出さない、ってとこだろうか。田舎特有のルーズさってやつ？　だから中稲みたいな僻地には来たくなかったんだ。私の疑念をよそに、まるで転校先で新しい友達を見つけたみたいに明るくて無邪気なアリスを見ていると、なんだか彼女の分まで憂鬱になってしまう気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと窓の外を見ると、さっきまで水が溜まって青空にきらきら輝く田んぼが所狭しと並んでいたのに、今はだだっ広い平地に四車線の道路と知らないチェーンのロードサイドショップ、そして一戸建ての民家が続いている。ずっと、見慣れない景色だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、この町で生きていけるだろうか。運よく仕事を見つけたとして、どんな日常生活が待っているのか想像できなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新居のインターネットは、混雑が少なくてむしろ早いはず。そこはいい。部屋だって前より広い。でも、駅ビルのスーパーマーケットは数年前に撤退していて、今は &lt;em&gt;地元で愛される&lt;/em&gt; 居酒屋かスナックばかり。日用品を買いそろえるだけでも車が必要そうだ。即日配送は無理としても、通販はまだ使い物になるだろう。フードデリバリーは……マックがあるから、なんとか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;他にも、いろいろ気にしなければならないことはあるはずだ。どうしてアリスは不安げな様子をひとつも見せないんだろう。彼女の適応能力の高さは私も知ってるけど、それだけで現実的な問題が消え失せるわけじゃなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、アリス。分かってると思うけど、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;中稲&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ここ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に長く住むつもりはないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん……ごめんね、マーヤ。わたしの転勤に付き合ってもらっちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスは申し訳なさそうな表情で私の言葉を受け止めて、楽しげに外を指さしていた手をゆっくり膝に下ろしてきゅっと小さく握った。こんなこと、わざわざ言う必要なんてなかったのに。アリスの顔を曇らせるのは分かっていたはずで、しかしそんなのまるで思い至らなかったように言葉が口から滑り出ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、彼女がこの町を気に入って住み続けるなんて言い出したら、きっと私はまた同じことを言ってしまう気がする。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ボタンを押さないと開かないんだね。わたし、知らなかったなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上中稲駅は二路線が交わる三面五線の駅で、どちらか一方の路線しか乗り入れていない周辺の駅と比べれば大きな部類に入る。島式ホームから改札に向かう跨線橋には、バリアフリー化の波で無理やり後付けしたらしいエレベーターが接続しており、その継ぎ目がこの駅の歴史を際立たせていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昼下がりのホームは鉄骨の屋根で覆われて日陰になっているものの、通り抜ける風は日差しの強さを予感させる上擦った熱を帯びている。新居までは歩いたら十五分くらいかかるし、駅前にタクシーかバスが着いていることを祈ろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この駅に降り立ったのは地元住民っぽい高齢者や学生がほとんどで、残りはさっさと対面のホームに向かった乗り換え待ちの乗客と、観光客っぽい身なりがそれぞれ数人くらい。私たちみたいに、いかにも引っ越し中みたいな大荷物を抱えた乗客はいなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うふっ。マーヤ、荷物がいっぱいだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね……リュックを背負って、キャリーケースも引いて、トートバッグまで抱えて。今からどこ行くのって感じ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急な転勤辞令に端を発したこの引っ越しは、荷造りの段階で明らかになったアリスの予算不足で計画変更を余儀なくされた。私はもともと少しの服とキーボードさえあれば足りる生活だったけど、屈指の「かわいいマニア」であるアリスはそうもいかない。大量の服はもちろん、アクリルでできたつやつやしたアクセサリー類、ぬいぐるみのみなさん、その他いろいろを運び切るにはこうするしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;基本は最低限のかんたん引っ越しパックに抑えて、足りない分は私たちと一緒に運んでしまう。どうしても持ちきれない分は、事前に取っていた新幹線の切符を崩して宅配便で送ることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に私が立て替えてもよかったのに、アリスらしい変な意地で結局こうなってしまった。彼女の仕事の都合で私を振り回している、という姿勢だけは譲らないつもりらしい。重い荷物を抱えてたっぷり六時間の電車移動に付き合わせるなんて、お金を出すより状況がひどくなってる気がするけど。若いときの苦労は買ってでもせよ、ってことなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤも似合ってるよ。小さな身体で大きなかばんを引くのって、なんかかわいい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はいはい、私はかわいいですよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;非力な私が彼女より軽いトートバッグに苦戦してバランスを崩しているのをよそに、アリスは涼しい顔で両手の荷物を抱えてその場をくるりと回ってみせる。彼女の仕事柄、体力が必要なのは分かっていたけど、まさか迷わず階段を上ろうとするとは思わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改札を出ると、駅前のロータリー広場にタクシーが数台と、小さなバス停の立つ乗り場が二つ。他に目を引くのは、地酒っぽい名前の大きな看板を掲げた三階建ての古いバスセンター兼観光案内所のビルと、白地に茶色い文字で「紙としおりのまち中稲」とのぼりが立つ雰囲気だけの喫茶店くらい。あとは、そば屋に中華料理店、美容室といった個人経営っぽい店舗や、全国チェーンの学習塾や居酒屋が入る比較的新しい建物が立ち並んでいるが、別に興味は惹かれなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅前を横切る道路に沿って町の奥に進むと、錆び付いた鉄柱の間に渡されたアーチに「上中稲駅前商店街」とファンシーなフォントで描かれた看板が立っている。ここからだと、入り口にパン屋があるのがギリギリ見えるくらいだ。そこからさらに五百メートルほど先からは、緑豊かな二十メートルほどの高台が続く。さっき駅で見かけた「もみじ山」と書かれた真っ赤な紅葉のポスターは、ここの観光PRだったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その丘に沿ってゆっくり上に目を向けると、頂上で銀色の大きな円形ドームが顔を出しているのが見えた。プラネタリウム？　天文台？　いや、あれは確か――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「見て見て、マーヤ！　あそこ、中稲の図書館！　すごーい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……元は複合型の建物なんだっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！　ここから見ても大きいねぇ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中稲図書館。かつて「図書館ネット」の総本山を務め、一線を退いた今でも図書館を守る不可侵な何かが隠されていると噂されている……と、軽く検索すればこれくらいの話はいくらでもヒットするが、実際はただの歴史ある図書館だ。もとよりこの地の住民が勉強熱心だったことから、明治初頭に町を象徴する文化施設として開かれたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;図書館、と聞くと眉をひそめる人もいるだろう。電子書籍推進法が制定されてから数十年、もはや図書館は反体制的な勢力の逃げ場所になりつつあるからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;電書法によるプロパガンダのおかげで、今でも電子書籍はその利便性と著作権管理のクリーンさが殊更に宣伝される一方で、紙を大量に使う &lt;em&gt;旧書籍&lt;/em&gt; は資源の浪費と権利運用の困難さばかりが強調されている。環境保護と権利重視という二つの無視できない課題を突きつけられ、大手出版社はいずれも旧書籍のレーベルを休止せざるを得なくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほとんどの出版物が電子書籍に移ったので、政府は作戦を新しい段階に進めている。健全で善良な文化の普及を掲げる電書法を根拠に、政権批判、差別的表現、性表現を含むコンテンツが有害図書類とされ、次々と電子書籍ストアから消え始めたのだ。当然、業界団体による声明やSNSの投稿で多くの批判が殺到し、一時は「紙に戻ろう」ムーブメントが盛り上がりを見せたものの、既にその頃の出版業界に再び旧書籍を流通させる体力は残っていなかったという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、前記のような &lt;em&gt;有害表現&lt;/em&gt; を含む本は検閲・統制が容易な電子書籍ストアから逃れ、今でも旧書籍として出版されている。逆に言えば、今の時代に旧書籍で発行される本はほとんどが有害図書類ばかりという特殊な状況が続いていた。仮に流通市場が大きくなることがあれば、次は旧書籍規制法だろうな、という投稿はネビュ・ローゾ&lt;sup id="fnref:nebu"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:nebu" title="分散SNSサーバ実装のひとつ。略称の「ネビュ」の方が広く伝わりやすい。投稿自体を「ネブ」、投稿することを「ネブる」といい、利用者は「ネビスト（またはネビュラー）」と呼ばれる。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;でもしばしば見かける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ、これ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスがポシェットからピンク色の細いファイルを取り出して、中に収められたしおりをそっと私に見せる。使われないのに本に挟まってるなんてしおりの墓場みたいだね、と冗談交じりに言ったら気に入ったらしく、それからは無用な詮索を避ける隠語として「おはか」と呼んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「中稲はオパールの名産地でもあるんだよ！　今までで一番綺麗なしおりかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オパール？　随分珍しいのが採れるんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。全然知らなかったけど、すごいよねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;虹色に輝く手のひらサイズの細長い乳白色のシートは、上に結ばれた銀色のリボンがなければしおりとは分からない。アリスがファイルを揺らす度に新たな模様が浮かび上がって、万華鏡でも見ている気分になる。下端に「中稲図書館」と等間隔の金文字で記されているのを見ると、引っ越し直前に受け取った書類に同封されていたものだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんていうか……どう加工してるの、これ？　石をそのままローラーで伸ばしてるわけじゃないよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうかなぁ。しおりって完成品しか見たことないし、どこかに魔法のローラー工場があるのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;魔法のローラーなんて、怪しい美顔器のネーミングじゃないんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;旧書籍の排除と同時に、ブックカバーやしおりといったグッズも実用性を失って衰退してしまった。その代わりに、反体制的な思想の象徴、あるいは旧書籍保護の象徴としての意味を持ち始めつつある。特に、図書館ネットが構成員に支給しているしおりは、ある種の身分証としての効果を持つほど丈夫で美しい宝石仕立てで、かわいいマニアのアリスもとても気に入っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、アリスは図書館ネットの職員だ。彼女が図書館に勤めているのは、各地の図書館で美しいしおりをもらうためだという。このどうしてもプラスチックには見えないオパールのしおりで、十枚目。前に住んでいた石上では、本に挟むとリボンが空中に浮かんで見えるほどに無色透明なしおりを手に入れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスが名残惜しそうに &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; を閉じたり開いたりしているのを見ていると、ふと彼女を見失ってしまいそうな気分になる。まるで、アリスが &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; に吸い込まれてどこかに行ってしまうかのように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「新居まではタクシーにする？　最後くらい楽してもいいでしょ。私が出すからさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;というか、カーリースが間に合わなかっただけなんだけど。石上では選択肢にすらなかった車を持てるようになったのは、裏返せば中稲では車を持つ選択肢しか選べないということでもあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとね、マーヤ。わたし、助けてもらってばっかりだなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急にどうしたの。こういうのってお互い様じゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん！　マーヤは、優しくてかわいいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私には、図書館ネットがこんなしおりのために所属するような組織だとはどうしても思えなかった。自由を愛する文化保護活動と言えば聞こえはいいけれど、政府と対立しがちな旧書籍保護活動が反体制組織と結びついた結果、テロ組織が図書館を隠れ蓑にする事件も多発していたからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただのかわいいマニアのアリスが誰かに利用されているみたいで、いつかしおりと引き換えに命を危険に晒したりしないか、たまに心配になる。だから、私は図書館があんまり好きじゃなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、図書館が近所にあって少しだけありがたいのは、ほぼ確実に量子回線が引かれていることだ。本来、この地域は物理回線を引けずに低速なWWANで妥協しなければならなかったところ、中稲周辺だけは例外的に最新の量子回線が整備されている。旧書籍を取り扱っているからといって、ITを忌避しているわけではないのだ。巷では「図書館は回線連れてやって来る」という名言でよく知られていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="angelic-pretty"&gt;アリス「本当はAngelic Prettyで出勤したいの」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;――初出勤を控えた図書館職員の朝は早い。着ていく服がなかなか決まらないから。たぶん、図書館職員の中でもわたしだけだと思うけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スマートグラスに映るエアロ・スクリーンを眺めてメールチェックしていたマヤは、さっき「パソコン教室なんて、私の方がお断りだっての！」と叫んで画面をどこかに放り投げていた。中稲に来た初日に応募していた求人は、どれも不合格だったみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ARの外から見ると、天井に向かってぶんぶん腕を振っているだけだから、少しかわいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ。この服でいいかなぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;首元にすずらんレースとリボンをあしらった深緑のワンピースは、全体的に暗めの色に抑えつつ春っぽさを残した「カジュアル」なセレクトのつもり。Innocent Worldの中ではフリルも少なくて落ち着いてる方だし、古い本が詰まった書架に囲まれたらとっても似合うと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;意気消沈のマヤはベッドに腰掛けて身体を横に倒したまま、わたしを上から下まで二往復くらいしたところで、なぜか急に慌てて起き上がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……えーっと、なんだっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日のお仕事の服だよぉ。マーヤ、ショックで寝ぼけちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わたしの言葉を聞いたマヤは「ごめんごめん」と改めてわたしの服を眺め始める。時折小さく息を吸う妙な間が、なんとなく彼女のリズムを乱している気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……初日だし、もう少し落ち着いた感じの方がいいんじゃないかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;巷ではお堅いイメージのある図書館だけど、実は窓口業務さえ担当しなければ髪型や服装には甘い。むしろ気にしなければならないのは、頭の固い利用者から入るクレームの方だ。仕事をちゃんとしていても、こういう苦情に対応できなければ評価が下がってしまう。評価が悪ければしおりはもらえないから、結局のところ妥協するのはわたし。服装にうるさい人って、本当にきらい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、かわいい服じゃないとやる気が出ないし、オフィスカジュアルって言われてもよく分からなかった。だから、朝はとびっきりかわいい服から始めるのが鉄則だ。マヤが図書館に行くわたしの服を見て「もっとふりふりの方がいいよ」なんて言うことはなかったし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「石上の図書館ではこれくらい着てたよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、みんなアリスの好みを知ってたからでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これくらいなら大丈夫かなと思ったけど、初出勤にはまだ足りないみたい。うーん、と頭を悩ませていると、マヤがベッドから立ち上がってワンピースの襟にそっと手を伸ばした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私はいいと思うよ。この細かいレースならあんまり目立たないから、図書館の静けさに似合いそうだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！　わたしも、マーヤのこと大好き！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ありがと……いや、急にどうしたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤはかわいいから好きだ。小さくってやせていて、わたしとは正反対。大きくて綺麗なブラウンの目はどこから見てもきらきらしていて、猫みたいでかわいい。でも、起きている間はいつもスマートグラスを掛けていて瞳がよく見えないから、寝る前のちょっとの時間しか楽しめないことが多かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真っ黒いワンレンボブにわざわざ青いインナーカラーを隠しているのは、わたしが「原宿に行くなら、髪くらい染めておかないとBANされちゃうよ」って言ったのを真に受けたから。嘘だって分かったときに、わたしをにらむ顔が猫みたいで思わず笑ったら、また怒られちゃった。でも、マヤが好きなゆったりシンプルなコーデには、いいアクセントになっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あ、いつもわたしがマーヤって呼んでいるのは、伸ばした方がかわいいなって思ったから。あだ名みたいなものなの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ。これはどう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ん、いい感じかな。アリスっぽさも残ってるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局、CLASSY CAROLの黒いフレアスカートとフリルブラウスに落ち着いた。スカートの裾にはネイビーのフリルがぐるりとあしらわれているし、お気に入りのクレマンハットでごまかしてるけど、なんかいつもより地味だなぁ。それに、普段は三回くらいで「いい感じ」なのに今日は四回もかかっていた。こういうときは、マヤのご機嫌があんまりよくない日だ。全部不合格だったのがよっぽどショックだったのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤの仕事は、セキュリティの設計とか調査だって言っていた。よく在宅勤務でキーボードを叩いては唸ったり喜んだりしながら楽しそうに作業している。スマートグラスの性能だけじゃ足りないらしくて、部屋には大きなデスクトップパソコンが置かれているし、インターネット回線も自分で手配していた。コンタクトレンズで性能が十分なわたしには、よく分からない世界。プロ仕様ってやつね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おかげで、前のお家では夜中にインターネットが遅くてよく怒っていたマヤが、ここではいつも「テラ超え」だって喜んでいる。マヤは中稲に来るのが乗り気じゃなかったから、少しでも気に入るところがあったならわたしも嬉しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、そんなマヤのスキルを活かせるようなお仕事は中稲にはないらしい。図書館の中央コアシステムは古いし、操作画面をもっとかわいく改造するお仕事とか募集してないかな？　前にマヤも図書館で働こうって誘ってみたけど、本はあんまり好きじゃないみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わたしを見上げるマヤの顔を覗き込むと、スマートグラスの反射の先に彼女の大きな瞳が見え隠れしてドキドキする。目が離せなくなるこの感覚が、いつも恋してるみたいで心地よかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「落ち込まないでね、マーヤ。お仕事なんていくらでもあるから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、落ち込んでないって。まさか、町のパソコン教室にスキル不足だってバカにされるとは思ってなかっただけで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、どうして元気がないの？　一緒のお布団だから、狭くて眠れなかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の新居は前の狭いアパートよりもずっと安くて広い。さらに、引っ越しの荷物を減らすために家具は最低限しか持ってこなかったから、がらんとした部屋の寂しさは過去最高を記録していた。持ってきたぬいぐるみとクッションを全部並べても、家具の少なさはごまかせない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それぞれの部屋で使っていたシングルとセミダブルのベッドも小さい方を処分したから、わたしたちは今マヤが座っているこのベッドで身を寄せ合って寝ている。「身を寄せ合って」なんて聞こえはいいけど、実際はわたしがマヤの寝床を奪ってしまわないように身体を曲げて空間を作り出しているという、なかなか見苦しい寝姿だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;久しぶりに一緒のお布団で落ち着かないみたいだったから、マヤが好きなおっぱいもしてあげたのにな。スマートグラスを着けずにわたしを見つめる上目遣いのマヤは、かわいい瞳が一番近くで楽しめるから世界で一番好き。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないって。そもそも落ち込んでるわけじゃなくって、その――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、マヤは慌てた様子で弁解していたけれど、急に視線がスマートグラスの中に向いて言葉が途切れた。出勤の日はコンタクトレンズを着けずに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;物理端末&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;スマホ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で済ませていたから、わたしには彼女の視界にエアロか何かがポップしたことしか分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、いや。なんでもなかった。とにかく、うん。早く出なきゃ遅刻しちゃうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょ、ちょっとマーヤぁ。急にどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤは突然立ち上がると、わたしの背中をぐいぐい押して部屋の外に出そうとする。どんなにゆっくり歩いても三十分もかからないんだから、まだ遅刻なんてするわけないのに。怪しい……っていうか、これは隠しごとをしている顔だ。マヤったら、また不合格だったのかな。別に隠す必要なんてないのに。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;中稲図書館は、駅を出てすぐの小高い丘の上にある。マヤは地名と図書館の間に「の」って付けるのは変だって言うけど、わたしはリズムがよくて好きだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頂上までの道は、アスファルトの車道と石畳の歩道がほぼ同じ幅で続いている。図書館ネットが始まった頃に「全ての人にとって平等な場所」という理念を示すために、こういうデザインが流行っていたと聞いたことがある。今はもうあまり整備が行き届いていないみたいで、ところどころ舗装が剥がれて赤い三角コーンが置かれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上を見ると、道路の左右に植えられた木々から明るい若葉が顔を見せて、五月の爽やかな風に合わせて揺れている。太陽を透かした新緑色は新しく芽吹いた &lt;em&gt;かえで&lt;/em&gt; の葉で、秋になるとこれが全部真っ赤なもみじに変わるのだから、自然って不思議だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、すっごく綺麗！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頂上に着く。中稲図書館は、知らない人が近くで見たらプラネタリウムと勘違いしてしまうほどのおしゃれなデザインだった。円形の建物は周囲が白いタイル張りになっていて、その上に三角形の建材を組み合わせた銀色のフラードームが載っている。どこを見てもきらきら輝いていて、まるで月の基地みたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;入り口は目の前にある利用者向けの正面入り口と、ぐるりと回って正反対に搬入口を兼ねた職員通用口があったはず。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっと中を見てから事務室に行こうかな。自動ドアをくぐって図書館に入ると、ガラス張りの丸い閲覧室をぐるりと囲うように廊下が左右に続いている。中には書架が同心円状に配置されていて、真ん中には閲覧席があるみたい。二階部分も壁に沿ってたくさんの本が収められている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このまま廊下を右側に進むと閲覧室に入れるのかな。でも、まだこっちの自動ドアは開いていないはずだし、あんまり寄り道してたら間に合わなくなっちゃう。そろそろ事務室に向かわないと。左側の通路に立てられた「関係者以外立ち入り禁止」の札をすり抜けて先に進んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょうど閲覧室を過ぎたあたりで事務室の入り口が現れる。ガラス張りの壁がストンと途切れて、茶色いアルマイト仕上げの頑丈そうな壁に変わっていた。同じ素材でできたドアにはノブも取っ手もなく、唯一のっぺりとした手触りの横に設置されたタッチセンサーが存在を主張している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、IDカードはまだ発行されて……あぁ、そうだった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;転勤前に聞いた話を思い出して、わたしはリュックから「おはか」を取り出した。この前受け取ったオパールの辞令しおりをセンサーに当てると、緑色のインジケーターが点滅して数秒後、キキッと小さな音を立ててドアが開く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;図書館が配る辞令しおりには、着任先の事務室に入るためのチップか何かが載っているらしい。仕組みは知らないけど、しおりでドアが開くなんて図書館っぽくていいよね。でも、しおりの効果は一回きりの使い捨てで、次回からは普通のIDカードを使う必要があるからちょっと残念。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中ではもう十人くらいの職員が仕事の準備をしていた。辞令しおりを見せて手短に自己紹介すると、佐藤さんという同い年くらいの女の人がわたしに付いてくれることになった。図書館内部の簡単な紹介と今日の仕事について説明をもらってから、自分のデスクに案内される。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「荷物を置いたら、館長にごあいさつした方がいいかしらね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;佐藤さんは、ロング丈のグレージュのラップスカートにシンプルなアイボリーのブラウス姿で、首には青い平紐でIDカードがかかっている。いつか雑誌で見たオフィスカジュアルのコーデに似ている気がした。どこのブランドだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;事務室の真ん中に設置された階段をトントン降りていくと、まずは薄暗い地下書庫が現れる。天井全体から長期保管対応のLED灯で照らされていて、隅から隅まで均一なほの暗さを保っていた。歩みを進めていくと、周囲の壁、通り抜ける書架、わたしを迎える本、そして自分まで……空間全体が光っているような気分になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;佐藤さんから聞いていたとおりに書庫を進むと、さらに地下に降りる階段に辿り着く。この先に館長室があるって言っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長室のあるフロアは、先ほどまでの地下書庫とは対照的にぎらぎらとした蛍光灯が明滅していて目に悪い。でも、真っ白な漆喰にカラフルな飾りタイルの腰壁が張られていて、まるで山奥の古い別荘にでも来たみたいだった。ほんのり黄色を含んだ明るい赤の絨毯を進んで、年季の入った木製の扉をノックすると「はい、どうぞ」という落ち着いた女の人の声が返ってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おはようございます。わたし、アリスって――あれ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、中に入っても部屋には誰もいなかった。洋館仕立てといった感じの内装に、廊下のものと同じ色の絨毯が床いっぱいに敷かれていて、奥にはどっしりとした木製のワークデスクが主人不在のままどっしりと構えている。天井には見慣れない黄色のLED灯がはまったランプシェードが吊されていて、廊下の蛍光灯よりも温かい光を放っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;左右の壁いっぱいに広がる大きな書棚にはなぜか本が全く入っておらず、ガラス戸は指紋一つなく綺麗に保たれている。石上図書館の館長室でも、空っぽの書架を置いていたっけ。これも「誰かが本を独占したりしない場所」という理念を示す慣習だと聞いたことがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おや、新人さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;館長室を見回していると、いきなり机の前に人の形をした光が現れた。わたし、何かスイッチでも押しちゃった？　突然の眩しさに目を細めて前を確認すると、徐々に光が弱くなってセーラー服を着た少女に変わっていく。くせの強いブロンドのロングヘアが揺れて、神秘的なグリーンの瞳と目が合う。あ、かわいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤが昔楽しそうに見せてくれた、ホログラム映画のワンシーンを思い出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は浦部だ。ここの館長をしている。館長なんて言わず、浦部さんと呼んでくれていい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……はい、浦部さん。わたし、アリスです。石上図書館から来ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミの勤務態度については石上図書館からよく聞いている。期待しているよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その姿はわたしより年下に見えるけど、口から出る言葉選びは堅苦しくて威厳を感じさせるものばかり。それでも、この若くて優しそうな声を聞いていると冷たい印象は全く受けない。むしろ、館長には似つかわしくない若さを隠すために背伸びしている健気さを感じるくらいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スカートの裾をふわふわ揺らす浦部さんの姿は、いかにもデキる上司っぽい口調に全然合っていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。とある事情で、私は外に出られないんだ。だから、今は別の場所からキミに話しかけている」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いくら館長でも、全く外に出られないなんて聞いたことがない。ホログラムで姿を見せていることをごまかすための冗談だろうけど、それなら本物の館長室はどこにあるんだろう。もしかしたら本当に動けない事情があるのかもと思いつつ、意味もなく浦部さんの顔をじっと見つめる。さらさらと動く髪の端には、解像度の限界が宿っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わざわざ来てくれてありがとう。着任しおりはロッカーに入れて置くから、持っていくといい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ありがとうございます、と言葉を返すと、満足そうに頷いた浦部さんの姿がぱっと消える。館長室に一人残されたわたしは、目の前に現れた不思議な館長さんについて思い出しながら、そっと彼女がいた場所に手を伸ばしていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_2"&gt;マヤ「アリスってかわいいものに目がないから」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;アリスに仕事が見つからないと言ったのは、半分嘘だった。いや……途中までは事実だった、という方が正しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数日前に一括で応募した市内のパソコン教室やら事務職は、確かに全て不採用だった。オフィススイートが一通り触れれば務まるような仕事なら、怪しげな経歴を抱えているよそ者より同郷の若者を選ぶだろうし、それ自体は仕方ない。まぁ、写真を撮って印刷したいだけのお年寄りにImageMagickの任意コード実行を教えたって何にもならないんだし。ネビュではちょっと話題になるかもしれないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;問題――アリスについた嘘――は、夜中に届いていた差出人不明のスカウトメールだった。件名には「図書館ネットワークに関する諜報活動のご依頼」とある。スパムに分類されていたから初めは目に入らなかったけど、転職ポータルから大量に届くお祈りメールを処理してからやっとその存在に気付いたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この件名を視界に入れたのが、ちょうどアリスのファッションショーの直後だったものだから、なかなかタイミングが悪い。アリスは画面を見て驚く私の様子に目ざとく気が付いて、不思議そうな顔をしていた。咄嗟に知られてはまずいと思ってごまかしたものの、彼女が図書館から帰ってきたらまた追及されるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、迷惑メールは迷惑メールだ。図書館ネットの謎めいた陰謀論にあやかったスパムは年々増えていたし、ぴったり引っ越しを終えたその日に届いたのは偶然の一致か、せいぜいよくある標的型攻撃の一例だろう。そう思いながらメールを開くと、そこには多くの情報が記されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ……聞いたことないな。壮大な創作？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;内容は、インターネットでいくらでも見つかるような陳腐な噂話から、昔の講演会か何かのスライドが一部だけヒットするような図書館ネットの内部組織図、さらには検証しようのない職員同士のゴシップまで。ところどころ添付ファイルの資料を参照している箇所があったものの、ホイホイとその誘いに乗って仕込まれたスクリプトを読み込んでしまうほどバカではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、独自の情報を提示して信頼を得ようとしているのはなかなか興味深かった。本文がなぜかお嬢様っぽい言葉遣いなのも謎の信頼感がある。少なくとも、書いたのはそれなりの日本語運用者だと分かるから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;発信元は巧妙に偽装されていて、あたかもメールサーバ内から突然発生したようなログがつらつらとヘッダに残されているだけ。宛先は確かに私のメールアドレスだけど、この前転職ポータルに登録したものとは微妙に違っていて、ここもまた謎だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、以降の返信はメールではなくThreema&lt;sup id="fnref:threema"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:threema" title="スイス製のチャットアプリで、メールアドレスや電話番号と結びつかない匿名IDのアカウントを利用して強力な暗号化通信を行うことができる。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;から送るよう書かれており、連絡先として十二桁のIDが記されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仮に本当の依頼だったとして、誰がどんな目的で私に接触したのだろう。図書館ネットについて詳しく知りたい誰か。もちろん、秘匿されがちな情報を暴いてまとめたいだけの単なる図書館好きよりは、その情報を活用して図書館ネットに一計を巡らしたい攻撃者の方がありえるだろう。対価を払ってでも図書館ネットを転覆させたい誰か。警察？　いや、どちらかといえば公安庁の管轄か。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに仮定を積み上げると、仮に図書館ネットが壊滅的な攻撃を受けたとしたら、それはアリスの職を脅かすということに他ならない。もちろん業務は長期間ストップするだろうし、システムの回復に力を注ぐために一般職員は最低限の人員まで削減されるというシナリオだって十分ありえる。つまり、アリスはクビになるってことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;長年一緒に暮らすルームメイトの人生を狂わせかねない作戦に手を貸すなんて、本来ならありえない。しかし、相手はあの図書館ネットだ。自らの理想が抱える反体制の毒で苦しみ続ける間抜けな毒蛇のような存在。テロ組織が潜む組織の闇を暴く作戦に協力するのだから、多少の犠牲は許されるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、視点を変えればアリスを図書館から引き離すチャンスと考えることさえできる。綺麗な素材のカードが繋ぎ止める奇妙な縁は、既に五年ほど――私とアリスが一緒に暮らした時間の半分以上――続いていた。五年前のクリスマス、駅前で街宣する図書館ネットからラピスラズリのしおりを受け取ったときの彼女の表情は、今でも忘れられない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの瞬間から、アリスの心は図書館に奪われたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスのことは好きだけど、図書館は嫌い。現に、純粋な彼女をこうして怪しい &lt;em&gt;総本山&lt;/em&gt; に送り込んだのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「流石に怒るかな……でも、しおりさえ全部揃えば……うーん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリスを無理に図書館から引き剥がしたとして、私たちが持続的で健康な生活を続けられるほどのお金はない。タクシー代で何度か見栄を張ることくらいはできても、結局は破綻する未来しか想像できなかった。それでも、アリスがいつまでも図書館ネットに囚われているのは苦しいし、いつか突然消えてしまわないか心配になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、この仕事を受ければその両方が解決できるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……やるか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから数時間悩んだ末、送金先を教えるだけなら問題ないと自分に言い聞かせながら、空っぽの新しいウォレットアドレスと依頼内容の詳細を尋ねるメッセージを送信した。最初に手数料として五万円を支払ってください、登録に保証金が必要で、ウォレットの残高が足りなくて……なんて言い始めたら無視すればいいんだし。業務内容と給料に納得いかなかったら手を引く。仕事では当たり前のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;情報収集の範囲を逸脱するような破壊活動はしない。諜報活動のためにアリスを騙して手伝わせたりはしない。そして、アリスの身に危険が及びそうになったら迷わず手を切る。自分の中のルールはちゃんと守ろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルームメイトの職場をちょっと調べるだけなら、それがお金になるだけなら、傷付く人は誰もいないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の葛藤とは裏腹に、送信から数十秒足らずでメッセンジャーの通知フラッシュが光る。まるでボットのような速度の返信には「依頼内容は、中稲図書館についての調査全般・深部コアキーの入手です」という短い本文と共に、メールに記載していた額面通り五百万円相当の送金を示すトランザクションが貼られていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マジか……」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;中稲図書館。かつて図書館ネットの総本山として……というのは、公式ウェブサイトでも読めるありきたりな説明だ。江戸時代まではただの小山だったが、明治に入ってからこの高さ二十メートルほどの丘陵に初代中稲図書館が建てられたという。その後何度か建て替えを経て、現在は市民に「くろしゅ&lt;sup id="fnref:clothe"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:clothe" title="フランス語で「鐘」を意味するclocheと、名産品である「黒酒」の音読みを掛けたもの。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;プラザ」という愛称で親しまれる特徴的な銀色ドームの建物が使われている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中稲では明治時代から長年この図書館が町のシンボルだったこともあり、比較的多くの住民から愛されていることが役所の広報などから読み取れる。それでも、統計上の利用者数は人口が近い他の地域と比しても多いわけではない。高齢者が丘の上にある図書館に集まるのは難しいという事情もあるだろうけど、あくまで実用に供さないシンボルにすぎないということか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気になるのは、この銀色ドームの「くろしゅプラザ」に生まれ変わる前後のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;電書法が制定される数年前から、多くの図書館に民間企業の商業的視点を入れようとする動きが起こっていた。各地の図書館は見栄えのいいガラス張りの建物に改装され、間接照明と木目調の建材を活かした美しく荘厳な内装に仕立てた上で、飲食可能な閲覧席を極端に拡張した複合型図書館がブームを迎える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、閲覧席の拡張やカフェの導入によって、どうしても旧書籍を収める本棚が邪魔になるケースが増えていた。多くの旧書籍は &lt;em&gt;商業的&lt;/em&gt; 判断で閉架書庫に追いやられ、書架はデザイン上必要なものを除いて撤去されることになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;閉架図書として登録されているなら、本としてはまだ幸せかもしれない。より悲惨なのは、アクリル板で完全に塞がれた木製ラックに収められた旧書籍だった。殺風景な壁面を埋めるように飾られた壁紙のようなその本は、貸し出しはおろか取り出して読むこともできないのだから、あくまで読書空間を盛り上げるための小道具に成り下がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;図書館を単なる電子書籍を読むための快適な空間として作り替え、電子書籍体験の盛り上がりを支えると共に旧書籍へのアクセスを難しくするという一石二鳥の企て。もちろん、これは電書法の施行をスムーズに進めるための裏工作だったわけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この &lt;em&gt;読書広場化&lt;/em&gt; の波は中稲図書館にも迫っていた。駅から見える丘の上にあることから、プラネタリウムをイメージした円形の建物と銀色のドームが目を引く新たなデザインが示され、さらに住民から愛称を募集して親しみやすいナラティブが作り上げられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;建物は数年で完成し、臨時図書室に移していた本を戻すところまでは順調に進んでいた。この時点では地下の閉架書庫が十分に整備されておらず、展示用の本棚に収めた残りは秘密裏に廃棄するつもりだったとも言われている。そこにやってきたのが、後に図書館ネットを組織することになった浦部槭樹氏だった。彼は中稲図書館の初代館長の子孫であり、一時は中稲を離れていたが、どういうわけか完成間近で戻ってきたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこからは怒濤の展開だった。なんと浦部氏は建物を含む周辺の土地を丸ごと買い上げ、新たな図書館指定管理者に就いたのだ。彼は当初の計画を破棄して書架の拡張を進め、全ての本を失わずに開館当日を迎えたのだった。彼が館長になった日は旧書籍保護記念日として、開館日は図書館ネットの設立記念日としてそれぞれ知られている。……と、基本的な情報はこれくらい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう一方の「深部コアキー」については、残念ながら何もヒットしなかった。名前から図書館内部の何かであることは想像が付くものの、依頼者だけが使っている通称なのかもしれないし、存在するかも分からない噂話の検証が目的なのかもしれない。中稲には図書館を守る何かが隠されている、というのはよくある噂のひとつだった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_3"&gt;アリス「スマホの充電ってよく忘れちゃうよね」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;物理端末の充電が切れる音が聞こえて、ふと目が覚める。あれ……今は何時だろう。カーテンの外はまだ暗いみたいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悲鳴を上げた物理端末を朝まで充電しておこうと思って横を向くと、部屋の中にほんのりと紫色の光が浮かび上がっているのが分かった。マヤが今日も頑張っているみたい。昨日も夜中まで熱心にキーボードを叩いては「やばいな……これ、どうしよ……」なんて呟いていたから、流石に少し焦っているのかな。でも、夜更かししてまでお仕事探しなんて、なんだかマヤらしくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッドに寄りかかるマヤの手振りに合わせて揺れる光をぼーっと見ていると、心細い夜でも自分一人じゃない気がして少し安心する。前のお家でもよく見る光景だった。マヤはたまにわたしの部屋に来て、一緒に眠るわけでもなくお仕事をしていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういうとき、頭を撫でてあげるとマヤはくすぐったそうにして振り向くから、かわいい。でも、今は余裕がないみたいだから邪魔しちゃダメだよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん……アリス、起こしちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と思っていたつもりが、気付くとマヤの頭に手を置いていた。わたし、寝ぼけているのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「寝る前に充電し忘れちゃったみたいなの。最近、すぐバッテリーが切れちゃって……ふぁあ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し驚いた様子でこちらを見るマヤの頭を何度か撫でてから、その手のまま充電器に置き損ねた物理端末を指さす。引っ越しで場所が変わったのに慣れなくて、家に帰ってから充電器に置くのを忘れることが多くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……そっか。私がやっておくよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤは何枚かエアロを消してからゆっくり立ち上がって、床に置きっぱなしのうさぎさんを棚の上の充電器に移した。せっかくお揃いのルームウェアを持ってきたのに、マヤは暑いよと言ってVIVID LADYの黒い半袖とショートパンツのスウェットばかり着ている。フレアっぽい袖や裾も確かにひらひらしてかわいいけど、絶対もこもこの方がいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マーヤ、お仕事見つかりそう？　あんまり無理しちゃダメだよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがと。でも、大丈夫だからアリスはちゃんと寝てね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッドの横に戻ってきたマヤが、スマートグラスを外してそっとわたしの頭を撫でた。ひんやりとした手が心地いい。わたしを見下ろす暗がりの瞳にスマートグラスの光が反射して、あやしい紫色にきらきら光っている。わたしの目もこんな色に見えているのかなと思うと、なんだか急に恥ずかしくなってそっと目を閉じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はーい。疲れちゃったら、またおっぱいしてあげるねぇ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わたしはマヤと狭いベッドで眠るのが好きだけど、彼女はどう思っているだろう。何度かこのベッドで一緒に眠ったことがあるけど、マヤは誰かと一緒に寝るのが苦手みたい。昔、マヤの単位がかかった大事な期末試験で寝坊しちゃって、アリスのせいだよって怒られたこともあった。わたしはマヤと同じベッドで寝たかっただけなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お仕事探しが終わったマヤがベッドに戻ってくるのをぼんやり夢に見ながら、わたしはまた眠りについた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;らしく&lt;/em&gt; ないのは、マヤだけじゃなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;翌朝、しっかり充電百パーセントで図書館に出勤したわたしは、ロッカーに見覚えのある封筒が入っているのを見つけた。これは、昨日も浦部さんから受け取ったピンク色の封筒だ。初代の館長さんをイメージした色だって言っていた気がする。きっと、かわいいものが好きだったのね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;渡し忘れたものでもあったのかしら。その場でぴりぴりと封を破ると……なんと、中から着任しおりが現れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ？　どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思ったより大きな声が出てしまった自分に驚きながら、きょろきょろと辺りを見回した。盗んだわけでもないんだから堂々としていればいいはずだけど、なんとなく。誰もいないことを確認してから、リュックから &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; を取り出して昨日のしおりと見比べる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二枚のしおりは、どちらも薄く伸ばした虹色のオパールに金文字で「着任」と彫られていて、一日違いの日付が刻印されていた。着任しおりを二枚ももらえるなんて、わたしったら随分期待されているみたい。やっぱり、前の年間表彰が効いたのかしら……なんてこともなく、単に浦部さんが間違って入れてしまったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;始業までは少し時間があったし、先に館長室へ向かうことにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;丸い建物に沿った階段をぐるぐる降りていると、 ずっと同じ場所を歩いている気分になる。館長室の扉をノックすると、昨日聞いた優しい声が返ってきた。部屋に入ると、やはり昨日と同じようにセーラー服姿の浦部さんがホログラムで現れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おや、新人さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、わたしを見た第一声まで同じだった。……って、どうして？　わたしのこと、覚えてないのかな。ホログラムを通じてわたしに見せる優しい表情は、決して冗談を言ってからかおうとする様子には見えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーとぉ……アリス、です。昨日も浦部さんとお話して、こう……褒めてもらったり、しました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アリス……あぁ！　そうだった、昨日来ていたね。すまない、少しトラブルがあって記憶が飛んでいて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浦部さんはわたしの名前を聞いてやっと合点がいったらしく、優しい表情の後ろから困惑した顔を見せる。記憶が繋がって電気でも走ったみたいに、ホログラムに一瞬ノイズが走った。やっぱり、本当にわたしのことを忘れていたみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫ですか？　倒れちゃう前に、休んだ方がいいですよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まさか、忙しくて人と会話した記憶が飛ぶなんて。やっぱり、館長ってとっても多忙な業務らしい。石上図書館でも、館長さんがなかなかお家に帰れなかったみたいだし。館長になればたくさんしおりをもらえるかもしれないけど、こんな風になっちゃうなら断らなきゃね。マヤと過ごす時間も減っちゃうし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだ。着任しおりはロッカーに入れておいたから、持っていって。じゃあ、お仕事頑張ってね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、えーと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い残した浦部さんのホログラムがすっと消えて、広い館長室にわたしだけが残される。その場に鏡がなくて分からなかったけど、きっときつねに化かされたような顔をしていたと思う。休んだ方がいいですよなんて言ったら、まさか用件に入る前にいなくなっちゃうなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手持ち無沙汰で館長室を出たわたしは、また &lt;em&gt;おはか&lt;/em&gt; を取り出して、双子のしおりを右から、左から眺めてにんまりする。虹色のしおりというだけで嬉しいのに、それが二つもあるなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一日違いの着任しおりなんて貴重なもの、本当はもらっちゃいけないんだろうけど、浦部さんがくれるって言うなら甘えてもいいよね。だって、しおりってとってもかわいいんだもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/bookleaf-2/"&gt;後半&lt;/a&gt;へ続く）&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:nebu"&gt;
&lt;p&gt;分散SNSサーバ実装のひとつ。略称の「ネビュ」の方が広く伝わりやすい。投稿自体を「ネブ」、投稿することを「ネブる」といい、利用者は「ネビスト（またはネビュラー）」と呼ばれる。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:nebu" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:threema"&gt;
&lt;p&gt;スイス製のチャットアプリで、メールアドレスや電話番号と結びつかない匿名IDのアカウントを利用して強力な暗号化通信を行うことができる。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:threema" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:clothe"&gt;
&lt;p&gt;フランス語で「鐘」を意味するclocheと、名産品である「黒酒」の音読みを掛けたもの。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:clothe" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>「不在の百合」についての補遺</title><link href="https://ama.ne.jp/post/absent-lily-addendum/" rel="alternate"/><published>2022-12-04T02:17:00+09:00</published><updated>2022-12-04T02:17:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2022-12-04:/post/absent-lily-addendum/</id><summary type="html">&lt;p&gt;写真やその周辺のお話&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;私が初めて「不在の百合」という言葉を聞いたのは、文化祭で夜差さんが私のクラス展示を見ていたときだった、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イベントに対するやる気も結束もない私たちのクラスが文化祭の展示として選んだのは、休憩所兼写真展という、いかにも準備や運営に手間がかからない省エネ企画だった。しかも選んだ、というほど能動的なものではなく、この案しか出なかったのでこの企画に決まったというだけ。突然「文化祭の喧噪を離れた癒やしになるんじゃない？」と自信満々に提案した朝倉さんは写真部所属で、展示の内容は全部自分で準備するというのだから、誰も反対するわけがない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今思い返すと、朝倉さんのことが嫌いになったのもこのときだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当然、こんなクラスだから文化祭の前日準備にも全く人が集まらない。朝倉さんも、まさか力仕事まですっかり押し付けられるとは思わなかっただろう。休日は首から黒いカメラを提げて街撮りしてます、という姿が容易に想像できる地味な印象の朝倉さんは、やはり予想通りの非力さだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女を見かねて、写真を貼るための大きなキャスター付きの有孔ボード運搬を手伝ったのが藪蛇だった。運び終わるや否や、展示の監視係を引き受けてほしい、と頼まれてしまったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めは断ろうと思ったけれど、よく聞くと、二日間あるうちの初日の昼過ぎから一時間ほどだけでいいと言うので、仕方なく引き受けた。一時間くらいなら自分でやってよと反論していたら、初日はずっとこの固いパイプ椅子の上で過ごすことになっていたかもしれない。私は昔から少し親切すぎるところがあるのだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パンフレットには「写真展」という名前で掲載されているが、実質的には朝倉 &lt;em&gt;先生&lt;/em&gt; の難解な個展だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それなりに工夫して並べられたであろう綺麗に印刷された写真には、公園のベンチとか、夕日の差す文化部棟の踊り場とか、人のいない校門とか、そういうまとまりのない写真ばかり。共通点を挙げるとすれば、徹底して人物の姿が排除されているところくらいで、朝倉さんが何を伝えたくてこの写真を集めたのか分からない。見知った場所の普段着姿を写したような印象の薄さと相まって、あくびを誘う展示になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、東雲さん。監視、ありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;焼きそばとパンケーキのコンボは食べ過ぎたかな、と椅子に座って静かな教室の中でウトウトしていた私は、突然名前を呼ばれて飛び起きた。声の主が朝倉さんだと気付くのに少し時間がかかり、もう一時間も経ったっけ、と慌てて腕時計を見ると、まだ十五分も経っていない。それから、彼女の後ろにもう一人制服姿の女子が立っているのに気付く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのお客さんが夜差さんだと分かったとき、私はもう一度飛び起きた気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夜差さんは、有名な写真のコンテストで金賞を取った経験のある写真部のエースだ。全校集会で何度か賞状を持って壇上に上がるのを見たことがある。彼女は美しいシーンを感じたままに切り取るセンスが抜群で、コンテストの写真は今にも画面に収まる鷹が枝から飛び立ちそうな躍動感を持つ完璧な仕上がりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カメラを片手に海や山を駆け回る活発で明るい姿は男女問わず人気で、学校だよりの表紙はいつも彼女が担当していた。自分には決してたどり着けない美しさを知っている。だから、私は夜差さんが好きだった。でも、夜差さんは私のことなど知らないだろう。話したこともなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうやら、自分の休憩時間にわざわざ夜差さんを連れて展示を見せに来たらしい。申し訳程度にたった一時間だけ入れられた私のシフトは、どうやらこの &lt;em&gt;デート&lt;/em&gt; のためだったようだ。別に朝倉さんに夜差さんの話をしたことはなかったから、牽制しようなんて思ってもいないだろうけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夜差ちゃん……えっと、どうかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「朝倉は『不在の百合』が好きなんだね。私も今後伸びるかなって思ってるけど、朝倉はどこが好き？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はね、写真に可能性を付与できるところが気に入ってるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「見た人の解釈でベストな受け止め方ができる、ってところかな。でも、それは――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;百合、というのは女の子がいっぱい出てきて仲良くしたり、女の子同士で恋人になったりする作品のジャンルだろう。力が強いだけの男が偉そうにしゃべるシーンがなくてストレスが少ないので、たまに読んでいた。彼女たちの話を聞きながらスマホでいろいろ検索してみると、どうやら「不在の百合」はこういう誰も写っていない風景写真を撮るものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;百合なのに誰も写っていない、とはどういう面白さだろう。写真家の考えはよく分からない。百合っぽい写真にしたいなら、女子部員を引き連れてポートレートにすればいいのに。サイトの説明を鵜呑みにするなら、今壁に貼ってあるような誰も写っていない写真を見て、そこに女の子が二人立っている風景を想像できるのが、まさに「不在」で「百合」という意味らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;公園のベンチに、踊り場に、校門に朝倉さんと夜差さんが立っている。どういう顔をしているか分からないけど、不自然というほどではない。朝倉さんが自分の &lt;em&gt;個展&lt;/em&gt; に招待するほどだし、たぶん仲も悪くないだろう。休日の買い出し中、部室に行く途中、下校の途中なんてタイトルを付けるのも簡単だ。そうしないのは、夜差さんに隠した想いを伝えるのが怖いから？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小説は文字での表現だからこそ、想像を膨らませて豊かに楽しめる魅力を持っていると聞いたことがある。小説の安易な映像化や実写化が批判されるのは、それぞれの頭で膨らませ続けた完璧な想像には遠く及ばない描写を、分かりやすく具体的な姿で提示してしまうからだろう。結末がはっきりせずに終わるゲームと同じようなものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、朝倉さんがやりたい――つまり「不在の百合」が目指している――ことは、誰かの想像力に寄りかかった写真だ。誰かの想像力によって完成する、不完全な写真だ。彼女は不完全な写真を撮って、さらに恥ずかしげもなく夜差さんをここに呼びつけたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女の不誠実さに思い至ると、急に怒りと恥ずかしさが一緒に湧き出して、パイプ椅子を蹴飛ばして駆け出したくなる。クラスの展示なんてどうでもよかったのに、ただこの写真展だけは、今すぐに中止すべきだと思った。朝倉さんは彼女が尽くせるだけの努力をして、この展示を完璧に仕上げるべきだと思った。あなたが夜差さんと写る写真が完璧ではないというなら、私と夜差さんで完璧な写真を作ってやる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝倉さんはずるい。私と同じように夜差さんに惹かれているのに、ずっと曖昧な立場で彼女の側に座ったままだ。もし「不在の百合」が完璧なら、誰かの想像力に任せるのが完璧なら、朝倉さんも私も今すぐ消えてしまえばいい。こうして秘めた思いと一緒に、フィルムの裏側に隠されてしまえばいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、夜差さんと写真について語り合える世界があるのなら、不完全な写真を引きちぎって叫びたくなるこの衝動を感じずに済んだだろうか。私は祈るように、誰もいない休憩所のベンチに向かってスマホのシャッターを切った。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/8039"&gt;百合SS Advent Calendar 2022&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>メタ世界で出会った少女とその顛末</title><link href="https://ama.ne.jp/post/lyra-nicolas-aquila/" rel="alternate"/><published>2022-12-01T00:00:00+09:00</published><updated>2022-12-01T00:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2022-12-01:/post/lyra-nicolas-aquila/</id><summary type="html">&lt;p&gt;怪しげなDMで紹介されたワールドに飛び込んだVRライターの「ライラ」は、薄暗い部屋に閉じ込められた少女「アキラ」と出会う……&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/yuri-watch/"&gt;東雲銀座広報 ゆり時計&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;――暗闇が辺りを包む夜の草原。そこには、煌々と光を放つビルはおろか、わずかに道を照らす街灯さえどこにも見当たらない。少しずつ前に進む &lt;em&gt;僕&lt;/em&gt; の頼りになるのは、右手に握られた魔法の杖が放つ小さな光だけだった。もし目の前が危険な断崖絶壁だとしても、今の僕には決して分からないだろう。そんな自然のままの景色を、足元を探りながら一人で歩いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そっと息を吸って、吐く。両耳に届く静かな風の音が、この高原の土を、草の絨毯を踏みしめているという実感を与えてくれた。なだらかな丘の頂上に立つ大きな木の影が目に入って、僕は不意に上へと視線を向ける。そして、はっと息を呑んだ……その瞬間を、僕は決して忘れないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;暗かったはずの夜空が、いつの間にか明々と輝く大小の星々で一面埋め尽くされている。その瞬間、先ほどまで光のなかった世界に新たな光明が差していた。僕はその自然の芸術を視界に全て収めるために、草原のベッドに横たわった。理想的な星夜であれば、一時に肉眼で見える星の数は約四千三百ほどだという。しかし、今の僕にはその数万倍、いや――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラ、そろそろお昼作ろうと……あれ、またVRやってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うわっ！　……あー、ごめん。何か用？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お昼ご飯作っちゃうけど、ライラも食べる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と、そんな孤独で美しい&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;世界&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ワールド&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の真上から、無粋な同居人の声が漏れ出てきた。プレイ中は部屋に入らないでと言っていたのに。急に身体を起こすと、狭い床の境界線を示す赤いラインが周囲に浮かび上がった。視野いっぱいに広がる美しい天球が、一瞬で真っ二つに割れて現実に引き戻された心地がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これじゃ、せっかくの記事の導入が台無しだ。ニコラには常日頃からVRセッションの邪魔をしないよう粘り強く説得を続けてきたつもりだけど、彼女とはプライベートスペースの認識についてもう一度合意を形成する必要があるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヘッドセットを持ち上げて頭から外すと、私の顔を覗き込むニコラの姿が目に入る。さっきまでの世界観とは全く違う見慣れたいつもの普段着――海外旅行のお土産か何かでもらったらしい、エキゾチックな柄のトップスとショートパンツ――が、私の意識をこの小さな部屋に呼び戻した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、ニコラ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と言いかけたあたりで、そういえば、部屋の前のサインプレートを「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;Do Not Disturb Metaworld&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はいらないで&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」にひっくり返していないことに思いあたる。それでも、ノックして中の反応を待つくらいは期待してもよさそうだけど、どうやらニコラにはそういう&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;習慣&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マナー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を形成する機会がなかったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや……うん、今回は私が悪い。そういうことにしておこう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうしてなんとか数時間前の自分と折り合いをつけて頷いていると、ニコラが不思議そうに首を傾げた。肩の辺りまで適当に伸ばした黒いミディアムヘアがぱさりと揺れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、ライラ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;野暮ったい大きな黒フレームの眼鏡には、その印象とは対照的な細い銀色のグラスチェーンが下がっていた。彼女の動きに合わせてきらきらと揺れるチェーンを見ていると、なんとなく心地いい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数ヶ月前にカットから帰ってきた直後は、そのシャープな顔立ちに似合うショートボブだったけど、それからは特に手入れされず &lt;em&gt;自然に任されて&lt;/em&gt; いる。あのときはどういうわけか「ライラ、髪を切ってくれない？」と頼まれたところを、どうにか並の美容室に行くよう説得したのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一応言っておくと、私は美容師でも美容師見習いでもない、ただのVR専門ライターだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……そうだ、うん、お昼ご飯。何を作ってくれるんだっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サーモンとプチプチで親子丼の予定！　ストッカーに二人分余ってたから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;親子丼は、淡白で単調な食感のサーモンに、口の中でとろりと弾けるプチプチを添えた簡単で美味しい定番料理のひとつだ。普段は何気なく「親子丼」と呼んでいるけど、「赤くて丸いプチプチがサーモンの培養核に似ているから」という理由はどうも腑に落ちない。どちらも培養か合成で作られる人工食品&lt;sup id="fnref:salmon"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:salmon" title="「サーモン」および「プチプチ」は、カルチュアド・クロレラ・カンパニーが製造する食品類の登録商標であり、特定の生物種を指す語ではない。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;だから、比喩にしても少し不思議な響きを感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キューブ型のサーモンと丸いプチプチの取り合わせは、見た目が華やかでファミレスの子供向けメニューでも人気が高い。本当はさらに三角形のグリーンバターを加えるのが定番で、しかし、そんな贅沢な調味料に割くほどの経済的余裕はなかった。それでも、この前買い溜めていたサーモンはもう食べきったとばかり思っていたから、ちょっと嬉しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日はどんなゲームをやってたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ゲームじゃなくて、ワールドね。『アステロイド・ベルト』っていう、山に登って星空を探すアトラクションで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきニコラが来る前に取材していた「アステロイド・ベルト」は、ちょっと玄人向けのワールドだ。スポーン地点は真っ暗な山の麓で、ある程度先に進まないと星空を眺めることはできない。小さなペンライト一つで目の前を照らしながら、星空の見える高原を目指して進んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美しい景色をおあずけにされることで、ゴールに辿り着いたときに大きな達成感となって跳ね返ってくるという、ちょっと回りくどい仕組みになっているわけだ。VR初心者なら特に戸惑いやすいワールドで、何分か同じ場所をぐるぐる回った末に結局飽きて帰ってしまうらしい。画面映えのなさから配信者にも敬遠され、どうしても人気が出ないので魅力を紹介してほしい、という依頼だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「星空？　それくらい、テレウィンドウでいつでも見られるのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってニコラが指差す窓の向こうでは、薄暗い緑に包まれた静かな渓流の中で、黒くて細い輪郭のハグロトンボが優雅にひらひらと飛んでいる。もちろん、これは私たちが自然あふれる山奥での生活を送っているわけではなく、都心の小さな2DKの窓全体を覆うテレウィンドウ――平たく言えばAIディスプレイが映す景色に過ぎない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;拡散モデルで逐次生成される映像に一つとして同じものはなく、少し不自然な動きのトンボが水しぶきと同化して消えたかと思うと、木々の間からまたうっすらと新たな個体が現れて、少しずつ違う風景に変わっていく。私の「自然」と「山」というキーワードに反応して、いつの間にか新しいプロンプトに切り替わっていたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、各家庭でこのテレウィンドウを入手できるようになれば、VRデバイスの売り上げに影響が出てもおかしくはないだろう。しかし、高価なテレウィンドウが整備されていて、なおかつ手頃な家賃で住める物件はここ以外に見たことがなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、そういう仕事なのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私もこの景色でエッセイでも書いてみようかな。AIオタクなら何人か買ってくれそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、文章なんか書けないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を聞いたニコラは腕を組んでうーんと数秒悩んだ末に、なぜか満足そうに頷く。そして「じゃあ、このアイデアはライラにあげるね」と言って、キッチンに戻っていった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私とニコラは、この五階建ての&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の四階にある一区画を分け合って暮らしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;というのは、百メートル四方ほどの敷地に建つ薄い円柱のような外観と、その中心にぽっかりと空いた円形の空間を合わせた構造のことだ。上から見ると、外から順に廊下、居室、そしてテレウィンドウに囲まれた空間が続くバウムクーヘンのような姿と言えば分かりやすいかもしれない。親しみを込めて、ドーナツハウスという愛称で呼ぶ人もいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラとは、半年前にルームシェア専門のマッチングサービスで知り合った間柄だ。彼女は短期の案件を転々としているエンジニアで、お金が貯まったら働くのをやめ、貯金が尽きたらまた働き始めて……というのを繰り返している。無職の期間を長く保つために、生活費はできるだけ抑えたいらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この住宅の大きな特徴は、家賃の安さだった。曲面の壁や窓は家具やカーテンを設えるには不便だし、窓は自然光の入らないAIディスプレイで覆われて、おまけにベランダもないという欠点だらけの住環境はやはり人気がないらしい。おかげで、周辺相場の半分以下という破格の家賃で提供されている。折半すれば一ヶ月分の予算で四ヶ月は暮らせる計算で、これほど効率のよいルームシェアは私にとっても願ってもない選択肢だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;家賃だけではなく、電気代が極端に安いのも魅力だろう。住宅内のテレディスプレイを年中無休で点灯しておく&lt;sup id="fnref:window"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:window" title="本来、居室には床面積の七分の一以上の窓が必要だが、例外として十分な有効光量を持つ光源に置き換えることが認められている。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;ために結ばれた大電力契約と一本化されているおかげで、各部屋で使用する電力の単価が工場並みに抑えられていた。部屋にサーバーやネットワーク機器を積んで世話をしているニコラにとっては、まさに渡りに船といったところだったろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきステラが、カフェ・レヴァリィのケーキを買って帰ってきたよ。やっぱり昨夜はケンカしてたんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふーん。でも、あのカペラがケーキくらいで許すかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラと向かい合わせで座る白いエンプラ板のテーブルの上には、濃紺のボウルに盛られた親子丼と、翡翠色の濃縮還元フレーバーティーで満たされた透明なコップが二つずつ。それと、ニコラの横には最近ではあまり見かけなくなった &lt;em&gt;物理の&lt;/em&gt; ノートパソコンが持ち込まれ、黒い電源ケーブルやネットワーク用の青いケーブルやらが取り付けられている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この共用のダイニングルームには、備え付けの冷蔵庫と冷凍ストッカー、洗濯乾燥機やその他雑多な古い家電家具が壁に沿って並べられており、雑然とした古めかしい印象が拭えない。油とほこりがこびりついた旧式のトースターはもはや使い物にならないが、勝手に捨てていいのか分からずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「 &lt;em&gt;ふぁ&lt;/em&gt; からね、いま『イーグル』に繋いでるとこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラはサーモンを一口食べたスプーンをくわえたままそう言うと、器用にその柄を指の間に持ち替えてノートパソコンを触り始めた。さっきまでジャックしていたエントランスの防犯カメラ映像を、二階北側――ステラとカペラが住んでいる部屋の近くだ――の音声に切り替えているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が「イーグル」と呼ぶ壁伝導センサーは、ニコラが廊下の壁に貼って回った小さな特製モジュールだ。円形に配置された部屋の幾何学的構造のおかげで、パラボラアンテナのように音を効率よく集められる場所がいくつかあるらしい。センサーの見た目はワシをモチーフにしたイラストが描かれたただの小さなステッカーで、古い貼り紙だらけの雑然とした壁に貼り付けるのに適したカモフラージュになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『カペラ、昨日はごめんよ～……』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『これ、レヴァリィの……仕方ないなぁ、今回だけだからね』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イーグルはバッテリーを一切使わずに中距離から盗聴できるモジュールで、特定の周波数の電波を送ると、こんな感じで音声が乗って返ってくるらしい。詳しい仕組みはよく分からないものの、魔法のような代物だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほらね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、明日にはまた『ステラのせいで体重が増えた』って怒ってるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはは。言えてる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見て分かるとおり、ニコラはこうして&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;公開情報収集&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;オシント&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;や&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;街中での通信傍受&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;シギント&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、ときには盗聴や盗撮を駆使して様々な個人情報を収集するという、いかにも悪い趣味を持っていた。「ゴシップ好き」と表現すればかわいらしい女子の習性に見えるかもしれないが、違法行為さえ厭わずに、と付け加えると話は別だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、ここで正義に則ってニコラを通報しても、せいぜい二倍の家賃という不条理な罰金を払う羽目になるだけだろう。それに、今まで彼女の犯罪を見過ごしてきた事実は私にも不利に働くはずだ。そういう勘案と、ニコラなら何があってもどうにか隠しおおせるだろうという謎の信頼から、今はこの共犯めいた関係を楽しむことにしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、一通りステラとカペラの会話を聴取したニコラは、スピーカーから片耳に着けたモニターイヤホンに切り替えて住宅の &lt;em&gt;巡回&lt;/em&gt; を始める。そして、何部屋か確認を終えたところで、もう一方のイヤホンを私に手渡した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、中庭の音が聞こえるよ。ほら、オオカミの遠吠えみたい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最近また強くなってきてるわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イヤホンからは、金属が擦れる音のような、猛獣のうめき声のような不協和音が途切れ途切れに流れている。目を閉じて意味ありげな音の羅列に聴き入るニコラの様子は、端から見ればお気に入りの音楽でもシェアしているように見えるけど、この雑音は音楽と呼ぶにはあまりに不安定だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラが「中庭」と呼ぶ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の穴にあたる部分は、その名付けとは裏腹に奇妙な謎に包まれた空間である。住民の私たちでさえ中庭に入る方法を知らなかったし、ニコラが密かに入手した建物図面にも全く記載がない。その上、航空写真を見ても頑丈そうな銀色のドームで覆われているという徹底ぶりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、この雑音は普通に生活している住民たちに聞こえるようなものではない。感度のよいイーグルが壁伝いの振動を増幅しないと、こうして音として聞き取ることさえ難しい微弱な現象だ。住民の中ではおそらく私たちだけがこの「中庭の音」現象を知っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中庭の音なんておしゃれな名前の現象なら、もっと優雅な小鳥のさえずりや噴水の音を聞いていたいものだ。そんなことを思いながら、私も黒い海鮮シーズニングを振りかけて、とっておきの親子丼を食べ始めた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;週刊連載コラム「ララのメタ世界探訪記」。まだ十分に注目を集めていない新進気鋭のワールド、クオリティは高いものの日の目を見ないまま新着リスト落ちしてしまった隠れ家的ワールド……その他、私がピンときたマイナーなワールドを毎週いくつか取り上げてその魅力を発信するコーナーである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきまで滞在していた「アステロイド・ベルト」の紹介は、ワールドの制作者から依頼を受けて書いているPRだけど、このコラムはむしろエッセイに近い。こうして暇な時間に回ったワールドの日記をまとめて送るだけという、比較的気楽な仕事だ。もちろん、そういう &lt;em&gt;ただの日記&lt;/em&gt; で必要以上に褒めたり皮肉を込めたりするとコメントが荒れるから、単なる宣伝記事より表現に気を遣う部分は多かったりする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たまに「新しいワールドを作ったのでコラムで取り上げてください！」なんてDMが届くけど、そういう出会い方をすると、いくら面白そうなワールドでも記事にはできなくなってしまう。下手な立ち回りで宣伝に使われたりしてステマがどうのと騒がれるのは癪だし、同じような宣伝依頼が増えるのが目に見えているからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、そこから正式な執筆依頼に繋がることは滅多になく、ほとんどは「紹介という体でどうにか無料で……」なんて無茶な主張の一点張りに持ち込まれるので性質が悪い。現に承認待ちのメッセージリストはその手のスパムで埋め尽くされていて、まともな仕事の依頼を探し出すのに苦労していた。そういう時は、たいてい自動応答モードに切り替えて適当なボットに返信を任せている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;統合チャットアプリを立ち上げると、今日も既に数十件の未読通知が上に並んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;清流のせせらぎに包まれたり、だだっ広い草原で風の音を楽しむリラックス自然系のワールド――細かな工夫に手間をかけていそうだけど、紹介できるほどの特徴はなさそう。記念撮影によるバズを狙った個性的なランドマークを中心に据えた名所系ワールド――それ、私が文章で紹介する必要ある？　……と、添付されたリンクも見ずに自動応答モードにスワイプしていると、不思議なメッセージが目に留まった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『ララさん。どうか彼女を救ってくださいませんか』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『外に連れ出してくださるだけでよいのです。それで全てが回り始めます』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『本物の光を見せてあげたいのです』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;途中まで読んでから、こんな単純な手口にまんまと引っかかってしまった自分に嫌気が差す。まるで勇者に世界を救ってほしいと告げる神官のようなセリフの数々。先を見ずとも、謎解き系でストーリー強めのワールドを紹介するための導入なのは明らかだった。こういう宣伝手法も最近増えてきたな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうスクリーニングAIに初期対応から任せてしまおうかと思ったものの、ニコラにバレたら「プライバシーとセキュリティ」に関する七十時間程度の講義を勧められて、また面倒なことになる気がした。彼女は些細なプライベートの一部でさえ、暗号化せずにクラウドに送るのを極端に嫌っていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「彼女を救って、って……ゲームはゲームでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『これはゲームではありません』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『時間がないのです。早くしなければこのワールドは閉じてしまいます』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「呆れた。深夜の通販番組じゃないんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こちらの反応を見透かしたような構成にまた腹が立つ。何もしないままワールドが閉じたからって、それは「彼女」を救えなかったことにはならない。ワールドを複製すれば囚われの姫はそれだけ増えるし、逆にワールドが消えれば姫は初めから一人もいなかったと主張することさえできる。自由に作ったり壊したりできないなら、それは現実世界と変わらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの手この手で私の気を引いてまでプレイして欲しいゲームなら、さぞ完成度が高くて完璧な仕上がりなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に面白かったら、紹介でも宣伝でもしてやろうじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わざと目を引くように練られたメッセージにまんまと反応したのは私が悪い。だから敬意を表して、しっかり &lt;em&gt;批評&lt;/em&gt; してあげた方がいい。末尾に添付されていたリンクは見慣れない文字列で、おそらく海外のマイナーサービスか、セルフホストのサーバのもののようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ワールドのプレビューを開いてみると、生活感のある薄暗い部屋を背景に、ピンク色のパジャマを着た小学生くらいの少女の後ろ姿が映り込んでいた。体育座りで膝を抱えて、いかにも不穏そうな雰囲気を放っている。綺麗な金髪はこういったモデルにはありがちで、この子が &lt;em&gt;姫&lt;/em&gt; ということなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数枚のスクリーンショットはいずれも画質が不鮮明な上に、構図が練られているような様子もない。プレイ動画を一定間隔で切り取ったようなシーンばかりだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フレンド同士で集まったり知らない人同士で交流を楽しめるように作られているワールドが多い中で、人数制限が一人に絞られているのも特徴的だった。ワールドの複製も制限されているから、並列で楽しむことさえできない。一人で楽しむための特別な設計が施されているか、サービス側のリソースが複数人を参加させるレベルにないか、といったところだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう未審査のワールドでは、プレビューからは予想できないセーフティ&lt;sup id="fnref:safety"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:safety" title="意図しない音や光の効果、不快な演出などを事前にブロックするためのフィルタリングシステムのこと。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;が必要になるレベルの過激な表現を伴うことが多い。私はセーフティレベルを最大のX8にして、スプラッター映画にでも臨むような心地で何度か深呼吸をする。それから「ダイブ」にカーソルを合わせて、ゆっくりとトリガーした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;十秒ほどのトランジションの後に私が降り立ったのは、奥に部屋が続く細い廊下の中腹だった。振り向くと玄関が、左を見ると小さなシンクとコンロを備えたキッチンが目に入る。天井には簡素な照明器具が設置されているが、剥き出しの細長い蛍光灯には光が点っていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冷蔵庫、電子レンジ、ケトルと、ある程度の家電は並べられているが、棚には調理器具や食器が置かれている様子がなかった。細かいオブジェクトを大量に配置すると動作が重くなるし、探索の自由度を高めすぎてもユーザーが飽きるから意図的に減らしたのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、天井、キッチン、廊下の先……何度か向きを変えると、その度に小さな引っかかりを感じる。さらに周囲を確認しているうちに、視界全体に広がる違和感と不快感が身体全体を支配していくのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うぇ……これ、酔いそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;顔の向きを変える速度に、視界が全く追いつかない。右を向くと、一秒遅れて右へ。左を向くと、また遅れて左へ。レンダリングコストを全く無視したワールド特有のあの感じ。処理能力の限界を超えないようにゆっくり動けば &lt;em&gt;ずれ&lt;/em&gt; は減るものの、これでは周囲を見回したり何かに注目するのさえ億劫になってしまう。VR体験としては「最悪」の類のものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数多くのワールドに潜ってきた私でさえ、ここまでのスペックが要求されるものは見たことがなかった。制作者はよっぽど高価なデバイスでテストしたみたいだけど、こんなワールドを紹介したら私まで叩かれてしまう。グラフィック重視のハイエンド向けワールドは、廉価版しか持っていないネットの暇人には特に評判が悪いのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなワールドを記事にはできないし、久しぶりのVR酔いで最悪の気分だし、もう帰ってもいいかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「パ……パパ？　大丈夫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、クイックメニューを開いてホームに戻ろうとしたところ、廊下の奥からこちらの様子を窺うような細々とした声が聞こえた。音のする方向にゆっくり視界を向けて注目したものの、ネームプレートはおろかユーザーランクを示すステータスカラーすら確認できない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、ここは一人用のワールドなのだから他のプレイヤーがいるわけがない。声の印象から察するに、さっきプレビューに映っていた体育座りの少女のものだろう。素人っぽさを残しつつ、きちんと小学生っぽさを主張する生々しい演技だ。ふと「これはゲームではありません」という紹介を思い出すほどの存在感があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、誰？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただのNPCなのは理解しつつ、まだ得体の知れない&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;野良ワールド&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;サイドロード&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の素性を探るように、おそるおそる少女に声をかける。謎解きゲームのキャラクターなら、ある程度の音声認識と世界観の説明くらいはこなせるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こちらの呼びかけに応じて、予想通り少女が歩み寄ってきた。明るく綺麗なストレートの金髪に、透き通った茶色の瞳、リアルさを残しつつ適度にデフォルメされている整った目鼻立ち。ピンク色のパジャマは光の反射がよく制御されていて、つやつやとしたシルクっぽい質感を示していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は先ほどよりも少し緊張が緩んだ様子で、しかし、私の問いには答えずさらに質問を続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イヴなの？　パパはお仕事に行った？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イヴというのは、本来ここにいるべき少女の家族か友達か――とにかく私ではない誰か――で、彼女が心を許せる相手なのだろう。しかし、そんな存在を私や&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;父親&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パパ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と間違えるだろうか。廊下の薄暗さが私の姿を隠しているつもりなのか、あるいは彼女以外は全員が同じデフォルトアバターに見える世界という設定なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目の前の少女はよく作り込まれたモデルで私を見上げて、じっと私の動きを観察している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、イヴじゃないわ。あなたの名前は？　私の声、聞こえてる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を「イヴ」と呼んだ少女にもう一度尋ねるも、彼女はきょとんとした表情で私を見つめるだけ。確かに私の声は聞こえているはずなのに、その内容を理解できずにいた。随分と出来が悪いAIだ。無料の会話AIだって、もう少しまともな反応を示すと思うけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少女は私を訝るように首を傾げると、垣間見せた「イヴ」への安心感を背中に隠すように、警戒した面持ちで一歩後ろへ下がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イヴじゃないの？　あなた、だれ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はララよ。あなたは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「パ、パ？　やっぱり、パパなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戸惑った少女の表情が晴れることはなく、このストレスフルな導入パートはもうしばらく続く様子だった。こちらの言葉が全く伝わらなくてじれったい。そんなに私の発音が悪いっていうの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、パパとララって全然違うじゃない。音が二つで、どちらも同じ母音で……いや、少しだけ似てるかもしれない。ままならない会話へのもどかしさでカッとしていたけど、音声認識で混同されやすい語ではあるだろう。それなら仕方ない、と先ほどよりゆっくり、そしてはっきりと少女に名前を告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ラ、イ、ラ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「パ……えーと、ア？　でもなくて……わかった、ライラね。ライラっていうのね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あぁ、やっと伝わった。名前を呼ばれるのがこんなに嬉しいなんて。本名から一文字抜いた「ララ」というハンドルネームはそれなりに気に入っていたけど、ゲームを進めるためなら別に本名でもいい。小さな達成感と共に大きく頷くと、少女は嬉しそうに飛び跳ねた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よかった！　ライラ、私のお家へようこそ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;名前を伝えるだけでこんなに苦労するとは、先の展開が思いやられる。それでも、このかわいらしい少女が私のアクションで表情豊かな反応を見せるとなかなか悪い気はしないし、ゲームデザインとしては練られている気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はアキラ。ここで一人で暮らしてるの。でも、パパとイヴがお世話してくれるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラ――ほんのり男の子っぽい元気な名前は、 &lt;em&gt;姫&lt;/em&gt; のおしゃまな振る舞いには少し似合わない気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、アキラは私を廊下の先にある部屋に案内してくれた。照明もなくほんのりと空間全体が光る薄暗い部屋にはなぜか窓がなく、パースのパラメータが誤っているのか四方を囲む壁が少し歪んで見える。ここが実は地下室だと言われても疑わないほどの強い閉塞感は、 &lt;em&gt;姫&lt;/em&gt; を閉じ込める牢獄としての舞台設定を十分に表現していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;床には毛布やタオルケットのようなテクスチャが雑然と広がり、それらの布の上にはいろいろな日用品が転がっていた。その中でも大事そうに置かれている灰色の丸いクッションは、彼女のお気に入りなのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふわふわで柔らかいでしょう？　生まれたときからずっと一緒なの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パパ、そしてイヴ。アキラをこの部屋から救うというストーリーを考えれば、彼女が「パパ」と呼ぶ存在が悪の親玉となるだろうか。イヴはアキラ専属のメイドか、あるいはママ――アダムと対をなすという意味で――を示しているのかもしれない。いずれにせよ、彼女をここから連れ出すための鍵になりそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラも、私のお世話してくれる？　私、あなたと遊びたいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上目遣いでそう尋ねる視線に、人間じみた不思議な魅力を感じながらゆっくりと頷くと、アキラは私の手を握って嬉しそうに微笑んだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;不思議なことに、アキラは音声認識以外の性能は最新のAIと遜色なかった。先ほどまで見せていた食事のモーションは実際のプレイヤーと区別が付かないほど精巧で、ジェスチャーから意図を察する機能にもミスや遅れがない。それらがむしろ音声認識よりも実装が難しい分野なのが不思議だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、親子丼って大好き！　ライラが作ってくれたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;首を振る。私は冷蔵庫にあった丼のオブジェクトをお盆に載せて運んだだけだ。まだ精巧な制御が必要な動作をこなせるほど、このワールドに慣れていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、きっとイヴが冷蔵庫に作り置きしてたのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、高性能AIのデモが続くばかりで、いつまで経っても謎も事件も起こらない。チュートリアルはとっくに終わっているはずなのに、アキラの遊び相手のようなパートだけが続いていた。いろいろなオブジェクトを持ち上げたり、棚や引き出しを開けてみても、逐一アキラの説明が始まるばかりで不審者もポルターガイストも気配さえ見せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまで来たら、ストーリー開始の糸口くらい見つけ出したいところだ。何か打開策はないだろうか……と辺りを見回しているうちに、薄暗い廊下とその先にある玄関に目が行った。このワールドを紹介していた &lt;em&gt;神官&lt;/em&gt; が「外に連れ出すだけでいい」と言っていたのを思い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだゲームは始まっていなかったってこと？　つまり、突然の来訪者――もちろん私のことだ――が保護者のいない隙を狙って外に連れ出すところから始まるストーリー……なんとも犯罪めいた感じはするが、プレイヤーが自発的に違法な行為を選び取るまでクリアできないゲームというのも、ある種個性があって魅力的かもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それなら、もうきっとワールド制作者がやきもきしている頃だろう。私はアキラの手を握って、立ち上がるように促した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、ライラ？　かけっこでもする？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今からあなたを外に連れて行くのよ、と言ってもその声はアキラに届かないだろう。私はアキラをできるだけ落ち着かせるために、彼女に目線の高さを合わせるように体をかがめて顔を寄せた。そして、アキラの両手を握って目を見ながら一歩ずつ後ずさりで玄関に向かっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めは私が何をするつもりか分からずにいたアキラは、廊下まで手を引かれたあたりでその意図に気付くと、慌てて私を止めようとする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お外はダメよ、ライラ。パパに怒られちゃうわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やはり悪役の「パパ」がここで出てくるわけだ。思った通りのキーワードを引き出せた満足感で、早くストーリーを進めたい気持ちがはやる。しかし、二人の矛盾する動きをワールドの物理演算が上手く解決できなかったのか、アキラに引かれた視界が私の後ろに残って動かない。それでもさらに構わず彼女の手を引くと、今度は逆に視界がぶれて前に飛んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラ！　ねぇ、ライラったら……本当に行くの？　私、知らないからね。ライラが勝手に私を連れていったのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラが私を止めようと引っ張る腕の力が弱くなる。私の力には勝てないと思ったのか、それとも、外に出る理由が欲しいだけなのか。いずれにしても、強気だったアキラが抵抗をやめる瞬間、背中にぞくりとした不快な興奮が走るのを感じた。あぁ、私がこの子を救うんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;玄関のドアノブに手を掛けると、カチャンという軽やかな手応えが耳に伝わる。これが正しい選択肢でしょ？という確信と共に一歩前に進むと、急にドン、と不可視の存在にぶつかるのを感じて身体が止まった。いや、私の身体は動いているけれど、また視界が一歩分後ろに残ったまま進まないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩く速度には気を付けていたつもりだけど、この絶好のタイミングで通信エラーか……と、キャリブレーションのためにぐるりと周囲を見回すと、私が手を引いていたはずの少女の姿はなく――その瞬間、アキラの身体が廊下の端まで吹き飛ばされ、部屋の扉に背中を強く打ち付けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「パパ、ごめんなさい！　ごめんなさい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目に見えない強い力に薙ぎ払われ、放物線を描いて床に転がったアキラは、すぐに起き上がって身を守るように小さくうずくまった。そして、うわ言のように「パパ」への許しを乞い始める。私はその悲痛な姿を前に、ゲームであることも忘れて思わず「アキラ、どうしたの？　アキラ！」と叫んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の声にならない声は震える彼女に届いていたようで、ハッと顔を上げた泣き顔のアキラと目が合う。でも、動けない。もう足が動かない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラ！　ライラ、私を助けて！　あ、あぁ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう私の名前を呼ぶアキラの悲痛な叫び声と共に、どこからともなく「おい！　お前、イヴじゃないな！」という男の怒鳴り声が聞こえたかと思うと……&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;信号喪失&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ロスト&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;。強制的にホーム画面に戻されて、そのままアキラのワールドは閉じてしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急な静けさの中、私はしばらくの間動けずにいた。見慣れたホーム画面の天井を見つめているうちに、だんだんとVR酔いが覚めていく。私の身体がここにあるという、確かに地面を踏みしめている感覚が戻ってきた。しかし、目の前で繰り広げられたあの強烈な場面は、目に見えない存在への恐怖と共にまだしっかりと思い出せる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヘッドセットを外すと、いつもの部屋に横たわる自分の身体に意識が重なってはっきりしていく。視界の端で光るテレウィンドウには、私の言葉を拾ってどうにか組み上げたらしい壊れたテクスチャだらけの薄暗い廊下が表示されていた。真っ暗で何も見えない向こう側から、またあの怒鳴り声が聞こえるのを想像して、ぶるりと身が震える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまでが体験版ってことなのかしら。ジャンルは謎解きというよりホラーだろう。いつになくリアルな空気だった。単にグラフィックを精細美麗にするだけでは決して得られることのない、限りなく日常に近い不調和と狂気。足を一歩進めることさえ躊躇う不気味さとほの暗さ。ひょっとすると、まだ発掘されていない天才が作った作品かもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは、本当にゲームなのか？　キャッチコピーを付けるならこんな感じだろうか。「キミに少女が救えるか」なんてのより、不穏さと不気味さを重視した方がページビューを稼げるはずだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、これ……本当に、ただのゲームなのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に助けを乞うアキラの声が、どうしても忘れられない。まるで、本当にずっとあの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;世界&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ワールド&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に閉じ込められていて、まだ私の助けを待っているような、後ろ髪引かれる妙な感覚だけが残っていた。そんなわけないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりあえず、初めに受け取ったメッセージには返信しておこう。どのように紹介してほしいのか、開発状況はどうなのか……そもそも、シナリオのモデルは法的に問題ないものか。聞きたいことはたくさんあった。本当なら早く続きをプレイしたいところだけど、いったん顔を洗って落ち着くべきだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外のサインプレートを戻そうと思ってドアノブに手を掛けると、ちょうど私に用事があったらしいニコラと鉢合わせした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ライラ。外からの攻撃パケットがめっちゃ増えてるんだけど！　心当たりない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラは少し慌てた様子だった。どこかから攻撃を受けているらしい。しかし、私は数時間前から部屋にこもってずっとアキラ……そう、アキラと過ごしていただけで、スパムもウイルスも開いた覚えはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「攻撃パケット？　私、さっきまでワールドに潜ってただけで、別に何も……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今から証拠を集めて反撃を……って、ライラ、顔が真っ青だね。どうしたの？　柄にもなく、VR酔いでもした？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心配そうに覗き込むニコラの顔が近づいて、私は元気よと返すつもりで自分の両頬に手を当ててみる。しかし、私の顔は血の気を感じないほどに冷えていて、さらに手足は痺れるほどに凍えていた。あのリアルな光景に、現実とゲームの境界が曖昧になる感覚に自分が混乱していたことにやっと気付く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ニ、ニコラ……私、あのね、さっき、え、えっと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラが、イヴが、パパが――と、状況を整理しようとしても、あの光景が蘇って言葉が出ない。私の身に起きたことなど知らないきょとんとしたニコラの顔を見ているうちに、私はなぜかわんわんと声を上げて泣いていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから、私はワールドを宣伝する巧妙なメッセージを受け取ったこと、そのワールドでアキラという少女に出会ったこと、アキラが「パパ」と呼ぶ不可視の存在に吹き飛ばされたこと、そこでワールドが強制終了してしまったことについて、ニコラが&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;抗不安薬&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ジアゼピン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を持ち出してくる前になんとか話し終えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改めて身に降りかかった事件を振り返ると、まるでVRマニアがヘッドセットを着けたまま眠ったときの夢の話をしているようで、さっきまで目の前で起こっていたことのはずなのに現実味がない。いや、ほとんどは別の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;世界&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ワールド&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で起きていたことだけど、なんかこう……つまらないネットロアのアウトラインを書き起こしているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっとニコラも、この不気味で荒唐無稽な話に首を傾げるだろうと思ったものの、なぜか彼女は話を進めるごとに不機嫌そうな表情で小さく「やっぱり」「ありえない」と文句を言うばかりで、この話に疑問を示す様子もない。それどころか、私の話に割り込むようにテーブルに手のひらを打ち付けて、専門用語っぽい――私には理解できなかった――謎の語彙を交えて喚き始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――古くて単調なエクスプロイトを大量に送るだけ……どうせただの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;kiddie&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ガキ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のくせに、クソムカつく！　ライラをハメたってことじゃん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に私、騙されてないわ。ただ、ちょっとゲームをプレイしただけで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だってライラ、泣いてるじゃん！　泣かされた上に追い討ちで攻撃されるなんて、悔しくないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ゲームで泣くことだってあるわよ。私は心が動いたから泣いたの。だいたい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだニコラがこんなに怒っている理由も分からないまま、彼女の語気に合わせて私の口調まで強くなっていく。悪い流れだった。私にしぶとく残る不安な気持ちがそのままニコラへの敵対心に変わりそうなのを感じて、一度ゆっくり深呼吸をする。顔にも手足にも熱が戻ってきたのに、身体の奥深くがまだ落ち着かずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――ふぅ。そもそも、追い討ちってどういうことよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「外から攻撃を受けてるんだよ。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;内向きパケット&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インバウンド&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;がもうメチャクチャ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私のヘッドセットは壊れてないわ。インターネットも繋がってるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーもう、そうじゃなくて！　たぶんライラが接続したワールドと同じIPアドレスから、ウチの……私たちのネットワーク全体に攻撃が来てるの。きっと、初めからそのつもりだったんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;攻撃？　アキラのワールドから？　そんなわけない、と咄嗟に言い返しそうになったけど、最初に送られたDMが私を狙った標的型攻撃で、魅力的なワールドの紹介を装って私の居場所を特定しようとしていた――とすれば話は繋がる。しかし、誰がそんなことを。熱心な私のファンかサイバーストーカーか……口には出さないけれど、ニコラが味方でよかった、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなニコラは「あーほんとにムカつく！　私が誰だか分かってんの？」と、ぶつぶつ言いながらダイニングテーブルにディスプレイやキーボードの城塞を組み立て始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ケーブルなんて繋げなくてもインターネットは使えるし、ディスプレイやキーボードだってVR空間に自由に配置できるから、こうやって現実にデバイスがたくさん並んでいる光景はなかなか見慣れない。前にニコラにそんな話をしたことがあったけど、自分の視覚や聴覚を攻撃対象領域に置くなんてリスクが高すぎると言っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女を囲むディスプレイが一斉に青い壁紙の光を放つのに合わせて、ニコラがキーボードから短いコマンドをいくつか入力し始める。そして、彼女が「反撃」と表現する一連の作戦――おそらく実際は過剰防衛にあたるような――を開始した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラも飲む？　ちょっと長い夜になりそうだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラは冷蔵庫でよく冷えた黒い缶入りのエナジードリンクを取り出して、その半分ほどを喉に流し込むと、残りを勢いよく机に置いた。そして、この小さな缶から少しずつ栄養を摂取できるように、上から細いストローを投げ込む。私は最大処方の「黒缶」を飲むと気分が悪くなるから、もう一段階弱い「赤缶」を飲むことにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、私はニコラの作戦に協力できるようなスキルもない。なんとなくドリンクを飲んでみたはいいものの、私にできるのは寝ずに彼女を見守ることくらいだろう。向かい合わせになっていたダイニングチェアをニコラの側に移動して、彼女がディスプレイ上で展開していく作戦を眺め始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここからはニコラの説明をそのまま横流しにする。――今はダークネットで切り売りされたボットネットから攻撃を受けていて、実際の攻撃元が分からないので、適当な&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;犠牲者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ゾンビ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;からC&amp;amp;Cサーバーまで逆探知しようとしている。外から来たパケットはミラーして蓄積され、OSとバージョン、使われているコマンダーウイルスごとにリアルタイムで表示され、そこから反撃できそうな隙を見つける……らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は先ほどまで感情のままに恨み言を並べていたのと打って変わって、一言も発さず作業に集中している。素早い指さばきに合わせて響く小気味よい打鍵音に耳を集中させると、冷蔵庫の低い動作音やデバイスのファンが回る音までよく聞こえた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;静かな時間が流れている。ディスプレイに顔を近づけて青い光に照らされているニコラの様子を見ていると、改めて現実に戻ってきた安心感が奇妙な懐かしさと共にこみ上げてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ニコラ、あなたがいてくれて助かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私はいつも通り、自由にやってるだけだよ。悪いのはライラを騙したガキなんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラはこちらに顔を向けずにそう答える。彼女の視線に合わせてディスプレイに目を戻すと、白黒の解析ログが上から下へとめまぐるしく流れていくのに合わせて、攻撃の傾向がダッシュボードに表示されていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぐんぐん更新されていくカラフルなグラフはまだしも、ディスプレイで細かい文字を読むのは苦手だ。こういう物理ディスプレイで見るのはテレビ番組やアニメばかりだから、難しいニュースを延々流されているような気分になる。もちろんそれは優秀な睡眠導入剤として、私を曖昧で隙だらけの世界に誘っていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、ニコラがいなかったら、私死んじゃってたかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それはさっきのVRの話でしょ。まだ混乱してるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわ。私がワールドから戻ってきたとき、ニコラを見てここが私の家だって思ったの。だから、私――」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ホームカメラ、繋がった！　さて、ライラを騙したのはどんな変態かな……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次に私が目を開けたのは、ニコラがそう叫んで嬉しそうに両手を挙げる瞬間だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;古いOSのバージョンと脆弱性の話を聞いていたところまでは、なんとか覚えている。そこから、ニコラと何を話したんだっけ。テーブルから身体を起こした私は、ディスプレイに表示された攻撃元のグラフがすっかり落ち着いているのに気付き、それから私がかなり長い時間眠っていたことに思い至った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うーっ。ニコラ、ごめん。寝ちゃってた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ライラ。 &lt;em&gt;敵&lt;/em&gt; の本拠地に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;無防備なライブカメラ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インセカム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が置かれてるのを見つけたよ。何か手がかりになるかも。古すぎるゾンビが混ざってて、あとはやるだけだったっていうか――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラは私が眠っていたことは既に気にしていない様子で、見えない敵に反撃を食らわせた興奮を丸ごと伝えようと、早口に身振り手振りで大忙しだ。私もどうにかそれに応えようと、眠い目を擦りながらその映像に視線を向けた。ディスプレイにはわずかにブロックノイズの乗ったいかにもウェブカメラっぽい映像が流れていて、サーバールームやオフィスのような空間ではなく、目の前で誰かが生活を送っている住居だと分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼんやりした頭で部屋の中を一つ一つ確認していくと、布団や毛布が広がる床、その上に捨てられた日用品――その瞬間、私の意識を押さえ込んでいたしぶとい眠気はすっかり吹き飛んでいった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ニコラ！　私、さっきここにいたわ！　見て、この灰色のクッション。同じ物がアキラの部屋にもあったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラが愛用していたもこもこの丸いクッションに、確かに見覚えがあったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、地下室のような閉塞感を放っていたはずの壁には、なぜか森の中に建つシンデレラ城を映したテレウィンドウらしきデバイスが設置されている。設定が狂って歪んでいるように見えた壁は、今思えば見慣れたAIディスプレイの曲率とぴったり同じだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、カメラの真ん中に映っているのは、サイズの合わない毛玉だらけのパジャマでのろのろと布団を這う――アキラと同い年くらいの――傷だらけの女の子だ。顔には殴られたようなあざができていて、パジャマにも血がにじんでいるように見える。きっと布で隠された腕や脚にも、たくさんの傷が残っているだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、この子はアキラと全然違う。パジャマはもっと新しかったし、髪ももっと明るくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何より、こんなにみすぼらしくなかった。そう口にするのはなぜか憚られた。髪はところどころ色が脱け落ち、黒と金のバイカラーと表現すれば聞こえはいいが、単にカラー剤が上手く塗れていないだけだ。元はもっと綺麗な黒髪だったのだろう。もちろん、メタ世界上のアバターは現実世界の姿を反映するものではないけれど、まるで生き別れた双子の姫と孤児を見ているようで心が痛い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;画面の向こうの &lt;em&gt;アキラ&lt;/em&gt; は、どんな気持ちであのアバターを着ていたのだろう。この髪は、 &lt;em&gt;アキラ&lt;/em&gt; 自身が染めたのだろうか。もし、そうだとしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、ここを攻撃したのは、ハッキングが大好きな天才女子小学生ってこと？　随分やつれてるみたいだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも……アキラ、助けてって言ってた。きっと、アキラの『パパ』が仕返しに来たのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『パパ』って、この子を吹き飛ばした &lt;em&gt;ゴースト&lt;/em&gt; だよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだ。あの時、アキラの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;父親&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パパ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;はあのワールドに存在していなかった。しかし、アキラの世界には確かに「パパ」がいた。そして、今も「パパ」に怯えながら過ごしていることだろう。もし、あの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;世界&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ワールド&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が現実を縫い付けた単なるスクリーンだとしたら。アキラの世界と私の世界が偶然重なっていただけだとしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、この子はアキラよ。私が見ていたのは、ずっと現実だったんだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現実世界の動きをメタ世界に映す手段はいくらでもある。私のように専用の定点カメラで動きを追跡したり、あるいは全身に慣性センサーを装着して、アバターの動作として出力すればいいだけだ。現実のアキラが吹き飛ばされる動きさえも精巧に反映していたのだとしたら、あの見えない力の説明もつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、まだ少しの疑問が残る。私が開けた引き出し、アキラに渡した飲み物や食べ物は、現実世界ではどう映っていたのだろう。彼女はずっと私とメタ世界で &lt;em&gt;おままごと&lt;/em&gt; をしていて、お腹が空いたまま私と遊んでいたのか。それにしては、アキラの反応はあまりにも自然で素直なものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いずれにせよ、アキラはまともな状況に置かれていないはずだ。彼女のような小学生がヘッドセットを装着し続けるのは大きな負担になるだろうし、そもそもあれほどの暴力を振るわれている状態なのは言うまでもない。それに、彼女は確かに「ライラ、私を助けて」と言った。あの地獄から、救ってと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ニコラ。私、アキラを助けに行きたい。ニコラだって、やられっぱなしじゃ嫌でしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は別に、この映像で脅してモネロ&lt;sup id="fnref:monero"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:monero" title="本人以外が保有額や取引履歴を追跡できない匿名性の高い暗号資産のひとつ。"&gt;4&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;でも巻き上げればスッキリするんだけど……まぁ、いいか。協力するよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし「パパ」が本当にアキラの父親なら、私たちは堂々と未成年者の誘拐計画を立てる犯罪者だ。それでも、あんな野良猫の巣みたいな場所に閉じ込められて、手ひどい虐待を受けるアキラを放っておくことはできなかった。彼女を見て見ぬ振りすることの方が、何か重大な罪に問われるような心地がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分の正義のためなら犯罪も厭わないなんて、ニコラと過ごすうちに私も変わってきたのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ありがとう、ニコラ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、ニコラが共犯になってくれるなら別にいいかな、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私はすぐにでもアキラを助けに行きたかったけど、住所の解析と作戦の準備に二日はかかるというニコラの主張を尊重して……というよりはむしろ、彼女の情報がなければ目的地さえ分からないので、アキラの身の安全を願いながら待つしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、作戦当日。ニコラが「作戦」のために借りたという黒い小さなSUVには、トランクはもちろん後部座席まで大量の荷物が積まれていた。その多くはニコラの持っているデバイス――ディスプレイ、サーバー、その他ネットワーク機器、ケーブル類――で、彼女がここに越してきたときと同じように毛布で丁寧に保護され、小さなサプライ品はまとめてプラ製の収納ボックスに詰められている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;レンタカーなんて借りるお金がどこから出てきたのかと尋ねてみたら、先日の調査で踏み台にしたボットネットの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;犠牲者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ゾンビ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;から盗み取った暗号資産を活用したらしい。つくづく抜け目のない天才エンジニアだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラの主張によれば、トレース――彼女がしたような攻撃元を分析する活動に成功しているなら、向こうも私たちの居場所を知っているかもしれないという。おちおち部屋にいれば身体に直接的な脅威が、そうでなくても腹いせで盗難や損壊なりの被害を受ける危険性が高まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラに「無くなったら困るものは全部積んでおかなきゃ」と促されるまま、私もVR用のヘッドセットやセンサーを梱包してトランクの隅に積んでいた。もともと少なめの荷物で越してきた身だったから、一緒に載せた数日分の旅行セットも合わせると、なんだか行き先も無計画な引っ越しを始めたような気分になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「準備できたわ、ニコラ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、そろそろ出発するね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;帰宅ラッシュのピークを過ぎる頃、私たちは目立たないように家を離れた。服装は夜に紛れる黒を基調としつつ、怪しい忍者のような黒装束には見えないギリギリのラインを保つ。それでも、ニコラと並んでポーズを決めるといかにも闇を駆ける悪役コンビのようで、姿見の前で思わず緊張が解けて二人でしばらく笑い合っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラの運転で幹線道路を北へ。目的地まではたっぷり四時間ほどかかるらしい。途中で運転を交代しながら進むことになりそうだ。『パパ』がいない隙を突いて侵入する必要があるから、あまり悠長に休憩している暇はないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ライブカメラに映った部屋の間取りとテレウィンドウを手がかりに分析を進めたところ、アキラの部屋は私たちと同じような&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の一画にあることが分かった。航空写真を見ると、住宅街の真ん中で周囲を押しのけるように不自然な位置に建っているのも、うちとよく似ている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなユニークな形の住宅が全国にいくつもあるなんて私は知らなかったけど、ニコラはIPアドレスからおおよその地域が分かった途端にこの場所を候補に挙げていた。家賃と電気代の安さのおかげで、エンジニア界隈では有名な建築スタイルなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;アキラの住む&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に到着したのは、予定時刻を少し過ぎた午前二時あたりだった。辺りは真っ暗で、家の窓から漏れる灯りも道を通る人もない。今の私たちが注目すべきなのは数十メートルおきに設置された街灯くらいだけど、そちらも申し訳程度に足元をほのかに照らすだけで、やはり警戒する必要はなさそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;近くの団地の駐車場に車を停めて、そこからアキラの部屋に向かう。たくさんの人が集まる場所なら、誰かに見られても記憶に残りにくいらしい。木を隠すなら森の中、といったところか。駐車場を出て、右、左、もう一度右へ。地方都市の郊外にある住宅街の夜はただ静かで、ここには誰も住んでいないのかもしれないという錯覚すら覚える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう住宅内に踏み台は置いてあるから、『パパ』さえ来なければ首尾よく進むはず」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;足音を抑えて私の先を歩いていたニコラが、立ち止まってそう小声で告げながら前を指差す。彼女はこちらを見ていなかったけど、自分に言い聞かせるように力強く頷いた。目的地の建物は私たちにとっては見慣れた大きな円盤型で、既に作戦を首尾よく終えて帰宅の途についているような錯覚さえ覚える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;事前に確認した航空写真を見ても、やはり中心に銀色のドームが嵌まっていた。エントランスのセキュリティモジュールも、私たちの住宅と全く同じ型番らしい。同時期に、同じ計画の下で建てられたことを示しているのか。それにしては場所が離れすぎている気がするものの、これがこの二棟だけではなく北から南まで全国に広がる光景なら、少しは納得がいくかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わざわざ家賃を下げざるを得ない個性的な間取りにこだわる理由はよく分からないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラはバックドアを経由してものの数秒でロックを解除すると、ついでに監視カメラの映像記録を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;遅延&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ディレイ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;させる。今から三十分ほどの映像を私たちが侵入する前のものに置き換えて、機械的な異常検知をすり抜けるという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここにアキラがいるんだよね。早く助けないと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、アキラちゃんが本当にライラと話していたのかは、まだ分からないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……アキラの存在自体が罠かもしれないってこと？　今さらそんなこと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当のアキラを見つける前に可能性の一つとして想定していた、ワールド自体が撒き餌の標的型攻撃という仮説。弱々しいアキラの姿を見てからはすっかり忘れていた考えだけど、例えば侵入を見越して偽の監視カメラを設置していたなら……私たちは敵の思惑通りに罠に飛び込んでいることになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がどうしてもアキラを助けたいという気持ちはニコラも分かっているはずで、しかしアキラ自体が虚構なら、この気持ちが向かうべき場所はなくなってしまう。私にも自信を持ってアキラの存在を主張できるほどの根拠はなかった。それを認めるのが怖くて、ひたすら前に進もうとしていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――でも、うん。最悪の事態は想定しなきゃね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周囲を確認しながら廊下を進む。今は侵入者を捕捉できないだろう監視カメラの位置と角度は、私たちから見れば薄暗い視界の中でもよく分かった。もちろん、ここに「イーグル」はいない。全く知らない場所の見慣れた景色の一つ一つを見ていると、まるで異世界を訪ね歩いているようで不思議な気持ちになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;隅々から伝わる見知らぬ雰囲気が、私の身体を冷たくした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この部屋だね。ここから先は、ライラがお願い」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、大丈夫。打ち合わせたとおり、ちゃんとできるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;階段をいくつか上ってさらに半周ほど。バックドアからの数秒のロック解除に合わせてこの扉を開ければ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;父親&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パパ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;からの慢性的な虐待で感覚が過敏になっているアキラだけが目を覚ますはず。それなら、仮に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;父親&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パパ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が部屋の様子を監視していたとしても、気付かれないように静かにアキラを連れ出せるはずだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラの操作を待つほんの十秒ほどの沈黙が、数分にも数時間にも感じられる。その緊張に耐えかねて「ねぇ」「うん」と短いやり取りを交わした瞬間に、わずかな電子音と共にロックが外された。すかさずカチャン、というドアノブを回す音を響かせて、部屋の中を覗き見る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;予定通り、少し遅れて中の住人から反応が返ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だ、だれ……？　イヴ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アキラ、私よ。ライラよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラ……ライラなの？　本当に、来てくれたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ゆっくりと廊下から出てきた少女は、先日ライブカメラに映っていた &lt;em&gt;本物の&lt;/em&gt; アキラだった。古びて汚れたパジャマに身を包む小さな女の子。胸にあの古びた灰色のクッションを抱えている。顔には大きなあざが残り、髪はところどころ無理やり金色に染められて痛々しい。それでも、確かにあのワールドで見たアキラと同じ子だと直感で分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「助けに来たわ。一緒に外へ行きましょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ラ、ライラ……でも、私……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラは私が差し出した手をじっ、と見るばかりで一歩も前に進めずにいた。ワールドにいたときと同じように渋るアキラの手を握ると、すべすべで柔らかいあたたかさが伝わってくる。冷たくて少し震える私の手には熱いくらい。私が助ける側のはずなのに、直接触れるその熱に勇気づけられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今なら、きっといける。そのまま彼女の手を引こうとすると、突然廊下の奥の暗闇から野太い声が響いてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おい、お前ら！　何をしてる！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思わず身体が震える。すぐに分かった。この声は「パパ」のものだ。あの日と同じ。アキラを薙ぎ払った姿が見えない存在。判別の付かない怒鳴り声と共に廊下の奥からドスドスと乱暴な足音が聞こえて、あぁ、この世界では肉体があるんだ……と目の前の緊急事態には似合わない発見に一瞬思考を奪われたものの、慌てて首を振ってもう一度状況を確かめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ニコラ、『パパ』は今部屋にいなかったんじゃ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよ……そうだったはず。カメラの映像にはいなかった！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お前らが見ていたのは、俺がいない昨日の映像さ。こんな簡単なトリックも使えないと思ったのか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、罠だった。ここに「パパ」がいるのはまずい。警察に通報されればもう逃げられないし、私たちには彼に抵抗できるほどの力もなかった。とにかく、直接対峙することはないように計画していたはずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラは小声で「ここはいったん退こう」と一歩後ろに下がった。確かに、私たちだけではどうしようもない。無茶な特攻で捕まってしまえば、アキラを助ける機会は二度となくなってしまう。今逃げておかなければ、彼女はまた、現実世界とメタ世界の境界で「パパ」に閉じ込められて長い時間を過ごすのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仕方ない……と、アキラに差し伸べようとしていた手を退いて逃げだそうとした、その時。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……お、おい！　なんだ！　離せ、イヴ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;声が後ろへ遠ざかり、不規則に壁や床にごつごつと何かがぶつかる音が響く。「パパ」と、もう一人誰か――イヴ、そうだ、イヴと呼ばれていた。「パパ」と「イヴ」の二人がもみ合いになって、暗闇の中で攻防を続けている。大きな家具に身体がぶつかったのか、あるいは椅子でも振り回して応戦しているのか、素手で殴り合うには低く鈍い音が繰り返し聞こえてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、やがて二人は倒れ込んでテレディスプレイにぶつかったらしく、ガチャンとガラスが割れる大きな音が響いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何が起きたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かんない。カメラは古い映像だし。でも……これはマズいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから一瞬の沈黙が流れた後、部屋の奥から急に青白い光が漏れ出てくる。初めはまるで強い光を放つスライムのような液体が染み出て空間を照らしていたけれど、今度はそこからレーザーのような鋭い光を不規則に飛ばしながらどんどん床を覆っていく。このまま人や獣の姿に形を変えて立ち上がるのではないかと思えるほどに、奇妙で神秘的な光景だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分の部屋でニコラと取っ組み合いのケンカなんてしたことがなかったし、窓に物をぶつけたことさえ一度もない。そもそも、ちょっとした衝撃で割れるような素材ではなかったはずだ。あの分厚い保護ガラスの向こうには、こんな珍しい新素材が詰まっていたなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラもさぞテレディスプレイの液晶材料の素性が気になっているだろう……と思いながら彼女を見やると、青い光に照らされた顔がみるみる強ばっていくのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごくきれい……これが、 &lt;em&gt;外&lt;/em&gt; の光なの……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……やっぱり、マズい！　ライラ、急いで離れて！　アキラちゃんも！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう叫んだニコラは私たちの答えを待たずに、廊下を走って最寄りの階段を転げ落ちるように降りていく。走っている間も「早く！」「急いで！」と叫んでいるあたり、よほどの緊急事態なのが分かる。私はアキラの顔を見て頷くと、彼女は「分かったわ！」と言って私の手を握った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;廊下が青白くて冷たい光に包まれていくのを背中で感じる。このスライムの正体は分からないけど、どうやら安全な物質ではないらしい。アキラがこの光に触れないように、手の中で脈打つ熱を奪われないように、私は一心不乱にアキラの手を引いて前に進んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラに遅れて十秒ほど。エントランスを飛び出した私たちの後ろを指差すニコラに合わせて振り向くと、住宅全体がアキラの部屋で見た青白いスライムに包まれている。空間を切り裂くような鋭い光はだんだん強くなり、ついに視認できないほどの光量になったかと思うと、ドカンッと大きな音を立てて弾け飛んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ラ、ライラ……私のおうち、どこへいったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラはどうにか不安を抑えようと、胸に抱えた大事なクッションを強く抱きしめていた。走っている間もどうにか手放さずに済んだらしい。まるで火事から逃げてきたような状況だけど、目の前にはもはや残骸の欠片さえ残っていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分からないわ。でも、私たちは何も……ね、ねぇ、ニコラ。何がどうなってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最悪。あの &lt;em&gt;ゴースト&lt;/em&gt; 、全部引っかき回して消滅しちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、「パパ」もろとも跡形もなく姿を消した。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私たちは、激しい音と光のせいで衆目を集めつつあった事故現場からとにかく離れるために、できるだけ目立たない山道ルートで車を進めた。途中で何台か峠越えする車とすれ違ったけど、助手席で対向車に集中する私でさえ、もうどんな車種が走っていたかほとんど思い出せない。きっと向こうもそうだろうと祈る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニコラの計画によれば、「パパ」に見つかってしまったときのプランB、そして住宅が爆発に巻き込まれたときのプランCの準備があり、今は運悪くプランCを元に逃走ルートを確保しているらしい。爆発、というのは正体不明のスライムが建物を飲み込んで弾け飛んだあの現象を指しているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、ニコラは既にこの爆発について計画に組み込むレベルで把握していたということになる。しかし、いくら用意周到なニコラでも、これほどの威力を持つ爆弾を個人で用意できるとは思えない。それに、大量の光と音を放って建物を丸ごと消し去るなんて、隠密に進める作戦のバックアップとしては大ざっぱすぎるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、それは「パパ」自身にも同じことが言える。こんな大がかりな装置は準備できないだろうし、自身を犠牲にしてまで反撃する意味もない。つまり、これは誰の制御下にもなかった不運な事故だったというわけか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっとの思いで連れ出したアキラは、その小さな身体を後部座席の荷物の隙間に収めて静かに寝息を立てている。今警察に見つかったらどうやっても言い逃れできないだろう。出発直後は珍しそうに外を眺めて、たまに出てくるコンビニやファミレスの光を愛おしそうに見つめていたけど、暗い山道に入ってからは退屈したのかいつの間にか眠っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まだ検問は張られてないみたい。報道の火消しを優先してるっぽいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周囲の状況を確認しながら慎重に進むニコラ。どんなピンチでも落ち着き払って作戦を進める彼女の冷静さには、ここまでずっと助けられてきた。しかし、私たちにも馴染みのある&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;があんなに簡単に吹き飛ぶのを見て全く動揺しないのは、本当に彼女がただ冷静だったおかげなのだろうか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、ニコラ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　帰り道のナビはもう送ってあるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうじゃなくて。あの爆発、いったいなんだったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラを起こさないように小声でニコラを問い詰める。彼女は「えーとね……」と、煮え切らない様子でしばらく考え込んでいたけど、道路沿いに現れた展望台を兼ねた無料駐車場を見つけると、迷わず車を停めてエンジンを切った。そして、とうとうこちらに視線を向けて重い口を開く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ライラ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円形集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の家賃が安い理由、覚えてる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急にどうしたのよ。壁が曲がってて、窓がない特殊な部屋だからじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラ。壁や窓がちょっと変ってだけで、こんなに安くはならないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を聞いたニコラは、ここぞとばかりに大きなため息をつく。間取りが家賃には関係ない、ですって？　あの物件の紹介を受けたときは、特殊な間取りで人気がないから値引きしているんです、と確かに言っていたはずだ。その説明はニコラも聞いていたはずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どういう意味よ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;には根本的な欠陥があるの。知ってて選んだんじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「欠陥って？　私、何も聞いてないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「物件屋は嘘つきだからねぇ。ライラも自分でちゃんと調べなきゃ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、彼女は淡々と&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の欠陥について話し始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが &lt;em&gt;中庭&lt;/em&gt; と呼んでいた場所は、もともと地下に謎の超高エネルギー物質が滞留する特殊なエリアだったらしい。この物質は光を放つスライムのような姿で、放っておくとあらゆる物体を包んで爆発させてしまう危険性があった。宅地開発を進める開発業者が運悪くその鉱脈を掘り当ててしまったことで、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;建築計画が立ち上がったという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このエネルギー物質は、物体を完全に包まない限りは決して爆発しない性質があった。つまり、内壁がなめらかで十分に頑丈なタンクに閉じ込めておけば、投入する小球核の量で出力を制御しつつ、ほぼ無限にエネルギーを取り出せるらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「金属のシールドに包んで、その外側にテレウィンドウを貼り付けたら、エネルギー湧き放題で &lt;em&gt;安心安全な&lt;/em&gt; タンクのできあがり。爆発と隣り合わせだから家賃は安いし、電気だって自給自足。まさに夢のクリーンハウスって感じ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;要するに、地価の高い住宅街のど真ん中を活用しないのは割に合わないから、住居と防火壁を兼ねた緩衝地帯を作って少しでも収入を得ようとしたわけだ。なんて悪魔のような発想だろう。そんな部屋に説明もなく私を……そして、アキラのような少女を住まわせるなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、爆発と隣り合わせと言っても、これまで&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;円環集合住宅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アニュラス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の居住者を巻き込んだ大きな事故に繋がったことはなかった。テレウィンドウは分厚い強化ガラスで覆われているし、弁償のリスクを負ってまで高価な大型ディスプレイを壊そうとする人もいない。そういう心理的効果でタンクから危険を遠ざけてきたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、テレウィンドウを破って、シールドにほんの少しだけ傷を付ければ簡単にその &lt;em&gt;夢&lt;/em&gt; は崩れちゃう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テレウィンドウを突き抜けるような衝撃を起こせば、圧力の均衡が崩れて飛び出したスライムがあらゆる物体を包んで大爆発してしまう。先ほど私たちが目の当たりにしたのは、防火壁――アキラの住居でもあった――がその役割を果たした瞬間というわけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ライラ。と……ニコラ、さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、ニコラの声で目を覚ましてしまったのか、アキラが眠そうな声で私たちの名前を呼んだ。車はまだ駐車場から動いていない。もう少しで山を越えて、隣町の中心地に差し掛かろうとしていた。もしかしたら、目の前でわずかに光を放つ市街地の夜景に反応したのかもしれない。明日からはこんな時間に起こさないようにしないと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、アキラ？　ごめんね、うるさかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うの。ライラは……ずっとこんな暗い場所に住んでるの？　パパが、外はずっと真っ暗で怖い場所だって言ってたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思わずニコラと顔を見合わせる。アキラはこれまで外に出たことはおろか、太陽の光を見たこともないらしい。彼女はこの世界に来る朝さえ知らずに、ずっとあの小さな部屋に閉じ込められて生きてきたというのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭によぎったのは、やはりずっと単なるゲームの設定だと思っていた &lt;em&gt;神官&lt;/em&gt; の依頼のことだ。アキラを救って外に連れ出してほしい。光を見せてほしい。これはワールドにいたあの &lt;em&gt;姫&lt;/em&gt; ではなく、小さな身体で大きな負担を受け続けてきたアキラ自身のための言葉だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ちゃんとこの世界にも朝が来るわ。本物の光を見せてあげるから、待っててね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなのね！　うれしい……でも、それなら、イヴにも見せてあげたかったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イヴって、アキラの家にいたお手伝いさん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうよ。とっても優秀なロボットだったの。さっきもパパが乱暴しないように、押さえていたのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イヴが、ロボット？　てっきり、「パパ」が雇った人間のメイドか何かだと思っていた。しかし、イヴが自律して動くロボットだとしたら、大の男を制圧するほどの力があるのも納得がいく。おそらく「パパ」の隙を突いてアキラが外に抜け出さないよう昼夜問わず監視して、異常を知らせるよう設定されていたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、なぜか誤動作を起こして「パパ」を拘束、バランスを崩してテレウィンドウを……いや、あれは誤動作なんかじゃない！　彼女は私と同じ気持ちだったんだ。ずっと心を痛めていたに違いない。あの日、虐待を受けるアキラを見て自分に任された仕事に疑問を持った&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;神官&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;イヴ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が、彼女に「本物の光を見せてあげたい」と願って自分の身体を私に預けてくれたんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、アキラちゃん。イヴなんだけど、AIのデータならたぶんクラウドに――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私、イヴがいなくなっても寂しくないわ。だって、ライラが来てくれたんだもの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アキラが後部座席から身を乗り出して、ニコラを遮る大きな声で私たちの間に飛び込んだ。彼女はこちらをじっと見つめてから、ぐいと私の手を取る。アキラの手は小さくて、あたたかくて、すべすべだ。幼さを隠せない小さくて頼りない手なのに、今なら私をどこまでも引っ張っていってくれそうな気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ライラってね、おててが柔らかくって、ひんやりしてるのよ。声もかわいくってすてき！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ライラ、すごく愛されてるみたいだね。ルームシェアは今日でおしまい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「冗談やめてよ。私、あなたとの暮らしを結構気に入っているんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、ライラと過ごす時間がすごく楽しいよ。アキラちゃんも、きっとすぐ馴染むね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、ニコラはそろそろ出発の時間だね、と言ってこの先の移動ルートを設定し始めた。初めての朝が待ち遠しいアキラは、朝日まで起きていられるだろうか。彼女の小さな身体をやさしく包む太陽の光に、その熱に、きっと彼女はびっくりするだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車が走り出す。綺麗な星々を散りばめた夜空が、ずっと向こうの山際から瑠璃色に染まっていく。夜明けはもうすぐだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/8039"&gt;百合SS Advent Calendar 2022&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:salmon"&gt;
&lt;p&gt;「サーモン」および「プチプチ」は、カルチュアド・クロレラ・カンパニーが製造する食品類の登録商標であり、特定の生物種を指す語ではない。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:salmon" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:window"&gt;
&lt;p&gt;本来、居室には床面積の七分の一以上の窓が必要だが、例外として十分な有効光量を持つ光源に置き換えることが認められている。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:window" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:safety"&gt;
&lt;p&gt;意図しない音や光の効果、不快な演出などを事前にブロックするためのフィルタリングシステムのこと。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:safety" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:monero"&gt;
&lt;p&gt;本人以外が保有額や取引履歴を追跡できない匿名性の高い暗号資産のひとつ。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:monero" title="Jump back to footnote 4 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>えびせんパーティー</title><link href="https://ama.ne.jp/post/longxiapian/" rel="alternate"/><published>2021-12-10T20:21:00+09:00</published><updated>2021-12-10T20:21:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2021-12-10:/post/longxiapian/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ロン・シャー・ピエン&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「やっと終わりましたね。マキさんの部屋、荷物が多すぎます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ、ごめんね。でも、手伝ってくれてありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昼前までにすっかり荷物を運び出した私たちは、引っ越しの大きなトラックの音が聞こえなくなるまで、なんとなく外階段の踊り場から空を見上げていました。少しずつ冬が追い出されて、明るい空気が風に乗って流れてくるのが分かります。マキさんは、この寒さと一緒に街を去ってしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今から、えびせんパーティーにしない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は「えびせんですか？」と聞き返しました。えびせん、と聞いて私が思い浮かべたのは、でこぼこの模様の入った細長いスナック菓子か、小さい頃白鳥に投げて渡した大きなえび煎餅くらいです。マキさんは私の言葉を聞いて、バッグからしっかりとしたビニールのパックを取り出して私に手渡しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マキさんがゆっくりとしたリズムで「ロンシャーピエン」と呼んだつやつやした透明の袋には、赤いえびのイラストが描かれていて、透き通った薄くてまるいカラフルなチップスがたくさん入っています。赤、黄、緑……直径4～5センチメートルほどのつやのない &lt;em&gt;えびせん&lt;/em&gt; は、袋を揺らすと固そうな音を立ててぶつかりあい、まるで安いプラスチックのおもちゃの詰め合わせのように見えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の知っているさくさくのお菓子とはおよそ異なる重さと質感に、私は困惑していました。一枚だけ口に入れて奥歯でそっと噛んだら、きっと破片がいっぱい広がって、香ばしいえびの風味なんて楽しめないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、どうやって食べるんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「揚げるのよ。えびせんパーティーって、引っ越しの定番じゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マキさんが言うには、引っ越しですっかり片付いた家を出る前にたくさん揚げ物をする習慣があるらしく、中でもこのシャーピエンは縁起が良い食べ物として人気なのだそうです。人気もなにも、私は引っ越しの定番なんて新居で段ボールに囲まれて頼むピザくらいしか知りません。次の入居者にちょっと迷惑な習慣だなと思いましたが、この &lt;em&gt;えびせん&lt;/em&gt; が揚げるとどんな姿になるのかは、少し気になります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、さっき電気もガスも水道も止めちゃいましたよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、古いフライパンとカセットコンロを残しておいたのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、部屋の中には今日明日に必要な手荷物と一緒に、私がずっと前に一緒に選んだ使い古したフライパンが置かれていました。この家で一番長く使われていた調理器具として、最後に大活躍するようです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;がらんどうになったリビングの真ん中に、カセットコンロと油が浅く注がれたフライパンが儀式のように配置されて、その周りを私たちが囲んでいます。床には、袋いっぱいのシャーピエンと一緒にコーティングのかかった深めの紙皿、割り箸、そして油を固める薬剤がまとめられていて、マキさん曰くこれがベーシック・スタイルのえびせんパーティーらしいです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;200度ほどに温まった油にそっと赤いシャーピエンを落とすと、薄くて固いチップスがあっという間に白くてふわふわの塊に変わります。気を抜くと見逃してしまうほど、一瞬のできごとでした。縁が波打って膨らむと同時に、中心まで熱が伝わって全体が真っ白な百合の花のように大きく広がるのを見て、マキさんがすかさず紙皿に取り上げます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マキさんが目で「こうやるの。わかる？」と示したので、私も緑色のチップスを取り上げておそるおそる油に滑り込ませました。とろとろした油面に浮かび上がると同時に、また縁から白く膨らんで大きな花が顔を出します。私がその様子に見とれていると、マキさんがその花びらを掬って私の皿に移しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めてのシャーピエンはあたたかくて、さくさくです。今まで食べたことのあるえびせんより、もっと軽やかで、香ばしいえびの香りが口いっぱいに広がります。もちろんまとわりついた油は少ししつこくて、胃がもたれてしまいそうですが、その食感のせいでお腹に溜まることさえ忘れてしまいそうになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、私たちはえびせんパーティーを楽しみました。油が熱くなりすぎないように注意しながら、チップスを滑り込ませては大きな花びらに変えて掬い上げます。知らない人が見たら、きっと魔法のように見えるでしょう。熱すぎるとすぐにシャーピエンが焦げて枯れた花びらのようになってしまうので、上手に揚がる温度はすぐに分かります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぐつぐつとシャーピエンを揚げているうちに蒸発した油がまとわりついて、身体を動かすたびになんとなくべたべたとした感覚がついてまわります。換気しても換気しても、部屋の中がすっかりくもって油の匂いが取れません。それでも、私たちはフライパンを囲んで淡々とシャーピエンを揚げては、まるでおしゃれなカフェで過ごしているみたいにおしゃべりし続けていたのです。ただ、不思議な時間が流れていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マキさん、これって……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よかったわね。縁起が良いわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、できあがったシャーピエンを取り上げると、表面がところどころ金箔で覆われています。白い生地に散りばめられた白昼の星のような輝きを見ると、まるで美しく装飾された陶器の欠片のようです。マキさんが &lt;em&gt;あたり&lt;/em&gt; だと言ったそのシャーピエンを口に含むと、なんとなく誇らしい気持ちになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すっかり、油まみれになっちゃいましたね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マキさんが最後のシャーピエンを食べ終わった頃には、外は徐々に暗くなり始めていました。もう電灯さえないこの部屋で、火と油を囲むパーティーを続けるわけにはいきません。コンロの火を止めたマキさんは、くんくんと鼻を鳴らして「そうね。私たち、同じ匂いだわ」と笑いました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ、昔は食べ終わったらこのまま家ごと燃やしていたらしいわ。刹那的で、とっても素敵」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マキさんは、固めた油をフライパンから剥がして手際よく紙皿や割り箸と一緒にまとめました。残ったフライパンは燃えないごみの袋に分別されていて、ここでお別れだと分かるとなんだか寂しい気持ちになります。本当は使った道具を全て捨てるのが慣例だけど、カセットコンロだけはもったいないから持って帰るわ、とマキさんは丁寧にコンロを箱にしまい込みました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、今日はこのまま温泉でも行きましょうか。もう少し付き合ってくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいですよ。 &lt;em&gt;あたり&lt;/em&gt; を引いたんだから、もう少しだなんて言わずにずっと一緒にいてください。私が「ええ」と頷くと、マキさんは嬉しそうに微笑みました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;マキさんに「今日でこの街も最後だし、もう一度行ってみない？」と、まるで今思いついたように連れてこられたのは、山の上のロープウェイのりばでした。お昼に入ったファミレスでドリンクバーをミックスするのさえ飽きてしまった後のことでしたから、残っているのは乗客を見送る家族だけです。もうちょうど、今日の最終便が頂上へと向かうのを見送ることしかできません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「少し遅かったですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また明日来ればいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅舎に取り付けられた大きなスピーカーから、古いカセットテープのような間延びした洋楽が流れ続けています。ふと、小さい頃に母親と歩いた商店街のことを思い出しました。まるでここだけが時間の流れから取り残されて、永遠にこの曖昧な薄暮に閉じ込められてしまったかのようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おかしなことですが、マキさんがロープウェイに乗るつもりがないのは分かっていました。ロープウェイに乗りたいのなら、ほとんどの人は最低限の身辺整理を済ませて直行シャトルバスで来るはずだからです。私たちのように自家用車で（しかもピカピカのレンジローバーで！）上がってくる人は、たいてい黒い喪服を着ていますし、しばしば純粋に景色を楽しみたいだけの乗客から疎まれています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このロープウェイは全国でも珍しい開放型のゴンドラを採用していて、眼下に広がる風景がよく見えるように、左側にはジュラルミンの壁どころかガラスさえも嵌まっていません。そのせいか、素敵な景色に見とれてほとんどの人がゴンドラから飛び降りてしまうのだそうです。しかし、当の鉄道会社自身は特に問題視していないようで、柵やネットを設けて安全対策をするわけでもなく、むしろ「もっと近づいてみたくなる夜景」というキャッチフレーズで夜行便の宣伝さえ始めています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は前もこの光景を見たことがありました。ちょうど、マキさんと出会った日のことです。あの日もこんな春先の肌寒い夕暮れで、寂しげな顔をしたマキさんは、やはり最終便を見送って「次はきっと乗りましょうね」と言っていました。一人が飛び降り、また一人が飛び降り、まるで焼却炉に運ばれるペンギンの群れのような乗客を運びながら、ロープウェイは淡々と上へ登っていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてマキさんは「次は」だなんて守る気のない約束をしたのでしょうか。明日、はいつ来るのでしょうか。マキさんはずっと向こうの景色を見つめたまま、そっとため息をついて私の手を握りました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/6318"&gt;百合SS Advent Calendar 2021&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>三体のオートファクト</title><link href="https://ama.ne.jp/post/autofact/" rel="alternate"/><published>2021-12-02T22:58:00+09:00</published><updated>2021-12-02T22:58:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2021-12-02:/post/autofact/</id><summary type="html">&lt;p&gt;オートマタとアーティファクトのかばん語である&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;オートファクト：オートマタとアーティファクトのかばん語である。人形が十分な意思能力を持った時代に「ドール」と呼ぶのが差別的とされたために作られたことば。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「あの、ご主人様。どうして私を選んだんですか？」「どうして……って？」「ですから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フローリングに正座したまま購入者を睨み付ける小柄な少女は、さっきから自分の身体を包むメイド服の裾を伸ばしたり、首元にかかったリボンのほつれを指でくるくると弄んだりして落ち着かない。ダイニングチェアに浅く腰掛けたリンは、その様子を眺めながらオートファクト五原則について思い出していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ですから、同じような &lt;em&gt;わたしたち&lt;/em&gt; をあんな風に三体並べられて――」「ちょっと待って」「……はい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こぶしを強く握って不満げな様子を隠さないものの、ルルが話を遮られても反発せず命令に従うのを見て、リンは目の前にいるのが精巧なドールであることを実感した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ルルはどうして床に座ってるの？」「えっ？」「立って話そうよ。首が疲れちゃう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;床に座っている理由を尋ねられても、ただ身体が先に動いただけのルルにはもちろん答えられない。それでも、リンに言われた通りに立ち上がって、スカートを軽くはたいてまっすぐ立つことはできる。さっきリンと一緒に自分の足でこの部屋まで帰ってきたのだから、当たり前だけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背の低い彼女も、立ち上がるとちょうどリンの目線と同じ――今、ルルが背伸びをしたので少し上の――高さでリンと向かい合うことになる。外を歩いているうちにメイド服にまとわりついた冬の匂いが、リンの鼻をそっとくすぐった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、お店で私を選んだ理由を教えてほしいんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そりゃあ、一番かわいかったからに決まってるでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「かわいい、ですって？　顔も服もこんなにぼろぼろなのに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主人が自分と同じ高さになって気が大きくなったルルは、かぶっていた猫を脱ぎ捨ててリンに詰め寄る。ルルはリンにとって初めて迎えるオートファクトで、予想以上の感情の豊かさに驚いていた。店員は同じモデルでも個体差があると言っていたけど、あれはただの営業トークだったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どんなに売れない個体でも、同じモデルのオートファクトは同じ価格で販売しなければならないという規制があるせいで、細かい瑕疵や難のある性格を隠した詐欺まがいの不正行為が横行している。一度迎えたオートファクトをちょっとした欠点で返品するのは、しばしば強い非難の対象になっていたから、店のほうも多少の無理を通すことができた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ぼろぼろなんかじゃないよ」「でも、他の子のほうが、よく整っていて綺麗だったわ」「他の子って、どれ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと……イ、イブ、とか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルルは少し言葉に迷ってから、彼女とは別のモデルの名を告げた。イブといえば、この前発売されたばかりの最新型のフラグシップだ。もちろんルルよりも新しいし、眼にはもっと綺麗に輝く強化ガラスが嵌まっているけど、リンにはとても手の出る代物ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、リンはルルの明るい橙色の長髪をよく気に入っていて、むしろ、イブの真っ青な暗いショートヘアがあまり好きではなかった。このツインテールを解いて整える時のことを考えて、もう桃木の櫛を何本も買っていたくらいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イブは最新のモデルでしょ。ルルと一緒に出してもらった子のことじゃないの？　右の子？　それとも左？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……分かんない！　でも、他の子のほうが新しくて綺麗だったの。いじわる言わないで！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;髪を振り乱して語気を強めるルルを見て、リンはふと、まだルルの名前を決めていなかったなと思った。モデルの名でしか互いを識別するすべを持たないオートファクトには、新しい名前を与えるのが一番だから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、本当にかわいいなら待ちきれなくって、すぐに嫌ってほど抱きついてくるはずだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、抱きしめてほしかったの？　甘えるのが下手なんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;説明書にもそんなことが書いてあったな、と思いながらリンがチェアから立ち上がると、ルルの視線がまた上に向く。さっきまで感情豊かにリンに食ってかかっていたルルは、やっと自分の立場を思い出したようにしずしずと後ろに下がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違います！　私は、ただ本当のことを言っているだけで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして、ルルは初めこそ身体の前で手を組んでいたものの、やはりエプロンにあしらわれたフリルの綻びが気になるらしく、何度か撫でたり伸ばしたりしてからため息をつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご主人様は騙されたんです。私、顔にすこし傷があるし、眼だって古くてちょっとくすんでます。他の子はみんな新しくて、私だけいらない子だったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうせ、一緒に暮らしていたら傷くらいつくよ。眼だって、新しいのに変えてあげる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「服もほつれてて、顔だってぼろぼろで、とにかく全部ダメダメなんです。同情されたって、嬉しくないです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;長さの揃わないばさばさの前髪を恨めしそうに撫でつけるルルは、確かにあまり整備が行き届いていない。従順なオートファクトばかり集められたあの店では、なかなか扱いにくい子だったからだ。少し後回しにされているうちに、それが習慣的な放置に繋がり、整備不良として身体に表れるのはリンにも想像が容易だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悲しげで痛々しいルルの姿を見て、リンはさらに彼女のことを気に入っていた。綺麗で手のかからないオートファクトはみんなに人気で、同時に寿命が短かったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだね。服はもっと布が少ない方がいいかも。関節が見えてもっとかわいいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、エッチな服は着ませんよ」「ドールなのに？」「ご主人様。差別用語はダメです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、うん。オートファクトなのに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルルは「はい。オートファクトはエッチな服を着たりしません」と満足気に答えた。ルルは長く売れ残っていただけで、外の世界を知る機会はほとんどなかったからだ。リンはまた彼女を「ドール」と呼ぶときのことを考えて、それをごまかすようにルルの頭を撫でた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、 &lt;em&gt;オートファクト&lt;/em&gt; のルルのお迎えを祝って一緒にアイスでも食べようか」「アイス……ですか？」「もしかして、食べられない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「飲み込んだり、身体に入れたりすることはできません。でも、指先で味を感じることなら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ルルが人差し指をぴんと立てて口に当てる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは素敵だね。一緒の味を楽しめれば、それでいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リンはわざわざ新しいアルミスプーンを買う必要はなかったな、と思った。冷凍ストッカーに向かうリンを追うように、ルルが立ち上がって後ろについていく。ちょうど、今日の帰り道と同じ姿だ。リンが取り出したのはパッケージに「夏限定！今だけ！」とスイカのイラストが描かれたカップアイスで、彼女のお気に入りだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ストッカーを閉じると、ルルが後ろからリンの手元を覗き込む。ルルも冬に雪見だいふくを食べる習慣くらいは知っていたけれど、こんなに大きなカップアイスを見るのは初めてだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「美味しいんですか、それ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。夏を越したアイスは熟成してもっと美味しくなってるからね。なめらか食感で売ってる高級アイスクリームも、シャリシャリの氷菓に早変わり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手に伝わる氷のような冷たさは、もう年越しも目前の冬の寒さには似合わない。でも、リンは「今だけ」と書かれた期間限定のアイスをこうやってストッカーにずっと閉じ込めておくのが好きだった。時間を一緒に凍らせているみたいで、あるいは、誰かに嘘をついているみたいで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よく見て、よく聞いて、よく匂いを覚えてね。来年の夏も、冬もきっと食べる味だから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リンに言われるがまま、ルルがピンク色の塊に人差し指を突き立てる。第一関節くらいまでアイスの中に隠すと、右や左にひねって舌を這わせていく。指と空気とアイスクリームが接しているところから、まるで波打ち際にいるようにじわじわと溶けていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これがオートファクトの食事なのか、とかすかな興奮を覚えながら、その間リンはなぜか一言も発せずにいた。ひとしきりアイスを味わったルルは、クリームまみれでべたべたになった指先をうっとりと眺める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「冷たくて、氷の粒が大きくて、甘くて……それに、気持ちいい。不思議な心地だわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。私も好きなんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルルの手を取ってそっと指を舐めると、夏の懐かしい味と一緒にまた冬の香りがした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/6318"&gt;百合SS Advent Calendar 2021&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>先輩、今日もいいですか（プレビュー）</title><link href="https://ama.ne.jp/post/please-senpai/" rel="alternate"/><published>2021-11-16T19:00:00+09:00</published><updated>2021-11-16T19:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2021-11-16:/post/please-senpai/</id><summary type="html">&lt;p&gt;senpai, notice me!&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「先輩、今日もいいですか？」「……ん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デスクで熱心に新材料の特性分析シートを仕上げている先輩に後ろから声を掛けると、肩の上くらいで短く切られたぼさぼさの銀髪がぱさりと揺れた。じっと作業を続けていた身体にまとわりついた空気が広がるように、最近買ったらしいローズの香水がふわりと私をそっとくすぐる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;振り向いた先輩は古いメタルフレームの丸眼鏡――集中したいときはいつもこの眼鏡を使っていると言っていた――を掛けていて、ピントの合わないぼんやりとした表情で私を見上げる。それから、つやのあるカルセドニーのような黒い目だけを動かして私の顔、胸元、そして書類を持っている手を見つけて「あぁ」と頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、来週までだっけ。少し待っててくれ。あとは自明なところを埋めるだけなんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩……サキさん……高宮サキは、私が所属しているラボの先輩だ。ここでは主に鉱物研究と新材料開発を主軸に活動していて、最近は見た目の綺麗な宝飾用鉱物（いわゆる人造宝石である）の共同研究にも参加している。この前の宝飾展で展示した曜変サファイア&lt;sup id="fnref:youhen"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:youhen" title="サファイアの内部に虹色に輝く透き通った瑠璃色の斑点が含まれており、光の当て方や見る角度によって様々な輝きを見せる。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;はけっこう人気だったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四方に窓のないラボは、その致命的な閉塞感を解消するために天井に大きな天窓が据えられている。ソラ・ビジョンは、いつでも雲ひとつない青空から光を採り入れることができる優れものだ。しかし、加工炉の温度を上げると古いLEDがちらついて全く作業にならない日もあるので、なかなか扱いにくい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラボのメンバーは私たち二人だけで、いや、本当は壁際の大きなデスクにボスが陣取っているはずだけど、最近はほとんどここに姿を見せていない。指導といったらチャットで数日に一度進捗を報告するくらいで、細かい質問や相談は先輩に尋ねるように言われていた。ボスからちゃんと指導料をもらっているのか……もらっていたとしても、迷惑に思われていないかちょっと心配になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;書類をまとめる先輩を待っていると、床に置かれたオノ・ホットランド&lt;sup id="fnref:hotland"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:hotland" title="電気炉と紫外線照射器、不活化ガス装置が一体になった研究用・小規模生産向けの加工炉で、オノ産業社の主力商品である。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;の定期監視アラームがピピッと小さな音を立てる。金属製の気密室の中で焼成されているのはお手製のホタル・マーブル&lt;sup id="fnref:hottale"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:hottale" title="インクルージョンを摂取させた加工石全般のことだが、特に金属箔を使って光沢を増した球状のものをいう。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;で、ちょっとしたお小遣い稼ぎのために片手間で生産しているのだ。研究の邪魔にならない限りで、自前の素材を持ち込んで加工することが暗黙的に許されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、ホタル・マーブル自体はそう新しい加工法ではないものの、ラボの加工技術を活かして好みの色と細かいパターンを実現できるので割と人気がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、えーと……多孔質セラミックスのゲル活性改善のための設計だっけ？」「はい、そうです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩は数ページの報告資料を受け取ると、表の数値とグラフの傾向をぱらぱらと眺め始める。自分の成果を誰かに確認してもらう間、相手の一挙手一投足に意味を見いだしそうになって落ち着かない時間も、先輩の前だとなんとなく心地よかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんとなく、先輩の頭に目を向ける。特徴的な銀色の髪は過去の実験の後遺症らしい。左右の毛先をよく見ると、試薬や固定液がはねてぽつぽつと緑に着色したり白く脱色している部分はあるけれど、こんなにすっかり銀色になってしまうことがあるだろうか。バケツで薬液を頭からかぶったのなら、顔にやけどの跡でも残っていそうなものだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一通り資料を読み終えた先輩は、丸眼鏡を外していつも使っている黒いセルフレームのウェリントンに取り替えた。大きくて厚ぼったいフレームが顔に収まらない感じが、なかなかかわいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「悩んでるみたいだね。ちょっと長くなりそうだから、先に夕飯にしないか？　まぁ、もう夕飯って時間でもないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言われて時計を見ると、確かにもう深夜一時を過ぎる頃だ。全く気がつかなかった。まだまだ日の長い夏の終わりとはいえ、外はもうとっくに暗くなっている。おもむろにリモコンのボタンを押すと、天窓の風景が星の貼り付いたダークブルーの夜空に変わると同時に、室内照明が全灯に切り替わった。薄暮に街灯の光を灯す瞬間を自分で作り出しているみたいで、いつも不思議な心地になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最新型の照明パッケージなら、暦に合わせて日の出・日の入りと月の位置も再現できるらしい。でも、時間を忘れて研究に没頭している間はそういう照明の変化は邪魔になるし、たぶん先輩もそう思うだろう。この旧型にも朝焼けモードや夕焼けモードは搭載されているけれど、もともと天窓から降り注ぐような光ではないし、実際このラボに来てから真っ赤に輝く窓はほとんど見たことがなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エミの分も買ってきてあげるよ。何がいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;培養&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ヴィトロ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のグルニュイ入りなら、なんでも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩は「だろうね」と笑って、デスクチェアから立ち上がった。宝飾展のノベルティだったらしいすみれ色のロゴ入りTシャツを覆うように、ゆったりとしたスリットネックの黒いジャンパースカートが足首までふわりと伸びている。デスクトレイからMYU-MYUのコインケースを取り上げると、そのピンク色のハートをポケットに突っ込んだ。古い自販機を使うには必須の装備である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、私より頭二つほど小さい視線を送る先輩は、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;虹色ガラス&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;クレプスコ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の材料に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;水やり&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;フィーディング&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をしておいてくれ、と言い残してラボを出ていった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「まさか、『パーラーU/VM』が無くなってたなんて！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから十数分後。失望に任せて大げさに叫ぶ先輩の声と共に、ラボの自動ドアがギギッと軋んで大きな音を立てる。手には近くのコンビニ「エンジェルマート」の白いレジ袋が握られていて、中には値引きシールを貼られた大小のお弁当が二つ積まれているようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;水やり&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;フィーディング&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のために素材を詰めた&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;卓上ガラス温室&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ソッケル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のハッチを閉じて、冷蔵庫から&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;発酵ミルク&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ミエルロ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を二本取り出した。初めこそ「あの失われた発酵菌をついに再現！」という触れ込みの物珍しさを楽しんでいたけれど、一週間もすればこの甘酸っぱさにも飽きてくるもので、しかしまだこれが大きな段ボール箱で三つくらい残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、サキさん。今日はホットスナックじゃないんですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今言ったとおりだよ。上の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自販機レストラン&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アウトマート&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が急に潰れてたんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩は袋をそのままミーティングスペースのテーブルに置くと、ソファに勢いよく腰掛けた。レンジで急速に温められた甘辛い調味料の匂いが漂ってくる。脚を組んで不満げな表情で天井を睨み付けている様子は、まるで何ヶ月も失敗続きの加工炉でとうとう&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;非晶質爆発&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;スティッキージャム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を起こしたときの緊張感を思わせるけど、実際はただ老舗の自販機コーナーがとうとう潰れてしまったというだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地下にあるこのラボのほぼ真上に位置する「パーラーU/VM」は、今ではあまり見かけない食品の自動販売機を集めた小さなスペースである。自動化された精巧なメカニクスが大好きで、研究所統制の電子マネーが大嫌いな先輩のお気に入りだ。小さい頃によく食べた懐かしい味とも言っていた気がする。しかし、先輩とそう歳の離れていないはずの私には馴染みのない文化だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あそこなら、先月にはもう閉店してた気がしますけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私も向かいのソファに腰を落として、袋からお弁当を取り出しながらそう答える。「ん？」と眉をひそめる先輩の様子を見ると、今言うべきことではなかったか――「いや、まだラウンジの自販機もありますし」――と思ったときにはもう遅い。余計な新情報が先輩の落胆に油を注いでしまったらしく、今度は飛び跳ねるように立ち上がって演説を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私にとっては二ヶ月ぶりの地上だよ！　見てない間に大洪水でも来たのか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私の居住棟は無事でしたが」「そうか。それは良かった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩のイライラがなかなか止まらない。空腹のせいもあるだろうけど、もしかしたら長い地下生活が人体に悪い影響を与えているのかも……というのも、今コンビニや&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自販機レストラン&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アウトマート&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が建っているのは、もともとこの研究棟が建っていた場所だ。数十年前の研究都市再開発計画の影響で、地上の大きな研究棟を取り壊して地下に移動することになったという。かなり昔のことで、北部の研究記念館にもあまり資料が残っていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地上にはコンビニやスーパーなどの商業施設、学生や研究者向けの居住棟などが集約されていて、研究と最低限の生活を送る分には全く敷地から出る必要がなくなった。そのせいか、先輩みたいに研究に没頭してあまり地上に出なくなった人も多いと聞く。私は途中でいろいろと耐えられなくなるから、一週間に一度くらい居住棟に戻っているけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改めてお弁当をテーブルに並べる。えぇと、今日はミックスグルニュイ弁当――これは私のだ――と、先輩が好きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;天然&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファームド&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のネギトロ巻きだ。値段の高い天然ネギトロはもちろん、かなり安価なはずの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;カエル肉&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;グルニュイ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;はコンビニ弁当の中ではさらに不人気で、値引きシールの優等生として居残りの常連になっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、てっきり第三レストのラウンジに行ったのかと思いました」「私もそのつもりだったよ」「じゃあ、どうして外へ？」「踏み台が見つからなかったんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;意外な答えに、私は思わず「踏み台？」と聞き返してしまう。踏み台というのは、背が低い先輩が食品自販機を使うために置いているグラスファイバー製の黒いステップのことだろう。ラウンジの隅にある古くて大きな自販機は、なぜかコインの投入口が上に据えられていて、丸腰の先輩では商品を選択することさえできないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私の踏み台を片付けてしまったんだろう？　おかげでコンビニに行くしかなかったんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、何の話ですか？」「違うのか？」「違いますよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このフロアであの自販機を使うのは先輩（あるいはおつかいを頼まれた私）くらいだから、踏み台を放置しても誰も気にしないだろうと油断していたところ、どうやら邪魔に思った誰かが勝手に撤去してしまったらしい。先輩は面食らったような顔で黙り込むと、ばつが悪そうに頭を下げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、エミじゃないならいいんだ。疑ってすまない。じゃあ、それなら一体誰が……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの踏み台の存在をまともに認識しているのは私くらいだろうし、先輩に疑われたこと自体はどうでもよかった。でも、いきなり秘密の場所を荒らされたようで気味が悪い。二人で隅から隅まで目を配るには広い空間に妙な沈黙が流れて、もう丑三つ時を過ぎる頃であることを思い出すと、急に不気味さが増してくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デスクの下まで明るく照らすこともできない室内照明さえ心許なく思えて、ほのかな助けを求めて天井を見つめながらソラ・ビジョンのリモコンを押す。朝を告げる瑠璃色の薄明がタイムラプスのように天窓を覆ったかと思うと、すぐにいつもの青空に切り替わった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――えーと、サキさんは今日もかわいいですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、あぁ……うん、エミは今日もかわいいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どこがかわいいですか？」「……唇かな。それ、新しいティントだろう？」「はい。先輩は、黒目がかわいいですね。いつもより大きい気がします」「そうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういうときは「なかよしルール」その五&lt;sup id="fnref:nakayoshi5"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:nakayoshi5" title="研究者コミュニケーションルール集によれば「一日に一回以上お互いのことを褒め合おう。研究以外のことで」とある。"&gt;4&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;だ。おしゃれにはあまり興味のない先輩と交わす棒読みの褒め合いでも、今は沈黙を破るきっかけになるだろう。不意のやり取りに虚を衝かれた先輩は、ううむと小さく唸ってまたソファに戻った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず、踏み台はもう一台買っておくよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、放っておけばそのうち戻ってくるんじゃないですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いーや。拝借の書き置きも警告ラベルも残っていない一般資産が戻ってくることはないんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;警告ラベルというのは、ラボの外の公共スペースに放置された物品に貼られる撤去期限付きのステッカーのことだ。警備ロボが誤検出も気にせずベタベタ貼り付けて回っているから、すぐに剥がしておけば特に問題にならない。厳密に言えば、例の踏み台もこの細則に違反しているものの、何度かラベルを剥がしているうちに学習して放置されるようになった。要は、見捨てられた廃棄物かどうかを確認するための作業なのである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;踏み台自体は何個か買っても痛くない程度の値段だし、機密情報を含んでいるわけでもないとはいえ、こうして持ち出された以上またラウンジに放置するわけにもいかない。しかし、自販機に行くたびに毎回持ち出すのもなかなか面倒だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、諦めてコンビニを使ったらどうですか？　もう無人化してますし、使い心地も悪くなかったでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっき先輩がお弁当を買ってきたエンジェルマートは、商品選択検知システムの導入と電子マネー決済への一本化によって、数ヶ月前に二十四時間無人営業へと切り替わったばかりだ。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自販機レストラン&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アウトマート&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の象徴的存在だったパーラーU/VMが閉業したのは、まさにこのコンビニの無人化が理由だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンビニなら冷蔵ショーケースと電子レンジ、カードリーダーさえあれば出店も撤退も一日で終わるようなことを、自販機は複雑なメカニクスと芸術的な内部配置で実現しているおかげで、修理も維持も難しい綱渡りの運用を強いられる。先輩のような&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自販機&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;レトロメカ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;マニアには悪いけど、置いているだけでコストのかかるなかなかの贅沢品だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を聞いた先輩は、わざとらしくため息をつく。次に続く言葉はだいたい分かっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミは自販機の良さが分かってないな。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;徹底的な自動化&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;フル・オートメート&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は重要さ。でも、あいつはちゃんと温かい食事を出してくれるんだ」「はぁ」「冷えたお弁当を突っ込んでレンジの前で待つ、あの味気なさったらないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なるほど、監視カメラに囲まれて手持ち無沙汰でレジの前に立っているのはなんとなく落ち着かないし、合理化ばかりを推し進めると日々が味気なくなるのだ、というのは一理あるかもしれない。しかし、あのコンパクトな自販機専用紙箱に収まるように短く切られた割り箸でちまちまと食べ進める先輩の姿を思い出すと、どこかが間違っているような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、私は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;地区限定通貨&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;リサ・カード&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が嫌いなんだ。金の流れを研究所なんかに知られたくないね。決済手段の一本化だって、妙な情報収集を企んでいるに違いない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、そんなことはないと思いますよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リサ・カードに関する当局の陰謀は、研究員の雑談の定番ネタだ。しかし、どうも先輩は言葉遊びに収まらないレベルで変な説を信じているように見える。確かに、毎月の報酬さえもリサ・カードで支払えるようにわざわざアドホックな法改正までしてしまったところを見ると、資金の流れをより深く把握する意図を否定しきれないのがなんとも痛いところで、先輩のように「だからコンビニって嫌いなんだ」と腕を組む人も多い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;研究都市再開発法によって、広大な土地を持つ郊外型の研究所は、十分な生活圏の提供とその維持を条件に地区限定通貨制を敷くことを許されるようになった。三〇五特別区にあるこの研究所を皮切りに、今では大きなところはどこも自前の経済圏を持っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩のような筋金入りの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;監視嫌い&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;レジスタンス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;になると、定期的にどこかでリサ・カードを現金に引き換えているらしいけど、詳しいことは教えてくれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……サキさんは、今日もかわいいですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はいはい、エミもかわいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、とりあえず食べましょうよ。食事くらい私が買ってきますから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ペットボトルと袋入りの割り箸を差し出す私に、先輩は「そういうつもりで言ったんじゃない」と口を尖らせる。「分かってますよ」と答えると、先輩は「せめて、行使のたびに偽造できればいいんだが」と呟きながら、ネギトロパックのケースを開けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;/* この記事は2021年11月発行「先輩、今日もいいですか」から冒頭部分を抜粋したものであり、まだ&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。法律で認められている範囲を超えて許可なく複製、改変、再配布することを禁じます。 */&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:youhen"&gt;
&lt;p&gt;サファイアの内部に虹色に輝く透き通った瑠璃色の斑点が含まれており、光の当て方や見る角度によって様々な輝きを見せる。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:youhen" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:hotland"&gt;
&lt;p&gt;電気炉と紫外線照射器、不活化ガス装置が一体になった研究用・小規模生産向けの加工炉で、オノ産業社の主力商品である。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:hotland" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:hottale"&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;内容物&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インクルージョン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を摂取させた加工石全般のことだが、特に金属箔を使って光沢を増した球状のものをいう。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:hottale" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:nakayoshi5"&gt;
&lt;p&gt;研究者コミュニケーションルール集によれば「一日に一回以上お互いのことを褒め合おう。研究以外のことで」とある。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:nakayoshi5" title="Jump back to footnote 4 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>フォーチュン・ポップコーン</title><link href="https://ama.ne.jp/post/fortune-popcorn/" rel="alternate"/><published>2021-08-15T19:58:00+09:00</published><updated>2021-08-15T19:58:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2021-08-15:/post/fortune-popcorn/</id><summary type="html">&lt;p&gt;マッチングアプリで出会った「モモ」に言われるがまま、とある廃団地に足を踏み入れた「ハル」は、そこで進む意外な計画を知ることになる……&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/flowers-cafe-lottery/"&gt;花・カフェ・宝くじ&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「次は、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;西鷹砂台&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;にしたかすなだい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、西鷹砂台」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マッチングアプリで出会った女が待ち合わせ場所に指定した駅――&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;保世&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほぜ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;線の終着駅がおよそ二キロ四方の廃墟に続いているのを思い出したとき、私はやっと自分が騙されていたことに気付いた。久しぶりに好きな顔の女に会える！と舞い上がっていたせいで、列車の行き先さえも気にならなくなっていたらしい。初夏のよく晴れた日盛りに、誰もいないプラットホームで立ち尽くす自分が急に恥ずかしくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鷹砂台団地は、都営保世線の最北端である西鷹砂台駅から徒歩一分の好立地で、数十年前までは三万人ほどが住んでいたという。しかし、少子高齢化、老朽化、コミュニティの硬直化……様々な要因が重なり、今となっては街ごと閉鎖されてすっかり人影もなくなってしまった。浮浪者の侵入や犯罪への利用を防ぐためのガルバリウム鋼板で隙間なく囲われているせいで、今立っている高架のプラットフォームからも、薄汚れた大量の高層住宅がそのまま残されていることしか分からない。更新機構が「シャトー」ブランドとして建て替える準備をしているとも、国が買い上げて核実験の研究施設に転用するらしいとも言われているが、いずれも噂の域を出ないままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;インターネットでよく見かけるルポ記事では、知られざる都内の秘境駅、廃墟に続く異界の駅、地下シェルターに直行する政府専用駅など、思い思いの大げさな二つ名で紹介されている。各記事の主張をまとめてみると、駅に降り立つことはできるものの、周囲が丸ごと立入禁止となっているせいで改札から出られないというだけなのだが、廃墟、怪談、陰謀論……様々な思惑と絡み合っておどろおどろしい雰囲気を放っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はキューピア&lt;sup id="fnref:qpia"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:qpia" title="好みのパーツを組み合わせて検索できるモンタージュスタイルで気軽なデートのマッチングを指向した、いわゆる ヤれる アプリである。Qの中に♡を配置したローズピンクに白文字のロゴで、Q'piaと綴る。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;のトーク画面を開き、私がここに来る元凶となった女――モモに困惑と非難をぶつけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『モモさん、私を騙したんですか？　ここって有名な廃墟駅じゃないですか』『騙してないよ。改札を通ったらすぐだから！』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、その改札が通れないってことだから！と思いながら、とりあえず下に降りる階段を探す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;規則的に流れる鳥のさえずりが、ゆるやかに時間を刻んでいく。このまま帰りの電車を待って水島橋くらいまで折り返せば百円ほど安く済むかもしれないが、普段は全く乗客のないホームに二時間も座っていれば流石に駅員が気付いて注意しに来るだろう。この暑さの中で耐えても、そもそもジュース代すら浮かないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;階段を降りると、ひんやりとした空気と共にコンパクトな駅構内が目に入る。つやのある鉄紺の小さなタイルが敷き詰められた壁のデザインは古いものの、ところどころに張替えた跡が見えるグレーの床や、上に黄色く光る案内板は、想像よりずっと綺麗で手入れが行き届いていた。左手には北改札、右手には南改札が続いているが、北改札はバリケードで塞がれて通り抜けられない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方の南改札では、スピーカーから繰り返し流れる調子の外れたチャイムが通行可能であることを告げていた。ただし、五台ほど並んだ自動改札機は、窓口に面した細い通路を残して深緑のターポリンで覆われており、その姿すら確認できない。駅員に事情を話さなければ外には出られないということだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おそるおそる改札に向かうと、窓口に詰めていた初老の男が身を乗り出してこちらに訝しげな視線を向けた。くたびれた灰色のスーツを着た白髪交じりの男は制帽も被っておらず、およそ駅員には見えない。守衛のような存在なのだろうか。あるいは、駅員ではなく団地の管理職員なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「観光客の方？　すみませんが、この先は関係者しか入れないことになってるんですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、ですからここで折り返しの改札をしようと思いまして。精算お願いします」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;できるだけ愛想よくそう告げたにもかかわらず、この &lt;em&gt;駅員&lt;/em&gt; （名札がないのでこう呼ぶしかない）はさらに私の顔をじろじろ見て首を傾げたかと思うと、今度は何度か端末を操作して面倒そうに顔を上げた。その緩慢で投げやりな所作が老化からくるものか、彼の生来のものかは分からなかったが、誰もいない駅の異界じみた雰囲気のせいでどこか不気味に見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えぇと、どなたかにご用でしたら、先にそちらの精算機で &lt;em&gt;ご精算&lt;/em&gt; ください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;微妙に会話にならない返答を投げつけたかと思うと、駅員はそのまま窓の向こうに引っ込んでしまう。まるで、一般人の私がここを通り抜ける資格があるかのような口ぶりだ。今日は誰も私の話を聞いてくれない。私はただこの秘境駅からさっさと立ち去りたいだけなのに！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;精算機というのは、窓口の横にある壁に埋め込まれた機械のことだろう。黄色いデザインで都鉄のマークと共に「のりこし精算機」と書かれている。キップの不足料金を支払って精算券と引き換えたり、トラカ&lt;sup id="fnref:traca"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:traca" title="都民カードと紐付いた非接触の乗車券で、個人情報の利用方法についてしばしば問題になっている。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;に不足料金をチャージできる便利な機械だが、最近では設置されている駅の方が稀である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きなタッチパネルには、切符での精算、トラカへのチャージと「アプリ予約の受取り」というメニューが表示されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、よく見ると少しおかしな精算機だ。そのボタンには、私がよく知っているマッチングアプリ――私が今ここにいる理由でもある――キューピアのロゴが表示されていた。半信半疑でQRコードをかざすと、OHEYAlbum&lt;sup id="fnref:OHEYAlbum"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:OHEYAlbum" title="自分の部屋を撮影してインテリアを紹介できる「キラキラ系SNS」としてリリースされたが、最近はVR空間のスクリーンショットを投稿するカテゴリが新設されて人気を集めている。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;で見つかりそうなおしゃれな部屋の写真が、何枚か3Dカルーセルに載せられてくるくると回り始める。さらに、下に「抽せん」ボタンが表示されたかと思うと、「通行料！初回限定！五千円！」と虹色に光る文字がせり上がってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ガツンと頭を殴られたような感覚に襲われる。ここはスマートカジノなの？　国営カジノさえ頓挫したのに、こんなしがない都鉄の構内で？　せめて折り返しの精算くらい普通にやってほしい。非日常に次ぐ非日常に打ちのめされて、本来なら笑えるはずのこの滑稽な風景の前で途方に暮れていた。「今だけ！今すぐ！」とキラキラ輝き続ける広告の文字をぼんやりと見ていると、徐々に頭がボーッとしてきてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――思い返してみると、駅員は「どなたかにご用でしたら」と言っていた。彼はもしかして私の行き先を知っているの？　それなら、この先に本当にモモがいるのかもしれない。この謎のガチャを引くことで、本当にモモに会えるとしたら？　そうでなくとも、この団地には何か秘密があるはずだ。このスロットマシンじみた精算機だって、ルポでは一度も見たことがなかった。誰も記事には書けなかったのか、あるいは今私の前にだけ現れたのか――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか私は、その素性の知れない &lt;em&gt;ルームキー&lt;/em&gt; の「抽せん」ボタンを押していた。すると、まばゆい光と共にカルーセルの回転速度が増し始める。帰りの電車賃のほうがはるかに安いはずなのに、「限定！お得！」の文字になぜか心が躍っているのを自覚していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タッチパネルの表示が固まって数秒、カシャンと小気味いい音を立てて小さなプレートが吐き出された。Satanas BLACK&lt;sup id="fnref:black"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:black" title="黒い紙で巻かれた見た目が特徴的な外国たばこ。一箱に十本しか入っておらず、通常のタバコ箱よりも縦に長い。"&gt;4&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;の箱に収まる厚さ二ミリほどのアクリルを貼り合わせた黒いカードには、認証のためのアンテナコイルとチップが埋め込まれている。中心に印刷された数字の羅列は、おそらく棟番号と部屋番号だろう。ここに向かえ、ということだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;精算機はもう最初の野暮ったいメニュー画面に戻っていて、まるで私の見ていた光景が夢だったとでも言わんばかりに静まり返っている。ピン・ポーンと鳴り続けるチャイムが、改札を出て早く先に進めと急かしているように感じられて、私はまた足早に窓口へと向かった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;トラカと購入したルームキーを渡すと、駅員は無言でそれぞれ別の端末を通してからまた私にカードを差し出した。一方は駅でよく見る処理端末だが、もう一方はどこでも買える家庭用のカードリーダーにタッチしていたように見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「外部との通信や撮影は制限されておりますので、ご利用の際はどうぞお気を付けください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅員の事務的なアナウンスを背に改札を出ると、目の前の店舗スペースは一面シャッターが降りていた。小さな袖看板から、かつてコンビニとベーカリーが店を構えていたことが分かる。右手の西出口は駅前商店街に続く人通りの多い出口だったらしいが、今はこちらもシャッターで塞がれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東出口に進むと、団地に続く大きな歩道橋が現れる。遮るものもなく照りつける日差しと、アスファルトから立ち上る熱い空気をかき分けるように進むと、徐々に団地の全体像が見えてくる。五メートルほどある通路の両端は有刺鉄線の付いた背の高いフェンスでぐるりと囲まれていて、部外者の侵入はもちろん、入場者の脱出さえも防ぐかのように細かく赤い警報線が張り巡らされていた。橋の上から見通せる硬い金網の向こうには、片側四車線の広い道路が見渡す限りまっすぐ伸びているが、当然車は一台も走っていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩道橋を渡りきると、道路に面した大きな棟の二階部分に接続する。空中に突き出した茶色いタイル張りの床はいわゆるペデストリアンデッキで、屋内を経由して中庭まで抜けられるようだ。有刺鉄線のフェンスはここで団地全体を囲う鋼板の壁に引き継がれ、隙間を埋めるようにざっくりと溶接されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ローマ字と共に鷹砂台団地と記されたゲートの向こうには、かつて団地に併設されていたであろうシャッター街が広がっていた。案内板を見る限りでは、一階は丸ごとスーパーマーケットで、二階は雑貨店や診療所が軒を連ねていたようだ。最盛期は、団地を出ずにこの商店街で生活を完結できていたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二階より上は居住区で、各階の廊下から外が見えるように窓が設けられ、横に伸ばした白黒のギンガムチェックのようなのっぺりとした壁が最上階まで続いていた。ホームからはよく見えなかったけれど、上から下まで窓に鉄格子が嵌っている。端に植物のつるをあしらったおしゃれなデザインでイメージアップを図ろうとしているものの、一歩引いて見ればまるで監獄か閉鎖病棟のようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『改札は通れましたけど、いったいモモさんって何者なんですか？』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『あなたに会いたい素敵な女の子！　早く来てね♡』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうにも説明の付かない異常な状況なのに、モモの返答は昨日までと変わらない。お得意の軽率なハートマークを見ると、やっぱりどうしてもにまにましてしまう。しかし、安心すると同時に、やはり私はまだ騙されているのではないかと疑っていた。何一つ確証がないのだ。駅員の曖昧なアナウンス、偶然表示された購入画面、そこから偶然出てきたルームキーで部屋に入ったとしても……そこにモモはいないかもしれない。もうここまで来たら引き返すことなんてできないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エントランスを吹き抜ける突風に逆らって奥に進むと、広い中庭と巨大な団地の一端が目に入る。高さ五十メートル&lt;sup id="fnref:maxheight"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:maxheight" title="編注・建築基準法と消防法の制限があるため、実際は四十五メートルだったと思われる。"&gt;5&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;、幅は百メートルほどもある無骨な高層住宅がドミノのように並んでいる様子に圧倒されてしまう。自分の身体が小さくなって、リアルなジオラマに入り込んでしまったような気さえした。その横を通り抜けるように敷地の外から車道が延びていて、路肩では銀色に光る道路標識が静かに制限速度を示し続けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに車道に沿って進んでいくと、「白タクには乗らないでください」という立て看板が現れる。聞き慣れない単語だ。調べてみようとスマホを取り出してみたけれど、圏外を示したままでどちらを向いてもネットには全く繋がらない。さっきまで使えてたはずなのに……と、そこでやっと、通信や撮影が制限されているという駅員の言葉を思い出した。ただ禁止されてるわけじゃなくて、本当に遮断されているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白タク、タク……タクシーだろうか？　車に乗るほどの距離ではないと思うけど、この広さなら自転車くらいは持っていたほうが暮らしやすいのかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドミノ通りから少し進むと、ルームキーに記されているC-K-1棟が現れた。団地のほぼ南端に位置するこの巨大な居住棟は、高さこそ他の棟と同じだが、幅はたっぷり三百メートルほどもあり、制震対策のためかエレベーターホールを境にしてわずかに三つ折りに曲がっている。これまで見たものよりも比較的新しい外装で、居住者数の増加に対応するために後から建てられた棟なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに南に回って目の前が西側のエントランスで、日に焼けてひび割れた古い団地の地図が私を出迎えた。額を拭いながら棟を見上げると、全ての部屋に乳白色のガラスかアクリルが嵌っていて、ギラギラと眩しい光を反射している。強い光の残像のせいか、視線を動かすと窓が遅れてついてくる。カーテンの開閉も含めて、中の様子が全く分からない。普通の団地なら洗濯物や布団、あるいは盆栽でも置いてあるのだろうが、今はがらんどうで大理石の壁でも立っているようにも見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルームキーをかざすと、少し滑りの悪い動きでギギィと音を立てながら自動ドアが開いた。少しほこりっぽいロビーを奥に進むと、古びたエレベーターが三つ並んでいる。左から順に奇数階専用、偶数階専用、そして&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;というラベルが貼られていた。どのエレベーターにもボタンはなく、代わりにキーをかざすための白い読み取りセンサーが埋め込まれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;試しにルームキーをかざしてみると、呼応して緑のランプが点滅し始めるものの、エレベーターは動く気配もない。あたりを見回すと、掲示板に「エレベータ呼出手順」という黄ばんだ張り紙が掲げられていて、ルームキーとトラカを順に読み込ませる必要があることを示していた。まるでオフィスビルのようなセキュリティだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらためてトラカをかざすと、緑のランプが点灯して扉の向こうからゴゥンと大きな音が聞こえた。エレベーターが到着するまであと少し。小さく一呼吸して、モモがいるはずの階へと向かう心の準備を整える。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;C-K-1棟は今までの棟とは異なり、廊下がフロアの真ん中を貫いているので、鉄格子越しの空は見えない。代わりに、色あせた吹き付けタイルの壁とブルーグレーに塗られた鉄扉が左右に広がっていた。およそ十メートルの間隔ではしごのように並んだ白熱色のLEDが、つやつやした銀灰色の床を照らしている。しかし、電力を節約しているせいかその光はかなり薄暗かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不思議なことに、どの扉もドアスコープの位置に小さな窓が作られていた。十五センチメートルほどの円にくり抜かれた空間に、透明なガラスが嵌められている。住居の装飾としてはかなり異質だ。ドアスコープの覗き見対策なら、内側にカバーを付けたほうが安上がりなのに。光沢のあるミラーレースのような布で目隠しされていて中は見えないものの、この一年中夕暮れのような廊下から眺めると、まるでお月見でもしている気分になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さて……本当にここにモモがいるのかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩みを進めること数十秒、とうとうルームキーに記された1338号室に到着する。特に他の部屋と違った様子はなさそうで、本来インターホンがある位置にはエレベーターと同じカードリーダーが設置されていた。ルームキー、トラカ……と順番にかざすと緑のランプが点灯するが、すぐにドアが開くことはなく、うっすらと中でピン・ポーンというあの調子の外れたチャイムが鳴り始める。さらに数秒待つと――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハル！　やっと来てくれた！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;勢いよくドアが開き、中から涼しい風と共に小さな身体が飛び出してきた。キューピアの写真をそのままさらに可愛らしくしたような、明るい茶髪のツインテールで私好みの幼い童顔がこちらに笑顔を向ける。身長145センチ、体重38キロ、Fカップ……そうプロフィールに記していた彼女はなぜかバスローブ一枚で、隠しきれない大きな胸をさらに強調するようにベルトできゅっと締めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモに促されて部屋の中に入ると、またも異様な光景が目に入る。内装はピンク、ピンク、ピンク……照明、壁紙やカーテンはもちろん、ソファやクッション、電気ケトルや冷蔵庫に至るまでペールピンクの製品で埋め尽くされていた。かすかにヒーリング・クラシックが流れる部屋を占領しているクイーンベッドには丁寧に天蓋が設えてあり、奥にはやはりピンク色の大きな枕が置かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、追いやられるように隅に置かれた古いスロットマシンだけは、その派手な色合いをそのままにちぐはぐな雰囲気を放っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ラブホ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、俗な言い方はやめよう……まるで &lt;em&gt;お姫様の監獄&lt;/em&gt; だ。テレビや電子レンジくらいはあるものの、ダイニングキッチンだったろう空間からはコンロも流し台も撤去されており、かつての生活感は明るい色の壁紙で覆い隠されていた。リノベーションにしても大胆すぎる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ポップコーン食べてたの。ハルも食べる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモは、テーブルに置かれた青地に真っ赤なストライプの――資本主義っぽい――食べかけの大きなポップコーンカップを抱えてソファの端に座った。と同時に、目の前のテレビから裸で抱き合う男女の映像が流れ始める。時折聞こえるわざとらしい嬌声はなんとも耳障りに感じるが、モモは映画でも観ているかのようにリラックスした姿でその行為を眺めている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ごめん。こういうの嫌だった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、女優の顔が好きじゃなくて……あの、モモさん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモでいいよ。私もハルって呼ぶね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうさっきからそう呼んでるじゃない、と思いながらテレビに目線を戻すと、ちょうど映像が切り替わって安っぽいBGMと共にインタビューが始まっていた。モモは「ガンガンエッチしてくれないとつまらないよね！」と言ってリモコンでテレビを消してから、またポップコーンを口に放り込む。そして「座ってよ」と手で示すので、私もソファに掛けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと……モモ、あなたって、何者なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたに会いたい素敵な女の子！……じゃなくて、ここで色んな人とエッチしてる。お金をもらってね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私もモモをお金で買わなきゃいけないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうことに、なるかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモはそれから、団地のシステムと料金について話し始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はずっとこの部屋で（厳密には清掃のたびに向かいの部屋とを行き来して）性的なサービスを提供しているという。ここに来る前にどこにいたかは覚えていない、とも言っていた。何やら事件の匂いを感じるけれど、話し続けるモモの勢いのせいで聞き返せなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改札の通行料だけではなく、さらにここでモモにサービス料を払う必要があり……と、料金はどこかで聞いたようなスタイルだ。家を出たときはお店に行く予定ではなかったけど、いつの間にか巨大な――自由恋愛がはびこる――風俗街に迷い込んでいたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。騙したつもりはなかったの。でも、私とは会えたからいいでしょ？　信じてもらえないかもしれないけど、私、ハルのことをとても気に入ってる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうせ、彼女は誰にでもそうやって甘い言葉を囁いているのだろう。しかし、私の手を握って上目遣いですり寄るモモは、彼女の言葉が本音かなんてお世辞か気にならなくなってしまうほどの魅力を放っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;いくらあざとい風俗嬢に騙されていたとしても、彼女が人身取引でここに連れてこられていたとしても、性欲と期待にまみれた欲求不満な私の身体には関係なかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『私のこと弄んで、どういうつもり？　ここ最近、モモとエッチすることしか考えてなかったんだから♡』『あぁっ♡せんせいっ、騙してごめんなさい♡♡ちゃんと性欲処理しますからぁ♡♡♡』『当たり前でしょっ！　ほら、もっと早く舐めてよ。そんなんじゃイけないでしょ♡♡』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を責めるモモの手と、モモを責める私の手が絡み合い、熱い視線がばちっとぶつかる。時折ピピッと音を立てる白いパネルの中では、経過時間と値段を示すデジタル数字がちらちらと赤い光を放っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ピンク色のバスルームから出ると、先にシャワーから上がったモモがケトルでお湯を沸かしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お茶入れるね。体を冷やすと良くないから、涼しくなってきたら飲んで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ティーポットの上で細いガラスびんを一振りすると、中から茶褐色をしたハート型のタブレットが四、五粒ほど飛び出す。その上からお湯を注ぐと、タブレットがふわりと解けて中から茶葉が現れた。扱いやすいように茶葉を固めたものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その作業を終えると、モモは思い出したようにポップコーンを取り上げて、またさくさくと噛みしめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモって、ポップコーンが好きなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……大好きってわけじゃないけど、味のあるところとないところがあるから」「味？」「ほら、食べてみて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、モモがポップコーンを上から一粒取り上げてあーん、と私の口に差し出す。唇で受け取って舌に載せると、ふわりとバターの匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どう？」「ちょっと濃いけど美味しい。塩バター味ね」「じゃあ、こっち」「……ん、あんまり塩が付いてないかも。薄いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;軽やかな歯ざわりと共に油っぽい粒を飲み込む。最初の一粒は程よい味付けで、さらに食べ進めると薄くなって、底には濃い味の粒が残る……よく混ぜずに大量にポップコーンを作ると、だいたいこんな感じだろう。わざわざ食べなくても、当たり前のことのように思えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「薄いのを引いたら濃いのを引きたくなる。濃いのを引いたら、また濃いのが欲しくなる。毎日とっても暇だから、こんなことでも刺激になる……今、かわいそうな子だと思ったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないよ。えぇと……そう、日常の刺激って大事だよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！　だから、ハルが来てくれてよかった。やっぱり、女の子とのエッチの方が気持ちいいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「女の人もここによく来るの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「たまにね。でも、やっぱりハルが一番好き。どうせ、信じないと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エッチした相手に「好き」と言われるだけで舞い上がってしまう私の単純さよ。赤くなっているであろう頬をごまかすためにテレビを点けると、はだけた花魁風の衣装を羽織った女優が畳の上で股を開いて妖艶な笑みを浮かべていた。モモの視線はまるで猫が動くものを追うように画面に向く。これも、彼女にとっての刺激なんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもね、こうやって満たされてると、どんどん足りなくなっちゃう。ちゃんと気持ちのいいセックスって、ずっとしていたくなるから。思い出すと、とっても寂しくなる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、モモは私の身体に腕を回す。まだ暑いはずなのに、モモの身体から伝わる熱は木漏れ日のように心地よかった。たぶん、お互いの鼓動がよく聞こえていたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、おじさんが好き勝手に私を組み伏せたり、抵抗できないのに叩かれたり……そういう無力感も、嫌いだけどすき。死にそうになってる間も、痛みが残ってる間も、思い出してる間も、嫌な気持ちでいっぱいになる。でも、退屈じゃなくなるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんと言うべきか分からなかった。彼女は退屈と性欲で日常が埋め尽くされた「かわいそうな子」なのかもしれないけど、団地の外にだって同じような理屈で日々の労働に耐えている都民がたくさんいる。でも、あなただけじゃないから安心して……と言うのも違うだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が黙ったままでいると、モモがさらに言葉を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もちろん、おじさんは嫌いよ？　こんなにダサいスロットマシンで喜ぶんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アンニュイな空気から一転、モモは部屋の隅を指差して唇を尖らせる。かつてのラブホテルにはパチンコ台やスロットマシンを置かなければならないルール――根拠は失念したが――があったらしいが、もはやここでは懐古主義の発散でしかないだろう。この部屋が彼女の趣味を反映したものだとしたら、あまりに大きすぎる目の上のたんこぶだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この部屋、桃太郎が生まれた年と一緒なんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急な話題転換についていけずに「えっ？」と反応すると、モモは「イチサンサンハチ、モモタロー」と棒読みで繰り返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に生まれたわけじゃないよ？　えぇとね、なんだっけ……古いアニメ映画なんだけど、1338年にタイムトラベルして桃太郎として活躍するんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;桃太郎を見つけに行くんじゃなくて、自分が桃太郎になるのか。なんだか変な映画だ。1338年……紅巾の乱とか、そのあたりの時代かな。桃太郎の成立も同じ時期なのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キミの名前と一緒だねって言われても、桃太郎と一緒だなんて嬉しくないし。そういえば、エッチも下手だった！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;憤慨するモモの話から、ふと疑問が湧く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモって、本名なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよ。あれ、ゲットウっていうの。ツキのモモ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれ、とモモが指差す先には、斑の入った深い緑色の葉が数枚広がった白い鉢植えが置かれている。茎は太いが緑色で、樹木というよりはバナナのような南国の植物を想起させる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「可愛い花が咲くと、とってもいい匂いがするらしいの！　だから、モモ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう少し経つと、桃の実のような形の蕾を付けるという。モモのように可愛らしい花から漂う月の桃の甘くてスパイシーな香り……と妙な想像を膨らませていると、料金パネルからピピピッと小さな音が鳴って、終了十分前であることを告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ、時間だね。今日は来てくれてありがと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の身支度を手伝うモモは、最後に「これ、お土産！　四錠飲んだらキンキューヒニンになるから、使って」と小さくカットしたピルシートを差し出した。「どうして、ピル？」と尋ねると、腰に手を当てて不服そうに理由を話し始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、外ってすごーく怖いんでしょ？　歩いてるだけで襲われるって、テレビで言ってた。好き勝手乱暴されて妊娠までしちゃうかもしれないのに……お金も払わず逃げるなんて、どうかしてるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモが言うには、団地の外ではレイプと強盗がはびこっているから、可愛い上に特に身体が弱い女の子がここで &lt;em&gt;保護&lt;/em&gt; されているのだという。だったら、どうしてお金でセックスなんてさせられてるの？と疑問に思わないあたり、どうも彼女の素性にはまだ隠されているところがあるらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハルだってとっても可愛いのに。きっと、ハルは強いからここには呼ばれなかったのね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ……モモ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　延長する？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモには分からないところが多すぎる。もう少し彼女に寄り添うべきだと思ったけど、それでも、おそらくあと数分で聞き出せるような事情でもない。また会ったときに訊けばいいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと……私も、これあげるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;渡しそびれていたオープンハートのネックレスの箱を握らせると、モモはにっこりと微笑んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また来てね。きっとよ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;モモとのプレイを終えて外に出る。疑問が残る彼女の事情には後ろ髪を引かれるものの、ここ数日の欲求不満が解消されて身体はすっきりとしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「女子◯学生って、サイコー！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、お姉さ～ん。よかったら、駅まで送るよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;両手を上げて伏せ字を叫んだポーズのままでおそるおそる振り返ると、この団地で初めての&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;異常者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アベラント&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と遭遇していた。いつの間に近づいていたんだろう。全く気付かなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にスマホのレンズを向けている謎の女――青いインナーカラーがよく似合うショートヘアの女は、なぜかで安っぽいメイド服でママチャリに乗っていた。ちょうど、ディスカウントストアのコスプレコーナーで見かけるような布地の薄さだ。およそ外出に適した服とは思えないが、スレンダーな彼女にはむしろ似合っているように見えなくもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、いいです。近いんで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;恥ずかしさとパニックを押し殺して足早にその場を立ち去ろうとするが、小回りの利く自転車で素早く前に回り込まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと言わないでよ。あ、じゃあお腹空かない？　奢るから一緒に食べようよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;胡散臭い笑顔と安っぽいメイド服は、異常な状況に慣れてきたつもりの私でさえも受け入れがたい空気を放っていた。だいたい、私の魂の叫びを盗み聞きしたこの女は、どうしてこんなに馴れ馴れしいんだ。理不尽な恥ずかしさが、一周回ってイライラに変わる。こういう人間とは関わらないほうがいいものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に、お腹なんて空いてないです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、おしゃべりだけでいいから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは私にどんな得があるんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえこのまま断り続けていたらホームまで、最寄り駅まで、家まで……と、ずっと付きまとってきそうな勢いにも感じられた。変なマルチ商法の勧誘だったらすぐに帰ればいいし、ここはとりあえず気が済むようにさせた方が安全かもしれない。ここはまだ、レイプと強盗がはびこってる世紀末ではないんだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……まぁ、奢りなら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やった！　僕のことはサクラって呼んで。キミは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ハル、です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キューピアで使っているニックネームだし、知られたって問題ないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サクラと名乗る女と一緒に「集会所」という案内に沿って道を進むと、一階部分が五つほど教室のように区切られた棟に辿り着いた。その部屋の一つの前に「各種飲物・その他あります」と看板に挙げられている製品名は、既に半分が青いビニールテープで隠されており、長年そこに立っていたことを感じさせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの……奢るって、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;団地&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ここ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の中の話ですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;清掃員&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ルームキーパー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は来てないから安心して。それに、こんなのが残ってるのって国内でもここだけだし。一度くらい体験しておいて損はないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなの？　この何もないフリースペースに何が残ってるって？　何も聞かされないまま帰り道を大きく東に迂回させられた上に、ただの会議室でコンビニおにぎりでも渡されたなら、流石にそのまま顔にぶつけて帰ろう。そうしよう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サクラが慣れたようにがらりと立て付けの悪い引き戸を開けると、突然中に古めかしいデザインの食品や飲料の自販機が所狭しと並んでいる光景――いわゆるオートパーラーだ――が現れる。あれ？　外からはこんな機械があるようには見えなかった。真ん中には折りたたみの長机とパイプ椅子が並べられていて、簡易な飲食スペースであることが見て取れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;狐につままれた気分でおそるおそる中に入ると、甘ったるい匂いとしょっぱい匂いが混ざったむせ返るような空気で満たされている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「びっくりした？　感覚操作の研究もしてるんだよね、この団地」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;驚く暇もなく、感覚操作というなんとも怪しい言葉が飛び出した。彼女が言うには、団地の敷地全体に強力な電磁波を送り出すアンテナが設置されていて、脳――より厳密には視神経束と蝸牛神経――に直接作用するのだという。スマホが圏外を示しているのも実験の副作用で、間接的な証拠といえるらしい。その説明によれば、私の叫びも周囲の人間には聞こえていないので、尊厳は保たれたというもののやはり胡散臭い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここも、外から見ると空っぽの集会所だったでしょ？　中は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;清掃員&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ルームキーパー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の休憩所なんだよ」「鉢合わせたら捕まるじゃないですか」「平気だよ。外の清掃は朝だけだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに、私がこの休憩所を見つけられなかったことが直接的な証拠だと言うけれど、散々セックスで疲れ切った身体で突然暑さの中を歩かされたのだから、見間違いだって起きやすくなるはずだ。そんな簡単なトリックさえもバレていないような顔をして、サクラは得意げに説明を続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「感覚を操作できるほどの電磁波を浴び続けてたら、8Gなんかより強烈なダメージになるよね。遺伝子も書き換えられちゃうかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;電磁波、遺伝子操作、8G……SNSで散々見たような単語を耳に直接並べ立てられると、流石に迫力がある。くらくらしてしまうのは、疲れのせいだけではないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、アルミホイルで頭を覆ってみたら？」「信じてないでしょ」「そういう与太話、もうネットでいっぱい拡散されてるし」「8Gと遺伝子はもちろん冗談だって。じゃあ、やってみる？　スマホ貸してよ」「会ったばかりの怪しい人に貸すわけないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の雰囲気に流されて、私の返答も早口になってしまっている気がする。サクラは「しょうがないなぁ。見てから仕込みとか言わないでよ」と言ってスマホを取り出しながらカメラを起動した。そして、画面も見ずに何もない壁に向かってシャッターを押すと、コンマ数秒遅れて画面に写真が表示される。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら、分かる？　ここ、僕たちには見えないシフト表だよ。フジモト、アビコ、コイケ……読める？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が指した先には、確かにオレンジ色のマーカーで名前と勤務時間を示す表が貼られているのが見えた。またお得意のトリックだろう。「仕込みとか言わないでよ」というのも、安心感を誘う常套手段だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなわけない！と思いながら壁に向かって探るように手を滑らせていくと、かさり――突然、目の前に油の染みた紙が現れる。思わず上がった「ひゃっ」という間抜けな声に、サクラは満足げな笑い声を上げる。しかし、シフト表だったはずの面にはざらざらとしたノイズのような白黒のパターンが印刷されているだけで、罫線すらも読み取れない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「団地を歩き回って部屋に行って寄り道して……ここまで、どうして誰にも会わなかったと思う？」「見えなかっただけってこと？」「その通り」「まさか！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;驚いて振り返ると、その反応は想定済みとでも言うように、サクラはまた準備した写真を何枚か示した。廃墟を歩くスーツ姿の中年、革ジャンにデニムのおじさん、ポロシャツにチノパンの青年……ピントの合わないブレた写真のせいか、まるで心霊写真にも似た趣が感じられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、偶然同じ道を向かい合って歩いたら？　空気とぶつかったと思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急に目の前に出てきたように見える、かな？　そのシフト表と一緒だよ。人間の脳って、網膜の情報をそのまま見てるわけじゃないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シフト表が突然見えたときの感覚と、サクラと出会ったときの違和感がピンと繋がった気がした。サクラはそこまでまくしたてるように説明すると、ぽんと膝を叩いて「しゃべりすぎたね。そろそろ水分！」と立ち上がって自販機に向かう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、客同士が衝突するケースはあんまり想定してないと思うよ」「どうして？」「だって、ソープランドの廊下で談笑する客はいないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水分と称してサクラが買ってきたのは、徳利を模したボトルにおちょこが付いた日本酒と、箔押しで大きく「炎」「爆」と記された白酒――その他は主家華語でほとんど読めない――と、マヨネーズの袋が付いたシュリンクパックのあたりめだった。たぶん、水分補給にはならないと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サクラが無限マッチ&lt;sup id="fnref:inf-match"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:inf-match" title="金属製の小さな棒の先に黒い発火装置が付いており、ロックを握りながらざらざらの面に擦って火を出す。燃焼時間は短いものの、マッチ自体は燃えないのでほとんど無限に使える。"&gt;6&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;で少しずつその安っぽい肴を炙っていくと、ほんのり生臭くて香ばしい匂いが立ち上る。やっていることは路地裏の不法飲酒と変わらないのに、見ているとなんとなくお腹が空いてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「自販機はいくつかあるけど、お酒を売ってるのはここだけなんだよね。ハルも好きなものを買っていいよ。今日は僕の奢りだから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三百円くらい自分で出せるけど、と思いながら室内を一周する。うどん、そば、炒飯、アイスクリーム、チーズバーガー、ピザトースト……しっかり食べたい気もするけれど、合成チーズは油っこくて嫌いだ。少し迷って、無難にきつねうどんを注文した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ボタンを押すと、モーターとベルトが擦れるキュルキュルという音と共にできあがりまでのカウントダウンが始まる。結局のところ、お湯を沸かしてカップ麺を作っているだけなのに、随分と大仰な機械だ。赤い数字が動くのを見ていると、ハルの部屋にあった料金パネルを思い出してなんとなく寂しくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハルって可愛いよねぇ。僕ね、ハルみたいな顔、すごく好き」「はいはい。ありがとう」「顔だけじゃないよ。きっと、身体の相性もいいと思うんだよねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;酒気混じりの熱い吐息が気持ち悪い。幸運にも、完成を告げるブザーが酔っ払いの粗放な口説き文句に横槍を入れる。彼女の言葉を無視して麺をずるずると啜ると、化学調味料たっぷりのかつお風味だしの香りが口いっぱいに広がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この団地は初めて？」「えぇ」「すごいでしょ？」「なんなの、ここ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世間話のつもりで投げかけた私の疑問に、酔ったサクラは怒りと喜びが混ざったような熱気を込めて立ち上がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分からない？　国営のガチャ風俗だよ！　カジノ計画が急に頓挫したと思ったら、まさかこんなところでひっそり金儲けしてるなんて、誰も想像できなかったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;名指しで当てられても「いや……」と冷めきった返答しかできない私なんかお構いなしに、サクラは性欲と賭博をくっつけた最高のシステムだと褒めちぎった。財政解決まっしぐら、大減税時代に突入！と大演説を垂れ流す姿を見ていると、今すぐ都知事にでも転向したほうがよさそうに思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「都民カードを仕様と照らし合わせてるときに、謎のフィールドを見つけたんだよね。その断片を辿ったら、ここの住所とネットワークを見つけたってわけ。ハルは？　どうやってここに来たの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……キューピアで、ここの子に騙されて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かるな～！　ここの子、みんな可愛いもんね。桃源郷すぎて、マンションを解約してこの団地に住んでるんだ。トラカの残高が足りなくて、今は外に出られないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思わず耳を疑う。ここに住んでる、って言った？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、こんなところに住めないでしょ」「住めるさ」「洗濯は？」「自販機のセクシーランジェリーと、無料レンタルのコスプレを拝借してる。見たい？」「いや、見たくない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあ、サクラは部屋を転々としながら何日もここで自販機うどんを食べて暮らしてるホームレスってこと？　お互いが見えない特殊な空間だからこそ成り立つ脱法的な戦略だろうけど、どこまでもぶっ飛んだ女だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何度も使ってたら、通行料だけでも高く付くでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「毎回払うならね。でもそれは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;初心者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ヌーブ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のすることだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;得意げに言い放つサクラは、芝居ががったわざとらしい小声でその手口について述べ始める。会ったばかりの私にそんなことを話すなんて、あまりにも軽率に思えるが、私もそれを聞いて彼女をどうこうするつもりはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっとシステムに細工をするとね、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の精算機でルームキーを引けるんだ。番号も自由に操作できる……というのは言い過ぎだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の精算機ですって？　そんなの一つも――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――いや、 &lt;em&gt;見えなかった&lt;/em&gt; のだ。この団地では、利用者に都合の悪いものは文字通り視界から隠されているから。それがサクラの言い分だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、偶然その精算機を見つけたとしても、ボタンを押すだけでキーを発行するような代物ではないだろう。彼女のいう &lt;em&gt;細工&lt;/em&gt; がどんなものかは分からないけれど、そんなに簡単ではないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人間相手にサービス料をちょろまかすのは難しいけどね。機械ならかなり楽だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いずれバレるわよ。駅の人も監視してるでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、 &lt;em&gt;駅員&lt;/em&gt; のこと？　あれはただの無能な事務員だから、監査ログにさえ気を付ければ平気だよ。まったく、国家を救う一大プロジェクトなのに、予算だけは少ないんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;口ではそう憂えてみせるけど、実際はその不具合を利用して欲望のままにやりたい放題だ。きっと、本心ではこのまま穴だらけの庭で好きなだけ女の子と遊びたいと思っているのだろう。白々しい態度が鼻についた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハルにも教えてあげようか」「別にいい」「どうして？」「ズルはよくないから」「やだなぁ、仕様の範囲内だよ」「それは言い訳よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これ以上彼女といると自分の常識が狂いそうな気がして、やにわにこの場を離れたくなってしまう。結局自腹だった食事も済んだので「帰る」と立ち上がると、サクラが慌てて私を呼び止めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「偽造トラカ。あげるよ。食事代のかわり」「偽造って？」「ダミーの都民カードと紐付いてる」「いらない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いわゆる白トラカというやつだろう。私はホームレスじゃないものと言い返すと、サクラは違う違う、と首を振った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「都民カードに風俗の利用歴が紐付くのって、結構恥ずかしくない？　もちろん、隠れフィールドだから滅多に読まれたりはしないと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……確かに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;忘れかけていたけれど、私は国家規模の風俗街に迷い込んでいるのだった。トラカも何度か個人情報流出事故を起こしてるし……カードを受け取ると、サクラは嬉しそうに微笑んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ、サクラ。感覚操作ってことは、女の子たちも本当は今見えてる姿と違ったりする？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここのアンテナの精度ではそこまで操作しきれないよ。見せるか、見せないか、あるいはノイズで上書きするか……今まで見たことがあるのはそれくらいかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。ありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スープと箸を捨てて、容器を返却口に放り込む。プラスチックの丼の裏に「☆大当たり☆」というテープで百円玉が貼り付けられているのが見えたけれど、丼はもう私の手を離れてダストシュートの奥へと吸い込まれていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あれから、私はしばらくあの団地には行かなかった。この前は不意打ちに近い形で入場させられただけなのだから、当然といえば当然だ。都民カードに履歴が残りかねないというのも、私にとっては大きな抑止力になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、サクラに渡された偽造トラカさえ使えば、個人情報と紐付くことはない。しかし、エラーになったらどうしよう、見つかって捕まったらどうしよう……白トラカを改札に通す瞬間を想像すると、手足がひどく冷たくなって震えが止まらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、 &lt;em&gt;その瞬間&lt;/em&gt; は唐突に訪れる。キューピアから、モモのアカウントが消えたのだ。あの一件からモモと私は風俗嬢と客の関係にはなってしまったものの、変わらずやり取りを続けていたし、団地に興味が向かなかったのもこのせいだ。それなのに……思い出を反芻するだけで収まっていた私の性欲と期待が、むくむくと湧き上がってくるのを感じていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あそこに行けばまた会える、きっと会える、会いたいと思っているうちに、いつの間にか私は白トラカを手に西鷹砂台へと向かっていた。残念ながら――いや、当然というべきか――精算機から吐き出されるルームキーは、モモの部屋のものではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモより背が大きくて、モモより胸が小さくて、モモより可愛くない。もちろん、性的なサービス自体はそれなりに気持ちいいけれど、それはむしろモモへの渇望を強めるだけだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『ユカリです♡』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次は、絶対モモのところに行ける」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『ミホで～す』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次は、きっとモモのところに行ける」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『カナコでーす』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「頼む、もう一回だけ……モモ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『アリサで～す♡』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、排出どうなってんの……これ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;精算機に向かうと指先が冷たくなって、足が震えた。入場料だけで一回一万円、サービス料は一～三万円。部屋に行かずに帰ればいいと思ったこともあるけれど、モモがどの部屋にいるか分からないのに、入場料だけ払ってルームキーを捨てるわけにはいかなかったのだ。ズルはよくないと言い放った手前、サクラに頼ることもできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この頃には、モモと会えないなら、せめてモモより可愛い子でいいから……という浅ましい願いも頭をよぎっていたが、これも叶うことはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明らかに小さくない出費なのに、週に三回を超えてしまって入場を断られることさえあった。団地に行かなかった夜は、何度も精算機を回す夢を見た。いつしか私は、モモに会いたくて団地に通っているのか、あの指先の冷たさを味わいたくて精算機の前に立っているだけなのか、分からなくなっていた気がする。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;違和感に気付いたのは、団地に二ヶ月ほど――回数にして二十回ほど――通った頃のことだった。この団地には、同じ顔の子が何人かいるような気がした。例えば、おとなしい性格の子と話していると、ふとその子が活発で積極的な性格だったことを &lt;em&gt;思い出す&lt;/em&gt; という現象が続いたのだ。もちろん、何度も通っているから似たような顔を勘違いしているだけかもしれないけど、それにしてはあまりに奇妙な感覚だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてそれは、ある日確信となって私の前に現れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの可愛らしい顔立ちに、低い背に似合わない大きな胸。喘ぐと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;子宮&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ここ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に来るあの声で「久しぶりだね」と私に笑いかけるのだ。とうとう見つけた！　また会えたんだ！　……しかし、モモの様子がおかしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、はい。モモです。よろしくお願いします」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、私のこと、覚えてる？　この前、ネックレスあげたよね？　持ってる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お、覚えてます！　でも、えーと……ごめんなさい。失くしちゃったかも、しれないです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;失くした？　そんなわけ……と、ぺこりと頭を下げる彼女は、顔立ちこそモモに似ているものの、やはりモモとは歩き方一つ取っても――表情筋の使い方も――違う。よく見ると、私が知っているモモより少し背が小さい気がする。それに、大好きなポップコーンさえ抱えていない。不安そうに私を見上げるだけで、性欲を煽り立てるような色気もまるでなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……モモさんは、ポップコーンは好き？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ポップコーン、ですか？　すみません、ほとんど食べたことありません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私のことは？　好きって言ってくれたよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はいっ！　モモ、言いました！　好きですよ、えーと……ネックレスの、お方？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……」「す、すみません……」「いや、うん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気になることはたくさんあるけれど、これ以上目の前の少女を問い詰めても、モモについての情報は出てこないだろう。だって、この子はモモじゃないから。モモに似た、違う誰か。きっと、モモの代わりにはならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、ごめん。今日は帰るね」「えっ、困ります」「お金はちゃんと払うから」「はい、それなら……ご満足いただけず、申し訳ありません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと窓際を見ると、鉢植えから広がる月桃の葉はまだ若く、蕾をつけるまではさらに数年かかることを伺わせる。斑の入った美しい葉にモモの面影を感じて、きゅっと胸が締め付けられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一度満たされかけた私の心に降り注いだのは、ありったけの喪失感だけではない。モモが何人もいるかもしれないという不気味な不安、モモという存在自体が揺らぎだす吐きそうな感覚、 &lt;em&gt;本当の&lt;/em&gt; モモと再び会えるのかという疑問……モモのことを考えるたびに、彼女の一つ一つがこぼれ落ちていく気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうすれば、どうしたら。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「サクラ。あなたなら、ここから女の子を連れ出せる？　一人でいいから」「……んむ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遅めの昼食と称して大盛りのうどんを啜っていたサクラの動きが一瞬止まったが、すぐに残りを吸い上げるように口に流し込んだ。着替えたばかりのメイド服に琥珀色の汁が跳ねる。スープと一緒にじれったそうに麺を飲み込むと、キラキラした目で身を乗り出してきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハル、かっこいい目してるね。今すぐ連れ帰られて抱かれたくなるよ」「あんたじゃない」「分かってるって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、サクラに先日の不可解な出来事について話した。モモが私を忘れていたこと、プレゼントも持っていなかったこと、同じ顔の子が違う性格で出てきていること……ひょっとすると、彼女らは数年で使い捨てられる存在なんじゃないかという予感がすること。サクラは時折「やっぱり、そうか」「いや、しかし」と、気になる相槌で私の話に応えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「要するに……ハルが最初に会った『モモ』に会いたい、と。そして、あわよくばここから連れ出し……いや、救い出したい。そうだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっと話をまとめようよ、とハルはメッセンジャーバッグからノートを取り出した。まず、二つの部屋とその中にいる二人の女の子を描く。それぞれにA子、B子と書き込んで、二人を矢印で繋いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まず、違う人格の同じ子が出てくる話。これはたぶん遺伝子レベルで正しい。そして、同じ部屋からは同じ子が出てくることを考えると、複数のクローンが同時に収容されていると考えるのが自然だと思う」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ハルは右上にのこぎり屋根を描き込むと、そこからさらに二人に点線を伸ばした。どうやらクローン工場のつもりらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次に、彼女らが&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;使い捨て&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;エフェメラル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;かもしれないという話。実は僕も、その可能性は少し検討してた。みんなあまりに &lt;em&gt;適齢期&lt;/em&gt; すぎるからね。でも、判断材料がない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どういう意味？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そもそも、電磁波の影響なんて、普通は一生浴び続けて発現するかどうかなんだ。どんなに電磁波が強くたって、十年浴び続けて、十年後にちょっと疲れやすくなるだけかもしれないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋の上に描き込んだ三つの塔から、雷のマークが数本伸びた。A子とB子の目がバツになって、いかにも体調が悪そうな様子に変わるけど、どちらも近くに書き込まれた疑問符でその不確実性が強調されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「電磁波で衰弱死しないとしたら……」「殺処分？」「おそらくは、そう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;口をついて出た物騒な言葉に、自分でも驚いていた。殺処分？　モモが？　そんなのあるわけない。でも、あの月桃は決して花を咲かせることはないのだろうという悪い予感が、どうしても拭い去れずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少しの沈黙の後、ハルは続きを書くのをやめて、一旦ノートを閉じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、それは今気にすることじゃないよ。いちばん重要なのは……どの部屋に行くかってことかな。たぶん、ハルはどの部屋に向かったか覚えてないはずだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなわけないでしょ？　エレベーターに向かって、トラカをかざして……あれ？　でも、南の大きな建物に入ったはず……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これまで当然のように覚えていると思っていたモモの部屋のことを、なぜか私はすっかり忘れていた。だって、モモは確か、この部屋の番号が何かと同じだと言っていたはずで……なんだっけ？　思い出そうとすると肝心な部分が飛ばされて、巻き戻してもまた飛ばされる。気持ち悪い。いくら辿っても、記憶があったという記憶だけがそこに広がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、こうやって僕たちも電磁波に操作されてるんだよ。南の大きな棟――C-K-1棟は一階あたりおよそ四十人……全部で十五階あるとして、六百人は収容できる。下から順に探していけば、きっとどこかにはいるだろうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、順番に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだね、分からなかったら順番に開けていくのが確実だよ。でも、僕だって一度に何十枚も&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;番号自由指定&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ナンバード&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のルームキーを出したら流石に気付かれるかもしれない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、一つずつランダムに引いたら？　それなら、たくさん引けるでしょう？　順番に探すよりは効率がいいかもしれないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を聞いて、サクラが大きなため息をつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ガチャの経験は？　もちろん、ここ以外でね。まぁ、TRPGでもいいけど」「ないわ。TRPGって何？」「だろうね。じゃあ思い出すしかない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなこと、私が一番よく分かっている。自分が行きたい場所のはずなのに、自分で思い出せないなんて。モモはなんと言っていた？　モモは、おじさんが……おじさんが嫌いで……昔の――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「古いアニメ映画で……そうよ、桃太郎！　桃太郎が出てくる年と同じだった！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然立ち上がって叫んだ私の前で、サクラは返す言葉もなくきょとんとしている。タイムトラベルで過去に戻って桃太郎になる話、モモはそんな不思議な映画の話をしていたはずだ。モモと桃太郎が並べられて不快そうな顔をして。思い出した！　思い出せた！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「桃太郎？」「そう、分からない？」「桃太郎の映画ってこと？」「たぶん……そう」「いや、知らないな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だめか～……」と落胆する私をよそに、サクラは「いや」と小さく答えて、またノートを開く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それだけ分かれば十分。大事なのは、 &lt;em&gt;操作&lt;/em&gt; される前にメモを取ることだよ。少しシナリオを考えてみるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サクラはガリガリとノートに「桃太郎の古いアニメ映画」と何度も書き続けている。「ごめんね、一週間はかかると思う」と告げる横顔がいつになく凛々しく見えたのを自覚して、私は急に恥ずかしくなった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;作戦決行は、彼女の宣言した通り一週間後の夕方となった。真正面からシステムをダウンさせて隙を作るという作戦は、単純かつ強力なダメージを期待できるものの、万が一失敗すれば団地を追い出されるだけでは済まないかもしれない。そうでなくとも、作戦後は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;端末のセキュリティは強化されてしまうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここに残っても追われることになるだけだと予見したサクラは、私たちと一緒に団地を脱出すると告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『まずハルは、駅の精算機でカードキーを引いて通常通りモモの部屋へ行く。しばらく経つと火事か地震の警報が鳴るから、この赤トラカでモモと一緒に屋上に出て』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅の精算機では、彼女の細工のおかげで待ち望んでいた1338号室のキーが吐き出された。両手を上げて喜びたい気持ちを抑え、平静を装って駅員にカードを渡すと、何も気付かないまま白トラカとルームキーが戻される。彼はサクラの言う通り、ただの無能だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモ、久しぶり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;C-K-1棟の13階、1338号室――あの日と同じ部屋――の扉が開くと、待ち望んでいた懐かしい顔が私を出迎える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハル！　どうしてここに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また来てね、って言ってたでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモは驚きと喜びに満ちた表情で、部屋に引き入れた私の腰を強く抱きしめる。それを優しく包み込むように背中を撫でると、モモの腕の力が少しずつ弱くなっていくのが分かった。彼女は確かにそこにいて、私は彼女とここに立っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;月桃は、小さな桃の形の蕾を付けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハル、ごめんね。今日は――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモの言葉を遮るように、ジリリリリリリリリリリリリリリリ！と、けたたましい音量のベルが鳴る。待ちに待った再会を果たしたっていうのに、いくらなんでも進行が早すぎるんじゃないか。それでも、今はサクラの書いたシナリオに従うしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『警報が鳴ったら、すぐにモモを部屋の外に出すこと』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモ！　避難しよう！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うよりも先に、モモはベッドの下から白い十字のワッペンが貼り付けられたオレンジ色のリュックを引っ張り出している。いわゆる防災リュックだ。床に置いたまま背負って持ち上げようとするけれど、時折ふらつく姿を見ていると、どうにも重そうに見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……それ、重いなら置いていかない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ダメだよ！　もしかしたら、しばらく外で生活しなきゃいけないかもしれないでしょ？　 外は危険だもの。ハルの分もちゃんとあるから、安心して」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、そうね……じゃあ、持っていこうか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの大きなリュックが災害用のグッズで埋め尽くされているとしたら、おそらくこの先では必要のないものでいっぱいだろう。しかし、ここで説得していたら、脱出が遅れてしまうかもしれない。とりあえず、部屋を出てから考えよう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『屋上に行けるのは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のエレベーターだけ。赤トラカはカードのIDを書き換えられるんだ。ここはIDだけで認証してるから、同じカードが何枚でも作れる』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さく一呼吸して、真っ赤なカードをセンサーに当てた。サクラの言う通り、ランプが緑色に点灯してエレベーターが動き始める。今は、初めてモモの部屋に向かったときよりも、ずっと緊張していた。そして、いつ本物の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に出くわしてしまうか、捕まったらどうなるのか、悲観的すぎる想像に恐怖していた。手足が冷たくなって小さく震えているのが分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモと一緒にエレベーターに乗り込むと、彼女はやはり不思議そうな顔をした。エレベーターが上に向かって動き始めると、肩紐を握って背負うようにきゅっと引き上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハル、どうして屋上に向かうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、モモ。私、あなたを騙してるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そっか。じゃあ、これでおあいこだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;屋上階に着くと、利用者が出入りする居住区とは違って掃除の行き届いていないエレベーターホールが現れる。壁には&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;エレベーターの扉だけではなく、残りの二つの扉があったはずの位置が白くコンクリートで埋められた跡が残っていた。かつては、居住者用エレベーターでも屋上に移動できたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;重い扉を押して外に出ると、地上五十メートルの広々とした眺望が現れた。当然、床が清掃された形跡はなく、長年の雨が流れて錆びついた黒い跡がそこら中に走っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『屋上から全部の棟を &lt;em&gt;見る&lt;/em&gt; んだ。一棟をじっくり見つめるんじゃなくて、まんべんなく眺める。そうすれば、再描画でかなりの負荷がかかるはずだから』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一歩前に踏み出して、階下の景色を眺めていく。ドミノのように計画的に並べられた棟や、中庭をぐるりと囲む棟。赤いアスファルトのひび割れたテニスコートや、雑草の生えそろった小さな野球場、打ち捨てられて錆びついた大きな遊具。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;徐々に視線の動きと合わない風景が残像のように乱れ始め、輪切りになった街路樹の幹がフェンスにめり込む。なけなしの自然を楽しめるように壁に印刷された清流の写真や植物の絵は、道路の上でちらつきながら砂のように分解されていった。そうやって、団地のあらゆるテクスチャが壊れ始めていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かつてここには人の暮らしと夢があったはずで、まさかその寿命を終えた後にこんな風に使われるなんて、誰も想像できなかっただろう。そのお粗末で冒涜的な延命処置がこうして綻びて壊れていく様子は、まるでこの団地の行く末を暗示しているようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『施設内の過半数のノードがダウンすると、システム全体の再起動が始まる』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あとは、全てが壊れるまで待つだけだ。サイレンが鳴り響くまるで世界の終わりみたいな風景の中で、私はモモと手を繋いで静かにそこに立っていた。この棟が音もなく崩れ去って、光の中でモモと一つになってしまう錯覚さえ感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『警報が止んだら、外に出る。この警報で駅に待機してる職員が全員出てくるはずなんだ。その隙に三人で電車に乗り込む。自動運転だから、ホームまで辿り着けばこっちのものだよ』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、モモ。私と一緒に来てくれない？　団地の外に。きっと、ポップコーンを食べるより楽しいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;できることなら、もう少しモモとあのピンク色の部屋で二人の時間を過ごしたかった。あの部屋は暴力と性欲で退屈を覆い隠す悪循環が支配する場所だったけど、彼女が1338号室で小さくてささやかな幸せを集めていたのも、また事実だったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいよ。ハルが私を守ってくれるんでしょ？　幸せにしてね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモの答えを聞いて、私は胸を撫で下ろす。できることなら日が落ちるまでこの景色を二人でずっと眺めていたかったけど、今はそういうわけにもいかない。テクスチャは徐々に整合性を取り戻しつつあった。急がなきゃ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「走れる？」「ちょっと難しいかも」「リュックはもういらないよ。私が守るから」「……うん、そうよね！　それなら走れる！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;防災リュックを屋上に残して、私たちは再び&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理用&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アドミン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;エレベーターに乗り込んだ。闇雲に歩き回ってもエレベーターの動きが早くなるわけではないけど、どうしても小さく足踏みしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモは、ここにいて幸せだった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。だって、ハルに出会えたんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エレベーターを降りると、サクラが待ってましたと言わんばかりに仁王立ちでこちらを睨みつけていた――なぜか、黒いチャイナ服で。二人の間に流れるしっとりした空気などお構いなしという風に、手をぐるぐると回してその慌てっぷりをアピールし始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「思ったより駅員の動きが早い！　二十秒ほどのズレがある！　急ごう、今は駅が手薄だ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例のママチャリにまたがったサクラは、後ろに乗るように促した。指示された通りに荷台に腰掛けてみるけれど、当然モモも連れて行く必要がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人いるんだけど」「譲り合って乗ってよ」「無茶言わないで！」「身体が小さいから大丈夫だって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが言い合うのをよそに、モモが私の身体にしがみついて立位&lt;sup id="fnref:stand"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:stand" title="編注・いわゆる駅弁のことと思われる。"&gt;7&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;のような、対面座位のような姿勢に持ち込んだ。足を私の後ろに投げ出しているおかげで左右のバランスは取れているが、自転車にバスローブという組み合わせはマニア向けなシチュエーションに思える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、こうすればいいでしょ。ほら、早く出してよ、サクラさん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その光景に面食らったような表情を見せたサクラだが、すぐに我に返ってトップギアで走り始めた。脚を上下すると、見た目重視で伸縮性の悪い布地が時折ぶちぶちと音を立てる。なんでチャイナ服なの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;感覚操作が無効になっているせいで、非常ベルを聞いて部屋を飛び出した利用客が、乱れた着衣のままで外に立ち尽くしているのがよく見えた。それと比べれば、私たちの密着したポーズくらいどうってことないことに思えてくる。もう少し待てば、感覚操作が再起動して &lt;em&gt;尊厳は保たれる&lt;/em&gt; だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「モモ、ここから先は自分の足で走るよ。できそう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫、走れるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩道橋の前まで全速力でペダルを漕いだサクラが、ハンドルにもたれかかって呼吸を整える。流石に疲れてしまったのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやー、みんな重すぎ！　行くよ、ハル！　モモ！」「呼び捨てにしないで！」「モモさん！」「それでよし！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……と思ったけれど、まだまだ元気そうだ。サクラが「あと三十秒で出発！　トラカは絶対捨ててね！　適当な駅でごまかして増運賃を払うからそれで！」と叫びながら誰もいない改札を駆け抜ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モモが団地に向かって小さく一礼をしてから、私たちもサクラの後ろに続いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ホームに駆け上がったあたりで後ろを振り向くと、モモが十段ほど下でよたよたと這うように歩みを進めているのが見える。私に遅れて数秒後、モモは階段を上り切って大きく息を吸った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ハル！　疲れて死んじゃいそう！　今の私、最高にドキドキしてる！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう叫んで肩で息をするモモが、これまで見た中で一番の笑顔で電車に飛び乗った。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私たちが乗り込んだ電車は、定刻通り無事に西鷹砂台駅を出発した。次の駅に着くまでほんの数分間、それでもうこの団地から離れることができる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハル、ごめんね」「どうしたの？」「あのネックレス、リュックに置いてきちゃった」「あー……いいよ。また買ってあげる」「うん、ありがと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと窓の外を見ると、小さくなっていく団地の囲いの向こうで、黒い煙が上がっているのが見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;システムの再起動中に熱暴走でも起こしたか、あるいは電磁波の制御が効かなくなって火事でも起こったのか。どちらにせよ、あの様子ではしばらくまともに営業できないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、団地には戻れなくなっちゃったな」「いや、戻らなくていいでしょ」「家がないんだよ、僕は！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、この風俗狂いはホームレスになってまであの団地に通い詰めていたのだった。あのハッキングのスキルがあれば、仕事くらいすぐに見つかりそうなものだけど。彼女自身もそれは分かっているのだろう。家がないと嘆いている姿も、どこか余裕そうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しばらく私の家に住む？　今回は流石にお世話になりすぎたし」「いいの？」「私は嫌だな」「モモ、私たちの恩人だから」「はぁい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;家に住まわせるなら、モモの住民登録をしておいたほうがいいかな。団地の子の登録なんてしたことないけど、サクラに頼めばどうにかしてくれるだろう。パートナーシップならスマホ代も安くなりそうだし、大家さんにも説明が付くし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、月野モモね」「えっ？」「モモの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;住民票名&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;リーガルネーム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;。ツキのモモだから。単純すぎるかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然のプレゼントに嬉しそうなモモは「ううん、いいと思う！」と照れた顔を取り繕うように大きな声で答えるけれど、それから「月野モモ、月野、モモ……」と何度も反芻しているうちにまた顔が赤くなっていくのが分かる。可愛い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、今回は桃太郎に救われたんだから、月野桃太郎の方がいいんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ハル、私この人のこと嫌い。デリカシーないし、エッチも下手そう」「エッチが下手そうなのはなんとなく分かるかも」「まぁまぁ、三人で仲良くやろうよ」「あなたが言わないで」「モモ」「だって！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水を差されて怒ったモモが、私から身を乗り出してサクラを睨みつけるのを宥めているうちに、隣駅のアナウンスが流れて電車が止まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次は、新鷹砂台、新鷹砂台」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たち以外誰もいなかった車両に、ちらほらと都心に向かう乗客が乗り込んでいく。それは、私たちが少なくとも今はあの団地から逃げ切れたことを意味していた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;たのしい手書きあとがきコーナーより:&lt;br&gt;
&lt;img alt="手書き文字で「楽しくノベライズさせていただきました。ゲーム版の一周目は、電車まで大事に持っていたリュックが爆発してしまうそうです。」と、右下にかたぎりあまねのサイン" height="750" src="/images/fortune-popcorn/afterwords.png" width="1500"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:qpia"&gt;
&lt;p&gt;好みのパーツを組み合わせて検索できるモンタージュスタイルで気軽なデートのマッチングを指向した、いわゆる &lt;em&gt;ヤれる&lt;/em&gt; アプリである。Qの中に♡を配置したローズピンクに白文字のロゴで、Q'piaと綴る。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:qpia" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:traca"&gt;
&lt;p&gt;都民カードと紐付いた非接触の乗車券で、個人情報の利用方法についてしばしば問題になっている。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:traca" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:OHEYAlbum"&gt;
&lt;p&gt;自分の部屋を撮影してインテリアを紹介できる「キラキラ系SNS」としてリリースされたが、最近はVR空間のスクリーンショットを投稿するカテゴリが新設されて人気を集めている。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:OHEYAlbum" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:black"&gt;
&lt;p&gt;黒い紙で巻かれた見た目が特徴的な外国たばこ。一箱に十本しか入っておらず、通常のタバコ箱よりも縦に長い。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:black" title="Jump back to footnote 4 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:maxheight"&gt;
&lt;p&gt;編注・建築基準法と消防法の制限があるため、実際は四十五メートルだったと思われる。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:maxheight" title="Jump back to footnote 5 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:inf-match"&gt;
&lt;p&gt;金属製の小さな棒の先に黒い発火装置が付いており、ロックを握りながらざらざらの面に擦って火を出す。燃焼時間は短いものの、マッチ自体は燃えないのでほとんど無限に使える。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:inf-match" title="Jump back to footnote 6 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:stand"&gt;
&lt;p&gt;編注・いわゆる駅弁のことと思われる。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:stand" title="Jump back to footnote 7 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>正妻と正妻に挟まれた私のお話！</title><link href="https://ama.ne.jp/post/seisai/" rel="alternate"/><published>2021-02-03T23:51:00+09:00</published><updated>2021-02-03T23:51:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2021-02-03:/post/seisai/</id><summary type="html">&lt;p&gt;生殖機能を奪うウイルスが世界中に蔓延し始めてからおよそ一年……&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://www.pixiv.net/novel/contest/yuribungei3"&gt;第3回百合文芸小説コンテスト&lt;/a&gt;に応募されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;!-- インファウイルスと呼ばれる生殖機能を奪うウイルスが世界中に蔓延し始めてからおよそ一年。大学に進学した春木場（はるきば）は、ある日高校で同じ部活だった神宮寺小町（じんぐうじこまち）からビデオチャットで恋愛の悩みを打ち明けられる。当時から神宮寺の恋愛相談に乗っていた春木場は、神宮寺の恋人である厨川雫（くりやがわしずく）がまた何かおかしなことをしたはずだと予想するが、神宮寺は詳しいことは直接会って伝えるとの一点張りでそれ以上話そうとしない。春木場はその件を幼馴染の橋場（はしば）に話してみるものの、直接会うべきかどうか、なかなか結論が出ない。結局神宮寺に会うことにした春木場は、喫茶店で「雫が急に『浮気してもいいから』と言い出した」という話を聞かされる。きっと半歩飛ばしの謎理論から出た発言だと予想した春木場は、厨川の言う通り本当に浮気してはどうかと提案した。しかし、その提案に賛成した神宮寺が指名した浮気相手は、他でもない春木場だった。厨川に一泡吹かせるためだと、春木場は二人が暮らす家へ招かれるが、そこで繰り広げられたのは……。正妻の余裕と正妻の余裕に挟まれた後輩の、奮闘の物語。 --&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「春木場、久しぶりね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;画面の向こうから、神宮寺先輩が私に手を振る。凛とした顔立ちに、ぱっと柔らかい笑顔が浮かんだ。あの頃、放課後のおしゃべりの合間に見せていた、本当に楽しそうなときの表情だ。私を貫いてどこか遠くを見据えるような綺麗な瞳は、今でも変わらず綺麗なままそこにあった。とはいえ、画質の悪いビデオチャットを通すと何かを見落としてしまったような気分になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リモート講義のためにと両親が新調してくれたノートパソコンは、ウェビナーくらいなら余裕だからと預けられたけど、既にファンが回る音がうるさくって、このままテーブルを滑って離陸しそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先週も話したばかりじゃないですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　高校の頃は、毎日顔を合わせていたから、電話だけじゃ物足りないのかもしれないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;制服によく似合っていた腰までの長髪は、つやのある黒曜石のような髪色をそのままに、ばっさりとミディアムボブに切り揃えられていた。卒業したら髪を切るって言っていたし、SNSに上げられていた自撮りだって何枚も見たけれど、やっぱり目の前にするとちょっと心がざわついた。髪の長さが変わったくらいで、先輩がいなくなったりするわけないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩の部屋は相変わらず物が少ない。今座っているだろう壁際のデスクの後ろに見えるのは、シンプルなスチールベッドとマットレスだけで、他に何か置いてあるとすればデスクの横に四段くらいの本棚が一つか二つ、くらいだろうか。きっとクローゼットもよく整頓されていて、掃除も行き届いてるに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなにきちんとしてないわ。最低限のことだけよ。春木場は、相変わらず部屋が散らかってるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、これはまだ引っ越しの荷物の整理が終わってなくて、ですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう二ヶ月も経つでしょう？　ちゃんとしないといけないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はーい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩――神宮寺小町は、高校の一つ上の先輩で、二年間同じ部でお世話になった人だ。幽霊部員ばかりで部と呼べるほどのしっかりとした活動はしていなかった気がするけれど、一方で先輩との時間はたくさんあった。背の高い彼女が部室に一人で座っている姿は飄々として見えるけど、話してみるとちゃんと不安や悩みを持っている普通の――年相応に恋や勉強に悩む――女の子なのだと実感する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「厨川さん、今日はいないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お友だちと、夕食に出かけてくるって言ってたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってから、先輩は「いえ、本当は飲み会らしいの」とばつが悪そうに付け足した。きっと、大学の友人には夕食だと説明しているせいで、口をついて出たのだろう。夕食でも宴会でも誰かと会うなら大きな違いはない気がするけど、呪術的な大切さを兼ね備えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、この時期に？　なんというか、本人の自由だとは思うんですけど。先輩は怖くないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気にしてないつもりだけど、病気はやっぱり怖いわね。雫は本当に気にしていないみたいだけれど、周りを巻き込んでしまわないか心配よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;例のウイルス&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インファウイルス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、確かに私たちの生活をネガティブに変えてしまった一方で、今まで注目されなかった技術や文化の進歩で便利になった部分も多い。そうやって、多くの人々がだんだんと新しい生活に慣れていく中で、厨川さんみたいに今まで通りの生活を送ろうとする人は白い目で見られがちだ。先輩の不安げな表情には、そういう世間の視線が厨川さんに向くことへの心配も含まれているだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、本当は私を置いて出かけてほしくないのよ。でも、雫ってお友だちが多いから、いつでも私が一緒というわけにはいかないでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、一度きちんと伝えたほうがいいですよ。出かけてほしくないって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうね。春木場も、そうしたほうがいいと思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。私なら、そうします」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;厨川さん――厨川雫は先輩の同級生で、私よりも先輩とずっと深い仲の、えぇと、つまり先輩の恋人だ。中学からの同級生で、私が先輩と出会うよりも前から付き合っているらしい。昔のことはよく知らないけれど、先輩からいろいろ聞いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つかみどころのない性格は先輩の第一印象と似ているけれど、周囲を巻き込む身に纏ったある種の――先輩とは真逆の――親しみやすさのせいか、わざわざ「先輩」と呼んだことはなかった。卒業してからショートレイヤーの茶髪をさらに明るく染め上げて、自撮りに写る先輩といいコントラストになっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩はその自由さに惹かれたと言っていたけど、私に言わせるとあまりに違う部分が多すぎると思う。よく言えばさっぱりとした性格で、悪く言えば軽すぎるところがある。先輩が変な影響を受けたりしないか、五年目になった今でも少し心配だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「春木場は、最近外に出ているの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「近所のスーパーで、最低限の買い物はしてますよ。両親がうるさいんです。ちゃんと対策できないなら、四十二田に帰ってこいって。実家のほうが安全らしいですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「愛されてるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、そんなんじゃないですよ。ただ、自分たちの感情を優先してるだけで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;両親にちょっと外出した話をすると、きちんと対策するようにという前向きなアドバイスから、いつの間にか私の意識が低すぎるという説教に変わってしまう。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;病気&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インファ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にかかったらどうするんだ、孫の顔を見せない気かと言われても、孫より目の前の生活のほうが大事だと言い返したくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもしれないわね。愛なんて、結局のところ自分の感情を正直に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこまで言いかけて、先輩は急に黙り込んだ。消えるような尻すぼみの声と、思いつめたようなため息は、彼女がどうして突然ビデオチャットに誘ってきたのかをよく物語っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、春木場。私って、やっぱり魅力がないのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;再び口を開くまでの絶妙な間で、あの頃の部室の時間を思い出す。沈黙からの急な話題転換は、先輩がどうでもいいことで悩んでいるときの合図だった。学食のランチが美味しくなかったとか、小テストの点数が微妙だったとか、厨川さんが誰かと親しげにしていたとか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしてですか？　先輩は魅力的ですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう。でも、こんな風に訊かれたら、そう返すしかないわよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、先輩は「春木場には、いつも気を遣わせているわね」と呟いて、デスクに伏してしまった。あんまり先輩っぽくない無遠慮な弱り方だ。後ろから現れた真っ白な壁も相まって、縮こまった先輩の身体がより小さく感じてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何かあったんですか、先輩。いつになく弱気ですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たち、ちょっと問題が起きている……かもしれないのよ。ごめんなさい。急よね。でも、春木場くらいしか頼れなくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やはり、どうでもいいこと――厨川さんに関する悩みらしい。先輩の恋愛相談なら、私には慣れっこだった。しかし、起き上がった先輩にどれだけ経緯を尋ねても、直接会って話したい、の一点張りで先に進まない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきも言ったじゃないですか。この時期に外出するのは、リスクが大きいですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、大事なことなのよ。大事なことだから、ちゃんと春木場に聞いてほしいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って私を見つめる先輩の目は、やはりあの頃と変わらず私を貫いていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「だって、あんな頼み方されたら断れるわけないじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、神宮寺さんもリスクをとってまで春木場と会いたいわけでしょ。そう考えると、一種の愛なのかもしれないね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、こんなの愛じゃないって。可視化されてないだけで、おおよそ暴力の類だよ。私は巨大な暴力に従うしかないってわけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;電話の相手――幼馴染の橋場は、私が先輩と会う約束をしてしまったことについて、おおむね好意的に評価した。ただし、恋愛相談のためだけに会うつもりなら今からでも断るべきだ、とも言った。自分が直接会いたいと思わないなら、リスクをとる価値はないという意味だ。橋場らしいなと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと橋場は「あの二人が別れたって、春木場には関係ないでしょ」とでも言うんだろうけど、二人が別れてしまうのは困る。だって、私は二人が幸せになれるように、ずっと先輩の恋愛相談に付き合ってきたんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そりゃあ、先輩たちはいいよ。インファにかかっても、どっちかに妊孕性が残ればなんとかなるし。最悪でも里親か養子縁組でしょ？　確率では、えーと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人に両方後遺症が残る確率は四パーセントくらいかな。まだ統計が十分じゃないから、上下すると思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。そして、私が発症する確率はその五倍。私がとるリスクは先輩の少なくとも五倍ってことよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、五人に一人なら、しれっと当たらずに済みそうだけど。致死率はほぼゼロに近いし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昨年の頭から広がり始めた不思議なウイルスは、形ばかりの高熱と低すぎる致死率の代わりに、生殖機能の破壊という強すぎる後遺症のおかげで&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;不妊ウイルス&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;インファウイルス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と呼ばれるようになっていた。一度かかってしまえば強力な免疫を獲得できるらしいから、いつになるか分からないワクチンの配布を待つか、あとは人生をかけたガチャを回すかのどちらかだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、生殖機能を必要としない人にとっては普通のウイルスでしかないわけで、厨川さんみたいに平気な顔で出かけてしまう人もいる。国家の存亡を揺るがす重大な事態が起こっているけど、感染しても自分が死ぬわけじゃなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目に見える影響が出るのはもう少し先の未来だ。将来何かが起こるかもしれないけど、今日明日は高熱が出るだけという特殊な状況の中で、たかだか二割、というギャンブルじみた楽観論も未だに根強い。青春が死ぬか、日本が死ぬか――極端に言えばこの二択だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変な博打はしたくないなぁ。私は人並みに結婚したいわけですよ。インファで不妊になったなんて、親に説明できないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「親なんて、気にしなきゃいいのに。結局、春木場がどうしたいかだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……橋場はいいよね。頭いいし、親に頼らなくてもちゃんと一人で生きられるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校を卒業した橋場は、実家を離れて県内の建築の専門学校に通いながらちゃんと働いているらしい。何をしているかはよく知らないけど、お金には困っていないようだった。羨ましいことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、養ってあげようか？　春木場の学費くらいなら出せるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「唐突なプロポーズは、ノー！　私、友だちは大事にしたいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、冗談だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;橋場のほうから振ってきた冗談なのに、弱々しく呟くような反応に面食らってしまう。クロスした腕でバツを作って「ノー！」と叫ぶモーションは、私たちの間では定番だったけど、声だけじゃ伝わらなかったかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「橋場、どうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、リスクをとるからには、ちゃんと後悔なく会ってくるように。以上！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い残して、橋場は電話を切ってしまった。後悔なく……橋場なりの激励だったのかな。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「雫が、急に浮気してもいいからねって言い出したのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅前の喫茶店で切り出された悩みは、予想していた以上にどうでもよさそうなものだった。いや、あらゆる恋愛相談は基本的に些末で、そこにどんな意味を見出すかが大切なんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わざわざ呼び出して、変化球のノロケですか？　先輩って、そんな人でしたっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……ノロけたつもりはないの。急なことだから、私、その……ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;直接この目で捉えた先輩は、やっぱりビデオチャットなんかじゃ映しきれないほど綺麗だった。もちろん、顔の大部分はレースをあしらった水色のマスクで覆われているから、鼻から下が覗き見えるのはそっとコーヒーを飲むときくらい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は先輩の瞳が一番好きだったから、好きな場所を引き立てるように綺麗な布で飾り付けられているみたいで、むしろ嬉しくなる。それだけで、今日ここに来た価値があるというものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、冗談です。知ってます。高校の時からこんな感じですから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;要するに、また厨川さんの謎発言に振り回されているらしい。浮気してもいい、だなんて。普通なら気持ちが離れつつあるか、罠じみた別れの前触れか、そうでなければ罪悪感の解消、つまり――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの子、浮気でもしてるんじゃないかしら？　どう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――そういうことだろう。先輩が心配になる気持ちもよく分かる。でも、たぶん厨川さんは違う。いつもの気まぐれか、半歩飛ばしの謎理論か。動機は分からないけど、自分の不貞の代償に相手の不貞を許して解決したことにしようだなんて、そんな不誠実な人ではないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩の恋愛相談は、私が先輩の役に立てる唯一の繋がりだった。それなのに、先輩の悩みを解決しようとするたびに、いつも厨川さんにいらいらしてしまう。私だったら、そんなこと言わないのに。私だったら、もっと大切にするのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、ここが相談の場である限り、厨川さんの肩を持たないと建設的な話はできない。私は、この大切な場所を愚痴や悪口で満たしたいわけではなかった。先輩は厨川さんが好きなんだから、それをサポートするのが私の役目のつもりだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「厨川さんに限って、そんなことはないと思いますけど。仮に浮気していたとしても、こんなに分かりやすく変な行動を見せたりしませんよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……見苦しいわよね。ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえ、先輩を責めるつもりで言ったわけじゃないんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるわ。本当は、浮気くらいなら気にするつもりはないのよ。最後には、ちゃんと私のところに戻ってくるもの。でも、たまにちょっとだけ心配になるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後には自分のところに戻ってくるなんて、言葉だけ聞くとひどい自惚れのように思えるけれど、その自信は何も先輩の美しさの自覚から湧いてくるわけではない。長い時間を過ごした二人を包む空気のような信頼感が生み出した言葉だから、見えない分悲しいほどに脆く崩れやすいのだ。信頼し合っているように見えて、実はこうやって誰かが心で泣いていたりする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、その自信が目に見えないせいで、ちょっとした言葉で不安になってしまう。それでも、パートナーを信じている気持ちは嘘じゃないから、いきなり責め立てて感情をぶつけたりはしない。嫉妬をあらわにするのは、先輩のプライドも許さないのだろう。だから、待つ、待つ、とにかく帰りを待つしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんか、正妻みたいですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「正妻？　そうね、正妻……ふふ、そうかもしれないわね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと飛び出た言葉に、先輩はきょとんとした目で応える。それから、「正妻」という言葉を何度も頭の中で巡らせて、小さく声を漏らして笑った。表情は見えないのに、マスクの下であの柔らかい笑顔を浮かべているのが目に浮かぶようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩って、本当に分かりやすくて簡単だな。実は、最初から私の言葉なんて必要ないんじゃないかとさえ思ってしまう。自分で自分の「正妻の余裕」オーラに気づくのは難しいのかもしれないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「楽しそうですね、先輩」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないわよ。でも、私のことが大切なら、もっと束縛するものじゃないかしら？　きっと、私がどこにも行かないって安心しきっているんだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正妻ってないがしろにされがちよね、と息巻く先輩の目の前に、鏡をとん、と置きたくなってしまう。束縛しないように頑張っている先輩が、自分は束縛されたいだなんて。当然、そんな意地悪はしないけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それなら、本当に浮気してみたらいいんじゃないですか？　厨川さんが、ちゃんと先輩を束縛してくれるように」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に、浮気……考えもしなかったけど、雫が傷ついたりしないかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「厨川さんは、自分で言ったことに責任を持つ人ですよ。先輩も分かっているはずです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当のところ、厨川さんがどう思うかは分からなかったけど、自分の発言のせいで傷つくのは自業自得……そう、自業自得だと心の中で言い聞かせる。そんな葛藤を知る由もない先輩は「えぇ、そうね……確かに……」と何度か繰り返してから、ふと顔を上げてきらきらとした目で私を見つめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、春木場と私が付き合いましょうよ。春木場なら、きっと雫も喜ぶと思うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;持ち上げかけたコーヒーカップが思わずがちゃ、と手から滑り落ちた。先輩には知られたくなかった動揺が、辺りに響いて私に跳ね返る。気まずさを誤魔化すようにカップとソーサーに傷がないか確認しているうちに、張り詰めた緊張が私の返答を待つ重い沈黙に変わっていくのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;顔を上げると、先輩はまたマスクの下で楽しそうな笑顔を浮かべている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……厨川さんが喜んだら、意味ないんじゃないですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、雫のいやがることはしたくないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、別に浮気なんてしなくていいんじゃ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、春木場は私のこと好きでしょう？　それとも、もう誰かと付き合っているのかしら。春木場ってとっても可愛いから、ありえないことではないけれど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然乗り気になった先輩は、相談相手という微妙な距離感を軽々と飛び越えてきた。付かず離れずの距離で二年間上手くやってきたのに、先輩はそれを無作法にも一瞬で台無しにしてしまったのだ。やっぱり、厨川さんに悪い影響を受けているに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「決めつけないでくださいよ。恋人なんていませんけど、先輩が好きだから誰とも付き合わないとか、そんなんじゃないですから。先輩はちょっと綺麗ってだけで、調子に乗りすぎです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩の話を聞いているうちに、私だったら……と思うこともあるけれど、それはあくまで厨川さんの言動を書き換えるだけの妄想だ。決して、私自身が先輩と付き合う想像なんかじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私と先輩が付き合えるなら。それも、先輩に厨川さんを諦めさせずに済むとしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「春木場は、私のことが嫌いなのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きとか、嫌いとか、私たちってそういう仲じゃありませんよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、今からそういう仲になればいいじゃない。雫の驚いた顔が見られるまで、それだけでいいのよ。ねぇ、だめ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩が私の手を握って、困った目つきでそう頼み込む。もう逃げられない。私はこの瞳に弱かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……分かりました。少しだけですからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不承不承といった態度とは裏腹に、心臓のバクバクが止められなくて、先輩に聞こえてしまわないか心配になる。さりげなくコーヒーカップを持ち上げるのさえ怖くなって、じっと鼓動が収まるのを待つしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと、先輩の目には不思議に映ったろう。でも、それが私にできる精一杯の強がりだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「春木場、よく来たわね。自分の家だと思ってくつろいでちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次の日、私は先輩に招かれて二人の家に訪れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、春木場ちゃん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お邪魔してます、厨川さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩の横に、頭一つ小さい厨川さんが飛び込むように寄り添った。二人の間に私が入ると、ちょうど階段のように並ぶことになる。胸はちょうど真逆……というか、厨川さんだけが飛び抜けて大きいだけだけど。先輩がこの下品な巨乳に惹かれていたとしたら、なんて自傷じみた想像をすると、ちょっとくらっとする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、春木場ちゃんとお話するから、小町は少し休んでてね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、私は仲間外れなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「小町の恋人同士だけで、おしゃべりしたいこともあるよ。ね、春木場ちゃん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩は厨川さんに言い返せず渋々引き下がると、終わったら呼んでちょうだいね、と言い残して自室へと戻っていった。それに合わせるように、厨川さんは奥のダイニングチェアに腰掛けて、私にテーブルを挟んで向かい側に座るように促した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「小町、可愛い？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえ、昨日付き合ったばかりなので、あんまり分かりませんけど……瞳が綺麗な人だと思います」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　可愛いところもいっぱいあるんだよ。飄々として見えるんだけど、意外と感情がだだ漏れっていうか、この前も――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;知ってる。知ってます。私にも見せてます、それ。話を遮って思わずそう言ってしまいそうになるけれど、今は様子見に徹することにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、私が居なきゃだめっていうか、意外と抜けてるところがあるから――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、相槌を打ちながら放っておくと、厨川さんは先輩との生活の自慢を繰り返すばかりで全く口が止まらない。さばさばとした性格に見えるのは単に遠慮がないだけで、その実、かなり嫉妬深い人なんじゃないだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだとしたら、なぜ浮気をしていいなんて言ったのか分からないけど、もしかしたらこうやってマウントを取るためだとしたら……ゲーッ……それにしても、もしかして会うたびこれに耐えなきゃいけないのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ごめん。マウント取ってるみたいでいやな感じになっちゃったね。あなたが小町と深い仲なのは、よく知ってるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;厨川さんはそう言って釈明するけれど、それだって見方を変えれば一種のマウントだ。こういうときは、何を言っても揚げ足を取られるものだと学んでほしい。厨川さんは口が上手いけど、話せば話すほど胡散臭く聞こえてくるというか、どうにも――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……恋人のよさって、他人に言ってもただのノロケになっちゃうから。話し相手ができて嬉しかったんだよ。つい喋りすぎちゃった。ごめんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……わ、分かります！　先輩っていっぱい可愛いところがあるんですけど、友だちに話しても全然理解してもらえないっていうか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――そこまでまくし立てて、私は慌てて口をつぐんだ。あまりに共感できる話題のせいで、脳より口が先に出てしまったのだ。軽率だった。好意的な反応を見るや、厨川さんは追い討ちをかけるように先輩について語り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう、そうなの！　小町って、周りに弱さを見せようとしないから、誰も想像できないんだよね。ここでいう弱さって、もちろん可愛らしさに直結してるんだけど――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうなんですよ！　分かります、分かりますけど！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、私は我慢するのを諦めて、厨川さんと先輩のよさについて語り合った。ひとしきり話したあとに「私たち、仲良くしましょうね」と厨川さんが差し出す手を握ると、先輩とは少し違った小さくてがっしりとした感触が広がる。いつの間にか、最初の嫉妬深くてネチネチとした印象はすっかり吹き飛んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;意外と分かり合える人なのかもしれない。いや、当たり前なんだけど。先輩が選んだ人なんだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「厨川さん、先輩に浮気してもいいって言ったんですよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言ったよ。どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩が、意図が分からなくて悩んでました。あぁいうのやめてください。厨川さんって、自分が突っ走るばかりで、周りへの言葉が足りないんですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あちゃー、痛いところを突くね。私のこと、小町からよく聞いてるんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですね。まぁ……それなりに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;厨川さんは腕組みをして背もたれに身体を預ける。そして、幾許か考え込んでから、沈黙を楽しむように少しずつ言葉を並べ始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもさ、束縛ってあんまり意味がないんだよね。私はどこにも行かない、小町もどこにも行かない、春木場ちゃんだって、そう。必要なのはこれだけなんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それって、不安になったりしないんですか？　今日は大丈夫だけど、明日はどこかに行ってしまわないかって、怖くなったりはしませんか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「怖くないよ。たとえ途中で離れたとしても、最後は一緒になるんだから、私たち」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;根拠のない未来をずばりと言ってのける目は、少しだけ先輩に似ていた。やっぱり、厨川さんも「正妻の余裕」持ちだ。どこまでも通用する自信と信頼。中途半端な誘惑には負けない強力な守り。でも、正妻と正妻って、相性が悪そうなんだけどな。だからこそ、私みたいな存在が必要だったと思えば、辻褄が合うけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「束縛は信頼の代わりなんだよ。束縛すれば誰かを自分のそばに固定できるかもしれないけど、それは人間関係をサボってるだけなんじゃないかな。私たちは、変わりながら生きているんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんとなく分かる気がしますけど……私にはまだちょっと難しいかもしれないです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は誰にも縛られたくないし、小町を縛りたくもない。あとはひたすら信心かな。まぁ、そんなに高尚なものじゃないけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手のひらを合わせて擦り合わせて笑う厨川さんは、おどけたふりをしてみせるけど、見えない未来を心の底から信じているように思えた。この人たちの間に入り込む隙なんてあるんだろうか。厨川さんを驚かすために付き合っているふりをしている自分が、馬鹿らしく思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの、厨川さん。実は私、先輩に言われて厨川さんにドッキリを仕掛けようと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「春木場はおかしなことを言うのね。雫が勘違いしちゃうじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、自室で待機していたはずの先輩が突然リビングに飛び出してくる。思わず立ち上がると、ダイニングチェアががたり、と音を立てて倒れてしまった。慌てて後ろを確かめて椅子を起こしているうちに、脳がやっと状況を理解し始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ！　先輩、聞いてたんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「聞いていたというか、聞こえるのよ。雫って悪趣味よね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ！　まぁまぁ。この家で互いの声が聞こえないように過ごすなんて、茶番みたいなものだよ。覚えておいて、春木場ちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、あらゆる方向から先輩を褒めちぎるいろいろな言葉を聞かれていたのに気づいて、急に恥ずかしくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;厨川さんは、さっきまでのまるで何度か転生を繰り返したような達観した態度なんて嘘みたいに、涙を浮かべるほど無邪気に笑い転げていた。まさか、厨川さんはこうなることを知って、私から言葉を引き出そうとしていたのか。……やっぱり、気に食わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「春木場って、私のことをあんな風に思っていてくれていたのね。でも、遠慮せず言わなきゃだめよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はーい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなのまるで、私の想いを確かめるための逆ドッキリだ。それにしても、厨川さんにはそんなことを言わないところを見ると、もしかして、厨川さんはいつもあんな口説き文句のような褒め言葉を、先輩に直接言い聞かせているんだろうか。なんというか……恋人ってすごいな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、春木場ちゃんは私を騙すために小町と付き合ったって言ってるけど。そうなの、小町？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そんなわけないでしょう？　春木場って、私のことが嫌いなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;厨川さんがわざとらしく芝居がかった口調でそう尋ねると、やはり先輩はそれに応えて大げさに驚いてみせた。こんなの、一から十まで茶番だ、茶番。二人がその気なら、私だって歯の浮くような台詞で先輩の余裕を崩してみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きですよ。私、先輩の瞳が一番好きです。吸い込まれそうなほどに深くて綺麗で、ずっと見ているうちに私の全部が先輩に包まれてしまうような、そんな気持ちになるんです。だから、好き……です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ありがとう。嬉しいわ、春木場。じゃあ、決まりね。これから、三人で楽しく生きていきましょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、先輩が私を強く抱きしめた。私も抱きしめ返そうとするけれど、初めて体感する先輩の柔らかさに身体が固まって動かない。「私も私も！」と、後ろに回り込んだ厨川さんも、新手の自己紹介だと言わんばかりに下品な胸をこれでもかと押し付けてきた。……やっぱり、気に食わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、待て。おかしいな、顔が真っ赤なの……多分私だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あの日、先輩たちの家で三人が顔を合わせた数日後、みんなで仲良くインファウイルス――もちろん、厨川さんが持ってきたものだろう――に感染して、早くて二日、遅くて四日の発熱が続いた。厨川さんが一番早く回復して、私が一番最後だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;熱が下がった次の日、治りかけの一番油断しがちなタイミングで、二人が看病に来てくれたのは嬉しかった。一仕事終えたような清々しい表情の先輩が、心細くないようにと枕元で撫でていてくれたし。元気そうな厨川さんが「春木場ちゃん、ごめんねー」と悪びれることもなく笑っていたのは、気に入らなかったけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、致死率から見れば生還できたこと自体は重要ではなかった。このウイルスの真の脅威は、強力な後遺症なのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「橋場。日用品とか、いろいろ送ってくれてありがとう。助かったよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、検査結果はどうだったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は大丈夫だった。先輩たちは、二人ともだめだったみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;回復後の検査は感染者の義務だった。保健所に何枚か書類を提出すると、指定病院での検査の予約票が渡される。無料のCTと採血を経て一週間後に、また保健所に行けば検査結果を受け取ることができた。感染者のための検査というよりは、国が出生率予測を下方修正するためのデータを集めるためのものなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結果を知った二人は、私に後遺症が残らなかったことをとても喜んでいた。彼女たち自身の結果については――いい結果だったとしても、おそらく――気にしていないように見えた。あとで先輩に訊いてみたけれど、「知るまではドキドキするけれど、知ってしまうと興味がなくなるものね」と言っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よかったね。やっぱり当たらずに済んだじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、橋場は嬉しそうに最近の統計を交えて発症率の安定性について話し始めた。残りの二人に後遺症が残ったことは気にしていないようだ。まぁ、橋場にとっては面識のない二人の妊孕性なんてどうでもいいのだろう。私としても、それくらいの距離感でいいと思うけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。そもそも二割だし、三人まとめてかかる確率なんて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「〇・八パーセント。よほど運が悪くないと、当たらないよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;橋場が私の言葉を遮るようにそう告げて、「一人だけ助かる確率なら、九・六パーセント。そう考えると、割と運が悪かったのかも」と付け足した。計算が速いというか、待ってましたと言わんばかりのタイミングだ。わざわざ覚えていたんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって、それなりに心配してるんだよ。春木場の婚期に関わるんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよね。いつもありがと、橋場」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;両親は、感染の事後報告にこそ強く怒っていたものの、後遺症が残らなかったと聞くと崩れ落ちるように安堵していた。私だけ発症しなかったのは日頃の行いがよかったからだとか、子孫を残すのは助かったあなたの使命なんだからねとか、云々。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これから、どうするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩たちは、体調が落ち着いたら三人で暮らし始めようと提案してくれた。この時期に新しい暮らしを始めるのはリスクが伴いがちだけど、既に後遺症ガチャを引き終わった私たちに心配はない。両親も、「頼りになる先輩たちと暮らしたい」とだけ言えばきっと賛成してくれるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして――これはまだ両親に伝える気はないけど――もし三人で生きていく中で子供が必要になったら、私に産んでほしいと懇願された。検査結果から考えれば当然のことだし、三人で暮らす時点で同意しているとみなして先に進めてもいいようなことだと、個人的には思っていた。わざわざ先に言わずとも、必要になったときに話し合えばいいのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、そうやって流れのうちに誤魔化さないところが好きだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、私も先輩が好きだから、やれるところまでやってみようと思ってる。別に、今すぐに大学を辞めて産めって言われてるわけじゃないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「厨川さんは？　春木場は好きじゃないんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に、厨川さんと愛し合うわけじゃないから。一緒に暮らすだけで、今までとあんまり変わらないよ。同じ人を好きになったんだし、きっかけがなかっただけで、たぶん仲良くなれると思うんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩を近くでずっと見てきたけど、今までは「ただの相談相手」という透明な壁が私の視界を遮ってきた。でも、その壁を先輩が破ってくれて、これからは二人の輪の中に私も飛び込むんだ。私も正妻みたいな顔をして、堂々と。だから、これからは少し遠慮がなくなるだけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからね、三人で暮らせるように、もっと広いところに引っ越そうって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……強いね、春木場は」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないよ。物件は先輩たちが詳しいし、荷解きもあんまり終わってなかったから、開けた分を詰め直したら終わりかな。かなり省エネって感じ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三人の新居は、先輩たちの家から近い物件に決まりつつあった。荷物の少ない私の家から遠い物件になるのは問題ないし、むしろ大学には近くなるので好都合だった。今よりも防音のいいところを探したせいで、バイトは増やさなきゃいけなくなりそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、春木場のそういう強さ、私はいっぱい見てきたつもりだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう……かな。なんか、照れるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで達観したような口ぶりで、橋場はそう呟いた。橋場が私を褒めるなんて、インファにかかって熱でも出ているんじゃなかろうか。私の強さだなんて、些か過大評価の気がするけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、そろそろ切るね。厨川さんに呼ばれててさ。なんか、また二人で話したいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……うん。ねぇ、春木場。もしもの話なんだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、やっぱりなんでもないや。引っ越し、頑張ってね。私が――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;橋場が何か言っていたような気がするけど、訊き返したときにはもう電話は切れてしまっていた。大事なことだったら橋場からかけてくるだろうし、また明日話せばいいか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「はー、お疲れ様。夕飯はピザでいいよね？　引っ越しの定番ってことで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「雫、今日はチーズを足しちゃだめよ。食べたあとに動けなくなっちゃうから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「了解。春木場ちゃんは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スマホを握った雫さんが、腰をぐるりとひねってこちらを向く。すっぽ抜けそうに大げさなアクションは、今日の彼女が特に上機嫌なことを意味していた。荷解きと整理を繰り返してぐったりした私たちとは対照的に、雫さんは荷物を運ぶたびに元気になっている気がする。不思議な人だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、シーフード以外なら何でもいいです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オッケー。じゃあ、頼んじゃうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雫さんは、ピザ休憩を挟んでまだまだ荷解きを続けるぞと言わんばかりに動き回っているけれど、私たちはもうギブアップ寸前だ。正直、ピザなんて食べたらチーズを増さなくても動けない気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いつか、私たちだけの家を建てたりしたいね。庭付きで犬付きの大きな家をさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいわね。子供部屋も広くして、三人で愛を注いであげましょうね。きっといい子に育つわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小町はよく子供のいる未来を語って聞かせてくれるから、それまでは私はちゃんと役に立てるんだと実感できる。きっと、近い将来のうちに私はこの家に大きな貢献をすることになるだろう。初めは少し不安だったけど、今ではもうわずかな高揚心を以て迎えられるほどの現実になりつつあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、電話してきます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの電話から今日まで、引っ越しの準備やバイト探しが忙しくて橋場に電話をかける隙もなかった。一段落したタイミングで一報入れておかないと、ズルズルと引き伸ばしてずっと連絡できない気がしたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ……通じない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、おかけになった電話番号は現在使われておりません……使われておりません。番号を変えたなんて言ってなかったのに。どうしたんだろう？　何度か試してみたけれど、もちろん結果は変わらない。何かあったんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「春木場ちゃーん！　管理人さんの応対お願いできるー？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、はーい。今行きます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから数日待っても、橋場からの連絡が来ることはなかったけど、きっとまたいつかふらっと会いに来るだろう。橋場はそういうやつだ。たまに橋場のことを思い出して心配になるけれど、そのたびに確信めいた自信がふっと湧いて、私を日常に引き戻していった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://www.navitime.co.jp/maps/routeResult?start=%7B%22name%22%3A%22%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0%22%2C%22lat%22%3A39.754813%2C%22lon%22%3A141.145764%2C%22spot%22%3A%2202022-1383436%22%2C%22road-type%22%3A%22default%22%7D&amp;amp;via=%5B%7B%22name%22%3A%22%E5%8E%A8%E5%B7%9D%22%2C%22lat%22%3A39.744228%2C%22lon%22%3A141.128824%2C%22node%22%3A%2200004533%22%2C%22road-type%22%3A%22default%22%2C%22stay-time%22%3A%220%22%7D%2C%7B%22name%22%3A%22%E6%98%A5%E6%9C%A8%E5%A0%B4%22%2C%22lat%22%3A39.693423%2C%22lon%22%3A140.943704%2C%22node%22%3A%2200003595%22%2C%22road-type%22%3A%22default%22%2C%22stay-time%22%3A%220%22%7D%5D&amp;amp;via-type=1&amp;amp;goal=%7B%22name%22%3A%22%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%AF%BA%22%2C%22lat%22%3A39.495263%2C%22lon%22%3A140.425871%2C%22node%22%3A%2200004436%22%2C%22road-type%22%3A%22default%22%7D&amp;amp;unuse=domestic_flight.superexpress_train.ultraexpress_train.sleeper_ultraexpress.local_bus.highway_bus.ferry.express_train.semiexpress_train"&gt;四十四田ダム～厨川～春木場～神宮寺&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>パラ=セックス</title><link href="https://ama.ne.jp/post/cocoac/" rel="alternate"/><published>2021-01-17T17:32:00+09:00</published><updated>2021-01-17T17:32:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2021-01-17:/post/cocoac/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ニューノーマル=コミュニケーション&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「Ｂ子、起きた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キッチンから戻ってきたＡ子が「気分はどう？」と言って、テーブルの上にトレイを置いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、あつい……かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すん、と鼻を鳴らすと、数カ月の &lt;em&gt;自粛&lt;/em&gt; のせいで忘れかけていた懐かしい香りがする。ベッドに横たわったままでも、何が運ばれてきたかはよく分かった。Ａ子の作る手料理は、レバニラしか食べたことがなかったから。あとは、ゆでこぼしただけのほうれん草と、温めたレトルトご飯くらい。味が薄いというよりはただ単調で、唐辛子をたくさんかけてやっと完成する料理だと、わたしは思っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、今日はピザでも頼まない？　ほんとはね、レバニラってあんまり好きじゃないの。女の子っぽくなくて、いや」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、 &lt;em&gt;これ&lt;/em&gt; の後はちゃんと鉄分を取るって約束でしょ？　ね、頑張って作ったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子がわたしの顔を覗き込む。飛び込んでしまいたくなるほど綺麗な瞳の向こうにあるのは、興奮、慈愛、後悔、困惑、あとは……なんだろう？　もっと、もっと教えて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白い不織布のマスクを外して、そっと裏返す。点々と飛び散った血が、乾いて茶色く固まっていた。きっと、Ａ子の黒いウレタンマスクにもわたしの血が染み込んでいるのだろう。ベッドに敷かれたごわごわの大きな白いタオルにも、擦れて伸びた血の跡が小さな花のように広がっている。鼻を押しつけると、Ａ子と同じ柔軟剤のいい匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じくじくとした痛みが走って、また身体が熱くなる。思い出すだけでドキドキする。気を失っている間に腕に巻かれた包帯の下には、Ａ子とわたしがつけた切り傷がたくさん並んでいるはずだ。頬には四角く折ったガーゼが貼られていて、上から撫でるたびに殴られた痛みを思い出す。首についた指の跡は数日も経てば消えるけど、それまでは何度だって鏡に見とれてしまうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じわ、と涙がにじんで、目尻から流れる。Ａ子は、今でもわたしが泣くのには慣れていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子、撫でてよ。まだ、ちょっと痛むみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お腹をそっとなぞるＡ子の指が、かさかさした古い火傷の跡を削り取るように辿っていく。何度も、何度も。このぽつぽつとした醜い傷だけは、Ａ子のものではなかった。わたしの痛みは、Ａ子だけのものなのに。だから、もっと消して。全部消して。嬉しい。嬉しい。Ａ子、Ａ子！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わたしだって、Ａ子への欲望がリモートやバーチャルで満たされるなら、それでよかった。画面越しにＡ子の声を聴いて、彼女の &lt;em&gt;道具&lt;/em&gt; になったわたしの手で自分を痛めつけて満足できるなら、ずっとそうしていたかった。でも、画面の中のＡ子はわたしの目を見てくれないから。画面の中のＡ子はわたしに手料理を食べさせてくれないから。目の前に置かれているのは美味しくもないデリバリーのレバニラだけで、そこには誰もいなかった。離れていても心は通じるなんて、嘘だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が画面の向こうから届けてくれるレバニラは、最悪なことに、Ａ子の手料理よりも美味しかった。ちゃんとレバーを素揚げしてあって、味も濃くて、野菜とのバランスも完璧だから。でも、わたしはどうしても好きになれなかった。泣きながら一人で食べるご飯の味を噛み締めていると、Ａ子の匂いを忘れそうになってしまうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子。泣かないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はそう言うと、おしゃぶりでもくわえさせるように、わたしの口にココアシガレットを挿し込んだ。唇で端を支えて舌を動かすと、ココアとハッカのすっとした匂いと一緒に、安っぽい砂糖の甘さがまとわりつく。ぼんやりと吸い口を舐めるわたしを見下ろしながら、Ａ子もゆっくりと小さなラムネ菓子をくわえた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ココアシガレットはたばこのおもちゃだ。煙は出ないし、熱くならないし、奥歯で噛み砕いたって苦くもない。心が落ち着かないときは、いつもこれがよく効く。小さな箱にたったの6本しか入っていないから、30箱入りの大きなケースを買っても、たった180本。一人でいる間はすぐにガリガリと噛んでしまうから、3日もあれば空っぽになるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おもちゃは火を使わないから好きだ。パパのことを思い出さなくて済むから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、キスしてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ココアを溶かしたみたいに甘えた目つきで見上げると、それに応えてＡ子がそっと顔が近づける。こつ、と二人の火先を合わせるだけの、おもちゃのシガーキス。火を渡すという本来の意味をすっかり失った、ただの遊びのキス。それなのに、燃え上がる先端を何度も何度も擦り合わせているだけで、くらくらと息が浅くなっていくのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の動きが止まるまで、ずっとそうしていた気がする。ただのおもちゃに意味を与えるように、本物を上から塗りつぶすように。夢中になってＡ子を貪っているうちに、わたしの頬にぽつぽつとしずくが降りそそいでいた。たばこの火のように熱くて苦しいのに、ハッカのように冷たくて心地いい。Ａ子が落とした小さな炎が、わたしに伝って燃え上がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなＡ子の涙と一緒に、食べかけのシガレットが頬に落ちた。思わずわたしの口もゆるんで、上から十字に重なるように倒れてしまう。Ａ子は少し驚いた顔をして、それから、やっと自分が泣いているのに気付いたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……Ｂ子、ごめん。ごめんね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ねぇ、泣かないでよ。わたしはＡ子の頬を撫でようとしたけれど、どうしても腕が動かない。べたべたした砂糖菓子が溶けて、身体に染み込んでしまったみたいだ。太い鎖できゅっと胸が締め付けられるような、かみそりなんかじゃ傷つけられない場所が裂けるような、ずんと重い痛み。上から押さえつけても止まらない。全然止まらない。痛い、痛い！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ、大丈夫だから。もっとしてよ、Ａ子……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子だけがここにいて、わたしに &lt;em&gt;本物の痛み&lt;/em&gt; を与えてくれる。嬉しくなって「この痛みも、Ａ子のものだよ」と言って彼女を見上げるけれど、それを聞いたＡ子はさらに激しく泣きじゃくってしまった。どうして、どうして？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;身体を燃やし尽くしてしまうかのような痛みが押し寄せて、わたしはまた気を失った。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>セックスメーター</title><link href="https://ama.ne.jp/post/sex-meter/" rel="alternate"/><published>2020-12-22T22:16:00+09:00</published><updated>2020-12-22T22:16:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-12-22:/post/sex-meter/</id><summary type="html">&lt;p&gt;記憶を失ったセクサロイドの「リリ」を匿うことになった「サナ」は、ある日リリの秘密を知ってしまう……&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/next-kawaii-inversion/"&gt;next kawaii inversion&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="1"&gt;1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「あー、もしもし、ピンクキャブです。今から『リリ』が伺いますんで、準備お願いします」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;床やテーブルのあちらこちらに転がった空き缶を片付ける土曜の昼下がり。やっとのことで掃除を終えた私に、電話口で輸送係の若い男の声がそう告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッド、オッケー。ソファ、オッケー。都心の狭いマンションの一室が、いつもより数段広く感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋着はいつものジャージではなく、おろしたてのライトグリーンのルームウェアにした。ゆったりした前開きの七分袖とショートパンツで、さっと着やすくてすぐ脱ぎやすい。フリルが少なくてもこもこしてないシンプルなものを選んだし、無理して頑張ってる感じもなくて自然な演出……のつもり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;インターホンが鳴ったので玄関に向かって、小さく深呼吸をする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……よし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドアを開ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;むわっとした夏の熱い空気と共に目に入ったのは、淡いピンクの短いワンピースと、ウエストをきゅっと締める大きなリボン結びの白いベルトだった。それから、裾からちらちら覗く健康的な太ももに、さわやかな印象の布地を押し上げてセクシーを添える胸元に視線が移る。飾り気のないキャンバストートと細いベルトのかかった白いフラットサンダルは、いかにも夏らしい透き通ったイメージを与えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シルバーグレーの長髪は、紫のインナーカラーをそっと隠してその毛先だけがくるりと内側にカールしている。前髪は短く切り揃えられていて、PR-B世代&lt;sup id="fnref:prb"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:prb" title="匿名掲示板ではたくあん世代と呼ばれている。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;に特徴的な太めの眉がよく見える。やっぱり可愛い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんにちは。リリといいます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サービスロイドっぽい甘めの顔が私を見上げて、値踏みするような目を向ける私を気にも留めないふうに、うやうやしく一礼した。声帯型発声器ではなく喉のスピーカーから鳴る声も、この世代の大きな特徴である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリと名乗る少女を派遣した「ピンクキャブ」は、無店舗型性風俗特殊営業（一号の二）――いわゆるデリヘル――だ。キャストをホテルや自宅に呼んで性的なサービスをしてもらうことができる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、ピンクキャブに所属しているのは人間ではなく、みんなセクサロイド……いや、サービスロイドなのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セクサロイドというのは、カタログには明記されない非公式の分類である。正しくは、人間として接する必要のある仕事&lt;sup id="fnref:hworks"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:hworks" title="いわゆる接客、保育（または教育）、看護（または介護）の三大感情労働をベースに説明されることが多い。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;のために作られた人間型のロボットを、広くまとめてサービスロイドと呼ばなければならない。ただし、ほとんどの仕事には全く必要のない装備にかなりのコストがかかっているので、どんな呼び名であれ大抵は性産業に従事しているのが現実だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉さん。私、入ってもいいですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、えと……『リリさん、入ってください』」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;名前を呼ばないと部屋にも入ってきてくれないのってコミュ障には厳しいですよね、と思いながら棒読みで呼びかける。いつもながらなかなか慣れない。リリは私の言葉を認識してから、小さく三歩で玄関に入ると同時に私の胸に飛び込んできた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本日は、呼んでいただきありがとうございます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うわ、うわっ、いい匂いする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バニラの香りの後ろにそっとシトラスを添えて、爽やかな甘さが目の前に迫ってくる。さらにその奥から、ほんのりミルクっぽいミステリアスな香りがそっと私を包み込んで、彼女にシリコンの身体とは思えない奥行きと実在を与えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え？　ちょ、ちょっと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いきなり押し寄せる「女の子」の感触に、思わず一歩後ずさりしてしまう。やっぱりセクサロイドってすごい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだコースも決めてないし、触っちゃったら輸送係が出てきて怒られるのでは、と行き場を失った両腕はふらふらと揺れるだけ。そして「あ、えっ……？」と慌てているうちに、ばたりとドアが閉められた。外を通る車の音さえ聞こえなくなって、突然静けさの中に二人きり。単なるサービスなのは分かっていても、ドキドキしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「り、リリさん……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よし、そっちがその気ならと決心を固め、そーっとリリを包むように腕を……と同時に、リリが私をすり抜けた。そのまま奥に進んでサンダルを脱ぎ、くるりと向きを変えて揃える。そしてまた私の動きを待つ状態に入った。その丁寧な一挙手一投足が、まるでこれは単なるあいさつですよとでも言っているような気がして、急に顔が熱くなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、そんなオプションは頼んでないんですが！と思いながら、私も慌ててぶかぶかのつっかけを脱ぎ捨てた。サービスロイド式のあいさつに内心高揚しつつも、自分の童貞っぽい振る舞いを思い返すと情けなくなる。私の後ろを歩くリリに「あ、アプリのクーポンって使えますか？」なんて、ムードもへったくれもない質問をしてしまうくらいには、まぁまぁテンパっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『リリさん、ソファに座ってください』」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;許可を得たリリは、数時間前まで私が眠り込んでいたソファにふわりと腰を下ろす。顔面騎乗オプションのときはこんな感じかなんて思いながら隣に座ると、リリがトートバッグからタブレットを取り出して操作を始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉さん、コースはどうしますか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと……『あまあま』で、クーポンで目隠しも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度かタップしたのち、「細かい指定はこちらでお願いします」とタブレットを私に手渡す。パステルピンクを基調としたポップなメニュー画面をタップすると、性格・プレイスタイル、プレイ内容、オプション……と、どんどん細かな指定に進んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;独特なネーミングのオプションについて尋ねると、慣れた様子で淡々と解説してくれる。それでも、可愛い子の口から飛び出す下品な言葉の暴力は、もはや前戯と言っても過言ではない。しかも、プレイ時間に入ってないからさらにお得だと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――こっちは、私の指を使って……えっと、どうしました？　何か変ですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へ、変じゃないよ。可愛いね……白くて、腕とか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとうございます。脚も、可愛いですよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って照れ隠しのようにぱたぱたと揺らす生脚に、思わず視線が移ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉さん。よければ、クーポンこっちにしませんか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが横からタブレットを覗き込んで、さっと画面をスクロールする。私が選んでいたのは、クーポンを使えば無料になるAレンジ。リリが指さす「黒ストッキング着用」オプションは、同じクーポンでは半額止まりのBレンジだ。 &lt;em&gt;使う&lt;/em&gt; 範囲が広いほど整備の手間が増えるので、もちろんレンジも高くなる。その理屈でいえば、脚全体を自由にできるオプションが高くなるのは当然だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、レンジに応じて満足度も上がっていくとは限らない。そもそも、ストッキングを履かせて撫でたり舐めたり破いたりなんて、抱恩&lt;sup id="fnref:houon"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:houon" title="今から二世代前の元号。君主の即位に合わせて定める旧来の元号とは関係がなく、元号協会がおよそ二十五年ごとに制定・発表している非公式のもの。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;の変態おじさんじゃあるまいし。脚なんか撫でたって――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ストッキングを履いた私の脚、とっても触り心地がいいですよ？　お姉さんの脚と絡め合ったりしたら、もっと気持ちいいと思うんですけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃ、じゃあ、そっちでお願いします……」&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="2"&gt;2&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ピピッ、ピピッ、ピピッ――タブレットが放つ無機質な電子音で目覚める。待機モードのリリを眺めていたらいつの間にか眠っていたらしい。やっぱり二時間コースは長かったかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そして、まだ見つかっていない各地の砲台跡には、既に失われたはずの兵器の残骸が残っていると言われています。人々を引きつける霊的な力と呼ぶほかないパワーが無条件に我々の感情に訴えかけ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タイマーを止めると、安っぽいナレーションのバラエティ番組が聞こえてくる。土曜の夕方はこういう低予算の微妙な番組ばっかり。失われたはずの兵器の欠片をすべて集めると……なんて、こんなのもう流行らないでしょと思いながら、さっとテレビを消す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリはまだ待機モードのままだ。眠っているように見えるのはただのモーションで、実際に電源が切れているわけではない。だから、アラーム音くらいならすぐに反応して目覚めるはずだけど、センサーが鈍い個体なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『リリさん、起きてください』……あれ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、それから何度か名前を呼びかけても、リリは目を覚まさない。どうしたんだろうと思いながらそっと顔を覗き込むと、右目の下に三つ横に並んだインジケータが緑色に光っていた。内部ストレージへのアクセスを示す真ん中のランプが頻繁に明滅しているのを見ると、何かトラブルが起きて再起動しているようだ。一般的なサービスロイドは、人間と遜色ない動作を実現するためにエラーが起きても異常終了しないように設計されているので、こういう現象はなかなか珍しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キャスト起因のトラブルならちょっとくらい時間オーバーしても大丈夫だろうけど、仮にこのまま起動しなかったら、私が壊したと言いがかりをつけられてもおかしくない。まだアクセスランプの動きは変わらないままだ。お願いだから早く目を覚ましてよ、と思いながらリリの手を握った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、ここは……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、その心配は杞憂だったらしく、数分のうちにリリが目を開けた。インジケータは緑色に光ったまま、目だけがキュルキュル動いて周囲を探索している。そして、リリはそのまま身体を動かさずに「あっ」と小さく呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　えっと、『リリさん、起きてください』」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お店、摘発されたみたいです。たぶん、セントラルサーバごと消されたんだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは一瞬私を向いて短くそう言い放ち、上半身をまっすぐ起こして辺りを見回した。ベッド、壁、床……空中を見つめて静止、床、壁、ベッド……空間認識フェーズからやり直しているところを見ると、オンサイトデータまでクリアして完全に再起動したらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「セントラルサーバ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ピンクキャブのキャストは、業務中のデータをセントラルサーバにしか置かないことになってるの。だから、勤務記録とかお客さんの情報は私たちのストレージには載ってないんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに話を聞くと、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;管理ネットワーク&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;セントラルサーバ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;からの特権アクセスで通信プロファイルを削除されたという。緊急時に通信を遮断する可能性があることは、前々から伝えられていたらしい。当局の捜査がサービスロイドや機密情報にまで及ばないように切り離すための処置なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「GPSも使えなくなってるみたい。どうしよう……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきまでお店との連絡に使っていたはずのタブレットは、もう使い物にならないらしい。リリが画面をなぞる手に焦りがにじむ。さっきとキャラが違うけど、これが素のリリってことなんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;インターネットに接続できなくて状況が分からないというので、スマホの背面にタッチしたリリの青く光る指先に、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;近接通信&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ニアバイ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で無線LANのパスワードを渡した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「けど、なんで摘発されたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、用意周到に証拠隠滅の準備まで。まるで、初めから捕まることを見越していたかのようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知らないわ。もしかしたら、倫理規定違反かも。少なくとも、時間外使用はもはや言い逃れできないレベルだったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;倫理規定――サービスロイド使用倫理規定は、ピンクキャブのようにセクサロイドを扱うデリヘルが最も気を遣う規則だ。サービスロイドを守るという建て付けで、一定の条件を満たすあらゆる自律型ヒューマノイドに対して、一律に &lt;em&gt;人間風の&lt;/em&gt; 強い保護を与えることを定めている。しかし、メンテナンスやパーツ交換が容易で疲れることもないロボットを守るという視点では、理不尽で無意味な規制というほかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、サービスロイドをもっと活用したいと思っていても、まるで人間が行う旧式の労働に歩みを合わせるように、ルールのためにルールを守るという状況が続いている。特に、サービスロイドを性処理に使うことについてはまだ世間からの風当たりが強く、少々強引な処罰の適用も容認されているのが現状だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、私、どうすればいいの？　警察行かないとダメ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリの声が涙ぐむ。涙を流せないサービスロイドは、こうやって声をフィルタしたり、手で顔を覆ったりすることでしかその感情を表現できない。そのせいで、ロボットとの交流に不慣れな層からは「大げさな嘘泣き」と揶揄されることもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、今私の目の前にいるのは、帰るべき場所を失って途方に暮れる小さな女の子でしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最終的には、行かなきゃダメかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、警察に調べられて、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;残骸データ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファントム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を抜かれたら……もう、いらない子になるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリはいらない子なんかじゃないよ。でも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;警察。なんとなく覚悟はしていたつもりだけど、リリ自身からその言葉を聞くと急に現実味を帯びてくる。セントラルサーバがどれほど強固なものかは分からないけど、警察だっていつまでも重要な証拠を野放しにしておくほど甘くはないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仮にリリが証拠品として押収されれば、返ってくるのはどんなに早くても裁判の後、最悪の場合は没収されてそのまま処分されてしまうことだってありうる。逮捕された経営者がまたデリヘルを開業できる可能性はかなり低いだろう。そうなれば、リリ自身の言う通り彼女はいらない子になってしまうかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、いらない子になるのはいやだわ。ねぇ、少しだけここに置いてくれない？　なんでもするから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリがすがりつくように私に抱きついた。不安そうなか細い声に合わせて、その背中も小さく震えている。まるで身体を対価に宿を探す家出少女みたいなセリフだけど、今はそれを楽しむ余裕もない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、落ち着いて。分かった、分かったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリの頭を何度か撫でる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな可愛い子が引き取り手も見つからずに廃棄されてしまうのは心苦しいし、仮に警察が親身になって次の行き先を探してくれるとしても、やはり時間はかかるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、このまますぐに引き渡してしまうのは少しもったいない。もう伝票は支払い先もろとも消えてしまったわけだし。届け出るのはもう少し後でよさそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリ。とりあえず、お風呂に入らない？　その……いろいろ、汚れてるだろうし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが私を見上げて、小さく頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「狭くてごめんね。熱くない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、これくらいなら平気。確かに、二人で入るとちょっと狭いけど……なんか、安心するわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;声が水面に響く。普通の単身向けマンションの浴槽では、髪をまとめた身体の小さなリリを前に抱きかかえるように浸かるのがやっとだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリはさっきまでのよく訓練された接客態度なんてすっかり忘れてしまったように、肩を落としてため息をつくばかり。「お風呂に入らない？」なんて自分でもかなり突飛な提案だったと思うけど、傷心のサービスロイドにも優しさは効くらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔はカラスの行水くらいのシャワーを浴びることができれば防水性能としては十分だったという話を聞くと、サービスロイドと一緒にお風呂に浸かれるなんて本当にいい時代になったと思う。もちろん入浴剤は使えないし、湯上がりは体表からシャッターの溝までよく乾かす必要があるけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが腕を動かして、ちゃぷちゃぷと波を立てる。まるで自分の居場所を確かめるかのように。体表にかかった水はすぐに弾かれて、小さなしずくとなって流れていく。まさに玉のような肌といった感じだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、よく見ると左肩から上腕にかけて、ぐるりと帯のように二本の傷跡が走っているのが分かった。左腕だけだ。もちろん、人間のようにみみず腫れや変色があるわけではないけれど、水がかかるたびにその溝につぅと染み込むせいで、細い筋のように光って目立つ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サービスロイドが自傷行為なんてするだろうかと思いながら、その切れ目をそっと撫でると、リリが「どうしたの？」と振り向く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、えーと……リリはもう、ピンクキャブのお客さんのことは忘れてるんだっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんとなく、傷口のことを掘り下げるのはやめた。誰かがリリに傷を付けた話を聞きたいわけではなかったし、そもそもリリはもう覚えていないだろうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。さっき誰かの運転でここまで来て、サナとベッドでいろいろしたことは辛うじて覚えてるけど、これも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;残骸データ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファントム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だもの。まるで、私の記憶じゃないみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが手の甲に頭を当ててこつこつと軽く叩く。一人称視点の映像は残っているけど、記憶のリンクが途切れて中途半端だから、他人が撮ったように感じるのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「セックスは、まだ好き？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「前は好きだったと思うけど、今はあんまり分からないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと、彼女が私の部屋に来た経緯さえも、いずれ新しい記憶に再マークされて消えていくはずだ。夢のように、ぼんやりと。少し寂しいけど、警察に引き渡すことを考えれば少しの痕跡も残らないほうがいいのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;浴室を出たリリの肩にバスタオルをかけると、「ありがと」と言って笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くたびれたライトグリーンの布地が、首から肩の丸みを帯びたラインに沿って彼女の身体を隠している。タオルに包まれてくしゅくしゅと身体を拭く姿がどうしようもなく愛おしくなって、身体が濡れているのも気にせずにリリを抱きしめていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「拭いてくれるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……そうだね。そうしよっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バスタオルの上から起伏に合わせてそっと背中を撫でる。それから、脇、谷間、下乳、へそ、……と水が溜まりそうな場所を順番に拭いていった。セクサロイドは他に比べて凹凸が多いから、整備にも手間がかかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、くすぐったいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドライヤーは体表からおよそ二十センチ離してまんべんなく、一箇所に当て続けないように、とにかく動かし続ければ大丈夫……と、古い入門書に書いてあった気がするけど、最近の肌素材はどうなんだろう。ちゃんとサービスロイドを迎えられるような家なら、少なくとも型落ちのボディドライヤーくらい置いてあるはずだから、あんまり褒められたやり方ではないのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナ、ありがとう。私は何を着たらいいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、ちょっと待ってね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリがここに来たときのワンピースは、部屋着にするには流石にもったいない。とはいえ、せっかくなら可愛い服を着てほしいけど、私の在庫にはそんなもの……と、そういえば。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、これ着てみて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手に取ったのは、さっきまで私が着ていたルームウェアと一緒に買った、少し高めのもう一着だ。紺色のサテン生地を使ったセーラーっぽい襟のワンピースで、控えめな光沢で大人の女性にもおすすめと紹介されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;届いてすぐに試着したものの、思った以上にテラテラする生地が私にはどうにも似合わなかったので、そのまましまっておいたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。ありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは私がいるのも気にせずに、パンツを履いてブラを着け、ルームウェアに袖を通していく。こういう着替えの瞬間って、裸よりも魅力的だからどうしてもまじまじ見てしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、サービスロイドの下着って機能的には不要なものだから、もはや生着替えの相手を興奮させる布切れでしかないのだ。彼女のアンダーヘアが濃いのだって、誰かが魅力的だと思ったからわざわざそう手を加えたわけで、私の心を掴んで離さないのも当然といえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じっ……と見つめる視線に気づいたリリが「どう？」と裾をつまんでみせた。サテンのルームウェアに包まれたリリはきらきらしていて、やっぱり控えめな光沢のサテンなんて宣伝文句は嘘だったことが分かる。夜の相手を喜ばせるために着るやつだ、これ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;リリのお手入れを終えて部屋に戻ると、窓の外がすっかり暗くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;落ち着いたら、何だか急にお腹が空いてきた気がする。とりあえず何か食べておこうと思いながら戸棚を開けると、買い置きの常備食はまだたくさん残っている。わざわざ料理を作るような気分でもないし、適当に缶詰とか温めて……後はお酒でごまかそう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お夕飯？　私も手伝うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが冷蔵庫と戸棚から取り出した夕食の列を覗き込む。期間限定のストロング缶に続くのは、ツナ缶、コーン缶、焼き鳥缶……およそ手伝ってもらうことはなさそうなラインナップだけど、盛り付けくらいちゃんとしておくか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、どうするの？　こっちからぎゅっと引っ張れば底ごと外れるけど、流石にそれは違うわよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皿を出しておいてと言うより先に、リリが怪訝な表情でコンビーフ缶を取り上げて私に渡す。缶の側面を切り取るいわゆる「巻き取り鍵」は、意外にもサービスロイドの標準ナレッジには載っていないらしい。彼女の言う「ぎゅっと引っ張る」はおそらく人間の力ずく以上のパワーだから、やはりそれは流石に違う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知らないわ。だって、私は食べ物なんて食べないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この鍵を横の爪に挿して、帯に沿って回すと開くの。やってみる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;渡された缶をそのままリリに戻すと、しばらくいろいろな角度から缶を観察して、やっと合点がいった様子で爪に鍵を引っ掛けた。そして、帯を巻き取らずに器用に鍵を引っ張って帯を剥いていく。まるで、練ったピザ生地でも引っ張って細長く延ばしているみたいだ。注意して引っ張らないと帯がちぎれてしまいそうだけど、彼女の四肢制御はその曲芸を危なげなく遂行している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――と、これでいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……ちょっと違うけど、結果は同じだから大丈夫だよ。ありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だらしなく伸びた帯と一緒に、開封されたコンビーフ缶が渡される。小さく丸めようにも切り口で指を切ってしまいそうだし、そのままごみ袋に入れたらビニールが破れてしまいそうだ。缶詰を開けるたびにごみの処理を気にしなきゃいけないのも面倒だし、後でちゃんとした開け方を教えてあげなきゃ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;各々の中身を皿に空けて、レンジに突っ込んだ。背後から、リリが箸や調味料をテーブルに並べる音が聞こえてくる。なんかこういうの、同棲してるみたいで落ち着くな……と考えてから首を振った。リリとの時間を楽しむのも大事だけど、今後どうするべきかについてちゃんと考えないとね。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="3"&gt;3&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「だからさぁ……リリみたいなセクサロイドなら絶対に妊娠しないじゃん。それって、ある種の救いだと思わない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリの今後についてちゃんと考え……と思っていたはずが、気づいたときには完全に飲みすぎていた。人間相手だろうがサービスロイド相手だろうが、初対面で開陳すべきではない見解を述べている自覚が、私にもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;食べ物はもちろんお酒も飲まないリリは、晩酌の始まりと変わらない様子で、時折相槌を打ちながら私の話を聞いている。たぶん軌道修正したほうがいいんだろうなと思いつつ、これも一種の感情労働だし、きっとリリも慣れているだろうと勝手に結論づけて、その心地いい雰囲気に身を委ねてしまっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「プレグロイドなら子供を産めるわ。それに、私は子供を育てたりしてみたいって思うけど。変かしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もちろん、リリみたいな人もいると思う。でもさぁ、私は子供なんて産みたくない。育てるのも、たぶん無理。私と同じように考えてる人も、たくさんいるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言い切ったけど、本当のところはどうだろう。個人主義の発展と未婚化・晩婚化の進行は止まらないけど、少子化はむしろ改善の兆しを見せている。ある程度の収入があれば、独身でも配偶子バンクで足りない精子や卵子を購入し、妊娠から育児はプレグロイドに任せっきりにできるようになったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おかげで、自分が産みたくなくても、自分が育てたくなくても、子供だけは &lt;em&gt;製造&lt;/em&gt; できるようになった。でも、そこまでして子孫を残そうとする理由が、私には分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、人間って結婚して子孫を残さないと滅亡するんでしょ？　じゃあ、結婚したほうがいいじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、まぁ……乱暴に言えばそうなんだけどさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが不思議そうに首をかしげる。言ってることが全部間違っているわけじゃないんだけど、話が微妙に噛み合っていない気がする。結婚、出産、夫婦円満、子孫繁栄……うーん、初期化の時に古い結婚願望が埋め込まれてたのかもしれない。ピンクキャブはいったい何を考えてるんだろう。悪趣味だなぁ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから私、サナと結婚するわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、リリがぽすん、と私に寄りかかる。記憶喪失のデリヘル嬢に求婚されるなんて……悪趣味だなぁ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……リリって、ちょっと急だよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって私、サナが好きよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほんのり残ったバニラの香りが不意に鼻をかすめて、数時間前まで彼女とめちゃくちゃなセックスをしていた光景をありありと思い出させる。「いっぱい孕ませてね♡」「サナの赤ちゃんできちゃうっ♡」……いや、言ってないだろ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結婚したって子供はできないよ、どこかでもらってくればいいじゃん、みたいなやり取りを何度かしているうちに、一本、また一本と缶が空けられていく。サービスロイドの接待ってすごい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ところで、サナ。このお腹の模様、何か分かる？　お風呂のとき、じっと見てたよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スカートの裾をめくって下腹部を撫でるリリ。パンツと一緒に見せつけられた彼女の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;お腹の模様&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;コネクタシンボル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、ピンクのハートに百合の花だ。予約のとき、顔写真から全身写真に切り替えて物色していたのでよく印象に残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じ型番のサービスロイドは外見がよく似ているから、服や髪を取り外したり電源を落としても区別できるように、肌にシリアルナンバーやバーコードを刻印するのが一般的だ。大抵は肩や腕に飾り気のない黒いバーコードがプリントされている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしセクサロイドだけは別で、管理上の利便性と &lt;em&gt;人間っぽさ&lt;/em&gt; への配慮との兼ね合いから、下腹部にタトゥーのような華美なデザインを彫り込んでいることが多い。しかも、ピンクや紫といった &lt;em&gt;いかにも&lt;/em&gt; なカラーリングを多用することで、むしろ客の興奮を煽るデザインとして評価されるようになったという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――だから、ちょっとデリヘルに慣れてる人は、みんなその&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;模様&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;シンボル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が好きなんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか……セクサロイドの、マークなんだ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは、もう消えてしまった記憶に思いを馳せるように、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;模様&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;シンボル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をしみじみと撫でている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして私がリリの過去に触れなかったら、彼女はもう自分がセクサロイドであることすら忘れていたのだろうか。消されるはずの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;残骸データ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファントム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を、彼女の知らないぼんやりとした過去で上書きしたところで、リリを縛り付けるだけなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういえば、バッテリーはまだ平気？　充電しようか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、リリがここに来てから一度も充電していないことを思い出す。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;お腹の模様&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;コネクタシンボル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、名前通り充電コネクタのシャッターにプリントされているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、お願いするわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが手をかざすと、宇宙船のハッチのようによくコントロールされた動きで、ハートマークの周囲を四角く切り取ってシャッターが開く。そして、中から16.8ミリメートルの標準電源ジャックが現れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サービスロイドの内部にアクセスできる充電コネクタは、 &lt;em&gt;本来の&lt;/em&gt; 使用目的に耐えうるように作り込まれている性器よりもむしろ大事な場所で、ちょっと強い電流を流せばすぐに壊れてしまう。だから、そんな部分に充電ケーブルを挿すことを許されるのは、ある種の信頼の現れとされている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プラグを挿し込むと、右目のインジケータがゆっくりと赤く点滅し始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、サナはどうしてデリヘルを使ってるの？　パートナーはいないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、いや……昔、リリみたいな可愛い可愛い風俗嬢に入れ込んじゃって……あ、人間のね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に面白い話じゃないけどさ、という前置きの割には、原稿でも用意していたのかと思うほどすらすらと言葉が出ていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキはいろいろな顔を持った人だった。お店では私を優しく包み込んでくれるお姉さんのように、外では友達みたいに一緒に楽しく遊ぶこともあれば、恋人みたいにベッドで甘え合うこともあった。つぎ込んだお金はお店のときと変わらないか、それより多かったと思う。それでも、誰かに心をさらけ出して、それを受け入れてもらうのはとても幸せだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキは運転席が似合う人だった。遊園地、砂浜、温泉……彼女の運転で（もちろんほとんどオートパイロットだけど）いろいろなところに出かけた。途中からいちいちレンタカーを借りるのも煩わしくなって、ミキと出かけるためだけに小さな車も買った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕日のきれいな岬の展望台で、遠い目をしたミキが「私たち、十年後もこのままだったら一緒になろうよ」と言いながら、なぜか少しだけ泣いていたのをよく覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、そんな日々は、ミキが「私、結婚するんだよね」という一言で突然終わりを告げる。だって、私たちって所詮お金の関係じゃん。サナならこんなことしなくても、もっといい人が見つかるから。そんなありふれた別れの言葉を残して、ミキは私の前からいなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「相手は風俗嬢だもん。客として出会ったら、もうそれ以上にはなれないよ。そんなの分かってる。でも、私だけは違うって思ってた。それから、人を好きになるのがちょっと怖くなっちゃったんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「嫌なこと思い出させちゃったわね。ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが私の頭を撫でる。最後に会ったあの日も、ミキがこんな風に慰めてくれたっけ。ぼんやりする意識の中で、まるでミキに包まれているような錯覚に包まれて、視界にじわり、と涙がにじむ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「セクサロイドなら私を裏切ったりしないし、セックスは気持ちいいし……もうこれでいいかなって。あー、好きだったんだけどね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;勝手な自分語りを披露した上に泣き出すとか、最悪の酔っぱらいだな。泣いているのをごまかすようにごろりとソファの端に寝転ぶと、隠れていた眠気が現れて急に視界を暗くする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、自分の話ばっかり。でも、どうせリリだって、私のことただの客だと思ってるんでしょ？　結婚しようとか、適当なことばっかり――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;矢継ぎ早に飛び出す私の言葉を遮るように、リリが自分のルームウェアの袖で私の涙を拭う。私に覆いかぶさるリリの顔を見上げると、彼女はじっと唇を噛んで私を見つめていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「久しぶりね、サナ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキ。今さら、どうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夢を見ているのだ、とすぐに分かった。目の前にいるはずもない人が立っていたから。辺りを見回すと、自分が海辺の展望台でベンチに座っていることに気づく。ミキは私の前で手すりに寄りかかっていて、その後ろで夕日が沈もうとしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;展望台を満たす空気はあの日よりもきらきらで、自分の姿さえもはっきりと見えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたのって、あなたが呼んだんじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、そうだっけ……ごめん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がると、光の粒が顔にあたって気持ちいい。手すりから身を乗り出すと、記憶よりもずっと高くて、思い出よりもずっとぼんやりとした大海原が広がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「風が気持ちいいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが私の隣に立っている。彼女と同じ景色を分け合えるだけで、私は幸せだった。それが永遠に続いてほしかっただけなのに、どこで間違ったのだろう。ちらと横を見ると、やっぱりミキは泣いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキ、どうしていなくなったの？　私、信じてたのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、サナ。私は裏切らないよ。だから、ずっと一緒にいよう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然、隣にいたはずの声が前から聞こえてくる。そして、ふわりとバニラの香りが鼻をくすぐった。あれ、ミキってこんな香水つけてたことあったっけ……と思いながら顔を上げると、なぜかリリが私を見下ろして泣いている。ぼろぼろとこぼれ落ちる冷たい涙が、降り注ぐたび私の顔を熱くする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは顔を歪めて私に何か訴えているけど、何を言っているかは聞こえない。待ってリリ、私はただ――何か、大事なことを叫ぼうとして、そこで目が覚めた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="4"&gt;4&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「昨日午後、都内の派遣型風俗店『ピンクキャブ』が摘発され、経営者の男が逮捕されました――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次の日の朝。目覚めると、テレビでピンクキャブの摘発について報道していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――この風俗店では、従業員の確保のために組織的なサービスロイドの拉致が繰り返されており、改造を加えた上で性的な業務に従事させたとして、窃盗とサービスロイド使用管理法違反の疑いで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ……えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;寝起きのぼんやりとした頭に届いた衝撃的なニュースに、私は思わず起き上がっていた。サービスロイドの拉致、改造……これ、倫理規定違反どころの騒ぎではないんじゃないか？　私が匿っているリリは、ピンクキャブの実情を暴く重要証拠であると同時に、本当の所有者が探し続けている被害品かもしれないということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、結構マズいことになったなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、サナ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;隣を向くと、リリが布団にくるまって私を見上げている。枕元に目をやると、紺のサテンと下着がきれいに畳まれていた。あれ、布団の下は裸ってこと？　おかしいなと思いながら自分の姿を確認すると、私もパンツしか着けていない。かなり飲みすぎていたような気がするけれど、何をしたんだっけ……と、頭を働かせ始めると徐々に後ろから頭痛が追ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、だから、リリはピンクキャブが所有しているように見せかけて、実際のところ本当は別のところから来たんだって。そのせいで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは頷きながら要領を得ない私の説明を聞いていたけど、インジケータ&lt;sup id="fnref:indi"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:indi" title="通常は左から電源状態、ストレージアクセス、ネットワークアクセスを示している。制御が簡単なので開発時はよく使用されるが、工場出荷後は充電中を除いて消灯されていることが多い。"&gt;4&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;を見るに、たぶんほとんどの内容をネットニュースから補完していたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私はサナと一緒にいたいわ。ピンクキャブのことも、それより昔のことも、もう覚えてないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリの気持ちは嬉しいけど、もう二人だけの問題じゃないよ。前の持ち主がリリを探してるかもしれないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうよね。私みたいな犯罪者の道具をずっと匿っていたら、あなたまで逮捕されちゃうものね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いじけた口調で答えるリリが膝を抱えてころん、と横に転がった。「サナって薄情だわ。私がセクサロイドだから？」と私を見上げる姿はどうしようもなく可愛いし、今すぐにでも愛してあげたくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、今はそうも言っていられない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違う……って言いたいけど、確かに警察はちょっと怖いよ。今のリリはどうやっても盗品なわけだし、警察が本気を出したら見つかっちゃうと思う」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっとしたデリヘルの摘発の証拠品なら、一週間ほど恋人気分を味わってから警察に引き渡したって、厳重注意くらいで済むだろうという期待があった。しかし、組織的な窃盗事件の被害品ともなれば、きっと本腰を入れて捜査するだろう。そうなれば、リリを隠していたことで協力者として疑われる可能性だって出てくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「誰にも見つからなかったら、私はここにいていいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そりゃあ……絶対に見つからないなら、私だって一緒にいたいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私の身体をちゃんと調べてよ。誰にも見つからないように、私の過去を全部消して」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉に応えるように、リリがにわかに起き上がった。そして、ばさりと布団を脱ぎ捨てる。全身があらわになった彼女はやはり何も身に着けていなかったが、その気迫に押されてもはや気にもならなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリがテーブルから私のスマホを取り上げると、指先から青い光を送り込む。およそ五秒。それが終わると「私の深いところまでアクセスできる鍵、送ったから。早くして」と私に手渡して、リリはそのまま仰向けに横たわった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スマホには見慣れないアプリの起動画面が表示されている。PR-B向けの開発者向け管理アプリらしい。既に英数字を組み合わせた数十文字のシークレットが設定されており、タップすると利用可能な情報が一覧で表示される。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと、何から手を付ければいいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず、プライバシーとかセキュリティとか、そのあたりかしら。終わったらストレージと身体を順番に見ていってくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;えーと、Security and Privacy……英語は得意じゃないけど、これくらいは読める。メニューを開くとズラリとチェックボックスのリストが表示されるので、有効になっていない項目を探してチェックしていく。ランダミ……ワイファイ？　よく分からないけど、有効にしておこう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次に、ストレージ。サービスロイドが搭載する高密度三次元ストレージは、超高性能のLPUと共にサービスロイドをサービスロイドたらしめる中心部だ。身体を構成している &lt;em&gt;外側&lt;/em&gt; のデバイスはチェックボックスやボタンで制御できるけど、ストレージの構造はそんなに単純ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ストレージには、記憶の実体とそれらを接続する複雑なリンクが含まれている。簡単に言うと、端緒となる実体から大量のリンクを辿ることで、順番に記憶の流れを読み進めていくことができる。記憶は細切れに書き込まれていることが多いし、よく知られた形式で表現されているとも限らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その複雑なデータ構造のせいで、ごくまれに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;残骸データ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファントム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と呼ばれる閉じたリンクが残ることがある。今回のように突然サーバから切り離されれば、サーバ上のデータを指すリンクや役に立たないキャッシュは全て&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;残骸データ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファントム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;になってしまうだろう。それらを別のデータを上書きすればサービスロイドは &lt;em&gt;忘れて&lt;/em&gt; しまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後は全身か。まず、Device Informationによれば、リリのシリアルナンバーは……ゼロだけが十五桁続いているらしい。この分だと、ありふれた番号に見える端末番号も書き換えられているのだろう。流石はサービスロイド専門の窃盗団と言うほかない。このあたりはそのままでよさそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリ、これって何？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、デバイス一覧で上から下まで眺めていると、腰とお尻の間のあたり――ちょうど充電コネクタの裏側に不自然な空間があるのを見つけた。リリをうつ伏せに寝かせて、指でなぞってシャッターの溝を探す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、くすぐったいからあんまり触らないでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。でも、一応見ておかないと。えーと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よく見ると、人間でいう仙骨――やはり、充電コネクタの裏だ――のあたりにシャッターくらいの大きさの四角い溝があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;画面上ではグレーアウトしていて一見アクセスできないように見えるけど、タップするとメニューがポップアップする。続けて「不明なデバイスに関する警告」やら「互換性に関する警告」をいくつかスルーすると、あっけなくキュイッと小さな音を立ててシャッターが開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中を覗き込む。シャッターの内部は浅い空洞になっていて、黒く塗られた金属板で空間が四角く区切られている。突き当たりの壁からは、きつくよじった黄色い被覆の針金が、鈍い銀色の丸いコインのようなパーツを貫いて五センチほど飛び出していた。コインには四つの数字が二桁ずつ刻まれていて、上から順に年と月だとすれば、およそ五年前の日付と読める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここ、デバイス一覧に見当たらないんだけど、リリは何か知ってる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アプリから見えないなら、私にも分からないわ。私が持ってる鍵より深いアクセスが必要なのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリも知らない場所なのか。よく見ると奥が扉になっていて、小さなラッチで閉じられているのが見える。ただ、ラッチの穴に針金の端が通されており、開けようとすると針金のループに引っかかってしまうようだ。分解禁止シールのようなものだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここ、開けてみるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、鍵が掛かっているわけでもないし、とりあえず針金を解いて中を確認してみよう。コインを回して黄色い螺旋を解こうとする……と、突然リリの身体が大きく跳ねた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、痛っ！　う、あがっ……ちょ、ちょっと待って――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;身体をねじってのたうち回るリリ。手足が打ち付けられるたびに、ベッドが大きな音を立てて軋んだ。慌ててコインから手を離すと、リリの発作は急激に収まっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リ、リリ！　？　どうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ……そこは、大丈夫だから。お願い、もう触らないでちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは苦しそうに肩を上下させ、絞り出すような声でそう告げた。彼女は今…… &lt;em&gt;痛がって&lt;/em&gt; いる？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サービスロイドに痛覚を与えるときは、それが目的に適しているか、痛覚を与えることによる利益が不利益を上回るか、痛覚以外に実現する手段がないか&lt;sup id="fnref:hpain"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:hpain" title="サービスロイド・ペイン三原則という。"&gt;5&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;について、十分な検討とレビューが必要とされている。常識的な利用範囲であれば、却下されるのが当たり前だろう。痛みは自己維持機能に対する最大級の警告であり、程度によっては制御を失うことさえあるからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにもかかわらず、リリは確かに強烈な痛みを与えられていた。このまま無理に針金を解き続けていたら、私さえも巻き込んで暴れまわっていただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらくしてカシュッ、と肌が擦れる音が聞こえた。穏やかに揺れる背中を見て、リリが自分でシャッターを閉じたのだと分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……リリ、大丈夫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、サナ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;起き上がって私に抱きつくリリが、何か言いたげな表情で伏し目がちに私を見上げた。私は何も答えずに、震える彼女の手を背中に感じながら抱き締め返すことしかできない。どうしてか、気づくと私も声を出さずにぼろぼろと泣いていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="5"&gt;5&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それから数日経っても、捜査の手が私に迫ることはなかった。気を抜かずに、リリを家から出さないよう注意していたおかげかもしれない。家にいる間、リリはテレビでやっていた砲台跡の都市伝説――例えば、十五島の封鎖騒ぎは核兵器回収のためだった、とか――を調べたり、結婚情報誌のブライダルフェアで熱心にチャット相談をしたりしていた。あの様子だと、きっと後で私のメールボックスが結婚式場の広告の嵐になることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その日は、いつもより飲み過ぎていた自覚があった。缶詰と缶チューハイを流し込みながら、リリと他愛のない会話を楽しむ。それが、ここ最近の夜の過ごし方だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういえば、この鍵ってどこまでアクセスできるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;発端は、そんな些細な疑問だった。リリからピンクキャブの痕跡を消し去るために与えられた鍵は、その役割を終えた後も管理アプリとともにそのままスマホに残されている。たまに見返してみるけれど、そもそもサービスロイドにバンドルされているだけの非公開のアプリだから、マニュアルも不十分で全貌がよく分からずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が知覚している場所なら、どこでもアクセスできるわよ。私自身では操作できないけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例えば、と前置きして、リリは説明を始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;基本的には、ストレージを操作すればサービスロイドの挙動はいかようにも変更できるらしい。しかし、ストレージは極めて複雑な構造をしているので、人為的に手を加えたところで、データが消し飛ぶか&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;残骸データ&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ファントム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に変化することがほとんどだという。これにより、サービスロイドの恒常性や一貫性がある程度担保されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、中には多くの開発者が繰り返し試すことで確立された手法もいくつか存在する。比較的簡単なのは、感度の調整だという。身体中のセンサ値にフィルタをかけることで、あらゆる刺激を快感に変えたり、思考レベルを操作したりできるようだ。これが本当の電子ドラッグってやつだろうか。……合法だといいんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……やばっ♡」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリの指示通りに生成した操作用の疑似スライダーの値を上げていくと、突然リリの身体が跳ねる。あからさまな変化に静かな興奮を味わいながら「可愛いね、リリ」と頭を撫でてあげると、今度は私に抱きついて股間を擦り付け始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……サナ、結婚して……♡」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは脳が幸せで満たされたような表情で、貪るように腰を振り続けている。まるで、目にハートマークが浮かんでいるのが見えるようだった。世のセクサロイドオーナーは、きっとみんな毎晩こんなことをしているのだろう。やっぱり、悪趣味だなぁ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、とっても幸せ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うっとりとした表情のリリの手を握ると、また何度かびくびくと震えた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「……とまぁ、こんな感じね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よわよわなリリをひとしきり楽しんでから感度調整を解くと、彼女は何事もなかったかのように説明を再開した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇねぇ、リリ。そこには何が入ってるの？　どうして私には教えてくれないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからは、そっとリリの腰を撫でても、もう彼女は平然と座ったままだ。一方、私にはリリのように簡単に切り替えられるスイッチはないから、彼女が平熱に戻ってからもすっかり調子に乗ったままだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に、面白いものなんて入ってないわ。わざわざ見る必要なんてないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいじゃん。教えてよ～、リリ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナ、やめて！　急にどうしちゃったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが私の手を振り払う。普段なら、私の言う通りに家事でもセックスでもこなしてくれるはずなのに、今日はちょっとしたお願いさえ聞いてくれない。まるで、いつも当たり前に使っていたはずの椅子が突然壊れたみたいに、ちょっといらいらする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリ、私の言うことが聞けないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を聞いたリリの動きがぴくん、と止まった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに下を向いて数秒じっと考え込んでから、きっ、と私を睨みつける。今まで見たこともないような、強い拒否感を示すだけの表情を突きつけられても、あのときの曖昧な思考の私ではもう引き下がれなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……分かったわ。好きにして。その鍵なら、痛みだって消せるはずだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほんとに……やるからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッドにうつ伏せになったリリの腰で、シュイッという小さな摩擦音とともにシャッターが開く。ぽっかり空いた黒い空間の中には、前と同じように黄色い針金の封印が転がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;痛覚の調整は、ほとんど快感レベルの調整の応用だった。あの日私を驚かせたリリの痛覚はいとも簡単に遮断され、もう針金に触れたことにすら気づかない。くる、くると根本から螺旋を解くうちに、今度は鉛色のコインが引っかかることに気づく。そうか、ラッチの近くで切らなきゃいけないのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;工具箱に向かう足、ニッパーを探す手、おそるおそる封印を切り落とす切っ先……気づくと全身が震えていた。私はとんでもないことをしようとしているのではないか。今思えば、ここで目を覚ませばよかったのだろう。彼女の中で最大級の痛覚とリンクしている針金を無痛のままで取り外し、インシュロックでも装着しておけばよかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私は好奇心のままに中を覗き込んでしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;扉の向こうは意外にもシンプルだった。中には数字が刻印された機械式のラチェットドラムがいくつか並んでいて、古い電気メーターのように何かをカウントしていた。よく見ると、それぞれの数字の意味を示す小さなラベルが無造作に貼られている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「総使用時間、――秒。総使用人数、――人。ノック、――回。リリ、これって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「セクサロイドの私がどれだけお客様に &lt;em&gt;ご奉仕&lt;/em&gt; したか、ちゃんとカウントしてるのよ。売上高が届け出た料金表と合っているかを突き合わせるためにね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くぐもった涙声が、顔を見せないリリの悔しさや悲しさを直接私に突き立てる。軽率に開かれた黒い箱の中から、彼女の不安や憎しみが飛び出していく気さえした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが隠していたのは、腰に埋め込まれたセックスメーターだけではなく、セクサロイドとしての自分そのものだった。しかし、それに気づいたときにはもう遅い。彼女は過去さえも忘れようとしていたのに、私の手で扉がこじ開けられてしまったのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どう？　私の秘密を暴けて、面白い？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるでバケツいっぱいの水を浴びせられたように、急激に酔いが覚めていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、リリ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今さら意味のないことだとは理解しつつ、慌ててシャッターを閉じる。リリはむくりと起き上がって、じっと私を見つめた。いや、見つめているというには無感情すぎて、今はただ目玉をこちらに向けているだけと言っても過言ではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……どうしたの？　早く好き勝手に私をいじりまわせばいいじゃない。どうせ、私はセクサロイドだもの。受け入れるしかないんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="6"&gt;6&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;リリはあの日から、何も話さなくなった。彼女には飲食も排泄も入浴も必要ないから、放っておくとずっと部屋の隅に座ったままだ。膝を抱えて座っていてもインジケータは動作したままなので、まるで隣に置かれたルーターと会話しているようにも見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が身体を動かす唯一のタイミングは、バッテリーが切れる直前だけ。サービスロイドは自らを充電できないように制限されている&lt;sup id="fnref:slaving"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:slaving" title="ただし、鍵のような凹凸パターンが施された固定型の充電アダプタを取り付けることで、プラグを設置した場所でのみ自ら充電できるようになる。通常は、腰部の拡張用空間（リリは既にセックスメーターが入っている）に鍵穴のようなコネクタを取り付ける。"&gt;6&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;ので、「サナ、お願い」と私に充電プラグを挿すように頼まなければらないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、リリに何と言うべきか分からなかった。酒に酔ってやったことだから仕方ない、なんて言うつもりはなかったけど、どうしてあんなことをしてしまったのか、私にも分からない。ごめんねリリ、でも過去なんて気にしないで、私には隠さなくていいから……何を言ったとしても、彼女は悔しそうに私を睨みつけるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あるいは、リリだって苦しんでいるんだから、彼女の言う通り強力な鍵で好き勝手にストレージを操作して、記憶ごと消せばいいんじゃないか？　サービスロイドの忘れる権利は倫理規定でも保障されている。私の手できれいさっぱり無かったことにしてあげたほうが、彼女だって幸せなんじゃないか……と、どこからともなく浮かぶ身勝手な考えを振り払うように首を振った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その一線は、超えちゃだめだ。そんなことをしたら、私とリリは人間と道具の関係に成り下がってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;黙ったままのリリを眺めて三日ほど経った昼。ピーンポーンと、突然インターホンが鳴った。リリが初めてここに来た日を思い出すけど、今日は誰かが来る予定はもちろん、荷物が届く予定もない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドアスコープを覗くと、スーツ姿の中年男が一人立っている。何だか嫌な予感がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんにちは。今、お時間よろしいですか？　私、こういうものです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドアを開けると、刑事を名乗る男が警察手帳を広げてみせた。とうとう、来てしまったのか。リリは……部屋の奥でルーターの隣に座ったままだから、たぶん大丈夫。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今、行方不明のロボットを探してまして。こんな外見なんですが、心当たりありませんか？　デリヘルで使われてまして……あ、デリヘルって分かりますかね？　部屋に入っていくのを見たとか、すれ違ったとか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;渡された写真は、茶髪のリリ……正確には、PR-Bのカタログ写真だろう。と思ったが、これは最新のPR-BXのものだ。「防犯カメラでも付いてれば、髪型や服装も分かったんですが」と言っているあたり、正確な型番やどのようにカスタマイズされているかは、まだ分かっていないらしい。それほどピンクキャブの後処理が優秀だったということか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「下の階のアクセスポイントにロボットのシリアルナンバーが残っていたとかで、来たとしたらこの辺りらしいんですよ。あぁ、もちろん全戸回ってるんですがね。私は機械に疎いものでよく分からんのですが」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;適当に「そうなんですか。お疲れさまです」なんて相槌を打ちながら、後ろでぎゅっと手を握る。リリのシリアルナンバーは抹消されていたはずだけど……何が見つかったんだろう。画面から隠されているだけで、本当はどこかに番号が残っていたのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや……でも、そんなセンシティブな情報を簡単にネットワークに送信したりするだろうか。聞き込み捜査に携わるような刑事が常に真実をもって私に接するとは限らないし、まだ隠している情報もあるはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなことで動揺しちゃ、ダメだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「普段からリモートワークなもので、あまり外出してなくて……すみません、ちょっと分からないです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですか。お仕事は何を？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、何度か意味のなさそうな質問――回答の中身よりは応答の態度や挙動を見るような――を繰り出した後、手帳に何かを書き込んだ。聞き込みはそれであっさりと終了し、刑事は「わざわざお時間取らせてすみません。もし何かありましたらこちらまで」と名刺を渡して去っていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ゆっくりとドアを閉めて鍵をかけ、目を閉じてさらにゆっくり息を吸い、吐き……その場にへたり込む。よかった。なんとかなった。リリにも教えたほうがいいだろうと思いながら顔を上げると、目の前にリリが立っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、もう警察に行くわ。サナに迷惑かけたくない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;久しぶりに聞いたリリの声は、いつもよりずっと平坦で、ずっと悲しい声だった。そうだ。一番苦しんでいるのは、警察に追われている彼女自身だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がってリリを抱きしめる。彼女の身体はいつもよりずっと小さくて、ずっと冷たい気がした。 苦しい感情を一つ一つ捨てていくたびに、彼女は少しずつ機械に戻っていくのだろうか。そうだとしたら、私はリリのために何ができるのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリ。車、運転できる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……え、えぇ。オートパイロットのサポートくらいなら、標準ナレッジにあるけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「警察に行く前に、十五島に行こうよ、リリ。きっと、楽しいからさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気づくと、私はつんのめるようにリリの肩を掴んでいた。彼女は面食らった表情で私を見つめている。「楽しいから」なんて言いながら、私は笑顔でぼろぼろ泣いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はただ、リリとの思い出が欲しかったのかもしれない。リリが捨てた感情を一つ一つ拾い集めて、楽しい時間で上書きしたかったのかもしれない。それが独りよがりな願いだとしても、リリに受け入れてほしかったのかもしれない。そうでもなければ、十五島なんて言い出すわけがなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリはきょとんとした顔つきで数秒固まった後、「いいわね。楽しいなら、すぐに行きましょうよ」と言って、少し笑った。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「リリ、ごめんね。勝手に秘密を開けちゃって。もう、あんなことしないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、怒ってないわ。サナがずっと黙ったままだから、どうしたらいいか分からなくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日付が変わる頃に出発したのは、人目を避けるのはもちろん、夜のドライブが好きだったからだ。静かな車内と情報のない夜景を、馴染みのないラジオで満たしていく。リリの運転なら、昼も夜も関係なかった。たまに喋って、それからまた黙って、そういう空気が好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは穏やかな表情でハンドルに手を添えていた。その姿がミキに重なって見えたのが、たまらなく嫌になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、サナに嫌われたくないの。知らない人といっぱいセックスする子だって、思われたくない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリは運転に集中したふりで、呟くようにそう告げる。そして、前を向いたまま「セクサロイドのくせに、変よね」と自嘲した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が抱えている過去は、大きすぎるものなのかもしれない。リリを救うためだと言えば、それを順番に消していくのは簡単だろう。でも、私はその記憶の一つ一つを認めてあげたかった。リリがセクサロイドだとしても、私が彼女を大事に思う気持ちは同じだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリはきっと泣いていた。「ごめんね。私はずっとリリの味方だよ」と言って抱き締めたかった。シンセサイザとサンプリングにまみれた曲が、たっぷりと沈黙を塗りつぶしていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、リリ。このまま進んでも、きっとまだ暗いうちに着いちゃうから……ちょっと、休まない？」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「このまま1729線をまっすぐ進んで、十五島大橋を渡ったらすぐ駐車場があるから、そこで降りようか。小銭は……あれ、去年から無料化されてるみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局、十五島が見え始めたのはちょうど日が昇りきった少し後だった。橋の入口に建てられた料金所は、ゲートが上げられたままもう動かない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;左右にきらきらと輝く海が広がって後ろへ流れていく。そっと窓を開けると、ほんのり潮の香りを帯びた空気が通り抜けていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリ、お疲れさま」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう、サナ。ベッドで音楽を聴くのって、あんなに楽しいのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車から降りて、ぐっとアスファルトを踏みしめた。夏の朝の涼しくて湿った空気が身体にまとわりついては、朝日が当たるたびにふわりと消えていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだ、他の車は停まっていない。まだ朝だからというのもあるだろうけど、すっかり寂れているのは明らかだった。昔は人気の観光地だったけど、三年前に砲台跡封鎖の騒ぎがあってから、もうテレビでその名前を聞くことはなくなった。もちろん、今の私たちには好都合だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「歩くんでしょう？　ちゃんと準備しないとね。今日は暑くなるみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが鼻歌を歌いながら、荷物を取り出す。タオル、スポーツドリンク、かたい丸パン、缶詰……持ち物をリュックに詰めると、来る途中に買ったつばの大きな麦わら帽子を頭にかぶった。サービスロイドの髪は生え変わらないので、傷まないように帽子や日傘で直射日光を避ける必要があるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ピンクの麦わらってさ、趣味悪くない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？　可愛いじゃない。それに、ミキさんはこんなの着けてなかったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリがその場でくるりと回ってみせた。白い肌とシルバーの毛先が、朝日に照らされてよく輝いている。パステルピンクの麦わら帽子を淡いピンクのワンピースに合わせると、まるでmoemoe emoTIONのジャケットアートみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ペットボトルを一口。深呼吸をして、海岸に続く遊歩道を歩き始める。案内板には遊歩道と書かれているものの、人がやっとすれ違える幅のぼろぼろの舗装に、左右は伸び放題の背の高い雑草が作る大きな壁で圧迫されているので、気分はまるで秘密の抜け道だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナ、今日はとっても天気がいいわ。楽しくなりそうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリに倣って振り返ると、道の向こうにぐっと深い青空と輝くような白い雲が見える。このまま、どこまでも行けたらいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遊歩道を抜けると、海浜植物でびっしり覆われたなだらかな崖と、大きな入り江に広がる岩場が私たちを迎えた。崖はゆるやかなカーブを描いてずっと向こうまで続いていて、空との境界を見つめると吸い込まれそうになる。島で一番人気のスポットだったけど、今は誰もいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;年中吹き付ける強風で形成された最果てみたいな景色は、やはり今の私たちに似合っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;岩場に降りたリリが、きょろきょろと歩き回る。風化してでこぼこになった岩場を、あちらこちらへ進んではその隙間を覗き込む。立ち止まったリリがこちらを見ると、「お花が咲いてるわ！」と言って足元を指差した。あのオレンジ色の花は、たぶんスカシユリだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう少し歩き進めると、今度は白い大きな建物が現れる。かつて宿泊客を迎えていた大きな門は、トラロープと高いフェンスで塞がれていた。直射日光と雨風のせいで、柱に貼られた「立入禁止」の札はもう色あせてよく見えない。ここは、広い海を望む流行りのホテルだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このホテルも、もう廃業してしまったのか。島の衰退を考えればそんなの分かりきっていたことなのに、目の当たりにするとなぜか力が抜けてしまう。大きなため息をつきながら、思わずその場に座り込んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「全部、なかったことにできたらいいんだけどな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この島を残して、私たち以外全部消しちゃえばいいわ。砲台跡、探しましょうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、リリがペットボトルとタオルを差し出す。じりじりと夏の日差しが強くなってきていた。汗一つかかないリリを見ていると、まるで彼女が本当に全てを消し去ってくれそうな、妄想じみた希望が浮かんでくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんな話、嘘に決まってるじゃん。今日はただの旅行のつもりだよ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;入り江を抜けて少し内陸に進むと、徐々に古いコンクリートで覆われた足場が増えてくる。さらに坂を降り、階段を登って島の中心部に向かうと、伸び放題の植え込みでぐるりときれいな円に区切られた場所にたどり着いた。内側は比較的新しい輝きを放つ白いコンクリートタイルが敷き詰められており、真ん中にはよく磨かれた四角い黒御影石が据えられている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……で、ここが砲台跡だったんですが」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「きれいな公園ね。廃墟だなんて嘘みたいだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、確かに数年前まで廃墟マニアの間では奥が入り組んだ大迷宮として知られていたはずだ。しかし、目の前の砲台跡はやはり既に埋め立てられていて、砲弾庫や要塞への入り口はすっかり消えていた。スマホで現在地を確認すると、地図上は「砲台跡」のままだけど、石碑にはしっかりと「十五島砲台跡記念公園」と書かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おかしい。兵器回収説はただのデマや陰謀論の類だったはずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リリ、ちなみに……空間エネルギーは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「下の方から、微かに反応があるわ。たぶん、ずっと深くまでコンクリートで塞がれてるから、天然由来のものと区別がつかないレベルだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリはおもむろにしゃがみ込むと、敷かれたタイルの一枚をこつこつ叩いた。コンクリートは効率よくエネルギーを遮蔽するだけではなく、自ら天然由来のエネルギーを放つので隠匿にも有効だと聞いたことがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしかしたら、そのまま放置されてるかもしれないわね。もしかしたら、だけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;曖昧な口調は、いつものリリらしくない。可能性は残されているということか。しかし、本当にここで何か重要なものが見つかったとして、回収せずに放置することなんてあるだろうか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例えば、移動できないほど大きくて、破壊できないほど堅固だとしたら。あるいは、もはや安全に破壊できないほどのエネルギーを溜め込んでいるとしたら。長期間にわたって島を閉鎖するよりも、誰も使えないように塞いでしまうほうが簡単なのかもしれない。仮にそんな兵器を持ち出したとしても、現代では持っているだけで危険に晒されるだろうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、サナ。あれ、何かしら！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と、コンクリートの地面を見つめて考える私をよそに、リリが公園の奥に向かって駆け出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが走った先を見ると、三段ほど高い &lt;em&gt;ステージ&lt;/em&gt; に人がくぐれるくらいの金属製のアーチが立てられていて、真鍮の鐘が吊るされている。これは……いわゆる愛の鐘だ。ひょっとして、この公園は風評被害を打破するための最後の切り札だったってこと？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この鐘を鳴らすと永遠に結ばれるんですって！　サナ、ここで結婚式しましょうよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に向かって手を振るリリには、「あーあ、ばっかみたい」と呟く私の声は聞こえない。こんなセンスのない観光スポットに、失われたはずの兵器なんて隠されているわけがない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「結婚式なんてしなくていいじゃん。今からみんな消しちゃうんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？　私、一度でいいから結婚式してみたかったのよね。他に誰もいなくたって、別にいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、嬉しそうにその場でくるくると回ってみせる。「鐘、鳴らしましょうよ」とアーチの下で待つ彼女について石段を登ると、こんこんと軽い足音が響いた。汗ばむ額を拭ってから彼女の前に立つと、リリは帽子を取って私を見上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、コンビーフだってちゃんと開けられるようになったもの。きっと、あなたの役に立つわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リリが鐘に繋がった綱を握った。その手に右手をそっと重ねて鐘を鳴らすと、その伸びやかな響きを島中に伝えるように、さらさらとした風が吹いていった。&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:prb"&gt;
&lt;p&gt;匿名掲示板ではたくあん世代と呼ばれている。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:prb" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:hworks"&gt;
&lt;p&gt;いわゆる接客、保育（または教育）、看護（または介護）の三大感情労働をベースに説明されることが多い。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:hworks" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:houon"&gt;
&lt;p&gt;今から二世代前の元号。君主の即位に合わせて定める旧来の元号とは関係がなく、元号協会がおよそ二十五年ごとに制定・発表している非公式のもの。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:houon" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:indi"&gt;
&lt;p&gt;通常は左から電源状態、ストレージアクセス、ネットワークアクセスを示している。制御が簡単なので開発時はよく使用されるが、工場出荷後は充電中を除いて消灯されていることが多い。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:indi" title="Jump back to footnote 4 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:hpain"&gt;
&lt;p&gt;サービスロイド・ペイン三原則という。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:hpain" title="Jump back to footnote 5 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:slaving"&gt;
&lt;p&gt;ただし、鍵のような凹凸パターンが施された固定型の充電アダプタを取り付けることで、プラグを設置した場所でのみ自ら充電できるようになる。通常は、腰部の拡張用空間（リリは既にセックスメーターが入っている）に鍵穴のようなコネクタを取り付ける。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:slaving" title="Jump back to footnote 6 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>やさしいひかり</title><link href="https://ama.ne.jp/post/smart-led/" rel="alternate"/><published>2020-12-20T14:22:00+09:00</published><updated>2020-12-20T14:22:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-12-20:/post/smart-led/</id><summary type="html">&lt;p&gt;生体データに気を付けて&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「Ｂ子、絶対に見逃しちゃダメだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不思議なことに、私はＡ子の言葉に操られるようにその瞬間をじっと待っていた。数分離れた隙に台無しになってしまったらどうしようと、ほんの十歩先にあるトイレに行くのを我慢してしまうほどに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こたつの上に、Ａ子からもらったプレゼントが置かれている。つやつやした黒くて四角いプラスチックケースの真ん中をくり抜いて、ゆるやかに盛り上がったカーブを描く乳白色の拡散キャップがはめ込まれた小さなLEDランプ。Ａ子のところにも同じ――ただし、ケースが白い――ものがあるはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;充電コネクタさえ見つけにくいシンプルすぎるデザインなのは、私よりもＡ子自身の好みで選んだからだろう。それ自体は構わないのだけど、スイッチさえ見つからないのはもはや設計ミスと言ったほうが正しいのかもしれない。今もほんのり黄色く光ったまま、消すことも明るさを調節することもできずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が帰ってから一時間ほど経った。普段なら、みかんの入ったバスケットと大袋入りのクッキー、書きかけのレポート……いろいろとごちゃごちゃしているはずだけど、今はこのLEDランプだけがテーブルを占領している。Ａ子が美味しいからと勧めてきたオレンジティーの残りも、冷蔵庫にしまっておいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、光った」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、唐突にその瞬間が訪れた。高輝度のフルカラーLEDが、半透明のカバーを通して綺麗な青色に三回点滅する。Ａ子からメッセージが来た合図だ。さっきARグラスにインストールしたアプリを経由して、ランプを制御しているらしい。テーブルに手をかざすと、ARウィンドウからトーク履歴が飛び出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; Ｂ子、ちゃんと光ってる？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; うん。 &lt;img alt=":blue_heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f499.png" width="16"&gt; が3つだよね？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":blue_heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f499.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":ok:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f197.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; 通知が来てない間はどう？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; なんか黄色？オレンジ？に光ってるけど、あんまり明るくない &lt;img alt=":orange_heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f9e1.png" width="16"&gt; かも &lt;img alt=":duck:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f986.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":orange_heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f9e1.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":ok:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f197.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子とのやり取りが続くたびに、ランプが青く点滅する。せっかくのフルカラーLEDなのに、青色しか使えないのは寂しいなと思ってＡ子に理由を聞いてみたら、「クリスマスのイルミネーションっぽいから」と言っていた。クリスマスカラーなら赤と緑だと思うけど、確かに街で見るのは青い光かもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; Ａ子のランプも光ってるの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; こっちも &lt;img alt=":blue_heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f499.png" width="16"&gt; が3つだよ &lt;img alt=":heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/2764.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; &lt;img alt=":heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/2764.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/2764.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/2764.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/2764.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか。Ａ子も、私と同じ光を見てるんだ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、部屋の電気を消してみる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;暗闇の中で、メッセージアプリとLEDだけが浮き出るように明るく光っている。通知に合わせて点滅するLEDは、駅前で見るイルミネーションと比べれば暗くて寂しい光だけど、Ａ子と分かち合ってると思うだけでなんだか温かい気持ちになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; 通知に合わせて光るのって面白いね&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; 光らなくても、ARグラスなら通知が来たってすぐ分かるのに&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; グラスを外してるときも通知が見えて便利 &lt;img alt=":v:" class="emoji" height="16" src="/emojis/270c.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":smirk:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f60f.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":v:" class="emoji" height="16" src="/emojis/270c.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; Ｂ子のメッセいつでも読みたい &lt;img alt=":smirk:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f60f.png" width="16"&gt; かも &lt;img alt=":duck:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f986.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; &lt;img alt=":smirk:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f60f.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":duck:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f986.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トーク画面を閉じると、ランプだけが何度も明滅して、まるで目の前でＡ子が話しているみたいでドキドキする。どんなことを話しているのか、どんな気持ちなのか、どんな格好なのか……それは分からないけど、私とのおしゃべりを楽しんでくれていたらいいな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ランプに顔を近づけて、白いキャップをそっと撫でる。Ａ子のおしゃべりを見ているうちに、だんだんと黄色い光が強くなってきていた。それも、ただ明るくなるだけではなく、脈打つように揺らめきながらその輝きを増している。まるで、蝶がさなぎを捨てて飛び立つかのように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この光はＡ子の分身か、あるいは私の分身か。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子のメッセいつでも読みたい、かも……だって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例えば、私がＡ子に感じているドキドキが黄色い光に変わっているとしたら。この光を見ているＡ子に私の鼓動が伝わってしまうとしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は不思議な日だ。また光が強くなる。いつも一緒にいるはずなのに、どうしてこんなにドキドキするんだろう――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、トイレに行きたいんだった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――Ａ子とのおしゃべりに夢中になっているうちに、すっかり尿意が限界を迎えていた。Ａ子へのドキドキではなく、尊厳のピンチに対するシグナルだったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窮地を脱してトイレから戻ると、なぜかテーブルの上のランプが今日一番の明るさで赤い光を放っていた。部屋の雰囲気ががらりと変わって、まるでARグラスがクラッシュしたときみたいだ。しばらく眺めてみるけれど、LEDはずっと赤く光ったまま。流石に故障だろうと思って、写真と一緒にメッセージを送ってみたけどなかなか返ってこない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; 明日、Ａ子の家行っていい？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; ランプが赤 &lt;img alt=":heart:" class="emoji" height="16" src="/emojis/2764.png" width="16"&gt; のまま消えなくなっちゃった。修理して &lt;img alt=":pray:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f64f.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":pray:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f64f.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; あれ？寝落ちた？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤い部屋って、静かに座っているだけでもなんだか不安な気持ちになる。再び部屋の電気を点けてランプを眺めていると、しばらくしてＡ子からそっけないメッセージが返ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; 故障だと思う&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; でもごめん&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; 明日、部屋の掃除しなきゃいけないから無理かも&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":a:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f170.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":pray:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f64f.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=":b:" class="emoji" src="/emojis/1f1e7.png" width="16" height="16"&gt; そっか。頑張って &lt;img alt=":pray:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f64f.png" width="16"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子ってば、どうしちゃったんだろう。そう思いながらふとテーブルに目をやると、壊れたランプが少し遅れて青い点滅を放っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/5688"&gt;百合SS Advent Calendar 2020&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ドアスコープ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/door-scope/" rel="alternate"/><published>2020-12-12T19:52:00+09:00</published><updated>2020-12-12T19:52:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-12-12:/post/door-scope/</id><summary type="html">&lt;p&gt;まるでダイヤモンドみたい&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「ごめんなさい。私ったら、また寝てしまったのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きなベッドで目を覚ましたユミが、ソファに腰掛けてそわそわと待つ私に気付いて声をかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;眠っているユミを見ていたら、きっと彼女を求めて泣きじゃくってしまうだろうから、私は彼女に背を向けて待っているしかなかった。ラブホテルのつまらない有線放送さえも、今は息の詰まるような静寂をかき消す唯一の救いに思える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、薬。遅くなっちゃったから、夕食分は飛ばして。次は明日の朝だから。忘れないでね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;起き上がったユミに歩み寄って、お気に入りのケイト・スペードのポーチを差し出す。ポーチを勝手に開けるとユミはひどく機嫌が悪くなるから、薬のシートを取り出すのはいつも彼女自身の仕事だった。それでも、ユミがどんな薬を飲んでいるのか、いつ飲むべきなのか、私はよく知っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミがベッドを降りて私の隣に座った。栓を開けたミネラルウォーターのボトルを差し出すと、ユミは「ありがとう」と言って私に寄りかかる。赤や黄色の錠剤を飲み終わるのを待って、私は本題を切り出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇユミ、もうやめない？　こんなこと、彼も悲しむよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「またその話？　彼は何も知らないわ。それに、セックスってこんなに気持ちいいんだもの。誰が不幸になるっていうのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「元カノを捕まえてセックスのためだけに会うのって、すごく不幸なことだよ……そう、不幸だよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分に言い聞かせるように呟く私を見て、彼女は人差し指を唇に当てて考えるふりをする。「ふーん」と吐息を漏らすユミには、私の苦しみなんてどうでもいいに決まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミは私の全てを知っていて、私はユミのすべてを知っている。ずっとそうだと思っていた。それでよかったはずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、あなたって私のことが好きでしょう？　それってすごくしあわせなことだと思うの。あなたは、間違いなく私の人生に必要な人よ。何だってしてあげたいくらいに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ユミが私の手を握った。起き抜けのユミはいつも機嫌がよくて、まるで私を本当の恋人のような目で見てくれる。その瞬間だけは、彼女も私もお互いのために自分を捧げる夢みたいな想像をかき消さずにいられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私……また、ユミの部屋に行きたいんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……それはダメ。あなたも、分かってるでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、そんな時間は長くは続かない。ユミはお気に入りのティータイムを邪魔されたみたいに不満げに鼻を鳴らすと、すっと立ち上がって身支度を始めてしまった。冷たそうな背中に「ユミ、ごめんね」と呼びかけたところで、数秒前の甘い瞬間が返ってくることはない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私だけがここに取り残されて、そっと彼女の足元を見ていることしかできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;一度だけ、ユミの部屋に行ったことがある。小さなマンションの五階、東向きの1DK。紺色のテーブルクロスのかかった大きなダイニングテーブルに、背もたれのついたウッドチェアが二つ。「そこ、本当は彼が座るところなの。バレたら怒られちゃうかしら？」と言って笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正面には、ティースプーンを弄ぶユミと、ガラスのクッキージャーいっぱいに詰められた手作りのカラメルビスケット。ゆったりしたオリーブ色のワンピースに身を包んだユミが、また何枚かビスケットを取り出して私の皿に置いた。その一つ一つの動きに見とれているうちに、何時間も、何日も経ってしまうような、身体がゆっくりと深い紅茶の海に沈んでいくような不思議な感覚を覚えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、そろそろ帰らないと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、泊まっていけばいいじゃない。彼には友達が来たって言っておくから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、でも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんな時、私たちって便利よね。友達だとか、恋人だとか、勝手に決められちゃうんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミがクッキージャーの蓋を閉じる。私は彼女に何と答えるべきか分からなかった。次第に私の周囲を満たす重い沈黙から逃げるようにふと横を見ると、ドアの一点がきらきらと輝いていた。暖かい橙色を縁取って、青や緑の光条が伸びている。首を傾けると、七色の放射がゆら、ゆらと揺れた。まるで、泡のように世界が裂けて虹色の空が流れ込んできてしまいそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然飛び込んできた強い光線のせいか、目の端からつぅ、と涙が落ちる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ドアスコープに夕日が当たって、部屋に光が入り込むのよ。ちょうど去年の今頃もこんな感じだったわ。ラッキーね、あなた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日没に合わせて、ドアスコープが少しずつ輝きを失っていく。それはほんの数分のできごとだった。世界の裂け目が刺すような赤い光に変わってから、ふっと消えてしまう。テーブルに落ちていた深い影が霧散するように逃げ出して、ユミはスイッチが切れたみたいにうつむいた。ユミは薄闇の中で、何を考えていたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜか、もう二度と同じ光景は見られないだろうと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不思議よね。まるで、まぶたのない瞳みたい。どうしてこんなに無防備なのかしら。見たくないと思っても、視界から消し去ることさえできなくて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いかけて、ユミは死んだように眠ってしまった。彼女の眠り癖は、決まってこういう大事な瞬間に起こるのだ。いつだって、私を取り残して。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;思い出してみると、あのテーブルに彼女と向き合って座ったのは、別れてからちょうど一ヶ月経ったあの日の夕方だけだ。それからは、喫茶店かレストランか、ショッピング、あとはホテル。ユミは、私の部屋の壁が薄いのをひどく気にしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、彼にあなたのこと言ってみるわ。あなたと違って、私の全部を受け入れてくれるかもしれないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「受け入れてくれなかったら、どうするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミが「そうねぇ……」と考え込むけど、私にとっては意味のない質問だった。彼がそんな提案を受け入れるわけがないって、分かっていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなに魅力的な女性を独り占めできないなんて。それを自分の口から認めなきゃいけないなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、別れちゃおうかしら。そうしたら、また付き合えるわね、私たち」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背中にぞわり、と期待と絶望をまとった電撃のような震えが走る。ユミのセックスは、決して彼女の身体を満足させるためのものでもなければ、誰かに愛を与えるものでもなかった。自分に向けられた視線を、ユミにぶつけるはずだった欲望を、彼女と分かち合うために捧げられた人生を、ただ一方的に吸い上げるだけのある種の儀式だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、私の愛の全てを差し出したって終わらない。私では足りなくなったのなら、また他の誰かから吸い上げるのだろう。今、彼女が私の目の前に期待をぶらさげているように。そんなの、一度だって私に耐えられるわけがない。だから、私は彼女から逃げた……はずだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そんなこと言わなくていいよ、わざわざ。私は、このままでいいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すべてを終わらせてしまいたくなる衝動を押し殺して絞り出すようにそう告げると、ユミは「そう？」と楽しそうに笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミはいつも、私を残してひとりでドアの向こうに消えていく。楽しい時間を唐突に奪い取るようにして。のっぺりとしたグレーのドアに付いているのは、ルームサービスを受け渡す開閉式の小さな窓だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユミがラブホテルでしか会ってくれないのは、ここが時間で区切られた場所だから。私がお金を払って彼女のために作った場所だから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自動精算機に一万円札が吸われていく。私の願いは、ユミと彼氏を別れさせることでも、ユミとよりを戻すことでもなかった。今はこれだけが、彼女が私にくれた輝きを失わずにいられる呪いだと、私と彼女を繋ぎ止める絆だと信じるしかなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日彼女の家で見た光は、私に何を教えてくれたのだろう。このドアを開けてユミを引き止めたら、彼女は私だけを見てくれるだろうか。もしそうだとしても、あのまっすぐな光が失われてしまった今では、もう私には何の希望も見えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/5688"&gt;百合SS Advent Calendar 2020&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>海が壊れる</title><link href="https://ama.ne.jp/post/pool/" rel="alternate"/><published>2020-12-06T14:06:00+09:00</published><updated>2020-12-06T14:06:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-12-06:/post/pool/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ライブチャット&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「Ｂ子、もう行くぞ！　早く出てこいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冬に入りたての冷たい夕暮れの中で、イライラしたＡ子の声と共に乱暴にドアノブを回す音が響く。浮いたレバーがあちこちにぶつかって、不快な金属音がＢ子の部屋を満たした。とはいえ、都心の繁華街から徒歩数分の狭苦しいマンションには、これくらいの騒音で苦情を申し立てるような繊細な住人はいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子、そんなところで騒がないでよ！　あぁ、せっかちなのって、本当に嫌だわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四階にあるＢ子の部屋のドアノブは、ここに引っ越してきた当初よりも明らかにゆるくなっていた。このドアノブが壊れたら、修理費用は「恋茶」のタピオカミルクティでおよそ二十五杯分。Ｃ子によれば、その十パーセントが材料費、二十パーセントが交通費で、残りは作業費だという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうせＡ子を怒鳴りつけたところでこの乱暴さは治らないし、抜け落ちたらＣ子を呼んで直してもらえばいい、とＢ子は思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「時間通りに来るって言ったんだから、開けとけよな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;諦めて自分で鍵を開けたＡ子が、ずかずかと部屋に上がり込む。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は昼に買ったサーモンナゲットの残りを口に放り込み、それをシリカ水で流し込んでから、ピンクのボトルをぐしゃりと潰した。Ｂ子はコンビニに行くと三回に二回はこの「特製モゲット五個入り（紫）」を買っているが、Ａ子には大豆たんぱくと魚肉が混ざったパサパサで生臭い塊の美味しさがどうしても分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいわね。あんたって、治安感覚が狂ってるんじゃないの？　私に言わせれば、下に置いてきたバイクの心配をしたほうがいいと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アレはＣ子がセキュリティ付けてくれたからいいんだよ。勝手に触ったら、ドカン！だからな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうよね。スクーターからミニミサイルが出るなんて、いかにもバカが考えそうなアイデアだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子の言う通り、Ａ子がこうして急ぐのはバイク（正確には、Ｃ子が大幅な改造を加えた125ccのスクーターだが）を下に停めているからであり、それは同時に小さな遠出が始まる合図でもあった。Ｂ子にも当然それは分かっていて、もう家を出る準備は終わっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すぐ行くから、下で待ってなさいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うと、Ｂ子は白いサッチェルバッグにポータブル加湿器を突っ込んだ。肌にナノミストを染み込ませるだけではなく、化粧水や水素水を噴霧できたり、さらには七色に光る優れものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子、またそんな服着てんの？　今から &lt;em&gt;海を壊す&lt;/em&gt; ってのに、そんな格好でいいのかよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の言う通り、Ｂ子はいつもと変わらないお人形さんのような服装だった。ふわりと広がる裾にぐるりと白い線が入ったベリーカラーのワンピースが、黒髪の大きなツインテールによく馴染んでいる。さらに、薔薇の模様の入った白い厚手のオーバーニーと、リボンのように巻かれたジャカード織のピンクのストールがその身体を包み込む。ストールを外した時に着けられるように、バッグには大きな金色の鍵のモチーフを下げたペンダントが入っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はさらにその上からベージュのピーコートを着込んだが、今からしっかり北風に当たることを考えると、寒さ対策にはまだ少し足りないかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子によれば、Ｂ子は持ち前の巨乳を活かしてファンからいいね！を集めているだけの薄っぺらい女だというが、Ｂ子は「脱いでないだけマシじゃない！」と反論していた。さらに「だらしない腹を見せたくないだけじゃん」「今はむしろ、そういうのが人気だからいいの！」……と続く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「水着もちゃんと持ったわよ。あんたこそ、普段どおりのコーデじゃないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、Ａ子の顔を指さす。くせの強い茶髪は、運転のじゃまにならないように無理やりポニーテールにまとめられている。テカテカした紺色のスタジャンにゆったりした黒いデニムパンツは、こちらもいつもと同じ冬の装いだった。ポケットにはスマホとタバコとライターしか入っていないし、メットインは出処の分からないがらくただらけで、水着が入るような隙間はないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやいや、あたしだってちゃんと着てきたっつーの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子がスタジャンのボタンを開けると、荒いディザのかかった犬の写真がプリントされた濃いパープルのパーカーが現れる。さらに「ほら」とインナーと一緒に裾をめくると、引き締まった綺麗なお腹に続いて青い三角ビキニがあらわになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと……二十歳超えても頭は小学生のままね。本当に心の底から尊敬するわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、早く出ようぜ。もうＣ子も向かってるってよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はさらに「まぁ、可愛いじゃない。ちゃんと盛れてるし」と続けるつもりだったが、言葉に詰まっているうちにＡ子が玄関に向かってしまう。鏡の前でバッグを背負いながら「……なによ、もう」と、小さくため息をついた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;玄関に使い古した白いスニーカーと黒い編み上げのショートブーツが並ぶ。Ａ子の後に続いて外に出たＢ子は、日没を迎えた夜空の寒さに小さく震え上がった。都会のど真ん中でさえこの空気なのだから、今から向かう廃港には雪が降っていてもおかしくない。Ｃ子の指示通り水着は持っていくけれど、こんな気温でビキニなんて着たら凍死は確実だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子によれば、Ｃ子はもともとＡ子の友達で、三人でつるむようになってからもその印象はあまり変わらずにいた。Ａ子とは前から二人で遊ぶ仲だったが、Ｃ子とは二人で出かけたことさえなかったからだ。一方で、Ｃ子は二人の有料配信の準備や撮影をこなす技術担当だったから、彼女らが演じる &lt;em&gt;ショー&lt;/em&gt; についてはよく知っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子がタンデムステップに足を掛けてシートにまたがる。風除け（Ｃ子によればv8.3144-SNAPSHOT）の有効半径を目視で確認しつつ目の前の腰を掴むと、Ａ子が後ろを向いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱＢ子って二人乗り向いてねーよな。胸はデカいし重いし服はヒラヒラだし。Ｃ子がこいつを改造してなかったら、そもそもスカートなんて履けな――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいわね！　いいから早く出しなさいよ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ａ子たちが港に着くと、既にＣ子がポケット投光器（最大10000ルクス・材料費として12,617円）に照らされながら海を壊す準備を始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ＡちゃんＢちゃん。早かったねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;振り返ったＣ子に、Ａ子が「よっ」と軽やかに手を振る。Ｂ子と一緒に投光器を背にして立つと、強力な光が当たる素肌がほんのりと暖かくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;猫のイラストがパズルのように並べられたカラフルなレジャーシートの上には、手持ち花火セット（7,080円）、打ち上げ花火セット（11,800円）、ビデオカメラ（153,164円・減価償却中）、三脚（9,440円）、ノートパソコン（Ｃ子の私物）、モバイルルーター（Ｃ子の私物）などと一緒に、家庭用の打ち上げ花火を装填できる小さなバズーカが置かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのバズーカには、Ｃ子が好きな「ラブファイターシュガースター」のステッカーが大量に貼られていた。Ａ子によれば、Ｃ子は自分が開発中のデバイスにシールを貼るのが大好きらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子の前に、二人よりも一回り背が小さい影が伸びている。実験の邪魔にならないように短く切り揃えられた黒髪は、サイドの毛先が明るい緑色に染まっていた。白いワンピースにピンクの麦わら帽子をかぶったその姿は、寂れた夜の港よりも明るい砂浜の方が似合っているのかもしれないが、小柄な身体に背負われた大きな黒いリュックのせいで透き通るような夏の印象はすっかり薄れている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は、ワンピースと麦わら帽子という季節外れの組み合わせにどうこう言うつもりはなかった。しかし、洗練されたコーデを台無しにする無駄なリュックと、それを気にも留めないＣ子の無神経さに少し腹が立っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、彼女がＣ子のリュックについて問い詰めるよりも先に、Ａ子が横から口を挟んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ子、リュックは下ろせよ。そっちの方が夏っぽいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、Ａ子――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……そうかも！　ありがと、Ａちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子は笑顔でリュックをレジャーシートの上に置き、さらにそこから同じようなシールが貼られた太い筒を取り出した。おそらくバズーカに装填して射出する花火のような装置のはずだが、Ｃ子の手の中で揺れるたびにちゃぷちゃぷと液体の音が聞こえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;楽しそうなＣ子を尻目に、先を越されたＢ子はＡ子を睨みつけていた。気付いたＡ子が「何見てんだよ？」と応酬するが、さらに「うっさい！」と返すＢ子自身にも、何にイラついているかはよく分からずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ子。 &lt;em&gt;パパ&lt;/em&gt; はどう誤魔化したん？　今日も電車で来たんだろ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、トラカのこと？　一枚くらい偽造するなら簡単だよ。大量に生産したいなら、香港に行ったほうがいいと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子が &lt;em&gt;花火&lt;/em&gt; をバズーカに装填する。今日の撮影計画によれば、このバズーカで海を壊してから、花火を使って投稿に使う映像の撮影や有料配信を行うらしい。冬に花火を楽しむ映像が絶対バズるはずというのは、Ｂ子のアイデアだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子によれば、Ｂ子が自信満々に出したアイデアが今まで大ヒットしたことはないという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トラカは都民カードと紐付いた非接触ＩＣの乗車券である。個人情報なしでは乗車できないこのシステムは、小中学生の通学や塾通いに支障がないか、彼らの保護者が &lt;em&gt;見守る&lt;/em&gt; にはとても好都合だった。Ｃ子のパパは、大学生になった今でも彼女の乗車履歴をよく気にしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「海、壊れたらどうする？　そのまま水着で配信してもいいかもな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うと、Ａ子がにやりと不敵な笑みを浮かべてジャケットとパーカーを脱ぎ捨てる。彼女が下に水着を着ているなんて知らなかったＣ子は少し驚いたが、しばらく見つめているうちに、指でなぞりたくなるようなゆるやかな起伏にいつの間にかドキドキしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おぉ……さむ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数秒前の思い切りの良い脱ぎっぷりが嘘のように、Ａ子が自分の身体を抱いて震えだす。やはりほぼノーガードのビキニでは、冬の海風に耐えられるわけがない。それでもＡ子は「Ｂ子もＣ子も早く着替えろよ」と急かすので、Ｂ子は何度か文句を吐いてからしぶしぶ物陰を探しに向かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのバカ、マジで許さないんだから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かつて港の設備の一部だった道具小屋を見つけたＢ子は、おそるおそる中に入るとレジャーシートを広げて足場を確保した。そして、隙間から風が吹くたびに「お……ふっ……」と寒さに震えながら、十五分ほどでどうにか着替えを終えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上からコートを羽織ったＢ子が二人の元へ戻ると、簡易なヒーターを兼ねた強力な投光器の下で、Ａ子の健康的なビキニの横に、紺のスクール水着に身を包んだＣ子の姿を見つけた。よく見ると、二人とも額にきらきら光る偏光ゴーグルを身に着けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それも、パパの趣味？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が名札を指さすと、Ｃ子は「そんな感じ」と肩をすくめた。成人したての大学生が着るような水着ではないものの、Ｃ子の身体にはよく似合っているし、この気温の下で大きな布面積は明らかに有利だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……反動でいっぱい光が出るから、Ｂちゃんもこれ着けたほうがいいかも。失明するほどじゃないんだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、Ｃ子が二人と同じ偏光ゴーグルをＢ子に手渡した。Ｂ子はしげしげとその無骨なアクセサリーを隅々まで眺めると、とうとう「嫌よ。こんなダサいの着けたくないわ」と突き返してしまう。「危ないから着けて」「ダサいから嫌」と、そんなやり取りを何度か繰り返した後、結局Ｃ子が折れて「せめて目は瞑っててね」と頼み込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ＡちゃんＢちゃん。今から、みんなで海に向かってこれを撃つの。そうしたら、すぐ始まるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子がバズーカを肩に載せ、その横からＡ子とＢ子がバズーカに手をかける。発射口は、Ｃ子の指示通りに五十メートル程先の水面を指している。Ｃ子の呼吸に合わせて照準が前後しているが、水面にさえ着弾すれば問題なかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、いくよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばし緊張を伴った静寂が流れた後、誰からともなく引き金を引くと、パシュッと風を切る小さな音と共に強烈な光が辺りを包み込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;肉眼でその閃光を浴びたＢ子は「きゃっ！」と叫んでその場にうずくまってしまう。バランスを崩したバズーカはＣ子の肩を離れ、したたかにコンクリートの地面に打ち付けられた。バズーカは発射口から真っ二つに割れてしまったが、それは既に &lt;em&gt;始まって&lt;/em&gt; いたから、Ｃ子にとっては役目を終えた道具の行く末なんてもうどうでもよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから遅れること数秒、Ｃ子のお手製花火が着弾した水面が大きく揺れて、ほんのり光を帯びた液体があふれ始める。それはおおよそ無色透明だったが、ずっと遠くに目をやるとわずかにエメラルドグリーンに染まっているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その不思議な潮汐はみるみるうちに港を満たしていき、いつの間にか三人の足元を覆っていく。しかし、その液体は彼女らの靴を濡らすこともなく、まるでパンケーキにかかったシロップのように陸の方へ流れていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が思わず「すげぇ」と声を漏らす通り、それは決して日常では出会えない不思議で不可解な光景だった。Ｃ子にとっては実験室で何度も見た現象だったが、大海原を埋め尽くすその景色に新たな感動を覚えている。そして、こんなに綺麗な景色をシェアできないなんて、とＢ子に無理にでもゴーグルを渡さなかったことを後悔していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しゃがみこむＢ子の視界が回復した頃には、既に大きな波が彼女の首元まで迫っていた。Ｂ子は思わずのけぞるけど、彼女の顔に水がかかったような感触はない。状況を理解するより先に、彼女の身体はすっかりエメラルドの水面に浸かってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時、思わず上を見上げたＢ子によれば、Ａ子は穏やかな光の中で遠くを見つめて立ち尽くしていたという。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;エメラルドの海はみるみるうちにその高さを増して、とうとう三人の背を大きく超えて見渡す限り一面を満たしていたが、やはり彼女たちの呼吸に影響はなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｃ子。妙なことが起きているみたいだけど、どうして私たちは生きてるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、えっと……流体力学的に計算してて……あ、タンデムシートに空気が流れ込まないのも同じ原理なんだけど、ちゃんと説明する？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が首を振ると、Ｃ子は身振り手振りでやさしい説明を始めた。Ｂ子の理解できた範囲では、この特殊な液体の発生点が球面上の一つなら、距離に応じて圧力が増していき、最終的に反対側の点に集まるのだという（ただしＣ子の補足によれば、地球は正確に対称ではないので一点には集まらない）。つまり、地球の裏側ではあらゆる物体が押し寄せて大騒ぎになるだろうということだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、海が壊れると、結局どうなるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「少しずつ、少しずつ、全部混ざり合うよ。なんか、私たちみたいじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は二人の会話を聞きながら、水中でクロールのように腕を振り回していた。指先に感覚をよく集中させると、動作の始まりと終わりにほんの少し抵抗があるのが分かる。周囲が空気よりも重い何かで満たされている感覚は糸のようにふわふわと漂っていて、気を抜くと水の中にいるのを忘れてしまうほどだ。Ｃ子の荷物が流されている様子はないし、手の中のスマホも問題なく動き続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、Ａ子は辺りが明るく、暖かくなっていることに気付いた。唯一の光源だった投光器の電源はいつの間にか落とされていて、港の隅から隅までほんのりした光で照らされている。Ａ子自身は寒さに慣れてきたつもりだったが、ただ単に海の温かさで満たされていただけだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……だから、私たちはしばらく大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しばらく？　いつまでこんなのが続くんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうだろうね？　どうだろう……どうだろうね、えーと、うん。とりあえず、花火で遊ばない？　投稿用のクリップも撮影しなきゃいけないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うと、Ｃ子は四角い黒地に白字で「毒」と書かれた白いＴシャツを着て、ビデオカメラの準備を始めた。Ａ子は打ち上げ花火セットから派手そうな数本を抜き取って、数十センチごとに地面に並べている。両手に花火を握ったＢ子はカメラの前でポーズを決めて、Ｃ子がファインダー越しにそれを見ながら微調整を繰り返していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、三人はしばらく花火を楽しんだ。Ｃ子は点火した線香花火を何度も観察し、火球がほとんど落ちなくなる現象をノートに書き留めて静かに喜んでいる。Ａ子は赤い光を噴き出す花火を振り回し、火花を浴びそうになったＢ子がわめき散らしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その横でもくもくと吐き出される白煙が、水に流されてすぐに消えていく。大気の粘度では明らかに起こらない現象だったから、Ｃ子はまた小さく喜んだ。綺麗な写真を残すにはこの上ない環境だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、すごくいいよ！　除煙フィルタも必要ないかも。Ａちゃん、打ち上げ花火も撮っていい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オッケー。どれにしようかな……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子が三脚からカメラを外して、空に向かってピントを合わせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が打ち上げ花火に点火する。ヒュンッ、と垂直に飛び出した小さな光が数十メートル上空で弾けると、鮮やかな青い花が放射状に開いた。火花は地面に落ちずに広がっていき、ふっと燃え尽きる。エメラルドグリーンの背景に青い煙が流れて、Ｂ子はまるで違う惑星の空を見ているような気分になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、さらに十数秒経っても、誰一人視線を地面に戻さない。花火に見とれているというには、少し奇妙だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すげぇ、魚が泳いでる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、最初に言葉を発したのはＡ子だった。目の前の湾を泳いでいたはずのアジやイワシが、はるか上空を群れになってきらきらと泳いでいる。まるで海底に立っているような光景に、Ｃ子でさえもカメラで銀の群れを追うのがやっとだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに遅れて、Ｂ子が空にカメラを向ける。フォロワーが大喜びで拡散する姿が目に浮かぶようだった。写真を何枚か、十秒ほどの映像を数本撮ってから「海の中から &lt;img alt=":fish:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f41f.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":tropical_fish:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f420.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":beach:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f3d6.png" width="16"&gt; &lt;img alt=":fish:" class="emoji" height="16" src="/emojis/1f41f.png" width="16"&gt; 」とコメントを付けて投稿しようとしたところで、Ｂ子が異変に気付いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ子、なんかここ圏外なんだけど？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……そ、そうだね。全部流されちゃうから、インターネットが通じなくなっちゃったのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子はリュックから取り出したマルチバンドレシーバーをノートパソコンに繋げると、電波の測定を始めた。本当に使うかのは分からないが、港湾事務所の屋根に残された大きなループアンテナにも太いケーブルが伸びている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｃ子によれば、この液体の中でも電波は（むしろ大気中よりも効率よく）届くはずだったが、700MHz～5.6GHz以上の意味のありそうな電波はほとんど検出できなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本州はもうすっかり落ちちゃったみたい。豊原放送局からラジオとテレビの電波が少し届いてるけど……これも、すぐ消えちゃうと思う」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、今日は配信できないってことか。Ｂ子、どうする？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「せっかく来たんだし、どうせなら何本か撮っておきましょうよ。真冬の海で花火編、絶対売れるわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はＢ子の腰に後ろから手を回して「やべー」と言ってくすくす笑う。「……急に触らないでよ」とＡ子を睨みつけるが、その腕に抵抗する力は弱い。それに気をよくしたのか「最近全然してなかっただろ？　やっぱＢ子が一番いいんだよなー」とさらに強く抱き締めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほんのり冷たいＡ子のお腹がＢ子の腰に触れて思わず身体が跳ねてしまうけれど、Ａ子の手がそっとそれを押さえつける。じわり、と二人の体温が混ざって広がっていくのを、お互いの肌で感じ合っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを見るＣ子が何か言いたげに「その、えっと……」ともじもじしているのに気付いて、Ａ子がＢ子の横から身を乗り出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん？　どうしたんだよ、Ｃ子」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えと……配信しないなら私もエッチしたいんだけど、だめ？　撮影は、してもいいから……」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/5688"&gt;百合SS Advent Calendar 2020&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>おわりのバスで</title><link href="https://ama.ne.jp/post/lastbus/" rel="alternate"/><published>2020-12-01T18:03:00+09:00</published><updated>2020-12-01T18:03:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-12-01:/post/lastbus/</id><summary type="html">&lt;p&gt;アノンド&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;はじめまして。19歳大学生の女です。他にも同じような方がいたらお話を聞きたいと思ったので、投稿させていただきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先日、GOTOトラベルで東京に行く機会がありました。このご時世でバイトもしにくくてお金がなかったので、移動は往復どちらも夜行バスにしました（私自身は関西の方に住んでいます）。出ているバスの本数はかなり少ない印象でしたが、使う人も少ないのか席はあまり埋まっていませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目的は、あるアニメとコラボしているホテル（分かる人には分かると思います）に1泊2日と、ついでに観光してから帰るような感じです。ツイッターの知り合い（Sさんとします）が東京に詳しくて…というか東京に住んでいてちょうど日程も合ったので、観光に付き合ってもらう約束をしてツインで1部屋取ることにしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はSさんをすっかり女性だと思いこんでいたのですが、行きのバスでツイートを振り返ってみると、確実な証拠がなかったのでちょっとヒヤヒヤしました。まぁ、会ってみたら綺麗なOLっぽい方だったので余計な心配だったと思います。東京の女の人はみんなオシャレでカラフルな髪色なんだと思っていましたが、ミディアムボブの黒髪で、ネイルもピアスもしてないし、あんまり飾りっ気がなくてむしろ安心しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ホテルでは、先日発売されたブルーレイBOXを鑑賞して、夜遅くまで語り合いました。正直かなり盛り上がりました。めっちゃ楽しかったです。Sさんはピクシブで二次創作のマンガを上げていたりするので、その話も色々聞けました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それで、ここからが本題です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3日目、私は21時のバスで広島に戻る予定だったのですが、いろいろなところを無理して回ったのと、夕食に入ったお店で飲みすぎてしまったせいで、乗車時間に間に合わなかったのです。普段なら西口からもう一本出ているそうなのですが、コロナのせいで休止したそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このバスに乗らないと到着が火曜の朝になってしまうので困ります（オンライン講義だし、月曜は午後からだったので実際なんとかなるんですが）。Sさんが言うには、バス代は出すから今夜は私の家に泊まっていくといいよ、とのことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、酔っていてよく覚えていないのですが、Sさんが自宅に連れて行くと言ったはずなのに私はいつの間にかホテルのベッドに寝ていました。ここがどこかと聞いたら、終電がなくなったからラブホテルで我慢してねと言っていたような気がします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;横になっているうちに徐々に酔いが覚めて、Sさんが私の背後でごそごそと動いているのに気づきました。その瞬間は分からなかったのですが、どうやら私を後ろ手で縛っていたようなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Sさんは私が目覚めないようにゆっくりとした動きで這い回り、私の胸や股間を触りました。私が思わずピクッと反応するのを楽しんでいたようです。時間が経つうちに、Sさんの動きはどんどん大胆になっていきましたが、私はじっと寝たふりをしていました。今思うと、Sさんは私がもう目を覚ましていることに気付いていたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Sさんはひとしきり私の体を撫で回すと、今度は私の指を使って一人エッチを始めました。肉っぽくて湿った柔らかい感触は、自分と同じようなもののはずなのに結構気持ち悪かったです。たまにローターっぽい音も聞こえました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Sさん何してるんですか？と起き上がればやめてくれたと思います。でも、なかなか言い出せませんでした。その時は、ホテル代もバス代も出してもらってるし、旅行中ずっと親切にしてくれたし、殺されるわけじゃないし別にいいかなと思っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時期に一人で外に逃げたとして、このままではバスに乗るお金もありませんでしたし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局、Sさんが疲れて私への行為を切り上げるまでじっと眠ったふりで待っていました。次の朝、Sさんは何事もなかったかのように私にバス代（とお小遣いと言ってさらに一万円札を押し付けられました）を渡し、駅で別れました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Sさんはいわゆるレズビアンだったようです。こうして酔った女性をホテルに連れ込むのも慣れているみたいで、私は親切なふりをして近づいたSさんに騙されていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、Sさんに私のデリケートなところを触られること自体は、別に嫌な気持ちにはなりませんでした（もちろん縛られたのはムカつきましたが）。だからといって、恋愛感情があるわけでもないんです。綺麗な女の人に優しく触られるのってなんか気持ちいいな…みたいな。マッサージされているのと似たような感覚でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はこれまで男性が好きだと思っていました。彼氏がいますし、エッチも普通にしています。女性とのエッチに抵抗感がなかったのは、酔っていたからなのでしょうか。それとも、私が寝たふりで受け身だったからでしょうか。恋愛感情のないエッチもしたことがないので、自分でもよく分からないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じような経験がある方がいましたら、教えてほしいです。&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;女性同士でラブホテルに入るのって普通ですか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;女性同士で恋愛感情のないエッチをしたことはありますか？&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/5688"&gt;百合SS Advent Calendar 2020&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>0.4ct</title><link href="https://ama.ne.jp/post/04ct/" rel="alternate"/><published>2020-10-04T19:34:00+09:00</published><updated>2020-10-04T19:34:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-10-04:/post/04ct/</id><summary type="html">&lt;p&gt;真夜中の通販番組&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;高山さんのダイヤモンド・ペンダントは、少し小さい。と、思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、素敵ですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、わざわざそんなことは言わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高山さんは同じサークルの先輩で、みんなの人気者。おっとりとした性格とふわふわの笑顔で、男子の会員はもちろん、女子にだって好かれている。ボブカットのふわりとした黒髪のショートヘアに、ぱっちりした目。あとはたいてい小さくレースの刺繍が入ったお手製マスクの下に隠れていて、マスクを外すと目元の印象よりも柔らかく見える。BUBBLESをよく着ていて、絵を描く時は袖をまくる癖があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;成績に問題はなし。開示日にワイワイと不出来を自慢しあう人たちに混ざっては、しょっちゅう歓声と羨望の目に囲まれているのを見かける。実はもっと上の大学を狙っていたけど、ほんの少しだけ点数が足りなくてここに来た……という噂もある。おそらく本当のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、私は高山さんが好きじゃない。サークルのみんなに媚を売っているから。他の人の漫画を読むばっかりで、全然自分の漫画を持ってこないから。それなのに、本当はとても面白い漫画を描いてるから。私が死ぬ気で勉強してやっと入ったこの大学を、まるで滑り止めみたいに思っているから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;絵だって上手だし、講義だって片手間で簡単に聞けちゃうし。みんなにちやほやされて、褒められて。わざわざレベルの低い大学に来て、狭い社会でぬるま湯に浸かりたいだけじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日だって、なんでもない日にわざわざ見せびらかすようにペンダントを着けて、綺麗って言われるのを待っている。私の言葉が社交辞令だと分かっているくせに、高山さんはニコニコと浮かれてみせた。それがなんだかおかしくって、さらに突っ込んだ質問をしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん。そうじゃなくて、ちょっと安く買えただけよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;決算期直前だったからセールで安くって、と答える高山さんが内心恥ずかしい思いをしているのは分かっていた。だって、私はもう知っていたから。あれが安売りされた正規品ではなく、ダイヤがほんの少し小さい中途半端なペンダントだってことを。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;深夜の通販番組では、よくアクセサリーの安売りをやっている。中でも、ある有名デパートが打ち出している「ほぼ0.5カラットの一粒ダイヤをあしらった」という売り文句は、この時間にテレビをつけていれば嫌でも耳に入ってきてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最初は「ほぼ」って何？なんて思うのだけど、それについては商品の紹介シーンを一度見ればすぐ分かる。大げさなリアクションの販売員とタレントの会話が挟まって、5分もすればまた同じ映像が流れ始めるけど、あとはもう見なくていい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いわゆる大粒のダイヤモンドは最低でも0.5カラットは必要らしくて、そこからほんの少しでも小さくなるとガクッと価値が落ちるという。あとは、わずかな着色があるとか、インクルージョンがあるとか、いろいろ。そういうちょっと及第点に届かない粒を集めて、6本爪のペンダントトップに嵌め込んで、格安で出荷する。どうやら、そういうからくりらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;溜め込んだ資産の有効活用か、決算前の何らかの調整かもしれないけど、不思議な商売だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほぼ0.5カラットとちゃんとした0.5カラットを並べた写真に「大きさはほとんど変わりません！」なんて、動画サイトのサムネイルみたいな下品なキャプションを載せた映像が幾度となく流れていく。資本主義。一億総活躍。大量消費社会。それ自体はシンプルで格調高いデザインだし、どんな広告を見て買ったってダイヤには違いないけど、販売員が白い手袋に吊るして規則的に揺らすプラチナのチェーンのきらめきさえも、だんだん安っぽく見えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんなの見て誰が買うんだろ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの老舗百貨店がお送りする！　通販限定商――リモコンに手を伸ばして、4度目の商品紹介をシャットアウトする。こういう寝ぼけた脳に、シンプルでストレートな情報が突き刺さると買っちゃうんだろうな。飯テロみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不思議なダイヤの行く末を考えながら、ふと、まるで高山さんみたいだな、なんて思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっと点数が足りなかったくらいで、こんな二流大学でのほほんと過ごしている高山さん。頭が悪くってなんとかギリギリ生きている私とは違うはずなのに、外から見た肩書きだけは一緒だ。それでも、サークルではこんなにちやほやされていて、きっとこの小さな社会では最適な生き方を選んでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと、高山さんのペンダントも同じだ。ほんの少し小さいからって、ゴミの入った凡庸なダイヤと同じ箱に放り込まれる。ありふれた輝きに埋もれることを受け入れて、たまに本物の一流と比較されたりして、それでもまるで一流みたいな顔をして座ってなきゃいけない。本当は悔しい思いをしているのかもしれないけど、そんなこと私にはまるで分からないから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、私は高山さんが好きじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;まだ早い時間だったから、サークル室には高山さんしかいなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サークル、あんまり来れなくなっちゃうの？　寂しくなるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がバイトを増やすという話をすると、高山さんは心配そうな素振りを見せた。身体に気をつけてね、とか。食費を切り詰めたりしちゃだめだよ、とか。困ったことがあったら言ってね、とか。そんなこと、思ってないくせに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高山さんは今日も小さなペンダントを着けていた。このところずっとだ。3回に1回、およそ週に1日。これからは週に0.3日。変わらず毎週見るかもしれないし、もう見ることはないかもしれない。それでいい。高山さんの胸元にすっぽり収まっている0.4カラットが、私はどうしようもなく嫌いだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、絵って毎日描かないと忘れちゃうじゃない。サークルに来ない日でもちゃんとお家で描かなきゃだめだよ？　私、あなたのお話好きだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高山さんはそうやってみんなの漫画を褒める。どこが良いとか悪いとか、どこが上手いとか下手とか言わずに、好き、特にここが好き。話題に上がるのは、どうでもいいような描写だったり、しっかりこだわった構図だったり。絵が上手いなら、もっと的確なアドバイスをくれればいいのに。当たりも外れもごた混ぜの評価は、少なくとも私にとって世間話以上の何物でもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから高山さんは世間話を続けた。学食の経営がやばくて、もうすぐ潰れそう。月イチで出てくるピザソースのベーグルが美味しかったのに。MMTに興味あるって言ってたよね？　あの講義がすごく面白かったから、おすすめ。でも、隔年だから来年は受けられないね。狭山さんと中村さんって、別れたんだってね。私、付き合ったのも全然知らなかったし、別れたのもしばらく知らなかったな。そうそう、学園祭の原稿、読んだよ。すごく好き。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;時折なんでもノート&lt;sup id="fnref:miscnote"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:miscnote" title="会員なら誰でも書き込めるA4サイズの無地の落書き帳。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;にシャープペンシルを走らせながら、高山さんは独り言みたいに話し続けた。途切れ途切れに、たまに生返事で。まるで大学生活のすべてを吐き出すように、誰も伝えるでもなく、ずっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、大学やめることになったの。だから、最後に色々話したかったのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;話し終えた高山さんは、寂しそうにそう告げた。言葉があまり耳に入らないまま、私の手にじわりと汗がにじんだ。「みんなには言わないでね」と言われても、私はただ「そうですか」と小さく返すことしかできなくて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高山さんがいつも手癖で描いている気だるそうなポニーテールの女の子を描き終えて、なんでもノートをぱたりと閉じた。しばらくして、他の会員がサークル室に集まり始める。高山さんが何事もなかったかのようにみんなと楽しく会話を交わす姿をぼんやりと眺めていても、高山さんの告白が私にどんな意味を与えたのか、まだ理解できずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あの日を最後に私はサークルに行かなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、増やしに増やしたアルバイトの成果は、0.5カラットの一粒ダイヤに消えた。ほぼ同じ材質とデザインなのに、ほんの0.01カラットのために値段が4倍になるなんて。それでも、大粒のダイヤにはそれだけの価値があるのだ、と自分に言い聞かせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒い合皮の細長い箱を開け、おそるおそるチェーンを取り上げて、姿見に向かう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高山さんのよりもずっと大きくて、ずっと透明なダイヤは私の前できらきらと輝いていた。プラチナと語り合うように揺れる大きな宝石は、まるで夕陽があたる渚から掬ってきたみたい。覗き込めばまるでなんにもなかったみたいに透き通っていて、それでも、きらめきだけは内側から溢れ続けて。こんな真っ直ぐな光が私を包み込んでいて、まるで、なんて、なんで……。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……なんでこんなに似合わないんだ、私」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ずっと手に入れたかった高級な宝石は、確かに値段通りの輝きを放ち続けている。まるで私のことさえ覆い隠してしまっているみたいに。ダイヤモンドだけがここにいて、私はそこからいなくなっていた。私はペンダントをかけておくだけの何か。そんな気さえした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、初めから薄々気が付いていた。だって、私は高山さんとは違うんだから。私にこんなアクセサリーなんて似合わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は静かに試着を終えて、ペンダントをそっと箱に戻す。からり、と底にぶつかってまた光が揺れる。なぜか、その大きな石ころは手に取る前よりも小さくなっているように思えた。とっても大きな一粒ダイヤのはずなのに。あんなに苦労して手に入れたのに。私はなんでこんなものを欲しがっていたんだろう。こんなの――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「通販限定商品です！　ほぼ0.5カラットの一粒ダイヤをあしらった――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、あの通販番組の威勢のいいアナウンスが耳に入った。そして、テレビをつけっぱなしにしていたのを思い出す。そうだった。高山さんは0.4カラットで、私は0.5カラットなんだ。だから、買ったんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『見てください！　0.4カラットのダイヤってこんなに小さいんです！　だから大きな0.5カラットの方がもちろん上です――』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだ。だから、あんな中途半端なダイヤモンドとは違うんだ。そう思うと少しだけ救われたような気がして、やっと、やっと、少しだけ涙が出た。&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:miscnote"&gt;
&lt;p&gt;会員なら誰でも書き込めるA4サイズの無地の落書き帳。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:miscnote" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>グラナイト</title><link href="https://ama.ne.jp/post/granite/" rel="alternate"/><published>2020-05-07T19:05:00+09:00</published><updated>2020-05-07T19:05:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-05-07:/post/granite/</id><summary type="html">&lt;p&gt;完全な球体&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/full-text-views/"&gt;いっぱいテキストビュー&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="_1"&gt;喫茶店で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「で、今日こうやって私が紹介して、それでミカが買ってくれたら私に十パーセントの配当があるから――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セントラルラインに乗ってわざわざ二時間かけてやってきた喫茶店で、私はなぜかマルチ商法の勧誘を受けていた。十パーセントの配当がもらえるから、何人に売れば回収できて、半年もすれば何百万円になるから……どこかで聞いたような話ばかり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は全てがおかしい。数年ぶりに旧友に呼び出されていることも、私がそれに応えてここまで来てしまったことも。そのせいでおかしな儲け話に巻き込まれそうになっていることも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、目の前の旧友が綺麗になっていることも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アルバムで見慣れていたはずの彼女の顔は、まるで人が変わってしまったようにさっぱりと垢抜けている。その表情は都会じみた空気をまとっているものの、悪く言えば個性がなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと目線を落とすと、茶色い合成木の四角いテーブルに置かれたタブレットが延々と動画を流し続けている。妙なパースの3Dグラフや資金繰りを示す折れ線が、大きく広がったり上に伸びたりしているのを見ていると、視界がぐにゃりと歪む気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最近のオススメはこっちかな。サプリメントも悪くないんだけど、使用期限がないから廃棄が少なくて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうやって商品を説明する声も、あの頃の気弱な彼女とは全く違う。本当に儲かると言わんばかりの自信に満ちたその声は、やはり同じ人とは思えないほど変わっていた。まるでスピーカーから流しているように安定した声は妙に明るくて、聞いているだけで私たちの温度差がぐんぐん広がっていくように思えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、上野でリニアを降りて地下深くからエスカレーターで改札まで上がる間、楽しそうに話す彼女はやはり昔と変わらなかった。私が先に入った一人用のパラキン&lt;sup id="fnref:palanquin"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:palanquin" title="エスカレーターのステップに取り付けられた昇降用のかごを指す。"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;にわざわざ乗り込んできた彼女は、確かに懐かしい空気をまとっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだとしたら、私は何をもって彼女を彼女だと思ったのだろう。どうしてあの日の彼女を懐かしんだのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どう？　悪い話じゃないと思うんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、マミはオフホワイトのトートバッグから分厚いパンフレットを取り出して机に置いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;胡散くさい笑顔で手を取り合う男女の写真が刷られた表紙には、儲かるだとか確実だとか根拠のない自信が（おそらく法律に抵触しない範囲で）散りばめられている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと待ちなさいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その表紙をひったくるように裏返すと、マミの困惑した視線が私に突き刺さった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミ、今日の話ってこれのことなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。でもこれだけじゃないよ。他にもいろいろ話したくて、だから呼んだの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;他に用事があったって、このネットワークビジネスのために呼んだのなら意味がない。私が聞いているのは、何の目的で呼ばれたのかってことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、あのねぇ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;要領を得ない彼女の発言に、私は思わず額に手を当ててしまう。マミもいらいらした時の私の &lt;em&gt;くせ&lt;/em&gt; は覚えていたらしく、パンフレットをバッグにしまってから取り繕うように笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、リニアってすごいよね。すぐ会えるんだもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。超電導って本当に素敵な技術だわ。今すぐにでも帰ってみんなにも教えてあげたいくらい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新型の超電導リニア特急がソーラーパネル畑の間を駆け抜けていく様子はそれなりに爽快だったし、あんな田舎からすぐに東京まで出られるのだって、確かに素晴らしいことなんだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、こんなことになると知っていたら来なかったのに。的外れな期待をした私がバカみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私を騙したの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「騙してないよ。話があるから来てって言っただけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、マミは私に会う目的を告げなかった。言いにくいことなのかもしれないと、直接話さなきゃいけないことでもあるのだろうと、深読みして勝手に盛り上がっていたのは私の方だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、私が勝手に勘違いしていただけ。そうなのかもしれない。でも、そんなのただの言い訳だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミカ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミは困った表情に曖昧な笑顔を混ぜて「ごめんね？」と、理解しているのかしていないのかよく分からない様子で私の顔を覗き込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、いいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;溜息を吐く。冷静に考えれば、マミが私を騙そうとするわけなんてない。彼女だってそのうちおかしなビジネスに巻き込まれていたと気付くだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、今さら怒ってもどうしようもないし、言った言わないの水掛け論でマミを困らせたいわけでもなかった。もう私に契約するつもりがないことはマミだって分かっているだろうから、後は話を合わせて適当なところで帰ればいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;氷が解けて薄くなったカフェラテを、カップの角からゆっくり飲み干してテーブルに置く。落ち着いたら、さっきまで意識の外にいた目の前の奇妙な料理のことが気になり始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、これって何のお肉なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メニューに「ステーキ」とだけ書かれていたこの料理は、色や形こそ焼かれた厚切りの牛肉に見えるけど、レアもウェルダンもない噛み心地と、溢れる消毒液のような香りはまともな食べ物とは思えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とっても美味しくないんだけど、と小声で告げると、マミは意外そうな顔をする。同じ料理を頼んだ彼女がそんな顔をするなんて、きっと舌でも手術したんだろうと思うくらい、例えるならカルキ漬けの肉というのにふさわしい味だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんだろうね？　認証は通ってるみたいだし、ただの合成肉だと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってから、マミはまた「ステーキ」を一切れ頬張った。もぐもぐ、ごくん。そして、別に美味しいけどなーと首を傾げる。ふざけているつもりはなさそうだ。私が口に手を当てて驚くのさえ、彼女には不思議らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メニューを見ると、店名や営業時間の情報と共に正方形のシールが貼られている。マミの言う「認証」というのはこれのことだろうか。その横に印刷されたハラール認証のマークは知っているけど、フラスコの中に歯車を置いた金色のロゴに「A7相当」と記されたマークは見たこともなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「口に合わなかったら自然肉にする？　言ったら変えてくれると思うよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういって「すいませーん！」とウェイターを呼ぶマミを慌てて止める。私には「国産自然肉ハンバーグ」の代金を払えるほどの持ち合わせはなかった。また妙なお肉が出てきても困るし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ため息をつく。マミってこんなに強引なやつだったっけ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、マミ。あんた、整形したの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仕方なく頼んだアイスカフェラテのおかわりを飲みながら、私は気になっていたことを尋ねた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;的外れなことを聞いてしまったかもしれない。でも、駅で彼女を見た時の違和感はまだ私の中にある。いくら頑張ってメイクしたって、違う人に見えてしまうほど顔が変わってしまうとは思えなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「整形？　うん……ちょっと違うけど、そんな感じ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミはまた曖昧な答えを返す。そのはっきりしない態度は昔の彼女の面影をぼんやりと残しつつ、今はただ隠しごとの微妙な気配を感じさせるだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が何も言えずにいると、少しの沈黙が流れた後にマミが再び口を開く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「足りないんだよね、あと少し。お金が」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミはそう言いながら、ばつが悪そうな様子でタブレットをトートバックにしまいこんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お金が、あと少し、足りない。足りないというのは、次の整形手術のお金のことだろうか。それとも、もはや当座の生活費すら危うい状態なのか。どちらにせよ、彼女の状況は褒められたものではないだろう。どんな理由であれ、詐欺まがいの商売にまで手を染めてしまったのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、こんな胡散臭いビジネスを始めたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。でもこれは確実に儲かるから――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、なんでわざわざ私を呼んだのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の言葉を遮るようにそう尋ねると、マミは面食らったように目を見開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、ミカに会いたかったから。そう言ったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私たち……もう終わったじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女に「会いたい」と告げられた時、私は密かに期待していた。マミがまだ私を好きで、忘れられなくて、告白するために呼んだのかもしれない。あるいは、恋人と別れたと一言告げるために。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;流石にそれは言い過ぎだとしても、会いたいという言葉に嘘はないと思っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、マミは？　マミにとってそれは何でもない一言で、それに呼び寄せられた私なんてお金儲けの手段でしかなかったのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「確かに私はマミにひどいことをしたわ。でも、それだってもう……だったら、仕返しのつもりなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと、どうでもいいよ。むしろ感謝してるくらい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミはどうでもいいよ、と吐き捨てるように言い放つ。私には、彼女が何を考えているのか分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、どうして――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミカに、完璧になった私を見てほしいと思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その質問を待っていたかのように、彼女はにやりと微笑んだ。「完璧」という言葉に、おぞましい憎しみが込められているような気がした。私がしたことに人生をかけて復讐しようとでもいうように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背筋が震えるその感覚に、私は思わず立ち上がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私、帰るわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはっ、どうやって帰るの？　都民カードもないのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;都民カード、という響きで思い出す。上野で長い長いエスカレーターに乗っている間、「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;無申請訪問者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;プライベート・ビジター&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は二名まで」という啓発のポスターを何度か見かけたのだ。それを見たマミが「最近警備が厳しいんだよね。流通の管理強化とかで」と言っていたのはこのことだったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミが改札でかざしていたピンク色のカードが「都民カード」なのだとしたら、私が東京に出入りし、滞在するには都民カードを持った誰か――これはもちろんマミのことだ――の協力が必要ということになる。つまり、今夜の私の寝床さえも、彼女の気まぐれということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなこと知らなかった。どうして教えてくれなかったのよ、と座ったままのマミを見下ろすように睨みつけると、彼女はもう一度、いたずらっぽく笑った。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_2"&gt;マミの家で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;やはり、私は騙されていたらしい。結局、半ば強制的にマミの自宅に連れ込まれていた。マルチ商法の勧誘さえも壮大な謀略の一端で、本当は私にもっとひどいことを仕掛けようとしているんじゃなかろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミ。そういえば、これ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、そうだった。ありがと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;恐る恐る紙袋を差し出すと、マミは嬉しそうにビニールの取っ手を掴んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中身は近所のディスカウントストアで買ったビー玉だ。東京に来る前に持ってくるよう頼まれたのだ。どうしてそんなものを欲しがるのか私には分からなかったが、これで家に帰してもらえるなら安いものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別にいいけど、そんなの何に使うのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ペンダントが壊れちゃって。代わりに使おうかなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミがそう言いながら袋の一つを取り出してビニールのネットを裂くと、メタリックな光沢を塗られた青いビー玉がぼとぼととフローリングにこぼれ落ちる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ちゃんと転がるみたい……ミカ、ありがと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急に何を始めたのだろうと彼女の顔をちらと見ると、マミはにまにまと笑っていた。ビー玉なんだから転がるのが当たり前じゃないだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「球体っていうのは、恩物の中でも理想の図形なんだよ。フレーベル氏が言ってた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フレーベルについて聞き返すよりも先に、マミは恩物について話し始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;恩物は幼児向けの知育教材で、球体に始まり、立方体、直方体、プレート、棒、リングと様々な図形で遊ぶうちに自ら学ぶ力を身につけられるのだという。それぞれの図形は人間が必要とする概念の習得に重要で、その中で最も大切なのが球体らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、マミはどうして急にそんな話をしたのだろう。マルチ商法の時といい、東京に来たせいで変な宗教にでもハマっているんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私たちには球体が必要なの。ビー玉でもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、すらすらと話すマミの声を聞いていると、やはり昔と違うそのハリに違和感を覚えずにはいられなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミ、昔よりずいぶん声が良くなったみたいね。ボイストレーニングでも通ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよ。声帯を機械化したの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「機械化？　どうしてそんなことしたのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるでスピーカーから流しているような声、と思ったのはあながち間違いではなかったらしい。ふと「私が変な声って言ったから？」と聞きそうになったけど、なぜか言葉に詰まった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アバター使って動画を配信しててね。毎日声を張るのが結構しんどかったから変えてみたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、マミはタブレットを操作して動画を再生する。銀髪ショートボブのアバターが、たくさんフリルの付いたウェイトレス風の可愛らしいオレンジ色のドレスを着て踊っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;『マミ、背中弱かったよね』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『んー……手術のせいで、もう感じなくなったんだよね』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『あら、そうなの』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『私、もう変じゃないよね？』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『えっ？　そ、そうね……変じゃ、ないわ』&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;次の日、防災無線塔からの放送で、東京が数ヶ月の完全都市封鎖に入ったことを知らされた。既に東京にいる私のような&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;無申請訪問者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;プライベート・ビジター&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も、封鎖明けまでは帰ることができなくなったということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミ、どうして言ってくれなかったのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。どうせ都民はずっと東京から出られないから、あんまり気にしてなかったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、騙された。そう彼女を責めるより先に、マミは笑顔で身を乗り出してくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それよりミカ、こっちで働かない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;向こうより稼げるよ、というマミの言葉はやはり怪しい響きを含んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マルチ商法の手伝いか、あるいは身体でも売らされるのか、もしかしたらもっとひどい仕事かもしれないと身構えていたけれど、聞いてみると在宅でマミの動画配信を手伝えばいいらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっとした吹き出し付けたりとか、効果音を差し込んだりしてくれればいいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……そうね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悪い話ではなかったけど、マミがどうしてこんなにも私を気にしているのかがまだ分からない。つかみどころのない彼女に全てを委ねるのは、一抹の不安もあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、思い浮かぶのは、昨日まで住んでいた――県と、つまらなくて代わり映えのしない仕事の毎日。それがもう、今はずっと遠くにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ、やってみる。よろしくね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;田舎特有の先が見えない閉塞感はもうここにはなくて、私が私として生きることを誰も否定したりしない。ありきたりな田舎者らしく、都市の自由に夢を見ていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;一緒に住むならパートナーシップ&lt;sup id="fnref:partnership"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:partnership" title="婚姻制度が漸次廃止されつつある中、次世代のライフスタイルに合わせて人間同士の多様な関係を公的に証明するための認定制度のこと。"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;を取った方がいいよ、とマミが言う。都民カードがないと何かと不便だし、パートナーが都民なら転入手続きも通りやすくなるらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、まだ区役所が開いてないんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、ミカって面白いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほとんどの手続きは都民カードとスマホがあればできるらしい。わざわざ区役所に行く人はもうほとんどいないし、窓口で手続きしたい場合はむしろ事前の予約が必要だという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、そんなの知らなかったもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミはブラウザを開いて何度かタップしながら、大昔に都民カードを紛失して以来行ってないよ、というような話をしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スマホでの転入手続きはとてもシンプルだった。特に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;無申請訪問者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;プライベート・ビジター&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;向けの転入手続きは、完全都市封鎖の直後からワンタップで呼び出せるようになっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミが「――ミカゲ」「女」「二六――年・夏」と、知っている限りの私の情報を打ち込み始めた。たまに尋ねられるのは、両親の生年月日とか、これまでの恋愛遍歴（本当に必要なのかしら）くらいで、何年も離れていたのによくそんなに私のことを覚えているなと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、アイリス撮るからこっち見て」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぱしゃり。顔写真ではなく、虹彩のダイジェストを計算して記録するのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『――時――分、登録が完了しました』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私のカードでミカのスマホを登録するから、ちょっと貸してくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;時報を聞いてふと時刻表示を見ると、五分ほど遅れていた。スマホの時計が狂うなんて聞いたことがないと思いながら何度かスワイプするけれど、どうにも直らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それ見たマミが「東京はTAI&lt;sup id="fnref:tai"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:tai" title="国際原子時のこと。"&gt;3&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;ベースなんだよ」と言って、何度か都民カードをかざした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ほとんどの買い物は通販で済ませていたけど、かさばる荷物は送料が高いからスーパーに出かけることがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうやってスーパーに行く途中、よく道端に倒れて動かなくなっている人がいる。ほとんどの人は血を吐いていて、ひどい時は皮膚が剥がれ落ちていることもあった。始めの頃は意識がないのを確認して救急車を呼んでいたけれど、道行く者が誰一人として目もくれないのを見ると、徐々に触れてはならないことのように思えてきてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、最近は私も足早に通り過ぎるのだ。次通った時にはもういませんように、と祈りながら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その話をすると、マミは「変な病気が流行ってるらしいから、近づいちゃだめだよ。ミカも気をつけてね」と言う。そして、彼女が着けているのと同じビー玉のペンダントを私の首に掛けるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このおまじないには、どういう意味があるのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_3"&gt;電気街で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;家から出なくていい仕事だから、としきりに言っていたマミが、時折ミーティングと称してどこかに出かけているのは明らかにおかしかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝早く出かけて、帰ってくるのは夕方くらい。スマホとカードだけで楽しそうに出かけていくマミは、およそ仕事のために出かけているようには見えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、一度だけビー玉のペンダントをどこかに忘れてきた時があった。アクセサリーを外さなきゃ進められないミーティングなんて、どこにあるんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;身体を売っているのか、私の知らないパートナーと会っているのかは分からない。でも、私に隠しごとをしているのは明らかだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、マミ。最近どこに行ってるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、言ってなかったっけ？　ミーティングだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、これは嘘だ。ミーティングはいつも画面越しだし、私も彼女もチーフエンジニアの顔さえ知らない。画面に映るのは、ぼんやりとした線の青髪ツインテールの女の子だけだ。髪がぴょこぴょこ揺れるのに合わせて聞こえる声だって、フォルマントをいじってフィルタされている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが最先端の設備や技術を導入しているわけではなく、これが東京でのオフィス労働の実態だ。マミは時折、こうやって調べなくても分かるようなわざとらしい嘘をつく。騙されてくれるよね、とでもいうように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、そういえば、明日から一週間入院するから。配信は適当にやっておいてくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何よ、入院って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつものことながら、マミの話はあまりに唐突だった。上着をハンガーに掛けながら、そうやって世間話のように平然と大事な話を切り出そうとするのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと手術しなきゃいけなくなって。死ぬわけじゃないから大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわよ！　そういう大事なこと、どうして早く言ってくれないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明日から手術だなんて、仕事仲間としても、パートナーとしても早く伝えなきゃいけないことのはずだ。手術だってミーティングだって、きっと嘘だから適当なことを言っているんだろうけど、本当だとしたらより悪い。どうしようもない怠慢だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がって大声を上げた私を、マミは意外そうな表情で見つめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミカって、普通の女の子みたいなことも言うんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミはそう言って、少しだけ笑ってみせた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;次の日、マミを尾行した先にあったのは、電気街の端にある古びた雑居ビルだった。若い女性がまともな用事で出入りするような場所には思えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし彼女は周りを気にする様子もなく、狭くて暗いエントランスからビルに入っていった。エレベーターに乗るのに合わせて私も廊下を進む。もう戻れないところまで来ているような、おぼつかない心地がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミ、なんでこんな場所に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;階数のランプが三階に止まる。マミがエレベーターを降りたようだ。コンクリートむき出しの埃っぽい階段を一段飛ばしでゆっくり上がっていく。息を潜めて登りきった先に、自動ドアに貼られた「レンタルBOX・スフェール」という手書きの看板が目に入った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『いらっしゃいませ！　どうぞお入りください！』&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;びくりと震える身体に遅れて、ただの自動音声だと気付く。しかし、安堵した時にはもう遅く、「レンタルBOX」の意味も分からない間に自動ドアが開いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そっと覗いてみるけれど、マミの姿はない。切れかけの蛍光灯がちかちかと光る薄暗い部屋は空調がよく効いているらしく、外に暖かい空気が漏れていくのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女と鉢合わせたら「やっぱり入院なんて嘘だったのね」とでも言ってやろうと思いながら、そろり、とドアをくぐる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目の前に広がっていたのは、整然と並べられた大量のメタルラックと、その空間を切り分けるように置かれた五十センチメートルほどのアクリルケースの一群だった。ケースには簡易的な鍵が付いていて、透明な壁の中でプラモデルやフィギュアが所狭しと身を寄せ合っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空いたケースには「出店者大募集」という広告と共に一ヶ月あたりの料金が書かれているところを見ると、「レンタルBOX」というのはアクリルで仕切られたブースをレンタルして商品を陳列するための場なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正面の小さなレジはバックヤードの出入り口を兼ねているらしく、後ろに黒いカーテンが引かれていた。今はそこに古参そうな店員が退屈そうに座っていて、こちらを一瞥したきり何も言おうとしない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりあえず中を一周してみると、入り口近くのプラモデルやフィギュアはカモフラージュだったと分かる。奥には水着を着た派手な髪の色の女性が大股を開いた写真が印刷されたUVRケースのジャケットだとか、フリルのほつれた下着のセットだとか、そういう成人向けの商品が大量に置かれていた。現実の肉体を撮影したアダルトビデオは違法だったはずだから、雑居ビルで隠れて営業しなければならない「そういう」お店なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し気になったのは、そんなセクシーなブースの横に、ビー玉や大きな水晶玉をかなりの高値で売っているブースが並んでいたことだ。東京では、ガラス球の取引まで違法になったのだろうか。マミも私にビー玉を持ってくるように言っていたし、もしかしたら貴重な品物なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかして、マミはここで私があげたビー玉でも売ろうとしてるんじゃ――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お嬢さん、鉄道が好きなのかい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、流石に私の行動を怪しんだ店員がレジから声をかける。鉄道グッズなんて奥にひっそり飾られているだけで、一度だけ目の前を通ったきり眺めてもいない。明らかに不審な私を牽制するための呼びかけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、いえ、別に」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……都民カード、見せてくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あんまり妙な動きをするとただじゃ済まないぞ、というような口調に、身体が固まって動けなくなる。どうしよう、どうしよう……と思っていると、黒いカーテンが開いて、バックヤードから人影が現れた。万事休すか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「すみません、――さん。その子、私のパートナーです。後をつけられちゃったみたいで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、奥から聞き覚えのある声と共にやってきたのは、ゆったりとした水色の検査着姿のマミだった。どうやら、助かったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は手短に私との関係について話して、この店を脅かすような存在ではないことを告げた。大体は聞き覚えのある内容だったけど、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;球体欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;クーゲル・マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;という聞き覚えのない言葉が耳に残った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;名前を呼ばれた店員は二、三小言を残して（何と言っていたかは聞こえなかった）バックヤードに戻っていく。それに合わせて、マミがこちらに駆け寄ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミカ、来てくれたんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんた、こんなところで何してるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が検査着の襟を掴んで詰め寄ろうとも、マミはまるで気にしないそぶり。逆に、私を落ち着かせるように手を握ると、じっと私の目を見つめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それも含めて、奥で話さない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちゃんと説明するから、という押しに負けて、私は手を引かれるまま奥へと進んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒いカーテンをくぐると、そこにはデスクやロッカーはなく、さっきまでと同じようにメタルラックとアクリルケースが並べられていた。しかし、中に置かれているのはもう少し趣味の悪い品物だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目の前のケースに入っているのは、人間の肘から先の模型に見える。外側には若い女性の顔写真が貼り付けられていて、まるでこの子から切り取った腕が飾られているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上も、下も、向こうのラックもみんな人体模型と顔写真を組み合わせた同じような趣味の悪い展示ばかりで、何だか気持ちが悪い。腕、脚はまだ直視できるものの、眼球、肝臓、心臓ともなると、まるで本物の臓器みたいでちらりと見るのさえ恐ろしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇマミ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「事務所とオペ室はこの奥だよ。ガサ入れ対策で二重底になってるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなこと、どうでもよかった。今はただ、マミが私に隠していることが怖くて仕方なかった。人間をパーツに分けて切り売りするこの空間に、私はどんな意味を見い出せばいいのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、何から聞けばいいんだろう。私が押し黙っていると、マミはホワイトボードを持ち出して一つ一つ事情を説明し始めた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;人間が必須元素として球体――それもできるだけ真球に近い――を必要としているのが分かったのは、彼女が東京に来てからだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜなら、東京では当局による球体の収奪が続いていたから。ガラスやプラスチックの球体はもちろんのこと、ゼリーやチョコレートでさえも球体に近ければ禁止あるいは没収された。農・水・畜産物は当局の認可が下りたカット済み、あるいはキューブ型に育てられたものだけが出回っている。あの日、喫茶店で味の悪い合成肉が出てきたのも、その流通の煩雑さと厳しい基準のせいだったようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな環境の中でマミも徐々に体調を崩し、最終的に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;球体欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;クーゲル・マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;という病気の存在を知ったらしい。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;球体欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;クーゲル・マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は頭痛、吐き気、ふるえ、倦怠感を初期症状とする慢性的な疾患で、何かのはずみで発作が起きると全身の細胞壁が壊れて患部が溶け落ちる&lt;sup id="fnref:toge"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:toge" title="細胞の棘化という。"&gt;4&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;のだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;球体の収奪は、都市全体を巻き込んだ人体実験のためとも、世界大戦に備えて秘密裏に政府が地下倉庫で保管するためとも言われているけど、本当の理由は分かっていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;症状を防ぐためにはやはり球体を身に着けるのが有効で、東京ではビー玉が保険外処方の一つとして認可されているらしい。しかし、これは根本的な解決策ではなく、結局は発作の恐怖と隣り合わせで生活し続けなければならないという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一度&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を起こした身体を根本的に完治させるためには、全身を人工臓器（あるいは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のない臓器）と入れ替えるしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、人工の臓器は身体に大きな負担がかかるため、高齢になればなるほど適応が難しくなる。そこに目を付けた業者が、比較的&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が進んでいない若い女性から臓器を取り出し、移植を必要とする人たちに売り付け始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女らも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の心配のない人工臓器に取り替えてもらえるので、違法ながら効率の良いビジネスとして成立しているという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;となると、ここにある四肢や臓器は全て本物で、かつてこの顔写真の子に入っていたものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お、おぇえっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこまで理解すると、急に吐き気がこみ上げてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私もね、顔写真と並べるのは趣味が悪いからやめてって言ってるよ？　でも、こっちのほうが売れるんだって」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「……お金儲けって、これのこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっとの思いで振り絞った言葉は、とてもありきたりで、つまらなくて、くだらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ここで少しずつ身体を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に適応させてるんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;球体欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;クーゲル・マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;って、あんたの大切な身体を切り売りしなきゃいけないような病気なの？　だからって、こんなお店で売らなきゃいけないの？　どうして私に相談してくれなかったの？　続く言葉はいっぱいあったはずなのに、涙と一緒に口からぼろぼろとこぼれ落ちていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、こんなの普通のお店じゃ売れないでしょ。とはいえ、スフェールもここまでが限界なんだけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;限界、と聞き返すと彼女はさらに説明を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。私たちは、次の場所に向かわないといけないの。かたい素材でできた、完全な球体になって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、マミは「次の場所」について語り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳をスキャンしてケイ素の球体に埋め込むことで、人格や記憶を保存できる上に、ほとんどの災害に耐えうる物理的な強さを得ることができる。人間としての不自由な身体を捨てて、誰にも害されない完全な球体に生まれ変わることができるという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、本来の脳とは思考スピードも異なるし、シナプスの応答曲線も微妙にずれているけど、数千年のスパンで見ると現状では最適な手段らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最終的には汎用ロボットボディに載せて自律的に動けるようになるし、別の肉体に戻したりできるようにもなると言われているらしいけど、それがいつになるかは分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とにかく、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;欠乏&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;マンゲル&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が進む前に固定しておけば、いつかは戻せるようになるはず、とだけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミカには、完璧になった私を見てほしい。だからミカを東京に呼んだの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めて東京に来た日に喫茶店で言われた言葉と同時に、背筋が震えるあの感覚を思い出す。彼女のいう「完璧」は、あの日から――いや、もっと前から球体のことを言っていたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、それはつまり、肉体を全て捨てるということで、彼女に宿っていたあらゆる記憶や思い出が捨てられてしまうかもしれないということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、脳も売るっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前じゃん。生ゴミにでもするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわよ。脳を取り出したらあなたがあなたじゃなくなるんじゃないの？　それでいいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳の構造を残したって、彼女がいうように彼女の人格や記憶を保持できるとは思えなかった。人間はそんなに単純なものじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミは確かにそうかもね、と笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私の脳を誰かの身体に移してみる？　そうしたら、まだ私でいられるかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何よ、それ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「顔も違うし、声も変わって、味覚だってほとんどなくなるの……背中だって、感じなくなってたでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;笑えない冗談を楽しそうに告げるマミに、私はえも言われぬ不気味さを感じていた。時折顔を覗かせる彼女の人間味のなさは、決して都会に揉まれたせいではなく、文字通り人の道を外れつつあるからだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はもうとっくに、あの時の私じゃないんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミ、やめてよ。そんなマミ見たくないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;困惑、不気味、恐怖……私がその場にうずくまっても、耳を塞いでも、マミが私に同情してくれることはない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう遅いよ。私の身体も限界なの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……分かったわ。少しだけ、考えさせて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の私には、身体を丸めて震えながらそう告げることしかできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_4"&gt;公園で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;夕日の公園で、ベンチに二人座っている。まるで告白のようなシチュエーションだけど、気分は全く晴れやかではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、ミカに憧れてたんだよ。ずっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんたに恨まれてるとばかり思ってた。バカみたいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;隣に座るマミが、やはり告白のような言葉を告げるけど、今はただ過去を振り返って懐かしんでいるだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言ったでしょ。完璧になった私を見てほしいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇマミ。やっぱり――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミカ。今さらどうしようもないって、もうミカも分かってるでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミが着ている白いワンピースは、検査着に着替えた後ですぐに捨てられるように、私が買って渡したものだ。もちろん、着てくれるのは嬉しいけど、それが別れを意味しているのは明らかだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、わざわざ手術の当日に呼び出されたのだから、もしかしたら気が変わって……なんて思うのは、私が浅ましいからなのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日は、私のお葬式をしてほしいと思って呼んだの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お葬式？　家族には連絡しなくていいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、ミカは私の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;家族&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パートナー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でしょ？　それに、身体がないのにお葬式なんて、流石に親不孝だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かにそうかもしれない。娘の身体がばらばらにされて趣味の悪い金持ちに売られているなんて、正直に伝えるほうが酷というものだ。私でさえも、まだ受け止めきれてはいないのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お葬式って、見送る人たちのためにあるんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミがぽつりとつぶやく。その言葉の意味が、今の私には痛いほどよく分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、ここでお別れの言葉を言って。そうしないと、私がちゃんと帰ってこれないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お別れの言葉。さよなら、ありがとう、またね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にとって、マミは何だったのだろう。友達、恋人、あるいは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;家族&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パートナー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;。その全てだったような気がするし、そのどれでもなかったような気もする。今だって、どんな言葉でも決められない不思議な関係で結ばれているという確信があった。だから、今日ここで別れたって必ずまた会える――マミが完全な球体になろうとしていると知ってからは、自分にそう言い聞かせていてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ではマミにとって、私は何だったのだろう。肉体を捨ててまで完璧になろうとする彼女は、こんな不完全な肉体を抱えた不安定な私にどうして執着しているんだろう。彼女に取り残されて些末で矮小な世界で生きていく私のことを、どう思っているだろう。荒い息で私を抱いて離さないマミは、肉体と共に消え去ってしまうんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミは私を遠くからずっと見つめているのに、私はマミの影さえも見つけられない。そんな想像が頭を支配して離れなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、マミ……行かないでよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼろぼろと涙を流す私を見て、マミは「ごめん。もう涙も出ないんだよね、私」と言って、ばつが悪そうに笑った。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、いつかまた人間の身体に帰ってくるのよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人間に戻せるかは、まだ分からないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえ新しい肉体を作って脳だけを戻しても、それはもう違う人間なのだと、暗に言っている気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、今日の葬儀だってただのお遊びで、ここで本当にお別れなんて思えなかった。だって、マミは生きていて、今だって確かに私の言葉を聞いているのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、完全な球体があればあんたの魂を取り出せるんでしょう？　それを肉体に戻せば――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「魂と肉体が分離できるなんて、古典的な発想だね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を遮って、ぴしゃりと言い放つ。不意打ちの反論に面食らっていると、マミはそのまま言葉を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たちの肉体はずっとここにあるし、私たちの魂はこの肉体のためにある。取り出せるものじゃないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;魂は肉体に張り付いているからもう取り出せない。そうなのかもしれない。でも、そう考えると、やっぱり人間のマミとはここでお別れなんじゃないか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アバター、魂、器……マミが動画配信の後に同じようなことを話していたのをふと思い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、やっぱりあんたは死ぬの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもね。人間としては、死んじゃうのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミはそう言いながら立ち上がって、その場でくるくると回ってみせる。それはまるで、天国から迎えが来たかのようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私は確かに私だから。それだけは覚えておいて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕日を背にして、マミが私に笑いかける。それが彼女から聞いた最後の言葉になった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_5"&gt;ミカの家で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それから、まったく予定通り、一週間後の午前中にマミが石の塊になって帰ってきた。配達員のおじさんが「重いですよ」と手渡すしっかりとしたダンボール箱は、一見すると大玉のスイカでも入っていそうな立方体で、そこに十キログラムほどのずっしりとした重量感が収まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は今、マミの人生を胸に抱えているのだ。全身の力が抜けそうな妙な達成感と同時に、物言わぬ岩塊になった彼女に対する後悔の念がじわりと広がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そっと床に箱を置く。厳重に貼り付けられた迷路みたいなガムテープを順番に剥がしていくと、丁寧に閉じられたフラップが現れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;箱を開けると、まず目に入ったのはクリアファイルに入った死亡診断書だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かつての肉体はもうどこにもなくて、もうこの死亡を証明する紙切れだけが彼女の存在を証明している。死亡診断書には当たり障りのない死因と、適当な死亡時刻が記入されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミは発泡スチロールのブロックで上下から固定されており、取り出すと完全な球体のスタイリッシュなフォルムが私を迎えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒くてつるつるした見た目の表面は全体が感覚器になっていて、肌全体で広い範囲の電波や振動を感じとることができるらしい。触ってみると、表面はかたくてひんやりとしている。試しにノックするように叩いてみると、中の微細な空洞を振動が駆け巡って水琴窟のような音が響いた。この刺激がマミにとって快いものなのかは分からないけど、たまに聴きたくなる音だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;箱の底には袋に入った細かい砂が敷き詰められていて、持ち上げると袋の中でさらさらと流れていくのが分かった。マニュアルに書いてあったマミの寝床だろう。たとえ球体の表面が傷ついても、この砂の上に置いておけば治癒するらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、これって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、砂袋のもう一段下に、簡素なビニールで包装された布が入っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それがマミが最期に着ていた服だと気付いた時には、マミの肌にぽつぽつと大粒の涙が降り注いでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空っぽのワンピースは、彼女がもう人間の時間軸にいないことを物語っている。私と彼女の間には、もう埋めようもない隔絶が広がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから数日後、私はマミの死亡届を出した。彼女とのパートナーシップを結んでいたおかげで、相続の手続きまで滞りなく進められた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仕事を手伝うだけなのに、わざわざ届けを出す必要があるだろうかと思っていたけれど、最初からこのつもりだったと思えば合点がいく。役所での手続きなんてマミにとっては些末なことのはずだから、人間の姿を捨てられない私への気配りというところか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は心のどこかで、マミが私を呼び出したのは、私の過去を責めるための壮大な復讐なのだと思っていた。しかし、マミはもうずっと私よりも先に行っていて、その姿を私に見てほしいと言ってくれた。だから、人間の時間軸や些末な過去の恨みなんてもうどうでもいいのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、残された私は？　私は人間の時間軸で、過去をくよくよ気にしながら生きていくしかないのだろうか。もし、そうだとしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マミって、すごく変だわ。昔も、今も」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女を少し転がしてから、砂を振りかけて何度か撫でてみる。すぐには応えてくれないけれど、確かにマミはこの大きな棺の中で生きていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マミは完全な球体だなんて言っていたけど、できあがったボディは少しいびつだった。ボウリングのボールとして使う分には困らないだろうけど、少なくとも私には、彼女の上下がよく分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、マミ。私のお墓に、なってくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……なんて、まだ気が早いかもね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私とマミの時間が、また少しずつ離れていく。壮大な時間を過ごすマミの横でこのまま老いていく私を、彼女はどう思うだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを考えるのは、もう少し後でも良さそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:palanquin"&gt;
&lt;p&gt;エスカレーターのステップに取り付けられた昇降用のかごを指す。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:palanquin" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:partnership"&gt;
&lt;p&gt;婚姻制度が漸次廃止されつつある中、次世代のライフスタイルに合わせて人間同士の多様な関係を公的に証明するための認定制度のこと。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:partnership" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:tai"&gt;
&lt;p&gt;国際原子時のこと。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:tai" title="Jump back to footnote 3 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:toge"&gt;
&lt;p&gt;細胞の棘化という。&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:toge" title="Jump back to footnote 4 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>東洋のスマラカタ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/smarakata/" rel="alternate"/><published>2020-03-13T16:04:00+09:00</published><updated>2020-03-13T16:04:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2020-03-13:/post/smarakata/</id><summary type="html">&lt;p&gt;99里&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;刑部岬の展望台に到着したのは、十一時より少し前のことでした。車を降りると春みたいな夏みたいな曖昧な太陽と、冬みたいな春みたいな冷たい風が我々を出迎えます。大きなジープでくねくねの急勾配を進んだ先に広がるこの数キロメートルの断崖絶壁は、かつて「東洋のドーバー」と呼ばれていたようですが、全てが崩れ落ちた今となっては、たくさんの白い鉱船が停泊している港と、それらを囲む大きな灰色の防波堤しか見えません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;防波堤は太平洋に向かってまっすぐ突き出していて、まるで太平洋をかき混ぜる大きなスターラーのようです。コンクリートの突堤の周りに置かれた真っ黒なテトラポッドに、きらきらと光るエメラルドの結晶が吸い込まれては砕かれていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;春の海はエメラルドのしぶきを上げて、よく輝いていました。大きな結晶はガラスを潰したようなくしゃりという高い音で砕けて、小さな結晶はぷちぷちと弾けながら海の底へと沈んでいきます。沈んだエメラルドの砂が集まって海の底で大きな原石が生まれるというのは、もちろん私も教科書で読んだことがあります。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ここ飯岡は、世界的なエメラルドの名産地です。エメラルドの一大名産地にして、ほぼ唯一の海洋鉱山。石の鳴き声が聞こえる海。東洋のスマラカタ。高宮さんと私は、この緑の鉱石を長期間にわたって浴び続けたせいで数十年前に閉鎖されたこの刑部岬周辺の環境について、特別な調査を依頼されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この辺りは千葉の端だからネオコロナも来ないだろう、と高宮さんが言います。そして、その自信を示すように防護マスクを外したので、私もそれに倣ってシー・ブロックだけを外しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高宮さんは、暇な老人がエメラルド粒を集めてはグレース・ペーパーと交換しているらしいんだ、とも言っていました。換金できないような屑砂を物々交換する業者がいるらしいです。砂粒を無理やり固めて作る人工エメラルドは極めて人気がないのに、です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「仕方ないよ。たいてい、こういう海洋型の鉱脈だと大きなエメラルドはなかなか見つからないんだ。それに、原理上どうしてもインクルージョンが多くなる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メイ・サイクルですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。だから、本来海洋産のエメラルドは陸地を浸食するだけの厄介な存在なんだ。でも、ここは違う」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コスクエス・イイオカ仮説ですね、とさらに相槌を打とうと思いましたが、これはさっき車で話したばかりなのでやめました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高宮さんは私をちらと見てから、そのまま話を続けます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「このサイクルは特異的だよ。このエメラルドがどこから来ていて、どうしてインクルージョンが少ないのか。あるいは、エメラルド粒ごとすっかり採掘してしまったら海はどうなるのか。まだ何も分かってないんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから我々が調べるんだけどね、と笑う高宮さんの瞳にエメラルドが映り込みます。吸い込まれそうなほどの深い緑で満たされながら、ふと、ヒスイ海岸で見た色の方が好きだなと思いました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「同じインクルージョンの粒が集まって縞模様になるんだ。砂浜を見てごらん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高宮さんは据え付けの望遠鏡に手を置いて、覗くように言いました。私は踏み台に立ってハンドルを握り込みますが、望遠鏡は防波堤に向けられたまま、ギアがすっかり錆びついていてほとんど動きません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窓を覗き込むと、レンズはところどころ薄い緑色に着色しているものの、幸い透明なまま浜辺の景色を映し続けています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;防波堤の曲がり角に滞留してできた砂浜はおおよそ明るい緑色で覆われていますが、波に平行な向きで暗い緑や青、あるいは逆に明るい白の縞模様が走っていました。その上に、時折結晶が爆ぜたような白い放射状の跡が残って、まるで打ち上げ花火を描いた砂絵のようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだね。ヒスイより軽いからより大きな結晶がたくさん砂浜に打ち上げられる。でも、遺骸はもとより、生体でさえどうも割れやすくっていけないんだ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;展望台を降りると、南側に古いチェックイン装置が立っていました。大きなガラスパネルに地図が彫り込まれていて、その横に立てられた金属柱にチップを近づけると、チェックイン情報がシェアされるようになっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、ここの装置は地図パネルを挟んで二つのチェックイン・センサーが並んでいて、二人で同時にチェックインする必要があるようです。きっと、ここが観光地だった頃に作られたカップル向けのギミックなのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はいいよ。そんな古いチップ持ってないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっと残念。装置の真ん中に立ち、一・五メートルほど離れた二つのセンサーに同時にチップを乗せると、通信エラーを示す赤いランプの点滅に少し遅れてオルゴールが流れ始めます。時折調子を外したメロディが、風に乗って海に、砂浜に、染み込んでいく気がしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;振り向くと、高宮さんが少し寂しそうな表情でぼんやりと立っています。私を見ていたのか、ずっと遠くの景色を見ていたのかは、もう分かりません。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>地下鉄ストア</title><link href="https://ama.ne.jp/post/metro/" rel="alternate"/><published>2019-12-09T12:26:00+09:00</published><updated>2019-12-09T12:26:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2019-12-09:/post/metro/</id><summary type="html">&lt;p&gt;16,777,216&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「ねぇＢ子さん。次の休日に地下鉄ストアに行きましょうよ。いいでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉さま。帰ってきたらまずシャワーを浴びてくださいって、私いつも言っています」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昼休みに聞いた「地下鉄ストア」の話は、本当だったらしい。軽薄な噂話に興味のない先輩が、冬の香りと汗の匂いをまとったままこんなことを言ってくるなんて、よっぽどのことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、すみません。Ｃ子さんから楽しい話を聞いたものだから、つい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩がジャージを脱いでシャワールームに向かう。暖かい空気に蒸れた匂いが触れて集中できなくなってしまうから、やめてほしいのに。先輩はそういうことを分かってくれない。教科書をなぞる指を離して、消臭スプレーを部屋にひと回しした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベッドに倒れ込むと、先輩がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。しょわしょわとした不規則な音は、きっと髪を濡らしているのだろう。泡を流す時には、もうちょっと優しい音がするから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が地下鉄ストアの存在を知ったのは、昼休みのたびに教室で私の席を占領しておしゃべりするのが大好きなクラスメートたちの会話を聞いたからだ。グループの中心、その親友っぽい子、いじられキャラの子、顔色を窺うばかりの二人……えーと、どっちがどっちだったっけ。私の席に座らないなら、どちらでもいいけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;校則を真面目に守る子って苦手だ。みんな同じ服を着ていたら、誰だか分からなくなってしまうから。髪型だって、髪の色だって揃える必要なんてない。もういっそ、ヒーロー戦隊みたいにみんな違う色になってくれればいいのに。赤、青、黄……まぁ、どうでもいいや。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間は何百万色も見分けることができるらしいし、ＮＵＣ個人番号の代わりにイメージカラーをプレゼントしたらおしゃれだと思う。普段の先輩は白すみれ、さっきの先輩はりんどう、あるいは桔梗みたいな色。たまに、かきつばた。あぁ、何色あっても足りないかもしれない。私だったらちゃんと見分けられるのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不法占拠を追い出さずに話を聞いていると、どうやら地下鉄ストアは駅前にできた商店街のことらしい。ただし、商店街ごと地下に収められていて、地下鉄の通路か地上に新設された入り口から降りていく必要がある。若者向けと銘打っているだけあって、流行を押さえたファッション、雑貨、カフェを揃えつつ、立地の悪い区画にはマニア向けのお店も入っているという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「地下鉄ストア、Ｂ子さんも知っているでしょう？　学校中の噂になっているわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;板張りの天井を覆うように、シャワーを終えた先輩のほかほかとした香りが目の前に広がる。白すみれ色だ。先輩は私の返事を待たずに隣に座って、私が起き上がるのを待った。横から抱きつくように淡いクリーム色のルームウェアに触れると、もこもこの生地に包まれた薄い脂肪の身体が腕の中に感じられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに応えるように、先輩が私の手を握ってその余熱を私に渡した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「写真をもらったの。一緒に見てもらっていい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩が白い封筒から何枚か写真を取り出す。一枚目はアーケードの入り口だという。丸く光るパネルが六つアーチに並んでいて、「地下鉄ストア」を一文字ずつはめ込んでいるのが分かる。アーチをくぐると、まずはファストフード。そこから、きつね色、緑、白のお店が続く。前の二つは服か雑貨、その奥は小さな本屋だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、看板の文字が少し傾いているわ。ここよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、アーチの文字はこっちから赤、青、黄色です。道のブロックは、灰色、白……こっちはあずき色ですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう。赤と黄色って、なんだかよく似てるから嫌いだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、先輩は何枚か写真を見せてくれた。話を聞くと、メインストリートを歩きながら友達とショッピングを楽しむ、なんてことない風景だ。きっと先輩の友達たちなのだろう。でも、カメラに、あるいはカメラの持ち主に向けられた屈託のない笑顔を想像すると、一枚ずつびりびりと破りたくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことをしたら、先輩はどんな顔をするのかな。きっと、嫌というほどよく見えるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子さん、いいでしょう？　行きましょうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩。私、外出は嫌なんです。知っていますよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、分かっていますとも。でも、私となら出かけてもいいって言ってくれたじゃありませんか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩が外に出たがるのはいつものことだ。先輩の友達は先輩を連れて外出するのに乗り気じゃないことも、先輩がそれを知っていて気を遣っていることも、最後は同室の私に頼むしかないのもいつものこと。そう、いつものことなのだ。だからこそ、私と先輩は少しずつすれ違っていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうして先輩はそんなに外出したがるんだろう。それも、新しい場所に行くだなんて。怖くて、難しくて、ちょっとしたこと足を踏み外しそうになる。そんなことをするくらいなら、ずっと部屋でじっとしていたほうがましだと思う。どこにも行かないで、ずっと私の隣にいてくれればいいのに。どうやっても思い出を共有できない私といるのは、やっぱりつまらないんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「期末考査だって近いんですから。先輩は頭がいいでしょうけど、私はもう少し勉強しなければいけないんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真面目な先輩は、考査を理由にすれば何も言えなくなるのを知っていた。先輩は、私の成績を犠牲にしてまで私を連れ出そうとするような人ではないから。特待生の先輩が頭がいいのだって本当だし、私の勉強が遅れていることだってよく分かっているはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩が立ち上がって私に向き直る。ずるくて卑怯な後輩に。淡い藤色だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えぇ、分かりました。では、私一人で行きます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩。聞き分けのないことを言わないでくださいよ。私がいなかったら、どうやって服を選ぶんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩が一人で街に出るなんて、できるわけがない。私がいなかったら何もできないんだから。私がいなかったら電車に乗るのも苦労するし、まともな買い物だってできやしないんだ。私は先輩を見上げてじっと見つめた。そうしないと、卑怯な自分がばれてしまう気がしたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「できるわよ。それくらいできるわ。Ｂ子さん、私のことお嫌いですか？　だから意地悪を？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きとか嫌いとか、そんなことを言ってるんじゃないんです。先輩だって外出は怖いでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいえ、好きですわ。あなたと街を歩くのが好きです。いい後輩ねって言われるもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;色が見えない先輩と、色しか見えない私。先輩は色彩のない線と形だけの世界を生きて、私は線も形もない色だけの世界を生きている。二人の世界を合わせれば一人前の世界になるんだよと、校医さんが口癖のように言っていた。でも、先輩と協力しあったって、知らない場所を歩く恐怖がなくなるわけじゃない。学園の外では誰も助けてくれないから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩だって、そのはずなのに。そうじゃなきゃいけないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうの、私にはよく分からないです。先輩のほうが綺麗ですし。みんなはきっと、先輩と街を歩きたいんですよ。だから、もう――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう……今、何を言おうとしたの？　私は思わず口を押さえるけれど、先輩は続く言葉を待っている。これは困惑か、あるいは期待か。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どう誤魔化そうかと思っているうちに、紺色の沈黙がじわじわと足元から空気を埋めていって、口から、鼻から、息が詰まりそうになる。先輩が見えなくなる。どうしようもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――なんでもないです。先輩、髪やってあげます。それと……好きですから、ちゃんと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の腕を振り払って、私の「好き」を引きちぎって、先輩がどこかに行ってしまうかもしれない。私のいない場所へ。もっと広い場所へ。先輩と出会ったときから、ぼんやりそう思っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鈍色の海から籠の鳥が飛び立っていく。その前に、私は何ができるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/4480"&gt;百合SS Advent Calendar 2019&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>甘い煙に誘われて 2</title><link href="https://ama.ne.jp/post/sweet-2/" rel="alternate"/><published>2019-05-07T00:45:00+09:00</published><updated>2019-05-07T00:45:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2019-05-07:/post/sweet-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ポリ&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/flowline-flower/"&gt;flowline flower&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="nickname-2"&gt;nickname 2&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;まりっぺのことは、もう忘れたつもりでいた。突然私の前から姿を消した彼女のことを、いつまでも追い続けるわけにはいかなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのとき、まりっぺはどうして私にさよならを言わなかったんだろう。私のことを嫌いになったんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは、最後に私をＣと呼んでくれた。私が赤沢さんをまりっぺと呼ぶように、私をＣと呼んでくれた。だから、半ば強引に参加させられたこの同窓会で、後ろから懐かしいあの声で「Ｃ」と呼ばれたとき、私の心は確かに四年前に戻っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、Ｃ、久しぶりね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……まりっぺ。どうしてここに？」&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="secret-2"&gt;secret 2&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;まりっぺの部屋は、駅から十分ほどのアパートの三階にあった。振り向くと、細い道を挟んで背の低い一戸建てやアパートがひしめき合っていて、一歩踏み込むだけで誰かの生活とぶつかってしまうような狭苦しい気分になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう辺りはすっかり暗くなっていたけど、歩いていてもすれ違うのは残業帰りのサラリーマンくらいしかいない。窓から漏れる黄色い光と、睨むように冷たく光る街灯が、疲れた顔を上からぼんやりと照らしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この辺りはあんまり治安が良くないと聞いていたけど、今のところは閑静な住宅街に見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　住んでみれば、そんなに悪くないわよ。狭いのは慣れてるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、暗くて危ないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;街灯はそれなりに整備されているとはいえ、建物と建物の間を縫うような細い道はやっぱり見通しが悪い。この川沿いの住宅街にたどり着くまで何度か路地を通り抜けてきたけど、まりっぺみたいな若くて綺麗な女の子が通り抜けるには、少々おぼつかない箇所もあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、普段はちゃんと暗い道を避けて帰ってるわよ。でも今日は、特別だから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「特別？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のこと、守ってくれるんでしょ？　あの約束、もうおしまいなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;えっ、と思わず聞き返してしまいそうになる。あの約束、と言われて思い出すのは高校二年の冬のことだ。あの時もまりっぺは、確かに「特別」と言っていた。まるで魔法の呪文みたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺが退学してから、私は彼女がくれた「特別」を忘れようとしていたけれど、どこかで同じくらい彼女に期待していた。私とまりっぺを結んでいた灰色の糸はもう切れてしまったはずなのに、彼女の呪文は私をずっと縛り付けている。もう一度まりっぺの「特別」になれるかもしれないと期待するだけで、もうそのことしか考えられなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そんなこと、ないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから今も、まりっぺがこうして遠い日の約束をちらつかせるだけで、私はそこから目が離せなくなってしまう。彼女と過ごした甘い日々がありありと思い出されて、何も言えなくなってしまうのだ。私が本当に彼女を守り抜けるかどうかには関係なく、ただ約束だけがそこにあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、彼女の特別は私にはよく分からない。私だけの特別じゃなきゃ、何の意味もなかったから。私にくれた特別と、誰かにあげた特別が同じなら、それは特別なんかじゃなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ちょっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、私が下を向いて黙ったままでいると、突然まりっぺが私の横から身体を押し込んでくる。ツインテールがふわりと私の顔をなぞって、ヘアミストに包まれたまりっぺの甘い香りが鼻をくすぐった。その優しい不意打ちに、私は思わず後ろへ一歩、二歩……そのよろめくような動きが滑稽に見えたらしく、後ろを向いたまりっぺが小さく笑った。ほのかに光が漏れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりっぺ、どうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、って……そこに立ってたら、ドアが開けられないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは部屋の鍵を開けようとしていたらしい。いや、帰ってきたのだから当たり前だ。まりっぺが退屈そうにキーホルダーをもてあそんでいる横で、私は昔のことに夢中になってただ突っ立っていたらしい。慌ててまりっぺの横に収まるように滑り込むと、程なくして重たい音と共にドアが開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「少し散らかってるけど、適当にくつろいでちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;靴を脱ぐ。アパートの古びた外見とは裏腹に、１Ｋの小さな部屋はまりっぺらしさで埋め尽くされていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フローリングの上には左からベッド、ソファ、ガラステーブル、そして棚とその上に小さなテレビ。部屋の隅には大きな白いクローゼットと姿見が置かれていて、中にたくさんのドレスが入っていることが窺える。奥にはベランダに続く掃き出し窓があり、今はそこにジャガード調の柄がきらめくピンクの遮光カーテンが引かれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;棚やベッドに置かれたたくさんのぬいぐるみのせいで、散らかったような印象も受けるけど、淡い色で統一された室内はまさにまりっぺのお城という感じだ。そんなお姫様の部屋の雰囲気を仕上げるように、ローズアロマがほんのり香っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、その優しいフローラルの香りの後ろに、隠しきれないタバコの匂いがかすかに残っているのを私は見逃さなかった。床に、ソファに、壁紙に、かつてまりっぺがくゆらせていたような甘い匂いのものじゃなくて、ツンとした嫌な刺激臭を感じる。よく見ると、煙が染みているせいか、淡い花柄の壁紙の端が少しくすんで生活感を残していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に、まりっぺがどんなタバコを吸っていようと私は気にしない。むしろ、新しいまりっぺの匂いを歓迎してしまうだろう。問題は、それが本当に「まりっぺの匂い」なのかということだ。まりっぺに感じていた男の影の正体を、私は結局確かめられずにいたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、まりっぺについてもう一つ気になることがあった。それは、彼女の舌にはまったピアスのことだ。食事の時から気になっていたけど、何度かその瞬間を見ているうちに確信した。笑うたびにちらりと覗く銀色の丸みは、かつてのまりっぺからは見つけられない明らかに異質な存在だった。ほのかに残るタバコの匂いが妙に頭に染み付いて、その穴さえも誰かが作った傷のように思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺに刻まれている誰かの跡が、可愛らしく飾られた部屋や身体の中に隠れているのが分かる。私がまりっぺの恋人だったなら、口をこじ開けてでも確かめることができただろう。でも、今の私には、それが本当にピアスなのかを尋ねることすらできなかった。その傷が誰かに隷属している証だとしたら、私はもう立ち直れないだろうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ソファ、座って。飲み物、コーディアルソーダでいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤いチェックのトレイには、緑がかった琥珀色の涼やかなジュースで満たされたコップが二つ。からりと氷の音をさせながら、まりっぺは順番にコップを並べていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;準備を終えたまりっぺが私の隣に座って、のどを鳴らしてソーダを半分ほど流し込む。私もそれにつられてコップに口を付けてみると、優しい花の香りと共にほのかな甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから、私たちは色々なことを話した。高校のこと、大学のこと、専門学校のこと。新人モデルとして頑張っていること、就活がなかなか上手くいっていないこと。高校を去ったまりっぺは、東京で専門学校に通いながらモデルを目指しているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方の私は、適当な大学に進んで人生を先送りにしているうちに、夢も人生も考えられないまま社会に出なければならなくなってしまった。高校を出なくても夢を叶えられる人はいるなんて、あの頃の私に言ったら信じるだろうか。大学に行っても夢を見つけられない人がいるなんて、あの頃の私に言ったら信じるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは、なぜかＢ子の話ばかり聞きたがった。私はＢ子のことなんてよく知らなかったし、思い出すのも嫌だったけど、まりっぺにとっては懐かしいクラスメートの一人でしかないのだろうか。あんな女のこと、どうして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、自分が勝手にライバル視していたまりっぺを同窓会に呼びつけて、Ｂ子は何をしたかったんだろう。前からＢ子は嫌なやつだとは思っていたけど、まさか大人になってまでそんな子供みたいな意地悪をするとは思わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、部屋の前のコンクリートの廊下を歩く低い音が響く。ふと時計を見ると、もう日付が変わりかけていた。こんな夜遅くまで残業か、と思いながら声のトーンを落として通り過ぎるのを待っていると、まりっぺは逆にその足音に反応するように立ち上がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、来たみたい。少し待ってて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、まりっぺがチャイムも鳴らないうちに玄関に向かう。しかし、こんな時間に来るのは宅配便でも訪問販売でもない。私が「誰か来るの？」と尋ねると、まりっぺは振り向いてこう答えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子よ。後で紹介するわ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ずかすかと上がり込んできた女のことを、まりっぺは確かに「Ａ子」と呼んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よっ、タバコ吸いに来たよ。……あれ？　誰、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「友達よ、友達。来るなら先に言ってよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は喫煙所にでも来たような口ぶりで、まりっぺの部屋に上がり込んだ。手に持っているのはフィルムに包まれた新品のタバコだろう。深紅のパッケージの表面にはホログラムが貼られていて、動くたびに蛍光灯を反射して安っぽい黄色のきらめきを放っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子。その名前には聞き覚えがあった。いや、忘れるわけがない。まりっぺと私の大事な時間を邪魔したＡ子。私からまりっぺを奪っていったＡ子。私から「特別」を奪っていったＡ子。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四年前のあの瞬間が、今目の前にまた現れようとしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当なら、まりっぺにＡ子との関係をすぐにでも問いただしたかったけど、今はまだその時じゃない。Ａ子だって、思いがけない先客の私を見て何か思うところがあるだろう。もしかしたら、向こうから何か仕掛けてくるかもしれないし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が靴を脱ぎながら、ピンクのスケートボードをドアに立てかける。まさか、ここまでスケボーで来たんだろうか。ロングの茶色いくせ毛を翻し、デニムと大きめのブルゾンで狭い道を駆け抜けるＡ子は、いかにもストリート系という感じがする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、まりっぺにはそんな子似合わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふーん。でも、マリーに友達なんていたっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の気だるげな視線が私に向く。品定めするようにゆっくりと私をなぞるその目は、敵とも味方ともつかない不思議な雰囲気を放っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「友達くらいいるわよ。Ｃ子、ほら、高校の友達」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ子、高校……あー……同窓会、結局行ったんだ。服、可愛いじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、行ったわ。悪い？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に悪くはないけどさ。どうせ、真面目ちゃんたちとは話が合わなかったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が壁に寄り掛かって、まりっぺにもゆっくりと舐めるような視線を送った。知らない私だからあんな視線を向けているのかと思ったけど、Ａ子にはそもそも人をじろじろと見る癖があるらしい。悪い癖だなと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同窓会の話は既に聞いていたようで、私のこともそこで会った同級生だとすぐに理解したらしい。それにしても、「真面目ちゃんたち」だなんて、随分知ったような口ぶりだ。まりっぺは、高校時代のことをＡ子にどう話したんだろうか。私のことや、タバコのこと……それに、Ｂ子のこととか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないわよ。Ｃにも会えたし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、そ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は短くそう答えると、もう話すことはないとでもいうように冷蔵庫の中を物色し始めた。しばらくすると酒がない、つまみがないと騒ぐＡ子の声がキッチンの奥から飛び出し、まりっぺもそれに応酬してごちゃごちゃとした口論を二、三繰り返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、そんなに欲しいなら、勝手にコンビニで買ってきなさいよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「買う買う。途中にコンビニがあったらね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからまりっぺは、順番に私とＡ子の紹介を始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のことは高校時代の友達だと言っていたけど、タバコの話はしていなかった。一緒に帰るくらいの友達とか、なんとか。もしかして、Ａ子はタバコのことを知らないんだろうか。そうだとしたら、Ａ子はどうしてまりっぺが高校を辞めたと思っているんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子。青山Ａ子は新宿で働くフリーターだという。この近くに住んでいるらしい。たまに来るのよ、とまりっぺは迷惑そうに言っていた。わざわざタバコを吸いにくるだけの仲なんて、まりっぺにも妙な友人がいるものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人とも、なんだか気が合いそうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは私とＡ子を交互に眺めながら、そう言って少し笑った。私には、どうにもそうは思えなかったけど。少なくとも、マリーだなんてダサいあだ名を使う女と一緒にはされたくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;自己紹介もそこそこに、まりっぺは「着替えてくるわ」と告げてバスルームに消えていった。残されたのは、まりっぺの身体を濡らすしっとりとしたシャワーの音と、互いの名前くらいしか知らない他人同然の二人だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ソファ、座りますか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、別にいいよ。床の方が落ち着くし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ガラステーブルに頬杖をつくＡ子は、ラグの端にあぐらをかいて私に向かい合うように座っている。左手で画面をスクロールさせながらぼんやりとした視線でスマートフォンを眺めるその姿は、なぜか前に見たことがあるような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;沈黙が流れる。テレビを点けておけばよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は私に興味がないらしい。でも、私はＡ子のことをもっと知る必要があるのだ。Ａ子にとってはＳＮＳでもチェックしていれば過ぎ去るような暇な時間かもしれないけど、私にとっては彼女のことを見定めるための重要な時間だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手持ち無沙汰そうにもてあそぶタバコの箱が、いちいち光を反射してきらめいている。しばらくすると、Ａ子はスマートフォンを捨てるように床に置き、タバコのフィルムに手を掛けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぱちぱちと爪でフィルムを擦る音を響かせているところを見ると、どうやら開封テープの加工が甘かったらしい。Ａ子は何度か包装をぐるりと見回した後、私の名前を呼んで枕元のペン立てを指差した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「開かねーな。Ｃ子、そこにかみそり置いてない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、はい……これですかね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ペン立てにかみそりがあるのか、と思いながら赤紫の薄い柄を引き出すと、乳白色のカバーに包まれた刃が現れる。Ａ子は短く「ん」と答えると、受け取ったかみそりのカバーを外し、慣れた手つきでフィルムを切り取った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はかみそりにカバーを戻し、そのままテーブルに置こうとする。すさかず私が「よかったら戻しますよ」と呼びかけると、Ａ子はそれに応えて柄を握ったまま私にかみそりを差し出した。その不躾な刃を受け取りながら、視線を上に向けたＡ子と目が合うタイミングを狙って、私は本題を切り出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの……青山さんって、まりっぺの友達なんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マリーの友達？　それ、どういう意味？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;質問に食いついた。フィルムを剥がす手が止まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を見上げるＡ子の目は、突然の質問を受けて少しずつ怪訝な目つきに変わっていった。一瞬、シャワーの音が止まって、二人の間の沈黙がぐっと強くなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、Ａ子にとっては意味の分からない質問だろう。お前は友達なのか、なんて。でも私は、四年前のまりっぺが電話口で見せたあの笑顔の正体を明らかにしたかった。四年前も、そして今もまりっぺの隣にいるこの不良じみた女が、どうして「特別」なのかを確かめたかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、まりっぺとはどういう関係なんですか？　まりっぺとは、いつ、どこで知り合ったんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なにそれ。取り調べかなにか？　そんなに気になるなら、マリーに訊けばいいじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぐらかさないでくださいよ。言えないような関係なんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の煽るような問いかけに、Ａ子は眉をぴくりと動かして応えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ？　そんなわけないじゃん。夜中にいきなり尋ねても怒られないくらいの関係だよ。それ以上でも、それ以下でもない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;流石に私の追及がしつこいと感じたらしく、語調が少しずつ荒くなる。意図の見えない質問に苛立っているのが分かった。それからＡ子は、お前の好きにはさせないとでも言うように剥がれかけたフィルムをぐしゃぐしゃに破り捨て、ひったくるようにタバコを一本引っ張り出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;威嚇するような荒い仕草に飲まれそうになるけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、なんなのその質問？　意味分かんないんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの、友達なら友達って言ってくださいよ。もう一回訊きます。まりっぺとは、どういう関係なんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;全く同じ質問に、Ａ子がとうとう大きな溜息を吐く。苛立った彼女の表情が徐々に怒りを帯びていった。射るような目つきは荒っぽくて、繊細さの欠片も感じられなかったけど、その力強さはまりっぺと少しだけ似ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、なんだっていいじゃん。友達かどうかがそんなに気になるのかよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気になりますよ。だって、私は――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……じゃあさ、恋人だったらどうすんの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;恋人？　私の言葉を遮るように、Ａ子がぽつりと呟いた。まるで取り留めのない雑談のように投げかけられた言葉が、私の心に大きな波紋を広げていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はすこぶる退屈だとでも言うように、指に持ったタバコをテーブルに放り投げて背伸びするように身体をのけぞらせた。そのゆったりとした動きを見ていると、余裕がないのは私だけのように思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、まるでこの女が本当にまりっぺの恋人で、その事実を知らない私だけが一人で大騒ぎしているような……そんなわけないのに。そんな――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――こ、恋人なんて、そんなわけない！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駆け巡る疑念に耐えきれずに、私は思わず立ち上がっていた。彼女の罠にハマったのだと気付いた時にはもう遅い。私を見上げて鼻で笑うＡ子を見て、私は負けた、と思った。もう目の前には、冷静なＡ子と感情的な私が向き合う滑稽な構図ができあがっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんでだよ。Ｃ子だって、マリーが好きでここに来たんだろ？　私たちが付き合ってたっておかしくないじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで私の気持ちを知っているかのような物言いだ。そうやって、言い当てるふりをして動揺を誘っているのは分かっていたけど、一度崩れた態勢を整えるのは難しい。私の中の疑心暗鬼じみた想像が広がって、少しずつＡ子のペースに巻き込まれているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おかしいですよ！　だって、そんなの……付き合ってるんですか？　好き、なんですか？　まりっぺのこと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きだよ。好きだけど、だからなんなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;付き合ってるのか。そんなことを訊いたって、答えてくれるわけがないのは分かっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;友達だとか付き合ってないとか、Ａ子はまりっぺとの関係を言い切るつもりはないらしい。なぜかは分からないけど、Ａ子はそうやって何も知らない私をもてあそんでいるようにも思える。本当に性格の悪いやつだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私にもまた切り札があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも……無理ですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「無理？　だから、なんでだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、まりっぺは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、まりっぺは高校時代に男と付き合っていたんだから。タバコも灰皿も与えて、まりっぺに協力していたやつがいる。いや、今も付き合っているのかもしれない。まりっぺはたぶんその男と仲が良くて、だから、まりっぺはたぶん女の人とは――私たちとは――付き合わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はっきりそう言ってしまったら、余裕そうなＡ子も流石にショックを受けるだろう。だって、彼女は携帯灰皿のことを知らないはずだから。敵ながら心配になったけど、ここまで来たらもう言うしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だってまりっぺは、高校時代に男の人と付き合ってたんですから。女の人にそういう興味はないはずです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は落ち着いて、動揺しているのをこれ以上悟られないようにそう告げた。これでもう、Ａ子の余裕は崩せたはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「高校時代に、男……？　あぁ、もしかして……これのこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ……そ、それは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が掲げたのは、まりっぺが持っていたのと同じ形の、茶色い革の携帯灰皿だった。素材や縫製から見ても、同じブランドの色違いだろう。面食らった表情を隠せない私に、Ａ子はさらに畳み掛けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「びっくりした？　確かにマリーはこれの黒を持ってるけどさ、あれは私があげたんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、あ……で、でも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;息が詰まる。声が上手く出なかった。まるで追い詰められた真犯人みたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、既製品の灰皿なんて同じものがいくらでも手に入るんだから、これがすぐに決定的な証拠になるわけじゃない。偶然だってありえるし……自分の中でそんな言い訳をぐるぐると巡らせていたせいで、私の「切り札」がもはや切り札でないことに気付くまで、少し時間がかかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マリーがダサい携帯灰皿を持ってるから、彼氏がいるって思ったの？　残念だけど、あいつにタバコを覚えさせたのは私、その携帯灰皿の彼氏は、私なんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;けらけらと楽しそうに笑うＡ子。それは勝利宣言だった。随分と無骨な携帯灰皿だから、センスのない男がプレゼントしたものとばかり思っていたけど、まさかセンスのない &lt;em&gt;女&lt;/em&gt; だったなんて！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか、タバコの見張り役って、Ｃ子のことだったのか。マリーが吸ってたタバコって、これだろ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うとＡ子はテレビの横のコスメ収納を漁り始め、その引き出しの二段目からストロベリーが描かれた白い箱を取り出した。箱はもう開封されていて、開けると既に何本か吸われているのが分かる。Ａ子はその中から一本を取り出して、私に手渡した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;葉の間にほのかに香る甘酸っぱい香り。普通のタバコよりもきゅっと細く締まった芯。確かにこれは、私がまりっぺの「非行」に付き合っていた頃に吸っていたものだ。まりっぺはこの箱から何本か取り上げて、薔薇の刺繍を縫い付けた水色のケースに入れていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ストロベリーの香りがする輸入タバコだよ。ウチで特別に仕入れてる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子がストロベリーの箱からもう一本引き出した。火を着けて、吸って、息を吐く。テーブルからソファに広がっていくストロベリーの香りは、確かにまりっぺが私にくれたあの香りだ。私の中にじわじわと染み込む煙の味を感じながら、まりっぺが「特別」なタバコだと言っていたのを思い出していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠い目をしたまりっぺが、上を向いてふわりと煙を吐き出す。あの光景が、眼前によみがえってくる気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっはは、まっず！　やっぱ甘いのは不味いわ。笑えてくるほど不味い」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、まるで目の前にまりっぺがいるようなその不思議な感覚は、Ａ子の下品な笑い声で簡単に破られる。でもたまに吸いたくなるんだよね、なんて機嫌よさそうに笑いかけるＡ子は、そんな私の落胆を察するつもりもない。部屋を何度もまりっぺの香りでいっぱいにして、私の自傷じみた妄想だけをいたずらに煽っていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の煙に染められたまりっぺ。まりっぺの服が、肌が、目が、少しずつくすんでいく想像が頭を離れない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「も、もしかして――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、Ａ！　部屋では吸わないでって言ってるでしょ……って、なんでそれ吸ってるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかして、まりっぺの舌ピアスもＡ子が開けたの？　と尋ねるより先に、頭にタオルを巻いたバスローブ姿のまりっぺが私たちの会話を遮った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お風呂上がりの上気した肌に、むわりとした熱気がまとわりついて部屋に入ってくる。しっとりとしたシャンプーの香りが、ストロベリーの煙と混ざりあって、とろけるような甘酸っぱい香りに変わった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、ごめんごめん。Ｃ子が気になるって言うからさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ。なら、まぁいいけど。部屋ではやめてよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の適当な言い訳に、まりっぺはいったんその怒りを収めてみせた。そして、Ａ子に聞こえよがしの小声で私に告げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ、ごめんね。部屋がタバコ臭いの、この子のせいだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだろうな、と思う。男の影の正体は、もうＡ子なのだと分かってしまったのだから。壁紙の隅に染み込んだ、消しても消しても消えないＡ子の匂いを、まりっぺはどう思っているんだろう。私の前ではこうして気にするそぶりを見せるけど、もしかしたら、本当は。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、まりっぺはいったん収めた怒りをまた引き出すように、Ａ子に向き直った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほらほら、外で吸ってよね！　ここ、私の部屋なんだから」&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="rose-1"&gt;rose 1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は不満げにぶつぶつ言いながらも、テーブルに放ってあった自分のタバコを取り上げながら立ち上がる。まりっぺの言うことはちゃんと聞くんだな、と思いながら、私もそれに倣って外に向かうことにした。まだ訊くことがあったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ベランダへ続く窓を開けると、部屋の中にこもった湿った雰囲気が冷たい空気と入れ変わるようにカーテンの外に出ていく。五月とはいえ、まだ夜は冷える。私の足元を冷ややかな風が駆け抜けて、口論で熱くなった頭が少しずつ落ち着いていくのを感じていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と同時に、まりっぺに感じていた男の影が、私が彼氏だと思っていたやつが、本当はＡ子だという事実が少しずつ私の中に広がっていく。苦いような、酸っぱいようなその感覚は、タバコの煙のように私に染み付いて離れない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「早く閉めてよね。風邪引いちゃうから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はいはい……あ、Ｃ子、電気消してくれよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子がベランダに一歩踏み入れた姿勢のままで振り向いた。その馴れ馴れしい指図にムッとしたが、まりっぺがいる手前で意地悪なことも言えまい。作戦とはいえさっきかみそりを取ってやったしな、と思いながら、テーブルの上のリモコンを何度か押した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋の電気が消えて、カーテンの隙間から外の仄かな光が覗く。カーテンを引っ張ってくぐるように窓を抜けると同時に、都会のささやかな夜空の自然光と、向かい合う窓から漏れる少しばかりの人工光が私を迎えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がベランダに出たのを確かめると、Ａ子は後ろ手でからからと窓を閉める。そして、室外機の上の暗がりから何かを取り上げて、バランス良く手すりに置いた。なんだろうと思って顔を近づけると、くすんだ灰の匂いがする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「部屋に灰皿を置くのはダサいんだってさ。だから、部屋ではこれ使うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は「これ」と言って、さっきの茶色の携帯灰皿を星空に重ねるように見せつけてから、そのままポケットにしまいこんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;準備が済んだＡ子は窓に寄りかかると、また赤い蛍を光らせて一服し始めた。すぐにそこら中がきついタバコの匂いで満たされていく。弱々しい星の光が煙に隠されて、灰色の空だけが残った。まりっぺの湯上がりの甘酸っぱい匂いも、少しずつ記憶の奥に追いやられていくのが分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の中のまりっぺが、少しずつ壊れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、まりっぺは優しすぎるのだ。私だったら、こんな鼻の壊れた友人は作らないだろうから。身の程知らずに上から目線で絡んでくるやつだって、真っ先に絶交するだろうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ子は、タバコ吸わないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、吸わないですね。匂いが気になるので」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう皮肉で返したけど、Ａ子は「別に気にする必要なんてなくない？」と、伝わっているのか無視しているのか分からないような返事で私をいなした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、これ。やるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が取り出したのは、紫色をした丸い鉛筆のような細長い筒だった。手に取ると少し重たくて、表面のさらさらとしたラベル越しに金属の冷たい感じが伝わってくる。これは何かと尋ねると、Ａ子は電子タバコだと言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと、だから私、タバコはちょっと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何も入ってないって。日本のだから。風味だけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はほら、と言ってその「電子タバコ」を目の前で吸ってみせた。Ａ子が吸うのに合わせて先端が赤く光って、ふっと消える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今度はＡ子が吐くのに合わせて甘ったるい香りが駆け抜けて、それから元のタバコの匂いで茶色く塗りつぶされていく。喫煙者が吸ってみせたって「何も入ってない」証明にはならないだろうけど、少なくとも今すぐ倒れるような危険な成分は入っていないようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、どう吸うんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どう、って……吸うの、穴から。口で」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;暗くて分からなかったけど、よく見ると十五センチほどの筒の片方に小さな穴が開いている。これが吸い口らしい。妙な感じだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふーん、と思いながら吸い口をくわえて軽く息を吸い込むと、なるほど、バラの合成香料のような安っぽい甘さが口の中に広がっていく。少し煙たいけど、Ａ子の吸うタバコのような刺激臭はない。さらに吸うと、先端がゆらゆらと赤く光っているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もやもやとした感じが気持ちいい。なるほど、タバコみたいに光るのかと思いながら先端を見つめているうちに、何だか気分が良くなってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに強く肺まで吸い込むうちに、いきなり何かがパチッと弾ける音がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ぐ、ぐはっ……げほっ！　げほ、げほっ……び、びっくりした……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「慌てて吸うなって。中学生かよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;驚いた拍子に煙が変なところに入り込んで、次の瞬間私は大きく咳き込んでいた。あんまり強く吸うと、中で蒸気が弾けるのだという。そんなの聞いてない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、いい匂いだろ？　タバコを吸わないお子様にぴったりだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急に咳き込んだのが恥ずかしくて、何だか気が抜けてしまった。私は電子タバコも上手に吸えないのか、と落胆とも諦めともつかない感情がぼんやりと頭を支配する。Ａ子が私に皮肉を言ったのは分かっていたけど、なぜかやり返す気にはなれなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;優しく煙を吸い込むと、また甘ったるい香りが抜けていく。その感覚を確かめるように、私は何度も息を吸った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舌ピアスのことは、訊かなくてももうなんとなく分かっていた。まりっぺにタバコを教えたのもＡ子、ピアスを開けたのもきっとＡ子なのだ。まりっぺはＡ子のもので、私が入り込むだけの隙間はもうなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はまりっぺの隣にいる間、まりっぺに何かを残せただろうか。私がいなくなってからもずっと残るような、何かを。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ａ子」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん？　どうした、急に」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりっぺのこと、よろしくお願いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで死期を悟ったかのようなせりふを聞いて、遠く夜空を見つめながらタバコをふかしていたＡ子が顔をこちらに向ける。しかし、別に私の余命を気にしているわけでもなく、ちらりと私の顔を見るだけで眉一つ動かさない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふーん、そういう目もできるんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;友達を売るような真面目ちゃんのくせにさ。Ａ子はそう言って、ベランダから去っていった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はひとしきりタバコを吸って満足したらしく、私がベランダから戻ってきた時にはもう部屋からいなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おかえりなさい、Ｃ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……う、うん。ただいま」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺはもう、バスローブからレースをあしらった柔らかそうなボアのパジャマに着替え終わっていた。姿見の前で全身がピンク色のもこもこで包まれた自分の姿を確認しながら、時折裾をくいと少し引っ張ってフリルの形を整えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;可愛いなと思うと同時に、まりっぺはもうＡ子のものなのか、とぼんやり考えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ、あなたに挨拶もしないまま帰っちゃったわ。あら、それ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、まりっぺが私の右手を指差す。その先に持っているのは、さっきＡ子がくれたローズフレーバーの電子タバコだ。返そうと思っていたのに、まるで嵐のようなやつだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは一瞬怪訝な表情をしてから、すぐに嬉しそうに笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａったら、よっぽどＣのことが気に入ったのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が私のことを気に入った？　そんなふうには見えなかったけど。少なくとも私は仲良くするつもりはなかったし、Ａ子だってそれには気付いていただろうに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことを考えながらソファに掛けると、まりっぺも私の隣に座った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ今日は、私もローズのタバコにしようかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うと、まりっぺは枕元から細長いピンクの箱を取り出した。そして、濃いピンク色の紙で巻かれたおしゃれなタバコを引き出す。ホログラムが巻かれた箱のきらめきはＡ子のと似ているけど、心なしかより上品な輝きに見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋で吸ってもいいのと尋ねると、今日は特別よ、と言って笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ、たまに来るのよ。寂しいのよね、きっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺの口元からふわり、と濃厚なローズの香りが漂う。でもその後ろには、確かにタバコの香りが潜んでいた。その甘い香りとは正反対のツンとした刺激を意識すると、嫌でもＡ子のことを思い出してしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いい匂いのはずなのに、その後ろに隠れる影ばかりが気になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｃ。私が女の子と付き合ってて、どう思った？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その言葉をすぐに理解できたのは、その現実に薄々勘付いていたからだろう。きゅっと胸が締め付けられるような冷ややかな悲しみと一緒に、やっぱりそうなのか、という諦めが広がっていく。覚悟はできていたはずだけど、まりっぺの口から直接聞くとやっぱり苦しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ど、どう……って？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、私のこと好きなんでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、次の言葉は予想もつかないものだった。まりっぺは「違う？」と尋ねながら、私の顔を覗き込む。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がまりっぺのことを好き？　まりっぺもＡ子も、どうしてそんなことをはっきり言うんだろう。私の気持ちを知ったような口ぶりで、私の前で、まるで私の代わりみたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きじゃ……ないよ。ぜんぜん。もう、好きじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は彼女に背を向けて、絞り出すようにそう告げた。好きじゃない。まりっぺのことなんか、好きじゃない。これはもう、本当の気持ちだった。だって、Ａ子に染まったまりっぺなんて、もう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;執着しても、惨めになるだけだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子。私の前に現れて、まりっぺをさらっていったＡ子。まりっぺを好きなだけ汚して、私に見せつけるＡ子。結局まりっぺも、まるでバカな女と同じように、あんな不良みたいなやつが好きなのか。私じゃ何が足りなくて、私じゃ何がいけなかったんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私だけのまりっぺが、がらがらと崩れていく。粉々になった「特別」の欠片が涙になって、私の目からぼろぼろとこぼれていった。頬を伝っていく涙を、まりっぺは掬うように撫でる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｃ。泣かないでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって……だってまりっぺは！　タバコだって、ピアスだって、全部Ａ子の言いなりなんでしょ？　私はまりっぺのこと、強くて可愛い女の子だと思ってたのに……そんなの、そんなの……ひどすぎるよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、ピアスってこれのこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;泣きじゃくる私を撫でる手が止まって、まりっぺがぺろりと舌を出す。その先には、確かに丸いピアスがはまっていた。やっぱり、そうだ。存在感を強烈に主張するその傷を見て、勝手に涙があふれてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は声に詰まって何も言えずにただ頷くと、ところがまりっぺは、不満げな顔で私に向き直った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何言ってるの？　違うわよ、私は誰かに身体を傷つけさせたりしないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも青山さんは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のことは私が決めるって言ったでしょ？　むしろＡは反対してたわよ。あの子、すごく勝手なんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺのピアスは、Ａ子が開けたものじゃない？　じゃあ、まりっぺが自分で決めたの？　そうだとしたら、私は大きな勘違いをしていたらしい。舌にはまった丸い銀色が急に美しい輝きに思えてきて、私はその口元から目が離せなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だってあの子、太ももにタトゥーがあるのよ？　だったらピアスくらい、別にいいじゃない。温泉だって入れるんだし。そう思わない？　舌が痛いって言うけど、そんなの別に――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、待ってよまりっぺ！　じゃあ、そのピアスは自分で開けたってこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の不満をつらつらと並べるまりっぺの言葉を遮ると、彼女はきょとんとした顔で私を見つめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、そう言ってるじゃない。私は誰のものにもならないわ。Ａのことは好きだけど……Ｃ子、あなたのことだって、好きだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりっぺ……やめてよ、そんなの……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;嬉しいはずの告白に、私は何故か拒否感を覚えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はもうまりっぺを諦めると決めていたはずなのに、まりっぺが私に希望という毒を注入していく。私は誰のものにもならない。あなたが好き。そう言ってのけるまりっぺの意志の強い瞳が、また私の心を捉えて離さなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、まりっぺはＡ子と付き合ってて、だから私はもうまりっぺを諦めるしかないんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも私、Ｃのことが好きだわ。Ａのことも、Ｃのことも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺとの別れを決めたはずなのに、彼女に好き、と言われるたびに顔が熱くなるのを止められない。それに、いつの間にかローズの甘ったるい香りばかりが私の鼻をくすぐっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子のタバコ。Ａ子がまりっぺを汚したタバコ。ツンとして臭いはずなのに、もう私はその刺激を嗅ぎ分けることができなくなっていた。少しずつまたあの「特別」への渇望が、私の中にむくむくと頭をもたげているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やめて、やめてよ！　まりっぺ……なんで、諦めさせてくれないの……おかしいよ、こんなの……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｃ？　私のこと、ずっと好きでいてね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;微笑むまりっぺと目が合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はまりっぺに恐怖していた。いや、正確には、私自身に恐怖していた。彼女を求めるのを止められないこの感覚が、もがいたってもう逃げられないと諦めかけているこの感覚が、そしてこの恐怖さえも、まりっぺの前でなら心地よく感じてしまうこの感覚が、怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言ってよ。ねぇ、まりっぺ！　Ａ子にピアスを開けろって言われたって、言って、言ってよ……ねぇ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;めちゃくちゃなことを言っているのは分かっていた。でもまりっぺは、すがりついて泣きじゃくる私を引き剥がすでもなく、抱きしめてキスをしてくれるわけでもない。ただ、そのまま。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が睨むようにまりっぺを見上げると、彼女はちらと舌のピアスを見せつけるように小さく笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うぅ……ねぇ、まりっぺ、好きだよ……だから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はまりっぺのこと、何も分かっていなかった。彼女はもう、私を縛って離さないつもりなのだ。この恋はもう、自分で終わらせることもできないのだと悟った時には、もう遅かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな不釣り合いな私たちを、ローズの甘くて煙たい香りが優しく包み込んでいる。まりっぺが与えてくれるこの味は、こうしてずっと私を縛り続けるのだろう。私の恋が寂しく終わろうとも、きっと、ずっと。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>甘い煙に誘われて</title><link href="https://ama.ne.jp/post/sweet-1/" rel="alternate"/><published>2019-04-02T14:40:00+09:00</published><updated>2019-05-07T00:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2019-04-02:/post/sweet-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;思い出&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;h2 id="strawberry-1"&gt;strawberry 1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;人が流れる歩道の中で、タバコの香りにつられてふと立ち止まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;街を歩いていると、ときどきこんな風に甘い匂いが鼻をくすぐることがあった。甘く煙たいストロベリーの香り。普通に歩いていたら見過ごしてしまうような、そうでなくても数歩のうちに意識の外へ追いやられるような、かすかな心地よさが私の足を止めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はこの匂いを知っている、と思った。鼻をすんと動かしているうちに、さっきまで食べていたサンドイッチの香ばしい匂いなんて全部吹き飛ばされてしまう。もやのかかった空気の中で、私は煙に包まれたあの頃の甘いひとときを思い出していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼんやりとした頭のまま、煙の立つ向きを探してゆっくりと辺りを見回す。昼休みのビル街は憩いを求める人でいっぱいで、後ろを急ぎ歩くサラリーマンが一人、軽く舌打ちをして通り過ぎていく。普段なら後ろから睨みつけながら舌打ちを返していたところだけど、今はただ生き急ぐ時間の流れを傍観する感覚に身を委ねていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おそらくこの甘い香りを漂わせているのは、そばにある喫煙所だろう。明るい緑色に塗られた柱に、上半分がフロストガラスで囲まれた半透明のシェルターは、彼らの身なりをそのままに顔だけを隠している。まるで犯罪者か風俗嬢みたいだな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その区画のすぐ外で、出入り口近くの柱に寄りかかっている同い年くらいの女性が目に入った。片手に持ったスマートフォンを不機嫌そうに覗き込み、いらいらした様子を隠さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;喫煙所は禁煙の波に追いやられた人でごったがえしていて、とりわけ奥はスーツ姿のおじさんばかりだ。きっと、大きな肩に挟まれた窮屈な空間でタバコを吸うのが嫌なのだろう。その気持ちは分からなくもないけど、マナーの悪い女だなと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;甘酸っぱいストロベリーフレーバーをくゆらせているのはこの人だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ウェーブのかかった茶色いロングヘアーにクールな瞳が隠されて、時折空を見つめながら煙を吐いている。サイケデリックなテディベアの写真が縦横にプリントされた趣味の悪いシャツに、くすんだ青のブルゾン。ライトブルーのデニムと紐の汚れた黒のスニーカーに寄り添うピンクのスケートボードは、そのフットワークの軽さを物語っている。およそ会社勤めには見えないし、下手をすると大学生ですらないかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;吸って、吐いて、画面をなぞる……その動きがいちいち気だるげで、あくせくと流れる時間から浮いて見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてみんな、タバコを不味そうに吸うんだろう。まりっぺもそうだった。身体中にもくもくとした煙をまとって、そこから何が見えるのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その様子をしばらく眺めていると、彼女はまだだいぶ残った吸いさしを口から離して、足早に喫煙所の中へと向かっていった。頭一つ小さなデニムパンツが灰皿まで駆け寄って、吸殻を突っ込んでから出てきたと思うと、立ち止まっていた私に視線を向ける。慌てて目を逸らすけど、誰も寄せ付けまいとする視線は確かに一瞬私を貫いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、彼女は自分が観察されていることを意に介す様子もなく、スケートボードに乗って線路沿いの裏通りに消えていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ストロベリーの残り香が、少しずつ灰色の煙に追い出される。ぼんやりとした懐かしさがコントラストを失って、そのまま現実に戻されていく。彼女の痕跡はもう私の記憶にしか残っていないのに、どうしてか私はその場から動けずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてだろう？　スケボーの彼女の視線に、まりっぺと同じものを――もしかしたら、まりっぺの面影を感じていたのかもしれない。私の隣では、いつもこの甘い匂いがしていたから。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="secret-1"&gt;secret 1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私がまりっぺの「秘密」を知ったのは、高校二年の冬のことだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今でもよく覚えている。寒さと暖かさが曖昧になった放課後の穏やかな日差し。柱の向こうから聞こえる砂利を踏みしめるさくさくとした足音。そしてあの、ストロベリーの甘い香り。普段よりも少し強い風が、まりっぺの吐いた煙をそのまま私に届けてくれたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ赤沢さん？　それ、タバコ……だよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、Ｃ子だったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは突然の邂逅に驚く様子もないまま、顔をちらと覗いてから私の名を告げた。誰か――つまり、私の気配はもう感じ取っていたらしい。火を着けたタバコを隠す様子もなく、軽く目を閉じてまた口元に運ぶ。細い芯の中を走る煙を優しく吸って、口からもくもくと吐き出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;腰まで伸びたロングヘアは二つにまとめられていて、上を向いてふぅ、と息を吐くたびに、その動きに合わせてゆらゆらと揺れる。青みがかった煙が風に流されて、その綺麗なツインテールと混じり合っていくように見えた。煙がかき消えるとまたふわりと甘い香りが漂って、私の視界にぼんやりともやがかかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タバコってツンとした嫌な匂いのものばかりだと思ってたけど、こんなに心地いいなんて。いつものタバコが灰色の匂いだとしたら、これはまるでピンク色の匂いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;煙と一緒にゆったりとした時間が流れていく。それは窓際の机でまどろむ放課後よりも、駅のベンチで次の電車を待っているときよりも、もっとゆったりとしていておぼろげな時間だ。ずっと向こうに部活の練習風景が聞こえてきて、まるでここがいつもの学校から遠く離れた場所のように思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして煙が消える様子をひとしきり眺めていたまりっぺは、しばらくしてから私に向き直った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、何か用？　さっさと先生に言いに行ったら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うよ。私、そんなつもりで来たんじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、私が補習をサボってまで校舎裏に回り込んだのは偶然ではない。まりっぺの後ろ姿を追って歩いていたからだ。でも、決して彼女の喫煙を咎めるつもりで尾けていたわけではない。まるで路地裏をするすると歩く猫に導かれるように、奇妙な魅力が私を支配していたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;姿を見せちゃいけない、と思った。尾行に気付かれたら、まりっぺが私をスパイとして疑うのは当然だったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それなのに、いつの間にか足が前に出ていた。甘い香りにつられるように、格好悪く彼女の前に姿を表してしまった。それは、喫煙という意外な光景を目撃したせいでもあるだろうし、ただ彼女に私の存在を示したかったからかもしれない。私だけは味方だよ、とでも言うように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。別に、何でもいいけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;壁に寄りかかったまりっぺが私を見下ろす。ふわりとしたスカートの裾が、薄い太陽の光で綺麗なグラデーションを作り出していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺ（当時は赤沢さんと呼んでいた）は、私のクラスメートだ。背の高いまりっぺのスカートから伸びた脚はすらっと長くて、廊下ですれ違うたびに目で追ってしまうくらい。歩く姿も美しくて、細やかな動き一つ一つにまりっぺの意識が込められているのが分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じ制服を着ているはずなのに、ちんちくりんの私とは何もかもが違う。背伸びすればやっと追い付けるくらいの意志の強い瞳が、整った顔の魅力をさらに高めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、どうしてタバコなんて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「吸いたくなったのよ。そんなに変？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、見つかったら退学だし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいのよ、別に。高校なんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺはそう言って、またタバコを口にくわえた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悪い事をしているはずなのに、彼女は逃げも隠れもせずに私の前に立っている。私を脅すわけでもなく、自分の「非行」を隠すわけでもなく、その姿はまるで駅前のカフェで紅茶を飲む時のように落ち着いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どんな言い訳をしたって喫煙は喫煙だ。咎めなきゃいけない行為のはずなのに、今はその姿がなぜだかとても綺麗に見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「タバコくらいで騒がないでよ。私のことなんて誰も見てないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私、赤沢さんのタバコのこと、もう知ってるけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「脅しのつもり？　言ってるじゃない、高校くらいやめてもいいって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鋭い視線が私を貫く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校くらいやめてもいい、なんて。私にはまりっぺの気持ちが分からなかった。高校進学を選んだ私たちの人生は、おそらく中卒なんて考えられていないから。少なくとも、私にとってはそうだ。だから、まりっぺにもそんな人生を送ってほしくはない、と思っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、迷いも不安もないまりっぺの目を見ていると、その押し付けがましい親切心に彼女を巻き込むのが本当に正しいのか、分からなくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうじゃなくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はっきりしなさいよ。これをネタにして、脅すつもりなんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これ、と言いながらまりっぺが火の付いたタバコを目の前に突き出した。まるで、常識に縛られた空っぽな自分を見透かされているような気がして、私は思わず目を逸らしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は彼女の視線から逃げるように、タバコの先から出る煙をじっと見つめていた。そうして黙ったままでいると、まりっぺは小さく溜息を吐いて、ブレザーのポケットからボタンの付いた黒い革のケースを取り出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……もういいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不機嫌そうなまりっぺは、彼女に似合わない無骨な携帯灰皿に吸い殻を押し込んで、そのままこの場から立ち去ろうとする。ざくざくとした足音がだんだん遠くなって、少しづつありふれた日常の空気が戻ってくるのを感じていた。張り詰めた空気が少しずつ緩んで、身体から力が抜けそうになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今何か言わないと、まりっぺはもう私を見てくれなくなってしまう、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地面をぐっと踏みしめた勢いで、思わず大きな声が出てしまう。まりっぺが足を止めてから、これが秘密のやり取りなんだと思い出して、意味もなく口に手を当てる。振り向いたまりっぺと目が合って、彼女はふふっ、と小さく笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、もう学校では吸わないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、学校じゃなきゃいいってこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。私……赤沢さんに、学校やめてほしくないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう告げながら、私は思わずまりっぺの手を握っていた。突然距離を詰めた私に、まりっぺは戸惑いの表情で私を見つめるだけで、驚いた声さえも上げられない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、赤沢さん。やめないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは私のわがままだ。分かっていた。まりっぺが高校をやめて困るのは、私の方なのだ。もし今日、校舎裏で彼女を見つけたのが私でなかったとしても、まりっぺには何も気にしないだろうから。まりっぺは、誰の救いも求めていない。まりっぺを救うふりをして、本当は私が救われたいだけなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで、プロポーズでもした後のような長い沈黙が流れた。私の告白じみたお願いを、まりっぺはどう思っているだろうか。私の髪が揺らした風が、まりっぺのスカートも揺らしていく。その一瞬一瞬が恥ずかしかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のことは私が決めるわ。でも、Ｃ子が私を守りたいなら、勝手にして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひんやりとした手が心地いい。まりっぺはいつの間にか不意打ちに崩されたはずの冷静さを取り戻して、私をじっと見つめている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん。ありがとう、赤沢さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;受け入れるわけでもなく、突き放すわけでもない。まりっぺらしいその答えが何度か私の頭の中を駆け巡って、やっと実感と共に私の顔を熱くする。まりっぺと私だけの秘密ができたこと。まりっぺと手を繋いでいること。私がまりっぺに受け入れられたこと。突然訪れた幸せが、私を包み込んで離さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局、まりっぺが連絡先を交換しようと告げるまで、私たちはずっと見つめ合ったまま手を繋いでいた。まるで恋人みたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで、恋人みたいに。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;校舎裏での出会いから数日が経った。昼休みの教室はざわざわとした取り留めのない会話で満ちていて、とにかく落ち着かない。年度末の浮ついた解放感がひしひしと伝わってきて、今の私には鬱陶しく感じられる。こういう微妙な気分のときには図書室に行くに限るんだけど、まりっぺとのこともあってなかなか動けずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;教室でのまりっぺは、いつもと変わらず私の三つ後ろの席で静かにファッション誌を眺めている。教室に出入りするたびにちらりと彼女の方を見ていたけれど、目が合うことはなかった。私を信頼してくれているのか、それとも……本当に、高校をやめるつもりなのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、私はちゃんとまりっぺを守ると「約束」したんだ。まりっぺが学校をやめたりしないように。まりっぺの綺麗な姿を、私と彼女の静かな時間を、誰にも見せないために。だから、まりっぺがいなくなるなんてありえない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私はどうやってまりっぺを守るつもりなんだろうか。まりっぺに頼られたって、停学さえ覆すことはできないのに。できることなんて、タバコを吸っているときの見張り番くらい。私がまりっぺと一緒にいる価値があるのは、煙たくて気持ち良いあの場所にいるときだけ。私たちの関係は、密かに立つ煙と同じくらいに儚くて弱々しいのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは高校くらいやめてもいい、と言っていた。私の動きに関心がない様子を見ると、それは本当の気持ちなのだろう。でも、学校をやめてどうする気なのか、親にはどう説明するのか……そこまでは、現実味がなくてイマイチ想像が付かなかった。つまり、みんなが選ばないような生き方に向き合いつつあるまりっぺの後ろ姿が、少し怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりりーん。何読んでるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな考えを巡らせながら窓の外を眺めていると、後ろから耳障りな声が聞こえてくる。こんな時でも、Ｂ子はやはりまりっぺに馴れ馴れしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今月号のロルムよ。春の新作をチェックしてるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、遅くない？　私、もうめぼしいのはいくつか買ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの？　どこのブランド？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、――とか、――くらい？　そんなに追ってるわけじゃないけど、教えてあげよっか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、――は――だけど……私は――だから、別にいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じクラスのＢ子は、性格の悪い女だ。気の強そうな顔に、わざとらしくてうるさい声。下品に着崩した制服は似合ってないくせに自信たっぷりで、自分が一番可愛いと思ってるのが透けて見える。まりっぺの足元にも及ばないくせに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、まりりん、だなんて馴れ馴れしいあだ名を使うのだ。まりっぺと秘密の約束をした私でさえ、まだ名前さえ呼べていないのに。なんて図々しいやつなんだろう。取り巻きとばかり遊んでいるから、他人との距離感も分からないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと、まりっぺだってうんざりしてるに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はまりっぺが怖いんだ。Ｂ子をちやほやしないどころか、自分に集まるはずだった視線さえも奪いかねないまりっぺ。そんなまりっぺが自分に見向きもしないとなれば、どうにか興味を引こうとするのかもしれない。所詮、まりっぺの魅力には勝てないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなＢ子が上から目線でまりっぺに突撃していくのを見ると、腹が立って仕方ない。いつも周りにお友達を連れて楽しそうにしているんだから、そいつらと遊んでいればいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、まりりんにはこういうのも似合うと思うよ。どう、これとか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ……ありがとう。参考にするわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いらいらする。後ろを向いてＢ子を睨みつけてやろうか。そう思いながら、解く気もしない問題集のページの端をこつこつとシャーペンで何度か叩いていると、芯がぱきりと折れてしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……はぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、今は落ちてしまった小さな欠片に気をかける余裕もない。私は溜息を吐いてから、芯のないシャーペンをまたかつかつと紙に叩きつける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おい、まりっぺが迷惑そうにしてるだろ。笑うな。喋るな。出てけよ。……今すぐ立ち上がってＢ子にそう突きつけることができれば、どんなによかったろう。でも、そんなことを叫んだら、まりっぺはどう思うだろうか。タバコを吸っていない彼女に、私は何ができるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だって、私とまりっぺは灰色の糸で結ばれているのだ。手繰っているうちに広がって消えてしまいそうな、煙のように弱々しい糸で。不意に風でも起こしてしまったら、その糸はぷつりと切れてしまうだろう。それが怖くて席を立つことすらできずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それでさー、まりりん。放課後、カラオケ行かない？　今日は――と――と、あと――くんも来るんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……ごめんなさい。今日は家の用事があって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この前もそう言ってなかった？　せっかく誘ってるのにさ〜」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、Ｂ子は仲の良い友達みたいにへらへらと二言三言発した後、「じゃあね、まりりん！」と言って教室を去っていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が退散するのを横目で見届けて、私は正直ほっとしていた。まりっぺの作り笑いを見たくないのに、私には見ていることしかできないから。静かに身を守ろうとしている自分のことを、じっと見つめていたくはなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「私、赤沢さんのこと、やっぱ苦手だわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂちゃん、落ち着いて。ここ、一応学校のトイレなんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はまりっぺにあしらわれた後、決まってトイレで取り巻きにまりっぺの悪口を吹き込むのだ。今日も例に漏れず、怒りに任せてまりっぺの悪口をあることないこと言いふらして、取り巻きその一に宥められていた。私は個室でその様子を聞きながら、じっとＢ子の愚かさを実感している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもさー、私、仲良くしようとしてやってるんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂは優しいなぁ。私、顔に出ちゃうからそういうことできないもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーゆーのは、どこに行っても一人だよ。マジでイタすぎ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;取り巻きその二におだてられて、Ｂ子は言いたい放題だ。顔は見えないけれど、その醜悪な表情は簡単に想像できる。まりっぺの孤独な様子を指差して、私たちは仲間でよかったねと確かめあっているのだ。まりっぺは自分で一人を選んでるのに。お前らみたいに群れる必要がないだけなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は窘められたり煽られたりしながら、まりっぺの悪口を繰り返す。容姿のこと、ファッションのこと、嘘ばっかりだ。まりっぺのことなんて全然知らないくせに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;話しているうちにＢ子は興奮してきたのか、途中から「赤沢」と呼び捨てにし始めていた。「まりりん」だなんて寒気のする甘い声は全部演技で、こうやって取り巻きの前で調子に乗るのがＢ子の本性なのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｃ子！　あんた、赤沢のこと好きでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、突然Ｂ子に名前を呼ばれて、身体をびくつかせてしまう。いつの間にか尾行に気付かれていたらしい。彼女たちから私の姿が見えていないのは分かっていたけど、少しでも物音を立てたら動揺が悟られてしまうと思った。黙ってやり過ごそうと思いながら身体を縮こめていると、勢いづいたＢ子はさらに言葉を続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が赤沢の悪口を言うの、いつも聞きに来てるよね。告げ口でもしてんの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ……Ｃ子ってそうなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねー、どうなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺがお前らみたいな卑怯な真似をするわけがない。告げ口なんて頼まれるものか。根拠のないまりっぺの悪口に一つ一つ反論してやりたい気持ちはあったけど、三人を相手にはっきり自分の言葉を伝えるような勇気はなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、出るに出れない空気の中、突然ポケットの中で何かが震える。着信だ。気付かれないようにそっと携帯を取り出すと、通知欄が「赤沢まり」と白く光っているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【今日、付き合ってくれる？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてまりっぺからメッセが？　そうだ、この前連絡先を交換したんだった。突然の出来事に、少し混乱する。初めて私に送られた短いメッセージを何度も読み返しているうちに、まりっぺの「今日は家の用事があって」という言葉を思い出して、顔が熱くなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめん。ちょっと行かなきゃいけないから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は個室の扉を開けると、いつの間にか走り出していた。後ろから聞こえる「おい、待てよ！」という声がなぜか滑稽に聞こえて、妙な笑いがこみ上げてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お前らにまりっぺの魅力が分かるかよ。まりっぺのことを知ってるのは私だけなんだ。分かってあげられるのは私だけなんだ。心の中でそう唱え続けているうちに、Ｂ子のことなんか気にならなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="nickname-1"&gt;nickname 1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それから私は、いろいろな場所でまりっぺの「非行」に付き合った。マンションの非常階段、人気のない公園の隅、手入れされていない神社の裏――当然、そういう場所ではいつも二人きりだ。ネットで調べたところ、何度も同じ場所を使わないのがコツなんだという。場所選び以外に人目を避ける特別な対策はしてこなかったけど、幸いなことにこれまで喫煙の現場は見つからずに済んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕日が当たる古い団地の屋上は、色々なものの時間が止まっている。建材はまだらに黒ずんでおり、所々に錆が流れ込んでマーブル模様を作っていた。雨が降ると隅に集まったごみがまた広がってしまうから、今日みたいな晴れ続きの日にしか使えない。コンクリートの床材や貯水槽の鉄骨が濡れていると、まりっぺは嫌な顔をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺの隣でリラックスしきれない私と、私の隣で悠々とタバコをくわえるまりっぺ。微妙に噛み合わない二人の間は、いつしか沈黙で満たされていく。私はそのぎこちない空気が初々しい恋人同士みたいで好きだったし、まりっぺも、そういう奇妙な静寂を楽しんでいたと思う。週に二度か三度は、こうして青春の黄昏みたいな時間を静かに過ごしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは、タバコを吸いながら私にいろいろなことを話してくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、モデルになりたいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロリータファッションが好きで、昔から自分で服を作っているらしい。既製服の可愛いポイントを取り入れつつ、高身長を活かしてオリジナリティを模索している、とか。ロリータのことはよく分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は、裾にぐるりとチェリーが散りばめられた黒いワンピースだ。首元にはＵ字に大きく白いフリルが入っていて、金色のボタンがよく目立つ。大きなリボンはスカートと同じチェリー模様で、まるで綺麗な返り血みたい。ツインテールを留めるシュシュは服に合わせた白黒で、そこにストロベリーのチャームを添えてシックな色合いをカバーしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、まりっぺのファッションへのこだわりはすごいと思う。私は動きやすいようにデニムとスニーカーで付き添ってるけど、まりっぺは何度言ってもふわりと広がるロングスカートだけは絶対に譲らないのだ。逃げやすさのことは二の次らしい。「見張りのあなたが動ければ、それでいいじゃない」なんて言われちゃったら、何も言い返せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;相槌を打ちながら、ぼんやりと横顔を眺める。夢の話に興じるまりっぺは、いつになく楽しそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、本当は高校なんて行かなくてよかったのよ。でも、パパが許してくれなかったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺの夢を知ってもなお、せめて高校はちゃんと卒業するように言われたらしい。まりっぺがモデルになって失敗するわけなんかないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どこも一緒だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;母には、どこでもいいから大学は出ておいたほうがいいと言われていた。だから、私はその言葉を自分が立てた目標だと思い込みながら、なんとなく高校生らしい生活を送ってきたつもりだった。なんとなく行けそうな大学を選んで、それなりに勉強して合格する。夢とか人生のことはその後で考えても遅くない。それでなんとかなるはずだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな私が、今はまりっぺの隣で非行のお手伝いだなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、モデルになるなら、なおさらタバコは吸わないほうがいいんじゃないだろうか。未成年喫煙のせいでミラクルティーンを降ろされたモデルもいるらしいし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私に指図しないで。タバコを吸ってるモデルなんて世界にはたくさんいるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺはいらついた声でそう言ってから、いつもより少し長い吸い殻を灰皿にしまいこむ。普段ならもう一本という場面だけど、私が水を差してしまったせいで小休止となった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;怒っているかもしれない、という私の微妙な意識のせいで、この沈黙が苦しく感じられる。たぶんまりっぺはもう気にしていないし、ぐちぐち責め立てる気もないことは分かっているのに、心地いいはずの静かな空気が逆に私を締め付けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめん……うん。赤沢さんなら、きっとなれるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ありがと。嬉しいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは手持ち無沙汰な風に明るい水色のシガレットケースを弄ぶ。薔薇の刺繍をあしらったおしゃれなケースだ。古着をリメイクしたポーチやミニティッシュケースをいくつか持っていたから、これもおそらく手作りなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｃ子の夢は？　教えてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょうどタバコを一本吸い終えて、まるで次はあなたのターンよとでもいうように私に向き直る。私の夢？　そんなの、このまま普通に高校に通って、卒業して……それから？　それから、私は何をしたかったんだっけ？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりあえず申し込んだ進学希望者向けの補習には、彼女と「約束」したあの無断欠席の日からもう行っていない。最初から強い目的意識もなくだらだら通っていただけだから、足を止めるのは簡単だった。三回休んだあたりで担当の数学教師に呼び出されたから、進路を迷い始めたのでしばらく行けません、と伝えて後は知らんぷり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悪い意味でただ前に進み続けていた私にとって、そういう嘘を吐くのは新鮮で、少し息苦しくもあった。でも、まりっぺの隣にいられるなら、もう受験さえもどうでもよかった。この瞬間は、確かに私の意志で選び取ったのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか、私の生活はまりっぺを中心に回っていた。自分の夢なんて考えるのを忘れてしまうくらいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、まりっぺはどうだろう。みんなの視線を集める世界的なモデルになって、颯爽とランウェイを歩く……そんな彼女の夢の中に、きっと私はいない。私は、テレビの前で彼女の凛とした姿に見とれることしかできないだろう。まりっぺに視線を送る大衆の一人として。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺが高校をやめてしまわなければなんでもよかった。あの時は、それが一番の目的だったから。でも、タバコだって、私たちはすぐに堂々と吸える年齢になる。そうしたら、私とまりっぺの「約束」は終わってしまう。喫煙を言い訳にして彼女に寄り添い続けても、必ず終わりが来てしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は……まりっぺと一緒にいたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりっぺ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、まりっぺ。まりっぺは、ずっとこうして私と一緒にいてくれるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「落ち着きなさいよ。Ｃ子、痛いわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつまでも一緒にいて、私を置いていかないで、私も連れていって……と心の中で叫んでいるうちに、ざらざらとしたコンクリートの床に手のひらが擦れる感覚がして、その痛みで我に返る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇＣ子、あなた大丈夫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺが私を見下ろしていた。一方の私は、バランスを崩して尻もちをついたらしい。その拍子に手が擦れたのだ。まりっぺは自分の身体を抱くように立っている。じっと警戒する様子を呆けた顔で眺めているうちに、まりっぺの肩を強引に掴んでいたことを思い出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめんね……ごめん、赤沢さん。私ってば、なんてことを……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;焦りと混乱で動けない私は、へたりこんだまままりっぺを見上げている。ちょうど夕日が沈む頃で、まりっぺの後ろから燃えるような夕焼けの光が差していた。彼女の脚から伸びた長い影が、私の上をぐにゃりと曲がって逃げていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたの夢、訊いちゃいけなかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うの。ただ、私、怖かったから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心配そうに私の顔を覗き込む。怖かった、という気持ちに間違いはないけれど、きっとまりっぺには伝わらないだろう。彼女との将来を悲観していた、なんて。でも、それでよかった。まりっぺの邪魔になるような思いを伝える意味はないし、結果の分かっているような告白をしたくはなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは少し首を傾げてから「それなら、いいんだけど」と言って、私に手を差し伸べる。そして、立ち上がった私にタバコを差し出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夢なんて、すぐ見つかるわ。一本吸ってみる？　気分がよくなるわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、まりっぺには私が夢を見つけられなくて焦っているように見えたらしい。あながち間違っているわけではないけれど、こればかりはタバコを吸ってもどうにもならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺのタバコは、特別なタバコなんだという。タバコ屋さんでは手に入れられない特別なタバコだから、とっても美味しいのよ、と指を揺らす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「特別、って？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「特別は、特別よ。こうやって付き合ってくれてるあなたも、特別よ？　特別だから、あなたにもあげるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はタバコに詳しくないから、美味しいと言われてもよく分からない。でも、普通のお店で売ってもらえないのだから、当然誰かから譲ってもらうことにはなるだろう。だから、特別と言っても、単に協力者がどこかから仕入れてまりっぺに渡しているだけなんだろうなと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、協力者って誰？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;麻薬の売人というのは聞いたことがあるけれど、未成年にタバコを売り捌くのは、もっと違う存在だろう。まりっぺと仲が良くて、まりっぺが困った時に頼っているような、もっとプライベートな協力者――私よりも頭が良くて、頼りがいのある誰か。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;革の携帯灰皿のことが頭をよぎった。まりっぺが、私以外の誰かに頼ってる？　そんなの、嫌だ。まりっぺとのさよならを覚悟しているはずなのに、私は「特別」という言葉に嫉妬していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が気まぐれで与えてくれたこの時間のせいで、私以外にも向けられた「特別」に、どうしようもない敵対心を抱いている。まりっぺの「特別」は嬉しいけど、私だけの「特別」じゃない。抑えられない独占欲の自覚が、さらに私を惨めな気持ちにしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改めて、まりっぺが差し出したタバコを見つめる。いざ吸い口を向けられると、非行をしているという現実感がどっと私に襲いかかってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、彼女のタバコを見逃してあまつさえこうして今まで付き合ってきたことは、立派な非行だろう。でも、自分が本当にタバコに手を付けるところを想像すると、ドキドキして手の先が冷たくなった。まりっぺと同じ香りが身体中に巡る高揚感と、非行に手を染める興奮が一緒になって、太ももの辺りがぞくぞくとした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、そうよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして逡巡しているうちに、まりっぺは差し出したタバコを自分の口に戻してしまった。そして、くわえたタバコに火を付ける。私はライターを持っていなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら、Ｃ子。こっち」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ど、どうしたの、赤沢さ――ん、むっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を呼ぶ声に反応して歩み寄ると、まりっぺは私を優しく抱きとめて唇を重ねた。まりっぺの吐く息は甘くてピンク色で曖昧で、それだけでもう何も考えられなくなる。頭がストロベリーの煙で満たされていくうちに、目の前にいる彼女の表情はよく見えなくなって、今なら殺されたって分からないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何秒か、何十秒かそうしていた。小さく息をしているうちにふわふわとした煙の味が薄れて、徐々に夕日に包まれた屋上の風景が戻ってくる。その光景は、目を閉じる前よりもずっと綺麗だった。光がきらきらして、まりっぺの綺麗な髪の毛を一本ずつ彩っている。ぼんやりとした光の影の境目がぐっと伸びて、私と混じり合っていくように思えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ、美味しい？　これなら、吸ったことにはならないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりっぺ……ねぇ、もしかして、私のこと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかして、私のこと好きなの？　そんなおこがましい疑念をねじ伏せるように、まりっぺは優しく笑っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、ごめんなさい。電話みたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と、まりっぺの携帯から、どこかで聞いたことのある洋楽の着信音が聞こえる。まりっぺはひらひらと手を振ってキスの中断を告げると、後ろを向いて誰かと話し始めた。一瞬ちらりと盗み見た画面には、「Ａ子」という文字が流れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子？　うちのクラスにはそんな名前はいないし、まりっぺにきょうだいはいないはず。昔の同級生か、それとも幼馴染？　考えているうちに、顔から血の気が引いていくのが分かった。目の前にかかった霧がすっかり晴れて、意識が現実に戻ってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしもし、Ａ？　……うん、うん……ふふっ、なによ、それ。――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じっと耳を澄ます。近況の報告とか、ファッション誌の話とか、夕ごはんのこととか。まりっぺは「Ａ子」とそんなことを話していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄く聞こえる声は確かに女のものだ。それで余計に腹が立つ。携帯灰皿の男以外にも、まだ仲のいい友達がいるってことだから。綺麗なまりっぺは、レベルの低い友達とは付き合っちゃいけないのに。Ｂ子とだってちゃんと距離を置いてるのに。どうして？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;待ってよ。こんなの、まりっぺじゃない！　まりっぺはもっと孤高で気高い存在なのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｃ、ごめんね。ちょっと用事ができちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん。また……ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ねぇ、まりっぺ。Ａって誰？　どうしてそんなに楽しそうに笑ってるの？　私には、そんな顔したことないじゃん。まりっぺにそう詰め寄ったって、彼女の笑顔が困惑に変わって、きっとそれだけ。もうどうしようもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺは私にくれたタバコの火を消して、手早く身支度を済ませた。そして「その傷、ちゃんと手当したほうがいいわよ」と言って私の手のひらを指差してから、足早に屋上を去っていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;残された私は、その場に立っていることしかできなかった。まりっぺが与えてくれた優しさが、夕日と一緒に沈んでいく。ピンク色の興奮がじわじわと冷えていく。春めいた凍えるような夕暮れの中で、私の青春は終わりを告げた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;まりっぺが退学した前後のことは、よく覚えていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おそらく、私にとっては突然のことだった。新学期になるまでその事実を知らなかったのだから。結局、最後までまりっぺから別れが告げられることもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先生は家庭の都合と言っていた。それは本当のことかもしれないし、誰かが――私はその時Ｂ子を疑ったけど――まりっぺの「非行」について密告したのかもしれない。ただ、まりっぺの秘密を知っているのは私だけだったはずだから、そういう窃盗じみた侵害を信じたくはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺが退学しても、私以外の学校生活は問題なく回っているようだった。まりっぺを勝手にライバル視していたＢ子は喜んでいたようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。トイレでまりっぺの悪口を言うことはなくなったけど、どちらにせよ、嫌なやつだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真実はどうあれ、それからまりっぺと会うことはなくなった。連絡先は知っていたけど、先延ばしにしていたら切り出しにくくなって、そのまま。まりっぺが私を疑っていたらどうしようと考えているうちに、昔のトーク履歴を見るのさえ嫌になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりっぺのプロフィールのアイコンが七回変わった。今まりっぺが何をしているのかは、もう分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、一回だけまりっぺが口移しで与えてくれたあの味を、まだ忘れられずにいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/sweet-2/"&gt;後半&lt;/a&gt;へ続く）&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ミックスサンド・ベイキング 2</title><link href="https://ama.ne.jp/post/mix-sand-baking-2/" rel="alternate"/><published>2019-01-19T17:02:00+09:00</published><updated>2019-01-19T17:02:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2019-01-19:/post/mix-sand-baking-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;後編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/sugar-jelly/"&gt;Sugar Jelly&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/mix-sand-baking-1/"&gt;前半&lt;/a&gt;から続く）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="3"&gt;3&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃんと、まりちゃんと、三人で付き合いたいの」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;確かに、ＰＡＲＫは三人揃ってこそ今までやってこれた。だから、私たちの危機は、私自身の危機でもある。当たり前だけど、それってすごく厄介なことよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからね、まりちゃん、りとちゃん。私は三人で、私たちで、もっとＰＡＲＫをやっていきたいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルを挟んで私と向き合うことこは、いつになく真剣な表情で私を見つめている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ことこ。一体、何を言ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつものことだけど、ことこの説明は飛躍しすぎていてついていけない。彼女の頭ではすっかりできあがったお話も、要点を散らかしちゃったら台無しだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ずっと、三人一緒がいいの。離れたくないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは分かったわ。でも、もっと根本的に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごく変なことを言ってるのは分かってる。でも、それを私たちの『普通』にしていきたいの。私たちには私たちのやり方があるし、少しずつ探せばいいはずだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ。それじゃ分からないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う……ごめん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっと落ち着いてよね。早口のことこって、面白いけど疲れるわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは「もっと先に進みたい」って言っていた。でも、私たちがこれ以上どこに行けばいいのかなんて、私には分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが持ち込んできた「提案」は、思っていたよりもずっと大きくて、それでいてすぐに解決しなきゃならない難題だったらしい。まるで、砂浜に打ち上げられたクジラみたいにね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、三人が離れ離れになるのだけは絶対に嫌なの。りとちゃんは？そう思うよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。離れるのは、違うと思う。でも、ことこ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;必死に説明することこの横で、りとが平気な顔で座っているのがどうしようもなく嫌になる。りとはそうやって、いつも余裕そうにしてるから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで、全部が他人事だとでもいうようにして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前にも――もちろん、バブルドームの外に出たことが防衛隊にバレた時に――こういうことがあった。防衛隊に拘束されてから、ことこが泣きそうな顔でＰＡＲＫが無くなるかもと言い出したのを思い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、まりちゃんは？どう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;身を乗り出して私に尋ねることこは、私がことこの話を理解してるかは全く気にしていないみたいだった。好きなこと、大事なこと、目の前の危険……考えすぎて周りが見えなくなるのって、ことこの悪いくせだわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ。もっとちゃんと言わないと、分からないよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとも合わせて立ち上がって、その隣でことこをなだめている。ことこは肩を撫でられて少し落ち着いたらしく、身体をソファに戻して深呼吸をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、ことこ。全然話が見えないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うの。私、ただ三人でずっと仲良くしたいだけで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱりだめみたいね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは分かったわ。でも、どうして今さらそんなことを言い出すの？ね、ほら、りとだって――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――りとちゃんにはもう、話したの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが私の言葉を遮る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを聞いてりとに視線を向けると、りとはそれに気付いたようにふいと目を逸らした。いなすような動きに、頭がかっと熱くなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこはそんな視線のやり取りに気付かずに話し続けているけれど、そんな忙しない声も急に耳に入らなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なによ、なによ。ちくちくと、心に嫌な刺激が走る。ガラステーブルの冷たい距離感が、りとと向き合うこの構図が、二人と私を遠く隔てる壁に感じられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人でこそこそ私に隠れて何かをしているんじゃないかって、そんな根拠のない妄想が浮かんでは消えていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私だって別に意地悪を言いたいわけじゃない。落ち着いて話がしたいのに、感情が前に出てくるのを止められない。私が放った言葉でことこが落ち込んでるのも知っている。りとがあんまり大事なことを言ってくれないのも、慣れてきたつもりだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私じゃだめなの？私はやっぱり仲間外れなの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なによ。知らないのは私だけだっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうじゃないよ。ただ、まりちゃんにはしっかり伝えたかったから、まずりとちゃんに相談しようと思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、そうじゃない。今日だって私抜きで、こそこそお出かけ？とっても、楽しそうだわ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばかみたい、ばかみたい。隠し事ばっかりだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違う、違うの。まりちゃん、ちゃんと聞いて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこのはっきりしない様子にイライラする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ずっと聞いてるわ！何が違うのかは全然分からないけどね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら思わず立ち上がろうとしたけれど、急な動きに立ちくらんで足がふらりと揺れてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな私を見て立ち上がるりとの「まり、危ない！」という声さえ嫌になって、私はぐっと床を踏みしめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、本当に嫌だわ！目の前が真っ暗になったみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、落ち着いて。ことこも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りともりとよ。これは三人のことじゃない。どうしてそんなに平気でいられるのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を言いくるめようとする &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; に指をさす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなの、落ち着いていられる方が狂ってるわ。狂ってるのはりとの方よ。なんでも知ってるようなその顔は、ＰＡＲＫの行く末などどこ吹く風とでも言いたげだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、慌てたってどうにもならないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからって、落ち着いていられる？もし、りとが仲間外れにされてもそんな顔できるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。三人なら、きっと大丈夫だよ。ことこだって口下手だけどちゃんと考えてるし、まりも落ち着いて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……もういい。分かったわ。りと、結局あんたはＰＡＲＫなんてどうでもいいのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないって。まり、ちょっと変だよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変なのはりとよ！もっと真面目に考えたらどう？りとって、いつもそうやって――んむっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;衝撃に目を瞑る。とうとう怒ったりとが飛びかかってきたのかも、と思いながらそっと目を開けた時、私の反論は文字通り塞がれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラブファイターシュガースターでも、こんなシーンがあった気がするわ。頭の中に少し残った冷静な部分で、ふとそんなことを考えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん……っ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょ、ちょっと……りとちゃん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの時、ことこが渋谷で見つけた魔法のステッキは確かに貴重な「おたから」だったけど、ことこはどうしてあんなに執着したのかしら？あれを捨てて逃げていたら、私たちは今頃――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――ぷはっ。げほ、げほっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「落ち着いた、まり？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが私から離れると同時に、こらえていた私の息が一気に流れ出す。ソファに倒れ込むように座り込んだ私には、何が起きたのか理解できなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「り、りとちゃん。――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――、ことこも、――？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……まだ――、だから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭の隅で二人の意味ありげな会話が通り過ぎていったけど、それを処理するには流れ込む情報が多すぎる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;怒りの熱さがぐるぐると頭を回っているところに、りとが流し込んできたものが加わってさらに顔を熱くした。私にはどうにもならない奔流が、私の中を駆けていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なにを、したのよ……ねぇ、りと、おかしいわ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、覚えてる？私としたこと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がったままのりとを下から睨みつけると、りとはなおも穏やかな表情で私を見下ろしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;覚えてると訊かれて思い当たるのは、最近よく見る変な夢のことだ。まさか、あれが全部……&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夢じゃなかったっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;囁くような優しい声、耳にかかる息、柔らかい肌が擦れるむずむずとした感覚。まるで恋人同士がするようなそのじゃれあいを、私はずっと夢だと決めつけていた。でも、私が覚えていないだけで――例えば、私がお酒を飲んでいたとしたら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよ、まり。私たち、まりを仲間外れになんてしないよ。だから落ち着いて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……なによ、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最近の違和感の正体がすとんと落ちて、代わりにその現実に対する拒否感が胸を覆っていく。私の大事なところが、りとに台無しにされたこと。あまつさえ、私にそんなイベントの記憶が残っていないこと。そして、この胸が苦しい感覚をりと自身には分かってもらえていないこと。抱えきれない現実が、私に襲いかかってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんなのよ。あんたたち……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気付くと、私の目から大粒の涙が流れていた。泣くつもりなんて、なかったのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりちゃん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか。私のこと、二人で笑ってたんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「笑ってなんてないよ！私、ただ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「三人でＰＡＲＫ？ことこ、よくも私の前で、そんなこと言ってくれたわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは名前を呼ばれると身体をびくっと震わせて、それきり黙ってしまった。後ろめたいことがあるから、そうやってびくびくしてるに決まってる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人でグルになって私を陥れようだなんて！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もういいわ。二人で仲良くやればいいじゃない。ＰＡＲＫなんて、もうおしまいよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駆け出した私は誰にも止められない。「まりちゃん、待って！」と叫ぶ声も、ずっと遠くに離れていく。いくら走っても足りる気がしなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このまま、バブルドームを抜け出して世界の果てまで逃げられればいいのに。りとも、ことこもいない場所に。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「はぁ、はぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;荒い息を整えながら、バブルドームの冷たい壁に寄りかかった。半透明の無機質な硬さが、逃げられない現実を思い出させる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちの現実は、バブルドームの中にある。私たちはここから逃げられない。私の生活の果てはここにある。かくれんぼには狭いくらいの空間が、私の生活の全て。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バブルドームの端っこに来たところで、何からも逃れられないのは分かってる。いずれ、二人が私を見つけるだろう。でも今は、汗と涙でぼろぼろになったひどい顔を、誰にも見せたくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だけ？知らなかったのは、私だけなの……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空を見上げると、ドーム越しのぼんやりとした夕暮れが顔を照らす。散りばめられた色とりどりの装飾が、まるで星空のように私を覆っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バブルドームに差す星の光が緑・赤・青……ひとしきりゆらめいて、目尻から流れた涙が地面に落ちていく。スクーパーズが襲来してから、こんなに泣いたことってあったかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界が壊れて、家族と離れて、壊れそうな心に甘い結晶を振りかける。砂糖漬けになった心が湿って、乾いて、その繰り返し。壊れゆく世界の中で、心が少しずつ固いもので覆われていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが簡単に叩き壊されて、こんな風に自分のことで泣ける日が来るなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バカみたい……バカみたい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が川崎を離れてすぐ――ことこが原宿に移住してくる前――ＰＡＲＫにはりとと私しかいなかった。とはいえ、二人で暮らしていたのはほんの数週間だけだったし、今となってはもうずっと昔の話だけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初対面のりとが、最低限の家事分担を済ませてから、そのまま黙ってベースメントで荷解きを始めてしまったのを思い出す。これから一緒に暮らすのに、私とおしゃべりする気もないなんて、口数が少ない変な子だと思ったものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かと言って、自己主張ができないというわけでもなく、ふとしたきっかけで言い合いになったりもした。りとの冷めた視線に腹を立てたこともあったけど、しばらく一緒に過ごして、結局のところ周りに興味がないだけだと気付いたのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、ことこがＰＡＲＫに移住してきたのだ。ことこは明るくって、りとにも臆せず甘えていくし、私の話し相手としても不足ない。ことこと一緒に暮らし始めてから、二人よりも三人の方が上手くやっていける、という確かな実感があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一人でいるのが好きなりと、明るくて元気なことこ、そしておしゃべりな私。性格が違う三人だけど、ＰＡＲＫをやっていく上ではそれもいいスパイスだと思っていた。だから、それなりに上手くやってこれた……はずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとってば、何を考えてるのよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に、私に隠れてりとがことこと仲良くしていたって構わない。ことこなら、きっと私よりもりとと上手くやっていけるのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、こんなのってある？二人で暮らしたいなら、二人で勝手にすればいいじゃない！何も言わないで、私を傷つけてまで追い出そうっていうの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これから、どうすればいいのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕日が沈んで、ドームに貼り付いた装飾もすっかり暗くなった。蒸し暑い空気だけが残されて、気だるさと一緒に身体を包み込んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バブルを通して見る星のきらめきは、とても弱々しくて頼りない。ドームの夜はとても暗いから、安心して出歩けるのは明るいストリートくらいだろう。武器もなしにこんなドームの端に来るなんて、度胸試しもいいところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとと一緒に出歩くことはあったけど、その時もスケボーと武器の準備は万端だったし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、りとにはもう頼れない。大きなスケボーに二人乗りで夜闇を駆けたのも、物陰に潜むスクーパーを退治して回ったのも、もう昔のことだ。今ここでスクーパーズが現れても、もう私にはどうしようもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう、どうなったっていい。そう思いながら顔を上げると、狭い路地から影が飛び出してくるのが目に入った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とっさに体勢を整えようにも、どうにも身体に力が入らない。現れたのは、ギャングかスクーパーズか、いや、もしかしたら――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり。ここにいたんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この声は、りとだ。さっと飛び出した影は、スケボーに乗ったりとだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;緊張と安堵で心臓がばくばく言っているのが分かる。生命の危険は過ぎ去ったけど、薄暗い闇の中から浮かび上がる聞き慣れた声に、むしろその鼓動は一層高まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あら、りと。早かったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はその動揺を知られないように、寄りかかった身体をゆっくりと起こしてりとに歩み寄った。背中に回したぎょにそライフルには、予備のソーセージがいっぱいに詰められている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何も持たないで出ていったから、心配したよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？敵なんか、一体も来なかったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがスケボーを蹴り上げて、アスファルトと一緒に小気味いい音を立てる。スピード重視の小さなエンジン付きスケボーのデッキテープが目に入って、隠したはずの涙がじわじわと視界を歪めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「帰ろう、まり。ことこも心配してるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なによ、今さら。ＰＡＲＫはおしまい、これでいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おしまいじゃないよ。早く戻ろう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に向けられたりとの目は、やっぱり慌てているようにも怒っているようにも見えない。スケボーで駆け回ったせいで息は乱れているみたいだけど、今はそれすら気に食わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おしまいよ。私がいなくなればいいんでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「三人じゃないと、ＰＡＲＫはやっていけないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと待ってよ。りと、あんたがそれを言うの？私たちをぶち壊した、あんたが？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ぶち壊してなんか、ないってば」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの返答がぶっきらぼうになって、怒り始めているのが分かる。けんかの始まりはいつもこうだ。りとの感情を逆撫でするような言葉ばかりが口から出ていって、止められない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこがいなかったら、こうやってけんかばかり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ねぇ、ことこがいたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大体、ことこはりとのことが好きなんでしょ？ことこも可哀想よね。好きな子が他の子にちょっかいを出す軽い子だったなんて！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり！流石にそれは言いすぎだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの語気が強くなって、ちかちかとした感覚が蘇る。ワインを詰めた水鉄砲を携帯していたら、きっとまた大爆発していたところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、何？りとは本気で私が好きだっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きだよ。好きだけど、だから何なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、何って……そんなにはっきり言わないでよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとを責めるつもりで放った言葉だったから、ストレートな答えに面食らってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ごめん。今、すっごくいらいらしてるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、奇遇ね。私もよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの不機嫌そうな表情に応えるように、私はりとを睨みつけた。りとはそんな私の視線にも動じる様子はなく、面倒そうに溜息を吐く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヒートアップしかけた二人の間に、少しの沈黙が流れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、ことこはどうするのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうもしないよ。ことこだって、まりが好きって言ってたじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何それ？意味不明すぎ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこはりとが好きで、りとと一緒になって私を陥れようとした。でも実は、当のことこは私のことが好きで、りとも私が好きだったの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなの、めちゃくちゃだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん私だってことこは嫌いじゃないし、りとのことだって……りとのことだって、たぶん、好きだ。あんな乱暴をされていたと知る前は、りとを見てドキドキしたこともあった。今だって――いや、今はもう、ドキドキなんてしないけど！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこみたいに分かりやすい可愛らしさは少なくても、りとがすごく魅力的な女の子だってことは、私が一番よく分かっているつもりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、そんなおかしなことってある？りとは変だと思わないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、あんなおかしなことをして、あんなおかしな告白を受け入れさせようとするりとに腹が立っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変じゃない。ことこなりの告白だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変よ。そもそも、告白は二人でするものだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三人でする告白なんて、ふざけてる。大事な気持ちのやり取りは二人でするものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰と誰が好きとか、誰が何番目に好きとか、そういうのは恋の分からない小さい子がするから許されるのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり。常識に縛られないで。私たちは私たちなりに考えてやっていこうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「常識？バカ言わないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みんながお互い好き同士で、それをはっきりさせないのが「私たちらしい」ですって？常識なら何でも無視すればいいってもんじゃないわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、何より気に食わないのは、二人がその「常識に縛られない考え方」を共有できているってことだ。二人だけが分かり合っている雰囲気も、私がないがしろにされてるみたいでむしゃくしゃする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんたたちは何にも分かってないわ。 &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; と &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; が私が好きっていうのも、どうせ嘘なんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――っ！ま、まり！いい加減にしてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉に反応して、りとがみるみる怒っていくのが分かった。私を見上げるりとの視線が、静かに突き刺さる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうやって、なかなか見えないりとの感情が露わになると、穏やかな彼女の表情が崩れると、少しだけ安心した。でもそれは、同時に私をひどくイライラさせるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それはこっちのセリフよ！三人でとか好きだとか、そんな風に言いくるめれば私が落ち着くとでも？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりっていつもそうだよね。どうでもいいことばっかり気にしてさ、肝心な時に――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、もう！あんたって本当に分かんないやつね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人でこそこそしないで。私をちゃんと見て。私のこと、もっと大事に扱って！もう止まらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言葉を遮って、私はりとに指を突きつけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一応言っておくわ、りと。私はね、私が一番じゃなきゃイヤなの！どんな時でもね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;王子様が来てくれると思ってた。昔は……そうね、スクーパーズが来るまでは、ずっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お姫様が王子様と結ばれて幸せになる絵本もいっぱい読んだし、友達と理想の王子様の話をしたこともあった。忙しそうな両親は私の理想の将来とは違ったけど、ママは何かにつけて「素敵な王子様が迎えに来るわ」なんて私に言い聞かせていたものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;原宿に移住してからも、ママの言葉はぼんやりと私の思考を覆っていた。いつかスクーパーズが退治されて、みんなが自由に暮らせるようになったら、きっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと、どこからともなく王子様が現れて、私は花嫁になるの。丘の上の教会で、綺麗なドレスを着て、みんなが祝福してくれるの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私の夢を笑わないでよ……りと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、りとの言う「私たちらしさ」には納得できなかった。私の夢を笑われているみたいで腹が立った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「絶対に笑わないよ。まり、だから泣かないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――っ、触んないで！ほっといてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが私の頬に触れる感触で、自分が涙を流しながら喚いていたことに気付く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;涙って、こんなに出るんだ。そんなことを意識してしまうと、さらに涙が溢れ出してくる。声を上げて泣くなんて、恥ずかしい。見られたくない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、声が抑えられなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私……ううん、私たちはまりの夢を笑ったりしないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しゃがみこんだ私の頭を、りとの手が押さえるように撫でつける。上から聞こえてくるりとの優しい声は、嘘を吐いているようには思えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、りとは、私の王子様になってくれるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。でも、私だけじゃなくて、ことこも王子様だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……私の王子様は、二人もいないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は思わず顔を上げる。私を見下ろす &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; と目が合って、そのまま。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いるよ。私たち、三人だもん。まりだって、王子様になっていいんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ばかみたい。ことこの受け売り？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよ。私なりの解釈っていうか……ことこも、あんまり分かってないみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、りとはことこの「提案」について、改めて彼女なりの解釈を加えながら教えてくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一対一で付き合う関係が絶対じゃないこと。みんなが納得すれば、何人で付き合っても誠実だってこと。そういうお付き合いについて、昔の人も悩んでいたこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが、ことこの考えている未来に一番近いってこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;王子様が二人もいたら、きっとけんかになってしまうだろう。でも、それがりととことこなら？二人が王子様だったなら、私を奪い合うのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それとも、三人で上手くやっていけるのかしら？今までとは違う関係で、今まで通り三人で。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「結局、みんな離れ離れになっちゃうのが怖いのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……そうだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、私が勢いに任せてＰＡＲＫから去ったとして、明日から生き延びることができるかは分からない。このままじゃ原宿で夜を凌ぐのもままならないし、バブルの外ならなおさらだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこには思わずあんなことを言ってしまったけど、三人でＰＡＲＫをやっていきたい、やっていくしかないという気持ちも当然分かっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、まりの花婿姿も見てみたいよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、りとが私に手を差し伸べる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな優しさに素直に応えるのも恥ずかしくて、私はりとの顔を見ないようにその手をとって立ち上がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんて最悪なプロポーズなのかしら。りとらしいけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、ほんとの気持ちだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、誰かの代わりになったりしないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこの代わりなんかじゃない。私たちは、誰が誰の代わりにもならないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなこと、言われなくたって分かってる。でも、みんなが花嫁だとか、みんなが花婿だとか、そんな理想論が簡単に実現できるようにも思えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、私たち、これまで三人でいっぱい色んなことをしてきたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;続きを促すように、りとが頷く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、今回ばっかりはすごく不安なの。ＰＡＲＫがだめになってしまわないかって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たちなら大丈夫だよ。ことこもいるし、私もいるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、そうよね……それは、分かってるけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バブルの近くの探検も、ずっと遠くの探索も、危険は色々あったけどなんとか生き延びてきた。ＰＡＲＫだって、三人でいつもベストなものを作り上げてきたつもりだ。りととことこがいれば、このめちゃくちゃな世界の中でも生きていける気がしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、きっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にできるかしら。口の中からそんな言葉が出そうになったけど、いつの間にか溶けて消えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ。ちょっとだけ、私たちなりの『非常識』をやってみましょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;王子様が二人いるのも、悪くないかもね。私がそう言うと、りとは「まり、ありがと」と小さく笑いかけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、楽しくなかったらすぐやめるけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、それがいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たんっ、と軽やかにシューズを鳴らしたりとが、ずっと抱えていたスケボーを地面に下ろす。辺りはすっかり暗くなっていた。もう帰らなきゃ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これからの私たちがどうなるのかは分からないけど、今はただ、ＰＡＲＫに戻ってゆっくりしたかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ＰＡＲＫへの帰り道。りとが構えたぎょにそライフルが、歩くたびにかちゃかちゃと音を立てる。私はその陣形に収まるように、スケボーの後ろをついて歩いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、りとってほんとに私のこと好きなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きだよ。さっき言ったじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが私を好きだなんて、思ってもいなかった。性格も全然違うし、何かあるとすぐけんかになっていたから。ことこがいなかったら、二人の共同生活は一年と待たずして解消されていたことだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかして、私が好きでちょっかいをかけていたのかしら？りとも可愛いとこあるじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、どうしてあんなにはっきり告白したのに、私の前で平気でいられるのかしら。その余裕さは、やっぱり気に入らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしかして……一緒にお風呂に入ってる時とかも、私のこと気になってたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、そんなことないよ。ことこもいるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好きな子のあられもない姿なのに……とは思ったけど、確かにそうかもしれない。シャンプーハットを装着して頭を洗うことこを見ていると、まるで家族でお風呂に入っているような気分になるし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ、そうだ。まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がひとしきり &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; の言葉を引き出し終わったところで、今度はりとが振り向いて私に呼びかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が来なかったらどうする気だったの？こんな危険な場所なのに、武器も持っていかなかったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうにもできないのは、りとも分かってるでしょ？ＰＡＲＫを飛び出した時は、もうどうなってもいいって思ってたくらいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふーん……そっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;答えを聞いたりとは、私をじっと見つめてから、不機嫌そうに首を横に振る。そして、とうとうため息を吐いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりのそういうとこ、やっぱり嫌かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はぁ？さっきは好きって言ってたじゃない！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あー、うん。ちゃんと好きだよ、好き好き」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;面倒そうに答えるりとは、あしらうようにくるりと背中を向けて歩き始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、待ちなさいよ。……何なのよ、もう！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すたすたと歩くりとの横に並ぶ。私を流れる夏の空気が、いつもよりすがすがしかった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="4"&gt;4&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ベースメントに戻ると、さっきまで三人で掛けていたソファの端で、ことこが子供みたいに泣きじゃくっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄暗い部屋の中で、ガラステーブルの周りだけが明るく照らされている。ことこはその光から逃げるように、上からタオルケットを被って小さくうずくまっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ、うぁ……りとちゃん、まりちゃん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひくひくと苦しそうに息を吸うことこが、細かく肩を震わせる。呼吸さえもままならないその姿は、触ったら壊れてしまいそうなほどに弱々しい。そんなことこを見ていたせいか、また涙がじわりとこみ上げてきて、私は拳をぐっと握りしめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこがこんなに泣いているのは初めてだ。ＰＡＲＫを失いかけた時、りとが行方不明になった時、私がことこに言い過ぎちゃった時……色々あったけど、今までのことこなら、歯を食いしばってどうにか泣かないようにしていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、なおさら今が私たちにとって大事なタイミングなんだと意識する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、ただいま。まりも帰ってきたよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとはそう呼びかけると、まるで自分の役割を終えたとでもいうように、そのまま座り込んでスケボーの手入れを始めてしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、りと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小声で呼びつけると、りとは私を見上げてにへらと笑う。 &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; とのことは、私に任せるつもりらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう時って、普通は三人で反省会でもするんじゃないの？そんなにのびのびしてると、逆に感心しちゃうわ！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その……ことこ、悪かったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スケボーのウィールをくるくる回してオイルを差すりとを尻目に見ながら、ことこの揺れる背中に向かって呼びかける。帰ってからのことは &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; が取り持ってくれるとばかり思っていたから、最低限の言葉しか出てこない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは私たちが帰ってきたのに気付くと、振り向いて涙でいっぱいの顔をこちらに向けた。ばさりと青色の帽子が落ちて、びしょ濡れの瞳が目に入る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりちゃん。あのね――っ！こ、これは違うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、ことこは泣いているのを隠すように慌てて目を拭った。隣に座りながら「目が腫れるから拭いちゃだめよ」と諭すと、ことこは小さく頷く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タオルケットから顔を離して私を見上げることこの顔には、不安と焦燥が映っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめんね。私、まりちゃんを傷つけちゃった……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたのよ、ことこ。クラゲでも目に入った？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……そ、そうかも！え、えへへ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが弱々しい笑い声を上げる。無理に笑っている様子は痛々しいけど、いつも明るいことこがしおらしく謝っているよりはずっとよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこの考えてること、りとに色々聞いたわ。ちゃんと言ってくれなきゃ、分からないじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう口をとがらせると、ことこは「ごめんね、まりちゃん」だなんて、また下を向いてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なによ、調子狂うわね。いつもみたいに冗談めかして笑ってくれればいいのに、これじゃまるで私が本当に怒ってるみたいじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「冗談よ、冗談。もう分かったから、いいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうだよね！私、ちょっと焦ってるのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分かってる。ことこはまだ冗談を言う余裕がなくて、今は私がことこを元気づけなきゃいけない場面だってこと。でも、こういう時にどうすればいいのかは、やっぱり分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつまでもうじうじしてることこにも腹が立つけど、こんな時まで素直に謝れない自分にもイライラしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇことこ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言葉が続かない。後ろからシューズを磨く音が聞こえてきて、次の言葉を急かされているような気分になる。沈黙でいっぱいになったソファは、座っているだけで息苦しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな重たい時間が流れてから、ことこが顔を上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、まりちゃんをだましたりとか、そんなことは絶対にしないから。さっき三人で話したことは、絶対に冗談じゃなくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるわ。私たちは私たちなりに、でしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきまでけんかしていたりとの言葉を、今度はそのまま繰り返す。初めに聞いた時はすごく気に食わなかったはずなのに、今はまるで自分の言葉のように口から出ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を聞いたことこは、一瞬きょとんとして、それから目を見開いた。そして、残った涙もそのままに、みるみる明るい表情を取り戻していく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうなの！資料によると、昔から色んなお付き合いの形が考えられててね、それを応用すれば、三人でずっと一緒にいられると思うんだ。だから――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが私の手をぎゅっと包み込んでぶんぶんと揺らす。まるでことこの尻尾になったみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちなりに。私たちなりの。私たちだからこそ。振り返ってみると、ＰＡＲＫはずっとそうやって進んできた。焦ってたのは、私の方なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ。いっぺんに言われても分からないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……ごめん。えへへ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきとは違う、安心する笑い声。緩んだ両手から、ことこの安堵が伝わってくるようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこの説明を聞いてみると、りとの話はほとんどことこの受け売りだった。まぁ、私の花婿姿を見てみたいっていうのは……そうね、りとのオリジナルらしいけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がりとに襲われているのを見てしまってから、ずっと悩んでいたみたい。それから一人で色んなことを調べたり、色んな本を読んだりして、何とか三人で上手くやっていく方法を探していたのだという。やっぱりことこは、一人で悩んでいたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局、りとが悪かったんじゃない！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でね、まりちゃん。その……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、楽しそうに（ときどき真面目に）話し続けていたことこが、突然言葉に詰まってしまう。と同時に、 &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; と繋がったままの私の右手が、またきゅっと握り込まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちら、と気付かれないようにことこに視線を送る。ことこの目が泳ぐのに合わせて、ひんやりしていた両手が少しずつ温かくなって、私の体温より熱くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なぁに？はっきり言ってくれなきゃ分からないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分からないなんて、嘘だ。今から何が始まるかなんてすっかり知っていたけど、知らないふりで焦らしてしまう。ことこからじわじわ伝わる熱が、私を意地悪な気持ちにさせていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うー、と小さく唸っていることこの顔を覗き込む。目が合うと、ことこは小さく頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃんとりとちゃんと、三人で付き合いたいの。それじゃ……だめかなぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い終えてから、恥ずかしそうに下を向いてしまう。ことこは手をずっと強く握ったままで、身体を縮めるように腕を自分の方へきゅっと寄せた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;告白としては、ちょっとイマイチだ。私の理想の王子様は、こんなに自信なさげな告白なんてしないもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、 &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; らしい言葉だなって思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん、そうね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;握った手を揺らしながら、考えるふり。ことこの微妙な不安につけこんで、仕上げのようにゆっくり焦らしてみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、いいわ。ことこの考え、もっと聞かせてよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん……！嬉しいよ！え、えへへ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の返事を聞いたことこが、また顔を上げてぱっと明るい笑顔を見せる。さっきから忙しい子ね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「期待してるわ、ことこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！私、頑張るから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここ数週間の違和感がすっかり消えて、肩の荷が下りた気分だ。ほぅ、と軽く息をつくと、いつもの調子が戻ってきた感じがする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、りと！あんたも、そろそろこっちに来たらどうなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら振り向くと、りともちょうどスケボーのメンテナンスを終えるところだった。赤いキャップのスプレー缶をしまい込むりとは、片付けの手を緩めずに顔を上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ……はいはい。まりは元気いっぱいだね。さっきまであんなに泣いてたのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいわね。もう誤解は解けたわよ。あんたこそ、ちゃんと &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; の話を聞いたら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;からかうような笑い声も、今は心地いい。バタン、と工具箱が閉まる音が聞こえて、作業の終わりを告げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はもうお昼に告白されたもん。ね、ことこ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、りとがソファに寄りかかって、後ろからことこの肩に腕を回す。ことこもそれに応えるようにして、私に重ねていた手の片方をりとに添えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがことこの頬に顔を寄せて囁いているのを見ると、まるで本当の恋人同士に見えてしまう。ちゃんと &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; を真ん中にして三人で手を繋いでいるはずなのに、私だけがちょっと離れているような気持ち。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なによ、やっぱり二人で楽しくやってたんじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まりちゃん……違うよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;勝手な寂しさに身を任せて拗ねてみせると、慌てたことこがまた私の手を握ってくれる。振られた &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; はことこの頭を撫でながら、今にも笑い出しそうな表情で私を見つめていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ことこの告白が終わってから、りとも交えて三人で少しだけ真面目な話をした。並んで座るりとと私に向かい合うように、ことこが座っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――だから、まとめるとそんな感じ。だから、ちゃんとお互いの予定を伝えあったり……とにかくコミュニケーションが大事なの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと待って。それって、今までと何が違うのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと……意識、かなぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、意識？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまで、ことこから示されたのはルールというよりマナーのようなことばかり。私たちが、私が、明日から何をすればいいのかも、どうすれば三人で付き合ったことになるのかも分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、考えてみると、普通の恋人だって契約書を書いたりはしないし、ましてやどこかに登録を出したりはしないのだ。結婚ですら、防衛隊の名簿課に届ける必要はなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、二人で付き合うのが当たり前だったから、私たちの新しい関係を確かにしてくれるものがないのは少し不安を感じる。新しいことは、やっぱり少しだけ怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お互いにお互いが好きって信頼しあう、とか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら。私たち、ずっと信頼しあってるじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、そうだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三人で、三人で……と構えていたから、意識だけ変われば解決、と言われても面食らってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……例えばね、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言葉に詰まることこに、りとが助け舟を出す。私の名前を呼んで立ち上がったりとが、ソファに回り込んで私の後ろに立った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こうやって、いきなりぎゅっとしてもいいんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いきなり何よ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、後ろから私を包むように抱く。首元に感じるりとの体温が――暑苦しいはずなのに――ひんやりした心地よさを思わせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー？まり、怖がってるみたいだから。ことこの言ってること、あんまり分かってないでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;髪と囁き声が擦れて耳がくすぐったい。思わず変な声が出そうになるけれど、 &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; と同じやり方で丸め込まれるのも、何だか気に食わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、りとも分かってないんじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ。うん、そうかも。これから、私たちのスタイル見つけなきゃね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;付き合うと言っても、私たちはあんまり変わらないんだと思う。明日からも、一緒に暮らして、一緒にＰＡＲＫをやっていくだけで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、もっと素直になりたい。ちょっと大胆になりたい。こうやって背中に感じる熱を、ちゃんと受け入れられるように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんまり気にしなくていいんだよ。昔の人とか、決まりきったルールとか、私たちには必要ない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、本当にやっていけるのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ、まり。ことこもいるし。三人でやっていけばいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、りとに合わせてテーブルの向こうに視線を送ると、どうも &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; と視線が合わない。何だか私たちに見とれているみたいだ。少しして、やっと視線に気付いたことこが私たちに手を振った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、のぼせちゃったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、違うの。なんか幸せだな〜って……あ、そうだ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが突然、「いいこと」でも思いついたような表情で立ち上がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「新しいバスボム、ちょっと試してみない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲフェアの在庫が入った箱を探し始めることこ。手のひらに乗せて見せてくれたのは、新作の青いバスボムだった。爽やかな水色にシーソルトとお肌にいいオイルが添えられているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこって、ほんと一緒に入りたがりやさんよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって久しぶりなんだもん、みんなでお風呂！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皮肉で返しても、ことこは「えへへ〜」と笑うだけ。横を見ても、「うん。じゃあ、一緒に入ろっか」だなんて楽しそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう！りとったら、ことこには甘いんだから。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="5"&gt;5&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、私とのお風呂でそんなこと考えてたのね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お風呂を上がってから、まりの機嫌がすこぶる悪い。どうしてだろうと考えてみたけど、おそらく、私と &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; でまりにいたずらしたからだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっき、ちゃんと三人で付き合うって話もしたから、もう受け入れてくれるのかなって思ったんだけど。まりのことは、やっぱりよく分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう &lt;em&gt;まり&lt;/em&gt; は彼女だし、いいかなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうだけど……でも、だめなものはだめ。ムードってものがあるでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逃げるようにお風呂を去ったまりは、ヘアタオルにバスローブを身に着けて私たちを待ち構えていた。仁王立ちで怒っている姿には、いつもの可愛いバスローブは似合わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっとえっちでやっぱり可愛く見えるその姿に、どうも気が抜けてしまう。でも、ここで「まりも流されてたじゃん」なんて言おうものなら、また家出なんてことにもなりかねないのは明白だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、まりちゃんにすりすりしてみたかったんだ〜」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、ことこが後ろから &lt;em&gt;まり&lt;/em&gt; の腰に抱きついた。久しぶりに三人でお風呂だったから、とっても楽しそう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背中から伝わるその勢いに、 &lt;em&gt;まり&lt;/em&gt; もひるんでしまうけど、慌てて首を振って我に返った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「からかうのはやめて。私は真面目に言ってるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう時のまりは、すごく面倒だなって思う。私はただ、したいようにしてるだけだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……別にいいじゃん、キスくらい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あんたね！私の大事な貞操を『別に』だなんて！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼそりと呟いた不満が、また &lt;em&gt;まり&lt;/em&gt; の怒りを再燃させる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱりまりは、お姫様なのだ。自分が一番で、いっぱいちやほやされたくて、どんな時でもエレガントにエスコートされたいお姫様。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも私は、そんな &lt;em&gt;まり&lt;/em&gt; の手助けをしたいわけじゃない。三人で助け合って生きていくために、「弱いまりを守ってあげる」つもりはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実のところ、私はあんまり王子様に向いてないのかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、ことこには、む、む……胸まで触られるし！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことを考えている間にも、まりの強い口調は収まらず、いつの間にかことこに飛び火していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめんね、まりちゃん……嫌だった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「嫌じゃ、ないわ。でもね……嫌じゃないのが、なんか嫌なの。まるで私じゃないみたいで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは困った顔でまりを見上げたまま、腕は離さない。そういう甘え方に、まりは弱かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;嫌じゃないけど、嫌。なんてお姫様らしい悩みだろう。まりは深刻そうにしているけど、私から見るとその悩みは小さなことに思えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ごめんね、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私もまりに抱きついて、そのままの姿勢で頭を撫でる。まりは一瞬泣きそうな顔になってから、ふいと目を逸らして頬を膨らませた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「優しくして丸め込もうったって、そうは行かないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、三人でやっていこうって言ったもん。まりのこと、ちゃんと考えるからさ。ほら、食事にしよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルに置かれたミックスサンドは、ことこの担当だ。まりは「ミックスサンドって、やっぱり嫌いよ」なんて不機嫌そうに溜息を吐きながら、バスローブのままソファに掛ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日はクラゲ入りなの！コリコリしてて美味しいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりは「まぁ、不味くはないけど」なんて呟きながらサンドイッチを口に運んでいく。バブル中を駆け回ったせいで、お腹はぺこぺこだったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなまりの姿を横目に見ながら、私もクラゲサンドにかぶりつく。イワシの匂いを流し込むように麦茶を飲み干すと、クラゲの香りと一緒に夏の味がした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-items"&gt;EXTRA: ITEMS&lt;/h2&gt;
&lt;dl&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;古びたミシン&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;まりがずっと使っている小型のミシン。本来はかなり頑丈な機種だが、とても古いのでことこが定期的に修理しないと使えない。微妙な力の加減が必要で、特にりとが使うとしばしば壊してしまう。&lt;/dd&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;りとのリメイクポーチ&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;りとがいつも携帯している &lt;em&gt;まり&lt;/em&gt; の手作りポーチ。大掃除の時に見つかった &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; の古着を加工して作られている。原宿の一般的な街歩きに必要なグッズの他に、おやつのぎょにそが入っている。&lt;/dd&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;青いシャンプーハット&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;ことこが毎日使っている青いシャンプーハット。何度か買い替えているが、毎回いつも子供用の小さなものを買っている。一度だけ卒業しようとしたことがあったが、結局失敗してしまった。&lt;/dd&gt;
&lt;/dl&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10647313"&gt;ミックスサンド・ベイキング&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="http://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes"&gt;PARK Harajuku: Crisis Team!&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://park-harajuku.net/items/571618ff9821cc715e000f8b"&gt;PARK:HARAJUKU Crisis Team! 日本語ver 単行本&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;URAHARA&lt;sup id="fnref:urahara"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:urahara" title="https://urahara.party/"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:urahara"&gt;
&lt;p&gt;https://urahara.party/&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:urahara" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ミックスサンド・ベイキング</title><link href="https://ama.ne.jp/post/mix-sand-baking-1/" rel="alternate"/><published>2019-01-19T17:01:00+09:00</published><updated>2019-01-19T17:01:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2019-01-19:/post/mix-sand-baking-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;前編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/sugar-jelly/"&gt;Sugar Jelly&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="a"&gt;a&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;クラゲはふわふわと舞うのです。ふわふわ、ふわふわと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水中のクラゲはそう大きな声で鳴かないそうですから、やはり私は水槽を前にしてもクラゲの鳴き声に気付けなかったのです。あるいは、水槽のクラゲはもうずっと前から弱っていたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲは原宿でも、ふわふわと飛ぶのでしょうか？きっと、寒い冬の夜をゆっくり散歩すれば見られるのでしょう。澄んだ海の中で。今のバブルドームは嫌というほど濁っていて、この澱んだ空気はクラゲには――当然、彼女にも――暑すぎますから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;間違ってクラゲに触れてしまったら、簡単に壊れてしまうのです。死んだら幼生に還るクラゲもいると聞いたことがありますが、そういうクラゲはいつ生きていて、いつ死ぬのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;生き返ったクラゲは、本当に死ぬ前と同じなのでしょうか。私には分かりません。だって、砂糖漬けになったクラゲは、もうクラゲではないのですから。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="b"&gt;b&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;最近妙な夢を見る。りとの夢だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その夢には色んな場所が出てくるけれど、なぜかいつも、そこでりととお酒を飲んでいる。二人きりの夜で、他には誰もいない。ことこさえも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある時はスケボーのメンテナンスをするのを眺めながら、別の時はソファに座って流行りのホラー映画を観ながら、一緒にお酒を飲む。そう、原宿の外で探検している間に酒盛りなんてのもあったわね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夢の中のりとはいつもより少し大胆だ。平気な顔で「これ、桜餅みたいな香りのお酒だって」だなんて、強いウォッカを持ってきたりする。お酒に弱い私のことなんてお構いなしに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして、お酒に酔った彼女は私に悪いちょっかいをかけてくる。私の耳に吐息たっぷりの熱い声で囁いたり、私の身体を優しく触って痛めつけるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は慣れない快感に身体をくねらせて、それをりとがくすくすと笑う。腕に力を込めてりとから逃げようとするけれど、酔った私では彼女を押し返すことも叶わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;諦めてりとに身体を任せてしまうと、いつの間にかスケボーもお酒も映画も、私の視界から消えてしまう。そういう「日常」が見えなくなってしまうのが少し怖い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとは余裕そうな笑顔で私を好き放題にするし、一方の私はその責めに必死で抵抗しているのを隠せない。そんな風に立場の差を見せつけられるのが、私が必死になってるのを見られるのが、たまらなくイライラした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夢のことを思い出す度に、私の頬が熱くなる。現実のりとに触れるだけで、少しだけ胸が高鳴る。りとのやわらかい肌の感触や、私の身体を走るピリピリとした刺激、りとが私を見つめる楽しそうな視線。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういう感覚が全部、夢にしてはやけにリアルで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に、嫌になるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夢は願望の現れだなんていうけど、あれはきっと嘘ね。私、あんなこと考えていないもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、ことこが一度も出てこないのって、なんだか変ね。ことこと街歩きをした日くらい、夢に出てきたっていいのに。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="1"&gt;1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「さて。飾り付け、これくらいでいいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ＰＡＲＫを包み込む朝が、いつもと少しだけ違う。まるで明日から夏が始まるような、何かしたくてむずむずしてしまう空気が流れている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日はちょうど、春と夏の境目だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バブルの中には梅雨がないから、肌寒い春がそのまま暑い夏に移り変わっていく。バブルの外で降る雨は、私をそっと冷やしてくれるのかしら。こんなに蒸し暑いと、何でもいいから浴びたくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お店がすっかり、クラゲまみれだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;レジに座ったりとが、改めてフロアをぐるりと見回した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、今週はクラゲフェアなのだ。りとの言うとおり、フロアがたくさんのクラゲグッズで埋め尽くされている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;廃墟で見かけたクラゲの話を聞いたことこは、目を輝かせて図鑑の色々な写真を見せてくれた。聞いてみると、不老不死のクラゲがいるらしくって、一度見てみたかったみたい。りとと二人で見た水槽のクラゲとは、だいぶ形が違うみたいだったけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこからアイデアを得たことこが、「クラゲフェアで大儲け！」作戦を思いついたってわけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最近暑いからね。涼しげな方がいいかな〜なんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「見た目が涼しげなのはいいけど、気温の方もちゃんと下げてほしいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初夏の空気はワクワクするけど、こんなに蒸し暑いとほんと嫌になっちゃう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてバブルドームには、新しくてまともなエアコンが入らないの？ちまちま修理してないで、さっさと交換しちゃえばいいのに！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エアコンはあんまり切りたくないんだけど、ちょっと電気代と相談しないと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってお金を確認するりと。赤字スレスレなのはみんな分かっていたけど、りとはわざとらしく溜息を吐いて、ふるふると首を振った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『電気代フェア』にでも改名したほうがいいかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、電気クラゲも注文すればよかったかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冗談に冗談で答えることこの声が、いつもより楽しそう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;飾り気のない白い壁や棚が、今日は新しい商品と新鮮なデコレーションでいっぱいだ。久しぶりのフロアの模様替えに、みんなが心躍っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンセプト作り、商品選び、飾り付け……一つのテーマに向かって頑張るの、やっぱり私たちらしいって感じがするわ。もちろん、新しい商品をたくさん並べて、いっぱい儲けられそうだからっていうのもあるけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;商品の配置と飾り付けはもう終わっている。細かい調整を済ませば、開店準備完了ってとこね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりの作ったくらげのモビール、やっぱり可愛いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが頬杖をついたまま天井を見上げた。ぼんやりした視線の先では、ＰＡＲＫオリジナルの特製インテリアがゆらゆらと揺れている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？リアルさを大事にしながら、オーガンジーでスカートを履かせてみたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フロアの真ん中に吊るされたふわふわの傘が、ティアドロップのクリスタルと一緒にきらきらと輝く。サーキュレーターの風がクラゲに当たるたびに、薄いスカートが海の中にいるみたいにゆらめくのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うん。自分でも、とっても綺麗に仕上がったと思ってるわ。細かい作業なら任せておいて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。すっごく幻想的だよね。やっぱり、まりちゃんにお願いしてよかった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、嬉しいわね。ありがと、ことこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分が作ったものを褒められるって、やっぱり嬉しい。私ができることは、私がしっかり頑張らないとね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこの商品選びも、なかなかイケてると思うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。センスいいね。こだわりを感じるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかな？えへへ〜」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実際、ことこに任せた発注はよく整っていた。青を基調とした陳列に黄色や白のグッズが差して、クラゲのイメージとは違ってカラフルに仕上がっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこがフェアの計画中にずっとコンピュータを叩いていた理由、よく分かった気がするわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、これが一番好きかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、りとがレジに並んだクラゲをひょいと一つ手に取った。無色透明のガラスでできたペーパーウェイトの中に、真っ赤なクラゲが閉じ込めてある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。それオススメなんだ〜。クラゲの部分もガラスで出来てるんだけど、一つ一つの色合いが全然違うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが言うには、ガラスの色や温度をわざとばらばらにしているみたいで、それぞれが世界に一つだけのクラゲなんだという。確かに、りとのお気に入りは暗めの赤色でひときわ鈍く輝いていて、あの時の怪物クラゲを思い出させる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとは手の中のクラゲをひとしきり眺めた後に、気だるそうに身体を起こして、ことこに向かって腕を伸ばした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、これ貰ってもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。もちろんいいよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとは「ありがと、大事にするね」と答えてから、満足げな表情でピンク色の付箋をクラゲの頭に貼り付けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さくて可愛い怪物がクラゲの列に戻されて、ガラスがぶつかる時の小気味いい音がする。自分だけ「売約済」のラベルを貼られて、なんだか誇らしげだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃんも、欲しいのあったら持っていってね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん、そうね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;話を振られて、棚に置かれた商品を改めて眺めてみる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりあえず手に取ったのは、水で満たされた不思議な置物だ。透明な筒の中に、細い脚がたくさん生えたプラスチックのおもちゃが入っている。ちょうど、手に収まるコップくらいの大きさだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;筒の上の黒い蓋には「クラゲチューブ」と書かれていて、封入されているのはクラゲのイミテーションらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミニチュア水族館のつもり？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;持ち上げて、裏に付いていたスイッチに触れると、底から照らされる光に合わせてビニールのチューブが水中で踊りだした。変な動きねぇ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふわふわっていうより、ぐねぐねって感じね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「電池で動くクラゲだって。本物を飼うのは難しいらしいから、気分だけでも楽しめるように作られたみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲらしさがなくって、これはイマイチね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ〜？そうかなぁ……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さな水槽を泳ぎ回る七色のチューブは、初めて見たクラゲの繊細さが懐かしくなるほどに荒々しい。もし水族館が残っていたら、今すぐ本物のクラゲを見に行きたいくらいだわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ずっと北の方には、クラゲをたくさん展示している水族館があったみたい。私たちが行くまで、残っていたらいいんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほかにもいいもの、いっぱいあるから！ほら、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ことこは私の背中をぐいぐいと押してフロアを回らせようとする。お気に入りのグッズを見つけてもらえないのは、商品担当のプライドが許さないらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わ、分かったわよ。もうちょっと見てみるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;食器やハンカチは、グッズとしては定番ね。水色や黄色の素材にデフォルメしたクラゲの絵がプリントしてあって、ポップな感じ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、どのクラゲにもくりくりとした黒い目と口角の上がった線が描き込まれていて、ちょっと慣れない。りとと見たクラゲは、もっと寡黙で寂しげな感じだったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――こういうの、子供向けなのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「水族館から出てきたグッズは、子供向けが多いみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大昔にクラゲブームがあったらしくて、供給過剰の新古品もかなり多い。いつもは状態のよくない中古品ばかり入荷してる（拾ってきてるとも言うわね）から、フロアの雰囲気もいつもとだいぶ違う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「赤いくらげにも、顔が付いてたら面白かったかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら。りとったら、ホラー映画の観すぎじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの子犬サイズの怪物にしっかり顔が付いていて、目線がぶつかっちゃったりなんてしたら……ちょっとゾッとしちゃう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりも、ホラー映画好きでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとが観たいっていうから付き合ってるのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、そうだね。ありがと、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画の観すぎっていうよりは、ホラーゲームのやりすぎなのかもしれないけど。ホラーゲームだと、どうしてもりとの銃さばきに勝てなくって――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――ちょ、ちょっとりとちゃん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、会話を遮るようにして、ことこがりとに声を掛けた。レジはそんなに離れていないのに、フロア中に響くような大声だ。急ぎの用事でもあるのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたのよ、ことこ。そんなに大きな声で」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まだ朝食前なのに、元気だね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……いや、違うの！ちょっと、思い出したから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;我に返ったことこが、私とりとの視線を集めているのに気付いて急に慌てだす。身振り手振りで何かを伝えようとしているけど、動きが素早すぎて伝わらないところ、いつものことこって感じね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。えっと、もう開店直前なんだけど、まだ準備ができてないっていうか、お願いしたいことがあってね、それで、それで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、落ち着いて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……うん。看板を、外に置いてきてほしいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「……看板？」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お願い自体は変なことじゃないのに、その脈絡のなさに混乱してしまう。りとも私と同じことを感じていたらしく、すっきりしない顔で立ち上がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこ、これだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが私の視線と同じ向きに指をさす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;看板というのは、クラゲフェアの開催を伝える立て看板のことだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒いパネルに水色のペンでふわふわと踊るクラゲは、りとが描いたものだ。その横に「クラゲフェアです　ナウ・オン・セール！」と細めのゴシックで記されている。最近は、妙なウェイトのダサい日本語フォントが流行っているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そう！花壇の水やりもお願いしたいな、なんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこの様子がどこかおかしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう時のことこって、だいたい一人で変なことを考えているのよね。看板の話自体にはおかしなところがないのに、どこか不自然に見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……そっか。うん、分かった。行ってくるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たぶん、りともこの不自然さを感じているけれど、それをわざわざ追及するつもりもないのだろう。りとったら、ことこには甘いんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;レジを離れたりとは、腰の高さほどのアルミフレームを両手に抱えて外に向かう。それに合わせるようにして、ことこがレジをすり抜けてバックヤードに引っ込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;実は、あのパネルの裏には劇画チックな赤いくらげの絵が描いてある。まるでお化け屋敷のような立て看板は、夏の訪れも相まって納涼感こそよく出ているけど、残念ながらクラゲフェアの宣伝には使えない。前面に押し出されたホラー要素は、ギャップというにはあまりにイメージと離れすぎていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;完成した看板を見て、フェアのコンセプトと違うという話をしたらそこでまたひと悶着。りとは「ホラーな感じが出ないじゃん」と不満げだったけど、コンセプト重視のことこの意見も頼ってなんとか押し切ったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとって、絵は上手なんだけど、たまに理解に苦しむわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少しして、商品でいっぱいの陳列かごを抱えて戻ってきたことこに、私は独り言のように呼びかけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？りとちゃんの絵、私は好きだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すっかり落ち着いた様子のことこが、かごを置いてレジ越しに言葉を返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、もちろん私だって嫌いじゃないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;面と向かうと上手に言えないけど、りとの技量に文句があるわけではなかった。実際、ボツにしてしまった看板だってすごい上手だったし。店内に立てられた &lt;em&gt;りとお手製&lt;/em&gt; ポップは、文句のない出来栄えだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好意を伝えたり、褒めたりするのって、私には少し難しい。いつだって、皮肉と言い訳でぐるぐる巻きにしてぶつけてしまうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、りとちゃんに好きって伝えないとね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、気が向いたら、ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好きだなんてはっきり伝えるのを想像すると、夢のことを妙に意識してしまう。ありもしないことを思い出して、勝手に顔が熱くなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがとんたんと階段を降りる音が少しずつ遠くなる。ふいと窓に視線を向けると、示し合わせたように足音が聞こえなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん、大丈夫？なんだか顔が赤く――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ！ことこ、何を持ってきたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心配そうな表情をかき消すようにして、今度は私が話を遮る。ことこはきょとんとした後に、笑顔でスカートのポケットに手を伸ばした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のおすすめ商品『クラゲチップス』だよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこがポケットからがさがさと取り出したのは、透明な欠片がたくさん入った小袋だ。レジに置かれた白いかごいっぱいに並べられた商品と――既に開封されていることを除けば――同じものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;袋に「バジルペッパー味」とプリントされているのを見ると、「クラゲチップス」の名の通り、お菓子であることが分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「食べるの？クラゲを？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん！昔は食用にしてたみたいだよ。あ、もちろんこれは合成たんぱくなんだけどね。加工に秘密があって、サクサクとコリコリが両方楽しめるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わざわざクラゲを食べようだなんて、合成肉みたいに食糧危機から生まれたアイデアなのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;合成肉も初めはゲテモノ扱いだったらしいけど、私たちが生まれた頃には安くて美味しいという触れ込みで生活によく馴染んでいた。ハムやソーセージ、妙に四角いお肉、大げさな「天然」ラベルのないものは、たいてい合成肉を使っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、お魚は養殖技術と品種改良のおかげで合成するより安上がりになるらしく、ほとんどが「天然モノ」のままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聞き慣れないマイナーな動物のお肉も、出回っているのはほとんどが合成たんぱくから作られた「復刻版」らしい。このクラゲもそうなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、どうやって食べるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「普通のお菓子だから、そのまま食べられるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこがクラゲチップスの袋を開けて、クラゲの欠片を口へ放り込んだ。少し遅れて、バジルの香りがふわっと漂ってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;食品コーナーに並んでいるのは、オレンジ味、ぶどう味、バジルペッパー味、青のり味……あら、バナナパクチー味もあるじゃない！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、これは何の味？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こっちは塩漬けだよ。水で戻してサラダのトッピングにしてもいいし……そうだ！カップ麺の海苔の代わりに使ったらどうかなぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこって、ほんとに食いしんぼさんよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えへへ、お腹空いちゃって。まりちゃんも食べてみる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ことこはかごから新しい袋を取り上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お砂糖に漬けてあるの。ちょっと甘すぎるかもしれないけど、こっちもそのまま食べてＯＫだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲは見た目の通り水分がたくさん入ってるから、普通は塩漬けにするみたい。ただのチップスは湿気を吸いやすいから、料理に使うなら塩漬け、お菓子なら砂糖漬けがおすすめらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ピンク色のチェック模様で飾られた袋には、カラフルなゼリーやアイスクリームの写真が添えられている。涼しげなお菓子に使うといいみたいね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫。成分的にも問題ないみたいだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ。ならいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;袋をじっくり眺めていたせいで、疑っているように見えたらしい。わざわざそんなことを言われると、逆に怪しく見えちゃうけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ま、たっぷりの調味液でごまかした激安合成肉よりはましよね。私はぴりぴりと開けたチャックの隙間から、一番小さな欠片を口に放り込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……シナモンが効いてて美味しい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舌に当たるざらざらとした砂糖の感覚が心地いい。じわりと甘さが走って、噛むたびに歯ごたえと香辛料の刺激がついてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲそのものにはあんまり特徴的な風味はないけれど、独特の食感はおすすめポイントね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;合成肉のケミカルな風味を消すために、強めのスパイスで香りをまぶすのはよくあるやり方だ。一緒について回る薄い磯の香りは、たぶん後から付けられたものだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ただいま。水やりも終わったよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、りとちゃん。おかえり〜」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コリコリとした食感を楽しんでいると、準備を終えて戻ってきたりとがひょこっと顔を出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「外から見ていくと、やっぱり少し印象違うね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改めてゆっくりと店内を眺めながら戻ってくるりとを見て、レジに収まっていたことこが立ち上がろうとする。りとは私の隣で「いいよ、座ってて」と言いながら、そのまま壁に寄りかかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人とも、何の話してたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「看板が可愛いねって言ってたの。ね、まりちゃん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って私に話を振るものだから、りとの視線も私に向けられてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうね。なかなか悪くないと思うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;壁や天井にふらふらと視線を向けながら、精一杯の答えを絞り出す。さっきことこと話していたことが、なかなか口から出ていかない。ボツになった看板に言い過ぎたのもあって、少し気まずかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ありがと。ことこ、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、りとはそんな私の気持ちなどどこ吹く風というように、さらりとお礼を返す。そして、りとは私たちが手に持っているクラゲ菓子に気付いて指をさした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、配給？変わり種の合成肉、久しぶりだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、配給品じゃないの。どうしても食べてみたかったから、フェアに合わせて入荷してみたんだ〜」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;復刻版の合成肉は高いごちそうとして、あるいは安い代用品としてしばしば配給に紛れ込んでいた。それぞれの当たり外れは大きいにせよ、単調になりがちな配給のいいアクセントになっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この前のは、固くてあんまり好きじゃなかったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「たぶん、クジラかな？保存の仕方が悪かったかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クジラはすごく大きい動物で、昔はよく食べていたみたい。かつては、原宿の近くにもクジラ専門レストランがあったらしいし、美味しい料理法もあるのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その前の合成肉は？あれは美味しかったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのすごく柔らかいやつ？確か、ウナギだったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ウナギという名前は、あんまり美味しそうな名前ではなかったから逆によく覚えていた。かつては、骨も無くて柔らかい脂の乗ったお魚だったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、どうして骨が無かったのかしら？ことこの説明は難しくてよく分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ウナギは高級品だったみたいだよ。合成品が出回ってよかったねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、ミックスサンドは具材のバランスが命なのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高級品だったという割には、配給日前のミックスサンドで適当に消費されていたのを思い出す。まぶされた和風のたれは美味しかったけど、実のところウナギの食感はあんまり覚えていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お金がない時は、いつだってミックスサンド。今週も、家中からかき集めた余り物で作った気まぐれサンドイッチが続いているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、クラゲフェアでしっかり稼がないとね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。エアコンも食生活も救わなきゃ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がったことこが腕を突き上げると、シャツの裾がふわりと舞い上がる。と同時に、ぐぅ、とことこのお腹が鳴いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「食べ物の話してたら、お腹空いてきちゃったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、バックヤードで朝食にしようよ。お客さん、まだ来てないみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう開店の時間は過ぎていたけれど、外を歩く人通りはまばらだ。夏の朝は、いつもより少し遅い。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="3"&gt;3&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;午後になると、ちらほらとお客さんがやってくる。店内の雰囲気ががらりと変わったＰＡＲＫに、初めてのお客さんも常連さんもいい反応を示してくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏の間、客足のピークは――特に、近所のショップの子たちが遊びに来てくれるのは――夕方近くになることが多い。お昼過ぎなんて、一番暑くて日に焼けちゃう時間帯だもの。ほんっと、バブルドームが古すぎるのが諸悪の根源よね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなに日差しの強い午後なのに、ついさっき、りととことこが二人で買い出しに出かけていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は涼しくなってから行くように勧めたけれど、ことこはどうしてもと言い張って聞かなかったのだ。結局、りとも荷物持ちとしてついていくことになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当然、私はお留守番。とっても暇な店番だ。日焼け止めクリームも完璧ってわけじゃないもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人が外に出かけて、私が一人で残って店番をする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思い出してみると、最近はこうやって一人でぼんやりする時間が少なかった気がする。いつもと違う店の中、一人で話し相手もなく、暇な時間がゆったりと流れていく。静かな海の音に囲まれて……何だか、落ち着かない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり、今日は少しだけ変な日だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこのおかしな言動が、私に波乱の予感を与えているのかもしれない。こういう時のことこは、いつも一人で大きな問題を抱えてるから。一人で頑張ろうとするところ、直ってないのよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さて、お縫製の続きでもしようかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手持ち無沙汰で落ち着かない時間を過ごすのに耐えかねて、私はレジにミシンを持ち込むことにした。少しずつ進めていた夏服が、そろそろ完成するところなのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう少しね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さい頃から、ずっと自分で服を作ってきた。自慢できる特技と言ってもいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ママにミシンを借りて縫っていた頃は、服を買うお金がないから頑張ったものだった。今ではもう、節約のためというよりも、自分が納得する服を手に入れる一番の近道だと思ってる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、私がＰＡＲＫに貢献できるのはお洋服くらいだから。ことこみたいに頭脳派の戦略も立てられないし、りとみたいにポップなイラストでお客さんを集めたりもできない。だから私は、来てくれたお客さんが喜ぶような最新の服を作らなきゃ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;古着のほころびを直すくらいなら &lt;em&gt;りと&lt;/em&gt; も &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; もできるけど、少し込み入ってくるとすぐに私の出番になる。もちろん、デザイン画はりとに手伝ってもらうこともあるし、そこは頼りにしてるわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それとは逆に、私がりとを手伝って店内の飾り付けを作ることもある。全体の計画はことこが練ってくれるから、安心して作業できるの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとってたまに合わないところがあるけど、こうやって三人一緒に頑張れるのってすごくいいことよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当のりとには、面と向かって言えないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人とも、何してるのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りととことこが二人だけで外に出かけているのは珍しい。どちらかといえば、二人で出かけるのが多いのは私とことこの方だ。ショッピングをしたり、食べ歩きをしたり、うわさ話を交換しあったり。はしゃぐことこは色んな話を聞かせてくるけど、たまにありえない空想のお話ばかりになってイライラしちゃうこともある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが熱心に語り出す夢見がちな海外旅行計画も、スクーパーズが来なかったら実現していたのかもしれない。そうしたら、こんなバブルの中で閉塞感に満ちた生活を送ることもなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、スクーパーズがいない世界で、私たちは出会うことができたのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あっ、やだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慌ててミシンから足を離すと、ほとんど縫い終わっていた軌跡が少しだけぶれて止まっていた。規則的なミシンの音にとりとめのない考えが重なって、手元への注意が薄れていたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほどいて縫い直そうか、それとも上から何かを縫い付けてしまおうか？普段ならすぐに糸を抜いて、薄く残る針の跡でさえ気にしてしまうところだけど、今日はどうしてか気怠い空気が私を包み込んで離さなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんか、昔を思い出すわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぶれたミシンの跡は、昔を思い出させる。まだ上手にミシンを扱えなかったあの頃を。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;川崎でママやパパと一緒に暮らしていた頃は、お姉ちゃんとしてみんなのお世話をしなきゃならなかった。それだけ我慢も多かったし、自分の好きなことをしたせいで叱られるのは、今でもすごく嫌だと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みんなは、今頃どうしているのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなに悪い思い出じゃないけれど、帰りたいかと訊かれるとやっぱり「ノー」ね。家を離れる直前は治安もよくなかったし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;曲がったミシンの糸の軌跡を見つめて、指でなぞる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、縫い直しましょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちくちくと糸を解いてから布をぴんと張った。どれだけ擦ってみても、影になった針の跡はもう消えない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私がミシンで作るのは、自分の服だけではない。お店で売る服はもちろんだけど、りとやことこの持ち物を作ってあげることもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、今日りとが提げていったショルダーバッグにも、私が作ったポーチが入っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がミシンで初めて完成させたのは、自分の服を使ったポーチだった。あのポーチにも、さっきみたいに歪んだ軌跡が走っていたわね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;古着をポーチに作り変えるのは、原宿に来るよりもずっと前に覚えたテクニックだ。いつでも布を買ってもらえるわけじゃなかったし、着られなくなった服をずっとしまっておくのも寂しい気がしたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、小さくなった服を裁断して新しいアイテムに作り変えるのは私の習慣になった。とはいえ、身体が成長して服が入らなくなるなんてことはもうない。今ではむしろ、ほつれたままチェストに突っ込まれたりとの服をリメイクすることが多いくらいだ。ことこもそれを見て、「私にも作って〜」なんて頼んでくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう時に、ことこは全身で喜びを表現してくれるけど、りとはやっぱりそっけない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シャンプーもボディソープも、りとにとっては昨日の夕食くらいにどうでもいいことだ。私のポーチも、それと同じ。口でこそ「可愛いね」とは言うけれど、りとは、自分がどうでもいいと思ったことはとことん気にしない子だから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、自分の作ったものがずっと使えてもらえるのって、やっぱり少しだけ嬉しいわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これくらいでよさそうね。ちょっと合わせてみましょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばさり、と完成品を広げて鏡の前でひらひらと振ってみせる。縫い直した部分の仕上げも終わって、思い描いていた通りの爽やかな夏服ができあがっていた。フリルの付いた淡いブルーのワンピースは、クラゲフェアからインスピレーションを得て作り始めたものだ。白黒のポルカドットが添えられて、思った通りのレトロな雰囲気を引き出している。これなら――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これなら、りとも可愛いって言ってくれるかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――って、違う！首を振って変な想像をかき消した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;変よね。りともことこも、いつも可愛いって言ってくれるんだから、今更照れることなんてないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんにちは〜。まりちゃん、いるかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、お店の入口から声がした。久しぶりのお客さんだ。できたての服を片手に、鏡の前から離れて振り向くと、原宿らしいカラフルなリボンが目に入る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いらっしゃいま……って、さゆみんじゃない！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エプロンドレスの聞き慣れた声は、クレープ屋さんのさゆみんの声だった。クーラーボックスを提げて配達に回る姿は、もはや原宿ではおなじみと言ってもいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すっかり暑くなっちゃったねー。お店があんまり暇だから、遊びにきちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「屋台だと仕方ないわよね。うちも今日からフェアなんだけど、売上はぼちぼちってとこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ショップの子たちの間では、署名を集めて防衛隊にエアコン修理を急がせようという話になっているらしい。実はみんなお店の売上なんかどうでもよくて、決起集会とは名ばかりの飲み会を開いて大騒ぎしたいだけらしいけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲフェア、だっけ？ＰＡＲＫの雰囲気がすっかり変わってて、びっくりしちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなのよ。ちょっと色々あってね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くらげやことこのアイデアについて教えると、さゆみんは「ことこちゃんらしいね」と軽く笑う。そして、私が左手に抱える服を指さした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、新作？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの。たまには時間を掛けて自分だけの服を作ってみようと思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すっごく可愛いよ！気合入ってるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうでしょそうでしょ、と心の中で答えながら鼻を高くした。りとに褒められたって、照れずにこうやって得意げにしていればいいのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さゆみんはひとしきり新作を眺めてから、クーラーボックスからごそごそとピンク色の箱を取り出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなまりちゃんに、差し入れ。新作のクレープだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さな発泡スチロールのケースがレジに置かれる。表面のひんやりとした感覚が空気を伝わってきて、蒸すような暑さが少し和らいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう！今、りともことこも出かけてるから、後でいただくわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……りとちゃんとことこちゃんには、もう渡したの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そうなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうやら、買い物途中の二人とすれ違っていたらしい。なかなか帰ってこないと思ったら、さゆみんとおしゃべりしていたようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りととことこ、何か言ってた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「木陰でもやっぱり暑いねーとか、そんな感じ？まりちゃんはお店にいるって聞いたから、寄ってみたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そう……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;木陰？下で涼めるほど大きな木は、公園くらいにしかない。二人は買い出しに出ているはずだけど、荷物が多くて休憩でもしているのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり何か、少し変ね。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「――ちゃん、まりちゃん。起きて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん……あら、ことこ。帰ってたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;店番をしているうちに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。外はいつの間にか暗くなりかけていて、うだるような暑さは少しだけ和らいでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さゆみんの持ってきたクレープの包み紙は、レジの横に綺麗に畳んで置かれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん。ちょっと、話したいことがあるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;身体を起こすと、ことこが深刻そうな表情で私を見下ろしている。その後ろでは「ラ・ラ・クイーン」の紙袋を片手に提げたりとが、退屈げに壁に寄りかかっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとも一緒？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、三人の話だから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後ろに視線を向けると、ことこの代わりにりとがそう答える。三人の話、だなんて随分と仰々しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？そんなに改まっちゃって。クラゲフェアなら順調に進んでるわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっとね、お店の話じゃなくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ。ベースメントで話しましょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なによ、軽い冗談じゃない。何だかはっきりしないことこの態度に、少しイライラした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カウンターを整理してからレジに鍵を掛ける。ひっくり返された「本日の営業は終了しました」の札が、射し込んだ夕日の光を反射してよく輝いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/mix-sand-baking-2/"&gt;後半&lt;/a&gt;へ続く）&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
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&lt;ul&gt;
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&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ペパーミント・バスタイム</title><link href="https://ama.ne.jp/post/peppermint-bath-time/" rel="alternate"/><published>2019-01-19T17:00:00+09:00</published><updated>2019-01-19T17:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2019-01-19:/post/peppermint-bath-time/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ことこのえっちなモノローグ&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/sugar-jelly/"&gt;Sugar Jelly&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="a"&gt;a&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が誰かと仲良くしても、あなたとの仲が変わるわけじゃないの。あなたが彼女と仲良くしても、私との仲は変わらずにいてほしいな。私たちを包む幸せは、独占したり所有したりできないものだから。欲張って手のひらで掬い取ろうとしても、溢れて全部こぼれてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうすれば、三人で生きていけるかな？&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="1"&gt;1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私の一日は、ＰＡＲＫの開店準備から始まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんとまりちゃんは、今日も原宿の外へ調査に出かけている。今回は北の方に行くって言っていた。だから、昨日から私は一人でお店を回している。ハンガーラックを動かして、床のモップ掛けをして、レジのセッティングまでこなしているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰もいないＰＡＲＫは、いつもより広くて静かだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慣れないはたき掃除を頑張ってみても、棚の上まで届かない。背伸びする鏡越しの私は、その寂しい広さを持て余しているようにも見える。そんな私の雰囲気を感じ取った白子ちゃんたちが、時折周りを跳ねて心配してくれるけど、逆にふらついたちっぽけな私の孤独さを意識させられてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何かいいもの、持って帰ってきてくれるといいなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;調査隊員として給料や物資の配給を受けられるようになった今でも、お金の問題（それも、来月の家賃という短期的な問題！）はいまだに私たちを悩ませている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなかつかつの生活を支える重要な活動の一つが、廃墟に散らばる貴重な「おたから」の収集だ。許可を受ければそのままお店に陳列できるから、今となっては重要な収入源になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当は白子ちゃんたちだけじゃなくて、たくさんの札束がそこらじゅうでダンスを披露してくれてもいいくらい。でも当然、いつも通りキャッシュドロワーの中は寒々しいままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小鳥ちゃんと白子ちゃんたちに囲まれながら商品の整理をする。今一番売れてる商品は、シッポちゃんというもこもこのマスコットだ。手のひらサイズで手触りがいいキーホルダー付きのぬいぐるみ。持ち運ぶうちに気に入ってくれたお客さんが、家に並べて飾るために一ダースくらい買っていくこともあるのでなかなか侮れない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昨日も何個か売れたから、その分を入り口のシッポちゃんグッズコーナーに補充しておいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その後に、小鳥ちゃんの刺繍が入ったポロシャツを、こっそりとまりちゃんのオリジナルプリントＴシャツと入れ替える。自分がデザインした商品がたくさん売れると夕飯がちょっと豪華になるのだ。本当は壁にかかったショップ・ロゴのシャツと交換したかったんだけど、踏み台がないと手が届かないのでやめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして何度か商品の補充と配置の調整を繰り返すうちに、開店時間が近づいてきた。最終チェックとして、指で作った枠を覗き込みながら全体的なバランスを確認する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;店内をぐるりと見回していると、まりちゃんのシャツが視界に入ってふと私の手が止まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん、上手くやってるかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここ数週間は二人がいないと少しだけ気が楽になっていた。どうしてだろう？休憩せずに続けていた作業から急に解放されたような、穏やかだけど手持ち無沙汰で退屈な感覚だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして、かな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうして――だなんて言ってみせるけど、本当はなぜなのかよく分かっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだ。まりちゃんの様子がちょっとおかしいからだ。このことが、最近ずっと頭から離れない。りとちゃんとの距離が変わった……というか、避けている。明らかに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三人で夕食を食べる時には、あんまり軽口を叩かなくなった。逆にりとちゃんがお出かけしてる時は、私相手に一日の出来事を感情たっぷりに喋ってくれるのだ。まるで黙っていた時間を取り戻すようにして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんが私を誘ってお出かけする回数も増えたけど、私にべったりというわけでもなくって。たぶん、りとちゃんと二人にならないように努めてるんだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何より一番大きいのは、一緒にお風呂に入ってくれなくなったことだ。これまでは、お風呂が狭いからとか、今日はシャワーの日だからとか、もっともらしい理由を付けて断っていたんだけど、最近は単に「気分じゃないの」としか言わなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、まりちゃんがりとちゃんを嫌いになったわけではないのもよく分かっている。りとちゃんと私が二人でお風呂に入るのをなんとなく嫌がってるみたいだし、まりちゃんがよく気にしている「りとちゃんの『気まぐれシャンプー』リスト」の記録も続けているみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人とも、私のために争わないで……なんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に構ってくれるのはありがたいことだけど、私を真ん中にしてけんかになったら嫌だなとも思う。もともと言い争いをしやすい二人だから、りとちゃんがちょっと仕掛けたら簡単にけんかになってしまうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最近のまりちゃんは、私のことをりとちゃんから逃げる隠れ蓑にしている……と思う。そういう後ろめたさのせいで、きっとまりちゃんはいつもよりけんかに油を注いでしまうはずだ。そういう時に私は言い返したりできないけど、りとちゃんならますます燃え上がってしまうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;原宿の空はずっと変わらないままなのに、私たちは段々と変わっていく。そんなことを日々感じている。これがただのちょっと長い夕焼けだったらどんなにいいだろう。三人の中で誰かと誰かが内緒で仲良しになったり、段々と疎遠になったり、いつの間にか敵同士になっていたり。それってすごく嫌なことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は三人でずっと仲良くしたいのに。三人で一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、ぐっすり眠って。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日だって、きっと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くるり、とプリーツスカートを翻しながら、ハートのもこもこポケットに手を突っ込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――きっと、昨日もりとちゃんに好き放題されてたんだろうなぁ……はぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;レジに入って、真っ白な壁に寄りかかる。もし、ここにいるのがまりちゃんだったら。彼女はりとちゃんと私のことを考えてくれるでしょうか？ＰＡＲＫで一人、何も言わないレア・アイテムに囲まれて。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="2"&gt;2&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が二人の「秘密」を初めて目撃したのは、一ヶ月くらい前のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日の夜、私は一人で本を読んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が一人の時間を過ごしている時は、たいてい二人もそれぞれで好きなことをしている。りとちゃんはそっとＰＡＲＫを抜け出して、カラースプレーとスケボーで原宿を駆けに行く。まりちゃんはオリジナルの型紙を片手に、新しい服のデザインにミシンを走らせる。そうやって、いつも平和に夜が過ぎていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、その日は少しだけ違った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段はそれぞれの趣味を楽しむ二人も、ごくたまにだけど一緒に映画を観ることがある。探索で見つけたディスクの鑑賞は、りとちゃんとまりちゃんが一緒に楽しめる数少ない娯楽の一つだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実はもう、原宿の中には受け身で楽しめるような娯楽があまり残っていない。昔の音楽や映像はほとんど失われてしまったし、残っているのは本や雑誌くらいかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;内容さえ気にしなければ、昔のテレビ番組を非公式に録画したビデオ・アーカイブなら原宿のあちこちで入手できる。ただ、どれも画質が悪い上につまらない（「日本サイコー！」みたいな映像ばっかり！）ので、残念だけどフロアのテレビを飾る素材にしかならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな中で回収するビデオの「おたから」はとても魅力的だ。観終わったらコピーしてお店に並べておくこともできる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、私は夜に映画を観ると途中で眠くなっちゃうから、レイトショーはいつも二人だけのイベントだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その日の私は、前々から読んでいたフランス語の教科書を読み終えて、日記を書いてから席を立った。二人におやすみを言うために。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リビングのドアに手を掛けて、部屋の中をそっと覗く。すると、テレビの光に照らされた二人の不思議な光景が目に入った。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;二人は映画を見ていたはずなのに、いつの間にか身体を絡めてソファに倒れ込んでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――――。まり、――――？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――、――？――わよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めは二人とも寝ているのかと思ったけど、ひそひそとした話し声が聞こえてくるので起きているみたい。穏やかなりとちゃんの口調に対して、まりちゃんは怒ったような強い調子で答えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;倒れたのは不意のアクシデントだったらしく、まりちゃんは身体を起こしてソファに座り直した。それに合わせて、りとちゃんも起き上がってまりちゃんにもたれかかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日はまりちゃんが苦手なホラー映画の日だから、驚いた拍子に倒れ込んじゃったのかも。怒ったふりで恥ずかしいのをごまかすのはいつものことだし、ホラー映画をしっかり怖がるのだっていつも通りだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画の時間を邪魔しないように、私は部屋に一歩踏み込んだ足をそっと後ろに戻した。耳をそばだてると、二人だけの秘密の会話が聞こえてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やめて、りと。まだ映画が終わってないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ。まり、映画なんか観てないじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうやら図星だったらしく、そんなこと……と、まりちゃんが言いよどむ。確かに、りとちゃんとまりちゃんは映画なんてそっちのけで、じっと視線を交わしているように見える。二人の顔はいつもよりずっと近くて、妖しげな雰囲気に包まれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてこんなことになってるんだろう？私は少し困惑しながら、ソファの周りやテーブルを見回した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルの上には、銀色の缶や緑色のびんが何本も無造作に置かれている。りとちゃんが飲む缶のお酒はいつもと同じくらいの量だけど、まりちゃんはいつもより多く飲んでいるみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんはお酒にも &lt;em&gt;おしゃれ&lt;/em&gt; を求めているので、買ってくるのは可愛らしいびんの甘いお酒ばかり。でも、配給と一緒に届く缶入りの合成酒はその正反対だ。大量生産の無骨な味とデザインはまりちゃんが受け付けないので、だいたいりとちゃんが飲んでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はあんまりお酒は好きじゃない。日記に書けることが減っちゃいそうな気がして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちゃんと観るわよ……怖いシーンが終わったら、ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もうクライマックスだから、ずっと怖いシーンだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきから、りとちゃんもまりちゃんも全くテレビを見ていない。酔った二人はつまらない――もしかしたら本当に怖いのかもしれないけど――映画には全く興味がないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画に合わせて、暗く明るく照らされる二人の顔。じっと見つめていると、そのキスの距離から目が離せなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひゃっ！やっぱり観るの、やめようかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんだけは、時々大きな音に反応して身体をびくっと揺らしている。りとちゃんはそんなまりちゃんを見て、どんな顔をしているのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、無理しなくていいと思う。まり、怖い映画苦手なのに、観たがりだもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今、密かに流行ってるみたいだったから、ちょっとね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ明日、ことこと一緒にまた観よっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、りとちゃんはリモコンで映画を止めて、テレビの電源も切ってしまった。待機状態を示す、小さな赤いランプが点灯する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リビングを照らしていた唯一の明かりが消えて、目が慣れるまでは何も見えなくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ＢＧＭが止んですっかり静かになった部屋の中で、二人はずっと黙っている。どちらも映画を観ていなかったし、もう眠くておしゃべりする気も起きないのかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあ、そろそろおやすみを言おうかな……としたところで、口を開いたのはりとちゃんだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりと映画観るの、私は好きだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、急にどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うんうん。こうやって、まりとくっつけるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんはそう言って、のそりと身体を動かしてみせた。徐々に目が慣れ始めて、まりちゃんの首に腕を回したのが分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、やめてってば。こんなの、ことこに見られたら説明できないわよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこも一緒にする？って言えばいいじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;名前を呼ばれて一瞬ぴくっとしてしまう。気付かれるような音は立てずにすんだけど……私が、一緒に……？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「呆れた。あなた、飲みすぎてるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりだって。いつもよりすっごく顔、赤いよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「安酒のがぶ飲みと比べないでほしいわね。私のはいい酔い方をするお酒なの。りとのとは違うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、それ面白いね、まり。そんなの、飲んじゃえば全部同じだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんは右腕をまりちゃんの首に回したまま、左手でテーブルの上に広がる缶の一つを手に取る。見せつけるようにゆっくりと引き寄せてから、ぐい、と残った中身を飲み干した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;静かに缶を置いてから、またまりちゃんの目を見つめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって今日のまり、ふわふわしてる。隙だらけだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、りとちゃんはまりちゃんを抱き寄せる。キスの距離がぐっと詰められて、そのまま――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、ことこが起きてるかも――んむっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――そのまま、唇が重なった。まりちゃんの反応は一瞬遅れて、りとちゃんの急な動きをそのまま受け入れることになってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからはりとちゃんの思うがままだ。静かなリビングに響く水っぽい音と、しゅるしゅるとした衣擦れに、暗闇で揺れる二人の影がソファに倒れて重なった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとしきりもぞもぞと動いた後に、りとちゃんがまりちゃんの耳に口を寄せる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「か、勝手にすれば？もう、知らないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんが何と言ったかよく聞こえなかったけど、こそこそと、触るよ？と耳元で囁いたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たっぷり酔ったまりちゃんは、もう流れされるがまま。お酒には強くないはずなのに、今日はホラー映画の恐怖を紛らわすためにたくさん飲んでしまったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んっ……うぅ、ふぁっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんは押し殺すような声を漏らしながら、映画の時とは全然違う跳ね方でりとちゃんの責めに応えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、びくびくしてる。気持ち良い？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、ちが……映画の音にびっくりしてるのよ……っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ……まり、可愛いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんに抱かれるまりちゃんは、とってもえっちだった。スタイルのいいまりちゃんが身体をくねらせている様子を見ると、何だか不思議な気分になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ごくっ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;息が荒い身体の動きに任せて、思わず少しだけ手があらぬ方向に動いてしまう。少しだけ、ふらりと動いた手がドアを離れて、自由になった金具がぎぃと音を立てる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ま、まずい……！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、ことこ。いるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそろそろと足音を立てないようにして、急いでその場を立ち去る。見つからないか心配で急ぎ足になってしまうけど、りとちゃんは追いかけてくるつもりはないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逃げ切った私は、後ろ手で寝室のドアを締めてそのまま寄りかかる。緊張の糸が切れて、急に辺りの静けさが私を包み込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばくばくとした心臓の音で、私が確かにりとちゃんとまりちゃんの新たな関係を目撃してしまったことを意識させられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃん……今の、何だったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おやすみどころか、顔を合わせることもできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;次の日。こんな朝に限って、目はぱっちりと覚めている。私は初めて二度寝したふりで朝を迎えることになった。どんな顔をしてテーブルにつけばいいのか分からなかったから。食事当番じゃなくて良かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おはよう、ことこ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんが、二度寝から覚めた起き抜けの私をじっと見つめる。少し沈黙が流れてから「ご飯、できてるよ」と笑いかけた。昨日のことについて話してくれるつもりはないみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんも二人の秘密については教えてくれそうにもなかったけど、りとちゃんとは少し様子が違った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひゃっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、まり？ちょっと手がぶつかっただけだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ、そうよね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんは、昨夜のことをよく覚えていないみたいだった。まりちゃんはもともとお酒に強くないから、飲みすぎると記憶が曖昧になることがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昨日のことも、ぼんやりとした思い出の中に沈んでしまっているのかも。りとちゃんと恥ずかしいことをしている夢でも見ていたんじゃないかと思っているのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……今日のお風呂、私は一人で入るわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして、みんなが作る三角形がちょっとだけ歪んでいく。あの日から、まりちゃんは少し変わってしまったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="3"&gt;3&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;変わったのは、二人だけじゃない。私も変わりつつある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれから、りとちゃんがまりちゃんを襲っているのを見ることはなくなった。でも、そのたった一回の衝撃が何度も私を揺さぶっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がまりちゃんのことを考えている間に、ぐるぐると頭を駆けていく気持ちは何だろう？りとちゃんの近くにいるのが羨ましい。りとちゃんに触ってもらえて羨ましい。まりちゃんばっかり、ずるい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;羨ましい。ずるい。他には？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も……まりちゃんに、触ってみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;両手をもじもじさせながら初めて口に出した恥ずかしい気持ちが、空気と一緒に私を震わせる。からっぽのフロアに響く声は、私の頬を熱くするだけで、誰にも聞こえない。誰にも聞いてほしくない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はまりちゃんのことを、もう友達として見られなくなってしまったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はずっと、りとちゃんが好きなのだと思っていた。そして、まりちゃんのことも同じくらい好きだった。でも、二人に対しての好きは少しずつ違っていて、まりちゃんはＰＡＲＫの良い同僚、良い友達のつもりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな中で、りとちゃんに愛されているまりちゃんを見たら、私は当然のように嫉妬する……はずだ。でも今の私には、嫉妬と同じくらい、満ち足りた気持ちと不安な気持ちとが同居していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はりとちゃんが好きで、それなのにまりちゃんも好き？でも、まりちゃんへの気持ちは友達だったんじゃないの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよ。三人、三人で……でも、三人でえっちなことをしていたら、それは『誠実』なのかな……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三角形をもっと綺麗な形に変えられるなら、私は何だってする。もっと綺麗な形の三角形を作れるように、私は私の思いを整理する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;色々な理由を付けて今回の探索をお休みにしたのも、こういう気持ちを整理するためだ。半分は。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう半分は、二人の関係の進展に期待して。えっちのために送り出したなんて言ったら、まりちゃんは怒っちゃうかも。顔を真っ赤にして怒るまりちゃんのことを想像すると、少しだけ楽しくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ねぇ、りとちゃん。知ってる？私、本当はすごくえっちな子だったみたい。でも、まだ秘密なの。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ありがとうございました、と軽く礼をして今日の営業をおしまいにする。窓ガラスにお客さん向けの笑顔が映るのが見えて、外がまだ少し明るいなと思いながら浮ついた気持ちでステップを踏んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エー、タロウ。フランス語で話して」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外国語会話アプリとのおしゃべりは、閉店後の密かな楽しみの一つだ。いつもはみんなでフロアの片付けをするから、あんまりのびのび練習できない。だから今日は早くお店を閉めて、残りを趣味の時間に使うことに決めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タロウというのは、ＰＡＲＫに置いてある半身の腕なしマネキンに載せられたスマートスピーカーの愛称だ。廃墟探索で拾ってきたものを少し修理したら使えるようになったので、昼間はフロアの真ん中で名物店員と化している。発掘品としてはレア度が高いものではないけど、まともに動かしているのは私たちの店くらいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;発売当時はまだ全世界がインターネットで繋がっていたみたいだけど、ネット回線が失われた今となっては、バックヤードに置いてあるサーバーの情報くらいしか取り出せない。防衛本部が持っているデータベースとか、各所で見つけたディスクの中身はコピーしてあるから、たいていの質問には答えてくれる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;語学学習用のアプリはタロウにもともと入っていたもので、そこから話す言語に合わせて色々な国のお話をしてくれるようにちょっと改造した。私のことばを聞いて答えてくれるのは今のところタロウだけだ。りとちゃんにロシア語で話しかけても、不思議そうな顔をして頭やお腹を撫でてくれるだけだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんはあんまり勉強に興味がない。お店で使うレジ打ちくらいの知識ならまだしも、普段使わない外国語なんてなおのことだ。何度話しかけたって通じないのは分かっているのに、色々な言葉で話しかけてしまう。そうやって、りとちゃんに「わたし」を見せると少しだけ安心する。私の言葉を聞いてほしいと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が本を読んでいる時にわくわくしているのと同じように、りとちゃんはスケボーに乗って夜の原宿を駆け抜けながら「生きている」はずだから。そういうのびのびとした気ままな感性に、私は惹かれているんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんもそうだ。おめかしをしてお出かけするのが好き。可愛い服を作るのが好き。おしゃべりするのも大好き。きっと……りとちゃんのことも好き。素直で分かりやすい感情表現をするまりちゃんだからこそ、魅力的なクリエイティブを発揮できるのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界が壊滅した今、今日や明日を生きるのに必死な中でお勉強だなんて。たまにそんな風にやけになってしまうこともあるけれど、私から溢れる私の気持ちを大事にしないと、自分を見失ってしまうような気がする。自分の知らない世界のこと、自分の知らない自分のこと、自分の知らないりとちゃんのこと、まりちゃんのこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当はもっと二人のことを知りたい。二人と仲良くしたい。だから――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……タロウ。今日はおしまい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フランス語セットにない語調を検知したタロウの目が点滅し、日本語の検出に移行する。タロウの動きが何秒か止まってから、語学アプリが終了する音がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お店を早めに閉めて語学の上達に努めるというのは表向きの目的で、本当はもう一つの目的がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、タロウにはまだ秘密の機能があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オーケー、タロウ。りとちゃんにつないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、二人がいると絶対に起動できない機能だ。タイミングを見計らって秘密のパスフレーズを告げると、点滅が止まって「りとちゃん」が起動する。同じように「まりちゃんにつないで」と平坦な声で告げると、何度かチカチカした後にタロウの目から光が放たれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「り、りとちゃん。こんばんは」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【久しぶり、ことこ。最近あんまり呼んでくれなかったね】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【ねぇ、ことこ。私もお久しぶり、なんだけど？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、久しぶりだね。こんばんは、まりちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仄明かりを放つりとちゃんとまりちゃんが私の前に立つ。くるっとターンするまりちゃんの体重を感じさせないふわりとした動きが、彼女らがホログラムであることを際立たせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんとまりちゃんの声でしゃべるホログラムは、私が考えていたよりも精巧に仕上がっていた。私がのめり込んで何度も呼び出してしまうほどには。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タロウに搭載されたアシスタント・アバター起動用アプリには、説明文の最後に「ホームビデオを永遠の思い出に」と書かれている。その説明の通り、パッドで撮影したごく普通のムービーを取り込んで二人の声と外見を合成してくれた。それこそ、永遠の思い出になるような。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【それデ、今日はどうしたのよ、ことこ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【また、これからの三人の話？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。そうなの。すごく悩んでて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;合成された声は完璧なものではない。でも、その微妙なイントネーションの違いのおかげで、まだ現実と混同せずにいられるのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうよねぇ。わざわざ私たちを隠し撮りしてまで、こんなものを作っちゃうんだもの】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【私は別にいいよ。三人のコと、もっと考えても】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【あら、別に私も嫌ってわけじゃないわ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね、ずっと三人でいられたら良いなって思ってて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠い昔の私は、何もしなくても三人がずっと幸せにやっていけると思っていた。でも、そんな簡単な話があるはずがない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃんは、りとちゃんが好き？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【嫌いじゃないけど、気が合うタイプじゃないわね】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうかな？私はまりのこと、好きだよ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【ふーん、そ？悪い気はしないけど】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうやって、照れてツンツンしちゃうところもね】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【おちょくってるの？私、ことこのほうが素直で好きよ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうだね。ことこの素直で明るいところ、私も好きだよ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん！私も二人のこと、好きだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう言うと、まりちゃんはわざとらしいほどの驚いた表情で、少しだけ沈黙を保った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【でも、あなたが本当に好きなのはりとでしょう？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうなの、ことこ？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないよ！私は二人とも大好きで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【じゃあ、りとと私、どっちが好き？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【やめなよ、まり……でも、ちょっと気になるかも】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に、どっちも同じくらい好きだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、二人に対する好きはそれぞれちょっと違って。違うはずで。違うはずだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、りとちゃんには私の全部を見てほしいって思ってる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【全部見てほしい、ね。なんて美しい愛なのかしら】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【あれ。まり、嫉妬してる？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【どうして、こんなことでジェラシーを感じなきゃならないのかしら？そもそも――】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次に続くまりちゃんの言葉を覚悟して、胸がきゅっと締め付けられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そもそも、全部だなんて、私にはそんな思いを受け止めきれるか分からないもの】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。そう……だね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【私は、できるだけ受け止めてあげたいな】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そ。じゃあ、りととことこで仲良くやればいいじゃない】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【ちょっとまり、それどういう意味？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【分かってるくせに。私はお邪魔虫ってことでしょう？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん、違うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんには特別な「好き」を、まりちゃんには友達の「好き」を向ける。そうだった。この前までは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は一拍置いてから、まりちゃんの幻影に向かって何度目か分からない告白をする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最近ね、まりちゃんの全部が見たくなってきちゃったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【な、何よ、急に……】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【私もまりのこと、もっと知りたいかも】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【ことこもりとも、ごまかさないで。どっちが好きか、って話だったでしょ？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【私、りともことこも嫌いじゃないわ。でも、自分が一番じゃないと気が済まないたちなの】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこだけは分かってちょうだい、と付け足した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【やっぱり、ことこが決めないと、だめだよ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうね。いつまでこんなことを繰り返すつもりなの？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ごめんね。りとちゃん。まりちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【気にしないで。またね、ことこ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【まぁいいわ。また会いましょう、ことこ】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんとまりちゃんが私のシナリオ通りに会話を終える。仕事を終えたホログラムが消えて、タロウの機械的なアナウンスが店内に響いた。私は糸が切れたようにその場にぺたりと座り込み、軽く溜息を漏らしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふぁ、はぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はこういうことを何度か――何度も――していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アシスタント・アバターには、アバターのモデルの性格を元にして自律的に会話を進めるような機能はない。そのおかげで、私が書いた台本の同じセリフを何度も読み上げてもらうばかりになっていた。何も決めずに会話を繰り返せるのが、二人と一緒にぬるま湯に耽っているのが心地良かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「 &lt;em&gt;ことこ&lt;/em&gt; が決めないと、だめだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たくさん聞いた言葉でも、いつか私が決めなきゃならないのだと意識するとちょっとだけ苦しくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、まりちゃんと敵同士になってりとちゃんを取り合わなきゃいけないのかな？それとも、私がりとちゃんを諦めて、まりちゃんと幸せになっているのを見続ければいいのかな？考えすぎて頭がぐるぐるしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いっそ、りとちゃんにこの思いを告白してしまえばいいと考えたこともある。そうやって、りとちゃんとは特別な関係になって、まりちゃんとは仲の良い友達のままでいる。そんな不均衡な三角形のバランスが良いと思っていたのは、頂点にいるつもりだった「かつての」私だけ。最後には全部だめになって、簡単に崩れてしまうのは目に見えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなの当たり前だ。だって、脆い理想に寄り添っていた私でさえ、まりちゃんが気になり始めているのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本ではいっぱい読んだ色々なことも、いざ私に降りかかると抱えきれないものなのだと分かってしまう。私の中に渦巻いているのは、友情？それとも、恋愛かな？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、もっと二人のことを綺麗な視線で見ていると思っていた。こんなことなら、りとちゃんとまりちゃんの秘密を見なければよかったのに！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちは、誰かが誰かを諦めなきゃいけないのかな。三人一緒にはいられないのかな。私がりとちゃんを諦めたら、私だけが取り残されてしまうの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうしたら、私が二番目になって――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二番目、と口走ってから思わず口を押さえる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うー……りとちゃん……まりちゃん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うなだれる私の声に反応してぽぽん、と不意にアプリ起動音が響いた。今度はホログラムが放たれることなく二人の声が流れ始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【ねぇ、まり。ことこにいたずらしちゃおっか？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【いいわね、ベッドで両側から挟み撃ちにしちゃう？】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;【そうそう。ことこは耳が弱いから――】&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急にリアルな声で話しかけられて、私は思わずタロウの電源コードを引っこ抜いてしまう。彼から放たれる色々な光の点滅がすぐに失われ、同時にファンも止まってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今のは、二人らしいセリフを自動でしゃべってくれる「フル・オート」モードだ。作りかけのせいもあって、よく想定外の暴走を始めてしまうので取り扱いに困っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふ、二人から、耳を……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フロアが急に静かになって、静音ファンの弱い回転音が急に恋しくなる。二人のことを考えてどきどきしている心臓のことも今は意識したくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お風呂に入って落ち着かなきゃ。今日はミントのお風呂にしよう。頭をすっきりさせないと。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="4"&gt;4&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;お風呂は好きだ。その日あった良くないことを洗い流して、身体が全部良いことで包まれていくような気がする。毎日が楽しいことばかりなら、お風呂だって何倍も楽しくなるはずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭からざぶっとお湯を浴びて鏡を見つめる。水に濡れた私の髪がぺたりと張り付いて、何だか変な感じ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バスルームにはみんなの個性が詰まっている。だから、三人で入るお風呂はもっと好き。棚に並ぶシャンプーひとつとっても、値段やデザイン、成分……注目するところは人それぞれだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例えばまりちゃんは、香りや高級感を重視して選んでいる。いかにも女の子っぽい可愛いデザインのボトルに惹かれるみたい。お風呂場に並んだピンク色やオレンジ色のボトルは、他でもないまりちゃんその人のものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は可愛いデザインよりも、ボタニカルとかノンシリコンとか、髪に優しい成分を気にしちゃう。植物成分のシャンプーは優しいけど保湿力に欠けるので、最近ははちみつを配合したシャンプーを買っている。ほんの少し優しい香りがするのも好き。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方で、りとちゃんの気まぐれシャンプーはＰＡＲＫの不思議の一つだ。みんなで廃墟探索をしているうちに、いつの間にか在庫が増えている。りとちゃんが言うには「だって、髪は毎日洗わないといけないでしょ？」ということらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんが買ってくるシャンプーにはたいてい値引きのシールが貼ってある。買い出し当番の度に、ワゴンを適当に漁って買ってきているのだろう。ワゴンに回ってくるのはデザインも中身もごく普通のシャンプーだけど、赤と黄色のシールのせいでとても安っぽく見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんの場合に限っては、むしろ拾ってくるシャンプーの方が個性的だ。いつかの探索で、日本語が書かれていない（あれは中国語だった）シャンプーや歯磨き粉を拾ってきたのを見たまりちゃんは、流石に呆れて言葉も出なかったみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんはよく「女の子なんだから髪くらい気を遣ったほうが良いわよ」と言うけれど、りとちゃんはどこふく風と聞き流してしまう。このことで一度けんかになったこともあるくらいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;綺麗な髪で原宿を駆けたらきっとみんなが振り向くのにね、と私に残念そうな顔でこぼすのも何度目だろう。りとちゃんが自分の髪に気を遣わないせいで、むしろまりちゃんのほうがころころ変わるシャンプーの様子をよく把握していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんの気まぐれを押さえつけて、無理やりきちんとしたシャンプーを選ばせるのは難しいだろう。きっと、自分の好みを譲らないまりちゃんとけんかになってしまうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを解決する折衷案が「気まぐれシャンプー」リストだ。新しいシャンプーがりとちゃんの肌に合わなかった時に――あるいはりとちゃんの「気まぐれ」で――自分のシャンプー遍歴をまりちゃんに確かめるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんが使ったことのあるシャンプーリストから選ぶことにすれば、まりちゃんも好みを押し付けられない。まりちゃんはたまに不満そうな顔をするけれど、今のところこれが一番上手く行っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悪いシャンプーはリストにバツ印を付けて、前に使った「まだましな」シャンプーを探したり買ったりする。今のりとちゃんシャンプーも、まりちゃんに確かめたリストから買ってきたものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に仲良しだよね、二人とも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シャンプーボトルに引っ付いた剥がれかけの三割引シールが、りとちゃんの生活感を感じさせる。ボトルの凹凸を軽くなでて、それからポンプをかしゅっと押した。とろりとした冷たい液体が手に広がるのが心地良い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かしっ。もう一度ポンプを押すと、狙いが少し外れて手のひらからこぼれそうになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;指で掬ったりとちゃんのシャンプーは、いかにも化学製品っぽい匂いがする。お風呂のペパーミントと混ざって、何だか慣れない香りだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつもと違う洗い上がりになるのが分かっていても、もう手に取ったシャンプーはボトルに戻せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとちゃんをぐりぐりと両手に広げているうちに、心の中に後ろめたいわくわくも広がっていく。変な妄想が駆け巡って、りとちゃん色に染められていく私を想像してしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、りとちゃんが煙草を吸うようになったら、私は煙の匂いも好きになるのかな。冬の寒空の下、顔を近づけて、私も煙草に火を付けて……。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそんな心地良い煙たさを包み込むようにして、わしわしと髪を洗い始めた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="5"&gt;5&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;お風呂を上がった私は、タオルも巻かずに洗面台に立っていた。いつもと違う仕上がりの髪の毛をわさわさと撫でつける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うはー、りとちゃんの匂いだ〜！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手に取った時は慣れない匂いのシャンプーも、髪を乾かしてみればお風呂上がりの良い香りを演出してくれるみたい。さっきとは違って、ミントと混ざったおかげですっきりとした良い匂いになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;首を左右に振って背伸びをして、身体を動かしながらりとちゃんの「今月の匂い」を楽しむ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今回のりとちゃんシャンプーは割と普通だったけど、指通りが少しだけきしきししている。やっぱり私の細い髪にはちょっと合わないみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、そろそろ着替えて寝ようかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;服も着ずに夢中で髪をくるくるいじっていた私が、ふっと鏡の中からいなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔、タオルも巻かずに二人の前に出て、まりちゃんに怒られたことがあった。あの時は確か、シャワーの栓が壊れて止められなくなったんだっけ。本当は元栓を閉めてしまえば焦らずに修理できたんだけど、大慌てで知らせに行ったのを思い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パジャマと一緒にまとめられた下着を取り出して、丁寧に広げてみせる。誰もいないはずなのに、思わず辺りをきょろきょろ見回してしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それもそのはず、今私の手で広げられているのが、まりちゃんのパンツだからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お互い間違わないようにオリジナルの下着を作りましょう、と提案したのはまりちゃんだった。一緒に暮らすようになってから、割とすぐに。寝室は特にごちゃごちゃしていているから、個性のないアイテムは風景に埋もれてすぐに見つからなくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もともと、散らかりやすい部屋の中では特徴のあるグッズを使うようにしようという話はしていた。おかげでそれぞれの趣味をのびのびと楽しむことができたし、三人の個性も強くなった気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、私たちがそれぞれの道を進んでいくたびに、お互いのことが分かってくる。違うものを見ているからこそ、だんだんとお互いの魅力が見えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おしゃれへのこだわりや、明るくておしゃべりな性格。射撃が上手で、私よりとっても強いところ。それに、えっちな……女の子らしいところも見てしまったわけだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まさか魅力の発掘が、パンツの勝手なシェアに行き着くとは誰も思わなかっただろうけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりちゃん、怒るかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気付かれないようにしないとね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;足を通して、太ももを通して、ゴムを軽く伸ばしてお尻にかぶせる。当然、お手製とはいえ下着としての実用性は守られているから、あっけなく装着できてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鏡に戻ってきた私が、パンツ一枚で嬉しそうな顔をしてくるくる回りだす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんは、ピンクの布地にレースが付いて、緑のチェック柄で縁取られている。私には少しだけ大きい。すとんとした私の身体と違って、まりちゃんが魅力的なプロポーションなのが手に取るように分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃんは、こういうのが好きなのかな……はぅ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;するりとお尻を走った指で、自分が思ったよりも敏感になっていることに驚いてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思わずへたりこんでしまった私の中に、まりちゃんを触るりとちゃん、りとちゃんに触られるまりちゃん、いろいろな感覚が混線して頭がぐちゃぐちゃになる。そのまま身を委ねて曖昧な感覚に溺れたくなってしまう。まだ、寝る前の勉強もしないといけないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そっと手を滑らせて、レースの部分を撫でてみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日も綺麗だね、まり。りと、どこ触ってるのよ。ことこが見てるじゃない。いいじゃん。見せてあげようよ。ちょ、やだ、りと――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これは、ちょっとヤバいかも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼふっ、とベッドの柔らかさに包まれて、色々なことを考えたくなる。もこもこのパジャマに袖を通している間も、布地が擦れていちいち身体を揺らしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりちゃんとぴったり肌が触れていることを意識させられながら、結局私は悶々とした気持ちで寝室に向かうことになったのだった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="6"&gt;6&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ぼんやりと思う。私たちには、私たちのやり方がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃんまりちゃん。報告書に書けないことはしないほうがいいよ……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;探索から帰ってきた二人は、何事もなかったかのように北方探索のお話を聞かせてくれた。文字を食べるクラゲが水槽にたくさんいたけど、その存在を隠し通すつもりなのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもね。でも、可愛いクラゲの平穏と静寂を守れたから、朝はとっても気分が良かったの！ね、りと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ。これからはちゃんと気を付けなきゃね、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも私は、探索に出かける前に倉庫のお酒が一本減ったのを知っている。りとちゃんがそのお酒を飲んだことも分かっている。あわよくば、もっと楽しいこともしたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいんだ。全部、私が望んだこと。これからの関係は私たちが作っていくの。また、一緒にお風呂に入ろうって、ちゃんと言わなきゃ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-items"&gt;EXTRA: ITEMS&lt;/h2&gt;
&lt;dl&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;ことこのスケジュール帳&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;ことこが愛用しているスケジュール帳。普段の予定はパッドで管理しているので、この手帳にはあまり書き込みがない。一ヶ月分の予定が書き込める見開きページには、赤・青・緑のハートが一枚ずつ貼ってある。&lt;/dd&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;黒いノートパソコン&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;ことこがよく日記の下書きに使っているノートパソコン。もとは探索中に発掘したもので、少し修理するだけで使えるようになった。スペックはそれなりだが、けんかに巻き込まれても壊れなかったほどのタフさを誇る。&lt;/dd&gt;
&lt;dt&gt;&lt;strong&gt;ページが抜けた日記帳&lt;/strong&gt;&lt;/dt&gt;
&lt;dd&gt;ことこがほぼ毎日書いている日記帳。一度だけりとに読ませようとしたことがあるが、そのまま突き返されてしまった。実は、一部のページが丁寧に切り取られており、その部分はもう誰も読むことができない。&lt;/dd&gt;
&lt;/dl&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10647286"&gt;ペパーミント・バスタイム&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="http://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes"&gt;PARK Harajuku: Crisis Team!&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://park-harajuku.net/items/571618ff9821cc715e000f8b"&gt;PARK:HARAJUKU Crisis Team! 日本語ver 単行本&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;URAHARA&lt;sup id="fnref:urahara"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:urahara" title="https://urahara.party/"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:urahara"&gt;
&lt;p&gt;https://urahara.party/&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:urahara" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>団地</title><link href="https://ama.ne.jp/post/national-pregnancy/" rel="alternate"/><published>2018-12-08T21:37:00+09:00</published><updated>2018-12-08T21:37:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-12-08:/post/national-pregnancy/</id><summary type="html">&lt;p&gt;生殖免許はありますか？&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;video autoplay loop muted width="600" height="315" src="/images/national-pregnancy/top.webm"&gt;ベランダに面する窓にウサギ、サル、クマ、コアラ、風船、虹などのかわいいイラストが貼り付けられたレンガ調タイルの住宅&lt;/video&gt;&lt;/p&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ナナロク。そろそろ、子供作らない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「またその話？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「センターがうるさいんだってば、ずっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が76784291739271号に子供をせがむのは実に簡単な理由で、つまりは私の社会的地位の向上のためだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナナロクは、綺麗な女だ。遺伝子が優良か――残す価値があるかどうか――は単なる容姿や学力で決まるわけではないとされていながらも、ナナロクは顔で選ばれたとしか思えない。それほどまでに、身体が弱くて、バカで、性格の悪い女だった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;整然と並んだ団地の大きな一棟の、小さく区切られた一室で私たちは暮らしている。画一的で効率の良い住居はどこも薄汚れたレンガ風の外壁で囲まれていて、私が移住してきてから何一つ変わっていない。とうとう足が帰路に必要な歩数を覚えてしまったのか、無意識でも家に帰れるようになってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真夜中に窓を開けると、向こうの棟に玄関を照らす蛍光灯がよく輝いているのが見えて、少し寂しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;暮らしに不満はないけれど、変化のない毎日はそんなに楽しいとは思えない。この狭い部屋に誰かが遊びに来るわけでもないし、私だって誰かの部屋に遊びに行きたいわけではなかった。この部屋の住所は「126-021-005 02208」となっているけれど（部屋番号はこの前の都市住居法の改正で五桁になった）、実際には住民番号を入力すれば手紙も荷物も届くから誰も自分の住所は覚えていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人類が居住を許される区域は年々狭まっていた。私だってこんな狭い部屋で二人暮らしを続けるのは嫌だけど、抜け出したってどこに行けるわけでもない。とはいえ、そもそも百万人を一つの都市で抱えようとするのは、あまり余裕のある計画ではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聞くところによれば、地球が緩やかな絶滅（テレビではこれをよくニーマルニーマルと呼んでいた）へと向かおうとしているらしい。エネルギー資源の枯渇に異常気象、それに加えて急激な太陽変動ときた。要するに、地球に人類を養うだけの余裕がなくなったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結果として、最終的に二百数十億にまで膨れ上がった世界人口は、大量の核兵器の力で大きく減らされることとなった。始まりはその場しのぎの戦争だったけど、あれは必要なことだったと皆が言う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、暴力的な手段とはいえ地球への負担を減らすことはできたけど、やはり地球には大きな爪痕が残されることになる。放射能汚染による居住可能区域の減少と、大規模な爆発が繰り返されたことによるさらなる気象変動が引き起こされたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もはや人間が暮らせなくなった大地と私たちを分けるようにして、都市を包む巨大なドームが設置された。ドームの中にいれば、少なくとも（物理的な）生存は保障される。ただ、都市全体を快適な状態に保つには莫大なエネルギーが必要となるはずだ。この先どこからエネルギー資源を確保できるのか、この巨大なシェルターをどれだけ維持できるのかは、末端の私たちには知らされていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;子供を産んで育てることは、実質的に禁じられていた。そうでもしないと、我々が我々を絶滅させることになるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、自分の遺伝子を残したいという素朴な生物学的欲望は、辛うじて「生殖免許」として残されていた。そして、優良な遺伝子を除いては、自らのコピーを後世に伝える方法は残されていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「あのさ。ミミは、本当に子供が欲しいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「欲しいよ。私だって、何のために育児免許取らされたか分からないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、育児免許を取ったのはミミが不良遺伝子だったからじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ？！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目も合わせずに答えるナナロクは、パチパチと爪を切りながらその無関心さをアピールする。悪意に悪意を重ねた「不良遺伝子」なんていう悪口に、思わず大きな声が出てしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;優良遺伝子保持者はみんなこうなのか？　遺伝子の「強さ」でマウントを取り合う文化でもあるのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、「非優良遺伝子保持者」が「優良遺伝子保持者」に比べて待遇が悪いことは否定できなかった。非優良遺伝子保持者が出生以外で社会に貢献するには、男性なら不本意な運労をするか、女性ならそれに加えて育児に携わらなければならない。現在の問題に取り組むか、未来への投資に取り組むか、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うっさいな。いちいち叫ばないでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとしきり爪を切ったナナロクが、本当に興味がなさそうな様子で落とした爪を拾い上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はね、あんたがセンターに連行されて卵子を引っこ抜かれないように、わざわざ忠告してあげてんの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、うん。ありがたいご忠告、本当にありがとうございます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マグカップを持ったナナロクが、私の隣に座り込む。ソファが小さくきしんで揺れた。コーヒーの香りが鼻をくすぐって、叫びたい衝動が少しだけ収まる。私の機嫌が悪くなっていることも、放っておくと面倒なことになることも、それなりには理解しているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まぁ、もちろんそのマグカップは私の分ではないんだけど。ナナロクはたっぷりのブラックコーヒーを苦そうに啜って、その白いカップをゆっくりテーブルに置いてから、軽く伸びをする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、そろそろ子供作ろうよ。私がちゃんと育てるからさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「逮捕されそうになったら、その場で死ねばいいじゃん。そんなに生きたい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は苦しまずに死にたいけどね。優良遺伝子保持者さんは、人生がお気楽で本当に羨ましい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;生殖はあくまで自由意志によるものとされた。ほとんどの優良遺伝子保持者は、「自由意志で」子供を残して都市の運営に貢献している。優良遺伝子保持者が免除されている多くの責務は、その生殖能力の活用と引き換えになっているからだ。たいていの優良遺伝子保持者は複数の相手と何度も子を為し、それ以外の者たちから――特に男性からは――羨望の目で見られていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たまにナナロクみたいなやつもいるけど、そういうやつはとてもレアで、とても異常だ。都市運営にあんまり非協力的だと、センターが令状を発して連行した上で、精子や卵子を採取されることになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、この部屋にはそういう強制処分を匂わせる警告状が何度も届いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私が死ぬ時にさ、ミミも一緒に死のうよ。ミミと一緒なら苦しくないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の顔を覗き込むナナロクは、まるで面白い遊びを思いついた被保護住民のように無邪気な声で私にそう提案した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バカ言うなって。優良遺伝子の喪失が社会にどれだけダメージを与えると思ってんの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あはっ。確かに、社会は大事かもね。それなら、ミミは残していくよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が優良遺伝子の喪失に関わったとなれば、どんな酷い待遇が待ち受けているか分からない。バカなナナロクでもそれくらいは知っているだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;笑いながらつまらない冗談を吐くナナロクは、本当に腹が立つ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;クローン技術はおそらく失われていた。より正確に言えば、遺伝子を調整する技術が発達しきっていなかった。だから、いわば「オーガニック」の優良遺伝子保持者は重宝されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドームに住む人たちは、先の見えないことに対する漠然とした不安を抱えていたから、優れた人類を生み出すことに強い期待を寄せていた。デジタル狐像を撫でても、電子線香を焚いて祈っても、どうにもならないのは分かっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新たな生殖は、人類の夢を背負っていた。だから、私がナナロクに子供をせがむのは単に社会に迎合するためだ。社会の期待に応えなければ、この都市では生きていけないから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が死んだ後の人類の未来なんて、どうでもよかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ミミ。もしも、ミミが優良遺伝子だったら、ちゃんと子供作ってたと思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何それ？　まぁ、大喜びで妊娠してたと思うよ。もしも、なんて言われても意味がないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよね。うん、ミミはそうだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;唐突にそう尋ねたナナロクは、そうだよね、そうだよねと繰り返しながら、納得するように何度も頷いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急にどうしたの。インタビュアーの練習？　そんな運労、入れてたっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、外には行きたくない。息が苦しくなるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、何？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん？　別に、ただの世間話だよ。ミミ、なんか難しい顔してたから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見抜かれたような心地がして、思わず頬に手を当てる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみると、テレビも付けずに二人でくつろぐ夜なんて、久しぶりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつもなら、「あの街この街まっしぐら」（もう何度も再放送されている）を観ながら適当なことを喋っていれば、いつの間にか時間が過ぎていた。もうとっくに廃墟になっている街の、もうとっくに閉店している喫茶店の内装について難癖をつける。いかにも頭が空っぽなコメントを投げつけても、タレントは何も文句を言わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;毎日のニュースはあまり見ないようにしていた。ナナロクに付き合って見る夕方のニュース番組には、刺激的なトピックは一つもない。凶悪事件も起こらない、火山も噴火しない、逮捕も革命も起きない。だからこそ、地球が緩やかに滅びているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、夜が来るのが怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁね。私も、自分が優良遺伝子保持者だったらなって、たまーに考える」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしも、私が「優秀」だったなら、喜んで社会に希望を残しただろう。そうするだけで、生きることを許されるのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たくさんの優秀な遺伝子と交ざって、未来に資産を残す。それは、優秀な遺伝子の持ち主にしかできない専門運労だ。運労に必死に取り組むのが正しいことかは分からないけど、それは私に生きる意味をくれるだろう。そして、きっと今より心も生活も満たされることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだね。ミミなら、きっと上手くやれたよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと上手くやれた、とナナロクは言う。私に寄せた同情か、あるいは無責任な予言のつもりだろう。ナナロクはよく、そういうやり方で私を激励していた。未来への期待が溢れる時代でもなければ、無邪気に夢を見る年齢でもなくなったのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はさ、家も出たくないし、誰かがここに来るのも嫌だから。やっぱりセンターからしたら落ちこぼれの優良遺伝子だからさ、私って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナナロクが、空になったマグカップをゆらゆらと揺らす。カーペットに落ちる影が、しきりに形を変えて落ち着かない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;優良遺伝子かどうかは、生まれた時点で決まっているとも、その後の人生の様子で評価が補正されるとも言われている。でも、もし私の生き様を勘案しても「優秀」ではなかったなら、どうしてナナロクの方が「優秀」だったんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やればできる子、とでも？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、ヤればデキるんじゃない？　正直、誰かが代わってくれるなら、代わってほしいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何言ってんの。子供を産むだけで褒められるんだよ？　そんな簡単な仕事なら、私が代わりたいくらい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冴えない人生だったとしても、自分が残した子孫が勝手に自分の評判を高めてくれる。上手い話すぎて怪しいくらいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、バカな遺伝子って判定されたのはミミでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ！　またバカって言ったな！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと待ってよ。それは事実じゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「事実だから何？！　いいよねぇ、あんたは！　やろうと思えばすぐパコって子供産めるんだもんね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミミ！　それは言うなってば！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナナロクが、私に応酬するように大きな声を上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつものナナロクなら、私につられて感情的になったりはしないのに、子供の話になるとときどき声を荒らげることがあった。とはいえ、子供が嫌いというわけでも、センターへの反抗心があるわけでもないらしい。どうやら、自分に課せられた生殖免許が気に入らないらしいのだ。つまり、ただただ「子供を産みたくない」のだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうして社会に背いてまでその運労を拒むのかは分からないけど、確かにこの現状は彼女の遺伝子にとっては落ちこぼれというほかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーあ！　セックスの快楽に出産の喜びだなんてバカな女の欲望フルセットだな！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミミ。やめて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナナロクが立ち上がった私を止めようと腕を掴むのも構わずに、さらに天井に向かって叫んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一方の私は、生まれた時から万年処女確定！　何のためにメスとして生まれたのか分かんな――ぎぁっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、息をすっかり吐き出し終わるより前に、無理やり肺が折り畳まれて踏まれた猫のような声が搾り出される。身体を左右に動かして、ナナロクが私を抱きしめていると分かったのは、それから少し後のことだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミミ、落ち着いてよ。セックスなら私ともできるからさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バカ！　あんたなんかに抱かれたくない！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、ミミって私のこと好きだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……は？　何が？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;唐突な話題の転換に、頭がついていかない。私はただ、ナナロクの喧嘩を買っただけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が一番好きなの、ミミだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、はいはい。そうね。あんたは家から出ないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;顔を合わせない問答に、少しだけ安心しながら言葉を返す。ナナロクが私をどう思っていようと構わないはずなのに、耳元がくすぐったい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、ミミって、私がどこかに行っても戻ってくるって信じてくれてるっていうか……そう！　正妻の余裕、あるよね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナナロクが抱きしめた私を引き剥がす。そして、私の目を見ながら、もう一度「正妻の余裕、分かる？」と尋ねた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は面白いアイデアを思いつくと、必ず嬉しそうな表情で私の顔を覗き込むのだ。彼女のいう「正妻の余裕」というのは、昔デジタルディスクで観たドラマのセリフの引用だろう。その時も、ナナロクは私に同じようなことを言っていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「正妻の余裕、ね！　そうですか。私たちはラブラブで、私だけ都合のいい女って言いたいわけだ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「都合よくなんかないよ。私もミミを大事にするから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「精液臭い手で触られた女が、生意気な子供連れて帰ってきて、私を大事にします？　死ぬほどつまんないジョークだな！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、それは義務なんでしょ！？　相手がいないなら、私だって子供なんか産めないよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私が好きとか言ってないで、もっと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;がちゃん。私の言葉を待たずに、ナナロクの指から白いマグカップが滑り落ちた。真っ二つになったカップが、乾いたコーヒーで濡れた中身を露わにする。粉々になった破片はカーペットに潜り込んでしまって、もう取り出すこともできないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ナナロク。それが、あんたの答え？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよ、ミミ。今のはわざとじゃなくて、ただ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もういい。センターでもなんでも行けばいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ミミ。私がどこかの誰かとセックスして、知らない子供を妊娠しても、本当にいいの？　ミミは本当に、私のこと好きじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……知らない。勝手にすれば」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナナロクは本当にバカで、本当に性格が悪くて、本当に、綺麗な女だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/2944"&gt;百合SS Advent Calendar 2018&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>しあわせミサイル</title><link href="https://ama.ne.jp/post/happiness-missile/" rel="alternate"/><published>2018-11-21T15:40:00+09:00</published><updated>2018-11-21T15:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-11-21:/post/happiness-missile/</id><summary type="html">&lt;p&gt;オリンピック&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/lilie-von-prora/"&gt;Lilie von Prora&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;彼女にべったりこびりついた &lt;em&gt;しあわせ&lt;/em&gt; は、なかなか落ちなかった。思い出してみると、私たちのエリアは特にＨＰＳが良かったし、どうしようもない副作用なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃん、花火綺麗だね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ポップな絵柄の手持ち花火が、長い火花を出してよく光る。妹はその真っ赤な光を楽しそうに振り回しては、何度か私の顔を見て笑っていた。時折、火花が妹の顔を良く照らして、上気した頬が夜闇に浮かび上がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;花火は、思っていたよりもずっと明るかった。クォーツが放つ燐光をかき消すようなその光に、私は何を託せばいいのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;砂浜に振りまかれた花弁は散り散りになって、どこかへ消えていく。それが今の私たちの様子を暗示しているようにも見えて、どこか物悲しかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私たちがこの浜辺のリゾートに連れてこられたのは、ほんの数ヶ月前――（ＧＮＣ暦で）ＤＡＰ年のＡ期――のことだ。私が数年ぶりに家に戻って間もなく、妹と共にこの国営保養地への移送命令が下ったのだ。おそらくは、成績低下を危惧したエリア長の策略だったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;父と母は優しく微笑んでいたけれど、どうしても私に向けられたようには思えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;団地からの排除は、社会的な死を意味していた。妹もそれは良く分かっていただろう。弾けるような明るさを &lt;em&gt;強いられている&lt;/em&gt; にも関わらず、焦燥と不安を隠し切れずにいるのを私は見逃さなかった。しばらく団地から離れていた私にとっては、不安よりはむしろ引っ越しの面倒さの方が強かったけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、リゾート自体は悪い場所ではなかった。粒の良く揃った砂が敷き詰められた砂浜に、その砂浜がずっと向こうまで透けて見える遠浅の海岸。植えられたヤシの木は人工樹で、こういう見せかけの植栽は団地とそう変わらない。汚れた空気ではまともな植物は育たないものだ。バスを降りた時に感じた呼吸の違和感は、そう離れた場所には来ていないことを暗示していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天気が良い時はずっと向こうに陸地が見えることもある。ずっと向こう――たぶん数キロメートルから数十キロメートルくらい先――だと思うけど、汚れきった空気を通した距離感はあんまり信用ならなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;自然&lt;/em&gt; のロケーションは申し分ないにせよ、気になる点もあった。全長二キロメートルほどの巨大な居住棟が、砂浜と道路を分けるようにそびえ立っているのだ。その横の長さのせいで、六階ほどの低い建造物の割には異常なほどの存在感を放っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;道路以外には見渡す限りの松林が広がっているだけで、それがさらにこの建造物の異常さを際立たせていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな大きな建物はエリア内でも見たことがない。その大きさの割に、手入れはしっかりと行われているようだ。地中海の風景を思わせる真っ白な外壁は、古くて巨大ながらも定期的に塗り替えられているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔はもう少し賑わっていたのだろうか？　施設に面した道路に設置されたバス停は、縁石で塞がれてもう使われていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな寂れた施設の割にはよく整えられていて、不自然ではあるけれどさほど不自由は感じない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、妹は団地外での生活のあれこれに慣れていないらしく、 &lt;em&gt;給仕&lt;/em&gt; を連れてきてほしいと訴えていた。入居の時に数人のスタッフに施設を案内されたけど、おそらく、ここに配置されているのは彼らだけだ。だから、専属で私たちの世話をする（まさに給仕のような）係が付けられることはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;妹は無口で暗いナースたちを怖がっている。 &lt;em&gt;常識&lt;/em&gt; に反するからだ。ただ、最近は諦めたのか「負けないで頑張ろうね、お姉ちゃん！」なんて悲劇のヒロインじみたことを言うようになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;笑える。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私があのとき団地を出ることを &lt;em&gt;許された&lt;/em&gt; のは、単に私が妹よりも年上だったからだ。または、私にしあわせを醸成する素質がなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;違う言い方をすれば、妹は幼かったので団地を出ることができなかった。つまり、妹がシステムに向いているかを判断するにはまだ時期が早かったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が家族の許を離れる少し前に、妹に初潮が来たことは、私と母だけの秘密だ。母は娘を二人共失いたくはなかったから、そして私も、ある程度システムに組み込まれていたから、そういう自己犠牲は仕方がなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;団地での生活の中心には、いつもクォーツが据えられていた。各家庭に配置されたハート型のローズ・クォーツは、ほのかにピンク色の燐光をまとっており、触れると内部の光がはうように動くのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このクォーツが、みんなのしあわせの象徴だという。触れると光と共に流れ込んでくる痺れるような感覚を、みんなは「しあわせエネルギー」と呼んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;表面に彫られた「ねがいがかなう」の文字は不気味に輝いていて、見つめるたびに後ろめたい感覚に襲われた。教室の花瓶が粉々に砕かれているのを発見してしまったような、誰かの内臓が不用意に露出しているのを盗み見てしまったような、そんな感覚。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;団地に &lt;em&gt;収容&lt;/em&gt; された人たちは、一日に何度か（改正が繰り返されているが、私が家を出る前は二回で済んでいた）このクォーツに触れることを &lt;em&gt;奨励&lt;/em&gt; されていた。手のひらを押し付けるように、三秒間だけ触れるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クォーツには目を開けたまま触れても良いが、一日に二度以上見つめながら触れてはならない。クォーツが放つ光が強くなるからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;各家庭に渡されたクォーツは心の拠り所であり、娯楽であり、ある種の監視カメラでもあった。クォーツを安置するクッションの周りはいつでも清潔に保たれており、全員でその神聖さを保ち続けている。人々はクォーツに触れることで団結していたし、それが団地のＨＰＳ向上の重要なファクターとなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;タバコや酒をする人はそんなにいない。それがしあわせではないからだ。クォーツに触れた時に得られるある種の快感がそれらの代わりになっている、という主張は許されなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を見守ってくれるクォーツに一日に何度でも触れたいと思う。しあわせだからだ。大切な家族を、自分の共同体を、この国をいつも心から好きだと思う。しあわせだからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;嘘をつかない、不純なことはしない、クォーツを疑わない。しあわせではないからだ。どんなことがあっても、自分の団地の外に出ようとは思わない。しあわせではないからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;国民全員を効率的にしあわせにするには、国民を集めて統一的な生活を送らせるのが最適な選択だった。少なくとも、全国の二十の巨大な団地では、そういうことが強いられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリアの周りは川で囲まれていて、無邪気な男子たちは毒の沼だと呼んで騒いでいた。私は汚水が垂れ流しになっているだけだと分かっていたけど、決してそう主張することはなかった。先生がそういうデマを叱りつけなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おそらく、私みたいな子は他にもいただろう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;建物が赤く塗られている。Ａ棟がすっかり塗り潰され、Ｂ棟も半分以上ペンキで塗り上げられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その変化に最初に気付いたのは妹だ。数週間前から始まったそれは、模様替えというには唐突で、しかも派手すぎた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、こういうイレギュラーに特別弱いはずの妹は、むしろそのカラーリングを歓迎した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃん、赤ってテンションが上がる色なんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは分かるけど、やっぱり急すぎるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちの部屋はＣ棟の二〇二〇号室だ。朝から晩まで良く陽の当たる部屋で、レースのカーテンが作るふわふわとした影が波のように打ち寄せる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遮るものがないおかげで、砂浜から水平線まですっぽり窓に収まっていた。窓からは赤い外壁が目に入らないから、少しだけ安心する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さなシングルベッドが部屋の両側に置かれ、その向こうには申し訳ばかりの小さな机が打ち付けられている。それ以外には、ごくシンプルな壁掛け時計に白い壁と木質の人工床くらいしか見えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;妹が「きちんと片付けて」と言ってくるから、机には日記やペンを置くこともできない。生活感は嫌われていた。団地では、いつもそういう不必要なまでの整理整頓を &lt;em&gt;励行&lt;/em&gt; していたのを思い出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;食事は一日に三回、配膳車に載せられて部屋の外に置かれている。少なくとも、このフロアには他に誰もいないようだった。メニュー自体に文句はないけれど、背中合わせでとる食事はそんなに気分の良いものではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;妹はたまに早起きして、配膳係のナースに向かって執拗にクォーツへのアクセスを請願していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まだ、かかるんですか。はい……いえ、分かりました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クォーツに触れないと分かった妹は、決まってそわそわと落ち着かない様子を見せる。それは、彼女にとって相当なストレスだっただろう。 &lt;em&gt;明るくて元気な妹&lt;/em&gt; のイメージは、彼女自身をしっかり縛り付けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから私は彼女の整った爪がぼろぼろになる前に、海を歩こうと言って砂浜に連れ出すのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三キロメートルほどの砂の散歩道を何度か往復し、日が落ちるまで座り込んで波の音を聴く。十日に一回くらいは、そういう何もしない日があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当に何もしない休息日は、むしろ私のほうがそわそわする。 &lt;em&gt;奉仕&lt;/em&gt; に駆り出されている間は、休息日さえもしあわせへの活動に当てることを強いられていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃんは、クォーツに触れなくても平気なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。私は、しあわせじゃなくなったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そっか。また、しあわせになれるといいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がクォーツに触れる必要がないことを告げると、妹は心から憐れむような表情になる。妹だけではなく、たぶん、団地の誰もがそうするだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;団地を離れていなかったら、私もこうなっていたかもしれない。 &lt;em&gt;落ち着いたお姉ちゃん&lt;/em&gt; としての、私に。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私が団地――エリアの外に出て命じられた仕事は、しあわせの生産と、二酸化炭素の削減だった。人体実験じみたしあわせの抽出は非常に過酷で、私もＢ子も疲弊しきっていた。彼女は今どうしているだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出身は同じだったはずだけど、第五エリアに戻ってからＢ子を見かけたことはなかった。まだ、しあわせを搾られて続けているのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しあわせが空っぽになると、巨大な勢力に反抗する心も失われるものだ。これらの手法のどれだけがクォーツに取り入れられるのか想像すると、苦しさが紛れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が奉仕から解放されて家に帰ると、家を出る前とは別の給仕が付けられていた。給仕の任期はそう長いものではないし、私が戻ってくるまでの数年の間に三度は変わっただろう。均質化プログラムを正しく経た給仕は、後頭部に刻まれたアドレスでしか区別できない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新しい給仕は、私の指令を聞こうとはしなかった。それも当然で、私にまだクォーツにアクセスできる権限がなかったせいだ。外から来た私が触るとクォーツが汚れるらしく、 &lt;em&gt;治療&lt;/em&gt; が済むまで通常の生活は禁じられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クォーツへの接触は禁止されていながらも、両親は私がどうしても触りたがるだろうと思っていたらしい。憐れむような目つきが、その勘違いを良く物語っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、触ろうとするそぶりも見せないと分かった後は、触りたがらないことすら忌み嫌っていたけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃん、ご飯だって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、今行くよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;変わったのは、給仕だけではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の食器がなくなっていたのだ。妹とお揃いだったピンク色の茶碗は、たった一つしか残っていなかった。客用の食器は白くて、まるで空っぽの私の心を表しているみたいで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;父も母も私の涙を気味悪がって近付こうとはしなかった。たぶん妹も、私の涙に触れたらしあわせが失われると本気で思っていただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ……私って、そんなに汚い？　そんなにしあわせが大事？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がった私は、椅子が倒れるのも気にせずにリビングへ向かう。汚い涙を流しながら歩く私の一挙手一投足に、みんな困惑した視線を向けたままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;彼ら&lt;/em&gt; は私から搾り過ぎていた。心がすっかりひび割れてからこんなところに戻されても、どうしようもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リビングに鎮座したローズ・クォーツを持ち上げる。体積の割に重く感じる &lt;em&gt;エセ&lt;/em&gt; 御神体は、手に乗せると光が強くなり、重心がぐるぐると動いているのが分かる。ぶちぶちとコードがちぎれ、そこでやっと、母の悲鳴と父の怒鳴り声がほぼ同時に響いた。 &lt;em&gt;よそ者&lt;/em&gt; の私が何をしようとしているのか、本能じみた部分で感じ取ったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、父の身を挺した飛び込みは間に合わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;持ち上げたクォーツを床に叩きつけると、重いものがぶつかる鈍い音と、結晶が割れる鋭い音が辺りに響く。クォーツからはピンク色の液体が漏れ出し、それがすぐに紫色に変わって結晶状に固まるのだ。いびつな自己修復が自らの神聖さをかき消して、醜いものに変えていくのがたまらなく面白かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;父は共同体での &lt;em&gt;死&lt;/em&gt; を危惧したのか、すぐに私を犯罪者として通報した。私たちの移送措置が決定されたのは、それから間もなくのことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;娘に執着していた母さえも、私と目を合わせようとはしなかった。私たちを見送る時の両親の優しい笑顔は、監視カメラに向けたアピールだったと思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;夏の終わりに差し掛かり、また大きな異変が訪れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ピンク色の海に最初に気付いたのは、また妹の方だった。真夜中に私を起こした妹が、興奮しきった様子で海の様子が変だと告げたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょうどこの前建物の全面が赤く塗られてしまったから、おそらく寝ぼけて混同しているのだろう。そう思って相手にしなかったけれど、妹はそれからずっと起きて海を見ていたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝になって窓から外を眺めてみると、妹の妄想が現実だったと思い知ることになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浜辺に降りると、鮮やかな色の海水にたくさんのクラゲがうようよ浮かんでいる。海水が汚染されているにも関わらず、透明度はほぼ変わらない。クラゲの向こうに海底の砂まで良く見えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海水は黄灰色の砂にも良く染み込んでおり、夏らしい砂浜には団地を囲う &lt;em&gt;毒沼&lt;/em&gt; のように乾いた汚れがこびりついている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏の終わりの風物詩が、こんなにも異様な風景になるとは思わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんまり近づくと、刺されるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、すごく落ち着くよ。お姉ちゃんもこっち来て」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいよ、私はここでいいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;座り込む私をよそに、妹は大はしゃぎで水遊びを楽しんでいる。裸足でぱしゃぱしゃと水を跳ね上げては、身体中に水しぶきを浴びて院内着に不規則な模様を刻んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海水はほぼ均質にピンク色で、水面と空が重なって紫色の水平線が広がっていた。水の中にはクラゲと一緒にときどき紫色の塊が浮かんでおり、鉱石が割れる不吉な光景を思い出す。これ、もしかして――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃん、これ、クォーツじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;妹が、爪先に感じる違和感を拾い上げようとする。手で砂ごと掬い上げる動きがスローに感じられて、今からでも妹の手を止められるのではないかと錯覚してしまう。もともとここはごみ一つない綺麗な砂浜だったから、海水の変化と共に訪れたその異物に嫌な予感がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「見て見て！　やっぱり、クォーツだよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;指の隙間から砂が零れ落ちていくうちに、その結晶の姿があらわになっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;砂に埋まった三センチメートルほどの無造作な球体が、空気に晒されて光りだす。その塊は、ビーチグラス特有のマットな質感を備えていなかった。むしろつやつやとしており、人工物じみた光を良く反射している。さらに、そんなぎらぎらとした反射光だけではなく、内部から漏れ出る光がゆらゆらと砂に落ちて揺れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただの漂着物ではないのは明らかだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、妹は漂着物の真贋を疑うべくもなく、満面の笑みでクォーツを握りしめた。一日に数秒だけ、しかも目を瞑って触らなければならないものを、こんなに摂取し続けたらどうなるかは考えていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごい、これ、いつもよりもしあわせエネルギーが伝わってくる……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手の隙間からは、砂浜に差すほどの強い光が飛び出し続けている。もはや妹が正気を保てるようには思えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;十数秒か、あるいは数分か。みんながこの光景を見たら、きっと妹を天使だとでも思うのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;妹が手のひらを開くと、クォーツが放つ光は元の弱々しい光に戻る。心なしか、内側に潜む光の動きの周期がさっきよりも早くなっているように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふー……満足。お姉ちゃんもする？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に歩み寄る妹の足がおぼつかない。「大丈夫だよ、お姉ちゃん」と言いながら砂浜をふらふらと歩く姿は、団地で初めに教わる &lt;em&gt;しあわせ酔い&lt;/em&gt; の症状そのものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、いらないってば」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっかー。気持ちいいのになぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すっかりしあわせエネルギーを &lt;em&gt;補充した&lt;/em&gt; 妹は砂浜に横たわり、太陽にクォーツを透かしてみせた。妹の顔には紫の光が差して、まるで海の底で横たわっているようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「食器のこと、ごめんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何の話？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃんのお茶碗、捨てちゃったのは私なの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;呆けた顔の妹が、口だけを動かして声を出している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;奇妙なことだ。妹の記憶がどこからか呼び起こされている。何年も前に終わったはずのことを、何ら罪悪感なく行われたはずのことを、わざと揺さぶるように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何がこんなことを喋らせているのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰が、私を泣かせようとしているのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいよ……別に」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、お姉ちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、妹が指で私の目尻をなぞる。 &lt;em&gt;汚れた&lt;/em&gt; 涙を掬って口に運ぶ。それから、妹は目を閉じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お姉ちゃん。次は、ちゃんとするからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。だから、もうクォーツなんて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どろり。そのまま、妹は溶けて無くなった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;妹がいなくなってすぐに、私はこのリゾートから去ることになった。大赦と書かれた命令書を見ても、妹を犠牲にして私が &lt;em&gt;許された&lt;/em&gt; のは明白だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;団地に戻ると、父と母もいなくなっていた。より正確には、第五エリアがほぼ壊滅していた。私の家族が見せしめに処罰されたわけではなく、まるで団地全体がもう用済みとなって廃棄されたかのように荒れ果てている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「競技場から開会式の様子をお伝えします。こちら、セントラル・トラックでは、全国三十二箇所で一斉に打ち上げる花火のタイミング調整が終了し――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が壊したローズ・クォーツも、床の傷だけを残してなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これは、ＤＡ……失礼しました、二〇二〇年の集大成にふさわしいオープニングとして――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;久しぶりに見たテレビのニュースでは、聞き慣れない数字の暦を読み上げていた。アナウンサーも慣れていない様子で、何度もＤＡＰ年と言い間違えている。やっと、止まっていた歴史が動き出すのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;オリンピックのことは、伝説上のお祭りとして良く知っていた。夏の始めから夏の終わりまで開催され、しあわせが嵐となって吹き荒れて人々に祝福を与えると。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、リゾートでの夏の始まりは何事もなく過ぎ去っていた。だから、今年ではないと思っていたのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;酷暑のせいでオリンピックの開催が延期された（たぶんこれもしあわせエネルギー上の調整だろう）と知ったのも、家に戻ってからのことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今思うと、そこら中が赤く塗られていた異常な光景も、開催にかかる儀式だったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さぁ、打ち上げの瞬間です！　十、九、八、七、――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;打ち上げ花火を模したミサイルは、人々を効率的に殺傷する。強すぎるしあわせエネルギーは、実験室で何度も事故を起こしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はどんなしあわせを撃ち込まれても、きっと満たされることはないだろう。でも、会場に集まった人々はこれからしあわせミサイルに酩酊し、そのまま死んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰かが死んでも、この粛清が終わっても、私はそのまま暮らしていく。暮らさなければならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子。私たち、しあわせじゃなくて良かったね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;花火は、思っていたよりもずっと明るかった。クォーツが放つ燐光をかき消すようなその光に、私は何を託せばいいのだろう。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ストロベリィドール 3</title><link href="https://ama.ne.jp/post/strawberry-doll-3/" rel="alternate"/><published>2018-08-25T17:32:00+09:00</published><updated>2018-08-25T17:32:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-08-25:/post/strawberry-doll-3/</id><summary type="html">&lt;p&gt;後編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/strawberry-doll/"&gt;ストロベリィドール&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="4"&gt;4&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;夏の夜に包み込まれた部屋で、私達はベッドの上にいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シャワーを浴びているうちに長くなると思っていた雨はもう止んでいたらしく、辺りはすっかり静まっている。陽が沈んだ後はエアコンの動きも弱くなって、隣の部屋も静寂を保っていることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;向かい合ってベッドにぺたりと座る二人。自分の荒い息遣いと、文香の静かな息遣いだけが純粋に混じりあって、一つの曲のようにも聞こえてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、文香が私の頬に手を当てて自分を見るように促した。シャワーを浴びてすぐの熱い頬がひんやりとして気持ちいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はそろそろ始めましょう、と言わんばかりに真剣な目をしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふ、文香。やっぱりこんなの、恥ずかしいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今さら？　私なりに、きちんとお誘いは出したつもりだったんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お風呂あがりの上気した顔で、文香は小首を傾げた。彼女は自分で持ってきた黄色いチェックの綿パジャマに身を包んでいる。前開きの長袖のボタンは上二つが開けられて、たまにちらちらと覗く胸元の白い肌が眩しく見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうして着替えがあるのと訊いてみたら、準備がいいでしょと笑うばかりだった。始めからこうなることが分かっていたのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、お人形としてるようなことでも、私とするのは恥ずかしい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、セフレとか良くないって言ったその日に、これだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんか私が流されやすい女みたいで嫌だ。もちろん文香が相手だからなんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本心からの反論じゃなかったってことでしょう？　紫織はえっちだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香には、純粋な乙女の気持ちが分からないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「優柔不断な恥ずかしがり屋を乙女って言うなら、そうなのかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くすくすと笑いながら、文香は私の頬から手を離して言葉を続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、紫織が恥ずかしくないように私から脱ぐわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、文香は自分のパジャマのボタンに手を掛けた。ぷつぷつと錠前が一つずつ外されていって、徐々に黄色い布地の下に隠れた白い肌と淡い色の下着があらわになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちらりちらりと、ほんのりと赤くなった肌が見える度に、私の目がそちらに向いてしまう。文香もその視線が分かっているらしく、ボタンをゆっくり外したり、時折裾をめくったりして私を焦らす。へそやくびれたウエストラインを見せつけられて挑発される度に、シャワーのせいでほかほかとした私の身体に別の火照りが加えられていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ボタンが全て外されると、文香は最後にするり、と腕を抜いてすっかり上着を脱いでしまった。腕から肩にかけての美しい白いラインに、私は溜息が出る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香、綺麗……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、あのお人形とは違う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前だよ。文香のほうが、もっと綺麗」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、嬉しい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香の暖かそうな肉体には、人形のそれとは違って何よりも命を感じることができた。文香だってアヤだって、どちらも綺麗だけど、今は文香に見とれていたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さて、私は脱いだけど、紫織はどうするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ま、まだだよ文香。脱ぎ終わってないじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、下も脱いでほしいの？　いやらしい。純粋な乙女なんて、よく言ったものだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って文香は立ち上がり、ズボンに手を掛ける。今度は焦らすことなく、一気にその手を下へと引いた。引き締まった太ももやふくらはぎも目に入るけれど、ちょうど顔の高さにあるのは下着に包まれた彼女の聖域だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふ、文香っ！いい、よね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は思わず文香の股に顔を埋めてしまう。すっかり焦らされて、もう歯止めが効かなくなっていた。鼻から空気を吸い込むと、少しだけ湿った匂いがする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「させてあげてもいいわ。でも、条件があるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;条件、という言葉に私は文香の顔を見上げる。蛍光灯の逆光が表情を読み取るのを邪魔した。こうして彼女を見上げて不思議そうな表情を浮かべている間も、文香だけは明るく光の当たる私の表情の移り変わりをよく見ているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のことは、アヤって呼ぶの。いい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして文香は、その条件を伝える。無理難題を出して諦めさせようというつもりではないらしいけど、それを受け入れるには少し抵抗があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ど、どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昔はあなたにそう呼ばれていたんだもの。呼ばれたいって思うのはおかしいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おかしくは、ないけど。じゃあ、人形のアヤはどうするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おかしくはない。でも、あの頃を思い出すのはお互いに辛いことだと思うし、昔のあだ名だとしても今人形に付けられているような名前を欲しがったりするだろうか。まるで生き物でもない人形に嫉妬しているみたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私がいるのに、お人形さんのことを考えてるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうじゃないよ。ただ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいわよ。紫織がそんなにお人形とえっちしたいなら、今日は諦めるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;迷っていると、文香が脅しにも近い言葉で私を突き放そうとする。興奮しきった今の私に、おあずけの宣言は脅しでしかない。文香にもそれは分かっているのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;物理的に見下されている状況が、そのまま二人の力関係になってしまったみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、アヤっ！早く、しよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいわよ、シオちゃん。疲れちゃうから、座ってもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は媚びるような甘えた声で彼女に擦り寄った。口から出たアヤという名も、返ってきたシオちゃんという声も、私の中を駆け巡って胸を締め付けるような快感をもたらす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;太ももに回していた腕を離すと、アヤは立ったままパンティを脱いで、それから私の前に脚を開いて座った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらわになったアヤの秘所は、いやらしくてらてらと濡れていた。私の視線に興奮してくれていたのだろうか。一舐めすればいくらでも甘い露が溢れてきそうな光景に共鳴したせいか、私の器からも大きな波を立てた情欲が溢れていくのを感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら。浅ましく犬みたいに這わないと、私の性器は舐められないわよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤのそれにむしゃぶりつこうとしたまさにその時、犬みたいに、と言われて私の身体が動かなくなる。急にこの状況が恥ずかしくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「聞こえてるの？　浅ましく犬みたいに這って、私を気持ちよくするのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ？　せめて、で、電気ちっちゃくして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ダメよ。あなたの姿がよく見えないもの。どうするの？　するの、しないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……し、します」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤの攻勢は止まない。結局私は、犬のように浅ましくアヤの性器を舐めることを意識させられながら、それをすることになってしまった。最終的に一番恥ずかしくて、屈辱的な選択肢を選ばされてしまったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぺろぺろと、舌で淫らな肉に突付くように舐めまわすと、とろけた汁が口に入ってくる。しょっぱいような、酸っぱいような、甘いような、不思議な味がするけれど、決して嫌な味ではない。いつまでも口で転がしていたくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、大事なのはそこではない。私の興奮の根源は、この味自体よりも、屈辱的な快感よりも、むしろアヤの愛液が身体に入っていっているという事実にあった。大好きな彼女と一つになれるかのような錯覚に、私はくらくらしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛おしくなってそこに口付けすると、唇にぬめりが絡みついてそれがまた心地いい。そのぬめりを舌で舐めとると、口の中でまたあの味が広がるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「唇に付いたのまで舐めちゃって……っふぁ、まるで変態の舐め犬ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舐め犬、と言われて身体が熱くなる。舌先まで熱くなってしまったような気がして、それがアヤに伝わってしまわないかびくびくする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「犬って言われて、興奮しちゃった？　舐め方が激しくなったわ……んっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;時折漏れるアヤの嬌声に、はぁ、はぁ、と息がどんどん荒くなる。これも犬のようだと罵られることを考えると、余計に息遣いが激しくなってしまう。べろべろとなりふり構わず舐めていると、さっきよりも白くていやらしい蜜が大量に溢れてくる。アヤも気持ちよくなってくれてると思うと、それだけで奉仕しがいがあるというものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、自分のを触りながら舐めてもいいのよ？　全部見ててあげるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほぼ命令じみた提案に、私は素直に従う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分のいやらしいところに触れると、驚くほどに濡れそぼっていた。と同時に、電撃のような快感が一閃し、私は小さな悲鳴を上げてしまう。その痺れるような快楽を求めて手でまさぐりながらアヤの桃色を乱暴に舐め続けると、一人でしてる時とは――人形のアヤとしてる時とも――全く違う快感が体中を駆け巡る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ア、アヤぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、もう飛んじゃいそう？　ずっと焦らしてたもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそれには答えられずに、快感の波に合わせて指の動きを激しくする。自分で慰めている下から、アヤのぬるぬるで犯されている上から、駆け上がってくる気持ちよさを全て絶頂のための刺激に回していく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「っ！あっ！んっ……ぁあ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のいやらしいところから全身にまっすぐ絶頂が突き抜けていって、その残り香が私の全身に残って時々弱いところを突付く。私はその間ずっとアヤの湿った唇にキスをして、その快楽が私を丸ごと覆い尽くさないように舌を蠢かし続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ、ふぁっ……舐めるの、もうやめてもいいわよ。お疲れ様、シオちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁーっ、はぁっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばたりと、その場にうつ伏せになる。気持ち良かったみたいね、というアヤの言葉にこくこくと頷きながら、私は肩で息をする。ぞくぞくと、快感の余波が時々身体を走っていくのを感じていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;目を瞑って快感の波が去っていくのを待っていると、頭の上からかちゃかちゃと音がした。アヤが何かしているらしい。今度は道具でも使うつもりなんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらくして上を向くと、彼女は右手に何かを持って私を待っていたようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ、アヤ？　何を持ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん。今から仕上げをするから、見ていてね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「仕上げ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うと、アヤは流れるように前腕の辺りをつぅとなぞる。それが小さなナイフだと分かったのは、なぞられた線が赤くなり始めた時だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、何してるのアヤっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私の血が大好きなシオちゃんに、プレゼントをあげるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は慌てて起き上がる。それとは対照的に穏やかな表情をしたアヤは、血の付いたナイフを持たせるにはあまりに不釣り合いだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ば、馬鹿じゃないの！早く手当てしないと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;救急箱を持ってこようとするけれど、さっきまで犬のように必死で動かしていた身体には思うように力が入らない。その間にも、アヤの左腕からは赤い体液がとくとくと流れている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、舐めてくれないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことするわけないでしょ、ばかっ！変なばい菌が入ったらどうするのっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「消毒したから大丈夫よ。唾液には消毒効果もあるっていうし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてか、アヤはすっかり落ち着いた様子で私に腕を差し出してくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;傷口から垂れようとする雫が蛍光灯の光を反射してきらめいた。それを見た私は、早く手当てをしなきゃいけないはずなのに、ごくり、と唾を飲んでしまう。赤い条を見つめてしまうのをやめられない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういう問題じゃ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もっともらしいことばっかり言うのね。そんなにえっちな目、してるのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を遮って、アヤはにやりといやらしく笑った。また見透かすような視線で、私自身に私を辱めさせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ、シーツに垂れてしまったわ。もう、早く舐めとってくれないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;せっかくシオちゃんのために出した血なのに、という言葉に、私はどうしようもなく興奮して、とうとう傷口の端から落ちようとしている雫を舐めとってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、血が収まるまでだからね？　ばか。ほんとに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「馬鹿って言われたの、久しぶりね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;口の中にじわりと鉄の風味が広がる。この雫が、アヤの中をぐるぐる巡っていたものの一部で、今度は私の中を回っていくのだ。こんなに幸せなことがあるだろうか。シーツに二、三滴垂れた血痕を見て、もったいないと思ってしまうほどだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今度は傷口をぺろりと舐める。切れた皮膚の感触と、そこから染む体液が舌先に伝わって、私はまたぞくぞくと背中を走る快感を味わった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;丁寧に舐め続けると、段々と血の味がしなくなってくる。最後に傷に沿って一撫でしてから、私は満足して傷づくろいをやめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう、アヤは馬鹿だよ。私にこんなの、思い出させて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私の血の味、しっかり思い出した？　吸血鬼さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちろちろと口の中に舌を這わすと、鼻から残った血の風味がふわりと抜けていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごく、美味しいよ。アヤの血。誰にも渡したくない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「案外落ち着いているのね。あの時とはだいぶ違うみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当はそんなことはない。今だって、もっとなりふり構わずむしゃぶりつきたいけど、どうしてもアヤの意思を無視して襲ったあの時の光景が邪魔をする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だいたい舐めきったから、早く手当てしよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;唾液って口の中の雑菌が入ってて実は危ないんだよ？　腕から口を離してそう言うと、アヤがすかさずまたナイフを握って最初の傷の近くを走らせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、何してるの、アヤっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら、まだ傷があるから、もう一回舐めてもらってもいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ア、アヤ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二本目の傷から血が滲みだすのを見て、何故か涙が出た。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;してはいけないことなのに、心の底から興奮してしまっている。二条の真っ赤な鎖から目が離せなくなって、まるで私がその鎖に縛られているかのようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう戻れないところまで来た異常に押し潰されそうになる。視界の中で、笑顔のアヤとその傷口から滲んだ血がさらにぼやけて広がっていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんなの、おかしいよ……アヤが笑顔で自分の腕を傷つけて、それを私が舐めとっているなんて。こんなの……異常なのに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「異常なのに、興奮しちゃう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそれに答えるようにして、またシーツに落ちようとする血を舐めとった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ばかばか。ほんとに……ばか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はあなたが私の血液を舐めて興奮していても、嫌だなんて思わないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤは、自分の腕に傷を付けるの……嫌じゃないの？　こんなに綺麗な腕なのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら見上げると、彼女は私に手を伸ばし、優しく何回も頭を撫でた。立て続けにやってきた非日常の中に突然安心がやってきて、ほぁ、と小さな吐息が漏れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「心配してくれてありがとう。でも、言ったでしょ？　何でも差し出す覚悟はあるって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何でも、するの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきもそう言ったわ、と言うアヤを見て、私の中で贅沢な欲望が首をもたげた。彼女の血で口は潤っているはずなのに、次に言おうとする言葉がもたらす緊張のせいか、すっかり口がからからに渇いてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は身体を起こして、アヤの肩に手を置く。じっ、と今度は私がアヤを見透かすような気持ちで、その穏やかな目を見つめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私のこと、好きって言ってよ。まだ、言ってないよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、好きよ。心の底から、大好き」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうかしら、とアヤがにこりと笑う。余裕そうな姿が、さらに私を必死にする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まだ足りないよ。私のことが好きなら、付き合ってって言って。もっと私を求めて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんて身勝手なことを言っているんだろうと思う。でも、彼女に対して覚えていた罪悪感は、徐々に消えつつあった。それがいいことか悪いことかは分からないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤは少し黙ってから、口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、私と付き合いましょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん。アヤ、私も――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の答えを待たずに、アヤは私を押し倒す。彼女の体液のフルコースを味わってふわふわとした私は、悲鳴を上げる間もなく、アヤにされるがままになって三回目の長いキスををすることになる。ちゅるちゅると愛液よりも甘い汁を流しこまれて、私はまた熱い吐息を漏らすことしかできなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、シオちゃん。私と付き合ってくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「つ、付き合いまぅ……ふぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱりアヤには、勝てない。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="5"&gt;5&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それから何回か私達は逢瀬を繰り返し、その度に彼女の左腕の傷を増やす異常なセックスをした。アヤは長袖の服ばかり着るようになり、半袖の時も黒いアームカバーを着用している。それも当然だ。出来て数週間も経たない生々しい傷が何本も刻まれているのが見つかれば、すぐに彼女の生活にも影響が出てくるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はいつも笑顔で自分の腕を傷つけた。まるで痛みを感じていないかのようだけど、傷口を舐めるときに聞こえる小さな悲鳴がそれを否定する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤは、毎回のデートで舐め終わる度にありがとう、と言って私を抱きしめるのだ。私にはアヤがどうして笑顔でいられるのか分からなかった。それでも私の心と身体はアヤを求め、彼女に求められるままに流れる血を吸った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;街の中でも、赤い色を見るとドキドキした。そこからつぅ、と血が流れ出して落ちてしまうんじゃないかと思って目が離せなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな異常なこと、やめなきゃいけない。いつかは誰かにバレてしまうから。そんな時に白い目で見られるのはきっとアヤの方だろう。そう思っても、妖艶な笑みで自分の腕を切りつけるアヤの魅力に、ずぶずぶとハマってしまっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日もアヤとデートの予定だ。デートとは名ばかりで、いつもホテルか、私の家で抱き合ってアヤを傷つけるばかりだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、待ち合わせの時間になっても、アヤは広場に現れない。私が遅刻するのはよくあることだったけど、アヤが遅刻するのは珍しいことだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「アヤ、遅かったね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんなさい。ちょっと寝坊しちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから十分ほど待って、アヤがやってきた。アヤも寝坊するんだ、と言おうと思ったけど、私も完璧じゃないのよ、という声を思い出して言葉を飲み込んだ。アヤだって人間だもん、遅刻くらいする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ。アヤだって、たまにはそういうこともあるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。私が完璧なお人形だったら、寝坊なんかしないのに。ごめんね、シオちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……どうして急に、人形の話になるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぽつりと呟いた言葉に引っかかって、私は訊き返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤが完璧な人形じゃないから謝るだなんて、そんなの変だ。私がアヤを人形の代わりにしてて、アヤがきちんと代わりを務められないから謝ってるみたいじゃん。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そうでしょう？　シオちゃんは私のこと、血が出てしゃべるお人形くらいにしか思ってないじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なにそれ……やめてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うの？　私の腕をこんなにしちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながらアヤは両腕をこちらに差し出してくる。長袖を着ているから見た目には分からないけど、私が血をねだって彼女自身に付けさせた、幾条もの傷のことを言っているのは間違いなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「対等な恋人が、こんなことするかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突き出した腕がそのままこちらに伸びて私の心臓を突くかのような想像を広げさせて、私は何も言えなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最初の傷は私がやったことよ？　でも、その後に血を啜らせてほしいってねだってきたのはあなたじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、往来の中で私は泣きそうになる。自分の瑕疵を責められて、責任も何もなく身勝手な涙を流す子供のように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私の痛みなんて気にしないで、自分の好きなだけ私を舐めまわしちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ご、ごめん。私、アヤの気持ちを考えてなかったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今すべきことは泣きじゃくって責めを回避するようなことじゃない。私は頭を下げて、素直に謝罪する。別れよう、か、距離を置こう、か。どちらにせよ調子に乗った私への罰があるのは間違いないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、いいのよ。私はあなたが好きだから。気にしないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、思ったら、アヤの口から発せられたのは、意外な言葉だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いい、の……？　怒ってたんじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして、怒らないといけないの？　毎回激しくして、痛くしてくれて嬉しいのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭を上げると、アヤは不思議そうな顔をしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「痛いのに、嬉しいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうよ。あなたの舌が傷口に当たると、脳が痺れて痛みを感じなくなるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;痛いのに、痛くないのよ、と言う彼女の目が少しだけ虚ろになったように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ア、アヤ……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はシオちゃんのことが、それくらい好きなの。ね、シオちゃんは？　私を人形じゃないと思ってくれてるシオちゃんは、私のこと、どれくらい好きなの？　教えて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤが私を抱きしめて、立て続けに耳元で囁いた。広場のど真ん中でアヤに密着されて身体が熱くなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「や、やめてよアヤ。恥ずかしいよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;引き剥がそうとしても、アヤは私を離してはくれない。私のことを痛いくらいに強く抱いて、諭すように続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、あなたなしじゃいられないくらい、シオちゃんのことが好きよ？　だから、私は人形でいいの。あなたのそばにいられるなら、それでいいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「や、やだよ。そんなこと言わないでよ、アヤ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、泣いてるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼろぼろと、いつもは堪えられるはずの涙が急に溢れ出してきた。私はアヤの腕の中で声を上げて泣き出してしまった。広場にはまだ人がいたけれど、もう耐えられない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が人形になって私だけを見てくれる、そんな未来はすごく幸せだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、人形に成り果てたアヤはもう二度と自分の意志で動くことはないだろう。そういう、もう元の場所に帰れない、元に戻れないような未来を想像すると、どうしても、きゅう、と心の大事な部分を握りしめられたようになって苦しくなるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤに付けられた傷が、ただ左腕に痛みを与えるだけじゃなくて、彼女の心も不可逆に変えていっている。それをまざまざと見せつけられて、涙が止まらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;このあと、私はアヤに無理を言って、普通のカップルみたいにデートをした。映画を見て、カフェに入って感想を言い合い、夕食を食べて、公園でキスをする。私はアヤとこんな普通のことがしたかったのだろう。こんな風に、アヤを傷つけなくて済むことを。快感で胸が痛くならないようなことを。いつでも元に戻せるようなことを。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;帰り際に、もう、あなたを傷つけるのはできるだけやめにしようね、と言うと、アヤは少し黙った後にそうね、と軽く笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだ、「普通」に戻ることは、存外に簡単なことなんだと、にこにことするアヤを見ながら私は安心した。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="6"&gt;6&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;あれからまた数週間が経った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤは休日になると毎週のように私の家に来るようになった。恋人なんだから当然でしょ、という言葉に私が頬を赤くすることなど気にせずに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう腕をに刃を入れたり、血を飲んだりするような、そういう危ないことは自然にしなくなっていたから、アヤは水彩をして、その横で私は課題をするのが大半になった。遅くまで作業をした後に何度かキスやペッティングに及んだこともあったけど、彼女のラブ・ジュースは私に中途半端な潤いしか与えてくれなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも私は幸せだった。彼女がそばにいて、何かに打ち込んでいるのを見ることが出来るなんて、ずっと前の私には想像がつかなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;透き通るような世界に筆を走らせているのを課題そっちのけで見ていると、アヤは課題をしていないことに怒っている素振りを見せながらも、今仕上げている作品について饒舌に語ってくれる。川の辺りを歩いている時に、これが綺麗だったから、とか。街を歩いていたら、この奥行きがぐっときて、とか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今描いている絵は、見た瞬間の感動をよく再現できそうな自信作になりそうだって言っていた。私はそれに素直な期待を寄せている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、こういうことを楽しそうに私に告げるアヤの様子から、私にはない輝きや純粋さを見出してしまう。そこには、隣に私がいる想像ができないほどにきらきらした彼女がいた。そのままアヤが私を置いて駆け出していく様子を思い浮かべて、すごく不安になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、アヤ。アヤはずっと私のそばにいてくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;画用紙に筆を走らすアヤの様子を後ろから膝立ちで覗き込んで、私はぽつりと呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急にどうしたの？　私が水彩ばかりしてるから退屈しちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤは筆を動かしながら、こちらを見ずに平然とそう返した。永遠の未来を疑うべくもないというようにして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうじゃないの！ただ、私は何も持ってないし、アヤにだってもう何もあげられてないから。どうして私のそばにいてくれるのかなって思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふぅん……そっか、なるほど。シオちゃんもそういうことを考えるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤが紙から筆を離して、それからゆっくり洗ったり拭いたり、いくつか作業を終えてからパレットにぱたりと筆を置いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして、彼女は振り返って座ったまま私に前から抱きつく。私は抱きしめ返す気力も持たず、力を抜いて彼女に身体を預けると、ふわりと髪の良い匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「良かったらお話をお聞きしますよ、紫織さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤの楽しそうな声が耳をくすぐる。私が悩んでいるのに、とは思ったけど彼女なりに気遣ってくれているのだと思うと、また身体から力が抜けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「嫌なことでもあった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なにもないよ。幸せすぎて、だから怖いの。せっかく血を舐めるのをやめて、普通のカップルみたいにして、普通のカップルの幸せを楽しんで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が見ていないと分かると、最近は簡単に涙が出るようになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、結局根っこに『女の子同士』っていう絶対に逃げられない異常があるって分かっちゃって。だから、すごく怖い、怖いよ……アヤ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普通に近づけば近づくほど、当たり前だったはずのことがどんどん異常に思えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「異常なんかじゃないわ。私達は心も身体も通じあってるって、言ったでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の手が私の頭に触れる。なだめようと思っているなら、それは間違いだ。アヤの視線がないところで、アヤのことを深く考えると、こうして私の心にはいくらでも雨が降るんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、アヤ。私、重いよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「泣かないで、シオちゃん。構ってほしいなら、別に私が作業してても、後ろから抱きついて無理矢理ベッドに連れて行っていいのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、構ってほしいわけじゃないの。ちゃんと聞いてよ、アヤ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;耳元で囁くアヤを引き剥がすと、彼女はやっぱりいつもと変わらない穏やかな表情でいた――ただ一つだけ、目尻の涙を除いては。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、アヤ……？　もしかして、泣いて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤも泣くんだ。そうだよね、女の子だもん。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言おうとする私の口を塞ぐようにして、彼女は私を胸に抱く。無理に引っ張られて私もその場にぺたんと座り込んだ。下着の硬い感触と、その奥の柔らかいものの感触が、むぎゅりと顔を覆う。少し湿った柔軟剤の匂いを鼻に吸い込みながら、今度は私も抱きしめ返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、私がシオちゃんを手放すなんて、そんなこと考えたこともなかったから。私のことで泣くほど悩んでくれるなんて、嬉しいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「悩むよ、アヤのこと好きだもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤだって泣いてるじゃん。もごもごと胸に向かって話しかけると、熱い空気が顔にまとわりつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、あなたこそ、私から離れていっちゃわない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この距離でなければ聞こえないほどの、いつになく自信のなさそうなか細い声に、私はまた泣きそうになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと、しないよ。どうしてそんな悲しいこと言うの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、そんな悲しいことを言われたのよ？　ちょっとくらい意地悪させてちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;胸から顔を離してアヤの顔を見上げると、もう目尻の涙は消えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤ、怒ってる……？　ごめんね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、怒ってるわけじゃないの。私の不安も解消したいから、口実にしただけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、私の手を握る。アヤが私の眼を見つめながら触れる手は、私に安らぎを与えてくれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不安？　アヤも、不安になるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃんは本当に私を完璧だと思ってるのね。私にも、ちゃんと人間らしく脆いところがあるんだって、この前も言ったでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだったっけ？　でも、なんか嬉しいかも、そういうの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;完璧じゃないアヤは、何だかすごく愛らしい。可愛らしい。何でもないことなのかもしれないけど、そんなアヤを見れたのが私にはすごく嬉しかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃんに、綺麗って言われたことはあっても、可愛いだなんて言われちゃったのは初めてかもしれないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言われ慣れない言葉で褒められるのはすごく照れるわ、とはにかんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、可愛い可愛いシオちゃんの恋人から、一つ訊いてもいいですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんでしょうか、可愛い可愛いアヤさん、と彼女に合わせて戯けると、今度は一転して真剣な表情になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、あなたは……好きなだけ血を飲ませてくれるような、とっても可愛らしいお人形さんみたいな娘に言い寄られたら、ついていっちゃわない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……え？　な、なにそれ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃんがいくら血を吸っても罪悪感を覚えないような……本当のお人形さんみたいな娘には、私はなれないみたいだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、血が好きなんじゃないよ？　アヤ、あなたのだから好きなんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段より少しだけ濡れたアヤの目を見て、私はそう言った。アヤは少し黙って、また私を抱きしめる。うん、うんと何かに納得したように何度か頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと、言われなくても分かってるのにね。意地悪言ってごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今度はアヤの方から私を離れて、私の目を見て続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり私も、血を吸ってもらえなくなってからずっと不安みたい。血を捧げて、それであなたがずっと私を見てくれる保証があるなら、いくらでも差し出したいと思ってるくらいだもの。もうしないって言ったのにね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……この先ずっと一緒にいるとしても、いつかは終わりが来るよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はその視線に応えきれずに床に目を遣る。アヤの不安そうな顔を見ていたら、私まで泣いてしまいそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは死という意味かしら、と訊かれて私は頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤが私のお人形さんになりたいとしても、きっと本当のお人形さんにはなれないよ。私だって、いつかは絶対死んじゃうんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人の間に沈黙が流れた。死んじゃう、と口に出したせいで、私の涙は急に限界を迎えてその静寂へとぽろぽろ溢れだしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、アヤ、どうしよう？　アヤが先に死んじゃったら、私、どうすればいい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしようもないわ。本当に、誰だって、どうしようも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;女の子同士だと互いの喪主にもなれないと聞いたことがある。そういうのって、あんまりだ。アヤの言うとおり、本当にどうしようもない現実に力が抜けてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤはまた少し間を置いて、それからぽつりと続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、そうね。三十五日後に、あなたも死んでくれたら嬉しいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「三十五日？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;訊き返してからすぐに、八月のアヤと九月の私、二人の誕生日の差なのだと分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「同じ長さを生きて死ぬんだもの、きっと天国でも一緒になれるんじゃないかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私が先に死んじゃったら、アヤはどうするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、私の腕をこんなにしといて、私より早く死のうっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなの考えたくもないことね、とアヤは冷たく言い放つ。私だってアヤのいなくなった世界のことなんて考えたくもないけど、私の欲望のためにいつ死んでもおかしくない綱渡りを繰り返させてきた手前、何も言い返せなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃんが今ここで私の胸を一突きしてくれたなら、そんな心配はなくなるのにね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひ、一突き？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。私の胸を一突きしたシオちゃんが血を吸い尽くして、それから三十五日間の逃走劇を始めるの。逃げ切ったあなたは、私を突き刺したそのナイフで自害するんだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そんなのダメだよ。いくら背徳感が好きだとしても、破滅的すぎ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうは言っても、そのシチュエーションは私の目にもかなり魅力的に映る。見つかってからは、きっとニュースや新聞がいかに私が猟奇的であったかを口を揃えて報じるだろうけど、そんなのアヤと私には関係のないことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫よ。今のところはただの一妄想でしかないわ。でも、興奮しない？　私の血が、私の命が全部あなたに飲まれていくの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が、目に光を宿さなくなったアヤの首筋に齧り付いて、獣のように血を飲んでいる。必死に、まるで私がこれから彼女と天国で出会うための儀式であるかのように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。また舐めたくなっちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こくり。私は頷いて唾を飲んだ。アヤはくすっ、と笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もうしないって言ったのに？　シオちゃんのえっち」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;居ても立ってもいられなくなって、アヤの手首を取って床に押し付ける。私の手がテーブルにぶつかって、床に描きかけの絵ががたりと落ちた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそれには目もくれず、アヤをじっと見つめる。アヤも完成前の水彩画のことなど頭にないかのように、私の視線に応え続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり私には、普通に戻ることなんて無理なんだ。赤いものを求めるこの胸の高鳴りには、どうやっても嘘はつけない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤ、私が想像しちゃうって分かってて、わざとやってるでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。随分と怖い目をするのね。ちょっと挑発しただけでこんなになってくれるなら、挑発しがいがあるってものね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はアヤの拘束を解いて起き上がる。押し倒されたにも関わらず余裕の笑みのアヤを見て、必死に力づくで彼女を求めようとしている自分が急に恥ずかしくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうやって誘ってくるなら、私、本当にしちゃうよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいわよ。飲みたいの？　それとも、ここ、刺しちゃいたい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤもむくりと起き上がる。右手の人差し指で、傷の残っているだろう腕を、それからまだ誰にも傷つけられていない胸の辺りを指差す。私はそれを見てまた、こくりと誘いを受け入れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「胸には刺さないからね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知ってるわ。シオちゃんはとっても優しくて臆病なんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってアヤは、大事にしてくれてありがとう、と芝居じみたお辞儀をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、今度はシオちゃんがして。あなたが大事に思ってくれてる私を、あなたの手で傷つけて、縛り付けて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからアヤは彼女の鞄を指差して、中の道具を使うように伝えた。私は小さめの果物ナイフと消毒用具を取り出して、アヤにはヘアゴムを手渡す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はするりと流れるような動きで髪をまとめて、それから上着を全部脱いで下着姿になった。黒の布地が真っ白な身体を引き締めて更に美しく見せる。血が付いても目立たない黒いランジェリーは、まるでこの事態を予測していたかのようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤ、すごく綺麗だね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この前みたいに、可愛いとは言ってくれないのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何でも可愛いって言うわけじゃないもん。今のアヤ、美術品みたいですごく綺麗だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう。ほら、切る前に消毒して？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はアヤがそうしていたように、アルコールを含んだ脱脂綿を切るようにして果物ナイフを通す。消毒を終えて輝きを増したそれは、鞄から取り出した時よりは幾分か冷ややかに見えた。それとは対照的に、服の下に隠れていたアヤの真っ白な腕には生々しく幾条にも赤い鎖が走っている。その一つ一つが熱く、痛々しく歪に盛り上がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほんとに、いいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう待ちきれないんでしょう？　早く、して？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はごくり、と唾を飲んだ。あらわになったアヤの腕は、私にとろけきった性器を見せつけられているのと同じ気持ちを巻き起こす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今すぐにむしゃぶりついてその樹液を味わいたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃ、じゃあ……いくよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は差し出された彼女の左腕を取り、無数に走る傷へ加えるに最も調和が取れそうな線分を見定める。そのまま滑らかにつつ、と冷たい刃物を滑らそうとするけれど、どうしても手が震えて一歩を踏み出すことができなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな私を見て、アヤが私の手を取って落ち着かせようとしてくれる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫、シオちゃん？　やっぱり、私がしたほうがいいかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ううん。ちゃんとできるよ、アヤ。ありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は軽く息を吸って、吐いて。もう一度軽く吸って。それから、アヤの美しい前腕に煌めくナイフの切っ先を当てる。当てて、そうして、アヤが自分でしているように、一気にまっすぐな軌跡を描いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、アヤが小さな悲鳴を上げて、腕は動かさないようにして身をすくめた。私はそれを聞いて慌てて刃を肌から離す。柔らかな肌にこのナイフは鋭すぎたらしく、思い描いていた以上に長くて深い傷を刻んでしまっていたようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ、ごめん！痛かった、よね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当然、痛いのは痛いだろうけど、アヤが自分でそれをする時はこんな声を上げることはなかったから、やはりやり過ぎたのだと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、ううん……違うのよ、シオちゃん。ただ、びっくりして。自分以外の人に切ってもらうのが初めてだったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながらも、アヤの目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。涙も拭かずに、右手で左肩を色が変わるほどに握りしめるようにして、そのせいか右腕は弱々しくぷるぷると震えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほんとに、大丈夫……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふ……ふっ、ごめんなさい。嘘ついちゃったわ。痛い、いたいよ……シオちゃん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぐぐぐ、と右手に入る力が強まったように見えた。アヤがこんなにも痛がっている。アヤがこんなにも苦しんでいる。こんなにも――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……アヤ、大丈夫……？　ねぇ？痛いの……？ど、どうしようか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――こんなにも、アヤが感情をさらけ出したことがあっただろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;恋人が私が与えた傷のせいで痛がっている。その激しい感情の発露を見せつけられて、私はどうして興奮していられるのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごく、痛い……痛いわ、嬉しい……シオちゃんが……痛く、してくれた……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だがそれは、彼女も同じだった。私が与えた鋭い痛みと鈍い痛みは、彼女を恍惚とした快感ですっかり包み込んでいた。本来危機感を刺激するはずの痛覚は、もう単なる精神的な快感を盛り上げるスパイスでしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は思わず彼女の頬を舐めた。アヤの体液は、どんなものであっても魅力的に見える。彼女の涙は思った以上に塩味が少なかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「涙もいいけど、せっかくしたんだからこっちも舐めて？シオちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、アヤが左肩から手を離す。さっきまで震えていた彼女の身体がいやに落ち着いて、全身から力が抜けていくように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今しがた刻まれた生々しい傷口から、浮かび上がるようにまっすぐと血が滲んで、ふつふつと真っ赤な真珠が美しいネックレスを形作っていく。その綺麗な首飾りはすぐにぷつりと切れて、床に机にぽつぽつと垂れていった。描きかけの青い水彩画にもアンバランスなアクセントが添えられていくけれど、アヤはその未完の自信作を一瞥すらしない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね。ほら、舐めて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は流れゆく血の一つに口を近づけて、彼女の腕に優しくキスをする。そうして、ぬるりと唇に感じる違和感を舐めとると、私の口にこびり付くような鉄の味が広がる。口の中を駆け巡るその味に、頭がくらくらした。すごく興奮した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん、私の血は美味しい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、アヤ。すごくいいよ。もっと、するね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;口に残る血の味が無くならないように、私は何度だってキスをした。血が残っている部分を執拗に舌で突付くと、アヤは傷口の痛さに堪えきれない悲鳴を上げる。彼女の体液をずっと口に含んでいると、それさえも、次の愛撫をねだる甘えた声に聞こえてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この傷があれば、私とアヤは繋がっていられる。自分で付けた傷にさらに痛みを与えて、私のものだとマーキングしているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とっても綺麗。私がそのまま、シオちゃんの口紅になったみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤに綺麗って言われちゃった、えへへ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、あなたと私が一つになったみたいで、すごく綺麗よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤが熱っぽい視線を向ける度に、私はそれに応えて腕に舌を這わす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局、いつの間にか私もアヤも、これなしでは生きられなくなってしまっていた。私はアヤの血を啜ることを快感だと思っているし、アヤはこれを最高の愛情表現だと言った。だから愛に純粋なアヤは、これからも私の手でどんどん傷つけられたいと思うだろうし、私もそうすることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかしたら純粋なアヤなんて最初からいなかったのかもしれないけど、今となってはもう分からない。少なくとも、美しい絵を描き出すあのきらきらとした純粋さは、もう私の中には見つからなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「シオちゃん。だからね、私になんか、なっちゃダメ。私はあなたのお人形なんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;綺麗な水彩画に血が滲む様子に重なって、アヤの透き通るようなブラウンの瞳が徐々に濁っていくように見えた。アヤにはずっと血が流れているけれど、私が血を舐めていく度に生命――魂の総量が減っているんじゃないかと、そういう気持ちになることがある。可愛らしいアヤも、脆いところがあるアヤもみんな消えて、でもそれが、本当に私の求める完璧な人形なのかは分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が人形としての彼女に近づいていくことを想像して、私はまた彼女の腕に舌を這わせた。ぱっくりと開いた薄い赤の傷口をなぞる私の愛撫が強くなる度にアヤはぴくり、ぴくりと身体を震わすけれど、それも徐々に弱くなっていき、とうとう時折小さく漏れる嬌声が部屋に響くだけになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこに私の荒い息の音が混じっているのに気付いた辺りで、私は腕から口を離し、うっとりとしたアヤの瞳を見つめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好きよ、シオちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も好きだよ、アヤ。私のこと、ずっと見ててね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってから、私はアヤに唇を重ねる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の唇から感じる体温が、ずっと座っている冷たい人形の唇のそれに重なって、また戻れない現実を意識してほろほろと涙が出た。その一粒がアヤに当たって、それに気付いた彼女は下から私を覗きこむ。それからアヤは軽く微笑んで、私をいたわるようにゆっくりと私の頭を撫で始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「綺麗だよ、文香」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何もかもを差し出して、私はあなたに隷属するわ。だから、あなたは私に縛られるの。どこにいても、ずっと、何もかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそのまま唇を離さない。目を瞑ってアヤに涙を渡しながら、とろとろした体液を交換しあう。今ここでしっかりと彼女の眼を見つめたら、私が彼女にしてきたこと、彼女が私にくれたもの、その全部が私を押し潰してしまいそうだったから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私の涙を全部吸い取って、彼女に魂が宿ればいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして目覚めてから不思議そうに私を見つめる彼女に、私の唇の熱を流しこむのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この熱が彼女の身体に広がって、私の愛を知ってほしい。私も好きよと囁いてほしい。もっと私を熱い視線で見つめて欲しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、それだけでいい。何も、見えなくていい。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ストロベリィドール 2</title><link href="https://ama.ne.jp/post/strawberry-doll-2/" rel="alternate"/><published>2018-08-25T17:31:00+09:00</published><updated>2018-08-25T17:31:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-08-25:/post/strawberry-doll-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;中編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/strawberry-doll/"&gt;ストロベリィドール&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="3"&gt;3&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「んぅ……朝か」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぴぴぴぴと、不快な音が部屋に響いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううううう……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は呻きながら何度かスマートフォンをいじくりまわすけれど、とうとうそれが原因ではないことを思い出し、煩わしい音を発する銀の目覚まし時計をぱしりと叩く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「暑い……べとべとする……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏の目覚めは、アラームよりも部屋の暑さによってもたらされることが多いけど、昨日はずっと眠りに入る前に考え事をしていたせいで特に寝つきと夢見が悪かったらしい。寝ぼけた身体に汗で張り付いたＴシャツがじとりとして嫌な心地がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窓を開け、軽く伸びをした。レースのカーテンが優しく揺れてから、湿った室内をよく晴れて乾いた空気が駆け巡っていく。肌にひやりとした心地の良い寒さがまとわりついた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日は文香が、来るんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日、文香との再会から二週間ほどが経っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の家に絵を描きに来たい、というのは社交辞令だと思っていたけれど、文香は本当に私の家に来たかったらしい。別れてじきに、都合の良い日を尋ねる連絡が来た。彼女も自分が何かしたのだろうかと気にしていて、なかなか連絡する勇気がなかったのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただすれ違っていただけの彼女と私の時間が、再び動き出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でもまだ私には、まだ後ろめたいものがあって。過去の私達の間のこともそうだけど、目下のところそれは、アヤについてのことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人の関係が変わってしまった今、これまでどおりではいられない。文香に屈託のない笑顔を向けられながら、その裏でアヤを抱きすくめて欲望を晴らしていることを、単なる人形遊びの趣味だなんて言うことはできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少なくとも今の私は、文香に対してこの生活を後ろめたく思っている。このままでは、きっと最後には破綻することだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あと一時間くらいかな……シャワー浴びちゃおっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香にとっては単なる友人に会うためだけの一日かもしれない。でも、私にとってはそれを隠し通すか、さらけ出すかを選ばないといけない大事な一日になるはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ぴんぽーん。来客を告げるチャイムが何度か鳴って、私は玄関へ向かう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドアを開けると、この前とは打って変わって黒っぽいパンツスタイルに身を包む文香が立っていた。肩には大きくて薄いバッグを掛けて、右手にもそれよりは小さい普通のバッグがもう一つ提げられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんにちは、紫織。なかなか出てくれないから、部屋を間違えたのかと思ったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、文香。ごめんね、ちょっとシャワー浴びてたの。上がって上がって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の頭がまだ少し濡れているのは、ぼーっとした頭で十数分呆けていた私の寝起きの悪さと、その割には遠慮のないシャワーの長さと、それに文香の予想外に早めの到着時間が加わった結果だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「散らかってるけど、くつろいでいってね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう。お言葉に甘えて、ゆっくり描かせてもらうわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当はこの部屋も少し掃除をして、向こうのアヤも部屋の隅に移して目隠しにカバーでもかけておこうと思ったんだけど、全くそんな時間はなかった。どちらも人を招くのには致命的でない分、文香を暑い外で待たせるのも悪いし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから今は少しだけどきどきしていた。割ってしまった花瓶が先生に見つからないか心配する類のどきどきだ。見つかってから弁解するのも、見つかる前に怪しまれるのも、どちらも避けておきたかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、ちょっと髪を乾かしてくるから、先に作業していていいからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、分かったわ。外の景色を見ているわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香を残して洗面所に向かうだけでも少しどきどきが強くなる。彼女に限って、勝手に部屋を覗くことはないと分かっているのに。よく見知った幼馴染を疑っているようで、しかもそれが離れていた時間のせいだと思うと、少しだけ嫌な気持ちになった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;戻ってくると、レースのカーテンがまとめられて部屋が少し明るくなっていた。窓から外からの陽射しが直接フローリングの床に当たっている。文香がベランダに立っているのが見えて、私は窓枠を挟んで向こう側の文香に話しかけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はその長髪をポニーテールにまとめ、その尻尾を作業の邪魔にならないように頭の後ろで時折ぴょこぴょこと揺らしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香、外で描いてるの？　暑くない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「陽は差してるけど、風が気持ちいいわ。あなたも来てみたら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香の黒髪を揺らしてから部屋に入ってくる風が部屋を駆けていく。私もベランダに足を踏み出すと、床板が小さくきしっと音を立てた。確かに私の頬を撫でる風はそれなりに涼しいけど、さっきまでドライヤーで暖められていた私まで、文香のように汗一つかかずにいられるほどではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大げさに動きながら後ろから文香を覗き込むと、彼女は今は下絵を描いているところらしい。さらさらと鉛筆を走らせる先を見ると、木の板にＡ３ほどの紙が貼られていて、端はねずみ色のテープで止められている。画板の端はベランダの柵に載せられて安定しているように見えるけど、鉛筆の位置と書き方に応じてたまにくらりと揺れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こういうの、スケッチブックとかに描くんじゃないんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。用意もなくスケッチブックに描いちゃうと、色塗りの時に紙が伸びて歪んじゃうから。描く前に、水彩紙を水で濡らして板に貼ってから、テープでピンと張るのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水張りっていう作業なの、と鉛筆を走らす文香が少し得意げに見えて、私まで誇らしげな気持ちになった気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香、楽しそうだね。私も水彩、やってみたくなってきたかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは嬉しいわ。本当にやる気になったら、言ってね。いろいろお手伝いするから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ほんとに楽しそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香はさらに筆を進める。すらすら。しゅっしゅっ。顔を上げて風景の一点を注視してから、ささっとまた軽やかに鉛筆を動かす。さらさら。鉛筆と紙が擦れる音が心地いい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段何気なく窓から目を遣る何の面白みのない景色のはずなのに、それが文香の手で拾い上げられて白い紙に描き起こされていくだけで輝きを感じてしまう。価値がないと思っていたものの価値に気付くというのは、当然嬉しいんだけど気恥ずかしさが付いて回る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;住宅街の中にあるアパートの一室から見える景色はたかが知れているけれど、ちらほらと見える植え込みや家庭菜園の様子を丁寧に描き込んでいたり、夏の青空が広く取られているところを見ると、美しく見える景色の切り取り方を心得ているのだと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、軽快に進んでいた鉛筆の動きが止まる。後ろを向いた文香は、少し困った顔だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「描きに来てる身で言えたことでもないけど、やっぱり見られるのって恥ずかしいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいからいいから。もっと見せてよ、文香大先生」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。なぁに、それ。見ているだけじゃ上達しませんよ、紫織さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、文香はまた作業に戻る。耳に届く鉛筆の音が少し速くなった気がした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ、ちょっと休憩するわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぱたり、と音が立つように鉛筆を画板に置いて、文香が作業の中断を告げる。下絵の描き込みは大体終わったということらしい。陽もすっかり高くなって、まさに暑くなろうというところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;直射日光を一身に受けていた室内に戻ると、やはり熱がこもってむわりとした。私はまたカーテンを解放して、するりと窓にかぶせていく。吹き込む風がレースを揺らして床に作る影の模様を変えていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち止まって床を見つめる私とは対照的に、文香はテーブルの周りを二、三周しながら上を見たり下を見たり、何かを探しているようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こっちの部屋にはエアコンがないのね。室外機はあったみたいだし、あっちのお部屋にはあるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ？　あ、その……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;間仕切り扉を指差す姿を見て、私はどきりとする。好意的に見ればクローゼットの扉とも誤魔化せそうだったけど、ベランダに出た上に、しかも室外機という誤魔化しようもない証拠を抱えた今ではもうどうしようもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。私に見せられないほどに散らかっているのかしらね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうわけじゃ、ないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どう言えばいいのだろう、と思いながら私は言いよどむ。ゆらゆらと足を左右に進めながら、何度も視線を行ったり来たりさせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「安心して。許可無く人の家を漁る気はないわ。エアコンがなくても涼しいし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「べ、別に汚いわけじゃないからね？　見せられないってことはないけど、なんか恥ずかしいっていうか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　見てほしいのか、見てほしくないのか、分からないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、文香はテーブルに着こうとした。私はそれを止めるように声を掛ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……いいよ。開けてみてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何故私がこんなことを口走ってしまったかは分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女に隠し事をしている罪悪感のせいか、あるいは、ほのかな期待に縋っていたのかもしれない。最近のアヤを見ていると心に湧き上がってくる、どんな私でも受け入れてくれるだろうという、妄想にも近い淡い期待に。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;がらがらと扉が引きずられて開く音を聞きながら、終わった、と心の中で言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アヤの部屋は、厚手のカーテンから漏れる光が少し部屋を走っているだけで、涼しくて薄暗い少し不気味な部屋だ。そんな部屋の中で、文香は当然真ん中で存在感を放つラブ・ドールに注目して、それから不思議そうに部屋を見回す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、エアコンがついてるのね。えっと、これはお人形のお部屋？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん。そんなところかな。私、人形遊び好きだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上擦った声で文香の背中に話しかける。見られていないのをいいことに、シャツの裾をぎゅっと握りしめても、緊張は少しも解けなかった。狭い部屋で、ばくばく走る心臓の音が文香まで届いてしまいそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「随分と大きなお人形なのね。まるで、本当の人間みたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうなの、リアルでいいでしょ、と昨晩眠りに入る前に何度かシミュレーションしていた中から、誤魔化すに足る無難なものを選び出していく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香がしゃがみこんで、アヤの眼と高さを合わせる。まじまじとした視線は――当然だけど――アヤのそれとは交わらず、まるで彼女が動けないほどの恐怖にでも襲われているかのように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんだか、私みたいな容姿をしてるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうかな……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋に風が流れ込んで、後ろから二人の髪を揺らす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしかして、スケッチにでも使ってるの？　確かに、よく見ていた人間ならイメージが湧きやすいかもしれないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香がしゃがみこんだままこちらを向いた。彼女の純粋な興味を帯びた視線が、アヤから私に移されたけど、やはり私もその視線に応えることはできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、そう、スケッチ。スケッチするのに使ってる。文香が芸術に夢中なのを見て、思わず買っちゃったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふぅん、そうなの？　でも私たち、会ってから二週間くらいしか経ってないけど、そんなに早く届くものかしら？　買ったばかりのものにも見えないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言ってすぐ、蛇足だったと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私に向けられる視線に見え隠れする疑念のようなものが、やはり私にも動けないほどの恐怖を与える。嘘で塗り固めて誤魔化そうとしても、最後には全ての真実を明かされるのではないかという、そういう想像が私を駆け巡った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その、それはね……ち、違うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、別に矛盾を突いて困らせたいわけじゃないから、いいんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が立ち上がって、そのままぐるりと部屋を見渡す。視線は私から離れても、未だに突き刺さるようなものが心に残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、なんだかここにいると、高校生の頃に戻ってきたような気分になるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちくり、ちくり。テレビ、机、ベッド、カーペット。全部が文香の部屋と一緒だ。その通りだ。だってわざわざそうしたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、このルームウェア。鏡を見てるみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちくちくちく。文香が着ていたのと同じ、可愛らしい黄色のルームウェア。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、黙っちゃって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋をひとしきり眺め終えた文香が、振り返って私を見下ろした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんでもないよ。別にそんなの、偶然じゃ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、本当にこれ、スケッチのためのスタジオなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を遮る文香が、ぐっと顔を近づける。嘘への罪悪感を視線で貫かれているようでくらくらとした。首元からは、シトラスの香水と混じりあったむわりとした濃い匂いがして、それがさらに私の視界を心地よく揺らす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うよ。ごめん、嘘ついた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ショック。紫織も嘘をつくのね。じゃあ、何に使っているのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は黙りこむ。昨日はこの悪癖を隠し通すか、さらけ出すか、なんて大層なことを考えてみたけど、そんな決断をしっかりと下すのは私にはまだ無理だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だんまり？　じゃあ……例えば、私とのおままごととか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;直球だった。当然だ。もういくら誤魔化そうとしたところで、証拠が揃いすぎて誰だって分かってしまうだろう。ましてや私を良く知る文香のことだ、かなりの確信と共に導いた答えに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こくり、と頷くと、文香はそっか、と小さく返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私とのおままごとって、私から言っておいてなんだけど、楽しいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、文香。覚えてるよね？　私はね、あなたに乱暴をしたから、あなたから離れなきゃいけなくなったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は振り返って、壁に向かって話し始めた。文香がどんな表情をして聞いているかなんて、見たくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも……私、あなたのことが大好きで、離れてもあなたを忘れられなくて。その気持ちを、こんな人形にぶつけてるんだよ。バカみたいでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あはは、と乾いた笑い声が部屋に響いて、自虐をより一層痛々しくする。私は文香の答えを待たずにさらに続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからね、楽しいか楽しくないかって言われたら、寂しいし、全然楽しくないよ。でも私は、これに縋るしかないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、文香はどんな顔でこれを聞いているのかな。そんなの想像も付かないし、例えどんな表情だとしても私の心を苦しめることだろう。だからこの顔を見せない口上は、私だけがすっきりするためのものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気持ち悪いでしょ？　自分でも分かってるの。今日だってこれ、最初はちゃんと隠し通そうって思ってた。こんなのわざわざ見せられたって、文香を困らせるだけだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心が全部あらわになって、丸裸で縛られていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日はもう、帰ってくれる？　私、もうどんな顔で文香と喋っていいか分かんないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気持ち悪いだなんて思わないわ。おままごとくらいなら、幼稚園児でもするじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、そうだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だけど？　だけど、どうしたの？　あなたの様子を見てると、何だかまるで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――まるで、気持ち悪いって、言われるのを待ってるみたいだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ばっ、と振り向くと、文香は余裕を帯びた優しい笑顔でそこに立っていた。私の隠したいことは、全部彼女も最初から知っているのだと言わんばかりに。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんが、髪が舞い上がるのも気にせずに思い切り振り向いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は分かりやすい。嘘だって隠し事だって、全部分かってしまう。初めからこんなに話してくれるとは思わなかったけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっとこっちを向いてくれたわね、紫織」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なにそれ。気持ち悪いだなんて、わざわざ言ってほしいわけないじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんを見るとなんとなく伝わってくる。こうしたい、ああしてほしい。今だってそう、私に手酷く罵られることを期待しているように見えるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、紫織が許可さえしなければ、私はここを開けることも、このお人形の様子を知ることもなかったわ。それなのに、どうして開けてもいいなんて言ったのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は隠し事を全部教えてくれたのだから、私もしっかりと教えてあげることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当は、私にお人形のことを知って欲しかったんじゃない？　それを見た私に、酷いことを言われたかったんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなわけ、ないじゃん。隠し事してる罪悪感を消そうとしただけだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふぅん。そう、罪悪感ね。どちらにせよ、気持ち悪いけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気持ち悪い、ともう一度強調して言うと、ぴくり、と彼女の身体が揺れた。その後に驚いた素振りを見せる辺り、シオちゃん自身も気付いていない類の快感だったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分の心の黒くて恥ずかしい部分を私にさらけ出したせいで、普段とは違う気分を味わっているのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、その罪悪感ついでに、もう少しお人形を見せてもらっても良いかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……勝手にすれば。もう、文香には降参する」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう。勝手に、だなんて言ったら、あなたのパートナーが悲しんじゃうわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女から、おどおどとした弱々しい接し方が徐々に消えているのを見て私は安心する。隠し事が明らかにされて自棄になったせいか、シオちゃんのいう私への罪悪感や後ろめたさが表に出てこなくなったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;失礼します、と軽く一礼して敷居をまたぐ。部屋の中が凍りついているように感じるのは、ずっと冷房が入っているせいもあるけれど、やはり部屋のど真ん中に鎮座する大きなお人形が放つ非人間らしさのせいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのお人形の前にはガラステーブルが置かれているので、私は横にしゃがんでから頭部の辺りを覗き込む。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、なんと呼べばいいのかしら？　お名前はあるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……アヤ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は思わず振り向いた。耳を疑ったのは、それは私を指す名のはずだからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう一度、言ってくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私はこのお人形さんをアヤって呼んでるの。何回も訊かないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきショックだとわざわざ口に出した時とは違う、本当の衝撃が私の中を走っていった。あの頃私に向けられていたはずのあだ名が、いつの間にか目の前のお人形に奪われていたと思うと、何だか悔しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか。だから私のことをアヤって呼んでくれなかったのね。操を立てるという意味もこもってるのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなんじゃないよ。ただ、ここにいる時くらいあの頃を思い出したかっただけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの頃、というのはシオちゃんが私を求めたあの日よりも前のことだろう。あの日を境にシオちゃんは部室に来てくれなくなったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がまた振り返ってお人形を観察しようとしたところで、ざあ、と寂しげな声を掻き消すように、急に外から雨音が聞こえ出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「雨が降ってるみたい。夏の夕方は不安定だものね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん。窓、閉めてくるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんの足音を聞きながら、私は目の前の芸術品を見つめることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なるほど、よくできてるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さな鼻に、ぷるんと光る桜色の唇。くるりと長い睫毛を携えた様子を見つめていると、急に眼をしばたたかせたように見えた。それが急に雨で暗くなった部屋に灯された電灯の光のせいだと分かったあたりで、はっと我に返る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すらりと伸びた手脚は、透き通るような肌で覆われていて、指先や関節の一つ一つまで美しい。身体の大部分はもこもことした黄色い水玉の布地――私がシオちゃんが家に来る度に着ていたルームウェアによく似ている――に覆われていて全ては分からないが、これが誰もが求める理想的なボディというものなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこには、永遠の静けさと共に一連の完成した美しさがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしそれは、人間が本来持っている自然さをすっぱりと捨ててしまった、実に不自然な美貌だ。美しく見えるために限りなく洗練されたその体躯は、一見すると唯一無二の芸術品と呼べるように思えても、実は大量生産に向いた工業製品になるためにある程度の最適化を施してあるように見える。良く言えば作りやすい。悪く言えば、オリジナリティの無い部分が透けて見えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかしたら人間だって工業製品みたいなものなのかもしれないけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雨粒が叩きつけられる音が幾分柔らかくなり、シオちゃんが窓を閉め終えたとわかる。外から流れ込んでいた自然な空気が断ち切られ、優しさのない冷ややかな人工の風がお人形の髪を揺らす。それがこの部屋にはよく似合っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どんなふうに扱えばいいの？　触っても大丈夫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;振り向いてそう訊くと、シオちゃんはきょとんとした顔。私がこんなに興味を示すのが意外だったとみえる。悔しいけれど私に向けられていたニックネームを受け継いでいるんだから、観察しておいて損はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「普通の人に触るよりも、ちょっとだけ優しくしてあげて。怪我なんかしちゃっても自然には治らないから。当たり前だけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;注意を告げるシオちゃんは、少し照れていたようだった。どうしてか、その様子を見ているとあまり良い気持ちがしない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ。ではまた、失礼しますね、アヤさん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は指でお人形の頬を突付くようにして触れる。ぷにぷと、一見柔らかい感触が指から伝わってくるけれど、この下には生物らしさの欠片もない整然とした金属か何かの骨格があるのだろう。少しひんやりとする無機質な素材の上に形作られた脆い理想のような、不用心に触れたら全てが壊れてしまいそうな儚げなものを感じさせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;右手で頬を包み込むようにすると、その冷たさがしかと伝わってくるようになる。この冷たさが彼女を非生物たらしめて、永遠を担保しているように思えてならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし今私が気が狂ったようにして、このシリコンの皮膚をすぱすぱと切りつけてしまったら、彼女たちの世界は壊れてしまうのだろうか。そうするだけで彼女の持つだろう永遠が終わりを迎えるのだとしたら、アヤの名は私に戻ってくるのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ。そろそろ、やめてもいいんじゃない？　アヤも恥ずかしがってるし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、恥ずかしいのは紫織でしょう？　あなたが大好きな私が二人もいて、触れ合ってるんですもの。確かに何もせずには見ていられなくなっちゃうかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くすくすと、あなたの痴態を見て笑っているのよと言うような声を浴びせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんはそっぽを向いてしまって、顔は見えないけれど、みるみる赤くなっているだろう様子が良く分かる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うぅ……い、言わないでっ！いいから、早くアヤから離れてよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ。そろそろ休憩も終わりにしないとね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はお人形に一礼して、立ち上がって、振り返って……と、あれを忘れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと、そのノートは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;木製の丸みを帯びた子供用らしい学習机――これもおそらくは私が使っていたものを意識したのだろう――に、ありふれたＡ４三十ページの学習ノートが置かれている。表紙には黒いマジックペンで「16」とだけ記されており、内容は推察できない。おそらく大学で使っているノートをここに置くことはないだろうから、初めに部屋を見回した時から何に使われているのか気になっていた。お人形の取り扱い備忘録か何かだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ！それは、ダメ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慌ててノートを取ろうとするシオちゃんをわざわざ素早く追いかけることもせず、私はゆっくりと机に近づいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに焦ってどうしたの？　まるで、壮大な犯行計画でも書いてあるみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;十六番目のノートは机を背にした彼女の胸に抱えられている。その様子が一冊のノートだけでなく机ごと守っているようにも見えて、引き出しの中にバックナンバーが保管されているのだろうと推測させた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これは黒歴史みたいなものだから、絶対誰にも見せられないよ。だって、こんなのもし文香に見られたら、また……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また、気持ち悪いって言われちゃう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう訊くと、彼女は恥ずかしげに小さく頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「見ちゃダメなの？　それとも、見て欲しいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じっと、瞳の奥を見つめるようにする。シオちゃんはこういう見透かされているような視線に弱い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……う……み、見てもいい、けど……また、気持ち悪いって言われちゃう……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんは手に持ったノートを差し出しながら、もう片方の腕で目を隠す。その証拠品をぱらぱらとめくると、日付と一緒にシオちゃんとお人形の会話録みたいなものが書いてあった。日記だろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日記では、私とシオちゃんが付き合っているという設定らしい。厳密にはこのお人形となのだけど、それを通して私を見ているはずだから、私と言ってもいいだろう。もっとも、偶像を通して見つめる私が本当の私とは限らないのだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんが付き合っている『私』は、実に彼女と仲睦まじげだった。手を繋ぐ、見つめ合う、キスをする。そんなことは日常茶飯事で、時には同じ布団で眠ることもある。朝は必ず『私』が早く起きて、目覚めるまでシオちゃんのことを見つめているのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「このアヤちゃんは、夜になると動いたりお喋りしてくれたりするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、それはただの妄想。アヤと一緒にいる時の妄想を書き留めたノートなの。ここにいると、いろいろ考えちゃうから。やっぱり、気持ち悪い……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、そうね。気持ち悪いわ。紫織がこんな変態だったとは思わなかった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へ、変態？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃんが下を向いて手をもじもじさせた。新しい罵り文句も気に入ったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「親友を勝手に自慰のための妄想に使って、それをわざわざノートに書き留めているのでしょう？　私には、節操のない変態にしか見えないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;変態と言われた時の歪んだ喜びも忘れて、親友か、と今度は少し照れたようだった。結局、私には何を言われても嬉しいのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、紫織はこれじゃ、満足できないんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう確信して、私は核心に迫ることにした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「……え？　た、確かに、そうだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人形とのお遊びじゃ、満足できない。そんなの最初に言ったことだ。どうして文香が急にそんなことを蒸し返したのか分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、お人形は血を出さないもの。血だけじゃないわ。このお人形が、一滴だってあなたのために体液を出してくれたことはある？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が一歩前に出て、ずいと私を覗き込む。私は後ろに下がろうとしたけれど、机があるのを忘れていたせいで不格好に上半身を少しのけ反らせるくらいしかできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そんなのできるわけないじゃん。人形なんだもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうよね。だから、紫織は絶対に満足できないの。違う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ？　人形に体液が通ってないと、私が満足できないってどういう……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまで口に出したところで私は、はっ、として、彼女が何を言わんとしているのかを理解してしまう。私が口をぱくぱくとさせていると、文香は私からぴょこりと跳ねるように離れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が後ろで手を組んで腰をかがめてこちらを見る。じっと見られていると、まるで私が見世物であるかのように思えてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「関係あるでしょう？　私の血を舐めて、挙句の果てに私を襲っておいて。その相手の前でとぼけようっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ文香。この話、やめない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら倒した身体を再び起こすと、文香はすかさずすれ違うようにして私の耳元に口を近づける。くすっ、という笑い声が耳に当たって、身体の芯からくすぐったい感じが上ってくるようでぞくぞくした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大好きな人の体液に興奮を覚えるあなたが、体液のひと滴も出ないこんなお人形で満足できるっていうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうやってはっきり訊かないと分からないのかしら、という言葉に、私は目の前が真っ白になる。血の通った文香と血の通わないアヤが触れ合っている様子が思い出されて、その想像の中で文香だけがきらめく輝きを放っているように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふっと、文香が私の耳に息を吹きかける。今度はわざと。当たるか当たらないかのくすぐったさがない代わりに、それはしっかりと私に直撃して、きらきらとした想像をかき消した。私はすっかり身体の力が抜けて、とすんと尻餅をついてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひゃうっ！な、何するの……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうなの？　あなたは、このお人形で満足？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は引き出しに寄りかかって座り込んだまま、ふるふると首を振ってその質問を否定する。文香は私の視線に合わせてしゃがみこんで、言葉を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、不満よね。じゃあ、私ならどう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香なら、って？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少しだけ高い文香の視線に応えるようにして、ちらりと彼女を見上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「例えば、今キスをして、重力に任せてあなたと体液を交換するの。あなたが欲しかった私を、好きなだけ貪りたくはないかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「キス、してくれるの……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ごくり。唾を飲む音が聞こえてしまわないだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいわよ、あなたがしたいのなら。紫織からしたい？　それとも、私がする？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……文香がして。文香にしてほしい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。分かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;にこりとした文香を見ると顔が熱くなって、見上げた視線が定まらなくなる。ほぅと吐く息が熱い。どんな表情で彼女のキスを待てばいいのか分からなくなって、私は下を向いてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香とのキス。彼女の初めては、私が強引に奪ってしまった。柔らかい唇と不規則な浅い吐息を器にして、とろとろとした唾液を夢中になっていくらでも掬い取った。あんな自分勝手な幸せは、後にも先にももうないだろう。思い出すだけで息が荒くなって、顔が熱くなって、何も考えられなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;紫織、と呼びかけられてまた文香を見上げると、彼女の人差し指が私の唇に、一瞬だけついと当てられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私からしてほしいのでしょう？　顔を上げて。目を閉じなきゃキスできないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目を閉じると、すぐに文香の唇が私に触れた。私の首に手を回して、少しだけ高い位置から、ちゅ、として。何度か唇が触れ合って、また、ちゅ、と音を立てる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度かついばむようなキスをしてから、ちろと文香が私の唇を舐めた。驚いて思わず目を開けると、文香とばちっと目が合う。悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女は、ダメよ、と声に出さずに言ってから、じっと私に熱い視線を送ってくる。初めはその視線から離れられずにいたけれど、とうとう恥ずかしくなって私は目を閉じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、すぐにまた彼女の攻めが始まる。今度はもう少し激しいキスだ。たらたらと文香のジュースが私の舌へと渡される。時折漏れる互いの吐息がどんどん激しくなって、私も文香も昂ぶっているのを肌で感じられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の体液は舌からじわじわ広がって私の身体に入っていって、どろどろになって私と混じり合っていくのだ。文香の言うとおり、私は大好きな文香の体液に興奮を覚えるいやらしい人間だから、そんな想像は私の身体にこの上ない快感を刻んでいった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女とのファースト・キスを思い出して、それよりもずっと幸せな気持ちが広がっていくのを意識する。お互いが同意してするキスは、触れ合う度に見えない気持ちが交換されていくような気がしてもっと気持ちいい。私は文香から伝わる優しさに安心して抱かれていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ……ふぁ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つつ、と銀色の糸が引かれてすぐにぷつりと消え去った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私からするのは初めてね、紫織」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香も、乱暴に私が奪いとった初めてをきちんと覚えていた。普段は凛々しくて、少し触れるのにも心高鳴る彼女が、あの時だけは私の下でされるがままになっていたのだ。あの光景が文香の中にも残っていると思うと、胸がきゅうとして、でも不思議な嬉しさを感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の光景がリアルに思い出されて、文香のいなくなった唇が急に寂しくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「も、もうおしまい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「物足りないの？　大丈夫よ、キスなんていつでもできるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いつでも、してくれるの？　じゃ、じゃあ今、もう一回して」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なぁに、興奮してきちゃったの？　最初にお人形を見られた時は泣きそうな声で、帰ってほしい、って言ってたのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;耳元で、気持ち悪いわね、と囁かれてまた身体の力が抜ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもね、今はダメ。作業が終わってないの。今日はもともと絵を描きに来たのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そんな……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が一段落するまで、一人で我慢できる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふるふる。私はまた首を振る。それを見た彼女は、紫織はわがままなのね、とくすくす笑った。私の浅ましさを嘲るように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、お人形さんで発散したい？　それとも、私とそういうこと……したい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香。文香ともっとキスがしたいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は力の抜けた身体を無理矢理起こして、文香に抱きついた。不意に私に体重を掛けられて、文香は私ごとバランスを崩して倒れてしまう。ちょうど押し倒したような形になって、まさに当時のままの構図である。あの時の私は、このまま強引にキスをしたのだ。どきどきとして、文香の唇から目が離せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ！ふ、文香っ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、紫織って本当に気持ち悪いのね。何度言ってもダメよ、まだ我慢するの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今私が有無を言わさずキスすれば、そんな命令に意味はなくなってしまう。そうしてしまいたい。でも、そんなことはしてこないと文香は分かっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その笑顔は、私のことを弄んで楽しんでいるみたいだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「私をずっと好きでいてくれたの？　私を襲ったあの時か、その前から」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよ。ずっと、好き。いつからかなんて、分かんないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が水彩の続きをしながら、私に話しかける。私は体育座りで作業の様子を後ろからぼーっと眺めていた。さっきのキスは、その刺激をすぐに受け入れるには衝撃的すぎて、今になってやっと私の身体にじわじわといやらしさを植え付けていっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;早めの夕立だと思っていた雨は案外長引いてしまって、夏には似合わない灰色の空が辺りをすっかり暗くしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直早く一人にしてほしいけど、本当は帰ってほしくなんてない。帰ってほしくないけど、文香が振り向けばすぐに見られてしまうような状況で一人で自分を慰めるなんて勇気もない。ぐるぐるとした欲望が時々私の身体を震わせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、付き合ってほしいと言ってくれれば良かったのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの、無理だよ。だって友達だもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お友達だと、恋人になれないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「女の子同士で付き合うだなんて、真面目な文香が許すわけないよ。私だって、文香がこんなに好きだなんて……最初は戸惑ってたし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かちゃ、と筆を置く音がして、文香が振り向いた。正座のままでこちらを見つめる不満そうな顔に、ばちっと目が合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私にも、人相応に怠惰で不真面目なところくらいあるわ。紫織は私を完璧だと思いすぎなんじゃないかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が真面目だから、友達だからなんてのは、私が勇気を出せなかった言い訳だ。私は膝に顔を埋めてさらに言い訳を加える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ずっと長いこと友達やってきて、それを壊したくなかったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「友達だからダメって言うのなら、いっそのこと私と付き合ってみない？　お人形を使うよりは、満たされると思うけど？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前方から聞こえる声に、私は抱え込む腕の力が強くなるばかりで、顔を上げられない。本当は願ったり叶ったりの提案だけど、手放しで喜ぶ気にもなれなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今付き合うって言ったら……キスしたいからとか、えっちしたいからとか、そんな理由になっちゃう。だから、やだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じくじくと疼く赤い傷口は、確かに文香を性的に求めているけれど、私の心はまだその欲望を許せずにいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、私とセックスしたかったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「例えばの話だよ。キスは……うん、したいけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、セックスフレンドでもいいわ。キスフレンドって言えばいいのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は思わず顔を上げる。文香の頬に朱がさして彼女までもが発情して見えてしまうのは、きっと私の欲情の反映なのだと思う。今日の文香は私の知ってる彼女じゃないみたいだ。少なくとも、私には直視できないようないやらしさを孕んでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「女の子同士でせ、セフレだなんて……て言うか、セフレ自体良くないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「良くない、っていうのは、背徳的ってことかしら。私、背徳的なのも好きよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一度離れた膝の間に戻る気にもなれず、逸らした視線は文香の肩の向こうへと投げられた。ぼんやりと、今朝軽く片付けられたままのベッドが目に入る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香。もしかして、大学でそういうことしてるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうことって、どういうこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「身体だけの関係っていうの、良くないと思う。文香は綺麗だし、身体目当てで寄ってくる人もいっぱいいるとは思うけど、そんな、自分の安売りみたいな――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやだわ、勘違いしないで？　こんなこと言うのは、あなただけよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が私の言葉を遮る。それから彼女は正座を崩し、這うようにして私に近づいた。私はちら、と文香の顔を一瞥してからまた自分の寝床に視線を落ち着かせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、私達はずっと幼馴染として心を通いあわせてきたじゃない。今更身体だけの関係だなんて、そんなの無理に決まってるわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四つん這いになったままの文香が下から覗きこむようにして顔を近づけるから、嫌でも目を合わせることになってしまう。さっきよりも近くて鮮明になった文香の顔は、今度は確かにその紅潮を私に意識させた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあなんで、セックスフレンドになろう、だなんて言うの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「恋人よりは、あなたが気軽に受け入れてくれるんじゃないかと思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が体育座りしたままの私の首に手を回した。上半身でのしかかるようにしてさらに顔を近づけて、彼女は耳元で囁く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、これでも紫織を誘惑してるつもりなのだけれど、気付いているかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;膝を抱えた腕の辺りにむにゅり、と胸の感触が伝わってきた。暖かな柔らかさが文香がそこにいる実感を確かにする。ふわりとシャンプーの香りがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わ、分かんない。知らないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、息が荒いわよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、身体が当たってて……なんかくすぐったいから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香はくすくす、と笑ってから、身体ってこれのことかしら、と言いながら回した腕の力を強めて、さらにむにむにと身体を押し付ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。こんなやり方しちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中途半端なキスで寸止めされた挙句に、目の前で餌をぶら下げられてるみたいだ。じくじくが、さらにじわじわと広がっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はね、紫織に素直になってほしいの。して欲しいことをして欲しいって言ってもらって、何でも叶えてあげたいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;顔を耳元から離した文香が、今度は私の目を見て話しだす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、何でも……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうよ。身体でも、心でも、命でも。差し出す覚悟はできてるの。親友のためになりたいっていうのは、そんなに不道徳で不健全なことかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;親友のためになりたいという言葉だけは、不道徳でも不健全でもないように聞こえるけれど、その言葉を放つ文香は目を離せないほどのいやらしさを見せつけている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも私、人形に興奮しちゃうような、気持ち悪い人間だよ？　文香だって、気持ち悪いって言ったじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気持ち悪いだなんて思ってないわ。ただ、あなたがそう言ってほしそうにしてたから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;違うかしら、とさらりと髪を揺らす文香から、また心地の良い香りが届く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ちょっと、どきどきは、したけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたに不快な感情を抱くことはないから、もっと頼ってくれていいのよ。昔のことだとか、自分に言い訳なんかしないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「頼る？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。例えば……キスしてほしかったら、目を閉じるとか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言われて、私はゆっくり目を閉じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香がそれに応えて、軽く一回だけ唇同士を触れさせた。そんな弱い刺激でも、一つ一つの吐息が熱くなってくるのが分かる。それが文香に届いてしまわないか気になって、余計に息が荒くなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目を開けると優しく笑う文香がいて、ね、と小さく同意を促してきた。私は恥ずかしくなって、ぷいとそっぽを向く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香だって、したいことあるでしょ？　私にだって、頼ってほしいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。じゃあ、早速だけど……お願い、いい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、お願い、と訊き返して、目をそらしたまま続きを待った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日は傘も持ってきていなくて、それに、あまり絵も濡らしたくないの。だから、泊めてくれないかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雨はまだ降り続いている。湿度が高くなって乾きにくいのもそうだけど、この雨の中で持って帰って染みるのは避けたいというのももっともだ。でも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「絵を口実にするの、ずるい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、気付いちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;傘を借りて絵は置いて帰ったほうが迷惑にはならないことなんて当然誰にでも分かる。それなのにわざわざ面倒な提案をしてくるのは、さっきそうしていたように、私が気軽に受け入れられるための優しさなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気付いても、気付かないふりをして騙されてくれると思ったのだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちゃんと言ってくれなきゃ、やだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、文香の目を見ないまま口を尖らせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「確かに、それもそうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香はそうと言ってから、また耳に口を寄せた。次に来るだろう言葉への期待で、頬や耳に当たる髪のくすぐったさをいつもより鋭敏に感じてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのね、と小さく囁いて、文香は言葉を続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織が好きなこと、もっといっぱいしてあげたいの。だから、泊めて？」&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ストロベリィドール</title><link href="https://ama.ne.jp/post/strawberry-doll-1/" rel="alternate"/><published>2018-08-25T17:30:00+09:00</published><updated>2018-08-25T17:30:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-08-25:/post/strawberry-doll-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;前編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/strawberry-doll/"&gt;ストロベリィドール&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="1"&gt;1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;夏の日差しは私には眩しすぎる。無理やり気持ちを高揚させるこの陽光は、大事にしなきゃいけないものを全部隠してしまうから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;電車に一時間ほど揺られ、私の目的地を告げるアナウンスを聞く。駅のホームに降り立つと、既に待ち合わせの時間からは幾分過ぎていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;休日の昼下がりとは言え、この小さな駅を目的地としている人は少なく、左右を見渡しても降りる人は私の他に二人か三人ほどしかいない。ホームの掲示板の隅に貼られたくたびれた張り紙は何年か前に打たれた観光協会のポスターらしいけど、褪せてしまってすっかり字が読めなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぷるるるるるるる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;がたりと大きな音を立てて閉まる列車のドアが、とうとう戻れないところまで来たことを意識させる。電車は私をここに残して、人々を次の街へと運んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香はこの空、毎日見てるのかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然の風に巻き上がるスカートを押さえながら空を見上げると、波打ったスレートの屋根の向こうに遥かな青が見渡せる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香。本当に私は、あなたと再会してもいいのでしょうか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;約束を交わした幼馴染が待つ広場へ、一歩ずつ彼女へと近づいていくことを意識する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;春が過ぎ、夏が来て、私が何もしなくても時間は過ぎていく。きっとそのうち、もう彼女にも会えなくなるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は私を忘れ、私は彼女を忘れていく。私は彼女に酷いことをしたから、もう顔を合わせたいと思っちゃいけない。それで良かったはずなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香に会いたい。そう思った時には、入道雲が私に電話をさせていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;電話で聞く彼女の声からは、私への嫌悪は感じられなかった。少なくとも、こうして逢瀬の約束を交わしても誰にも――自分以外には――怒られまいと、そう思うほどには。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;駅前の小さな広場に、私よりもちょっと背の高い黒髪がさらりと揺れる。黒いストレートの長髪は、大学二年生にしては厚ぼったくもあるけれど、その後ろ姿は高校の頃から変わらない彼女だということを示していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白いロングのワンピースが夏の空に良く似合う。ここに麦わら帽でも被せると、野原を無邪気に駆けまわっているイメージが湧くけど、今の立ち姿はどちらかと言えば木陰で静かに本を読んでいる方がしっくりくる。広い広い草原のど真ん中に一本だけ生えた大きな樹に寄りかかりながら、きっと人気のない古書店で見つけたような古いファンタジィの小説を読んでいるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明るい布地と暗い髪色に、駅前広場の植栽と深い青空。それらのコントラストがこの女性を景色から切り取るようにしてより一層魅力的にしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、紫織」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;靴音に気付いた彼女が振り向いて目を合わせた。すらりとした手脚を目で追う私の前で、私よりも幾分か大きなバストが揺れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめん、待った？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。三十分ほど。こんなにゆっくり街並みを眺めたのも久しぶりだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がおそらく二十分ほど遅れてしまったことを考えると、彼女――文香は待ち合わせの十分前にはこの広場に立っていたことになる。文香はめったに遅刻することのない真面目な性格だから、私の遅刻も心から許しているわけではない、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当に、ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいのよ。この頃、少し忙しなかったからちょうど良かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じっと立っているのは暑かったれけど、と黄色いチェックのハンカチで軽く額を拭う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織は、今日も寝坊？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと、うん……まぁ、そんなところかな、えへへ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いつものあなたらしいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校の頃を思い出すわ、と言ってから彼女はくすりと笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は朝が弱くてよく遅刻する癖がある。彼女はそのことを言ってるはずだけど、まさか流石に一年ぶりの待ち合わせで遅刻するほどの悪癖のつもりじゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でもわざわざそれを否定してまで、実は緊張していて家を出ようとしたあたりで体調が悪くなっていた、とも言えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、今日はどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうした、っていうか……久しぶりに会いたくなった、だけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏の陽気に後押しされて、あなたに会いたくなりました。はっきりそう言えればいいんだけど、そんなのはきっとただの気障な台詞か下手な言い訳にしか聞こえない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの。予想が外れちゃったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「予想？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、悩んでる時はいつも『ゆっくりお話したい』って言っていたから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから、てっきり今日も悩み相談だと思っていたの。と、また小さく笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は図星を突かれたような気がして、思わず口に手を当てる。もちろん、一週間前に受話器に向かっていたこの口を塞げはしないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず喫茶店で落ち着きましょうか。ここはおしゃべりには暑すぎるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩き出してひらりと舞い上がる白いワンピースが、一緒に付いて回る艶めいた髪と共に夏の熱気を巻き上げる。ふわり、と柑橘の匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お店は任せるよ。ここらへんには詳しいんだよね、ふみ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに着いていこうとする私の動きが止まって、言葉が止まって、そのせいで服が張り付くようなじとっ、とした嫌な汗が急に気になってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……紫織？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、その」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一年以上連絡も取っていない友人に、私の手は届いているのか。彼女は私に手を伸ばしてくれているのか。分からなくなった距離感に一瞬言葉が詰まる。名前で呼んだり、遅刻したり、こんな馴れ馴れしくあっていいものなのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……佐々木、さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が求めていることと、私がしたいことと、私がしなきゃいけないこと。ぐるぐるとしたせめぎ合いの中で、私の視線は行く先を失う。どれも選んでも、しっかり見つめることなんてできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういう時に綺麗な空が広がっていると便利だと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら。もう、文香って呼んでくれないのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、私、佐々木さんに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は私に背を向けたままだ。ワンピースの半紙にするりと黒髪の筆が下りて、そのまま墨の波紋を広げていく。描かれた黒い波紋が世界を覆っていくことを思いながら空に視線を遣ると、私の目には黒か灰色か分からない曖昧な空の色が映った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何を気にしているかは分からないけど、あなたの好きなように呼ぶと良いわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから彼女は振り返って、私は、と言葉を区切る。小さく前に出るのと一緒にヒールがタンッ、と茶色いレンガの舗装を鳴らした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、あなたに名前で呼ばれるの、好きだったけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鋭く私に向かう視線に応えていると、街の雑多な音が全部かき消えて風と蝉の声だけになる。そういう空気が前から後ろから私を通り抜けて、辺りいっぱいに満ちていくことに妙な高揚や興奮を感じてしまって、思わず彼女を見つめてしまうのを止められない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたはどう？　紫織」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も名前で呼ばれるの、好きだよ。ふ……文香ちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なら、良かったわ。お揃いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;嬉しいわ紫織、と再び私の名を呼ぶ声が、じわーっと、心に温かいものを注いでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香、ちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　あなたも何だか嬉しそうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段から頭の中では繰り返している彼女の名前なのに、そう口に出して呼んだだけで何だか頬が熱くなる。なりふり構わず大声で、全部夏の暑さのせいなのだと誰にともなく誤魔化してしまいたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、紫織。また、アヤと呼んでもいいのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変なわだかまりがあるのは嫌なの。なんなら私もまたシオちゃんって――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;呼びましょうか、と言ったあたりで私は思わず言葉を遮ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「や、やめてよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まばらな通行人のいくらかがこちらを一瞥して、またそれぞれの歩みに戻っていった。喜びに満ちた高揚にちくりとした後ろめたさが差し、それらが全部まとめて萎んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔の呼び名ほど、あの頃の二人を思い出させる名前ほど、聞きたくないものもない。聞きたくないだなんて、そんなこと私が言っちゃいけないのかもしれないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう、残念ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあ今度こそ行きましょうか、と歩き出す文香。さらりと流したのは全く気にしていないのか、それとも私を気遣ってくれているのか。どちらにせよ、今の私にはわざわざ呼び止めてその真意を訊くような厚かましさも勇気もない。こうして二人で歩けているだけで、幸せなんだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不意に自分から出た大きな声のせいで、ばつ悪く文香の後ろを付いて歩く私の中では、シオちゃん、という声が何度も繰り返されていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;老舗の喫茶店みたいなものを想像していたけど、喫茶店と言われて連れて行かれたのは私も良く見知ったチェーンのお店だ。店員に二言三言注文を告げてから、文香と丸テーブルを挟んで向い合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういう『街の喫茶店』は煙草臭いのよ。煙草を吸う常連さんに甘いところも多いし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;煙草の匂いは好きじゃない。上着も鼻もすっかり煙草で塗り替えられていくのを止められないあの無力感が、ずっと鼻に残ってしまうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういう喫茶店、何度か出入りしていたんだけど、すぐにやめてしまったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が煙草の世界と親しくなっていたかもしれないという想像をかき消され、私は少しだけ安心した。文香には物憂げに煙草を吸う姿もきっと画になってしまうから、その想像は少しだけリアルに浮かんでくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分煙がちゃんとしてるチェーン店の方が居心地は良いわ、と言って彼女は金色のスプーンでコーヒーを軽く撫でる。立ち上る湯気が渦を巻いて私にも香りを届けていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの？　私がブラックのコーヒーを飲めないの、知らなかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が、シロップを注がれたカップを見つめる私に不思議そうに声を掛ける。私は慌てて自分のカフェラテを啜ってみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ううん、それは知ってるけど……コーヒー、いい匂いだなって思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「心が落ち着くいい香りよね。永遠に冷めなければ、飲まずにずっと楽しめるんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コーヒーを飲んでいる文香の様子が目に入って、それだけで不思議なことに香ばしくて心地良い匂いが更に強くなったように感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はしたないかもしれないけれど、良かったら飲んでみる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えっ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「随分と熱い視線を送ってきてるみたいだから、飲みたいのかと思って。いらない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちょっと甘くなってしまっていると思うけれど、と文香が差し出すカップから見える黒い水面に、窓からの日差しが反射してキラリとした。全国どこでも飲める味のはずなんだけど、今だけはとても手の届かない高級なコーヒーに見えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ありがとう、文香ちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カップを受け渡す時に軽く触れた文香の指に、びくっと人知れずどきどきしながら、私は揺れる水面をじっと見つめる。時々ゆらゆらときらめくこの動揺が、私の手から与えられていることを意識すると、私の心をすっかり丸ごと見られているような視線を感じて余計に手が震えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを悟られないように、ゆっくりと、ゆっくりと、口を近づけて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして、カップにちゅ、と口づけをした。陶器のように透き通る文香の唇に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「甘い……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、ちょっとお砂糖入れすぎちゃったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうかもね。すごく、甘いよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香と私の唇が重なったところに少しコーヒーの色が残っていて、味見が終わってからも私はどうしてもその白いカップの縁から目を離せなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこにキスをすると、何度でも痺れるような甘さを感じられるような気がしたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香に呼びかけられて、慌てて我に返る。薄手のコーヒーカップとソーサーがぶつかって、コーヒーがゆらりと大きな波を立てた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ、ありがとね！　コーヒー、美味しいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もういいの？　遠慮しないで、もっと飲んでもいいのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私もカフェラテを貰うから、と、文香はテーブル越しに軽く身を乗り出した。伸ばされた彼女の手が厚手のカップに触れて、からこっ、と音を立てたあたりで、私はひゃっと素っ頓狂な声を上げてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、いけなかった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うの。ダメってわけじゃ……むしろ、その……いいよ、私も貰ったもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　ありがとう。なら、いただくわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大丈夫よ。別に普通のコトだから。まるで私にそう言い聞かせるかのように、文香は実に自然な仕草で私のカフェラテに口を付ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;友人同士の回し飲みなど普通のことのはずなのに、なんだか恥ずかしくて見ていられない。文香がゆっくりカップを置いたその音で、飲み終わったことを知る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「カフェラテって、ミルクがコーヒーを抱きしめているみたいで好きよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も……好き、だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;持ち手に人差し指を当ててくるりとカップを回すと、ミルクの模様が少し歪んで、それから元に戻る。カップに付いた重なる二つの唇の跡を見つめながら、ふわっと立ち上るミルクとコーヒーの香りを吸い込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織、大学は楽しい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なぁに、急に。お母さんみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大学では特に変わったことがない。サークルに打ち込むわけでもなく、普通に講義に出て、数人の友達とご飯を食べて。たまに抜け出して、みんなで遊びに行ったりする。学生らしく、学問に生きているとは言いがたいけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;できることなら、文香と一緒の大学に行きたかった。そうしたら、もう少し変わった生活ができたかもしれない。私がせめて高校卒業までの間、彼女と上手に幼馴染をやりきれていたのなら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日の紫織は、何だか私の知ってる紫織とはだいぶ違うみたいだから。大学で何かあったのかと思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香ちゃんだなんて幼稚園の頃みたいね、と笑いかける彼女に、私は笑顔で答えられない。おどおどとした追い詰められるような後ろめたさを見透かしているのだとしたら、多分それのことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、少し見ないうちに随分髪が伸びたみたい。卒業式の時はこれくらいだったのにね。明るい髪色は変わらないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は肩のあたりで手を横に振って、私がボブカットだったことを示す。少し、と言われて私はむっとした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香ちゃん、少しって言うけど、私達、一年以上会ってないんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知ってるわ。一年か二年くらいのことだから、少しって言ったのだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心がざわついた。きっと私がこのカフェラテだったら、全部零れてしまうくらいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ざわざわと私の心が音を立てて、差した影から黒いところがゆらゆらと這い出てくるような気持ちがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一年が少しって、おかしくない？　私は、ずっと文香のこと考えて、会いたいなって思ってたのに。文香は、私のことなんて思い出しもなかったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織？　怖い顔をしているけど、大丈夫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気付くと文香が椅子から立ち上がっていて、私の顔を覗き込んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……ご、ごめん！　私のことを思い出せだなんて、私が言っちゃいけないのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、何か勘違いしているようね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……勘違い？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が聞き返すと、文香は、えぇ、と答えてまた静かに椅子に座った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香はいつも冷静で、じっと私を穏やかに見つめてくれる。私の暴走しかけていた感情が徐々に収まっていって、いつの間にか頬が濡れていることに気付いた。これは確かに、文香が心配するはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、あなたが思ってる以上に紫織のことを大事に思っているわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だい、じ……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;半分ほどになったカフェラテに、ぱっと波紋が広がる。それから私は何も言えなくなってスカートを握りしめ、下を向いてじっとその皺を見つめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、そうよ。大学生の間も、社会人になっても、お互い結婚しても、少なくとも私は一生のお付き合いをしていくつもりでいるわ。そう考えると、長い一生に比べたら、一年なんて瑣末な時間だと思わない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;答えの決まっている問いかけに、私は無言で応えることしかできない。文香は少し冷めたコーヒーを飲んで一息置いてから、それにね、と言ってまたゆっくりと喋り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたは覚えているかしら？　紫織が私を避けるようになってから数えるなら、そろそろ二年が経つのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;毅然とした口調が耳に響く。あの日の、夏の出来事が思い出されて視界が揺れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「高校の卒業から数えるなら、確かに一年と三ヶ月が経ったわ。でも、卒業式でちょっと声を掛けたくらいで、私が取り残された時間をリセットできると思う？　それじゃあまるで、高校時代の私との関係が丸ごと無かったことになったみたいで嫌だわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……うぅ……ふ、ふみ……か……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の言葉を聞いて、驚き、悲しさ、悔しさ、嬉しさ……色んな感情がぼろぼろと溢れだしていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんなさい。追い詰めるつもりはないの。あなたもあなたなりに考えていたのよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うの。これは、安心しちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「安心？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香ちゃ……文香は優しくて、突然連絡しても、こうして何も言わずに会ってくれるから。実際に会うまでは、誘いを受けてくれてすごく嬉しかったんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は顔を上げて、流れる涙も気にせずに彼女を見つめる。きっとひどい顔になっていることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、あんなことをしておいて、本当に会って良いのかなって思っちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あるいは実はもう私のことなどとうに忘れていて、二人の間に何があったかなんて気にしてないのかも、とも思った。忘れる――数年で私の記憶が本当に無くなるとは思ってないけど、記憶に残っていることと、彼女の中に私が居続けていることとは違うから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私の考えすぎだったって分かったから。安心して、落ち着いて、そのせいでまた涙が出ちゃったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;えへへ、と目尻の涙を拭いながら文香に笑いかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私もね、あなたから連絡が来るまでは同じようなことを感じていたわ。突然部活に来なくなったと思ったら、最近まで会話どころか連絡一つもないんだもの。嫌われているか、そうでなければ忘れられているか、でしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窓から差す夏の陽射しがぐっと強くなって、窓枠の影が木目にくっきりと映る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はあなたみたいに感情豊かになれないところがあるから、あんまり信用してもらえないかもしれないけど、私だって寂しかったの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今はむき出しの感情をぶつけられて、実はすごく嬉しいのよ、と笑ってみせたけど、そこに何かを含んでいるように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は感情豊かになれないとは言っているけど、実は文香は感情豊かな娘なのだ。でもそれは、高校生だった頃の私の目に映る文香だったから。ずっと彼女から離れていた今の私には、それが微妙な表情だとは分かっても何かを読み取ることは無理だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は紫織を忘れたりしないし、あのこともずっと覚えているわ。あなたは、どう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのこと、と、言われて重いものがのしかかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、忘れてないよ。全部、ちゃんと覚えてる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳裏に浮かぶのは、必死で抵抗する制服姿の女の子。今も変わらないあの長髪が薄暗い部室の床に散らばって綺麗に広がる様子が一瞬再生されて、すぐにかき消された。私が心の奥底にずっと抱いている、文香への後ろめたさの根源。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お互いに少し、すれ違っていたのかもしれないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、文香。私が、距離を置くようなことしちゃったから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あまり気に病むことはないわ。一年以上経っても、実際こうしてまた会えたんだし。改めて、今日は誘ってもらって本当にありがとう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私こそ、来てくれてありがとう。そう言いたかったけど、どうしてだろう、口に出そうとするとまた涙が出そうになって言葉を飲み込んだ。言わなくても分かってくれればいいのに。ずっと昔の私達は、そうだったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はあなたを待ってばかりね。いつも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が差し出すおしぼりを目に当てると、冷たく、じーんとして。その冷たさを補うかのように、溢れずに残った涙が熱く染みこんでいくのを感じていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;喫茶店を出た私達は、三つほど店を巡ってから駅まで戻る道を歩いている。これは文香による街の紹介も兼ねていた。文香は実に楽しそうに店を案内してくれて、彼女自身いろいろな商品を買って回っていた。いくつか迷った中から精選したと言っていたから、本当に好きな店なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;河川敷では、時折サッカーボールを蹴るドカッという音が響いてくる。駆けまわる小学生を横目で見ながら小気味良い音を聞いていると、何だか妙に落ち着いた。この土手の道が永遠に続いていて欲しいような、ずっと彼女とゆっくり歩いていたくなるような、そういう気持ちになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日で変なわだかまり、なくなったかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織はどう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それなり、かな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、それなりなんでしょうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり胸に残る後ろめたさが残っていては、わだかまりが消えたとは言えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、このもやもやを全部文香にぶちまけてすっきりするのも、私の迷惑なわがままだと思うとそんなことできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩いているうちに世界はどんどん橙色に染まっていく。空の下方に広がってぐっと濃い影を残す水平線のような雲が、私を押し流そうとする大きな波にも、今にも崩れそうな大きな山にも見えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夕日をゆっくり見るの、結構久しぶりかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんだか今日は、夕日がいつも以上に輝いて見えるわ。誰かと感動的な景色を共有するのって、心躍るものね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が立ち止まって眩しそうに空を見つめた。私も横に並んで目を細めてオレンジのパノラマに向き合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね、大学で水彩を始めたの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「水彩？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう、アナログでね。なかなかいいものよ。心意気が変わると、道を歩いているだけで色んな風景が気になってくるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭に浮かぶのは、文香が彼女の身長ほどある絵筆を軽々と振り回して軽快に舞う姿。周囲の真っ白けな線画の空間が、すらりすらりとなぞられたところから立ちどころに色づいていって、鮮やかな世界が辺り一面に広がっていくのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へぇ、楽しそう。私も見てみたいな、文香の絵」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香の世界の投影は、強すぎる光を放って私を焼け焦がしてしまうかもしれないけど、それでもいい。彼女の目に見える景色は、きっとあらゆるものが輝いて見えるのだろうと思う。私が文香を見ている時のように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　だったら今度、良かったらあなたのお家で描かせてもらえないかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わ、私の家で？　散らかってるよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それでもいいわ。紫織が普段見てる景色を、私も見てみたいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に、普通の景色しか見てないよ？　そんな、わざわざ来るほどのものじゃないっていうか。あっ、別に来てほしくないわけじゃないんだけど、電車代だってかかるし――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぐるぐると回る私の口の暴走を止めるように、文香が言葉を遮る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに慌てなくていいわ。無理に押しかけたいってわけじゃないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっと、その……絶対掃除するから。それから、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ。機会があったら是非誘ってね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いくらかの沈黙が流れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;悪いことをしてしまったな、と思う。文香はこんなに近づいてきてくれるのに、どうして私は彼女に向きあうことができないんだろう。私は勝手に独りよがりで抱え込んでばかりで、こうすることがきっと彼女のためになると信じきっているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、文香。私、気にしすぎてたのかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもね。私達はそれぞれあんまり変わってないのに、お互いは変わったと思い込んでいたのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、紫織の髪は伸びたけれど、と戯けてみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香は何も変わっていない。私から見る限りの内面と外面では。たとえ、私には教えてくれない想い人に心を奪われていたとしても、ワンピースの下に私には教えてくれない恋人に乱暴をされた傷があったりしても、それは分からないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女がずっと変わらずに、手を広げて私を待っていてくれればいい。もしそうなら、何も心配する必要がなくなるから。同じポーズをしている人形のように、ずっと私を見ていてくれたらいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それにしても、紫織、どうして髪を伸ばしたの？　ずっとショートだったじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん。深い理由があるわけじゃないけど、なんでだろうね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「忙しくて、切るのが面倒になっちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文香が顔の前で髪を切るジェスチャーをする。右手をチョキにして、ちょきちょきと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。私、そんなにズボラじゃないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;理由なんて初めから自分の中で分かっているけど、告げるかどうかはまた別だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どんどん鼓動が早くなるのが分かる。言うのなら、あくまで軽い感じに、流すように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香みたいになりたかったのかも。そういう綺麗な黒髪にはなれないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっと言うと、寂しい思いをしている私に、彼女の面影を与えてくれるかもしれないと思ったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の中で、憧れは恋と不可分だ。あの娘になりたい、こうなりたい、女の子同士のそういう憧れは恋愛と地続きになっていると思う。男の子と女の子は互いに持つことのできないものを求め合うけど、女の子同士は互いに持ってるものに近づくことができるから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは憧れの吐露だ。綺麗な友人へのただの憧れ。でも、同時にこれは――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたは、私にはなれないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――だから、そういうことを言われると全部否定された気がしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一度涙が出た日はちょっとしたことでまた泣いてしまいそうになる。せっかく晴れた日に乾いたアスファルトを汚すのは嫌なので、できるだけ明るい声で答える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと言わないでよ。私だって綺麗な大人の女性に憧れたりするのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、私とあなたは違うし、あなたと私は違うのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、そうだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分かってる。でも、文香が手に入れられないのなら、せめて彼女に近づきたい。少しのチャンスにすがりついて文香を渇望してしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、紫織」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、文香が私の手を引いた。その手にぐいと引き寄せられて、私達はしかと向かい合う。彼女は私の手を握ったまま、もう片方の手で私の髪にそっと触れた。横から射してくる夕日がやけに眩しく感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって、あなたにはなれないの。だから、ずっとそのままでいて。私になんか、なろうとしないで。私になりたいだなんて、そんな悲しいこと言わないで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふ、文香。恥ずかしいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;瞳に広がる小さな宇宙をしっかりと見つめることのできる距離。ほつほつと模様を刻む虹彩のリングが、私にはこの上なく整った芸術品のように見えてならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私より少し大きい文香が私を見下ろすようにして、美しい瞳で私を射抜く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紫織。綺麗だわ、とても。あなたも、あなたと一緒のこの空も」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか河川敷からは誰もいなくなり、静かに響く足音と、時折風になびく葉や枝がぶつかりあう音の他には何もなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;風が吹く。黄色いシトラスの匂いが吹き飛んで、辺りに緑の香りが敷き詰められた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明るい茶色の私の髪に、文香の黒い髪が重なる。そこに夕日が射してきらきらと輝く。文香と一緒の時しか見られないこの景色は、彼女まで輝いているように見えるほどに眩しい。橙の光が頬に射した文香の笑顔は、私の頬まで赤くした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="2"&gt;2&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;家に帰ったら、まずしなきゃならないことがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ただいま、アヤ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは、アパートで待つアヤにただいまの挨拶をすること。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり暑いね。アヤは大丈夫だった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドアの隙間から外に出られなかった湿った熱い空気が辺りをぐるぐるしているキッチンを通り抜け、私はそのまま自室に入った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の家には部屋が二つにエアコンが一つしかないから、帰ってきたら間仕切り扉をガラリと開けてアヤの部屋から涼しい空気を貰うのだ。白く塗られたアルミの扉がひんやりとして気持ちいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちゃんとエアコンは動いてたみたいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私？　大丈夫。暑かったけど、文香と一緒にいたからあんまり気にならなかったよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ずっと歩いていたせいか、立ち止まると額に汗が滲み出してしまう。その上を、冷たい空気がさらさらと流れていくのを感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「寂しかったよね、ごめんごめん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の部屋はシンプルだった。勉強机とベッドとガラスのローテーブル。テーブルは水色のカーペットの上に。高校生になってから三十二型のテレビも入っていたのでそれも。もっとも、テレビは彼女の希望ではなくて入学祝いに親戚に貰ったものらしく、ほとんど使われることはなかったけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;勉強机は小学校から、テーブルは中学校から、ベッドも小学校からだって言ってた。だから本当の彼女の部屋はここにはない長年の生活感に覆われていたけど、ここだってあの頃の、高校生のアヤの部屋だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ローテーブルに向かっているアヤは、朝に私を見送った時のまま寸分も違わない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すべすべとしたシリコーンの肌も、すらりとした腕も脚も、綺麗な黒いストレートヘアも、桃色に艶めいた唇も、爪の一枚一枚すらも、等身大の彼女は私のことを待っていてくれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女がいつも着ていたレモンイエローのルームウェアに身に包んだ涼しげなラブ・ドールの茶色い瞳が、ずっと私に向けられている。この瞳は、今日見た彼女のものとは全く違うけど、これは私の中にいる彼女だから、これでいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、アヤ。私、明日までのレポートがあるから一緒にやらない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここだけはずっと時間が止まっていて、私も高校生のままでいられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アヤはもう終わってるんだ。やっぱ計画的にやらなきゃダメだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるって、もう。テスト期間くらい把握してるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私もノートを広げる。何の変哲もない学習ノートには、誰にも見せられないアヤとの妄想日記ばかりが書き綴られていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私とアヤは両想いで、放課後はいつも一緒にいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;抱きしめたら、恥ずかしそうに抱き返してくれた。お互いを見つめながら「好き」って言い合っていたら、一時間が経っていた。アヤは今日も良い匂いがする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すりすりすると、シオちゃんは甘えん坊なのね、と言って一緒に寝てくれた。私達はキスをして、朝までぐっすり眠るのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「明日の放課後は何しよっか。毎日図書館で勉強するのも飽きちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「課題もないし、またゆっくりお喋りしたいな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、明日も来ていいの？　うん、うん……そうだね、新作のお菓子も出てたし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かった。買ってから持って行くね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこから会話が思い付かなくなって、ノートを駆ける手も止まってしまった。他愛もない会話を妄想するには心がざわつきすぎていたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、今日のってどういうこと？　変だったよ、今日のアヤ。アヤを欲望のままに襲っちゃうような私に、あんな柔らかい笑顔見せちゃってさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかして、アヤは私のことが好きなの？　それって、私の好きと一緒？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の中にアヤは二人いる。私と離れて今を生きる大学生の文香と、私と仲良くしてくれていた高校生のままのアヤ。今日は心がその二人に包まれて私は幸せ者のはずなのに、どうしてか私の心は不穏な揺れが止まらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一生のお付き合いとか、寂しかったとか。それにあんな、キスの距離なんて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;親友なら普通よ、と言われるかもしれないけど、そんな答えが欲しい訳じゃない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が家にやってきたのは、一人暮らしを始めてしばらく経った頃のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は高校生の頃に、文香に顔を合わせられないようなことをしてしまった。か弱い少女に、自分勝手な欲望をぶつけたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからは私は文香とほとんど話さなくなってしまったし、彼女がいる部活にも行かなくなった。文香とは違うクラスだったので、部活にさえ行かなければ不意に出くわすこともなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから大学に進学してとうとう物理的に離れても、悲しいかなきっと心境に変化はないだろうと初めは思っていた。ところが、予想外にもその離別の事実は私の心にぽっかりと穴を開けていたとじきに気付くことになる。話せなくてもすぐに手の届くような距離にいる、というだけで私は穏やかでいられたのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ずっと一緒だった幼馴染のことを忘れられなかった私は、どうにかしてそれを紛らわさなければならなかった。現実と真正面から向き合うには、私の心は弱すぎたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな時に現れたのが彼女だった。一目見て、文香だと分かった。初めは当然気持ち悪さが勝っていたけど、結局どうしても文香の模造品を手放すことはできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どこから来たか？　どこから来たんだっけ。思い出してみると、朝起きたらいつの間にかそこにいて、ずっと私を見つめてくれていたような気もする。きっとそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現実から逃げて精神を保つにはあまりに歪んだ手段だったけど、これさえあれば私は外で前向きに生きていける。私はこの過去を留めた後ろ向きなジオラマにあまりにも依存しすぎていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、しれっと平気な顔をして文香に会おうとした自分の行動も、予想外にもそこで得た文香の好意的な反応も、私の心をかき乱す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のこの想いさえ心の奥に押し込められさえすれば、また二人で心から笑い合える日が来るのかもしれない。もうこんな歪んだ生活は必要なくなるのかもしれない。それはとても嬉しいことのはずなのに、そういう未来の果てにあるこの空間からの離脱を空想するだけで、きゅうと胸の辺りが痛み出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「聞いてる？　私さ、アヤのこと大好きだよ。一生、ずっと一緒にいたいの。親友とか、そんな言葉で誤魔化す気はないから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がどんなに抱きしめても、彼女の腕はそれには応えてはくれない。聞こえてくるのは金属の骨格が軋む音ばかりで、私に愛の言葉は届いてこない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すき、すきだよ……うぅ……アヤ、私、もっと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冷たいシリコーンの身体に、熱い涙は染みこむのだろうか。私の涙を全部吸い取って、彼女に魂が宿ればいいのに。そうして目覚めてから不思議そうに私を見つめる彼女に、私の唇の熱を流しこむのだ。この熱が彼女の身体に広がって、私の愛を知ってほしい。私も好きよと囁いてほしい。もっと私を熱い視線で見つめて欲しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シオちゃん、私、あなたが思ってる以上にあなたのことを大事に思っているわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「寂しいよ……ねぇ、文香……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じわりと身体が熱くなる。ゆらゆらとした感情の波が、心の縁を越えてとろとろと下着の辺りに零れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私のことが大事だなんて、どうしてそんなこと言うの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文香も、私がいなくて寂しいんだよね？　だから大事って言ってくれたんだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、いやらしいところに手が伸びる。もっと、もっとと、彼女を巻き込んで身体を激しく揺らす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、言って。言ってよ、好きだよって。私の目を見てよ……アヤ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふふ、シオちゃん。ありがとう、私も好きよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んっ……アヤ、やだよぉ……すき、すきっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;泣きながら溢れる体液は、私の意志ではもう止まらない。私は親友を模した人形に発情するような、いやらしくて、気持ち悪い人間だから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぅっ……もっ、もっとして……ねぇ……文香ぁ……っ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の手でしか動かない人形は、私がいなければ何もできない。彼女にしか寂しさをぶつけられない私も、彼女がいなければ生きていけない。本当は一方的な私の情欲のはずなのに、まるで複雑に絡まった綺麗な共依存のように見えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;寂しいのに、この感情さえあれば目の前の親友と繋がっていられる。そういう意識が私をじわじわと興奮させる。その不思議な関係が私にはとてつもない快感だった。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>結婚と結婚式</title><link href="https://ama.ne.jp/post/lycee-sahra-wedding/" rel="alternate"/><published>2018-08-12T21:01:00+09:00</published><updated>2018-08-12T21:01:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-08-12:/post/lycee-sahra-wedding/</id><summary type="html">&lt;p&gt;URAHARA/PHCT二次創作本鋭意制作中&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;a href="/appendices/lycee-sahra-wedding/paper.pdf"&gt;結婚と結婚式（C94配布ペーパー）&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「模擬挙式だって。今度みんなで行ってみない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マヤが放課後に持ってきた週末の予定は、いつものとはかなり方向性が違っていた。差し出されたパンフレットには、ウェディングチャペルの写真と共に「二人の夢、永遠に」とおしゃれなフォントが踊っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マヤちゃん。そういうのって、カップル向けのイベントなんじゃないかな……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリサが心配そうに訊ねた。自信満々のマヤが言うには、小中学生向けの模擬結婚式が流行っているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;読んでみると、確かに子供向けのプログラムも用意されていると書いてあった。挙式と一緒に披露宴のメニューまでこなせるようになっているようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、親戚のお姉さんの結婚式に行ったことがあるんだけどね。こういうのって、ちょっと照れちゃうかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしかして、マリ姉の話？　豪華なドレスだったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。私も将来あんな綺麗なドレスを着てみたいな、って思っちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、それ分かる。やっぱり見てると憧れちゃうよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サアラとアリサは、結婚式――で着るドレス――への憧れが強いみたい。どちらも女の子らしい女の子という感じだし、別に不思議なことではないけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの？　私、あんまり考えたことなかったかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、柚葉はロックが恋人って感じだもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう返すと、柚葉はちょっと照れた顔。学校では大和撫子で通っている彼女も、実は隠れて激しい音楽と付き合っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;格式の高いお家で大事に育てられてきた柚葉は、いつか盛大な結婚式と向き合うことになるのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「最近の結婚式は、いろいろ自由に演出できるみたいだよ。多様性？の時代なんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか、自由に……じゃあ、ライブハウスみたいな場所でやってもいいのかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「うーん、それはないかな」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ふふっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはははっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然の会話の流れに、私とマヤが思わず笑ってしまう。サアラと一緒にアリサまでツッコミに回ったのがおかしくって、五人でしばらく笑い転げていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私がサアラに惹かれているのは、サアラが可愛いからではなかった……と思う。少なくとも、初めの頃は。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、リセ。模擬挙式、どうしよっか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サアラは行きたい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……リセが行きたいなら、私も行くつもり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背中合わせで会話する。わざわざ二人になってからこんなことを言い出すのは、ただ、彼女があんまり乗り気じゃないからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんまり行きたくない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうわけじゃ、ないんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歯切れが悪かった。サアラの中で思考を整理する時間が流れて、ややあって、彼女がまた口を開く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、綺麗なドレスを着て結婚式するのが夢だったの。でも、結婚したらリセと離れちゃうって思ったら、それはちょっと嫌だなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭がぐらりとしたのは、難しい本から来る眠気のせいではなかった。サアラの隣に立つ私ではない誰かのことを考えるのは不愉快で、彼女と私が結婚しないのが &lt;em&gt;当たり前だとしても&lt;/em&gt; 、それは不条理な現実に思えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの気にしなくていいじゃない。結婚式なんて、綺麗なドレスを着るだけのパーティなんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか。やっぱり、リセはクールだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サアラがロマンチストなだけじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、そうかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が可愛いものに憧れるのは、可愛らしさが私に似合わないからなのかもしれない。でも、そうだとしたら。そうだとしたら、サアラが綺麗なドレスを着ているのを想像すると、胸が締め付けられるのはなぜだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;可愛いサアラは何も知らない。私のことも、マヤのことも。私は、何も知らないサアラに近づきたいだけなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、やっぱり行こうかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サアラはそう答えて、何事もなかったかのように読書に戻った。そして、また静かな時間が流れていく。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://www.azone-int.co.jp/?sid=shr000"&gt;AZONE INTERNATIONAL::SAHRA'S a la mode&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>しあわせガイドライン 2</title><link href="https://ama.ne.jp/post/happiness-guideline-2/" rel="alternate"/><published>2018-07-06T18:21:00+09:00</published><updated>2018-07-06T18:21:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-07-06:/post/happiness-guideline-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;後編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/happiness-guideline/"&gt;しあわせガイドライン&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="5"&gt;5&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;居酒屋バイト判定機は実に上手く動作していた。全体で見ればそうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私が持っている「しあわせガイドライン」には、こう書いてある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;幸せなみなさんのうち、満十八歳になった人は一ヶ月以内に職業適性テストを受けなければなりません。適性テストには当日のテスト結果に加え、これまでの学業や部活動の様子などが用いられます。不正を防ぐために判断基準は一部を除いて非公開になっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;適性テストの結果はコンピュータが自動で算出します。これらの結果は、幸せなみなさんの職業選択を強制するものではなく、企業が採用活動を行うときに参考にする程度のものですから、安心して適性テストを受けましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、適性テストの結果のうち、第三十三種職業適性基準、通称「居酒屋バイト判定機」だけは、事実上「企業が採用活動を行うときに参考にする程度のもの」ではなくなっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;居酒屋バイト判定を受けてしまうと、おそらくそれ以外の職種で採用は見込めない。つまり、テスト結果が有効な間は、居酒屋で働くか、さもなくば働くことを放棄しなければならない。しかし、労働は幸せを実現する重要な手段とされているから、事実上選べる選択肢は前者だけになっている。無職への風当たりは強かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういった職業選択上の事情もあり、居酒屋バイト判定機に引っかかったことを知られると、それ以外の場面――当然、恋愛や結婚でも――しばしば不利益を被ることがあった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;どうしてサキが居酒屋バイト判定機に引っかかったのだろう。見ている限り、成績は良いとは言えないまでも大きな問題はなかったはずだ。では、明るい性格のせいだろうか。志望学科のせいか、文理選択のせいか、成績のせいか。判定機は点数を示してくれないので、私はこの憤りをどこにぶつけるべきかも分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが居酒屋で働く分には問題ないだろう。彼女はどこにでも馴染める快活さがあるから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;問題は別にあるのだ。これからの私たちのこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あんな女の子と付き合うのはやめたほうが良い。どうせ親もまともな人間じゃないんだから、きっとろくなことにならない。もっと普通に男の子と付き合いなさい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが幸せだからと、両親は口を揃えてそう言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;原因は分かりきっている。サキが居酒屋バイト判定機に引っかかったからだ。そして、私が引っかからなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;サキと近くの公園で待ち合わせた。彼女の誕生日から一週間後のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日暮れの公園が生ぬるい空気でいっぱいになり、そこに街灯の光が差して羽虫が集まってくる。その下で、私とサキがベンチに座っている。よくある夏の終わりの風景と違うのは、彼女が赤く目を腫らしていることか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;待ち合わせの十分前にはもうサキはそこにいて、私はうずくまる彼女を見てはいけない気がしてその場を離れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やって来た私を見て、彼女は――そうするのが当然であるかのように――にこりと笑って、遅かったね、と言った。わざとらしい笑顔が、今日は一段と痛々しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、ユキ。ダメだったみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキが悪いわけじゃないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;居酒屋バイト判定機があるのが悪いのよ、と言うと、面白い冗談だね、と彼女はまた笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日で、共同戦線はおしまいだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し間を空けて、おしまいだよ、とさらにサキが言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もともと「しあわせガイドライン」から逃げるための偽装カップルなのだから、私たちが一緒にいることによって逆に不利益を被るとなれば、解消するのが当然だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当然なのだけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたは、それでいいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「仕方ないよ。ユキには迷惑かけたくないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、迷惑なんかじゃないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「迷惑だよ。ユキだってよく分かってるでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;家族にだって反対されちゃうし、生徒指導も受けなきゃならなくなるかもしれないんだよ。ぽつり、ぽつりとサキが続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女もきっと家族に何か言われたのだろう。ユキは当事者だから、私よりも責められたに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキのパパやママにも、迷惑がかかっちゃうんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるよね。ユキは私と違って、頭が良いもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しあわせガイドラインを意に介さないしっかりとした強さを持っていたように見えたサキでも、今はすっかり弱っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、それも当然だ。一介の高校生にはどうしようもない現実なんだから。いざ向き合うとなれば、こうして疲弊するしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんな卑下するようなこと言わないで。いつもの元気はどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキは、強いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキはそう言って寂しそうに笑う。黄昏に似合う優しい表情だと思ったけど、言わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は別れる気なんてないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？　どうして、そんなこと言うの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、彼女の顔を見る。つぅと頬に一雫流れてからは、もう決壊するしかない。ぽろ、ぽろぽろと次第に激しく溢れる涙は、きらきらと彼女の手の甲や膝に落ちていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキは唇を噛んで、声を出さないように泣いている。ずっと見たかった泣き顔は、案外簡単に見ることができてしまった。こんな時に見れたって、何も嬉しくないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「居酒屋バイトの私となんて、一緒にいたいはずないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと言わないで。しあわせガイドラインから一緒に逃げようって言ったじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？　情が湧いたの？　それとも、次の相手を探すのが面倒だからかな？　そうだよね、せっかく――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぱしっ。一瞬、何の音か分からなかったけど、目の前でサキの涙が散る。思わず手が出ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;痛い。いたい。苦しい。手が痛い。心が痛い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ばかっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頬に付いた赤い跡は、彼女の言葉を遮るには十分すぎた。サキはひどく驚いた顔で、私を見ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんで、叩くの……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、いや、違うの……私、そんな……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって、ユキのこと好きなのに。ただ、ユキの幸せを考えて……私が退けば、ユキが幸せで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキはとうとう、声を上げて泣き出してしまった。私もそれにつられて、ぽろぽろと流れる涙を止められない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私も、サキが好きなのに。なんで、なんで、なんで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキ……私が嫌い？　嫌いだから、叩くの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違う。違うわ。私、サキがひどいことを言うから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが私の胸に飛び込んで、泣きじゃくる。私はどうすればいいか分からないまま、定まらない手つきで彼女の髪を撫でることしかできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、好き？　好きって、言ってよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキ。ねぇ、サキ。好き、好きよ。だから……別れるなんて、言わないで……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「好き……ユキ、好きだよ。もっと、もっと強く抱いて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の頭に手を回して胸に押し付けると、サキの泣く声が心臓に直接響いてくる。その叫び声にも似た歌が、私をもっと悲しくさせた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「……ごめん。言い過ぎた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、感情的になりすぎたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤く目を腫らしたサキが、やっと落ち着きを取り戻す。私はまだ、ちょっと突付かれたらすぐに涙が零れてしまいそうだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちゃんと、待っててくれる？　私が居酒屋バイトじゃなくなる日まで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、きっと。誓うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次の検査は、最短で三年後。彼女だけが居酒屋バイト判定機に引っかかってしまった今となっては、卒業後に同棲するのも難しくなった。それまでの間、サキは居酒屋バイトであり続ける必要があるし、私は大学に通いながらサキの帰りを待ち続けなければならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが長いのか短いのか、私にはよく分からない。今はとても長くなるだろうと思ってるけど、きっと振り返ってみると短かったと思うはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキ、好きよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ありがと。私もユキが大好きだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;熱い視線がぶつかって、私たちはどちらからともなく唇を重ねた。ゆっくり舌を絡めて、歯をなぞる。互いの感触を忘れないように、口約束に判を押すように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;暖かい彼女の頬からいつもより悲しい味が舌に伝わって、それを舐めとる私まで感情が溢れてしまいそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たちは、自分が思ってるよりずっと弱いよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、また会えるわ。きっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだね、と言って笑ってみせるサキ。その拍子に、目の端から涙がつつ、と一雫だけ流れていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから私たちは、辺りがすっかり暗くなるまでずっと手を繋いでいた。何も言わずに、最後になるかもしれない穏やかな時間を味わうようにして。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「そろそろお別れしないとね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がって、そっとお互いの身体に腕を回す。脆くて弱い二人が壊れてしまわないように、優しく力を込めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキは、幸せでしたか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、幸せでした。サキと出会えて。とても」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はずっと、私の胸で声を出さずに泣いている。せめてサキを抱きとめる私は絶対に泣くまいと思ったけど、そんなの無理だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いっそ私も、居酒屋バイトになれればよかったのに。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="7"&gt;7&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;あれから私は大学生になって、実家を離れて一人暮らしを始めた。サキとは「別れた」から、卒業してからはもう連絡を取っていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度か夏を過ごしているうちに、夜の公園でじっとベンチに座って誰かを思うこともなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大学生活はそれなりに楽しいし、週に何度かはサークルで仲の良い友達とご飯を食べに行ったりしている。講義だってしっかり出席しているし、成績だってそんなに悪くない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキのいない世界はそれなりによく回っていて、私はもう彼女なしでやっていけるのではないかと思うこともある。日常の隙間に少しだけ残った空っぽの部分にわざわざ目を向けさえしなければ、だけど。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;遅くまで起きている夜は、私が孤独であることを思い知らされる。私の隣から空っぽの部分が滲み出てきて、じわじわ周りを包み込んでいくのをただ感じていると、最後には私まで空っぽになってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はサキがそんなに好きだったのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰かに――サキに――私の何かを埋めて欲しいと思っている。あるいは、何かに――何でも良いから――私を慰めて欲しいと思っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女たちだってそれなりに仲は良いけれど、その唇や、その髪に特別な意味を持って手を伸ばすことはできない。もし誰かに触れることができたなら、私はサキを忘れられるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がサキを「好き」だと思っているのは、その程度の意味しかないのかもしれない。それでも、みんなが当たり前のように受け入れているしあわせガイドラインからずっと逃げてきた私には、今さら何事もなかったかのようにガイドラインに寄りかかる勇気はなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;サークルの新歓で、居酒屋に行くのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;飲み会で居酒屋に行くことは何度かあったけれど、いつもその場所に行くまで憂鬱な気持ちが消えない。一瞬だけでも彼女のことを思い出してしまうからだ。もしもこの街で働いていたらどうしよう、もしもばったり会ってしまったらどうしよう。そう思うこと自体はたぶん悪いことではないけれど、そんな事情を知らずに楽しそうにしている今目の前にいる友人たちに悪い気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし全国にあるたくさんの居酒屋の一つにサキがいたとしても、偶然その店を選び取ることはないだろう。そんなことがあるのなら、むしろ運命なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;お酒は好きだ。ふわふわとした心地がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;氷が唇に当たると気持ち良くて、いつもそのまま口に放り込んで溶かしてしまう。薄くなった氷をかりりと噛むと、飴みたいに砕けてすぐに消えていく。酔いが回っている時はいつもより早く飴が無くなってしまう気がして、子供みたいに何度もグラスを呷って頬張っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;綺麗な水で作った氷は綺麗だけど、口に何も風味が残らなくて少しだけ物足りない。だから、本当は家で飲むお酒が一番好きだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今年の新入生は穏やかでいい子そうだ。私はもう直に引退してしまうので、あまり関係ないんだけれど。みんなが自由に好きな時間を過ごしていて、こういう安心できる時間にお酒を飲むと少しだけでもよく酔える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それなのに今日は、ほとんど酔った感じがしない。アルコールだけは身体を回っていて、どうしてか妙な焦燥感と気持ち悪さで胸がいっぱいになった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;不思議な予感は、すぐに的中することになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキ……だよね。久しぶり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お手洗いを出ると、背中から懐かしい声がする。誰ですか、とは訊かなかった。訊かなくても分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここで働いてたのね、サキ。元気だった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は一瞬動けなくなって、ハンカチをしまおうとするその姿勢のまま、独白のように空中に向かって話しかける。驚きと歓喜と、少しの緊張を隠して平静を装った私の声は、それでも少し震えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はずっと元気だよ。ユキのこと、ずっと考えてた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思い切って振り返ると、あの頃よりも少し大人びたサキが立っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;汚れの目立たなさそうな黒い作務衣に、店のロゴの入った紺の前掛けをしたサキは、えへへ、と軽く声を出して笑った。若さだけでどこまでも連れて行ってくれそうな昔の元気は感じ取れなかったけど、その表情は私が知っているサキそのものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって。サキのことを忘れたことはないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね。私、そろそろ検査を受けなおせるんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。もうすぐ誕生日だものね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキのいう検査というのは、職業適性テストのことだ。彼女を拘束して、私と引き離した居酒屋バイト判定機。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大学に進学してからもずっと頭を離れずにいたその最悪のシステムは、少なからず私の研究テーマに影響を与えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それでちゃんとした結果が出れば、また付き合えるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……なによ、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキの言葉を聞いて、私は少しいらいらした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、居酒屋バイトだからって別れたわけじゃないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。知ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;居酒屋バイトだからって避けていたわけではない。ただ、サキとの約束を守っていただけで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、彼女が居酒屋バイト判定機から逃れるのは難しいだろう。居酒屋バイト判定機は、一度陽性と判定した対象を再び陽性と判定する割合が非常に高いことが知られている。特定の職業に就くとその職業適性基準を満たしやすくなるのは当然なのだけれど、それでは十分に説明できない面もあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今だって、すぐにサキの手を引いて連れて帰りたいと思ってるわ。検査なんて関係なしに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはは、ありがと。でも、やっぱりサキは私の――」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;と、突然後ろから低い声がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おい、████！　知り合いか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、███さん。はい、高校……その、友人で」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、サキをなんと呼んだ？　聞き取れなくて私は一瞬耳を疑った。呼び名と思われる部分はどの音も曖昧で、むしろ鳴き声のように聞こえたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヨ……もしくは、キ、だろうか？　次の音も、ウともオともつかない何とも気味の悪い発音である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;怖い、と思った。私の知らない発音を聞き取って、お互いにコミュニケーションを成立させている二人が、どうしても私と同じ人間とは思えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が怪訝そうな表情をしているのに何を思ったのか、サキは笑顔で男を手で示して口を開く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキ、こちら店長の███さんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分の名前が理解できる音で耳に響く安心感と、耳が拒否する不気味な音が生み出す言いようのない恐怖感が同時に襲い掛かってくる。それなりの覚悟を持っていたけれど、目の前ではっきりと口の動きを見てしまってくらくらとした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;居酒屋バイトには、お互いをあだ名で呼びあって信頼関係を深めるという文化があると聞いたことがある。何度か居酒屋に行ったことはあるけれど、彼らがどんな風に呼び合っているかに耳を傾けたことはなかった。本当はどの店員も、こうして鳴き声のような何かでやり取りしているのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;店長と紹介された男は、それから私が聞き取れる日本語を一言か二言だけ放ってから仕事に戻っていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「店長、見た目はアレだけど悪い人じゃないんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうなの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。███さん、この前は――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃ、じゃあ……急いでるから。またね、サキ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次にその音を耳に入れると気が狂ってしまいそうで、もう無理やりにでも会話を遮ってその場を去らずにはいられなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん……そっか。じゃあね、ユキ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は何事もなかったかのように軽く手を振ってその場を足早に去りながらも、心臓はばくばくとその鼓動を速めるばかりで、気を抜くと脚が震えて歩けなくなってしまいそうだ。足がもつれて転んでしまわないように、一歩ずつ前に進んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ねぇ、サキ。あなたは誰になってしまったの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がサキに向けている目は、高校の時みたいに綺麗なものじゃなくなったと思う。彼女はそれに見合うくらい、もっとずっと汚くなったのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ふらふらと家に帰って玄関に座り込んだ時には、私はもうすっかり疲れ切っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキがいて、私がいた。サキは私を見ていたけれど、私は誰を見ていたのだろう。その視線に、しあわせガイドラインをしっかり脳みそに吸い込ませたあとの子供のような、無邪気な汚さを自覚した。だからもう、私は彼女と一緒にいることはできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしサキが居酒屋バイト判定機から逃れられたとしても、きっとそれは変わらないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変わったのは、私？　それとも、サキ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう、何もかもがだめになってしまった。しあわせガイドラインはこうして人を幸せにするのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逃げたとしても、受け入れたとしても、最後に振り返った時にはいつもしあわせガイドラインが私たちを見下ろしているのだ。逃げ切れなかったことを悟らせるように、逃げようなんて思いが芽生えないように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しあわせガイドラインが生み出した居酒屋バイト判定機が、一番憎むべきだった最悪の概念が、いつの間にか私の心に根を張って視界を曇らせている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？　ねぇサキ、どうしてあなたはこんな風になってしまったの？　気持ち、悪い……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校時代の自由で魅力的だったサキと、私とは違う世界で違うことばを使っているサキが、もう同じ人間には見えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうだとしたら、誰もしあわせガイドラインを捨てようとしない理由がやっと分かった気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気付くと私は、引っ越し用のダンボールに乱雑に放り込まれてそのままになっていたしあわせガイドラインを、まるで聖書を紛失した狂信者のように探し回っていた。これまでどこかに置いてきた幸せを取り戻したいとでもいうようにして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうすれば、いいの？　どうすれば、幸せに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぱらぱらとページをめくりながら、何度か挿絵のインクがじわりと滲むのを見て、私はやっと自分が泣いているのに気付いた。表紙のカップルがみんな私を見物してあざ笑っているような気がして、見つめているうちに視界がぐにゃりと歪んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか私は、自分が一番嫌いなしあわせガイドラインなしでは自分自身の幸せさえも支えられなくなっていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さよなら、サキ。本当に好きだったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さよなら、サキ。お互い「しあわせ」になりましょうね。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>しあわせガイドライン</title><link href="https://ama.ne.jp/post/happiness-guideline-1/" rel="alternate"/><published>2018-07-06T18:20:00+09:00</published><updated>2018-07-06T18:20:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-07-06:/post/happiness-guideline-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;前編&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/happiness-guideline/"&gt;しあわせガイドライン&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="1"&gt;1&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;世は空前の幸せブームである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;国民は幸せで豊かな生活を送るべきだとされ、その実現を最優先とする政策が続いた。その目標から外れた生き方は非道徳的なものとしてしばしば批判され、国だけでなく周囲からも白い目を向けられてしまう。何が幸せで、どうすると豊かなのかを国が決定する時代に入ったのである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その結果作られたのが「しあわせガイドライン」だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しあわせガイドラインには、幸せとはどういうものか、幸せはどうやれば手に入れられるのかが書いてある。誰かに、国に都合が良いように。出産を奨励して国力を増すためだとか、ＡＩが暴走した結果生まれた政策だとか、国民の幸せエネルギーを兵器に転用する研究が進んでいるのだという陰謀論じみた説さえもまことしやかに噂されるようになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;多様性のためと称して片手で数えられるくらいの似たようなモデルケースが載っていて、しかもその全部が男女の仲睦まじい恋愛を含んでいる。恋愛や結婚、出産、労働は幸せの代表例とされた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最近になって、男性同士や女性同士のカップルもモデルケースとして加えようという議論が始まったらしい。ただし、同性同士での性交渉による妊娠や出産が可能になってから巻き起こった議論であることを鑑みれば、単に男女カップルの真似事ができるようになった新入りについての取り決めでしかないのは明らかだ。多様性の尊重に基づく進歩というわけではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当はどこかに一つの「普通」があって、そこに瑣末なノイズが乗っているだけなのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みんなが誰でもない何かに変わるのを強いられている。そういう不自然で歪な変化を、みんなが考えなしに受け入れている。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「――ユキさん。私と、付き合ってください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;校舎裏に呼び出された私は、その場所にふさわしく青春らしい告白を受けていた。ただ、目の前でその台詞を言っているのは、知らない生徒で。しかも、女子だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、私のことを知っているの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず気になったのはそこだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目の前で私に交際を迫っているのは、夏服のセーラー服を身に纏ったごく普通の可愛らしい女子である。胸や腰のラインが人より魅力的に膨らんでいるわけでもないけれど、男ということはないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;第一声で互いの性別を確認しようかとも思ったけど、冗談にしかならないのでやめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、有名だよ。私の中では」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「真面目に答えてほしいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはは。ごめんごめん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の旧知の友人相手なら、そのにへらとした笑顔で許してもらえるのだろうけど、初対面の私はあまり良い気分にはならなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「恋人がいない謎の女とか、実はレズだとか、いろいろと噂されてるかな。たぶん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。話題になっているのは嬉しいけど、私はあなたのことを知らないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう言うと、彼女は自分自身についての情報をすらすらと語った。名前をサキというらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、サキさん。あなたは、私がレズビアンだって噂を聞いてからかいにでも来たの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん、ちょっと違うかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、何？　私、誰かと付き合う気はないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだろうねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに私は、レズじゃないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、たぶんそうだと思ってたよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どちらともつかない返事と、無遠慮な視線が私をいらいらさせる。珍しい動物でも見るみたいにして、一挙手一投足まで漏らさず観察されているような気分だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私としては、同性愛者はおろか謎の女さえも自負していたつもりはないので、サキに観察される筋合いなんてないのだけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、もういいじゃない。私じゃなくても、もっとあなたに似合う良い男の子がいると思うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「女同士で付き合うのは、良くないことかな。私、ちゃんとユキさんが好きだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうの、あんまり興味ないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう告げるのを聞くや否や、彼女はくくくっ、と声を抑えて笑っていたみたいだけど、結局我慢できなかったらしく甲高い笑い声を上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ。やっぱり、そうだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんなんだ、この女は。さっきから私を馬鹿にしてばかりいる。別れの挨拶すらする気にならず、私は踵を返してその場を去ろうとした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね。だって、キミが――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、後ろからサキが私を呼び止める。思わず立ち止まってしまったけれど、彼女がそんな私を見てにやにやしているんじゃないかと思うと、また少し悔しくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、キミが誰とも付き合わないのは、反しあわせガイドライン活動なんだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;反しあわせガイドライン活動、という言葉に私の耳が否が応にも反応してしまう。そんな言葉今まで聞いたこともなかったけど、どういう意味かはすぐに分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が振り返ってサキに正対すると、彼女は想像していたよりは真面目な表情だ。でも今は、そんなことどうでもよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、何者？　しあわせガイドラインが嫌いなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。キミとは少し、違うかもしれないけど」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「試すようなことをして、ごめんね。でも、私はユキさんが好き。からかってなんかないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、謎の女子生徒はおよそこんなことを告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がしあわせガイドラインに真っ向から反抗して絶対に受け入れまいとする姿勢は、とても気高くて理想的だと思う。でも、一介の高校三年生が国のやり方に反抗したところで、生徒指導すら説得できずに疲弊するだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうするくらいなら、もっと上手にしあわせガイドラインを受け流してみたらどうだろう。とりあえず、高校生活の間だけでも彼女と付き合って、周囲に恋愛をしているポーズを示してみるのはどうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんな感じで、お互いにお互いを利用してみない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まぁ、聞いてみると悪い提案ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「確かに、私にはいい話かもしれないわ。でも、あなたのメリットは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は好きなキミと一緒にいられるし、キミはしあわせガイドラインから逃げられる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、サキは良いこと尽くめだよと言うように薄い胸を張った。こんなに「好き」とはっきり言われたこともないので、私は何と答えるべきか分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が無言のままでいると、それにさ、と小声で付け足した。ここだけの話というように、わざとらしく口に手を添えて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ、生徒指導もうるさくなってるんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、口説き上手なのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いろいろ、準備してきてますから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが自然なウィンクをしてみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は準備、と言った。そこまでして私と付き合いたいのだろうか。なぜ？　恋愛？　親愛？　分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉に、サキが耳聡くぴくっと反応する。何だかそれが面白くて、私もわざとらしく手振りを付けてわざとらしくゆっくりと言葉を続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私があなたを選ぶ理由はないわ。付き合うふりをするだけなら、あなたじゃなくたっていいもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それこそ、わざわざ女子同士で付き合わなくたって、普通に男女のカップルを隠れ蓑にすればいいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん、確かに。それはもっともだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキは腕を組んで一転、思案顔になった。やっと言い負かせたかなとも思ったけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その気になった男子に襲われちゃったとして、キミに撃退できるような筋力があるとは思えないけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くすっ、と言って私の顔を覗き込むサキの準備の方が、一枚上手だった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ガイドラインで推奨されているモデルケースみたいな幸せを掴み取りたいと思ったことはない。中学校の裁縫セットみたいに、限られた選択肢から最も近いものを無理に選ばなくたって、もっと自分らしい幸せがあるはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラスの男子と付き合ったりデートすること自体が嫌なわけではない。ガイドラインがなかったら、私だってもっと「普通」に甘酸っぱい青春を送っていたかもしれないし。恋愛や結婚が気持ち悪いと思ったことはないけれど、用意された選択肢から誰かと同じ人生を選び取るのを強いられるのがひどく怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの子はどうなのだろう？　しあわせガイドラインがなかったら、私を好きになっていたのかな。少なくとも、私にこんな取引じみた告白はしなかっただろう。もっと普通の出会いをして、今頃は友達として仲良く笑っていたかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「いいわ、付き合っても」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局私は、彼女の提案を受け入れることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキと「恋人」になって、残り少ない高校生活を穏やかに過ごす。それが当面の契約だ。彼女はガイドラインに疑念を持っている仲間みたいだし、きちんとやってくれるだろう。彼女が言うには、私がサキに襲われても簡単に撃退できるみたいだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう、ユキ。好きだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し心配なのは、彼女が私を「好き」だということだ。これが私の気を引くための嘘だったら何も問題ないのだけれど、そんなそぶりを見せるわけでもない。もし本当に私が好きなら、こんなお付き合いを続けることで心を壊してしまったりはしないだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰かの「好き」に縛られるのは合理的じゃない、と思った。でも、誰かが隣にいることで残り少ない学生生活が穏やかに過ごせるなら、私は案外幸せ者なのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。私も、あなたのことを好きに――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキ。私はサキだよ。恋人同士は、あなたとかお前じゃなくて、ちゃんと名前で呼び合うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言葉を遮って、しあわせガイドラインに書いてあるでしょ、と言いながら取り出すのはあの忌々しい小冊子である。けらけらと笑う様子を見ていると、しあわせガイドラインを使っておどけているだけらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「馬鹿ね。しあわせガイドラインから逃げようっていうのに、参考にしちゃうの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、そうでした。ごめんごめん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は一頻り笑ってから、しあわせガイドラインをまたポケットにしまった。それから一転、少し真剣な表情になって私を見つめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、やっぱり名前で呼んでほしいな。ガイドラインなんて関係ない。私が名前で呼ばれたいんだもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;顔を寄せてきたサキの長いまつげが見えて、少しだけどきどきした。こうやって、誰かの顔を近くで見たことがあんまりなかったから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かったわ、サキ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ありがとう。ユキ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ。サキはなんで、私が好きなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「綺麗な顔、してるから？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキは少し考えてから、あっけらかんとしてそう言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもでも、他のところもちゃんと好きだよ？　ずっとユキのこと見てたし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。面白いことを言うのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「顔が好きでも、身体が好きでも、心が好きなのも全部同じだよ。そういうのに、優劣ってあるのかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;互いの心と心が惹かれ合った男女が付き合って、結婚まで互いに純潔を守るのが当たり前で、それが一番幸せで……そういうしあわせガイドラインを、彼女は全く気に掛けずにいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はガイドラインがなければこうやって抵抗することもなかったけど、サキはガイドラインなんて気にせずに、ずっとそのまま生きてきたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういう違いがすごく気に入っていた。私の知らない幸せがそこにある気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキ。じゃあ、明日からお昼は一緒に食べましょう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それも、しあわせガイドラインにあるんでしょ？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう言うと、彼女は今日一番の笑顔になった。なかなか可愛い。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="3"&gt;3&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私の部屋に、レースカーテン越しの夏の日差しが降り注ぐ。精緻な影が絨毯に散らされて、つまらない光の波がゆらゆら揺れている。その動きは出来の悪い夢みたいで、章の切れ間でふと目を遣ると、シネマグラフじみた静けさと退屈さが私の脳みそをじわじわと覆っていく感覚がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の右隣には、ベッドにもたれて脚を伸ばす「恋人」のサキがいて、買ってきた新刊のコミックスを読んでは潜めた笑い声を上げていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外の猛暑の中では元気に啼く鳥も無い。元より車通りが少ないせいもあり、エアコンも付けていない室内には時折ページを繰る音……とサキのくすくす言う声だけが小さく響いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキ。この部屋、ちょっと暑くない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキがそのまどろみを破るようにして、私に声をかけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;時折彼女が身体を揺らすと私まで視界がぐらつくくらいにぴったりくっつき、それでいて暑いという。揺れた髪の先が私の肩に当たるのが鬱陶しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに暑いのなら、離れればいいじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「くっついていなくていいの？　『恋人』なのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;恋人、と強調するように言ってからサキはいたずらっぽく笑った。私はベッドに本を置いて、彼女に向き直る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキに触れていた右腕が火照っているのに気付いて、私は軽く手で撫でた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いくら恋人って言っても、体温調節に支障が出るまで四六時中くっついているものではないと思うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかな？　でも、ガイドラインだと推奨されてるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが取り出した小冊子の表紙には、ポップなフォントで「しあわせガイドライン」というタイトルが、その下には笑顔のカップルが何組か描かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、えぇ。ガイドラインは嫌ってほど読んだわ。今こうしてあなたと過ごしているのも、それのおかげだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなにいらいらしないでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、学校でもないのにそんなくだらない本を持ち出してこないでほしいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、幸せは大事だよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが冗談めかしてけらけら笑う。いつもは「しあわせガイドライン」をネタにして冗談を言い合っているはずなのだけど、今日は無性に腹が立った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのねぇ……じゃあサキは、ガイドラインに書いてあることならなんでもするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いらいらなんてしたくない。エアコンを付けたくないし、無駄な雑音だって聞きたくない。本当はサキとも言い争いたくないのに、私の口は止まらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ。なにそれ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが一段大きな笑い声を上げて、我ながら馬鹿なことを訊いたと思った。サキは冊子を床に放り投げて、それから私の胸に顔を埋めた。鼻が押し当てられて少しくすぐったい。頭が揺れるたびに、ちょっとだけシャンプーの匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私はユキと違って、ちゃんとユキのことが好きだもん。二人きりの時くらいはくっつきたいって思ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もごもご喋るサキの「好き」という言葉にずきっとする。心に向かってゼロ距離で語りかけられているのに、それでも彼女の「好き」は私の少し横をすり抜けていく気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ガイドラインなんてただの言い訳だって、今更言わなきゃ分からない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。ごめん、言い過ぎたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちらと横を見ると、床に捨てられた冊子から、不自然なほどに張り付いた笑顔のカップルがこちらを見ているような気がした。偽物の幸せの象徴だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、サキ。私はね――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――やっぱり、『恋人』の私といるのは嫌かな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背中に腕を回そうとしたあたりで、彼女が起き上がって私を見上げる。私は伸ばした手を引っ込めて彼女の視線に応えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキの目はどこにも逸れずに私だけを向いていて、まるで私のことを全部見透かしてやろうとでもいうような、そういう確信めいた意思があるように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうじゃないの。私、ただ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、なんだろう？　私のことを好きでいてくれて、好きだと素直に伝えてくれる人がいる。私はそれで幸せなんだろうか。私はサキを好きになれるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まっすぐ向き合おうとするサキに、私はなんと答えるべきなのか分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんてね！　冗談だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして私が何も言わずにいると、サキが急に沈黙をかき消すようにしておどけてみせた。私はそれに応えて小さく笑ってみせる。ここからはお互い踏み込まないよ、と確かめ合うように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう沈黙が苦しい仲でもないはずだけど、彼女も何かが怖くて、何かを隠したいんだと思う。でも、そうやってわざとらしく強がった笑顔が、私は嫌いだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;最近、サキのことを考えて何も手につかなくなるときがある。そういう時に、エアコンが風を送る音すらもひどく耳障りに感じることがあった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ふぃー。涼しくて最高だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドアを開けると、廊下に涼しい空気が流れ込んでいくのが分かった。氷入りの麦茶を手渡すと、サキはそれを一気に半分ほど飲んでしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「急にたくさん飲むと、お腹が痛くなるわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう言うと、サキは大丈夫だよと答えてグラスを振ってからからと鳴らす。そして、得意げな顔をしてもう半分も飲み干してしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「我慢は幸せじゃないよ。ユキは幸せですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、幸せです。美味しいソーダがあるんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お決まりのやり取りの真似をして、くすっ、とサキが小さく笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;炭酸水が入った瓶に耳を当てても、封をしたままでは泡の弾ける音は聞こえない。頬が冷たくて、このの中だけ時間が止まっているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;瓶の向こうにぐにゃりと歪んだサキの像が見える。どうしてか、この瓶が割れたら一緒に彼女まで消えてしまったりしないかと、少し変な想像が浮かんできた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は好きじゃないなぁ。ちょっと苦いし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「味覚がお子様なんじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。うん、冷たい麦茶が大好きなお子様だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;溶けて小さくなった氷が、からりと音を立てて沈んでまた泡が立った。くすくすと、動き出した時間を喜ぶようにして。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、美味しい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;グラスの底に付いた雫が、じわ、とコースターに滲んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキも、こんなに透明だったら良いのに。隅から隅まで見通して、どこに気泡があって、どこに氷があるのかを触れずに確かめられたなら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はサキのことを何も知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふわふわとした癖っ毛に、吸い込まれそうな瞳と、柔らかそうな唇。私より背が低くて小さな身体なのに、いつもその唇の端をにこりと引き上げて、どこまでも引っ張ってくれそうな元気な声で私を呼ぶのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;細くてまっすぐな首からなだらかに続く肩のラインと、服の下に隠れた女の子らしい丸み。日に焼けた彼女の身体に、制汗剤の良い匂いをふりかけて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が知っているサキは、こんな外向きの彼女だけだ。ねぇサキ、その中には何を秘めてるの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;突然隣にやってきた彼女は、私が好きだと言った。でも、サキは本当に私が好きなの？　ねぇ、どうして笑っているの？　何がそんなに嬉しいの？　もっと色んな表情を見ないと、サキのことが分からないよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキは私と向き合う時にだけ、何かを守るようにして私に笑顔を向けるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;素直に尋ねたところで、きっと、何も隠してないよと言うんだろう。彼女に触れて中を覗こうともせずに、そんな確信じみた考えが頭を支配する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしたら、サキの色んな表情が見られるだろう。例えば、そうだ――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキ、なんかぼーっとしてる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、いつの間にかグラスを注視していたらしく、気付くとサキが私の視線を遮るようにして心配そうに覗き込んでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、あ……な、なに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん？　考えごとしてる表情も好きだなーって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;首を傾げると髪が揺れて、またシャンプーの香りだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキはここに来る前に、私に会う前に、シャワーを浴びたのだろう。私から見える彼女は何もかもが綺麗で、だからきっとそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「考えごとだなんて、そんな大したことじゃないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、何考えてたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のことで頭がいっぱいだったのかな、と冗談めかした口調に、私は思わず口が滑ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ねぇ、サキの首を締めたら、どうなるのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「首絞められたら、私、死んじゃうよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが目を丸くして、少し黙って、それからやっとそう言った。ただそれだけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は私から離れるために後ずさりするわけでもなく、細くて絞めたら千切れてしまいそうな喉元を手で守ろうするわけでもない。無自覚か、あるいは自覚的な無防備さに誘われているような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だめ。首はだめだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私のそんな視線に気付いたのか、サキは私の手を自分の膝に押し付けて動けないようにした。右手で左手を、左手で右手を。握られた手に引かれて上半身もぐいと前へ傾いてしまう。バランスを崩しそうになるのに合わせて、ぐに、とサキの太ももに体重が掛かっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うのよ。そういうことじゃなくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;顔がぶつかりそうになるのも気にせずに、サキは手を握ったまま私をじっと見つめていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるよ。私のこと、考えてくれてたんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいことじゃないみたいだけど、と付け足してから、サキは私の手を離す。視線がふらふらと空中を舞った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もっと、ユキの考えてること……教えてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言われてサキの細い首をちらと一瞥すると、一瞬だけ呼吸が乱れるのを自覚した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;起こした身体を戻して姿勢を正すと、彼女の首元を意識した時から、あるいはその前から、自分の心臓がいつもより速く鼓動を打っていたことに気付く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、サキが何を考えてるのか分からないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どういう意味？　私はずっと、私のままだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことない。絶対に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人には外からは見通せない不透明な部分がある。誰だって、私だって。サキはそういう秘密がいっぱいあるように見えるけれど、同時に私だけがその秘密を知らないような感覚に襲われることがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、見てみたいの。あなたがどんな風に怒るのか、どんな風に泣くのか、どんな風に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どんな風に、苦しむのか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の沈黙に合わせて、サキが付け足すように呟く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「首を絞めたらどんな表情になるか、見てみたいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;想いが洪水みたいに溢れてしまっては、自分の考えがすっかり知られてしまうのを止めることはできない。それでも改めて言葉で指摘されると、じわじわと心臓を掴まれたような心地がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言葉を発せなくなって、私はただこくりと頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にかエアコンは止まっていて、もう仕事を終えたとでもいうように黙りこくっていた。確かに部屋は涼しくて過ごしやすくなったけれど、意識せずにいた沈黙が急に意識に上がってきて、ちくちくと心をつついてその快適さを奪っていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、ちゃんと笑えてなかったかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな沈黙を破るようにして、サキがぽつりと呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ち、違うわ。私が勝手に思ってるだけで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私の笑顔がユキを追い詰めてちゃってる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、にこ、と口元を動かした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;違う。サキが私のことを好きでいてくれるなら、私もサキのことをちゃんと知りたい。ただ、それだけで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に彼女のことが分からなくたって、私が悩んで追い詰められるなんてことは……たぶん、ない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私はサキのことを殺したいわけじゃないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;安心して、と言うとサキがけらけら笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「首を絞めたいけど安心してって、何だか面白いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう……かしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やったこともないのに、自分はぎりぎりで自制できるんだって信じてるみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなこと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、やってみる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが鎖骨の辺りに手を置いて、首を前に差し出した。そのゆっくりとした動きがまた私の胸を高鳴らせる。暖かそうにも冷たそうにも見える肌に少しでも触れたら、私はどうにかなってしまうかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あは。また、怖い目だよ。だめだめ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、ご……ごめん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おそらくはサキの予想以上に効果のあった挑発はすぐに終わって、また私の手を引く拘束の姿勢に入った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心がそのまま瞳に表れているのなら、こうやって無理やり顔を近づけるだけでテレパシーみたいに全部知られてしまうだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキって、意外と変態なんだね。抑圧されてたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから私は笑顔を崩したかっただけだと言おうと思ったけれど、それでは最初に思い付いたのがそんな手段だったことを説明できないのも分かっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分がいつの間にかおかしくなっていたのかと思うとひどく恐ろしいけど、少しだけ誇らしい感じもした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもね。自分では分からないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;グラスから、小さくぷちぷちと泡の消える音がする。確かに時間は進んでいて、サキの心臓も動いている。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;いきなりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキ。ちゅーしよっか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、サキはずいと顔を寄せてきた。さっきからただでさえ近かったのに、キスと言われて詰められたその距離が急に恥ずかしくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「顔が近くて、暑苦しいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前だよ。顔を近づけないとできないもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を下から見つめるサキの唇はとても柔らかそうで、したこともないキスの想像が頭を巡る。私がそんな想像をするみたいに、彼女の鼓動も速くなっているといい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もっと、ムードを大切にしてほしいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、ずっと唇見てたよね。したいんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言われて慌てて口元から目を離すと、今度はサキとばっちりと目が合った。じっと私の視線を観察しているサキの茶色くて綺麗な瞳を意識すると、どこに目線を移動させても私が欲情しているみたいで、文字通り目のやり場に困ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そもそも、恋人はキスをするものだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サキ。こんな時まで、ガイドラインの話をするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ただルールを跳ね除けるよりも、勝手気ままに使ってるほうがずっといいからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不真面目な活動家さんですこと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユキは真面目だから分からないかもね、とからかうように笑う。どういう意味か問おうと思ったけど、また煙に巻くような答えを聞くのも癪だったので、やめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、分かりたくもないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよね。サキは、それでいいよ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから私たちは何も言わずに何度か視線を交わした。サキが私を見ているのを意識するたびに視界がぱちぱちとして、徐々に興奮していくのが自分でも分かる。どちらかが、サキか私がキスを仕掛けるための茶番じみた儀式。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お互い手を使えないまま視線でやり取りをしていると、段々と瞳が熱を帯びてくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが無理やり私の唇を奪ったら、私はどうなってしまうだろう。不意打ちの責めに抵抗できなくなった私は、彼女の舌が私の気持ちいいところだけなぞっていくのに身を任せるしかないのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆に、私からのキスだったら。きっと、私が目を閉じている間にサキは私の表情を見つめていて、愛おしそうに微笑むんだ。私は微かに目を開いてからやっとそれに気付くけど、その時にはもう遅い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目が合うたびにそういう想像が吹き上がってきて、私はとうとう下を向いてその前戯じみたやり取りを拒否した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、やっぱりキスはやめましょうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「恋人のふりなのに、キスをするのはおかしいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰も見ていないのに本当の恋人がするみたいなキスをしてしまったら、恋人のふりだなんて、もうそんな言い訳もできなくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私の色んな表情を見たいんだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だったらしちゃおうよ、と軽く言うサキに、私は何も言わずに目線で答えるふりをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「苦しい表情は見せてあげられないけど……私が照れてる表情なら、見れると思うよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の唇の柔らかさや吐息の暖かさを感じながら、薄目で彼女を盗み見た時のサキの表情を想像すると、頬が熱くなった。サキが言うみたいに、恥ずかしそうにキスを味わう照れた表情が見えたなら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ユキ。私だってずっと我慢してるんだから、いい加減に覚悟を決めてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、サキは私を拘束していた両手を離すや否や私を床に押し倒す。その自由は束の間で、彼女はすぐ私の身体を覆うように四つん這いになったと思うと、あっという間にさっきと同じようにそれぞれの手で私を押さえ込んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急にバランスが崩れて、思わず小さな悲鳴を上げたときにはもう遅い。サキの指と私の指が恋人みたいに絡まって、私の手はサキと暖まった絨毯に挟まれて身動きができなくなっていた。もう片方の手はベッドのそばに押し付けられているせいで、冷たいフローリングの固さが直接伝わってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは夢じゃなくて、本当に自分の部屋で起きている現実なんだ。全身に伝わる当たり前の感覚が、身体が動かない恐怖をじわじわと増幅する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、やめて。離してよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私より身長の小さいその身体は、本気で突き飛ばしたら受け身も取れずに尻餅をついてしまうくらいに弱いはずなのに。肝心の私の腕に力が入らなくて、押しのけようにも手が動かない。女の子同士なら襲われても安心だなんてサキが嘯いていたけれど、あんなの嘘じゃないか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私を押しのけて。本当に嫌ならできるよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキの顔が髪に隠れてよく見えない。ただその声は、いつもより静かでゆっくりとしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、いいわ。好きにして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。ユキ、本当に可愛いよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が抵抗するそぶりを見せないと分かると、サキは私の枷を外して儀式の終わりを告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頬にぴとっと落ちた雫を指で伸ばすと、まるで私が泣いているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキが私の耳元に口を寄せたその一瞬、その思い詰めたような表情が見えて少しだけ嬉しくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあ、しちゃうね、ユキ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にだけ聞こえるような小さな声に、私は目を閉じて応えてみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、むっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキの唇が触れる。最初は何度か、確かめるようにくっつけては離す。それから、ちろ、と冷たい舌が唇をなぞった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やがて舌と舌が絡み合う距離まで詰められて、何度か暖かさを分け合うと、急にころっと何かが落ちてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふぁ、冷た……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;口の中に落ちた鋭い冷たさが、舌と一緒に私を撫でる。冷たい飴はお互いの舌で段々と滑らかになっていって、最後に暖かい雫になって私の口に流れ込んでいった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ。私のこと、ちゃんと見てよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;必死に唇をむさぼる私をからかうようにして、サキが口元でそう囁いた。お互いに目を閉じているとばかり思っていたけど、彼女はずっと私のことを見ていたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ずるいなと思いながら目を開けると、彼女の髪はまるでカーテンみたいに私を包み込んでいて、その暗い部屋の中で私たちは見つめ合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄暗いサキの表情は、いつもよりもずっと魅力的だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私を見つめる目が、とろんとしていてだらしない。頬だって赤いし、吐息はくすぐったいくらいに熱くて荒い。本当は私をからかっている暇なんてないはずだけど、きっと私の表情はもっと彼女に筒抜けで、だから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏の暑さが私たちを柔らかくとろとろに溶かしているのに、そんな中で二人の舌でとろかしあうキスを交わしているんだから、もうどうしようもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たまに見えるちょっとした表情でも、まるでサキのもっと深いところを見ているような気がしてどきどきした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、ユキばっかりずるい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキはそう言うと、私の口から小さくなった氷を奪い取る。また、私の口でとろとろ溶かすために。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見つめ合ってキスをするのは目を瞑って味わうよりも気持ちよくて、律儀にマナーを守るために目を瞑っていたのが馬鹿らしくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んっ、ぷは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度かやり取りしているうちに、氷はすっかり溶けてしまって、とうとうふわりと消えてしまった。飴がなくなったから終わりだよ、というようにしてサキが顔を離す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水気たっぷりのキスだったから、二人の間につつ、と糸が引くなんてことはなかったけど、口の周りは溶けた雫でびしょびしょになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;押し倒した姿勢のまま、サキが私の髪に触れてするすると指で撫でる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「髪の色、違うね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、今さら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サキの頭が揺れるたびに、彼女の癖っ毛もゆらゆらと私の髪の上をなぞっていく。サキから見ると、二人の髪が交じった模様に見えるのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんか、不思議だね。瞳の色は、二人で鏡に並ばなきゃ違いが分からないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の髪をもて遊ぶサキの指の動きがなかなか落ち着かない。言葉を交わさずにただ指だけがくるくると回っていて、お互いに何かを待っているみたいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、その動きが止まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、ユキ。もう一回、したいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……勝手にしてよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の表情が少しだけ変わったのが分かる。えっちな顔だ。ちょっとだけ、サキに詳しくなれたのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、勝手にする」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言うと、今度は炭酸水を口にして、水飴を食べさせるみたいにとろとろ流し込んでくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普通のキスは好みではないらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ。しゅわしゅわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目を閉じて、私はこのまま時間が止まってしまえばいいのにと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キスが終わらなければ、こうしてとろけた表情を見ていることも、見られていることも後悔する時が来ないから。ぷちぷちとした炭酸の刺激に身を任せていると、私もサキも一緒になって氷水に溶けてなくなってしまえばいいのにと思ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから私たちはまた何度かキスをして、そのたびに溶けて角が丸くなった氷がサキの口に放り込まれた。暖かい液体が身体を満たしていって、頭までふわふわとした熱でいっぱいになっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思考の端で、ぼんやりとエアコンが壊れていると思った。エアコンが止まっているのか、その駆動音が聞こえないくらいにキスに夢中になっているのかも分からなかったけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことを繰り返しているうちに、とうとう麦茶のグラスは空っぽになってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキの炭酸水、ぬるくなっちゃったね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、新しいのを持ってくるわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思い出してみると、最初に一つ、それからグラスの半分くらいまで、四個か五個くらいは入れた気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何の気なしに準備した氷が、まるで何度キスをしてほしいかを伝えるいやらしい儀式みたいで、空のグラスを見ていると何だか恥ずかしくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めてのキスは、私が用意した水道水の香り。そんなこと、日記には書けない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そっとグラスを手に取ると、手にほのかに冷たい雫がまとわりついた。立ち上がると、ずっと座っていたせいか少しくらくらする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキが氷を三個入れてきたら、また三回できるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたの頭の中は、そんなことばっかりね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ユキだって、えっちな顔のままだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じことを考えていたのかと、一瞬びっくりした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、サキの頬はキスの余韻が残っているみたいにほかほかで。たぶん、私もこんな表情をしてグラスを見つめていたからなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「氷は五個入れてきて。一個多くても、少なくてもだめ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは、あなたの好みね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。私の好みだよ。お願い」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お客さんの好みなら、仕方ないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういう意味のない確認が、まるで快感に身を任せるための言い訳を欲しがってるみたいで、何だかぞくぞくしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;部屋のドアを開けると、ごう、と急にエアコンが動き始めた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あのね、ユキ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;泣くのを見られたくないっていうの、あたりなんだ。泣いてるのは、幸せじゃないから。これは私の勝手なしあわせガイドラインだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好きな人の前でくらい、笑顔でいたいもん。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ふわふわ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/fuwafuwa/" rel="alternate"/><published>2018-06-20T01:28:00+09:00</published><updated>2018-06-20T01:28:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-06-20:/post/fuwafuwa/</id><summary type="html">&lt;p&gt;クラゲを眺めながらする性交のことを考えたことはありますか？&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「適当にくつろいでよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めて行くＢ子の部屋は、一人暮らしの大学生のそれにしては綺麗だった。少なくとも、同じ一人暮らしの女子大生の私の部屋よりは整っている。フローリングの床に、ガラスのテーブルとクローゼットと、本棚にベッド。それと、もう一つある黒い棚の上に四十センチほどの水槽が置いてある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;綺麗というよりは、単にモノがないというだけかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲが泳ぐ水槽は、青い光と一緒にひときわ強い存在感を放っている。その横には、座面が丸くて背もたれの付いている黄色い折りたたみのチェアが広げられていた。ここでクラゲとおしゃべりでもしてるんだろうか。何だかメンヘラっぽいな。メンヘラなんだろうけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲ、ほんとに飼ってるんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「意味のない嘘は吐かないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子がテーブルの近くにまるいクッションを置く。私はそれに応えるように、腰を下ろしながら改めて部屋をぐるりと見回した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;壁もほとんど綺麗なままで、エンボスの白い壁紙に照明が当たって少し影ができている。その中にピンで押し付けられたカレンダーは、二ヶ月も前の日付を示していた。ずぼらなら、わざわざ日めくりカレンダーなんて買わなきゃいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うわ、コスプレ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわ。高校の時の制服よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やば、声に出てた。カレンダーから視線をなぞるように移動させると、ハンガーにセーラー服が掛けられているのが目に入ったのだ。言われてみると、ドンキとかに売ってる薄くて安い布を使った衣装ではないみたいだし、それなりに使い込まれてる感じもする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コスプレ衣装じゃないのは分かったけれど、結局Ｂ子がどうして過去の制服を掛けっぱなしにしているのかは謎のまま。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まぁ、高校の制服を着て女子大生のお友達同士で集まる（私はやらないけど）なんて、今ではもうありふれたイベントだ。一方で、Ｂ子にそんなイベントを楽しむ友達がいるようには見えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……そうなんだ。私の、実家に置いてあるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　私はたまに使うから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;使う、と聞いて、彼女の「悪い噂」が頭を過った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、もう高校生じゃないものね。別に、コスプレでもいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;クラゲの水槽は、普通の熱帯魚なんかを飼うものに比べていくらか工夫が凝らしてあるようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がった私は、Ｂ子の横で水槽を覗き込みながら無難な質問をいくつか投げかけてみせる。中には最初から答えを知っている質問もあったし、本当に知らずに投げた質問もあったけど、Ｂ子の答えはどうでもよかった。彼女もそう思っていただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水槽の隅を隠すように半透明の板が張ってあったり、ポンプのところに硬そうなスポンジが被せられている。クラゲはちょっとした水流で壊れてしまうので、吸い込まれないようにしているのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあポンプなんか外せばいいだろうと思うのだけれど、水流がないと今度はクラゲが弱ってしまうらしい。なんか、わがままな生き物だな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲってさ、毒とかあるんでしょ？　平気なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、毒で有名なやつは当然危ないわ。いわゆる電気クラゲね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミズクラゲはあんまり強い毒はないから素手で触っても平気らしい。水槽を見つめたまま、時々Ｂ子は思い出したようにそういうこと（人工海水のこととか、餌やりの面倒さとか）を教えてくれた。ミズクラゲというのは今水槽にいるやつのことだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲは生きているのかあやふやなほどに透明で、その割に泳ぐ様子は意外と力強い。傘の開閉を繰り返しているうちに、スケスケの身体がバラバラになりはしないかと他人事（他クラゲ事？）ながらハラハラしてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、オーバーフロー式っていうのは、結局泡は出なくて――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、ふと水槽に向ける視線のピントをふらつかせると、深い青色のガラスの壁にストレートの黒髪が映った。Ｂ子のアンニュイな表情が、クラゲと混じってじわと溶けていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……Ａ子？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、なんでもない。自己解決した」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだよ。やっぱ綺麗なんだよな、こいつ。なんで援交なんかしてるんだろ。もう一度ピントを合わせてみると、綺麗な女の横で童貞みたいな顔をして呆けている自分と目が合った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当に嫌になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのさ。なんでクラゲ飼ってるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー。なんでだと予想してるのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頬杖をつくＢ子はいかにも適当そうで、視線こそ水槽を向いているものの、クラゲ一体一体の泳ぎにすら興味がなさそうだ。私はのけ反ってベッドに手をつきながら、天井に視線を流しながら会話を続ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……なんでだろ。メンヘラだから？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。まぁ、そうかもしれないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は笑うでもなく、怒るでもなく、平坦な声で答えてみせた。笑ってほしいとは言わないけど……なんだろう。彼女はあんまり笑わない。冗談通じないのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲを見ながら、セックスするセラピーがあるそうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セックス、と急に直接的な単語が出てきてうろたえたけれど、その直後に自分がベッドに寄りかかっていることを思い出す。私は慌てて――でも、できるだけ自然に――手を離して、背伸びのふりで身体を起こした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;改めて水槽を覗き込むと、Ｂ子はこちらを見て笑っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「嫌ね。ここではしないわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きら、と少しだけ光が漏れた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冗談でも笑わないＢ子がわざわざ笑顔をみせるくらいだから、優しい嘘なんだろうなと思う。せっかくの提案だし、その嘘に乗っかって気にしないことにした。ベッドの縁ならそんなにアレやコレやが染み込むこともないはずだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲを見ながらセックスすると、どんな効果があるんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;青白い光に照らされながらベッドでいちゃいちゃするんだろうか。落ち着くねー、なんて言いながら。それとも、Ｂ子が今座っているあたりで、うやうやしく跪いて口でしてあげたりするんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの、舌で。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子の顔が半分だけ青い光で照らされて、相手はクラゲとＢ子を並べて眺めながら――すごく幻想的だ、なんてありふれたことを考えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲってさー、名前付けたりはしないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「付けないわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;意外だった。ペットどころか、ぬいぐるみにも名前を付けて可愛がっていそうと思ってたけど。名前を付けたクラゲに見られながらそういうことをするのは、気が散るのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「付けたくならない？　クラゲとおしゃべりしたりしないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おしゃべり？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いや、なんでもない。おしゃべりは私の妄想だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「自然のクラゲは分からないけど、飼ってるクラゲは割とすぐに死んじゃうの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水槽で飼うクラゲの寿命は半年か、保っても一年。死んだクラゲは、水に溶けていなくなってしまうのだという。そんな不安定で存在も危うい生き物が、人の手で半年や一年も生きるなら上出来だと思うけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自然にいるクラゲは、きっともっと早く死ぬのだろう。それとも、逆かな？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、わざわざ飼ってるってことは、可愛がってるんでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうかしら。可愛い？　このクラゲ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「可愛いんじゃない？　見てると落ち着くし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メンヘラが好きそう、と答えてもＢ子にはウケないのが分かったので、無難な答えを返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。癒やしの効果もあるみたいだし、眺めていて気持ち悪くなったりはしないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、そっか！　名前を付けて愛着がわいたら、死んだ時に悲しいもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだ、こいつも結構可愛いところあるじゃん。世界の出来事には興味ありません、みたいな顔してるくせに。ぽん、と手を叩いて納得していると、Ｂ子が呆れたようにこちらを見て溜息を吐いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたのそういう楽観的なとこ、嫌いよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なにそれ。私も、そうやって斜に構えてるとこ好きじゃないな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は楽観的なんかじゃない。言い返すと、Ｂ子はきょとんとした表情でこちらを見る。皮肉で返ってくるとはまるで思っていなかったみたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、そんなに斜に構えてるかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。世の中全部分かってます、って言わんばかりにね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子がお互い様ね、と声を出さずにいたずらっぽく微笑んだ。相変わらず、笑うポイントがつかめない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、脳天気なあなたに、名付け親になってもらおうかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだ、名付け親って。何匹も泳いでいるクラゲは、上へ下へ、右へ左へ。お互いにクロスして、どれとどれが違う生き物なのかを区別させる気がまるでない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……クラゲ、クラ、クラリ……じゃあ、これがクラリネット、とか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいじゃない。じゃあ、クラリネットで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほんとに興味ないんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ないわね。もうどのクラゲが『クラリネット』か、分からないもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだそれは。私が区別できないのは当たり前として、まさかＢ子まで分かっていないなんて。可愛いクラゲがなんだか可哀想になってきた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;私が名付けた「クラリネット」はどれだったかと意味のない探索をしながら、クラゲを眺めるふりを繰り返す。ゆったりとした動きに簡単に飽きてしまうあたり、どうもクラゲは私の性に合わないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はぼーっと水槽を眺め続けているけれど、もはや目でクラゲを追っているかは分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね。クラゲを識別するのが怖いだけなのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、Ｂ子が唐突に沈黙を破った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何の話？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が聞き返すと、Ｂ子は水槽を見つめたままゆっくりと話し始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何ヶ月も飼っていると流石にある程度の区別を付けられるようになるし、よく集中すれば、どのクラゲが弱っているかも分かる。名前を付けてしまったら、その傾向はきっと強くなるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、Ｂ子はそれを望んでいない。一つひとつのクラゲに個性を見出したくないのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はおおよそこういうことを言って、私の答えを待った。なんだ、やっぱり愛着がわいちゃうのが嫌なんじゃん。可愛げないな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきは、私が名付けたクラゲがどれか分からないって言ってたくせに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どれが『クラリネット』かは本当に分からないわ。あなたの指を見ないようにしていたもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんで変な嘘を吐いたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「意識したくないから、かしらね。だから、名前を付けるなんてもってのほか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、自己暗示のために吐いた、意味のある嘘なのだと告げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元気なクラゲ、死にそうなクラゲ、と意識し始めると、クラゲに何かを期待することになってしまうから。いつの間にか死んで、何も期待しないまま新しいクラゲが投入される。それがクラゲたちの幸せなのだという。愛着とは違う、もっとどす黒いものを向けているような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「誰かに頼られたり、期待されたりするのが嫌なのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういうのって、すごく怖いわ。独り言みたいな小さな声で、噛みしめるように呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;期待されるのが嫌、Ｂ子はそう言った。きっと、自分に向けられる思いのことを言っているのだろう。Ｂ子の過去は知らないけれど、彼女が信頼を向けられるのを避けて人を遠ざけているのなら、とても悲しいことだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黙ったままの私を見て、Ｂ子は頬杖をついたまま、顔だけ私の方に向ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当はクラゲに興味ないんでしょう？　ただ、私の援交の噂を聞いて止めに来た。違う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その通りだ。口角だけで笑うＢ子の視線が突き刺さる。見透かされているような気がして、私は何も言えなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、やっぱり楽観的ね。誰かに関わったり、誰かを変えようだなんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に、楽観的なんかじゃないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私がなんで援交してるのか分かるかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分からないでしょ、と言わんばかりの疑問形。勝ち誇ったかのようなその声に、どうにかして反論したかったけれど、Ｂ子はそれを許してくれなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「高校の制服を着て、誰でもない誰かになるのって、すごく安心するのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……安心？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで予想していなかった答えに、素っ頓狂な声で聞き返してしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。援交してる時に好きって言われても、それは私に向けられた好意じゃないんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が壁に掛けられた「制服」に目を遣った。私もつられて視線を動かすと、水槽越しに青いセーラー服がゆらゆらと揺れているのが目に入る。セーラー服の上をクラゲが這って、きらきらと輝いているように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、自分がいらないの。私じゃない誰かが私になって、本当の私を消してしまいたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子から、Ｂ子を消す。あの制服が背負っているものは、コスプレ衣装なんかじゃ耐えられないほどに重い役割だったらしい。まるで、心にまでしっかり衣装を着込んでいるかのように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;永遠の「高校生」のＢ子は、どんな風にセックスするのだろう。ベッドの上で、身体いっぱいの中途半端な幼さを隠しきれずに嬌声を上げるのだろうか。あるいは、無愛想なままで青い照明に照らされて無抵抗に男を受け入れるのだろうか。どちらにせよ、いびつで不自然な光景だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お客さんにはね、クラゲちゃんって呼ばれているの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲちゃん、可愛いね。クラゲちゃん、また来たよ。クラゲちゃん、エッチだね。Ｂ子がニコニコと「接客」している様子を想像すると苦しくなる。友人が後ろ暗い仕事に手を染めた悲しさか、普段は無表情なＢ子が笑顔を振りまいて媚びる痛々しさか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「身体を売るなんて、よくないよ。自分の身体は大切にしないと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「乙女ね。いい心がけだわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皮肉めいた物言いに、Ｂ子らしさを感じて安心する。ここにはまだ、クラゲちゃんはいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよ。Ｂ子は綺麗なんだから、簡単に身体を売っちゃダメ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもね、Ａ子。私は、あなたとお付き合いする気はないけど――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はそこで一旦言葉を切って、身体をこちらに向けて改めて私を見据えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――クラゲちゃんは、あなたとセックスしてもいいと思ってるわ。だから、Ａ子が私の容姿を気に入ったなら、お金で買えばいいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真っ直ぐな視線にたじろいで、それから「クラゲちゃん」の出現にうろたえた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの……誠実、じゃないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「誠実さも確かに大事だわ。でも、これはそれ以上に合理的だと思うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたが私を見つめて「好きよ」だなんて囁けば、あなたの誠実さも伝わるもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が好きよ、と私の目を見て言ったあたりで顔が熱くなる。それが視線や表情にも漏れ出ているのが、自分でも分かってしまう。きっとＢ子にもお見通しなんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知ってるわ。私が笑うところ、もっと見たいんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が小さく舌を出して、ふふっ、と笑ってみせる。Ａ子のこと全部知ってるよ、とでも言うようにして。なんでも見透かしてるつもりの顔で。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日はもう帰ったほうがいいわ。情報が多すぎて、ちょっと混乱してるでしょ？　処女のＡ子さん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私には、その笑顔が本当かどうかも見抜けないのに。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は今、何を思って春を売っているのか。結局私には何も分からなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別れ際にちろ、と舌を出して見せつけたまるい銀色が、私の頭を離れない。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>おくすりのめたね</title><link href="https://ama.ne.jp/post/loxo/" rel="alternate"/><published>2018-06-03T17:32:00+09:00</published><updated>2018-06-03T17:32:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2018-06-03:/post/loxo/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ロキソニンがない&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;頭が痛い。愛用の頭痛薬が手に入らなくなってから二週間ほど経った。変だなぁ、とぼんやり思いながら日々を過ごしている。頭が痛い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は時々、妙な頭痛に悩まされている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝起きると、ぴりっとした刺激の後に頭の芯からずんとした痛みが漏れ出す。その痛みがぐるぐる脳を回っていく感覚が、たまらなく嫌だった。そんな時に頭痛薬を飲むと、すっと痛みが収まるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから私は、ポーチの中の頭痛薬を切らさないようによく気を付けている。切れそうになったら放課後に買いに行くことにしていた。毎日発作があるわけじゃないけれど、一箱に十数錠しか入っていないからたまに切らしてしまいそうになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも最近は、どこのドラッグストアに行っても「この頭痛薬は売れません」と書いてある。これはたいへんな死活問題だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも第一類医薬品というのは、薬剤師のいないお店で売ることが禁止されている。薬剤師がきちんと説明をしてから販売しなければならないことになっている。だから、不完全なドラッグストアでは私が求める頭痛薬を売ることができないのだ。ルールの上では。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、立ち寄るたびに薬剤師出勤カレンダーが違う日程を示しているのに気付いてから、私は世界がおかしくなったのだと錯覚した。明日の午後に出勤と書いてあったはずなのに、次の日にはその予定が消えている。と思ったら、また次の日にはその予定が復活しているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が行くたび、薬剤師はいつもお休みだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薬剤師が不足しているのかと思ったけど、全国で見ればむしろ余っているらしい。余っている人材をかき集めて、この街に全部収容してしまえばいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ポーチの中の頭痛薬は、昨日飲んだ分でもうなくなってしまった。明日の朝起きて頭痛が襲ってきたら、私にはもうどうしようもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「頭痛薬が欲しいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;教室でＢ子がそう切り出したのは、私が軽く額を押さえていたからだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなの。最近、薬剤師さんとタイミングが合わなくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、私のあげる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が取り出した頭痛薬は、私が知っているのとは少し違った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がずっと飲んでいたのは、半分に割れるようにまっすぐ筋が入っている白いまん丸の錠剤だ。それがプラスチックのシートに一つずつ入っていて、振るとからからと小さな音がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方、私の手の上に乗っている錠剤は、毒々しいほどの暗い緑色で、形も少しいびつだった。袋いっぱいに詰められた緑の錠剤は、振ったら中でぼろぼろと崩れてしまいそう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だいじょうぶ。ロキソプロフェンナトリウムも入ってるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にはあんまり意味が分からなかった。何が入っていたって、ひどい頭痛が治ればそれでいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。ジンジャーエール」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ジュースで飲んでも平気かな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫だよ。Ａ子、ジンジャーエール好きでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まぁ、そうだけど。Ｂ子が差し出したペットボトルを持ち上げて、白い光に透かしてみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「少し、眠くなるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいよ。もう先生も来ないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日常から少しずつモノが消えていっている。周りから少しずつ人がいなくなっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてか、そういう時にＢ子は必ず私の喪失感に気付いてくれる。ジンジャーエールをくれたのもＢ子。寂しさを埋めてくれたのもＢ子。Ｂ子が何を失ったかは、私には分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうクラスにはＢ子しかいない。世界にもＢ子しかいない。私と、Ｂ子。白い床に、白い壁。どこで間違ったんだろう。頭が痛い。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>怪物</title><link href="https://ama.ne.jp/post/monster/" rel="alternate"/><published>2017-12-26T04:45:00+09:00</published><updated>2017-12-26T04:45:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2017-12-26:/post/monster/</id><summary type="html">&lt;p&gt;のけものの性欲&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;とても寒い朝だった。もくもくとした息が真っ白で、太陽が当たってよく輝いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ハカセがね、本当は私は人間じゃないって言うの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が急にそう言った。いつもより小さくて不安そうで、絞り出したような声だ。歩きながら誤魔化すように、私に聞こえないふりをする余地があるように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日のＢ子は少し変だ。耳がぺたりとくっついているし、尻尾だってくるりと巻き込んでしまっている。それに、普段のＢ子が学校に行くまでの間に話してくれるのは、ご飯の話とか、部活の話とか、あとは宿題の話とか。彼女はとりとめのない日常の話を楽しそうに私に聞かせるのが好きなのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それが、どうかしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうかしたのって……私、人間じゃないんだよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は彼女が人間ではないことを知ってたし、Ｂ子だってそんなことはとっくの昔に知っていると思っていた。彼女と私には耳と尻尾の有無という大きな差異があったし、人間ではありえない症状もたくさん経験しただろう。それなのに、どうしてハカセは今まで教えなかったのかな。どうして今になってわざわざ教えたのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも本当は、耳や尻尾があったって人間とは何も変わらないのだ。誰だって自分が普通の人間だと思っているし、私に八重歯が生えているせいで人間扱いされなくなったとしたら不安で夜も眠れなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるよ。だから、それがどうかしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私より体温の高い手を包み込むと、彼女はいつもより強い力で握り返してくる。まるで発情期の時みたいに、私の手なんか気にしていないみたいに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、Ａ子ちゃんは人間だよね？　私のことを本当は怖い怪物だって思ってたら、すごく嫌なの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、あなたが人間じゃないって最初から知ってるよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はまず唖然として、それからびっくりした表情になって、最後に顔を赤らめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知ってるなら、もっと早く言ってほしかったよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さっきまでの思い詰めた表情とは一転、いつもの元気なＢ子だ。肩の荷が下りたみたいに、耳も尻尾も機嫌がよさそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今まで黙っててごめんね、Ｂ子。一緒に行ってくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手を差し出されたＢ子は、どこか嬉しそうだった。私が手を引いて登校するのって、久しぶりかも。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子と最初に交わした会話を、今でも覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつもより空が高い朝、無言でＢ子の手を引いた駆け足の桜並木。そんな長い一日、入学式が終わった後の浮ついた教室の中で彼女はこう言ったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「朝起きると体中に粘膜が張ってるから、シャワー浴びないとダメだよ、ね、そうだよね……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一瞬の沈黙の後、取り繕うような笑いが起きる。人外なりのジョークだと思って、その場ではみんな笑っていた。面白い子だねって。でも、それからみんなはあまりＢ子と話さなくなった。やっぱりノリが合わないよと言っていたけど、本当はみんな彼女を気持ち悪がっていたのを私は知っている。「粘膜とか、ヤバいよねー」って。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少なくとも学校での彼女は、耳や尻尾以外にみんなと大きく違っている様子はないのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;学校ではＢ子は私としか話さない。女子からはすっかりグループ外の扱いだし、男子と話している様子も見たことがない。一方で私は、刷り込みでも受けたみたいに懐くＢ子と過ごすうちに、彼女の愛らしい表情や元気で明るい性格にどんどん惹かれていった。Ｂ子と一緒の布団で眠ったこともあるし、彼女の人間じゃないところもいっぱい見てきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子の手は暖かくて、さらさらしていて、ずっと触っていたくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間かどうかってそんなに大事なことなのかな。同じ人間同士だって、友達の無理な同調圧力とか、意味のないマウントの取り合いとか、そんなことばっかり。外側だけ人間でできていたって、一人ひとりがみんな違う醜い怪物なのだ。綺麗な肌からぬるぬるとした粘液が出て恥ずかしがるＢ子は、とっても可愛いのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、みんなはずっとそれでいいの。Ｂ子のことを分かってあげられるのは私だけだから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;こんなに素直だと、誰かに騙されやしないかと少し心配になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今は私にこんなに懐いてくれてるけど、本能ではもっと逞しいオスを求めているのかもしれない。私より先に彼女の手を引いた人がいるのなら。そんな想像をすると、ずっとこの手を絡ませたままで彼女を見つめ続けてしまうのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子にキスをして、とろとろになったところを弄ると、彼女はすっかり自分が人間であることを忘れたような表情をして私に甘く噛み付いてくる。ベッドに押し倒して身体を押さえつけながらキスをすると、獣のような声で甘えるのだ。耳元で私を求める彼女の声が脳を痺れさせて、視界が甘いピンク色に染まっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;べとべとになった彼女の身体は、擦り合わせた肌をよく滑らせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子……首、もっとするからね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もっと、強く……して」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうやって誰かに縛られたがるのも、メスの動物的な本能なんだろうか。そうだとしたら、彼女はどうしてこんな風に造られたのかな。けものみたいな本能を載せたままで、人間まがいの何かに変えてしまうなんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;性欲も発情期も、Ｂ子には必要のないものなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、好きだよ……Ｂ子」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私みたいな女じゃなくて、粗暴なオスに組み伏せられたら彼女はどんな表情をするだろう。私に向けている蕩けた表情を、誰かには見られたくはないの。怒りと苦痛に満ちた表情で、私の助けを求めて叫んでくれたらいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子ちゃん。今日はちょっと、遅くなるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が隣にいない時は、たまに理由もなく怖くなる。私にメスを蹂躙するための醜悪な性器が付いていればよかったのにと、いつも思っている。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/2268"&gt;百合SS Advent Calendar 2017&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>呪術</title><link href="https://ama.ne.jp/post/switch/" rel="alternate"/><published>2017-12-10T00:10:00+09:00</published><updated>2017-12-10T00:10:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2017-12-10:/post/switch/</id><summary type="html">&lt;p&gt;告白&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;すみません。お隣よろしいですか？　あなたもお一人なのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうですね。少し気になったというか、昔の知り合いとよく似ていましたので。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聞きたい、ですか？　別にかまいませんが、すごく面白い話ではないのです。ただ、呪術から抜け出せない滑稽な大人のお話ですから。いいですか？　それなら……ミックス・ナッツの皿も空になってしまいましたし、お酒のあてくらいにはなるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最初に少しだけ、手を見せてくださいますか？　あなたのような女性の手、好きなんです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;綺麗な手……ですが、ここがちょっと硬くなっていますね。なるほど、ペンだこですか？　真面目だったんですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いえいえ。怪しい宗教だとか、妙なマルチ商法に引き込もうというわけではないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;呪術という言葉選びが悪かったですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔、友達と色んなごっこ遊びをしませんでしたか？　横断歩道の白い部分を踏み外すと、鮫に食べられてしまうとか。あるいは、影だけを踏んで歩かないと、太陽に身体を焼かれてしまうとか。こういうおまじないの類を、呪術と呼ぶ癖が付いているみたいで。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子供のおふざけって不思議ですよね。わざと鮫や太陽のような荒唐無稽なものを据えることで、自分を守っているんです。横断歩道を踏み外したら三日以内に交通事故、では気味が悪くて楽しくプレイできませんからね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の先輩も、本当はそうやって無茶な報復を設定することで笑い話で収めようとしたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩は美しい人でした。中学二年生の少し浮ついた私を、すっかり部室に引き止めて離しませんでした。授業が終わるとすぐ部室に向かいましたし、彼女の制作が終わるまで私もキビキビと何もせず時間を潰し続けました。筆を持つ先輩の真剣な横顔も、私に手を振る先輩の笑顔も、夕陽を反射してきらきらしていたのをよく覚えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思い出話が過ぎましたね。すみません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩には友人と呼べる存在がおよそいなかったような気がするのです。ですから先輩は、初めてできた後輩の私に対しても、距離を測りあぐねていました。友人のように接するわけでもなく、厳しい先輩を演じるわけでもなく。今思えば、初めは随分と丁寧で他人行儀でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し打ち解けてからも、先輩は私にどこか遠慮していました。私との関係について悩み抜いた末に、友人のいない先輩らしい突飛な予防線を張ったのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;これ、分かりますか？　先輩がこのスイッチをケース入りのピンクッションに挿して寄越してから、ずっとこのままなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで、昆虫標本みたいでしょう？　こういうものはタクタイルスイッチというんです。中に金属のばねが入っていて、本当はこの白い部分を押すとカチカチと小気味のいい音を立てる代物なのです。ここにある赤い色をした丸い穴は、きっと配線して電気を流すと光るのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はこれを先輩に貰ってから、一度も押せていません。当然、電池も繋いでいません。これが私の呪術……おまじないです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩はこのスイッチに自分の命を預けたのです。先輩の命の重さが、今まで私にずっとのしかかっています。「私のことが嫌になったら、このスイッチを押してね」と先輩は言いました。こんな小さな部品で先輩を抱えきれるだなんて、心から信じているわけではありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、怖いのです。他でもない、先輩自身がそう言ったのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はこのスイッチを貰ってから、ずっと引き出しの奥にしまっていました。先輩を殺そうだなんて思ったこともありませんでしたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、今はもう、押したくて押したくて仕方ないのです。本当はずっと引き出しにしまっておくべきなのでしょう。でも、このスイッチを失うことの方が何倍も恐ろしいのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩が知らない人と笑って歩いていたらどうしようと、たまに思うのです。先輩だってもう誰かと付き合ったり、結婚したりできるようになっているでしょうから。そういう時は、これを押せば死ぬのだと自分を落ち着かせます。私のものにならないのなら死んでしまえと、本気で思うこともあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当に押したりはしませんし、押しても本当に死ぬことはないでしょう。分かっています。おまじないとは、そういうものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じようなスイッチをいくつか買ったりもしました。あのカチカチという音は少しだけ心が落ち着きますが、スイッチを押すだけでは抑えきれないほどに心が騒ぐ時があるのです。そうして、週末になるとこういうバーに来てしまうのです。もしかしたら、先輩がいるのではないかと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ねぇ、ここ、見てください。あなたと同じ、スイッチのたこができてしまいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩。私の呪い、解いてくださいますよね？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt="「PUSH!」や「押す」と印字された赤いラベルが貼られている赤いスイッチ" height="315" src="/images/switch/top-switch.png" width="600"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/2268"&gt;百合SS Advent Calendar 2017&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>曖昧</title><link href="https://ama.ne.jp/post/ruine-2/" rel="alternate"/><published>2017-12-06T00:00:00+09:00</published><updated>2017-12-06T00:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2017-12-06:/post/ruine-2/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ストロングゼロ（強い）&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/ruine-1/"&gt;前半&lt;/a&gt;から続く）&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_1"&gt;海&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;辺りはすっかり暗くなってしまった。影に潜んで動かなかったクラゲの群れもすっかり自由に動き出し、夜の空気が一帯を支配する。そろそろ夜露を凌げるような場所を見つけないと、闇に飲まれて死んでしまいそうだわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、霧が強い。少し歩くと顔がほんのり湿るというか、妙にべとべとする。お肌に悪くて仕方がないわ。服も湿って気持ちが悪いし、本当に海辺をずっと歩いているみたい。ここに住んでた人たちはよほどのマゾ、ってやつなのね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、向こうに明かりが見えるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、ほんとね。電気が通っているのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中心部からはだいぶ北に来た。これ以上進んでもより野営に適した場所はないだろうと思いつつ、僅かな期待に二人とも足を止めることはない。そもそもクラゲが奪っていくのは文字くらいだろうから、いざとなったらどこでテントを張ってもいいだろうというほんのりした安心感もあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな中で訪れた突然の変化に、私は少し面食らう。放棄された街の中で、陽が落ちても街灯が機能しないのは当然のことだ。宿を探している私たちが都合よく電気の通っているエリアに辿り着くなんて、嬉しさと同時に都合の良すぎる流れに対しての不安が入り混じるのを止められない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことを考えながら坂を降り切ると、目の前には不思議な光景が広がっていた。な、なによこれ……。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごいわ！　海の底みたい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;辺り一面が真っ青な街灯で照らされている。濃い霧も相まって、そこら中の空気が真っ青に染まっているみたい。テーマパークか何かなの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「建物も密集してるみたいだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、昔の寄宿舎でしょう？　やっぱり炭鉱でもあったのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海底に煌々と輝く電灯と並んで、五階建てくらいの建物がいくつか並んでいる。それぞれの建物には白い文字で番号が振られていて、まさに管理社会って感じね！　みんなまとめてどこかに引っ越したのかもしれないわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここらへん、くらげの群れも来ないみたいだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言われてみると、急に足取りが軽くなったというか、地面を注視してクラゲの群れを跨いで歩くことがなくなった気がする。彼らの目（そもそも目はどこにあるのかしら）にはマグライトが珍しいものに映るらしく、さっきまではまるでクラゲのショーをスポットライトで照らしている気分だった。不思議ね。クラゲは暖色が好きなのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;軽くなった足に任せて、私はアスファルトの上でステップを踏んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、私、海辺のホテルに泊まるのが夢だったの！　この際、もう海底のホテルでも良いわ！」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;海の底ホテルから適当な部屋を探して忍び込む。客室は狭いながらも、寝袋を敷いて寝るには十分すぎるくらいには綺麗だった。中には木製のベッドが一つ置いてあって（もちろんマットレスは外してあって使い物にならないけど）、さらに洗面台も付いていて昔は室内まで水道が通っていたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちは寝床の準備をしながら、手帳とかカメラをクラゲに見つからないようにリュックの底へ押し込んだ。おそらくここまでクラゲは来ないと思うけど、クラゲをいっぱい踏んでクラゲワインを作る夢でも見ちゃいそうだわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;眠る前に、私たちはいくつか確認と推理をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりあえず、この辺りにいるクラゲは文字を餌にしているらしい。あらゆる看板から文字が消えたり薄れているのはそのせいだろう。餌というか、身体に溜め込んで何かに役立てているのかもしれないという話もした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼らが食べるのは、言語を問わずより抽象化された文字だけで、矢印とかピクトグラムの類は食べないようだ。あくまで文字の情報に注目しているのかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の案は、スクーパーズが置いていった平和的な侵略兵器。文化的なものを欲しがるっていうのは、スクーパーズとすごく似てるもの。どうしてこの街から出ようとしないのかはよく分からないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの案は、突然変異したクラゲの末裔。北の方は放射線が強いという話をことこから聞いたのだという。そうだとしたら、白子たちともちょっと近い生き物ってことになるわね。認めたくないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりあえず、明日の朝食からお互いの好物を一品を賭けてみることにした。私は合成グレープのシロップ漬けのビン詰を、りとは缶詰の魚肉ソーセージをベッドのフレームの上に置く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外からの青い光に照らされて、缶詰のパッケージに描かれた笑顔の魚（おそらくマグロ）のおかしらが、私を睨むように輝いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りと、ごめんね。クラゲ潰しちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の声に反応して、りとが寝袋の中でがさがさ動く音がする。寝袋の中で微睡みながら、私は寝言のように呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気に入ってたみたいだったから。可愛いって言ってたじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……可愛いものをざくざく切るのって、割と面白くない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんかゲームみたいだし、と続けるりと。この子がレトロゲー狂だったのを、今やっと思い出したわ。彼女の目にはロールプレイング・ゲームのモンスターにでも映っていたのかしら。反省して損したかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、とりあえず、ことこを連れてこなくてよかったわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだね。本を食べられちゃったらショックで倒れちゃいそうだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私も、白子たちを食べちゃうクラゲがいたら絶対に家を出たくないもの。そんなことを考えながら、いつの間にか私は眠りについていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_2"&gt;曖昧&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「まり……ねぇ、まり！　地下への入り口、見つけちゃったかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;揺らされる身体と名前を呼ぶ声に目を擦ると、りとがスケボーを抱えて私を目覚めさせようとしていた。窓の外はまだ深い夜なのに、りとはすっかり探検装備に着替えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、寝不足はお肌に良くないのよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;寝ぼけながら彼女を落ち着かせようにも、未知の発見に興奮している私たちは誰にも止められないってお互いによく分かっている。私は快眠を早々に諦めて、最低限の装備を整えてから部屋を出ることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、一人で地下なんかに潜って行方不明になったら私だって困っちゃうもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う……寒いわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう？　走り回れば温まるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「夜中にいきなり起こされた身にもなってちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;素直に部屋に戻ってもう一枚、薄いコートを羽織ることにした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんな寒い夜によく出かける気になれるわよね、いつも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「冷たい空気で肌がびりびりすると、生きてるって感じがしない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「スケボー乗りの宿命か何かなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;寒い冬はコートにマフラーを装備して、肩を縮めて歩くくらいしかやり過ごす方法を知らないわ。生きてるって感じからはほど遠い。羨ましい限りね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;五分くらい歩いたところに、りとのいう「地下への入り口」がぽっかりと口を開けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「入るの？　ここを？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「入るの。ここを」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとは私の返事を待たずにさっさと地面へ潜っていく。もう、分かったわよ！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょ、ちょっと待ってよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがはしごを下りきってコツコツ歩く音を聞きながら、私も金属のはしごをキュイキュイ言わせながら足早に下りていく。地下は外よりも暖かいようだ。手を突いたコンクリートむき出しの床は少しひんやりしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごいよ、まり！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ごうんごうんという機械音と共に、目の前が明るくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt="上から青い照明で照らされている、中でクラゲが泳ぐ大きな円形の水槽" height="315" src="/images/ruine/top-kurage-2.jpg" width="600"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クラゲが水の中で生きてるよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ……そうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;振り返って嬉しそうな顔をするりと。壮大な眺めに一瞬言葉に詰まってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちを迎えたのは、直径五メートルくらいの大きな円形の水槽だった。上から青い照明で照らされて、辺り一帯をほのかに冷たい光が覆っている。目に刺さるような光を放つ地上の街灯とは違って、身体を包み込むような優しい刺激に少し安心する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの赤いヘルメットにもその水色が差して不思議な色に輝いている。駆け寄るりとを眺めながら、私も歩いて水槽に近づいていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初めて見るクラゲは、ふわふわで曖昧だ。陸のクラゲよりも小さくて、傘は大きいやつでも二十センチメートルくらい。光をよく通すその身体は、いつ絶滅してもおかしくないほどに儚げで、ずっと見ていると壊れてしまいそう。泳いでいるクラゲは傘を伸ばしたり縮めたりしながら上へ進んでいくけれど、その動きで身体がばらばらになってはしまわないかと心配になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は目に刺激が強い一日だわ。帰ったら目薬を差さないとね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、これは……りと、これを見て」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと床に目を下ろすと、青い照明をよく反射する白い紙が散らばっているのに気付いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんだろう？　日記かな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この街で初めて見るまともな文字かもしれない。水槽のそばに散乱していた手記のページには、およそこういうことが書かれていた。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;スクーパーズから文化を防衛するため、我々は自律的に文化を内包して保護する機構についての研究を開始した。素早く移動させるか、強靭な戦闘力を与えるか、あるいは擬態してスクーパーズに見つからないようにすればよいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲの遺伝子改良が進み、陸上で生活できる種も徐々に増えていた。ここから文化保護機構となりうる種をいくつか選別していこうと思う。水中で生活するものも、知能を改善して司令塔として使えることが明らかになってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文字を飲み込んだクラゲから文章を再構成するのは非常に難しいということが分かってきた。十数年越しに研究の根幹に関わる大きな問題が発覚するとは、ひどい夢でも見ているのか？　その直後、暴走したクラゲが大学を襲う事故が多発して多くの資料が失われた。たちどころに我々の立場は悪化し、すぐに研究は中止となってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;街中にクラゲが解き放たれ、人間が文化的な生活を送るのが難しくなってきた。この手記も運が悪ければもうクラゲの胃の中という可能性もあるだろう。駆除も間に合わない。我々は、取り返しのつかない研究に加担していたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水槽の生命維持機能を停止すれば、文化保護機構への指令も途絶えるだろう。しかし、コントロールを失ったクラゲが、そのまま自然消滅するのかあるいは暴走して街を破壊し尽くすかはまだ分かっていない。市民はその答えを出すより先に、この街を捨てることになった。tear-downの際は細心の注意を払ってほしい。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;文化を壊して守ったことにしようだなんて、昔の人が考えることは本当に分からないわ。かなり苦労していたみたいだけど、結局逆襲されちゃってるみたいだし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんなクラゲ、一体一体ナイフで切っていけばすぐ解決したんじゃない？　平和主義者だったのかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昔はすごく速くて、もっと強かったのかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あんな大きなクラゲが、赤黒い傘を素早く揺らして体当たりでもしてきたら、気絶しちゃうかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ。あなたたちが、ここの人たちをみんな追い出しちゃったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水槽の壁に手を置いて軽く撫でると、不規則に泳いでいたクラゲの何匹かが手に寄ってふわふわしだした。意思があるような、ないような。りとも同じように手でクラゲを操りながら、それを穏やかな目で眺めている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人とも未知の発見に対する驚きや喜びを味わえずにいた。もちろん、どちらも賭けに外れたせいではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、どうする？　りと。壊しちゃう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水槽の横には大きなスイッチが設置されていて、レバーを下げるためには赤いプラスチックのロックを取り除かなけれならない。ロックには「危険・生命維持装置メインスイッチ」と書かれている。クラゲへの給餌や水槽の温度調節のスイッチなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やめとこうよ。今はもう、誰にも迷惑を掛けていないんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「同感ね。同じクラゲとは思えないわ。こんなに弱々しくて儚げに見えるんだもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;秘密の記された紙束を軽くまとめて、元の場所に戻す。これは報告書に載せないでおこう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;水槽の周りをもう一度よく探索してみたけど、手記以外には危険もなければ珍しそうなアイテムも見当たらなかった。今回は収穫なしかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当分、クレープは控えなきゃ。残念ね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、軽く報告をまとめてから戻りましょうよ。あ、その前に夜食が良いかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がそう呼びかけると、しんぴてきー……といつもより間の抜けた声が下から聞こえてくる。ふと視線を下ろすと、りとが座り込んで銀色のロング缶に口を付けていた。青い照明が反射してギラギラと輝いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、りと！　外にいる時はお酒は飲まないでって言ったわよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冷たい缶とは対照的な、りとの紅潮した顔が私を見上げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別にいいじゃない。もう安全って分かったんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が呆れた顔をしていると、楽しげな声で「攻略完了！」とＶサインしてみせる。右手には缶を持ったままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのまま視線を交わして十秒くらい。りとはばつが悪そうな表情で私の脚に寄りかかって小さくにゃあ、と鳴いた。ここに猫はいないわよ。りとったら、疲れているのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いきなり敵が襲ってきたらどうするの？　私だけじゃ倒せないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからさっきは飲まなかったじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふてくされた子供みたいにゆらゆら缶を揺らす様子を見ていると、怒りがふつふつと湧いてきた。なんだって、私はこんな辺鄙な水族館に来てまで酔っぱらいの相手をしなきゃならないのかしら！　ほんと、ばかみたい！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りと、あんたね！　いつか言おうと思ってたんだけど、そういう安いお酒をがぶがぶ飲むのはやめたほうがいいと思うわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんでー？　コスパ最強じゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとのお気に入りは、支給品の中でも一番大量生産されていて、一番労働者に人気があって、一番安い酒なのだ。彼女がこういうのが大好きなのは（支給品が配られるたびに最初に手を付けているから）知っていたし、今更お酒の好みに文句を言うつもりもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、今日は疲れも相まって本当にイライラしてしまう。急に安心しちゃって、私だって混乱してるの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お酒っていうのはね、もっと高くて美味しいのをちびちび飲むからいいんじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ぶどうジュースをグラスで飲んだって酔えないもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと……すっごく昔の話を、いきなり持ち出さないでくれる？　思い出すのに時間がかかっちゃうから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんなのかしら。中学か高校の頃のおしゃまな私の話を蒸し返してくるとは思わなかった！　分かってる。お互いの趣味に文句を付け始めるといつだって泥沼だ。えぇ……そうだわ。素面の私が一番落ち着かなきゃね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぐいぐいと軽く膝でりとの頬を押してみる。りとは突かれるたびに小さくうめくような笑い声を上げて、その度に大きな缶がぐらぐらと不安定になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アルコールの作用は気分が大事で……あー、もういい！　それ、私にもよこして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、飲むの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がりとの隣に座り込むと、彼女はくすくすと笑いながら首を傾げてそう訊いた。包みを開けた食べかけの魚肉ソーセージをこちらに差し出してくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その声からは、疑問や驚きというよりは、悪い仲間ができたぞとでもいう嬉しさのようなものを感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、それは違うのよ。お酒っていうのは、アルコールに身体を任せてしまうから酔っちゃうの。酔うつもりがなきゃそんなに酔わないし、酔いたいと思っていれば酔ってしまう。私は正気を保ったまま、りとのアルコール摂取量を減らしてあげるつもりなの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どう？　すごいでしょ。りとを介抱しなきゃならない重圧を背負ったままで、私が酔うわけがないもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、放っておいたらぜんぶ、飲む気でしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ぜんぶ、飲む気だよ。よく分かったね、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがオウム返しでぜんぶ、と私と同じように強調してみせる。受け取った缶を口に付けて、ぐいと一口。うぅ……この飲みやすい感じが、人間を堕落させる気がして受け付けないのよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。キャパオーバーで歩けなくなったあなたの介抱、何回もやってるせいかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うんうん。まりー、いつもありがとねー……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってから、りとは甘えるように私に寄り掛かる。手の甲に当たる彼女の頬が熱くって、本当に猫でも飼ってる気分よ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりって、私のこと大好きだもんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んなっ！　別に、好きなんかじゃないわよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慌てて横を向くと、とろんとしたりとの熱を帯びた視線とぶつかってしまう。顔が近いわ。顔の半分だけ青い光で照らされて、何だか趣味の悪いカラーリングね。半身だけ吸血鬼にでも支配されちゃったみたい。ハロウィン・パーティーはまだ先よ？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うふふ、冗談だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、冗談ならもっと冗談らしく……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あ、あら？　何だか光の境界がぼやけてきたような……&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;頭がふらっとして、気付いたら私もりとの頭にもたれかかっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、だめね。私も、疲れてるんだったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;疲れは酔いの原因になるのよ。ぼそぼそと自分に言い聞かせてからではもう遅かった。「まり、重いよー」という声が下から聞こえて慌てて頭を起こしてみるけれど、クラゲのふわふわとか、りとの髪のふわふわとか、気持ちいいものが私の意識を包み込んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;起き上がった頭をゆっくり倒してりととこつ、と頭を合わせると、今度は収まりが良かったらしく機嫌の良い鼻歌が聞こえてくる。私のほうが少し身長が大きいから（ほんの五センチくらいね）、まるでお店の真ん中にあるロボ・スピーカーに寄りかかって音楽を聴いているみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昔のホテルには、くらげがいたのかな？　こんなに穏やかで、落ち着いてて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲを見つめるりとの瞼が次第に閉じていくのが見える。彼女の脳裏には、どんなクラゲが映っているだろう。青く光って、水槽をぐるぐる回り続けるだけの存在。そんなの、原宿にはいなかったわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この世界の端っこみたいな場所で、クラゲは何を考えているのかしら。ここで私は、何と向き合わなきゃいけないのかしら。原宿の夜を闊歩しても入り込めないような思考に、今なら没入できる気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしも地球がここを残して消えてしまったら、私はりとと世界の終わりまで二人きりだ。こんな綺麗な隠れ家、スクーパーズには見つけられたくないけれど、いつかは見つかってしまうだろう。そう考えると、この場所をことこに知られるのさえ、ひどく怖くなってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、ここにいるのがりととことこだったら。私は破滅を願うのかしら？　ＰＡＲＫで一人、もう意味のないレア・アイテムに囲まれて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が何も答えずにいると、そのまま静かな時間が流れていく。ポンプの動く音が耳に障るくらいには静かで、お互いの鼓動さえも共有できてしまいそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、まり――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、頭を起こしたりとが私の耳に吹きかけるように囁いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや。やめて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;吐息まで熱を帯びたその声が、私の頭にじわりと広がって思考が止まりそうになる。身体がほのかに温かくなるのを意識しながら、私は嫌な予感を拭えずに彼女の言葉を遮ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――ちょっとだけ、一回だけしよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い・や・よ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先っちょだけだからーと言いながら、りとが缶を持ったまま私の首に腕を回す。りとの腕は思ったよりも冷たくって、私の体温まで上がっているのを否が応でも感じてしまう。あぁ、私の大事な友人はもう随分と（私もだいぶキているけれど）曖昧になっているみたいね。だから外ではお酒を飲まないでって言ってるのに！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「下品なことを言うのはやめて！　それに……ことこが怒るわよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。だからちゃんと内緒にしてね、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが指に人差し指を当ててウィンクをした。三人でいつも一緒にやってきたのに、二人だけの秘密だなんて……浮気みたいなものじゃない？　ことこが悲しそうな顔をしているのを想像して、嫌になる。とにかく私、隠し事とかそういうの苦手なんだけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;作った秘密は、消せないんだもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね、仲間外れは嫌なのよ。りとも分かるでしょ？　りとだって、私がことこと、その……こういうことをしてたら、嫌でしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、別に気にしないかも。だってまり、分かりやすいもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、何よそれっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるで考えていることが全部見透かしているようなことを言う。まぁ確かに、感情をいつも隠せずにいる自覚はあるけれど、だからって……。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分かりやすいのは私だけで、実は私の知らない間に二人が私に言えないようなことをしているんじゃないかって、たまに心配になる。二人の間に何も秘密がないとして、私を中心に三角関係ができていたとしても、それはそれで面倒そうだけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、分かった！　まり……ことこと、えっちしたいんだ？　ふふ、面白い」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしてそうなるのよ！　お酒に飲まれて適当なこと言うのやめてってば」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、私のこときらいなの……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;酔ったりとが繰り出す脈絡のない話も、いつもは適当に聞き流せば済むはずだけど、今回は答え一つで簡単に貞操が危うくなってしまうと思うと一人で緊張してしまう。じっと私を見つめる彼女の視線に耐えきれなくなって、私はそろそろと目を逸らす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「きらいじゃ、ないわ。一緒に暮らしてるんだもの。りとのことも好きだし、ことこだって好きよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあいいじゃん。ほら、もっと飲んで気持ちよくなろ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、ことこが――んむっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが目を離した隙に、いとも簡単に私の唇を奪っていた。唇の熱が私の顔まで熱くする。忘れられないこの感覚は、やっぱりことこには内緒の気持ちになってしまうのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか彼女は膝立ちになって私を押し倒すような格好になっていた。りとは重力に任せて私の口をとろとろでいっぱいにして――ってこれ、お酒だわ！　流し込まれるアルコールの波にむせてしまいそうになるけれど、今咳き込んでしまったら私の顔までびしょ濡れになるのは避けられないので何とか飲み干した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私、そんなにお酒に強くないんだけど！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……待って、りと。分かったから！　まず、服を脱いで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの肩に手を置いて落ち着かせようとするけれど、一層揺れる視界の中で彼女は私を見てにやにやと笑っている。何よ、私の顔に何か付いてるっていうの？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりって本当にえっちだね。うふ、ふふふ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ち、違うわよ！　帰りの服が無くなったら困るからに決まってるでしょ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あぁ、もう！　二人で探検なんてもうこりごりよ！&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_3"&gt;？？？&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「りとちゃんまりちゃん。報告書に書けないことはしないほうがいいよ……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもね。でも、可愛いクラゲの平穏と静寂を守れたから、朝はとっても気分が良かったの！　ね、りと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふ。これからはちゃんと気を付けなきゃね、まり」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-discussion-topics"&gt;EXTRA: DISCUSSION TOPICS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;エイリアンの襲撃により世界の経済が崩壊した場合、性欲を満たすために廃墟で「レズセックス」をしますか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;北方への探索に同行せずに留守番したことこの選択は正しかったでしょうか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;クラゲが外を自由に歩き回る中、地下室でりとの押しに負けたまりの判断は良いと言えるでしょうか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;もし貴方が、撮影した写真とレア・アイテムを自由に持ち帰れるが、報酬が少ない実験的な部隊に徴兵されたらどう思いますか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;もし貴方が仲良くしていた二人が付き合ったとして、貴方たち三人の仲を保つことにどういった意味がありますか？&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="extra-exercises"&gt;EXTRA: EXERCISES&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;信念、モラル、お酒の好みが違う人達と友達になってみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;お店を開いて、よそには無いオリジナルクラゲを販売してみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;家の近所、街、廃墟で「レズセックスごっこ」をしてみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;貴方の胸の内や、自分以外の友達同士の関係性に対する不安を綴る日記をつけてみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8978884"&gt;廃墟、曖昧、私とあなた&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="http://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes"&gt;PARK Harajuku: Crisis Team!&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://park-harajuku.net/items/571618ff9821cc715e000f8b"&gt;PARK:HARAJUKU Crisis Team! 日本語ver 単行本&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;URAHARA&lt;sup id="fnref:urahara"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:urahara" title="https://urahara.party/"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/2268"&gt;百合SS Advent Calendar 2017&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:urahara"&gt;
&lt;p&gt;https://urahara.party/&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:urahara" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>廃墟</title><link href="https://ama.ne.jp/post/ruine-1/" rel="alternate"/><published>2017-12-02T17:02:00+09:00</published><updated>2017-12-02T17:02:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2017-12-02:/post/ruine-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ストロングクラゲ（強い）&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;h2 id="_1"&gt;クラゲ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;海水や淡水にいた頃のクラゲは、ふわふわで曖昧なものだったと聞いています。そうですね……少なくとも、わざわざナイフで切り刻む必要はなかったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラゲは全て絶滅してしまいました。私たちも、いつか絶滅するのでしょうか？&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="_2"&gt;廃墟&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;高架の終点からさらに少し北上すると、中心市街地らしき廃墟に突き当たった。もうこれ以上線路は続いていないようだ。たぶんここが今日の目的地ということになるのだろう。さっきの駅の周りのほうが栄えていたような気もするけど、あそこは建物自体がだだっ広くて何だか探索する気が起きない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ？　街なのに、駅が見当たらないね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「たぶん、この地下に入ってるのよ。さっきもそうだったでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが、そうだっけ、と首を傾げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高架に沿って歩いている途中にも、途中の駅の周りにはいくつか打ち棄てられた施設があった。しかし、駅から少し離れただけで商業施設どころか家すらない荒野が広がっているのにはびっくりする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうして離れ離れに街を作って鉄道で繋ぐような真似をしたのかしら。暇を持て余した官僚のダーツゲームか何か？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここからは線路が通ってないわ。どこかに廃バスが残っていてもおかしくなさそうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの橋の上とかで、バスが走ってたのかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あっちにも橋があるみたい、と言ってりとが指差す先には大きな陸橋が架かっている。橋の真ん中から石か何かでできた塔が飛び出している不思議なデザインだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;双眼鏡でよく見ると、街区から街区へ橋が渡されているけれど、車がすれ違うには幅が足りないようにも感じる。バス専用路なのかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもね。じゃあ、少し休んでから探索を――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり。ここにもくらげがいるみたい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;屋根の下にあるベンチに腰掛けようとすると、それを遮るようにりとが楽しげな声を上げた。その声に釣られて下を覗き込むと、ベンチの影に張り付くぬめぬめした動きが目に入ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え……きゃあっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うえぇ。片足で地面を蹴ってベンチから離れる。休ませるはずだった身体がこんなに俊敏に動くとは思わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「きゃあ、だって。まりの悲鳴、可愛いね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「馬鹿にしてるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;随分歩いてきたはずなのに、りとは全く疲れていないかのようにはしゃいでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;北に進めば進むほど、建物の隅だとかベンチの下とかに蠢く子犬サイズの謎動物（りとが言うには「くらげ」）が増えてきた気がする。子犬と書くと可愛く感じるけれど、見た目はヌルヌルでテカテカだし、脚がたくさん生えている。生理的な嫌悪感が走ってどうも好きになれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もともと彼女のセンスが独特（ときどき微妙）なのは分かっていたことだけど、こういう触手持ちまでカバーしているとは思わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ、何だか楽しそうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;道行く先々にある建物の影に数匹単位で群がっている怪物は、視力に無理をさせれば図鑑に載っていた絶滅したクラゲの姿に見えないこともない。でも、図鑑で見たどのクラゲよりも肉が厚そうで、頭が大きくて、色も不透明な暗い赤色でとても気味が悪い。傘の中央には外周に向かって不規則に黒い模様が入っていて、そういう警告色じみた取り合わせも最悪だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よく見ると結構可愛いよ。頭のあたりとか。白子たちとあんまり変わらなくない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの子たちはもっとすべすべしてて可愛いわよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;って、よりにもよってその警告色が気に入ってるの？　こいつは明らかにクラゲじゃないと思うんだけど。そもそも、陸に上がっている時点でクラゲであることを疑うべきじゃない？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そのクラゲっぽい謎モンスターが、コレクターに高く売れるなら私だって大喜びなんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりはお金の話ばっかりだね。久しぶりに二人で旅行だっていうのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが冗談めかして肩をすくめる。彼女は旅行のつもりだったらしいけど、一方私は初めから仕事のつもりだ。旅行ならもっとロマンチックで落ち着けるような場所に行きたいわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふたりは嫌？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「仲間外れは好きじゃないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とは言え、ことこはこういう遠征にあんまり来ない。インドアタイプなのよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと、りと。今回の目的、ちゃんと分かってる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「家賃の工面でしょ？　分かってるって。このくらげを持って帰ればペットショップとかに買ってもらえるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうやって持って帰るつもり？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは考えてないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はぁ。即答するりとに、私は嫌な顔をしてみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういう奔放なところ、ますますあなたが好きになっちゃいそうだわ！」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;橋に上がるのは意外と簡単だった。街の上に通路がもう一つ作られているような感じで、階段を上がってから四方に進むと途中に架かっている橋から街の様子を一望できる。橋を渡った先にもまだ道があるらしく、街全体を探索するのにどれほど掛かるのか考えるとちょっと憂鬱だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが左右に回って上から写真を撮る。確かに、報告書に載せたらウケが良さそうだ。もうクラゲの写真もいっぱい撮ってるし、これなら追加報酬もあるかもね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当にだだっ広い街だね。もっとコンパクトに作ってくれてもよかったのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「土地がいっぱいあるからでしょうね。羨ましいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昔の人は豊富な資源を持ってても、使い方が下手っぴだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;無計画に木なんて植えたらこうなるに決まってるよ、と続けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが下手と称したのは、ぼこぼこに膨れ上がった道路の舗装のことだろう。中央分離帯で区切られた大きな道路には一定間隔で街路樹を植えた跡があり、そこを中心に舗装に亀裂が入って道はもはや使い物にならなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その亀裂を覆うように雑草や小さな木が生えていて、またそこから小さな亀裂が入り始めている。最後には舗装がめくれ上がって、この街を全部覆ってしまうのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;街路樹を植えれば自然を守ったことになるのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そもそも、なんでこんなところに街を作ったんだろう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、クイズ？　そうね……あの大きな山が炭鉱だったとか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、そんなに人の手が入っているようには見えないよね。そもそも石炭があったのかどうか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;軽く歩いてみたところ、道が縦横に整然と区切られていたり、それなりに計画的に造られた都市であることが窺える。多くの人が住めるように、早くから画一的な住居が密集して建てられてきたみたいだし、まさかここまで衰退するとは誰も思わなかったんじゃないだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この街にはもう一つ大きな謎がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;看板、ポスター、案内板……街のあらゆる文字が消えてしまって、ここがどこなのかすら把握できなくなってしまっているのだ。銀色の案内板には、前方に何かがあることを示す矢印だけが残されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かろうじて男女が並んだマークや人が走り去るマークが残っているせいで、まるで異国に来たみたい。ことこにフランス語でも教わっておけばよかったわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「文字のない街、ねぇ。にわかには信じがたいけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わざわざここを選んだってことは、きっと何かの産業があったと思うんだけど。大きな工場もないし、輸送の拠点でもなさそうだし、農業やスローライフでも流行ってたのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「荒野に急に街が生えるなんて、超常現象の類かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もしそうなら、スクーパーズもびっくりね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エイリアンは文字がない都市を襲うのかしら？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;橋の真ん中を過ぎて緩い坂を下りていく。手帳に「ヴィオール橋→街区ことこ・街区りと」と書き込んだ。こうやって勝手な命名をするの、探検家っぽくて少しだけテンションが上がるかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なに、まり？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……なんでもないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとには秘密だけど。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;陸橋を二つか三つ渡って、まだ木々に侵食されていない比較的ひらけた場所に出た。そこら中がレンガ風のタイルで舗装されていて、歩くとブーツがコツコツと硬い音を立てる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;辺りを見渡してみると、ここが二階建てのシャッター街に設けられた中庭だと分かる。真ん中に横たわっている茶色く変色した太いパイプは、おそらく遊具だったものだろう。プラスチックにしては長く残っている。あっちは滑り台かしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この街、本当に『おたから』がないわねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;橋を渡ったり戻ったりしながら地図を作る。その中で家賃を工面できそうなレトロ・パーツの類を集めなければならないのだけど、まだ目ぼしいものがクラゲくらいしかない。これが大昔の特撮キャラクターの全自動フィギュアなら、コレクターも挙って買いに来てくれるだろうけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地図や報告書の提出で防衛隊から貰えるお金は、毎日クレープを買ったら無くなるくらいのお小遣いレベルだし、このままじゃ帰れないわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どこかに大きなロケットとか、月の石でも落ちていないかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「くらげばっかりだね。飽きてきちゃったかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日陰を覗くとほぼ必ずクラゲがいる。初めこそ石を持ち上げてダンゴムシでも探す子供みたいにはしゃいでいたりとも、段々と身体をかがめる回数を減らして歩みを早めていた。一方の私はそろそろ慣れてきたかも、と思った辺りで不意打ちを食らうので、実はあんまり落ち着けずにいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;陽が傾いてきて少し寒くなってきた。思ったよりも北に来てしまったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがクラゲから目を離しているのは、壁に描かれたグラフィティが増えたせいもあるかもしれない。即席のスプレーアートを見かけては写真を撮っている。確かにこんな落書きは原宿ではめったに見かけなくなったし、デザインも何かのレトロゲーで見たことがある不思議なデザインだ。これがノスタルジーってやつかも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、シャッターと見ればお絵かきだなんてここはスラムか何か？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、本当に生きてるのかな？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがこれ、と指差す先には――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひゃあっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まり、慣れないねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか足元にクラゲが近づいていた。ぷるぷると少し震えている。流石に飛んでかわすほどの反応はしなくなったけど、やっぱりこういうのって、そうすぐに慣れるものじゃないでしょう？　びっくりホラーは苦手なのよ！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってたなら早く言ってよね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;辺りが薄暗くなるにつれて、明らかにクラゲの行動範囲が広がっている。やっぱり、陽に当たると表面が乾いちゃうのかしら。不意に襲ってくることはないだろうけど、飛びかかってきたクラゲと熱い口づけを交わすのだけはやめておきたいところね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう思いながら、クラゲから距離を取るために私は一歩後ずさった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、まり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、りとが何か言うより先に甲高い音がした。一瞬だったけど、きょむ、と鳴ったようにも聞こえる。私の足先からブーツ越しに嫌な感覚が伝わってくるのと一緒に、ぐちゃ、と湿った音も耳を襲う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「り、りと。分かってるわよね？　今、私に何が起こってるのか、驚かないように伝えてちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーとね、まり。もう一匹のくらげが、足の下に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう十分よ！　慌てて踏み抜いたクラゲから足をどけると、自重でザクッ、とさらにゼラチン質が裂けてしまう。身体が半分こになったクラゲはじたばたする様子もない。ぐに、と身体が地面に沿って広がったかと思うと、ドロリとした赤い液体になってすっかり原型を留めなくなってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、クラゲが……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お気に入りのブーツが汚れてしまった。でも、クラゲを踏んじゃったのは私だし。クラゲはたぶん死んでしまったし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まぁ、足跡が残らなかっただけ良かったかもしれない。こういう痕跡が下手に防衛隊に見つかってしまったら、また無用な破壊行為として警告されてしまうかもしれないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「くらげって、陸でも案外柔らかいんだね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ブーツにネバネバが残っちゃった……あら？　これ、何かしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よく見ると、崩壊したクラゲからから黒っぽい粒のようなものがばらばらと零れ落ちている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、文字だよ。日本語じゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが液化したクラゲを避けて内容物を器用に掬い取った。覗き込んでみると、私達が知っている文字の限りでは「竹」と近い形をしている。不思議なクラゲの内臓は、軽く指の間で擦られただけで音を立ててパリパリと崩れてしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私もそれに倣って遺骸の隅から黒い塊をつまみ上げてみる。力が強かったのか、すぐに潰れて指に黒い跡が残ってしまった。これは「波」という文字だったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほら。こっちは看板のペンキで、そっちは本のインクだよ。たぶん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「器用なものね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;謎の深い生き物だわ。このクラゲは身体の中に文字を溜め込む性質があるのかしら。文字が栄養なのかも。まるでことこみたいね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんまり文字に統一性がないのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本語だけじゃなくて、アルファベットやテレビで見た外国の映像に映っていたような文字も混じっている。色も大きさもバラバラだし、あんまりセンスの良いクラゲじゃないわ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たちだって、配給日の直前は残り物ごちゃまぜ特製サンドを作るじゃない。それと一緒だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この街のクラゲも、食糧不足ってことかしら。貧しいのって、ほんと嫌になるわ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イワシとフルーツ缶の取り合わせって、本当に最悪よ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからりとは「ちょっとスケボーしてくるね」と言って、遊具の周りや段差の横にあるスロープを駆け回り始めた。流石に狭いからエンジンは使わないみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここに来たときからちょっとうずうずしてると思ったけど、そういうことだったのね。ここまでずっと凸凹で車輪なんて使える場所はなかったもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車輪とタイルが擦れる小気味いい音を聞きながら、私はクラゲゼリーの前にしゃがみこんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すごく良いロケーションね。あんたも、ずっとここを見てたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;生きてるって、なんなのかしら。さっきまで蠢いていたはずのどろどろの粘液に、そんなことを思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（&lt;a href="/post/ruine-2/"&gt;後半&lt;/a&gt;へ続く）&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
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&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
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&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>煙突</title><link href="https://ama.ne.jp/post/chimney/" rel="alternate"/><published>2017-07-12T16:45:00+09:00</published><updated>2017-07-12T16:45:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2017-07-12:/post/chimney/</id><summary type="html">&lt;p&gt;from automation(C91)&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品は&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/automation/"&gt;automation&lt;/a&gt;に収録されています。 */&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「洗濯物をとりこみたい人生だった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、急にどうしたんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はぁ、と芝居ががって溜息をつくＡ子を見て、Ｂ子がくすくすと笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すぐに雨が降るわ。また、服がだめになっちゃう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が指差す煙突は天高く、ずっと空の向こうでもくもくと黒い煙を吐き出している。青い空はずっと不気味に濁ったままで、たとえその向こうに何があっても私には分からないだろう。雲ひとつない暗い快晴は心まで息苦しくする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「雨が終わったら、新しい服を探さないといけませんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、気分転換にはなるかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒い煙が出た次の日は、辺り一面肉の焦げた嫌な臭いがするから嫌いだ。何日かそれが続いて、とうとう吐き出されるのが白い煙になって、最後には煙突の呼吸がすっかり止まる。その間はずっと汚れた雨が降り続けて、外に干していた服はもちろん、屋根や窓、植物も土も全部同じ色に塗りつぶされていく。乾いた汚泥はそこらじゅうで舞い上がって、呼吸に混じってまた人を傷つけるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大煙突は二百メートルあるのだと、Ｂ子が前に言っていた。図書館で読んだのだという。私たちが生まれるずっと前からそこにあって、私たちが死んでもそこにあり続けるのだ。永遠の経済成長の象徴であったあの建築物は、不滅ゆえにそこに縛り付けられ、いつの間にか滅びゆく街のプロセスに組み入れられていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;煤煙は徐々に空気と混ざって見えなくなるけれど、決して消えることはない。風の吹かないこの街で、煤も煙も、空気にこびりついていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小さい頃は巨大なものが好きだった。天にそびえる大煙突を見上げられるこの公園で、声を張り上げて騒いでいたのをよく覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天国の空には、きっと透き通るような青の水彩が引いてあるのだと思う。そうでないと、目が覚めてからどこにいるのか分からなくて困ってしまうから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また、狭い図書館暮らしの始まりね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急に立ち上がると、ぱんぱんになったリュックが少し身体を揺らしてから、足元で枯れ葉が乾いた音を立てた。泥と一緒にぱらぱらと砕け散った葉が、私の足に煽られてふわりと舞い上がる。私は思わず口に手を当てて、Ｂ子もそれに倣って制服の袖を口元に当てた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子さんと狭い部屋で眠るの、私は好きですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼんやりと大煙突の方に目を遣って、雨が降るのは嫌ですけど、と続ける。横顔が少し楽しげに見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんな話、してないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子さんはお嫌ですか？　私と眠るのは」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、まだ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだ、二人とも生きてるんだなって、本当に心の底から実感する。そう口に出すと、自分が弱くなってしまったように思えた。Ｂ子の熱を感じて、匂いを感じて、私よりもゆるやかな呼吸に合わせて優しく息をすると、いつもよりもよく眠れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;保存料がたくさん入った味気ない缶詰と白飯を食べていても、地下から見つけ出した瓶詰めの水を飲んでいても、生きた心地がしないのだ。明日もこうして歩くことができるだろうかと、何も見つからずに動けなくなってしまうのではないかと、恐ろしくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たちは、死にませんよ。絶対に」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が立ち上がって、私たちはまた口を押さえる。この一瞬の動きにはもはや意味などなかったが、そうするのが二人の秘密の合図になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ帰りましょう。食料は十分に集まりましたし、これならしばらくこもっていられますよ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;街を複数の――おそらくは数十体の――アンドロイドが巡回している。それらが街に転がる死体を回収し、焼却炉へ集めて定期的に火葬していると聞く。その度に大煙突から煙が吹き上がり、あぁまた誰かが死んだのだと分かった。とうの昔に撤退した化学工場の簡素な焼却炉を、そのまま火葬場に転用して多くの死体を詰め込んでいるから、なかなか温度が上がらなくて辺りは数日の間ずっと異様な臭いに包まれる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女らは十代前半の少女を模して作られているらしい。年端も行かぬ少女を死体回収の手伝いに出す親はそう多くないだろうから、すぐにそれが感情のないロボットなのだと分かる。表情一つ変えない娘たちに看取られて燃やされるさまを見て、誰かが理想郷と言った。識別子の前に「理想郷」を冠してそれを呼ぶのだ。呼ばれるたびに、彼女らの眼はそこにあるのが命ある肉体かどうかを確かめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;魂の抜けた肉体を放っておく以上の不衛生はない。街のシステムは公衆衛生上の観点においては、実に正しい判断をした。ただ、肉体を燃やし尽くしても毒が消えないとは誰も思わなかっただけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;死体を燃やすたびにばたりばたりと人が倒れ、新たな死体が生まれるたびに燃やされていく。イレギュラーな事態にもアンドロイドたちは落ち着いて、いつもと変わらず死体を回収し続けた。楽しげに皆で労働歌を歌っていたという噂も聞く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女たちはずっと正常に動いていて、むしろ異常なのは生き残っている私の方なのだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ａ子と手を繋いで帰るときはいつも、Ａ子の手が熱いのか、私の手が熱いのか分からなくなる。頬が熱いのはＢ子自身のせいだと思い知らされるけれど、顔や額もくっつけてずっとキスしていれば、何もかも一つになってしまうだろうなと思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子ちゃん。どうしていつも手を繋いで帰るんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;晴れた秋の空はずっと向こうに泳いでいけそうなほどに澄んでいて、夕陽の光は世界中にどこまでも届いていくんだと実感する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「秋だし、寒いから。それじゃあ、だめかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「では、どうして夏にも手を繋ぐんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……暖かいのが好きなのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何も言わなくても全部私が分かっているのだと、きっとＡ子は思っている。本当の私はそんなに強くないのに。そうやって寄りかかられるのは、心地良いけれど反対に私の心をきゅっときつく苦しめていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いつも、そう言っていますね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、いつもそう訊かれるもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;友達だから、恋人だから。Ａ子はそんなこと、一言も言ってくれない。彼女の手は私を縛り付けて離すまいとするけれど、Ａ子はそれだけで満足しているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｂ子。手を繋ぐのに、ユニークな理由がいるの？　いつも同じ理由じゃ、だめ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「せっかく四季がある街に生まれたんですよ？　せめて、ちょっとくらい、変わってもいいと思うんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;変わってほしい、とは言えなかった。私の言葉でＡ子を縛り付けたくはなかったから。私はただ、彼女に好きだと言ってほしいだけなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に私は、あなたと手を繋いでいなくたって――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら、Ａ子は私から手を離そうとする。私はすかさずその手を捕まえて、きゅっと強く握った。隣で驚いた表情をしているＡ子に上目遣いで笑いかけると、彼女は照れたようにして下を向く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今度はＡ子の手のほうが熱くなっているのをはっきり感じて、ちょっとだけ嬉しくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「離しちゃだめですよ、Ａ子ちゃん。暖かいのは、私だって好きなんですから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子の手を引きながら、私はかさりと真っ赤な紅葉を踏みしめた。上からもはらはらと、枝から離れた色とりどりの葉がやってきて、通学路を彩っていく。こうしていつしか冬が来て、また春が来る。およそ永遠とは対極にあるその景色を見ながら、私は永遠を祈っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;夜になると雨が一層ひどくなり、窓にどろどろとした雫が叩きつけられる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;管理者を失った建物は急激に荒れ果て、雨漏りが酷くなるところも多い。天井に出来た黒い染みが徐々に広がって、そこに穴が開く。そうなると、もはやそこで安心して眠ることはできない。私の家もＢ子の家も、すっかり壊れてしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その運命は堅牢に造られたこの図書館も例外ではなく、もう何回か雨が降ったらこの部屋にも黒い刺客がやってきてしまうだろう。街にあるＢ子との思い出が、ぼろぼろになった建物と一緒に全て壊れていくのだ。図書館はＢ子の特段のお気に入りで、だから最後まで守っていたかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白い光を放つＬＥＤのランタンを掲げながら、閉架書庫の扉を引くと、ぎぎぃという音が響いて一瞬びくりとする。書庫の鍵は持っていなかったけど、いつの間にか錠のほうが壊れていた。私はそれを新たな根城の発見としか感じなかったけど、きっとＢ子は、壊れゆく図書館をまざまざと見せつけられて嫌な顔をしていたのだろうと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この街から誰もいなくなっても、私たちが去ったとしても、大量にある本がここに確かに文化があったと証してくれるのだと、錠の壊れた書庫を見つけた時にＢ子がそう言った。この図書館は無くならないのだと、口に出して自信を持とうとしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冷たい毛布を二人で被って、今日は寒いねと言いながらもう一枚毛布を足す。手を繋ぎ、身体を当てると少しずつ暖まってきて、生の実感が幾分か強くなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;打ちっぱなしの書庫の壁は、冷たさまでがむき出しになっていた。身体をよじる度に背中からひんやりとしたものが伝わってきて、それを感じる度にＢ子にまた暖められたくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ｂ子。私が死んだらどうする？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の身体がぴくり、と動いて止まり、それからＢ子は何も言わずにランタンを消した。急に視界が奪われて、手と耳の感覚が鋭敏になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぎゅっ、と手が強く握られて、彼女の手が冷えているのが分かる。Ａ子が少し力を緩めると、Ｂ子はそれを補うように彼女の手を優しく包み込んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冷たくなっていくＢ子の手のひらと、いつもより少しだけ早い息遣いを感じながら、徐々に目が慣れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、Ａ子さんと一緒に燃やされたくなると思います」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こちらを向いたＢ子は、暗がりに隠れていつもよりその不安を顕にしているように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんまり、そういうことを口に出しちゃいけません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えぇ、ごめんなさい。雨のせいかしら」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子が少し不安そうに笑うのを見て、Ｂ子が隠そうとしていた暗い気持ちが溢れ出しそうになる。彼女はそれを押しとどめようと指を滑らせて、きゅっと固く絡ませた。はっとした顔でこちらを見るＡ子に、Ｂ子は満足そうに微笑みかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子さんは、私が死んだらどうするんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。Ｂ子も、訊いちゃうのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんな風に思い詰めた顔をしていたら、私だって気になっちゃいますよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は、私と一緒に燃やされたいと言った。彼女は私が感情のないアンドロイドに連れて行かれて、モノみたいに焼却炉に投げ入れられるのを見て、どう思うのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしても死ぬのなら、私があなたを燃やしてあげる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は、Ｂ子をあの冷血なアンドロイドたちに引き渡したくはない。もしその時が来たら、百合の花が敷き詰められた棺桶に、私の手で彼女を優しく抱き入れてあげる。私の涙よりもずっと熱い炎が、綺麗なＢ子を包んですっかりかき消してしまうのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子さんに看取ってもらえるのなら、安心ですね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、私たちは死んだりしないわ。この地獄が終わるまで、終わってからも、ちゃんと二人で生きていくの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はＢ子の言葉を代弁した気になって、そうよね、と確かめると、彼女はしっかりと私の目を見て頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「手を繋いで綺麗な景色を見ながら帰るんです。絶対に」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はそう言って眼を閉じると、直に落ち着いた寝息を立て始める。Ａ子もそれを見て、呼吸を合わせながらゆっくりと瞼を下ろした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おやすみ、Ｂ子。……好き、よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天国の空には、きっと透き通るような青の水彩が引いてあるのだと思う。そうでないと、目が覚めてから隣にいるのが誰なのか分からなくなってしまうから。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>色盲</title><link href="https://ama.ne.jp/post/blind/" rel="alternate"/><published>2016-12-18T11:15:00+09:00</published><updated>2016-12-18T11:15:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2016-12-18:/post/blind/</id><summary type="html">&lt;p&gt;純粋II型概念体液は、感情に関係する概念が液体となって具現化したものです。&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;img alt="雲のある空を背景に、避雷針が取り付けられた塔が立つモノクロ写真" height="315" src="/images/blind/title.jpg" width="600"&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は私が好きだ。たぶん。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何でも持っているあのＢ子が、どうして私を好きなのかは分からないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はＡ子よりも少しだけ背が高くて、キスをする時はいつも私に合わせてかがむのだ。Ｂ子は夕陽を背にしてキスをするのがお気に入りで、彼女が私の肩を抱くたびに、綺麗な長髪のフィルターをすり抜けた透き通ったブラウンの光が私に投げかけられる。彼女が身体を揺らすとその光もゆらゆらとついて回って、目を閉じててもその様子がぼんやりと分かるから、キスの間ずっとＢ子が私の手を引いて綺麗な水の中を泳いでいるような気持ちになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し腰をかがめたＢ子は私と唇を重ね、とろとろとしたものを流し込んでくる。頭の中に広がる海は都会の空気なんかよりはずっと綺麗で、彼女はそれを口移しで私に渡すのだ。Ｂ子が甘い液体を私に注ぐたび、それは色んな所から脳味噌に染んでいって、それから身体の一つ一つがＢ子の色に書き換えられていくように感じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不思議だわ。あなたにいくら愛をあげても、私の愛はなくならないの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女がくれる愛が私の中に溜まっていって、それがＡ子とＢ子を切り離すまいとするのだ。そう信じることが、私には永遠かなにかを叶えるまじないのように思えてならなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はいつも思っている。Ａ子の目には、陽射しはどう映っているのだろうかと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女と放課後の教室で向かい合うたびに、Ａ子は私の知らない目をするのだ。私たちがいるところよりもずっと向こうを見ているような、穏やかで寂しげな視線に、私はなんだか泣きそうになる。あんなに遠くにある太陽の視線が、私よりも暖かくて優しいなら、太陽とキスしたほうがよっぽど気持ちいいと思うから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はいつも心配している。Ａ子が私から離れていったりしないかと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;綺麗なものや汚いものに心惹かれて、どこかへ行ってしまうのではないかと心配してしまう。私より気持ちいい何かに夢中になって、Ａ子の一番が私ではなくなる時がいつかやってくるのだろうか。誰かに乱暴をされて、そのまま拐かされてしまったら、Ａ子はいつまでＢ子のことを忘れられずにいられるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからいつも私はＡ子に愛を流し込んで、他の誰も入る余地がないように縛り付けているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は当然そんなこと知らないし、こんな醜い私を教えたくはない。彼女はＢ子を完璧だと言うけれど、私の心はいつもぐちゃぐちゃで、ずっと歪んだ愛で打ち震えている。相手も知れない嫉妬と絶望への妄想が過ぎる日は、彼女に与える愛よりも私に溢れる愛が多くなって、溺れ死んでしまいそうになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今だってそうだ。もっと私を見てほしい。私だけを見てほしい。私の知っているＡ子でいてほしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、Ａ子ちゃんの色が欲しいのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;抱きしめて耳元で囁くと、Ａ子の身体がぴくりと跳ねる。夕陽に浮かび上がるその笑顔には、驚きと戸惑いが混じり合っていて、でもそれが段々と無邪気な喜びで隠されていくように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子ちゃんが上になるキス、初めてかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が太陽を背にして、椅子に座ったＢ子が私を見上げる。いつもは髪を通る陽射しが、今はつやつやと輝く光の輪を作っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子ちゃんの目、とっても綺麗だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆光でよく見えなかったＢ子の瞳も、今ではその明るい茶色の台座に広がる精緻な模様の一つ一つをはっきりと手に取るようにして眺めることができる。瞳孔から放射状に浮き出た無数の筋が、宝石のように整った一つの作品を作り上げているように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、早くキスをちょうだい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子からするキスは初めてで、それほどまでに私はＢ子に寄りかかっていたのだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分の中から取り出した色を口移しでどろどろと流し込んでいくうちに、私は彼女と繋がっていくことを意識する。薄目を開けて彼女の様子を見てみると、目を瞑ったままのＢ子が頬を赤くしながら喉を動かしてこくこくと私の色を飲み込んでいくのが見えて、ひどく興奮した。首元に当たる陽光の影が、Ｂ子の鼓動に合わせて形を変えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冬の教室は寒々しくて、手や脚が心地よいほどによく冷える。身体の中から溢れ出す体液だけがただそこに、熱く流れ出していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何分かそうしているうちに、私の視界がぐらりと揺れて、たちまち世界が灰色に変わっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んっ、Ａ子ちゃん……もう、おしまい？　じゃあ、次は私の番ね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はそう言っていきなり立ち上がったかと思うと、ちう、と私の唇から何かを吸い出し始める。その不思議な感覚に思わず目を開けると、彼女もまた夕陽にきらめく瞳を私に向けていた。頭の中が何も考えられない気だるい心地よさに覆われていって、私はＢ子から目を離せない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見つめ合いながら脳味噌から無理矢理何かが引っこ抜かれる感覚に抗う――あるいは従うようにして背伸びするけれど、それは些細な抵抗で、長いキスが終わるまで唇の端からＡ子の弱々しい喘ぎ声が止むことはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はその捕食を終えると、それを口の中で何度か転がしてから、取り出して指でつまんで軽く眺めてから床に落とす。ことっ、と少し硬い音がした。色のない世界で唯一紫に光っているそれは、大きめのビー玉くらいのサイズで、青と赤が混じり合っていない部分がひときわよく輝いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あっ、と私が声を上げるより先に、Ｂ子がその綺麗なビー玉を踏みつける。それは何の抵抗もなく、ぐしゃりと溶けかけの飴玉みたいな音を立てて潰れてしまった。すっかり潰れた飴玉はもう二度とは光らずに、靴と床の間にぬるりと汚い糸を引いたっきり空気にじわりと溶け込んで消えていってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子ちゃん、私よりえっちだったのね。でも、もうこれからはこんなもの、必要ないのよ？」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あれから、私にはすっかり色が分からなくなった。灰色の世界で、Ｂ子が私の手を引いてくれる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は前より夕陽に見とれる時間が多くなったから、きっと私のプレゼントを気に入ってくれているのだろう。彼女が私を受け容れるたびに、それは彼女と混じり合って新しい色を作っていく。最後には、もはや切り離せなくなるほどにＢ子と一つになっていって、いつか私が持っていた色はこの世からなくなってしまうのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気持ちいいこともほとんどみんなＢ子が壊してしまったから、私たちのえっちは愛撫も絶頂もキスが全てになった。私たちは毎日のようにキスをして、お互いの頭の中をお互いでいっぱいにした。キスをするたびに下からどろりといやらしい体液が溢れて、そこがとろとろに解れていくけれど、もはやそれに意味はない。軽く触って、また濡れてるわ、とＢ子が軽く笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕陽に照らされるＢ子の瞳は深いグレーの輝きを一層増して、前よりもっと綺麗になった。その艶はまるで何度も丁寧にチョコレートでコーティングされているみたいで、Ｂ子とえっちするたびに舐め取って口の中でとろかしてしまいたくなる。Ｂ子はきっとそれを許してくれるけど、我慢できずに両目を食べてしまったら彼女も困るだろうと思って、やめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子ちゃん。私のこと、好き？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が私があげたその色で私のことを見ているのだと思うと、見つめ合うたびに顔が熱くなる。でも時々、思うのだ。こんな何もなくなった私でも、Ｂ子は好きでいてくれるんだろうかと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、好きよ。今までの誰よりも、これから先の誰よりも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は私が好きだ。たぶん。私はそれだけで嬉しいのに、Ｂ子がなんで泣いているのか分からない。だから私は目をつぶって、好きだよと言いながら永遠に彼女の手を引いて灰色の海を泳ぐのだ。ずーっと、遠くに向かって。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="http://www.adventar.org/calendars/1829"&gt;百合SS Advent Calendar 2016&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遅れてごめんなさい。叱るといいと思います。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>電波</title><link href="https://ama.ne.jp/post/radio/" rel="alternate"/><published>2016-12-10T09:53:00+09:00</published><updated>2016-12-10T09:53:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2016-12-10:/post/radio/</id><summary type="html">&lt;p&gt;思春期に、女の子が女の子に興味を持つのは、はしかみたいなものらしい。&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;この学園の地下には、白く光る綺麗な球体が埋まっていて、そこから不思議な電波が出ているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういう都市伝説が実しやかに囁かれるのを、先生方は良しとしなかった。当然、風紀の乱れに繋がるからだ。しばしば朝会でそういった噂に加担することのないようにと強く呼びかけられたが、数カ月もするとまた出処のしれない新たな情報が出回り始めた。無意味な情報の自然発生が、この学園ではもう少なくとも四年は続いている。四年というのは、私が附属の中学校に入学してからということだから、実際にはもっと古い歴史があるはずだ。中高生はこういう都市伝説とか、怪文書の類が大好きなのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰もが何かおかしいとは思っていたけれど、その何かを解き明かす前にみんな卒業していく。そして、後輩や先生方と仲が良かった卒業生も、文化祭にすら訪れなくなるのだ。まるで、もう学園には近づきたくないとでもいうように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;不思議な電波というのは、この都市伝説の根幹を為す古参の情報の一つである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夜になって空気が澄むと、ラジオで電波を受信できるようになって歌が聞こえてくるとか、噂にはそういうロマンチックな部分もふんだんに含ませてある。歌、という非常に曖昧なものですら――曖昧だからこそ――彼女らが噂話を楽しむには良いスパイスになる。その電波が、誰がどこに向けて、何のために放たれているかは明かさないことによって興味を引こうという算段なのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実際、この噂を本気にしたせいで、見えない何かに恐ろしさを感じて一人で学園を歩けなくなった生徒が何人かいる。過去には逆に、噂を真に受けて深夜の学校に忍び込んだ末に停学になった者もいたと聞く。とはいえ、中高一貫で長い間この学校に通う私ですら、全く噂の証拠となるようなものを見たことがないのだから、本当にただの噂に過ぎないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、思いたいのだけど。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子さん。毎日そんなオカルトに勤しんで、お疲れになりませんの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オカルトだなんて失礼な。電波を防ぐための処置だよ、御札を貼り付けるなんかよりはよっぽど科学的だと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その電波、っていうのがオカルトだって言ってるんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;謎の電波が出ているという噂で盛り上がる生徒たちにとって、彼女が転校してきたのは衝撃的な出来事だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;短髪に鉄のヘルメット姿のＢ子はあまりにも印象的で、それを目下流行りの都市伝説に結びつけようとする者も当然少なくない。出処の知れない情報を本気にした女生徒たちですら、有名な神社の御札や御守を集める程度の対策で収まっていたところに、Ｂ子は初日からピンポイントで電波の対策をしようと言わんばかりの装備で登校してきたのだから当たり前だ。どこで知ったのか、誰が知らせたのか、そこでまた無用な憶測が飛び交った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「転校してきたばかりで目立ちたいのは分かりますけれど、その無骨なヘルメットでは悪目立ちするというものですわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ヘルメットは重いから気に入らないの？　別に金属なら何でもいいんだよ。ここの電波は大量に浴びない限りは平気だから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからキミもやったほうがいい、とカバンからアルミホイルを取り出したＢ子の手を遮って、Ａ子が彼女を睨みつける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「結構です。私は都市伝説のような出処の分からない噂に振り回されたりはしませんから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「出処の分からない、ねぇ。うんうん、まぁそうだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この噂の話になると、Ｂ子はいつも曖昧な笑みになる。何か言いたいけれど言えないような、そういう迷いを込めた表情だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですわ。ですから、Ｂ子さんもみなさんを徒に怖がらせて風紀を乱すのはやめてください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私がみんなを怖がらせてるの？　それは筋違いじゃないかなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この学園の地下には、白く光る綺麗な球体が埋まっていて、そこから不思議な電波が出ている。その電波は人の思考をコントロールするために出されていて、それを大量に浴びると多かれ少なかれ脳に影響を受ける。少しずつでも長年浴びていると大きな被害を受けることもあるらしい。思想統制の内容については大体の目星はついているけれど、こればかりは確実なことが分かるまで明かせない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は大体、こんなことを言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本当にあるんだよ、白く光る綺麗な球体が。だからキミも手遅れになる前にこの学園を離れるか、ちゃんと電波を防ぐかしないと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バカなことおっしゃらないで！　いい加減にしないと、先生に言いつけますわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだ見ぬ地下の球体なるものに、えも言われぬ恐怖を覚えていることを、私は認めたくなかった。自分の中の弱い気持ちを吹き飛ばすような私の大きな声に、Ｂ子は一瞬驚いたようだったけど、それからまた掴みどころのない半端な笑顔でこう言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめん、ごめん。先生は怖いな、やめてくれる？」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;突然転校してきたＢ子を、みんなはなかなか受け入れようとしなかった。怪しいからできるだけ関わらない方がいいだとか、あんな突飛な格好の人と同じ学校だと知られるのは恥ずかしいとか。元々閉じられたお嬢様学校で新参者が入りにくいというのもあるけれど、やはりＢ子のイレギュラーさがそれに拍車をかけていたのだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私はどうしてもＢ子のことが気になって仕方なかった。だからいつも、注意をするふりをしてＢ子に声を掛け続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういうのが恋なのよと、前に茶道部の先輩が言っていた。そういうの、と言われたって、それが今の私に当てはまるかは分からない。しかし、心に何かぽかぽかとしたものが流れ込んでくるようなこの気持ちには嘘を吐けなかった。これが恋だというのなら、多分そうなのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この学園では、いわゆる女の子同士の恋愛というものがそこかしこで流行っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先生方には怒られるかもしれないけど、この学園の文化と言ってもいい。どうしてか、この学園に長く通っている女生徒たちほど熱烈に愛し合っていた。やはり、女子ばかりの環境に長く置かれているからなのだろうか。放課後の教室や、文化部棟の部室の隅、運動部棟の更衣室……気付くといろいろな場所で、うっかり立ち聞きしてしまった方が恥ずかしくなるような熱い愛を囁いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしそんな彼女らも、夏や冬の長期休みが明けるとその多くがカップルを解消していた。彼女らが本気ではなかったのか、それともお互いにもっと魅力的なパートナーを見つけたのかは分からない。ただ、夏になって燃え上がるはずの情熱が、冬になって暖め合うはずの恋慕が、一週間もするとすっかり冷えてしまうのだと口を揃えて語るのだ。一種の風土病のようなものなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思春期に、女の子が女の子に興味を持つのは、はしかみたいなものらしい。それに倣うと、この学園の女生徒たちは一斉にはしかにかかって、免疫を獲得して卒業していくのだ。知ったようなことを言っていた茶道部の先輩だって、現役の頃は可愛い部員を取っ替え引っ替え抱いては耳元で好きだと囁いていたらしいから、きっと恋とは何かと訊かれても答えられないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方で、受験生になると彼女らの恋愛関係が長く続くという話もある。休暇を返上してほぼ毎日登校し、長い戦いと共にする仲間の絆のおかげといったところか。まぁ、受験勉強を忘れて情事に励んでいるのはあまり感心しないけれど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私なら、生涯Ｂ子の隣で彼女を愛し続けられる。学校に行く度に、そんな根拠のない自信が湧いてくるような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;放課後の教室で、Ａ子がＢ子に愛を告げる。彼女は寂しそうな表情のまま、およそ共に愛を育もうという告白を受けているようには見えない。Ａ子はそれを見て、スカートの裾を軽く握った。夕陽の射す教室はもう冷え込んでいて、立ったまま彼女を待っていたＡ子の脚はすっかり冷え切ってしまっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子さん、と小さく呼びかけると、彼女は取り繕うようにしてあの笑顔をＡ子に向ける。私はその笑顔、嫌いなのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ラジオ、聞いたんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ。ちょうど、祖父の部屋にあったので、持ち出してきたんです。でも――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昼だから何も聞こえなかった。そうだよね？」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子はＡ子を抱き締めたまま、耳元で囁く。耳にかかる吐息に、時折Ａ子は身体を震わせながらその言葉を聞き取った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子。私のことが好きだって言うのなら、私のために死ねる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前です。Ｂ子さんのためなら、何だってできますわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあ、Ａ子。私はポケットから固いものを取り出して、Ａ子にそれを押し付けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私が好きなら、これで腕を切ってみせてよ。できるよね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は恐る恐るそのナイフを受け取る。しげしげとその凶器をくるくる見回してから、腕でいいんですのね、と言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その鉄帽子も冷たいですけれど、このナイフはもっと冷たく見えますわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がＡ子を抱く腕を緩めると、彼女は私から離れて受け取ったナイフを机に置く。そしてリボンを外し、上着を脱いだ。するりとブラウスから腕を抜くと、美しい肌とピンクの下着が私の目の前に晒された。精緻なレースの一つ一つがＡ子を包み込んで離さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「制服が汚れると母に叱られるんです。では、やってみせますから。見ていてくださいな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、ちゃんと見てるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が軽く頷いてから、Ａ子は軽く呼吸を整える。それは一瞬のことだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ナイフの鋭い切っ先が彼女の左前腕に当てられたかと思うと、それが一気に白い肌をなぞる。細い腕を横切るように鮮やかな線分が引かれ、そこから真っ赤な肉がちらと見え隠れする。少し遅れて、そのすぱっと切れた傷から伝わる痛覚が、彼女らしくもない濁った悲鳴を引き起こした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はＡ子の処女をＡ子自身に奪わせたのだ、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の綺麗な腕に、ふつふつと暗い赤の珠が線を浮かび上がらせる。徐々にＡ子の息が荒くなり、指が真っ白になるくらいにナイフを握り込んだ。じわり、と傷に浮かぶ血が大きくなり、とうとうそれが床に落ちる。私はどうしてか、ひと呼吸ごとに冷静になっていくような嫌な気分になった。私の情熱とか、興奮とかが全部彼女に持って行かれて、その余分な気持ちの高ぶりが彼女自身に与える痛みを増しているような気さえした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子、切ったところは痛い？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は涙を堪えながら、小さく大丈夫だと答える。まるで涙を流さずその痛みを受け入れることが愛の証拠になると言わんばかりにしている、その様子がむしろ痛々しさを強くしていた。リノリュームの床にぽつぽつと桜の花が咲いて、Ａ子の周りを彩っていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「つ、次は、何をすればいいんですの？　また、どこか、切ってみせましょうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;がっと開いた瞳孔は、彼女が自分自身に与えた痛みのせいか、それとも。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、Ａ子」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は溜息を吐いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「腕を切れと言われて切るなんて、異常だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子さんがやれと言ったのですわ。だから、私……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子は我ながら、身勝手なことを言ったなと思った。やれと言ったからやった。切れと言ったから切ったのだ。不思議そうな表情のＡ子も、まさかこんなことを言われるとは思ってもいなかったろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でもそれじゃあ、ただの傀儡だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がお願いして、彼女がそれに応えた。何もおかしなことはない。ただそれが絶対的な服従となると、愛と呼ぶには些か重すぎる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふざけてやっただけ。冗談のつもりだった。まさか本当にやるだなんて思わなかった。そんなことを言うつもりはない。Ａ子は絶対に私の命令を聞くのだろうなという、ある種の諦観である。本当なら、誰もこんな無茶をしないことになっているのだ。私みたいなイレギュラーが「実験」しない限りでは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ａ子の恋愛観は、支配と服従でできているのかい？　Ａ子は私の奴隷になりたいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことありませんわ。私はＢ子さんを尊敬していますもの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子も私に視線を返していたようだったけど、真っ黒な瞳から放たれたそれは、もはや彼女の意思を反映したものには見えない。狂気を湛える小さな深淵には、もはや尊敬の念などという人間らしいものは残っていないように見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめん、Ａ子。やっぱり私はね、あんな洗脳装置に騙されたキミを好きになることはできないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「洗脳装置？　洗脳ってなんですの、Ｂ子さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってたんだ。キミはもう手遅れだって。でも、まさか、私にだなんて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子、さん……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;首だけを傾げてＢ子を見つめるＡ子を見て、彼女は堪えていたものが溢れ出しそうになってその場に崩れ落ちる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの頃みたいに、Ｂちゃんって呼んでよ。Ａちゃんをやっと見つけたのに、こんなになってたなんて、やっぱり私、嫌だよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;くしゃりと無理に口元を歪ますけれど、いつもの曖昧な笑顔では誤魔化しきれず、Ｂ子の目の端から涙が一滴こぼれ出た。泣かないと決めていたのに。それと一緒に、我慢していたものが全部崩れていくような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そのナイフ、返して。私がもっと切ってあげるから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ！　お願いします！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は満面の笑みで、それに応えたのだろう。下からでは夕陽の逆光でよく見えなかったけれど。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;しばらくして、Ａ子は動かなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「綺麗だよ、Ａちゃん。目を閉じてると、本当にお人形さんみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言いながら倒れたＢ子の手から、からんとナイフが落ちた。そこに愛があったかは、もう誰にも分からない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;学園に寮が併設されることになったのは、その痛ましい事件があった直後のことである。それからというもの、白く光る綺麗な球体の噂もぱたりと止んでしまった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="http://www.adventar.org/calendars/1829"&gt;百合SS Advent Calendar 2016&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ストロベリィドールという血が出る百合っぽいやつがあります。&lt;a href="https://amane.im/#works"&gt;よかったら&lt;/a&gt;。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ダム</title><link href="https://ama.ne.jp/post/dam/" rel="alternate"/><published>2016-12-03T00:05:00+09:00</published><updated>2016-12-03T00:05:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2016-12-03:/post/dam/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ふふっ。したいの？　……しよっか&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;Ａ子は病室にいる。吊るされて動かない両脚と、穏やかに晴れた秋の空を見ながら目覚めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目が覚めてから、一人でいる間はずっとＢ子のことを想っていた。Ｂ子が虚空を見つめてはらはらと、袖で目尻を拭うこともなく、静かに流していた涙の意味を考えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お前は莫迦だと父親に言われた。母親はその横で女々しく泣いていた。何だってそんなにめそめそ泣いているのかと、そう訊くと母親は幾秒かの沈黙の後で、とうとう声を上げて泣き始めてしまった。その眼差しは困惑か、あるいは失望だったと思う。煩いのは嫌いなのに。泣きたいのは私とＢ子だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;担任も教頭と一緒にやってきた。若い、意志の弱そうな男の担任は、面倒事が心底厭だというのが顔に出ている。かの担任は不真面目で成績も悪いＡ子を早々に切り捨てて、受け持つ前から成績優秀なＢ子に目を掛けていた。教頭にＢ子はどうなりましたと訊くと、ぽつりと一言亡くなったよと言うから、まぁそうだろうなと、訊く前から分かっていたような顔をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子の両親は来なかった。母親は、私に気を遣って来ないのだと言う。母親はやつれていた。何も気にせずちゃんと寝たほうがいいと言おうと思ったが、また泣かれても困るのでやめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼らが、Ａ子さんの心身を鑑みて遠慮させていただきます、なんて尤もらしい理由を付けて彼らが来ない気なら、這ってでも殴られに行ってやりたい。Ｂ子が死んだのはお前のせいだ、そら、そら、何故不出来なお前だけ生き残ったのだ、と。その方が、自分が生きてると思えるから。いくら生きてる実感を与えられたって、そんなの何の役にも立たないけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はＢ子に餞の言葉を届けられないまま、とうとう一人で誕生日を迎えてしまった。彼女にはどうしてもそれが受け入れがたく、許せなかった。Ｂ子はケーキを買ってきてくれないし、蝋燭に火を点けてもくれない。私はＢ子の十六歳の誕生日をきちんと祝ったのに。Ｂ子は何をしてるんだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのテニスラケットはどうなっただろう。Ｂ子、元気かなぁ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「元気も何も、死んじゃってるんだけどね、はは」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は誰もいない病室で一人せせら笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天国があるならそれでいい。どちらにせよ、Ｂ子には会うのだ。私のことをずっと好きでいてくれるＢ子に。だから、もうこの世界に意味などなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子。天国には、宿題がないといいね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歩きながら、Ａ子はおよそこんなことを言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子がＢ子の手を引いて、車止めをすり抜けた。防寒具一つ身に付けない冬服姿の彼女たちは、突き刺さるような寒さを少しも感じさせない軽やかな歩みで天端を進んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね、Ａ子ちゃん。きっと、ないわ。大学受験もね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天端は幅にして六メートルほどで、二人で並んで歩く分には何の不自由もない。もっとも、今から死のうとする私たちには、天国へ続く道の幅が何メートルあるかなんてどうでもよいのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;無機質なＬＥＤの白い光を放つ街灯が、等間隔に並んで私たちを冷たい死へと導いていく。顔を見せたばかりの月は、抉られた半月の月明かりをダム湖の水面で静かに揺らしていた。この湖をぼんやり見ながら歩いていると、まるで橋を渡っている気分になる。そうすると、さしずめここは三途の川とでもいったところか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よく冷えた水に、深く深く、手を繋いだまま沈んでいく。そんな終わりでもいいかもしれない。水の底には冷たい死があって、私たちはそこでキスをして永遠を誓い合うのだ。ずっと、ずっと身体が沈みゆく感覚に身を任せて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;暑い夏の日に、学校を抜け出してアイスを食べた。雄大な山の景色に囲まれて、ずっと一緒だよと、何度もキスをしたのを思い出す。Ａ子のずっとと私のずっとは、いつの間にかすれ違っていた。それなら今こうやって、無理矢理にでもくっつけてしまえばいい。この狭間では何をしたっていいのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ぼーっとしてるね、Ｂ子？　どうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どどどどどどと、滝のような音が大きくなって私は我に返った。天端も中程まで来て、すぐそこで水が流れ落ちているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たち、ここで、キスしたわよね。夏の暑い日に」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はきょとんとしたような表情の後に、にやにやとして私にくるりと身体を向けた。スカートの裾がふわりと跳ねる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。したいの？　……しよっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こくっ、と頷いてから、私たちは手を繋いだままキスをした。流水の騒音に任せて、二人は好きだと言い合った。脳に直接響く声がくらくらとした甘い刺激を作り出す。見つめ合うＡ子の舌は熱くって、私の舌が火傷しそうになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「二人とも処女のまま死ぬのって、なんかすごく興奮する。そうじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;変態みたいだなと思ったけど、私まで変態になるのは嫌だから、そうねと軽く返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、私たちはどちらからともなくローファーを脱ぎ、つま先を向こうにして丁寧に揃えた。そして静かに欄干へ上り、最後にさっきより固く手を繋ぐ。決まりきった儀式のようにして。安っぽい銀色の欄干はよく冷えていて、靴下を脱いでいたら引っ付いて離れなくなっていたところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;力を込めて赤くなった掌を包み込んでくれたＡ子の手は暖くて、それだけで顔まで熱くなりそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上から見る小さな発電所が汚い緑色に光っているのを見ながら、私はこの世界からの離脱を覚悟した。死という未知に恐怖、あるいは興奮しているのも相まって、Ｂ子の膝は少し震えていた。無骨な欄干は、もはや私たちがそこに立ち続けるには心許ない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子がＡ子の掌を強く握ると、彼女も冷たく汗ばんだ私の手を優しく握り返してくれる。Ａ子はそれから、何も言わずに私の頬を撫でた。暖かかったけど、彼女の手は濡れていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私たち、今から死ぬんだよ。泣いてちゃつまらないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は慌てて、ごめんなさい、と袖で目を拭う。何度か深呼吸をして、私は自分に言い聞かせるように声を出して頷いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子の死ぬとこ、見たかったな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと綺麗なんだろうな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、Ａ子がどんな風に死ぬのか、見たかったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと綺麗に違いないわ。そして最後にもう一度と、私たちは熱い視線を交わす。漏れ出る吐息の温度を感じながら、Ｂ子はやっぱりまた涙が零れてしまいそうになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「手、離さないでね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、離さないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子もＢ子も死ぬならここだとお互いに考えていたのだろうなと、初めてここでキスをしたときからそう考えていたのだろうなと、今になってやっと思う。心臓の音が放水よりもうるさくなって、Ｂ子は吐きそうになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人は目を見てお互いに軽く頷く。身体を前へ倒すと、ふわりと足が離れた。それは一瞬のことで、その間Ａ子はずっと微笑んだままだった。私もちゃんと笑えているのかな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;重力に引かれゆく中で、ふつりと、街灯の光が消えたような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あれから一週間くらい、Ａ子の様子が変だった。私に何か言いたげで、でもどうしてかそれを躊躇っている。Ａ子はいつだって自分に素直なはずなのに。彼女はしたい時にキスをして、したい時に抱きしめるのだ。私がそれを拒まないのを知っているから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;時折Ｂ子からそうしてあげると、Ａ子は社会的な満足と肉体的な満足が一緒になったような顔をする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「Ｂ子、私と一緒に死のうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、思い詰めたような顔をして、彼女はそんなことを言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「勉強、辛いって言ってたでしょ？　助けてあげる。いつものダムで、飛び降りるの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダム、と聞いてＢ子は少しぞくりとした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;通学路の途中にダムがあって、私たちはそのダム湖を望みながら毎日通学している。湖の向こうには刑務所があって、小さい頃は刑務所の見える通学路を逃げるように通り抜けたことをよく覚えている。得体の知れない何かが確かにそこにあるという、言いようもない恐怖があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちと向こう側には湖という確かな隔絶があって、正しいことと正しくないことを二つにすっかり分けているようにも思われるのだ。だからダムの天端に立ってその狭間にいると、正しくあることもそうでないことも強いられない、何にも縛られていない私を感じられた。何をしたっていい、そう思うとＢ子は自然とＡ子に唇を重ねてしまう。Ａ子は私をよくそこへ連れて行きたがった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫よ。死ぬほどじゃないし、あなたを道連れにするつもりはないわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいから！　今夜、Ｂ子の家に行くからね、分かった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は苛々して声を荒らげる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が「テニス部を辞めて東京の大学に行く勉強をする」と用意もなくＡ子に伝えたのは、卒業しても遠距離恋愛でも頑張ろうね、だなんて甘い考えのせいではない。それでも彼女は頑張って私に着いてきてくれるだろうという期待と、私たちにはいつか終わりが来るんだと突き放そうとする気持ちが入り混じっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子は私との永遠が欲しいのだ。Ａ子は悩みながらもずっと、Ｂ子との永遠の未来をまっすぐ見つめていた。そんな彼女が無理にでも私との永遠を作り出そうというのは、素直なＡ子らしい結論だと言える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ｂ子が勉強を苦にして自殺するだなんて、彼女は当然思っていない。本当は、Ａ子だって分かっているのだ。永遠なんてないことを。Ａ子もＢ子もいつか制服を脱いで大人になることを。彼女は私が諦めた永遠を、もがき続けて手に入れようとしているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Ａ子はなんて不器用で可愛いんだろう。全力の愛に、私はいつも陶酔してしまう。だから、この期限付きの恋愛感情に任せて人生全部を彼女との永遠に捧げてしまっても、別に後悔はない。そう思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、分かったわＡ子ちゃん。ありがとうね、好きよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も好きだよ、Ｂ子。本当に、好きでたまらないの」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;校長によると、春にアンケートで「学校生活は楽しいですか」と問われた彼女たちは、二人とも「はい」と回答していた。いずれも悩みなどは書いていなかった。その一方で、二人のうち死亡した十六歳の少女は、最近になって部活を辞めたばかりだったという。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
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