<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>あまねけ！ - lily</title><link href="https://ama.ne.jp/" rel="alternate"/><link href="https://ama.ne.jp/feeds/lily.atom.xml" rel="self"/><id>https://ama.ne.jp/</id><updated>2026-09-30T23:52:00+09:00</updated><entry><title>「天使降臨計画」のひみつ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/secret-of-foa/" rel="alternate"/><published>2026-09-30T23:52:00+09:00</published><updated>2026-09-30T23:52:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2026-09-30:/post/secret-of-foa/</id><summary type="html">&lt;p&gt;FRVCTVS OSCVLO ANGELI&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;&lt;span class="norotate"&gt;/* &lt;/span&gt;この作品は&lt;a href="https://www.pixiv.net/novel/contest/kusokajitsunovel"&gt;カンロ×&lt;span class="norotate"&gt;pixiv&lt;/span&gt; 空想果実小説コンテスト 〜雲海に潜む未知の果実『フワレム』の物語〜&lt;/a&gt;に応募されています。&lt;span class="norotate"&gt; */&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;span class="norotate"&gt;/* &lt;/span&gt;この作品はまだ&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。法律で認められている範囲を超えて許可なく複製、改変、再配布することを禁じます。&lt;span class="norotate"&gt; */&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「カンダーさん、所長がお呼びです。応接室へ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;都市間定期輸送&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;メトロカーゴ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の仕事を終えて執務室で航行日誌を書いていたエルナ・カンダーは、急な呼び出しに怪訝そうな顔で振り向く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこに立っていたのは癖っぽい赤毛の女性で、機械油の染みもないよく手入れされた紺色のデイドレスを着ているところを見れば、きっと秘書室所属の新人だろうというのは分かったが、エルナはまだ名前を覚えていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女はエルナが「あぁ、えぇと……」と言葉に詰まるのを見て、「先月から秘書室に入りました、フェルナーです」と言って小さく礼をする。普段は操縦席や機関室が仕事場の従業員ばかりだから、お互いに顔さえ知らないのも珍しくないし、輸送技師として貨物室を駆け回るエルナもその例に漏れなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「フェルナーさん、ありがとうございます。それで、応接室ですって？　あたし、またなんかやっちゃいました？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえ、私の方では用件まで伺っておらず……すみません。しかし、かなりお急ぎのようでした」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの部屋、キラキラしてて苦手なんだよなー……ま、いいや。すぐ行きますね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日誌の所見欄に「寒すぎる冬のバッテリーの安定性について」と書きかけていたエルナは、何度かペン先を遊ばせて「んー……」と呟いたのち、「※ブレンナーさんの緊急招集にて今日は中断！」と書き添えて席を立った。普段なら執務室のソファに従業員を集めてスケジュールや雑談で賑やかにしている所長が、わざわざ離れた応接室に呼び出したとなると、いいニュースではない気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナにも心当たりがないわけではなかった――この前、郵便輸送が濃霧で遅れた件？　それとも、輸送中に正体不明の宝石が爆発した件？　確かに、あたしが気を付けてればなんとかなったかもしれないけど……まさか、クビなんて言われないよね？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は足取りが重いままひんやりとした廊下を進んで、応接室の前で小さく息を吸った。スズランとヤドリギの細やかな彫刻が施された黒いドアをノックすると、堅く締まったオーク材の重い音が響く。しかし、しばらく待っても中から返事はない。さらにもう一度ノックすると、今度は勢いよくドアが開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すみません……って、マルセル？　オスカーさんも。何でここに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「仕事の話に決まってるだろう。いや、エルナは初めてだったか……特殊輸送のブリーフィングだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オレも初めてっす！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おぉ、エルン。早かったね。座って待っててくれるかい？　資料の準備がまだでね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……はい、ブレンナーさん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;所長室に繋がる内扉から顔を出したワークジャケット姿の大柄な男は、野太い声でそう伝えるとまた所長室に戻った。ヨアヒム・ブレンナーは、このセイザン空運の &lt;em&gt;社長&lt;/em&gt; である。彼は仰々しく「社長」と呼ばれるのを嫌がっていた。地元のパイロットや機関士を集めて小さな飛行場を開いたときから、定期輸送を担う大きな会社になった今でも、ずっと所長と名乗り続けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナが応接室を見回す。海外から取り寄せたキャメルヘアの絨毯が敷かれた空間には、天井からアンティークのシャンデリアが吊られており、その下には大きなソファとどっしりした一枚板のテーブルが横たわる。壁には額に入った写真が飾られてシェードランプで照らされていた。小さな整備場を背に、若き日のヨアヒムとパイロットたちが並んだ写真である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女がこの部屋に呼び出される機会といえば、勤務初日のあいさつと、輸送事故の調査か評価面談のときくらいだ。エルナは部屋を彩る調度品がいかに高級なものかは聞かされていたが、彼女にはあまり興味のないことだったし、オイルで汚れたボイラースーツで立ち入るのも居心地が悪かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな高級なソファにエルナと同じような作業着姿で座っているのは、パイロットのオスカー・ベルクと、機関士のマルセル・グレイヴである。オスカーは飛行場の創業から運行を担う物静かなベテランのパイロットで、機関士校出身の溌剌としたマルセルとは対照的な印象を受ける。どうやらオスカーのいう「特殊輸送」は、この三人で担うものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、待たせてすまないね。オズ、マルス、エルン。キミたちには、ある特別な果物の輸送を担当してもらいたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、ヨアヒムは赤いペンで輸送計画を書き込んだ航空図と、数枚の羊皮紙の束をテーブルに置いた。表紙には「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;FRVCTVS OSCVLO ANGELI&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;天使に口づけされた果実&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」とブラックレターで綴られている。若いエルナとマルセルは羊皮紙にあまり馴染みはなかったが、その厳めしい雰囲気はよく伝わった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ヨアヒム、俺は構わんが……こいつらは、まだ特殊輸送を任せるには若すぎるんじゃないか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうかもしれんな。だが、今回は経験を積むのにちょうどいい仕事なんだ。簡単に言えば……失敗してもいい輸送、ってとこだ。昔あっただろう？　えーと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、パヴロヴァの高速輸送か？　あれは大成功だったなぁ。へぇ……ははっ、そりゃ面白い！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「つまり、なんだ……プロの我々がどれだけ入念に準備しても、確実な成功は一切約束できない、とにかく難しい仕事でね。どうだい？　やるかい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人が顔を見合わせる。パヴロヴァというのは、焼き上げたメレンゲに生クリームを詰めた菓子である。今となってはケーキの輸送くらい一般的な業務に思えるが、かつては新鮮なケーキを形を崩さないまま運ぶ技術が研究されていた、と聞いたことがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空輸業界での経験は二人とも十年ほど、セイザン空運ではエルナがわずかに先輩だったが、ヨアヒムとオスカーはかれらとは比べものにならないほどの深く長い歴史を目の当たりにしてきたのである。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「二人とも、そろそろ出発の時間だ。準備はいいか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もちろん！　日が昇る前に早く出発しないと。『天使の実』が蒸発しちゃうんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こっちもだいたい大丈夫っす。低温で回転数を上げるのにちょい時間かかりそうっすね……外マジ寒いっすよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マルセルが身体を震わせるのも無理はない。かれらがセイザンから社用の軽飛行機で数時間かけてやって来たのは、寒冷地方の険しい山岳地帯であるブルーナイフだった。真夏でも霧が晴れない特異な気候から観光地としても有名だが、飛行機が降り立ったのはその濃霧地帯の中心部である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜかれらが真冬にこんな山岳地帯の奥地に来ているのか。それはもちろん、特殊輸送の荷物である「天使に口づけされた果実」を運ぶためだ。小さな貨物室は大半が耐圧の特殊な鉄製コンテナで占められていて、中には十個ほどの「天使の実」が入っているらしい。らしい、というのは、かれらがこの格納庫に辿り着いて指示のままに飛行機に乗り込んだ時点で、既にこのコンテナが載っていたからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンテナには、開放厳禁と五カ国語で大きく書かれたラベルが貼られ、ドイツ製の頑丈な南京錠がかけられている。エルナは全面の分厚いサイトグラスから中の様子を伺おうとしたが、内側が曇っていて何も見えない。「天使の実」の資料には、低温・高湿・低圧が輸送の三条件と書かれていた。バルブに付いた計器の値を見て、雲を通り抜けるときの空気と同じだと、エルナが呟く。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かれらをこの飛行機に案内したスタッフ――研究員と名乗っていた――によれば、靄が晴れて中が見えるようになったら全滅の証拠だ、という。全滅したらすぐに引き返してかまいませんから、という口調から察するに、かれは端から輸送に成功するとは思っていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし……ここから、フェルデのターミナルまで五時間弱。そこから鉄道で山を越えて、依頼主であるロゼ家の邸宅に着くのが夕方……と、工程だけを見れば、いつもの都市間定期輸送と変わらない。この輸送計画のどこに落とし穴があるのだろう。ヨアヒムにあそこまで難しいと言わせる「特殊輸送」がどんなものか、エルナは少し不安だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オスカーさん、N1スラスト問題ないっす！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「オーケー。スラストセット……エイティ・ノット……V1……VR……V2――ポジティブ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、仕事はやってくる。オスカーの合図で、「天使の実」を載せた機体が目的地へと飛び立った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ブルーナイフを離れると、あれだけ視界を覆っていた濃霧がすっかり晴れて、夜明け前の淡い瑠璃色の空が現れた。エルナが注意深く計器の値を見つめる。ほんのわずか気圧が上がり、湿度が下がった。これまでドラムにほぼまっすぐな線を引き続けていた自記記録計の腕が小さく動いて、赤く塗られたラインの側に近づく。研究員がいう低温・高湿・低圧の三条件を保てる環境の境界線ということだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;耐圧コンテナからは数本のエアチューブが伸びている。ゴム製の分厚い管に銅の編組が巻き付けられた耐久性の高いチューブに、カタログでしか見たことのないような産業用の冷却装置や減圧器、それに加えて最新型のレギュレータが備えられているのを見て、エルナは驚いていた。こんなしっかりしたコンテナで冷却と減圧を繰り返しても、「天使の実」はせいぜい十二時間ほどしか保存できないらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナさん、大丈夫っすか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、うん……大丈夫。でも、この飛行機、いちいち設備が高級すぎて……マルセルもそう思わない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうっすよね。主翼の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;除氷機構&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ラバーブーツ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も最新式だったし、機体も少し古いっすけど、たぶんハインケルの開発機っすもん。こんな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;私設格納庫&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;プライベートハンガー&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;まで持ってるなんて、きっとすごい金持ちなんすね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お金持ち、ねぇ……まぁ、あの大商会のロゼ家だし、それはそうなんだろうけど。なーんか引っかかるのよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナがまたコンテナを覗き込む。中の靄がわずかに晴れて、ぼんやりと赤くて丸い塊の姿が見えた気がした。まるで危篤の入院患者のように全身にチューブを繋がれて、刻一刻と変わりゆく温度と気圧に目を向けないと、いつの間にか蒸発してしまう。その上、あたしたちはこの小さなサイトグラス越しにしか状態を確認できないなんて、確かに普段の仕事とは全く違っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とある研究所が雲の中でその果実を発見してから、市場に流通するようになるまでの十数年の間、秘密裏に「天使に口づけされた果実」と呼ばれていた貴重な植物――今ではフワレムという名前でよく知られているが、この時点でロゼ家の「天使降臨計画」を把握しているのは、限られたほんの数人だけだった。世界初の輸送の試みに従事するかれらでさえ、その姿を見ることは許されなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;ブルーナイフを発って二時間ほど。計器の監視と減圧器の調整を繰り返す。外から見れば退屈な作業に感じるが、エルナは自分が担当する荷物に向き合うのが好きだった。その来歴や特徴を今の条件と照らして、最適な状態で輸送工程を管理する。昔から飛行機が好きだった彼女にとっては、比較的女性の多い輸送技師を目指すのがほぼ唯一の道だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナがサイトグラスを覗き込む。さっきより窓の靄が強くなっていて、今度はその赤い輪郭さえも見えない。生きてるみたいだ、と思った。雲の中で生まれたという「天使の実」の話を聞いて、彼女は自由に空を飛び回る羽根の付いた果実を想像した。遠い南国では、空を飛んで種を広げる果物の伝承があった気がする――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おっと、少し気圧が……でも、減圧器のポンプは最大だし、温度をちょっと上げて空気を追い出せば自然に下がるはず……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プシッ、とコンテナの調整弁から霧が吹き出す。その霧からは甘酸っぱい香りが漂って、エルナは密かに喉を鳴らした。自分では直接見ることもできない特別な果物。依頼主はこの「天使の実」をどう食べるんだろう。こんなにお金と人手をかけてまで食べたい果物なのだから、よほど美味に違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナはその香りを味わいながら気圧の変化を見守っていたが、その果実の芳香がかき消えてもなお、一瞬だけわずかに下がった気圧はまた徐々に上がり始めた。じわじわと上限に近づく気圧の記録を見ながら、何度か減圧器のバルブを操作してみたが、針の動きは全く変わらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サイトグラスを覗き込む。うっすらとした赤い輪郭と一緒に、表面のペールイエローのつやまでが彼女の目に届いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;緊急事態だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ちょっと、マルセル。外気温と気圧を見てくれない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ここ三十分ほど、変化なしっすね。気温はこれから上がるはずっすけど……なにかあったんすか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきからコンテナの気圧の上がり方が激しくて、そろそろ危険域なのよ。外気温の影響があるか、も……って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこまで言ったあたりで、エルナがやっと減圧器の異常に気付く。オレンジ色のランプが点灯して、バッテリー電圧の低下を示していたのだ。当たり前だ。これでは減圧機能はほとんど使えない。いつもならすぐ気付くはずなのに……と、エルナは大きく息を吸って自分の頬を叩いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめん。バッテリーが切れてたみたい。でも……予備のバッテリーなんてなかったよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー……なるほどっす。これ、どうしたらいいっすかね……オスカーさん！　非常用のバッテリーとかないっすか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「視覚信号と無線用の小さなものはあるが……せいぜい三十分くらいの延命にしかならんだろう。たぶん、安全域を削ってでも積載を減らしたかったんだろうな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう、なんですね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;機内に重い沈黙が流れる。出発したときは確かにバッテリーは&lt;span class="rensuji"&gt;100&lt;/span&gt;%を示していたはずだけど、そんなことを言い張っても意味がない。きっと、ブルーナイフの安定した環境での動作より負荷がかかるのだ。予備バッテリーを持ってこなかったのはあたしの責任だ。でも、そんなことを言い出して謝っても、やっぱり意味がない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『天使の実』の全滅を確認したら引き返す。依頼主との合意は変わらないんだ。別に、エルナだけの責任じゃないさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうっすよ！　ブレンナーさんもダメ元って言ってたじゃないっすか。だからエルナさん、そんなヘコんだ顔しないでほしいっす」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あたし別にそんな顔……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;していない、とも言い切れない。こみあげる涙にエルナの思考が流されて、諦めに向かって逃げていく。泣きたくはなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の彼女にできることは、減圧器の操作とバルブの調整くらいだ。バッテリーさえあればどうにかなったはずだけど、上空二千メートルでは何もできない。やっぱり、諦めて引き返すしか……と、頭を抱えて外を見つめるエルナの目に、ずっと遠くまで広がる波打つ雲が映る。「天使の実」のふるさと……かれらが自由に飛び回る自然――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……そうだ！　今から雲に入るのはどう？　新鮮な雲をコンテナに取り込めれば、どうにか地上まで耐えられるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナ、お前はいつもそうやって無茶ばかり……マルセル、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;気化器&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;キャブレター&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の温度と、スロットルの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;健全性&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ヘルス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、三十分くらいなら余裕っす！　エンジンもほぼ新品だし、ウチの機体よりよっぽど丈夫っすよコイツ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元気よく返事するマルセルの勢いに、オスカーは若き日の自分を重ねていた。初めて任されたパヴロヴァの高速輸送を思い出すと、自分が何でもできると思っていたあの頃の情熱が戻ってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうか。ここから三千メートル上昇するのに十五分……ギリギリだな。上層雲を数十秒で通り抜けて、『天使の実』に雲の冷気を取り込む……チャンスは一回だけ。エルナ、それでいいか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ありがとう！　すぐ準備するわ！　マルセルもバルブの調整手伝ってね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……しかし、本当に大丈夫なんだろうな。いくら丈夫って言っても、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;過給器&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ターボ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も付いてない型落ちじゃないか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう落ち着いた様子で呟くオスカーだったが、その鼓動は徐々に高鳴っていた。この設計の機体で五千メートルまで上昇するのは、失速の危険を伴うギリギリの飛行である。彼ほどのベテランであっても、確実な成功は一切約束できない、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「マルセルー！　予備のチラーを持ってきて。外に繋ぐエアチューブもお願い」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はいはーい。今行くっすよー」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「慌ただしくなってきたな。よし、俺ももう一踏ん張りしないと……！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;オスカーが操縦桿を握る力が強くなる。グッ……と機首が急上昇するのに合わせて、三人の身体が強い重力で引かれる。そうそう、全身で飛行機を受け止めるこの感じだ……二人に気付かれないように目を輝かせる若き日のオスカーが、ぐんぐんと雲に向かって加速していく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その間、エルナとマルセルは緊急用の吸排気口にエアチューブを伸ばして、「天使の実」のコンテナに雲を取り込む準備を進めていた。飛行機のハッチとエアチューブのバルブを開ければ、耐圧コンテナ内部が雲と同じ環境になるはずだ。吸気と排気を同時に開始して、同時に完了する。気圧変化を抑えるには、二人の息を合わせる必要があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナ！　マルセル！　もうじき雲に突っ込むぞ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい！　マルセル、まずはバルブを開いて。バルブ、オープン」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バルブ、オープン」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、次は……ハッチ開放まで、3、2、1……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「ハッチ、オープン」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シュン……と小さな音を立てて、気圧計の針が大きく下がる。二人はハッチに手をかけたまま、温度と湿度も理想圏まで近づくのを見守った。コンテナ内がすっかり雲の空気と入れ替わったのを見て、二人はまた「「ハッチ、クローズ」」とコンテナを雲から切り離した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エンジンの推進力が下がってる……おい、もう降りていいか！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気圧……回復しました！　温湿度も十分です！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よし、作戦終了だ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雲の底をかすめた機体が、再び地上に向かって降下し始める。フェルデへの到着まではあと三時間ほどという状況だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;無事にフェルデまで到着した三人は、駅で待機していたロゼ家の使用人に「天使の実」が入った耐圧コンテナを引き渡した。機体への給油と冷却装置や減圧器のバッテリーを交換して、オスカーとマルセルの仕事はここで終わりである。ここからは、エルナが一人で輸送中のコンテナを監視することになっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『天使の実』、一口くらいもらえるといいっすね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんな貴重な果物、ただの輸送係に分けてもらえるわけないでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ははっ、エルナならやりかねんな。ほら、会社に戻るぞマルセル」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「了解っす。じゃ……エルナさん、頑張ってくださいっす！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人と別れたエルナは、使用人と共にコンテナを引いてプラットホームに向かう。飛行機が専門のかれらと違って、彼女の仕事場は鉄道輸送の現場にもあった。どうやら貨物車を一台丸ごと借りているらしく、空っぽの車両にコンテナを積み込むと、やっと数人が乗り込める程度の隙間しか残らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フェルデからロゼ家の邸宅があるヴァルモンまで、また大きな山岳地帯を越えていく。ブルーナイフほどではなかったが、この季節ならコンテナに余計な負荷を与えずに運べるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなた、セイザン空運の輸送技師ですわよね。随分と遅いんでなくって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナが貨物車を降りて周囲を見回していると、落ち着いた臙脂色のカシミヤコートを羽織り、大きなボンネットハットを被った若い女性が現れる。ロゼ家の娘だろう。さっきの使用人がエルナの到着を伝えたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。カンダーといいます。その……空輸中に少しトラブルがありまして」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言い訳は聞きたくありませんわ。出発時刻ギリギリなんですから、早く貨物車にお乗りなさいな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナはその口調にむっとしたが、到着予定時刻から遅れてしまったのは確かだ。彼女は返事もせず、黙ったまま貨物車に乗り込んだ。別に今日からここで働くわけでもないし、これくらいの客なら普段の仕事でも慣れっこだ……と思っていると、彼女の後ろをついてロゼ家の娘が乗り込んできた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;貨物車の扉を閉めると、中を照らすのは鎧戸から漏れるわずかな光だけになる。彼女は工具箱から作業用のハリケーンランタンを取り出して、さっと火をつけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄暗い貨物車の中で、彼女は耐圧コンテナの様子をぐるりと見回す。興味深そうに自記記録計の動きを追ったり、減圧器の計器をなぞって「ふむふむ」と小さく頷いた。それから、サイトグラスに顔を近づけてコンテナを覗き込む。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「カンダーさん。中の様子が見えないようですけれど、問題ございませんの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「内部で雲の内部に近い環境を保っておりますので。むしろ健康な状態なんですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。それならよろしいですけれど。この機械、なんだか賑やかで耳が休まりませんわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「減圧器ですか？　コンテナの維持には必須でして……すみません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前言撤回。貨物室に乗り込んできて文句を言う客は初めてかもしれない。朝からずっと減圧器や冷却装置の作動音を聞いていたから、エルナにとってはうるさいと思う瞬間すらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その……輸送はこちらに任せていただいてかまいませんよ。一人でも問題ございませんので」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくしに見られていると、何か困ることでも？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうわけではございません。ただ、この貨物車にはストーブもありませんし……それに、ロゼ様にはお狭いかと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、わたくしみたいな小娘では、ちょっとした寒さや狭さにも耐えられないとおっしゃるのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その……すみません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……冗談ですわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナは「そうでしたか」と答えたが、ロゼは黙ったままだ。ばつの悪い気持ちのままその場に座り込むと、ロゼもハンカチを敷いてその場に座った。エルナが計器をじっと見つめているうちに、とうとうヴァルモン行きの列車が出発する。もうロゼが客車に戻れないと分かって、エルナは小さく溜息をついた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄暗い空間の中で沈黙が流れる。その隙間を埋めるように、列車が揺れる音と減圧器のポンプの音がよく響く。計器の動きに合わせて、冷却器を少し弱める。お嬢様の相手は依頼内容にはなかったし、気にしなくてもいいだろう……と思ってエルナがあれこれ作業を続けていると、しばらく黙っていたロゼが急に口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくし、リゼットです。リゼット・ド・ロゼ。ロゼ商会の現会長、アルマン・ド・ロゼの一人娘ですわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇと、はい。短い旅になりますが、よろしくお願いいたします。リゼット嬢」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……お名前は？」「はい？」「だから、あなたのお名前。なんとおっしゃるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ……エルナです。エルナ・カンダーといいます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、エルナ！　いい響きの名前ですわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;急な自己紹介に面食らったエルナだったが、名前を聞き出そうとして自分から名乗ったのだと気付いて、急に力が抜ける。名前くらい素直に聞けばいいのに、と思うと、エルナはなんだかリゼットに親しみが湧いていた。もしかしたら、気負わず話せる歳の近い友達がいないかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナがコンテナから視線を離してリゼットに向き直る。ランプに照らされた薄暗い彼女の顔は、初めて会ったときよりも柔らかくほころんでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナさん、あなた輸送技師なのよね。どうしてこの仕事をしていらっしゃるのかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「飛行機が好きだったんです。だから、飛行機に乗る仕事がしたくて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そうなんですのね。操縦士はお志しになられませんでしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もちろん、子供の頃は憧れてましたけど……女が飛行機で働くには、このルートが定番なんですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、そんなことありませんわよ。フワレムの輸送を任されるくらい優秀な技師なんですもの。操縦士の道だってすぐに開けるに決まっておりますわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別に、輸送技師を目指したことを後悔しているわけじゃない。確かに子供の頃は自分の操縦で自由に空を飛び回るのに憧れていたけど、子供の頃の夢が叶わないのなんてありふれたことだ。男だって、女だって――しかし、それよりも気になることがあった。リゼットの「フワレム」という言葉に思考を追い出されて、エルナは思わず聞き返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……フワレム？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、知らなかったのかしら？　フワレム……この果物の名前ですわ。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;FRVCTVS OSCVLO ANGELI&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;天使に口づけされた果実&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;……という異名もありますけれど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、それならここに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナが会社で渡された羊皮紙の資料を取り出して、ランプの下で表紙の文字をそっとなぞる。三人が飛行機の中で「天使の実」と呼んでいた果物のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう。あなたが運んでいる果物は、フワレムと申しますのよ。きっと覚えておいて。数年後に必ず……びっくりするはずですわ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「……なかなか出発しませんね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フワレムが入ったコンテナを載せたヴァルモン行きの列車は山頂近くまで順調に進んでいたが、途中のモンセル駅に停車したまま十五分ほどが経っていた。この山を越えればセイザン空運の特殊輸送はほぼ完了という目前のところで、フワレムの寿命が徐々に終わりに近づいていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何かあったのかしら？　ちょっと見てきますわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「危ないですよ。それでしたら私が……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナはフワレムを見るのが仕事でしょう？　ここで待っていらして！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、リゼットが勢いよく貨物車の扉を開ける。彼女たちの目の前には、数メートル先も見通せないほどの濃霧が広がっていた。エルナも立ち上がって貨物車から身を乗り出すと、思わず「あぁ、そんな……」と呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくし、車掌に早く出発するよう直接お話ししてまいりますわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……ちょ、ちょっと！　リゼット嬢！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;制止も虚しく、貨物車から飛び降りたリゼットが車掌車に駆けていった。おてんばなお嬢様の後ろ姿はすぐに霧の中に消え去って、エルナの溜息だけが残った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車両に戻ったエルナが、自記記録計の変化を眺める。温度と湿度はわずかな揺れを示しながらも、ほぼ横ばいで進んでいた。山頂近くで停車したのは不幸中の幸いというところだろう。実際、鎧戸から漏れる空気は重くひんやりとしていて、フワレムの保管に向くというブルーナイフに似ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、問題は気圧だった。特製の耐圧コンテナとはいえ、この大きな箱を完全に密閉できるわけではない。減圧器で圧力の上昇をある程度抑えることはできても、最後には危険域を迎えてしまう。このまま霧が晴れるまで運行が止まっていれば、遅かれ早かれフワレムは寿命を迎えてしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「せめて、また雲に突っ込めれば……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、飛行機での輸送中にエルナが見つけたフワレムに雲を取り込んで安定させる方法は、後に最初期のフワレムの安定輸送で非常に役立つことになる。もちろん今の彼女はそんなことを知る由もないし、いずれにしても鉄道輸送では無力だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そわそわと歩き回って減圧する策を考えているうちに、リゼットがとぼとぼと弱々しい歩みで戻ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナ……あの車掌ったら、今日はここで運行を中止すると言って聞きませんの。どうか、お許しになって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大丈夫ですよ、リゼット嬢。危ないですから、早く貨物車に戻ってください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;貨物車のはしごに脚をかけるリゼットに、エルナが手を差し伸べる。「よろしくってよ」と彼女の手をぐっと引いて中に戻る。扉を閉めると、また小さく薄暗い闇に包まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「念のため、駅の電報を借りて迎えの者を呼びましたの。列車が動かなくても、なんとか間に合うかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえ……どれだけ条件が良くても、あと数時間で気圧が上がりきってしまいます。この霧を抜ければ、温度や湿度も安定していられないでしょうし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「つまり……全滅、ということでございますの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えぇ。このままでは、確実に蒸発してしまいます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、なんてこと！　エルナは優秀な輸送技師なのでしょう？　なんとかなりませんの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;優秀な輸送技師。リゼットの言葉がエルナに突き刺さる。彼女は本当にエルナを信じてそう言っているはずだが、一度はフワレムの輸送を失敗しかけたエルナにとっては重圧でしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リゼットの視線に応えるように、意味はないと分かりつつも減圧器の出力を上げる。先ほどまでのようにバッテリーが急速に減ることはなかったが、気圧が下降するわけでもない。エルナは徐々に気圧が下がりにくくなっている現象には気付いていたが、その原因はまだ見当も付かなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鎧戸の隙間から外を覗き込むと、徐々に霧が晴れていくのが目に入る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなの普段の仕事と変わらない、たった十時間ほどの輸送だと思っていた自分が嫌になる。あのぼんやりとした不安を放置したままブルーナイフを出発した自分が嫌になる。ブルーナイフから氷の塊を持ち出してくれば、このコンテナを冷やして圧力を下げられたかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、もう手遅れだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まだやれる、こと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですわ。まだできることが――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まだやれることなんて……もう、ありませんよ。もう、無理なんです！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう叫ぶエルナを、リゼットが驚いた顔で見つめる。あー……あたし、また泣いてるんだ。やだなぁ。薄暗い貨物車の空気に隠れるように、エルナはリゼットから逃げるように後ろを向く。あたしなんて、自由に空を飛ぶことばかり考えてるだけで、なんにも上手く――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナ……わたくしはあなたのこれまでの励み、重々承知しているつもりですわ。これほど熟練の輸送技師の手を煩わせる荷物なのですから、これ以上は無駄な足掻きというものでしょう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しかし、それではフワレムが……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立ち上がったリゼットが、振り向いてそう言いかけたエルナの手を引く。そして、不敵な笑みを浮かべながら、エルナの顔を見上げてこう宣言した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、ですから……フワレムの輸送計画は、わたくしの名の下で破棄いたしますわ。ここにある一切の荷物は、もうロゼ家に届ける必要はございません」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;リゼットは懐からロゼ家の野薔薇と蝋燭の紋章が刻まれた鍵を取り出して、コンテナを開けるように言った。ブルーナイフで厳重に保管されている鍵と、リゼットが肌身離さず持ち歩く鍵。フワレムの全てを握る権利が彼女の手の中にあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リゼット嬢……本当にここで食べるんですか？　フワレムを」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、このまま蒸発するのを待てとおっしゃるの？　大変希少な果実でございますのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それは……そうですが」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「では、これならどうかしら。輸送技師の目線から見て、放っておけば朽ち果てるのを待つばかりの果実……いったいどのように扱うとよろしくて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;輸送技師の目線、だなんて。澄ました顔でエルナにそう尋ねるリゼットが、言いよどむエルナの答えを待たずに「冗談ですわ」と笑ってみせると、エルナが「面白くないです」「あら、面白いわ」「緊急事態なんですよ？」「じゃあ、エルナは食べたくないとおっしゃるの？」「……食べますけど」と返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リゼットは一拍おいて、またエルナに語りかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エルナ。わたくし、この『フワレム』は生きていると……そう思うのです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう……ですね。私も、雲の中を自由に飛び回っていたんじゃないかって、思ってました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ですから、今日は空に帰りたいと……そう言っているのでしょう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空へ帰りたい。この特殊輸送に必死になっていたときは思い至ることもなかった想像が、背中の荷が下りた今となってはしっくりきていた。呼吸するようにサイトグラスを曇らせるフワレムたちは、鉄のコンテナの中でどんな気持ちだったろう。それならせめて、残ったフワレムを食べてあげるのがせめてもの供養になるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それに、将来ロゼ商会の看板商品になるやもしれない果物を玩味するのも、重要な仕事でなくって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……売り払うんですか、フワレムを」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、そんな乱暴に言わないでちょうだい。ロゼ商会では、このフワレムを地上で栽培する計画を進めておりますのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「栽培ですって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですわ。天使降臨計画。天使の果実を、人間の手に収める壮大な計画……その第一歩が、今ここにございますのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、雲の中に飛行機を飛ばしてフワレムを採集したり、遠い寒冷地の山奥に保管して輸送する手間をすっ飛ばして、安価にフワレムを流通させようというわけだ。フワレムを地面に植える種だとすれば、確かに今ここがまさに第一歩である。農産物の加工やら輸出入まで手広く担っているロゼ商会らしい着眼点だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナは早朝からここまで自らが運んできたコンテナと、その壮大な計画が交わるその瞬間に、思わず息を呑んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この子たちはきっと、まだ空にいたいと願ったのでしょう。でも、次はきっと首尾よく持ち帰れますわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「地上に来たいフワレムなんて……いるんでしょうか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、エルナも空に憧れているんでしょう？　それなら……地上に憧れるフワレムも、きっといるはずですわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただのこじつけだ、とエルナは思った。でも、ロゼ家なら……リゼットならきっと、やると言い切ったことはやってのけるのだろう。エルナはほぅ、と小さく息を漏らして、リゼットの顔を見つめた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さぁ、このような冴えないお話はおしまいにいたしましょう。コンテナの操作はお任せしてよろしくって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ……では、開けますね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナがバルブに手を伸ばす。湿度がちょっと下がったくらいで、気圧がちょっと上がったくらいで一喜一憂していた一日が、これで終わる。フワレムに雲を与えたまま地上に輸送するためのコンテナが、今はもうフワレムを閉じ込める牢屋にしか見えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「レギュレータ……ロックアウト。冷却装置……ロックアウト。減圧器……ロックアウト。残圧除去……よし。あとは、コンテナの調整弁を開放すれば、コンテナを開けられます」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナがコンテナに繋がる全ての機器の電源を落とすと、貨物車の中にいきなり静寂が訪れる。山の中で止まってしまった列車には、わずかな風の音しか流れない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、お願い」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リゼットの返事に合わせてバルブを開く。大きな音を立てて白い霧が吹き出して、狭い貨物車に甘酸っぱい匂いが充満していく。他のどんな果物より甘いような、しかし爽やかな酸味も抜けていくような強烈な香りに、二人は顔を見合わせた。身体がとろける心地がして、腕が重い。飛行機の中でエルナが喉を鳴らしたあの香りが、もっと近くに迫っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナが貨物車の扉を開ける。フワレムがまとっていた空気が外へ逃げていくと、強い香りでぼんやりとした頭にはっきりと意識が戻ってくるのが分かった。もう霧はほとんど晴れていて、山の向こうには青空と混ざった淡いピンク色のヴィーナスベルトが見えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あそこに、フワレムのふるさとがあるんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「リゼット嬢、鍵を」「分かりましたわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リゼットが差し込んだ鍵を回すと、大きな南京錠が小気味よい音を響かせてつるが外れる。扉にかかったラッチを外すと、滑るようにコンテナが口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エルナが中を覗き込む。コンテナの中に十個ほど並べられていたはずのフワレムは、その仰々しい銀製の台座を残してそのほとんどが姿を消していた。そして、中央に残ったただ一つの果実だけが、今にも消え去ってしまいそうなペールイエローの果皮を空気に溶け込ませながら、彼女たちの前に横たわっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;息を殺して台座を取り上げたエルナが、恭しくリゼットにフワレムを差し出す。手に載せたフワレムはまるで生きているように揺らめいて、剥いたそばから果皮がきらめいて空に向かって蒸発していく。手のひらが濡れているような感覚は、熱を奪いながら消えていく独特の結晶構造のせいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フワレムの赤い果肉にかじりつく。ヴィーナスベルトに照らされた雲を集めたような食感と、冬の霜のように冷たく、太陽を集めた南国の果実のように甘く、人類が初めて出会った果実のように酸っぱいその味に、リゼットは「確かに、天使の果実ね」と言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと顔を上げたリゼットが、フワレムを見つめるエルナの視線に気付く。リゼットは愛おしそうに微笑むと、半分残ったフワレムをエルナの口に寄せてそっと放り込んだ。ヴィーナスベルトと赤い実の端が重なってきらりと輝いて、エルナの口の中にもあの甘く酸っぱい天使の味が広がっていく。列車はまだ出発しそうにない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが、地上で初めてフワレムを口にしたと語られる二人の顛末である。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>せんぱいと黒い羽毛と</title><link href="https://ama.ne.jp/post/black-camellia/" rel="alternate"/><published>2026-06-28T23:44:00+09:00</published><updated>2026-06-28T23:44:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2026-06-28:/post/black-camellia/</id><summary type="html">&lt;p&gt;また同じ部屋の中で&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この音声はVOICEPEAK 女性2で生成されており、&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。 */&lt;/p&gt;
&lt;video controls width="750" height="420" src="/images/black-camellia/black-camellia.webm" poster="/images/black-camellia/black-camellia.jpg"&gt;タイトルと本文がぼかした写真背景の上に配置されており、本文は音声に合わせて段落ごとに区切られて、紙芝居のように切り替わる&lt;/video&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;机の引き出しに鍵を挿す。鍵を回す。揺れないようにそっと引く。八角形の黒いビスケット缶が、白いハンカチを下敷きにして真ん中に置かれている。息を止める。私はその缶を両手で挟むように少し持ち上げてから、ふと気配を感じて缶を置いた。ゆっくりと引き出しを奥に戻す。おそるおそる振り返る。誰もいない。部屋の扉を開ける。やっぱり誰もいない。誰もいない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;廊下に人の姿がない代わりに、談話室の方から賑やかな声が聞こえてくる。あの授業がつまらなかった、この先生が面白かった、あの後輩が生意気で、この先輩が麗しくて、あとはSNSがどうだった、とか。きっとユウコは、そんな列に混ざって消灯まで戻ってこないだろう。人の悪いところを見つけるのが得意な子。本当は私の同室にはふさわしくない。扉を閉める。常夜灯に落とす。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デスクマットに黒い缶を置く。八角形の蓋に描かれた花椿が正対するように右に回す。もう少し左に回す。初めのままでよかった。この缶も先輩にいただいたものだ。ずっと前に。坂の下のコンビニでは絶対に売っていないような、素朴で甘いビスケット。手のひらにころころ転がしてじっと見つめる。花椿のしなやかな線が浮き上がる。ひっくり返す。またじっと見つめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩は黒髪が素敵な方だった。機転が利いて、お手紙の字が丁寧で、お話がとっても面白い。去年まではこの黒い花椿に先輩とやり取りしたお手紙が何通も、何通も入っていた。お手紙をいただかなかった日は、数日前のお手紙から何ヶ月も前のお手紙を端から端まで読み返したものだ。蒸すような夏の熱帯夜に春の爽やかな空気を、冬がもう足元まで迫る秋の夕方に夏の蜃気楼を。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;花椿の缶に手をかける。空気が抜けるように蓋が離れる。甘い。香ばしくて甘い。丁寧に詰められたビスケットを表から裏までまじまじ眺めて、そっと香りを楽しむ。それから先輩のお手紙を読む。最後に、紅茶に合わせて少しずつ食べる。一日に一枚ずつ、三時間かけて二ヶ月くらい向き合った。目を瞑るとしっかり焼かれた感触と香ばしい匂いが思い浮かんで、未だに緊張する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩はあのビスケットとよく似ている。飾りっ気がなくて、しっかりと芯があって、それでいて嫌みったらしい主張の強さがない、穏やかでまっすぐなお方。つやのある真っ黒な缶に入っているのは先輩そのものだ。有名なサブレやらクッキーのようにわざとバターっぽい香りを押し出してこないのも愛おしい。先輩にはミルクの匂いは似合わない。先輩は誰のものにもならないから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;缶からすっかり外れた蓋をそっと横にずらす。わずかに残ったビスケットの香りが揺れる空気と一緒に漏れ出して、しかしすぐに錯覚だったと理解する。レジンに閉じ込めてキーホルダーに仕立てたら、この匂いも消えずに済んだだろうか。でも、分厚くて透明な膜で包まれたまま何も感じられなくなるなんて、消えてしまったのと同じだ。私が全部覚えているのと、何も変わらない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先輩からは甘い匂いがする。きっとそうだったと思う。そう覚えている。私の頭に残っているのは、このビスケットと同じ匂いだ。廊下ですれ違った先輩に平静を装って一礼した日、中庭で横に並んで話した日、長期休暇に書き溜めたお手紙を手渡しあった日、意地悪なヨシエ先輩の前でお手紙を渡した日。ビスケットの匂いと一緒に読んだお手紙に綴られた日々のこと、全部覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;缶をそっと覗き込む。息を止める。中はほとんど空っぽで、金色に塗られた壁が寂しそうに室内灯を反射する。その床のごく中心に、先輩が身を投げ出したまま転がっていた。急な山間を下る峠道をなぞった滑らかな曲線、沖合で飛沫を上げる白波のカーブを書き取った美しいライン、廃校舎の壁に沿って巻き付く蔦の力強さ。まっすぐな先輩とは違う、ありのままのもう一つの姿。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はあの時の先輩の顔を忘れられない。憧れの先輩にその黒い羽根をいただくというのは、ずっと昔にこの学校にあった古い、それは古い文化で、誰もが知っているのに触れようとしない不思議なタブーだった。だから私がお手紙でそんな話を持ち出すなんて、先輩は夢にも思わなかったはずだ。どこかの芸能人がそんな話をしてバッシングを受けたと、ユウコが教室で騒いでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あぁ、大好きな先輩の陰毛をもらうことの何が恥ずべきことか！　この部屋が広すぎるだなんて、とんでもない！　ユウコにそう詰め寄らずにいられたのは、ひとえに私の忍耐力のおかげだ。私はずっと、卒業していった先輩がくださったその羽毛に、ビスケットの甘い砂糖の香りと、控えめなバターの香りが付くのを待っている。光を当てないように、ぷつりと切れないように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;横にずらした蓋を同じ動きで缶の上に戻す。蓋を置く。空気が抜けてことり、と小さくぶつかった。私は大きく息を吐く。引き出しに敷かれたハンカチには、八角形の跡がくっきり残っていて、今日もまたその跡をなぞった。左に回す。それからもう少し右へ。これでいい。引き出しをそっと押し込んで、誰にも聞かれないように鍵を回す。消灯まではまだ時間がある。部屋は薄暗いままだ。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>おいしいイルカカレーを作るコツ♡</title><link href="https://ama.ne.jp/post/dolphin-curry/" rel="alternate"/><published>2026-04-26T19:20:00+09:00</published><updated>2026-04-26T19:20:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2026-04-26:/post/dolphin-curry/</id><summary type="html">&lt;p&gt;静岡県東部のスーパーではイルカ肉のパックが売られていることがあります&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;おいしいイルカカレーを作るコツは、たったこれだけ！&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;できるだけ新鮮なお肉を仕入れましょう。冷凍品や干物では臭みが取れないことも……&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;お肉はきちんと洗ってからアク抜きと塩ゆでしましょう。下処理をサボらないのがポイント&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;イルカ肉と相性がいい？　意外なあのスパイスをたっぷり入れて一流レストランの味に！&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;初めてイルカ肉を調理する人にありがちなのが、下処理の大切さを軽視した失敗です。知らないお肉を全て「&lt;a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%AA%E5%91%B3"&gt;鶏肉みたいな味&lt;/a&gt;」だと思う人もいますが、ミオグロビンは肉の色を決めると同時に――&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「先輩、野菜切り終わりましたけ、ど……うわ、くさっ！　料理の匂いじゃないですよ、これ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だ、だからカレーにするんだよ。大丈夫だって。ちゃんと炒めればほら……うえっ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その「大丈夫」な料理を作っていてえずくわけがない。私は野菜でいっぱいのボウルを抱えて、異臭を上げるコンロにもう一歩近づいた。メイさんは、逆手で握った木べらでやたらと鍋をかき回しては、強がる言葉とは裏腹に不安そうな視線で鍋底をきょろきょろ覗き込んでいる。まるで具材に足が生えて歩き回っているのを目で追っているみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんは弱気な表情を誤魔化すように「はははっ、ミオは心配性だなぁ。ちゃんとスーパーで売ってた肉だから大丈夫だって」と涙目で笑ってみせた。スーパーで売っていたから大丈夫なんて、自分に言い聞かせるだけの強がりみたいで逆に不安になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、結局なんの肉なんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、だからその……食用の肉だよ。ちゃんと売ってたんだから」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう院生になったんですから、スーパーで『食用肉』なんて買わないでください！　ペット用とかでしょ、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いや確かに見切り品だったけどさ……でも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水垢でくすんだステンレス鍋には虹色の皮膜がまだらに広がっていて、これまでほとんど棚に仕舞われたままだったのを物語っている。木べらだってやたら綺麗な上に輪郭もシャープなままで、ひょっとしたら今日初めて使うものなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の問いをかわす先輩の沈黙をかき消すように、ジュー……と鍋から肉の焼ける音が溢れ出る。音だけは美味しそうな鍋底をおそるおそる覗き込むと、白い脂肪を厚く備えた赤黒い角切り肉が油の上で滑っているのが一瞬だけ目に入った。見たことはないはずなのにノスタルジーを感じるような、不思議な色合いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シュワシュワと上がる湯気には、牛・豚・鶏……前に食べた熊肉の時雨煮とも違う、およそ食べ物らしくない獣臭さ、単なる見切り品の魚とも違う妙な生臭さ、鼻が痺れるケミカルな匂いが渦を巻いている。加熱された薄黄色のサラダ油に肉の臭みが溶け込んで、キッチンの隅から隅まで赤茶けた香りで覆われつつあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おかしいと思ったんですよ。先輩が料理を作ってくれるなんて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんが得意なのは、料理より大学周辺にある飲食店の情報収集で、SNSでよくバズる簡単レシピの一つさえ作ったことがない。安いストロングチューハイの違いは区別できても、牛肉と豚肉のパックを見分けるのさえ怪しい。煙草の味は分かっても、ローリエとローズマリーの使い分けは知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のお弁当に変なアドバイスしてくるところが嫌いとか、自炊できないのが悪いとか言いたいわけじゃない。そういう人ってだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「つまり、ミオだって私の味覚と嗅覚は信じてるんだろう？　じゃあ、あとはちょっと料理に慣れれば……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーはいはい、そうですね。こんな肉が美味しくなると思って炒めてるんですから、先輩はよほど天才的な嗅覚を持ってますよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに怒るなよ。料理を手伝ってくれるって言ったのはミオじゃないか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何の肉かも分からない料理を食べたいなんて、一度も言ってませんよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんはそわそわと木べらを滑らせて落ち着かない様子なのに、その口調だけはまるで完成間近の料理を仕上げるみたいに落ち着かせている。なんだってそんなに強がるのだろう。もちろん、私の眼下では正体不明の食用肉が痺れる匂いを上げて踊っているだけで、そこには料理らしさの欠片もない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まさか、このままここにカレールーを放り込んで完成だと言い張るんじゃなかろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、その話は食べるときにするからさ。まずは、この肉をどうしたらいいか一緒に考えよう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何の肉かも分かんないのに、どう料理するかを考えなきゃいけないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミオだって、この前いきなり部室でホラー映画を流し始めたじゃないか。そういうの苦手だって知ってるくせに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いきなりホラー映画流したって死にませんって」「死ぬよ、最悪ね」「死にませんって！」「死ぬってば」「ソースは？」「イットを見て心臓発作で死んだっていうニュースがアメリカで――」「それフェイクですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いきなり流したホラー映画というのは、たぶん部室に転がっていたレンタル落ちの中古DVDのことだ。涙目で強がるメイさんを宥めるのに苦労したのを思い出す。今どき「ノロイ」なんて、怖さより先に懐かしさが来るタイプの名作だと思うけど。それにしたって、大学生にもなってあんなに怖がる人は初めて見た。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんはオカルトがすこぶる苦手だ。理屈では大したことない作り話だと分かっていても、本能が「説明できない何か」を感じ取って全力で拒否するらしい。こういう映画を作っている側からすれば嬉しいだろうけど、帰宅して部屋のクリアリングが終わるまで付き添ったこっちの身にもなってほしいところだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、知ってるさ。私が言いたいのは、ホラー映画のせいで死ぬってのは随分なリアリティがあるってことだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだか、今日のメイさんと似ている気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お肉の話じゃないんですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かってるじゃないか。つまり、この肉を食べたら最悪死ぬ……いや、違う違う。間違えた」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;勢いのままに私を言い負かそうとしたメイさんは、木べらを動かす手を止めて「だからこの肉は、えーと……」と呟いたきり黙り込む。それから、うーん、と唸ってコンロの火を消した。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;メイさんと向かい合ってダイニングテーブルに座る。四人で座るには少し狭くて、二人で使うには少し大きい中途半端な広さの机。ここに古いブラウン管のテレビと古いプレーヤーでもあれば、いつもの部室とあまり変わらない設備になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらく換気したおかげで、キッチンを覆うあの異臭はもうすっかり薄れている。それでも、メイさんはまだ落ち着かない様子だった。鴨肉やマニア向けのジビエなんかよりずっと赤黒い肉の話をすると、曖昧な返事でごまかすだけだ。やっぱり、ホラー映画に慄くメイさんと少し似ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、肉を食べたり映画を見たりして死ぬか死なないかなんて、コンロに火が着いたまま言い争うようなことではなかった、と思う。でも、落ち着こうにも深呼吸一つできない匂いだったのだから仕方ない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず、ちゃんと話してください。全部教えてくれないなら、私本当に帰りますよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーと、まず……油の量が多かった、かな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それだけ？　じゃあ、油が腐ってたってことですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、そういうわけじゃないんだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩、さっきからおかしいですよ。言ってくれないなら私は食べませんからね。こんなの絶対お腹壊すもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いくら料理をしないからって、ただのサラダ油がこんな異臭を上げるほど劣化することはないだろう。古い油の酸っぱくてもたれる匂いというよりも、肉の脂に奥まで染み付いた濃い獣臭さが油に溶け出して蒸発した匂いだった。まさに彼女が隠しているその肉の匂いだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんはどうして、この肉の正体を教えてくれないのだろう。まさか、私に毒を盛ろうというわけではあるまい。自分も食べるカレーなのだから、これではただの間抜けな無理心中だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;じゃあこれが、私の――先輩と一緒に死んでもいいという――気持ちを試すためのサインだとしたら？　かつては、心中相手を探して文通する人たちの間で死に誘うための符牒が使われていたらしい。でも、お互いの実家にあいさつに行くどころか、付き合ってもいないのに？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、メイさんがどうしてもなんて言い出したら……いや、それは流石に考えすぎだ、と首を振る。どちらにしても、何も知らずに食べる理由はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はぁと溜息をつく。すっくと席を立つ。なぜか謎の肉のまま食べさせようと意地を張るメイさんも、流石に私が帰ってしまうと困るようで、テーブルに手を突いて慌てた様子で立ち上がった。イスがガタリと大きな音を立てて床を滑る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、待て待て。分かった。分かったよ。これ……実は、人魚の肉なんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人魚の肉？　何ですか、それ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;心中の誘いでも飛び出すのかと身構えていたところに、ダークメルヘンな世界からおかしな単語が飛び出して思わず聞き返してしまう。人魚の肉なんて、それがスーパーで売っていて、しかも見切り品になるまで売れ残っていたなんて信じられるわけがない。まるでホラー映画の導入みたいだ。そう、メイさんがとっても大嫌いな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって完全に信じてるわけじゃないさ。でも、袋にそう書いてあったんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変な嘘つかないでくださいよ。そんなに隠したいんですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「嘘じゃないって……ほら、袋にも書いてある」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って、メイさんがゴミ袋から半透明のビニール袋を取り出す。冷凍食品用の厚手の二層フィルム袋の表面にはラベルが貼られていて、確かに「人魚肉」と大きく印刷されていた。小さな文字で管理温度や業者の名前も書かれていたようだが、既にかすれていて見えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;霜が溶けてしっとりと湿った袋からは、鍋に立ちこめたツンとした獣臭にレバーっぽい血生臭さを足したような……これまた異臭としか表現できない匂いがした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人魚の肉だっていうなら、最初から教えてくださいよ。まぁ……そう言われても、意味は分かりませんけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「食べたくないって言われたら困るから……その、後で教えればいいと思ったんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに食べたいなら、一人で食べればいいのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ほ、ほら……人魚の肉を食べると不老不死になるって言うだろう？　そう考えると、一人で食べるのが怖く、なっちゃって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんが絞り出すような声でそう告げる。つまり、彼女が白状しているのはこういうことだ――面白半分で買った「人魚の肉」なんてジョークみたいな食材が、いざ調理しようとするとオカルトが渦巻く塊に見えてきて、食べるも捨てるも一人ではできなくなった、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その恐怖を和らげるために、一緒に食べてくれる――しかも、呼び出せばノコノコ来て疑わずにカレーを食べるような――誰かを探していたということだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも不老不死になんてなるわけがないけれど、もし仮に超自然的な呪いが本当に降りかかっても、自分一人じゃないから怖くない……なんて理屈で、恐怖を抑え込もうとしたのだ。こんな怪しい肉……一緒に食べてくれる相手を探すより、一緒に捨ててくれる相手を探す方が早いと思うけど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何より腹が立つのは、メイさんが私を一緒に食べる相手として選んだってことだ。しかも、呼んだ目的まで隠して食べさせる相手として。素直に野菜まで切っていたのがバカみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、先輩は……私を騙して不老不死になる意味不明な肉を食べさせる気だったんですか？　ひどいですよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何もここで死ぬってわけじゃない。ちょっと寿命が延びるだけだし。不老不死になっても困ることはないさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それを決めるのは私です！　勝手なサービスで寿命を延ばされたら、たまったもんじゃありません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私だって、こんな非科学的な迷信に本気で怒りたいわけじゃない。でも、鍋に転がっているのが何の肉だとしても、メイさんが私を騙して食べさせようとした事実は変わらないのだ。百歩譲って不老不死になるのを受け入れたとしても、そんな大事なことを隠すような人と一緒に不老不死になるのは、絶対に嫌だと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おいおい、本当に不老不死になるってわけじゃないのに。黙ってたのは悪かったけど、そんなに怒るなって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「不老不死になるって言ったのは先輩じゃないですか。死ぬかわりに不老不死になるってだけで、こんなの無理心中と一緒ですよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……もし本当に不老不死になったら、頼りになるのはミオだって思ったんだ。これはほんとに。嘘じゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、フォローのつもりですか？　本当に、もう……最悪です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそう呟いて下を向く。こんな謎の肉を食べたって、どうやっても不老不死になんかなるわけがない。それでも、メイさんが妙なオカルトの恐怖から逃れるために私に手を伸ばしたというなら、私たちが本当に不老不死になってもおかしくないと思う。彼女がその恐怖を信じている限りは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう意識すると、メイさんが私と心中したいのだと一瞬でも疑っていたのが恥ずかしくなる。それを気取られないように、私はメイさんを睨み付けて、またわざと大きな溜息をついた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;調理を再開した私たち（ほぼ私だけど）は、まず「人魚の肉」の下処理をやり直すことにした。表面に火が通ってくさい肉汁が閉じ込められそうになっている肉をまずは半分にカット。水洗いすると繊維の隙間から赤い血液が流れ出す。それを水を替えて何度か。一度茹でこぼしてアクを抜いた後、ほんのりした生臭さが残るので、最後に三パーセントの塩で茹でたら下処理は終わり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人魚の肉の「うま味」なんて油に溶かしたら、カレー全体にあの獣臭さが広がって取り戻せなくなる。野菜は素直に別の鍋で炒めて、水を注いで、それから肉を入れて煮始めるのが吉。市販のカレールーでは力不足と悟って、ショウガをたっぷりと、味噌を少し入れたのが一番よさそうだった。ここでタイマーストップ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんな状態の肉でも、なんとか食えるもんだなぁ。ちょっと血の匂いは残ってるけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私がちゃんと臭み抜きをやり直したからですよ。そもそも、血抜きもしないで焼き始めたのは先輩じゃないですか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやー、ごめんごめん。早く焼かないとミオに怪しまれると思って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんな匂い、怪しむなっていう方が無理ですよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度も洗って茹でこぼした人魚の肉は、半分ほどの大きさに縮んだ上に、表面がぼそぼそとして美味しそうには見えない。それでも、おそるおそる口に入れると……いかにも謎の肉っぽい、弾力のあるジビエと魚の中間っぽい味が広がる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舌の感覚に集中すると、引き出されるのはわずかに残った生臭さと血生臭さで、脂の獣臭さも抜け切っていない。それでも、カレーの味でごまかせるくらいには――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――なんか……慣れてくると食べられますね、これ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あぁ……なんか、この独特の食感も癖になるっていうか……美味い、かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「寝かせたら脂の匂いが回っちゃいそうですし、鼻が慣れてるうちに食べちゃいましょうか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうだな。盛り付けが面倒だし、鍋ごと持ってくるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カレールーを一箱の半分だけ使う、三～四人前のごく普通のレシピだ。つまり、二人でもう一杯ずつ分ければ食べきれる量になる。おそらく、その計算に間違いはなさそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私はそこで妙な感覚を覚えた。たぶん、メイさんも同じだ。キッチンに戻るメイさんに合わせて「あ、私が盛り付けますよ」と立ち上がったら、びくりと驚いて振り向いたから。まるで、私が何か企んでいるのを疑っているように。そして、彼女自身が何かを企んでいるように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなの二杯なんかじゃ足りない。美味すぎる。なんなら鍋ごと食べたい。カレーの匂いが鼻をくすぐって、まだ一口も食べていないような食欲が湧き上がってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんなに美味しいカレーで不老不死になれるなら、一石二鳥だなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気楽でいいですね。私は別に、先輩と一緒なら不老不死になってもいいですけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「へぇ。それ、告白のつもりかい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなつもりはなかったけど、口の中でもう一度言ってみると、確かに吸血鬼に告白してるみたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、メイさんは同じサークルに所属しているだけのただ仲のいい先輩で、付き合いたいだなんて一度も思ったことがなかった。どんな恋人がいたのか、どういうキスをするのか、ついでに彼女の実家がどんな玄関をしているのかも知らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、心中するよりよっぽどましだ、と思ってしまう。不老不死になったって、困るのは何十年も先のことだ。それに、メイさんと死ぬまで一緒ってわけでもないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……でも、嘘をつく人とは暮らせないんで。やっぱ無理かも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それ、百年経っても言ってたらきっと最高のギャグになるだろうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイさんがクスクスと笑いながら、温くなったカレーの鍋に火を着けた。ふつふつと小さな泡を上げながら、カレーの香りと一緒に美味しそうな獣臭さが鍋からどっと漏れ出してくる。どうしてこんな匂いを必死に取り除こうとしていたんだろうと、少しうっとりした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルに置くなら鍋敷きがいるはずだ。いくらメイさんが自炊をしないからって、トリベットでなくても鍋敷きの代わりになるタオルくらいはあるだろう。キッチンを探そうと思って辺りを見回すと、カレーをそっとかき混ぜるメイさんの足元に違和感を覚えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「先輩、足に何か付いてますよ……これ、鱗？　人魚に鱗なんてってありましたっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あるだろ、下半身は魚だもの」「そうじゃなくて」「どういう意味？」「だから、お肉の袋に入ってたんですか？」「魚っぽい部位は入ってなかったな」「じゃあなんで」「加工のときに混ざったんだろう」「人魚の加工工場で、ですか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;てっきり、東南アジアあたりではポピュラーな安い輸入肉あたりを「人魚の肉」だなんてジョークみたいに売り捌いていたのだと思っていたら、魚というのは本当だったらしい。こんなに大きな鱗だと、ちょうど人間の身長と同じくらい――ちょうど人魚と呼んでマーケティングしてもおかしくないような大きさ――かもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまで肉っぽい魚が出回っているなんて知らなかった。もっと回転寿司のネタとして話題になっていてもいいのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミオだって、指の先に何か……おや、それも鱗じゃないか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ……ほんとだ。気付きませんでした。じゃあ、袋に入ってたんですね。きっと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか爪先に乗っていた鱗を拾い上げて、メイさんの顔を透かしてみる。薄く色づいた透明なプラスチックに、年輪に似た縞模様が何周も刻まれていて、向こうの風景が水中を覗いているように歪んで見えた。指先がひんやりして、水が流れ出してくるような感覚が心地いい。鱗の向こうのメイさんが海の底で料理をしているようで、なぜだか私たちは顔を見合わせて笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;気が付くと、外はもう夜になっていた。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>高松志乃のお嬢様チャンネル1「わたくしのパンツ見てたわね！」</title><link href="https://ama.ne.jp/post/shino-takamatsu-1/" rel="alternate"/><published>2026-01-11T17:40:00+09:00</published><updated>2026-01-11T17:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2026-01-11:/post/shino-takamatsu-1/</id><summary type="html">&lt;p&gt;伝説の神回&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「貴女たち……いま、わたくしのパンツ見てたわね！　見ないでって、あんなに言ったのに！　あぁっ、信じられないわっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一日全コース貸し切りのゴルフ場に響き渡る甲高い声は、高松 志乃――紫苑女学園高等部三年で、学園内最大の社交クラブ「紫風会」の主宰――のものである。怒りに震える表情で制服のスカートの裾を押さえる彼女は、同行する周囲の生徒たちから向けられたいやらしい視線を跳ね返すように周囲を睨み付けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「志乃……？　急にどうしたの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、雅美……だって、さっきからこの方たちが、わたくしのパンツをいやらしい目で見てくるのよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;志乃が目に涙を浮かべてその腕に縋り付いたのは、彼女と長らく付き合いのある同級生の中浜 雅美である。ゆるくウェーブのかかった明るい髪色の志乃とは対照的に、ストレートの黒髪が美しく輝くクールな美少女という印象で、学園内では特にお似合いのカップルとして噂に上るほどの人気だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ゴルフ経験のほとんどない彼女が、しかも制服姿のままコースに出るのを許されているのは、ここが彼女の父によく世話になっているゴルフ場だという点が大きい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、この志乃の制服姿は彼女の忘れ物が原因というわけではなかった。当日のクラブハウスに手違いでゴルフウェアの用意が4着しかなく、どうしても誰かが制服のままコースを回らなければならなかったのだ。この会を主催する年長の志乃がその役を引き受けたのは、まさに彼女の徳から出たものだというしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんなのよ、貴女たち……黙っちゃって！　貴女たちのパンツはスコートで守られてるからって……わたくしのパンツ、見ていいわけがないでしょう？　早くお答えなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なおも怒りが収まらない志乃は、後ろで打順を待っていた後輩の生徒たちをそう問い詰める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大騒ぎしている一行だが、彼女たちはまだティーイングエリアの上である。志乃が何度かティーショットを試しただけで、ゲームは何一つ進んでいなかった。彼女の主張によれば、後ろで待つ後輩たちがスイングした拍子にスカートがめくれるのを今か今かと待っていた、ということらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いえ……私たちは、その……ねぇ、久保田？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ……私⁉　あ、章世ちゃん……えぇと、高松さま……私たち、決して見たつもりはなくて……ねぇ、小山さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠坂 &lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;章世&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あやせ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と久保田 沙樹は共に高等部二年生で、やはり紫風会の会員である。彼女たちは寮の同室で生活を送る仲の良いルームメイトであり、今日は章世のわずかなゴルフの経験が買われてこの場に招待されたという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;陸上部で活躍する章世は志乃の役に立つチャンスだと張り切っていたのだが、一方の沙樹は章世の推薦で招かれたものの、いつもは茶道部で活躍する大和撫子である。ゴルフの経験はおろか大会さえ見たこともない沙樹は、前日にその不安な気持ちを章世に漏らしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いずれにせよ、章世と沙樹は志乃が主催する会――特に高松会と呼ばれていた――に招待された名誉を喜んでいたのだが、今となっては後悔しか残っていない。彼女たちの知る志乃は、こんな鬼の形相でパンツパンツと騒ぎ立てるような人物ではなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人は誤魔化すような苦笑いを浮かべたまま、答えもはっきりとしない。実際のところ、彼女たちは志乃のパンツを見ていた――というより、見えてしまっただけだ。しかし、そうはっきり答えるには、学園内での志乃はあまりに別格の存在であった。大空の下でパンツが丸見えになっていたなどと、後輩たちの前であけすけに指摘されたのでは彼女の顔が立たない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なによ、小山が見ていたのっ⁉　あなた……はっきりおっしゃいなさいな！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……その、ですね……高松さまの、下着が……その、先ほどからずっと――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世、沙樹と背の順に並ぶ一際小柄な&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;小山&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こやま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt; 正恵も、紫風会に所属する一年生である。一年生が高松会に招待されるのは異例の扱いだったが、コーディネートと撮影を担当する二年生の岡野 &lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;一葉&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かずは&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の知り合いとして呼ばれたのだった。つまり、撮影の手伝いとプレーメンバーを兼ねて呼ばれた半ば雑用係のような立場である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女が、か細い声で志乃のみっともない様子について指摘しようというのは、志乃の格の高さがまだ正恵に染み渡っていないせいもあったが、ここは二人よりも勇気があると表現するべきだろう。事実、志乃が学園でここまで声を荒げる姿を見たことがある者はいなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「――みんな。志乃が嫌がってるから……やめてあげて」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、正恵が絞り出した勇気の声は雅美にかき消されてしまう。雅美は毅然とした表情で志乃を隠すように三人の前に立ち塞がると、彼女を守らんと言わんばかりに腕を広げた。志乃はその姿を見てはっと驚いていたが、それから小さく頷くと身を縮めてその背中に隠れて身体を小さく震わせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんでそんな真剣な顔で高松さまをかばえるんだろう。本当は何かの撮影なのかな。章世と沙樹はそれぞれそんなことを考えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくし、本当に怖くって。この方たち、本当にゴルフに興味がおありなの？　ストレッチの時から、わたくしのパンツをジロジロと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（高松さま……どうしてあんなにスカートを折ってるわけ？　移動の時は普通の丈だったんだけどな……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（あれ、別に買ったスカートを切ったんじゃない？　新品に見えるもん）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スカートの裾を強く引いて押さえる志乃だが、彼女が履いているのはなぜか、ほんの少し歩くだけで水色のサテンがきらめくショーツがチラチラと覗く超ミニスカートだった。屈んだりストレッチで脚を広げればもちろん、クラブをスイングするだけでパンツが見える。今は雅美の後ろに隠れたのでやっと見えなくなった、というだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、この三人は志乃とゴルフをプレーしてほしいと言われてここに来ただけで、クラブの主宰を務める先輩のパンツに興味があって集まったわけではない。結局、手が付けられないほど怒り狂う彼女に困惑しながら立ち尽くすしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正恵は二人の会話を聞いて、短く切ったスカートを持ってきたという案に密かに賛成した。スカートを折ってどうにかなる丈ではなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「遠坂！　久保田！　何をこそこそ話しているのっ！　わたくしのパンツがそんなに面白くて⁉」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、雅美の背中から飛び出した志乃が二人に向かって指を差してそう叫ぶ。もちろん、身体が大きく跳ねた拍子にまたパンツが見えていた。まるで走り高跳びのような流れるような動きで、するりと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえっ、なんでもありませんわ！」「章世さんにゴルフのアドバイスをいただいてましたの。おほ、おほほ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら……そう。ならいいわ。でも、そのような助言はみなさんに聞こえるようになさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;取り繕った笑顔で「はいっ！」と答えながら心の中でほっと安堵の息をつく二人の前で、志乃も呆れたように大きな溜息をつく。そして、今度はここまでカメラを回していた岡野につかつかと歩み寄った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カメラ目線でまっすぐ向かってくる志乃は、もはや強引なマスコミの取材に対峙する痴女である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この方たち、一葉がお集めになったのでしょう？　いったい、どういうおつもりなのかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はっ、はい！　遠坂にゴルフの覚えがあるというので、ご友人と共にお誘いしました。小山は私の旧知でして、手伝いを兼ねて来てもらおうかと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉はカメラに向かって話す志乃の様子をそのままに、音声だけをカメラに乗せてそう答えた。いつもプロの撮影を意識している一葉にとって、こうして無駄なライブ感が出てしまう演者との会話は、本来なら三流の振る舞いである。今日はあくまで例外だ。まさか撮影係にまで飛び火するとも思わず、ぐっと握り込むカメラの画角が少し揺れる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映像を見返すときに手ぶれがあると志乃が酔ってしまうのを思い出して、一葉はそっと脇を締めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一葉……貴女、さっきからわたくしにカメラを向けているわね？　こんなに……パンツが見えているというのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「し、しかしそれは……普段から撮れるものは撮っておけと、高松さまがいつも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ひょっとして……わたくしのこと、裏切るおつもりなの？　わたくしのパンツを撮って、あまつさえ売り捌こうだなんて……キーッ！　貴女のこと、信じていたのに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉はまた思わず「えっ！」と驚いた声を上げる。高松会の撮影では指示があるまでカメラを止めるな、と日頃から言われていた一葉だったが、そうまで言われて無用な疑いを被るわけにもいくまい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;慌ててカメラを下に下ろすと、よく整えられた芝生と志乃の足元が映り込む。綺麗な緑の絨毯の上で、志乃が怒りのあまり地団駄を踏む姿がよく映っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえっ！　そんなことは決して――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「貴女っ、どうしてカメラを止めるのっ⁉　ちゃんと撮りなさい！　裁判になったら、これが唯一の証拠になるのよっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はぁ……分かりました。では、続けさせていただきます……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これでどんな裁判を始めたところで、きっと志乃に不利な証拠になるに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜか彼女をかばう雅美はまだしも、付き合いが長いはずの一葉でさえも志乃の奇行に翻弄されている。そんな姿を見た後輩の三人の間には、どうやらこれは高松会の洗礼ではなく、ただの異常事態なのだという確信――屈折した安心感と言ってもよい――が訪れていた。地獄の中に砂丘を見つけて喜ぶようなものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あの……高松さま、そろそろゴルフの続きを……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうと決まれば、と章世が志乃のゴルフボールが飛んでいったフェアウェイ右寄りの前方を指差す。強引にコースに戻せばこの怒りも収まるかもしれない、と思ったらしい。確かに、もともとは章世が志乃や周囲の生徒にゴルフの基礎を進講しながら楽しく過ごす会、のはずだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、視線を感じるんですもの。貴女たちの、とってもいやらしい視線を！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうですね。視線が……はい。でも、コースも回らないといけませんし……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたくしだけが一人でミニスカートを履いてるのが変なのよね？　それがおかしくって、見てしまうんでしょう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いえ、高松さまがおかしいわけではないんですが、その……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一葉だってそうよ。昔はあんなにギラギラしたカメラ捌きでは、なかったもの……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;怒っていたと思ったら、急にしおらしく黙り込む。高貴な高松さまをこのまま押し込んでしまうには、どうにもばつが悪い。一歩前に出て声を上げた章世は、早くもその決断を後悔した。なにせ今の志乃は、後輩から何を進言しても被害妄想で曲解してしまうパンツモンスターである。今は一葉さえも彼女を止められない。でも、どうしたらよかったのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雅美が動くまで待つべきだったかもしれない、と策もなく黙り込む章世。そんな彼女を救うつもりか否か、再び雅美が志乃の前に立って三人に優しく語りかける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みんな、志乃の下着を盗み見るのをやめなさいと言ってるの。志乃だけじゃないわ……私からもお願いしてるのよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その言葉を聞いた志乃がうんうん、と大きく頷く。いや、中浜さまはどういうおつもりで言ってるんですか……と章世はアイアンを差し出した手をそっと下ろした。志乃はもはや扱えないと分かった中で、三人の興味は雅美が自分たちの味方なのかどうかという点に移っていた。どうしてそんなに冷静に志乃を庇えるのか……単なる幼馴染の絆と説明するのも難しいだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では、なぜ――それでも、今は雅美の助け船に乗るしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい……決して見ませんわ。お二人も、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。高松さまの下着は見ません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も……絶対見ません」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、それでいいのよ。分かってるじゃない。それで、次はどうしたらいいの？　遠坂、教えてちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまではっきりと意味不明な誓いを立てたおかげで、やっと志乃の気持ちが落ち着いてきたらしい。章世が差し出したアイアンを受け取ると、楽しそうにフェアウェイを歩き始めた。もちろん、スカートはひらひらと舞ってパンツは丸見えのままである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の球はちょうどバンカーに落ちていて、芝に抜けるバンカーショットの練習にはぴったりのシチュエーションだった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;章世はほっと胸をなで下ろして、志乃の構えに二、三つアドバイスを加えながら、バンカーの特徴やちょっとした蘊蓄を語り始める。坂を越えるための無理な構えで、先ほどよりもパンツは露わになっていたが、志乃が周りの視線さえ気にしなければ、ただテカテカの布が見えているだけだ。こうなると、いやらしくもなんともない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうそう、こういうのがやりたかったんだよね……章世と沙樹の間にも、温かく緩んだ空気が流れているのが分かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ですから、クラブを砂に付けてはいけないんです。あくまで自己申告ではありますが、紳士淑女のスポーツでして、そこはきちんとした――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね。こうやって、淑女……淑女ね……でも、貴女たちは全然淑女じゃないわね！　わたくしだけ打っているのも、隙だらけのパンツを見るためってことなの⁉　あぁっ、おかしいと思ったのよっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;……しかし、そのほんわかとした雰囲気も一瞬でかき消される。志乃は今にもボールを打とうと構えたまま静止していたアイアンをぶんと振り下ろして、バンカーの砂の上に叩き付けた。そしてまた見事な地団駄を踏む。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、紳士淑女のスポーツであるゴルフのプレー中にこんな蛮行があってはならない。できるなら、章世だって本当はきちんと注意したいところだろう。もう一度明らかにしておくが、ここは志乃の父にしっかりと世話になっているゴルフ場であり、このあと一葉と正恵がレーキでしっかりと砂を平してから先に進むので、なんとか許されているのである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世がまたなんとか志乃を宥めようと、砂に半分埋まったアイアンを取り出して手渡そうとする。しかし、彼女はその手を振り払うように再び章世に向かって叫んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきから、遠坂がわたくしの近くで一番じっくり見ていたわね！　今も下から狙うつもりで……あー、恐ろしいわっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「み、見てませんよ！　高松さまの構え方に心からアドバイスさせていただこうと……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいっ！　指導だの助言だのと、パンツをジロジロ見る言い訳ばかり。今日はルームメイトも一緒だというのに……そんな浅ましい視線を晒して、恥ずかしくないのかしら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;掘り出したアイアンを抱えて立ち上がった章世が、何やら冷たい視線の気配を感じて思わず振り向く。後ろにはルームメイトの沙樹が立っていて、ほんのりと疑念が混ざった目で彼女を見ていた。いや、そんなわけないでしょ⁉　また前を向くと志乃が睨み付けて、後ろを向くと沙樹の困惑した視線が刺さる。いたたまれなくなった彼女は、後ずさりして沙樹が並ぶ列に戻った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、すかさず沙樹が章世に耳を寄せて話し始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（ちょ、ちょっと。章世ちゃん……見てたの？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（見てないって、沙樹。いや……ずっと見えてるけど。こんなの言いがかりにしても滅茶苦茶だって……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「また……またやってる！　貴女――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「す、すみませ――」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こそこそと話していた姿をまた咎められるのだと思っていた二人は、慌てて背筋を伸ばして謝罪の言葉を述べ始めたのだが、その声は志乃の耳には入らないまま空に吸い込まれる。彼女の指先は意外な方向を向いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり！　雅美も、わたくしのパンツ見てるっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「い、いや……私は、別に……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、雅美にだけは……本当のことを言ってほしいの。わたくし……ぐすっ、パンツを見たのを謝ってほしいわけじゃないわ。うぅ……見たのか、見てないのかだけ……知りたいだけ。ですから……ね？　後生ですから、ちゃんと教えてちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんでここで泣けるんだよ。章世と沙樹は、涙ぐんだ声で雅美に縋り付いて彼女を見上げる志乃の姿を見て、自分たちはこの高度すぎるデートを見せつけるためだけに呼ばれたのではないか、と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうでもなければ、志乃が幅の広いリボンを腰に巻き付けたのと変わらないスカートを履いて、あまつさえ髪を振り乱して怒り狂う理由を説明できなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方の正恵は、そんな短いスカートを履いておいてよく自分のパンツにそこまで感情移入できるものだと、なんだか明後日の方向に感心していた。ここでは最も年下の彼女には、普段は話すこともない志乃が全く異なる思考回路を持っているとしか思えなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とうとう志乃の無茶な追及の犠牲になった雅美はしばらく黙っていたが、一葉のカメラと後輩三人の視線を向けられて、とうとう決心が付いたように口を開いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……その……そうね。私も……志乃のパンツを見たわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あああああやっぱり見てるっ！　幼稚部から知ってる女の子のパンツ見て、いやらしい気持ちになってる！　幼稚園児のパンチラ想像してるっ！　このロリコン！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;雅美の振り絞った答えに割り込んで叫び出す志乃だったが、雅美はバンカーで暴れる幼馴染の姿に慌てる様子もない。志乃が矢継ぎ早に畳みかけたあと、さらにたっぷり沈黙が流れて、やっとまた言葉を返した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「志乃……私、この学園には中学から入ったのだけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、そうだったかしら……もう幼馴染みたいな仲なんだから、幼稚部から一緒ってことにしときなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えぇ、分かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この二人って幼馴染じゃないのかよ。そして何が分かったんだよ。ゴシップにもならないどうでもいいトリビアだったが、それを聞いた章世は思わず力が抜けてその場にへたり込んでしまった。隣の沙樹にも、もはや章世の腕を支えてあげるような元気はない。その横で正恵は、雅美の沈黙の使い方に深く感心して小さく頷いていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;それから志乃をなんとか宥めて、バンカーでのプレーを一通り終えた彼女たちは、一度コース内の休憩所で身体を休めることにした。志乃はお花を摘みに行くと言ってこの場を離れていたが、休憩所のテーブルでは彼女のスカートの違和感について話す者はいない。もちろん、志乃がこの会話をいつどこで聞いているか分からなかったからである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みなさん、すっかりお疲れみたいですわね。……あら遠坂、何か気になることでもあった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……いえ。高松さまのお美しさに、目を奪われていただけですわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうでしたの？　しかし、わたくしなんてまだまだ道も半ばですわ。おーっほっほっほ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;休憩所に戻ってきた志乃は、なぜか制服の胸がパンパンに盛り上がっていた。どうも、トイレで胸に布かスポンジを詰めて戻ってきたらしい。ここまで来ると誰にも理由は分からないが、同じように誰も気にする様子はなかった。未だに目の前でパンツが晒され続けているのに比べれば、大したことではなかったからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あとはパッティングだけですから、もう少し頑張りましょうね。久保田、小山」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、頑張ります！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女はそう告げると、四人が座るテーブルとは離れたベンチに腰を下ろす。まだ空いている椅子は残っているのに、と志乃に視線を向けると――彼女は大股を開いてスカートの中が丸見えになっていた。パンツが見えている、なんてこれまでの生ぬるい事故ではなく、巨乳の痴女がパンツを見せつける事案が起きたというほかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし志乃は、自分がそんな破廉恥な姿勢で話しているとは露ほども思わない平然とした態度である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;志乃の動きに合わせて、すかさず四人の視線はそれぞれの向きに逸れていった。慌てて下を向いて笑いを堪えたのは章世と沙樹。正恵の視線は雨漏りが染みた天井の模様に。雅美は志乃の足元を漂っていたが、最後は彼女の顔を見つめることにした。もちろん、一葉のカメラはそのまま志乃のパンツに向けられたままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのねぇ、みなさん。もし朝礼で藤原先生のパンツが見えてしまったら、貴女たちはそうやって、いやらしい視線を向けるのかしら？　そんなことしたら、学園中で大きな問題になるに決まっているわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……私たちの誰かが同じように短いスカートでしたら、高松さまも見てしまいませんか？　中浜さまとか、私とか、沙樹とか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世に志乃を説得しようというやる気が残っているのを見て、沙樹はもはや尊敬の念さえ覚えていた。沙樹がまだベッドで眠い目を擦るうちから、朝練に走り出していく章世に並外れた体力があるのは知っていたが、この習慣は先輩の理不尽な言葉にも折れない精神力に支えられてのことだと理解したのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その姿を見た沙樹が拳をぎゅっと握る。私にだって、まだできることがあるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうですよ。こんなに短いスカート、学園でも――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの、見るわけないでしょう！　失礼ね！　話をはぐらかさないでちょうだい。とにかく、この学園の……紫風会の生徒はパンツを見る集団だなんて噂されたら……どうするおつもりなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……た、確かに、それは困りますけど……ねぇ、小山さん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「は、はい……でも、藤原先生もきっと、そんなスカートは――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダメだった。またたらい回しにしちゃってごめんね、小山ちゃん……と、沙樹が下を向いて黙り込む。小山は先輩の期待に応えようと、立ち上がって沙樹の主張を続けようとしたのだが、その声はまた志乃に遮られた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なるほどね……貴女たち、あくまでわたくしのパンツを見るおつもりだと。いいこと？　わたくし、パンツを見てはいけないと言ってるわけではありません。視線の流れで見てしまうのは仕方ないことですからね。ねぇ、雅美？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、えぇ……そうね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でも、今からパンツを見ますって顔をするのだけは、もうおやめなさい。視線の流れでパンツが入ってくるのは、仕方のないことだもの。見てもいいの……そういう意味ではね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうなんですね……勉強になります」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正恵はまだ、これがスタイリッシュなパンツの見せ方についての指導だと思っているかもしれない。そうでもなければ、こんな暴論から学べることなどないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。それを踏まえて、ね……ちょっとみなさん、こちらを見てごらんなさい？　ほら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女の指示に合わせて四人が志乃に視線を戻すと、今度は脚をぴったりと閉じる彼女の姿が目に入った。やっとパンツが見えなくなった志乃の姿を見て、彼女たちは日常を取り戻した束の間の安心感に包まれる。当たり前のことが、こんなに大事だったなんて――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい、残念でしたわね！　もうパンツは見えませんわ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――そんなわけもない。パンツを見せない志乃の姿にまるで周囲が落胆しているような主張で、気付くと彼女たちに新たな濡れ衣が着せられていた。四人は思わず顔を見合わせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんなんですか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「パンツが見えなくてどう思ったの⁉　言いなさいっ、遠坂！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、ですから……見えたというより見せられたというか……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言い訳はいいから、はっきりおっしゃいなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パンツが見えない高松さまの姿の方が安心します、と言うわけにもいくまい。先輩に向かってパンツが見えて不快だったなどと謗るのは、こんな状況でも失礼なことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考え込む彼女の顔を、沙樹は心配そうに見つめている。章世が雅美に助けを求めようと視線を送ると、雅美は拳を握って励ますような表情で頷いた。……この人は、私が今から告白でもすると思っているんだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうどうしようもない。章世が小さく呼吸をして、ぐっと腹に力を込める。これは彼女が全速力で走る前の習慣だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……その、はい。見えなくて残念でした。申し訳ございません！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり！　パンツが見えるのを期待していたんじゃない。本当にいやらしいったら……一葉、あれを用意なさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;志乃の呼びかけに大きく頷く一葉が、手元に抱えていたスケッチブックをパラパラとめくって目的のページを探す。残りの四人はきょとんとした表情で一葉の動きを見ることしかできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「実はね……貴女たちがここまでわたくしのパンツを何回見たか、調べてもらっていたのよ。一葉、結果をこの方たちに見せて差し上げなさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉がカメラの下で示すスケッチブックには、今日の招待客である後輩の三人と、そして雅美の名前が正の字と共に並ぶ表が書かれていた。つまり、彼女たちが志乃のパンツを見ていた回数を書き付けていたらしい。それに気付いた章世と沙樹は、神妙さよりも面白さが上回った葬式の一場面のように、思わず下を向いて笑いを堪えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まずい、と思って口を押さえた二人だが、志乃はその様子には気付いていないようだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ほら、これが貴女たちがわたくしにいやらしい目線を向けていた回数よ。反省して、ちゃんとカメラに向かって宣言なさい！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉が名前と回数を指差す。最初に書かれていたのは章世の名前だった。なんでいつも私から……と溜息をついた章世が、一葉の構えるカメラの前に立つ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、遠坂は高松さまのパンツを……7回見ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、久保田は高松さまのパンツを、6回見ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こ、小山正恵です。私は高松さまのパンツ、10回見ました」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「中浜雅美。私は志乃のパンツを……15回見てしまったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんで幼馴染が一番たくさん見てるんだよ。なんか小山ちゃんも意外と見てるし。そもそも私本当に7回も見たの……？　先陣を切ってパンツを見たなどと言わされたことを思い出して、章世は急に恥ずかしくなっていた。こういう破廉恥な罪を告白させる罰は、先頭の方に恥が集中するものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして四人の正直な告白を聞いた志乃は、すっきりとしたすがすがしい顔でその場をくるりと回った。外に出ればスキップで駆け回りそうな表情である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ。みんなの気持ち、伝わったわ。ありがとう。最後に、みなさんで一緒に宣言してほしいの。貴女たち、わたくしの周りに並んでちょうだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四人は志乃を囲む記念写真のような構図でカメラの前に並んだ。しゃがみこんだ志乃のスカートからは、もちろんパンツがしっかりと見えたままだ。しかも、今の彼女は規格外の巨乳の持ち主である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、最後に声を合わせて『志乃のパンツを見ました！』ってカメラに向かって笑顔で言うのよ？　いいわね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四人が顔を見合わせる。章世と目が合った雅美は、また彼女に向かって頷いた。章世は助けを求めるように沙樹に視線を送るが、彼女も控えめに頷くだけだ。こんなこと、年少者の正恵に任せるわけにもいかない。だからって、なんで最後まで私が……という思いを飲み込んで「せーの……」と章世が小さな掛け声を上げると、みんなが息を吸う音がぴったりと合った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「「「私たち、志乃のパンツを見ましたー！　わーっ！」」」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、体育祭の応援合戦でも聞くことができないような大音声が隣のコースまで響く。その心のこもった宣言を左右の耳からしっかりと聞いて、志乃は目を瞑って何度も頷いていた。なぜか目尻には涙さえ浮かんでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「後輩から名前を呼び捨てにされるのも、なかなかいいものね……うん。今回はこれで不問にいたしますけど、もう次はありませんからね。分かりましたこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「「はい、高松さま……」」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう疲れたし、わたくしは先に帰りますわ。雅美、帰りの引率はお願いね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えぇ、分かったわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「一葉も、もうカメラ止めていいわよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……はいカットっ！　オッケーで～す！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一葉の朗らかな掛け声が疲れ切った彼女たちの間を駆け抜けて、とうとう撮影が終了する。まるで、ここまでが全てコントの一幕であったかのように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;章世と沙樹は緊張の糸が切れたように溜息をつくと、そのまま流れるように漏れ出す笑い声を聞いて互いに顔を見合わせた。それを見た正恵もクスクスと笑い始める。雅美はそんな彼女たちの姿を見て、今日の高松会をどうにか空中分解せずに終わりまで運べたことに安堵していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな彼女たちを尻目に、疲れたと主張する志乃の足取りは雲のように軽いままで、休憩所を出るとやはりスキップでコースを駆け出していくのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが、嵐のように過ぎ去った今回の高松会の一部始終である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「その……みんな、ごめんなさい。志乃もいろいろ仕事を抱えてて、毎日ストレスが多いから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そうですよね……いや、私たちは大丈夫ですから。ね、沙樹？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はい。これで高松さまのストレスが晴れるのでしたら……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、一年生で高松会にお誘いいただいたというだけで、身に余る名誉ですので」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で……志乃の巨乳パンチラ写真、みんなは欲しい？　私の分と一緒に、何枚か印刷しておくけど……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「「「いや、いらないです……」」」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その夜、三人のLINEには雅美からみんなで撮った記念写真が送られてきた。いらないって言ったのに。&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>PARK New Year's Eve</title><link href="https://ama.ne.jp/post/park-nye/" rel="alternate"/><published>2025-12-31T20:10:00+09:00</published><updated>2025-12-31T20:10:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-31:/post/park-nye/</id><summary type="html">&lt;p&gt;原宿でも、ゆく年くる年&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この作品はURAHARAおよびPARK Harajuku: Crisis Team!を元にしたファン・フィクションです。これらの作品の公式設定を追加または削除したり、置き換えたりするものではありません。 */&lt;/p&gt;
&lt;div class="toc"&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#park-nye-1"&gt;PARK NYE 1: ことこ・りと&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#park-nye-2"&gt;PARK NYE 2: ことこ・まり&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#park-nye-3"&gt;PARK NYE 3: りと・まり&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="#extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;h2 id="park-nye-1"&gt;PARK NYE 1: ことこ・りと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ことこー、もう鍵閉めていい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、大丈夫！　ゴミまとめたらすぐ出るねー」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;PARKが2025年最後の営業を終えてから数時間。仕事を終えたりととことこが、今まさに帰ろうとしているところである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大晦日というのもあって、最低限の在庫整理と売上の集計だけ済ませるつもりのことこだったが、いつの間にか年始のセールの準備まで手を付け始めていた。福袋のチェックを始めたあたりで何かがおかしいと気付いたものの、一度始めるとキリのいいところまで進めたくなるものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局りとが「ことこ、そろそろ帰らない？」と退屈そうに尋ねるまでことこの手は止まらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとがPARKのドアに年始のあいさつと営業開始日のお知らせを張り出して、満足そうに頷く。白くてふわふわなモルが門松に埋まるポスターはりとの描いたものだ。福袋のおまけシールにも入っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「おまたせ！　次は4日からだよね。まりちゃんはフランス旅行中だけど……りとちゃんは来れそう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は来れるよー。どうせ暇だし。タバコ屋、仕入れでしばらく閉めてるからね。ことこは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も！　りとちゃんが来るなら明日も行くよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとの言うタバコ屋は、彼女の叔父が新宿は歌舞伎町の路地の奥に構える小さな店のことだ。看板こそタバコ屋だが、効能のよく分からないお茶やエスニックハーブ抽出物、出所の知れない天然の毛皮を使ったふわふわのキーホルダーまで所狭しと並ぶ怪しい店である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その叔父が、一週間ほど前から観光を兼ねた長期の仕入れに出かけていて、少なくとも一月の間は戻ってこないらしい。りとの収入にも大きな影響があるはずだが、毎年恒例の予定のようで特に気にしている様子はなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ……そっか。でも、初日の出を見に行くから明日は来ないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、初日の出？　どこ行くの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戸締まりを終えた二人が、おしゃべりしながら軽やかにとんとんと階段を下りていく。周りの店はとっくに仕事を終えていて、店の前にも人通りはほとんどない。よく晴れた冬の澄んだ空気が夜空を綺麗に映し出して、上りかけたオリオン座がよく見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこやまりが休んで二人で店番をして遅くなった日は、りとがスクーターで駅まで送っていくのがお決まりである。三人が揃っている日はまりとことこが一緒に駅まで歩いて帰るので、こういう日は少しだけ特別だった。駅までの道を少し遠回りして風を浴びるのが好きで、小学生の時に友達に誘われて買い食いした日のことを思い出す、とことこの日記には書かれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふつーに銚子。日本で一番――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー！　日本で一番初日の出が早く見られるんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そゆこと。めっちゃ寒いけど、せっかく初日の出だし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うんうん。元旦に一番輝く場所だもんね。銚子、いいなぁ……一年で一番早い太陽光発電……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが目を輝かせながら、独り言と共に想像を膨らませていく。携帯ソーラーパネルを持ち込んで、日本で一番早いクリーンエネルギーで配信をするとか、日本で一番早い太陽光で充電したバッテリーを持ち帰るとか、そういうことを考えていたらしい。りとはあまり興味がないようで、さっとスクーターにまたがった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ……りとちゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、忘れ物でもした？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;裏地に明るいオレンジの入ったヴィンテージブルゾンの裾をつまんでりとを呼び止めたことこが、言い出しにくそうにもじもじと毛糸の手袋をはめた指先を合わせる。それから「あのね」とか「急にごめんね」なんて呟きながら話を切り出せないことこを、りとは首を傾げてじっと見ていた。それからやっと、ことこが思い切った表情でたんっ、と地面を蹴る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わ、私も銚子、一緒に行ってもいい？　家には連絡しておくから……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんだ、そういうこと……当たり前でしょ？　一緒の方が楽しいし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やったー！　じゃあ、久しぶりににんたまラーメンでも行かない？　あれ、二年に一回くらい食べたくなるんだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、いいね。たぶん死ぬほど寒いから、いつもよりめっちゃ美味しく感じると思うよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スクーターのエンジンをかけると、しんとしていた原宿の通りに低い音が響き始める。途中でカイロか新聞紙くらい買わなきゃな、とりとは思った。鹿革のグローブも、昔買った古いのがもう一組あったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこはタンデムシートで緑のスクールマフラーの端を襟にしまい込み、ファスナーを端まで上げてヘルメットをかぶった。冷たい空気の匂いがする。りとのスクーターに乗るのが分かっている冬の日は、このスリムなアークティックパーカーで来るのがお気に入りだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;駅までのちょっとしたドライブが、千葉を横断する小旅行に早替わり。PARKの大晦日はまだ続きそうだった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="park-nye-2"&gt;PARK NYE 2: ことこ・まり&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ことこー、これってどこに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、こっちにまとめてあるよ。一緒に貼っておいた方がいいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あら、ありがと……そうね、先にやっておこうかしら。それにしても、福袋ってかさばるわねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大晦日のPARKでは、年内最後の告知ライブを終えたことことまりが、年始のセールの準備に取りかかっていた。年始の用意は営業開始の前日に始めても余裕があるのだが、仕事が残っているとなんとなく落ち着かない、という二人の意見が一致したのだ。きっと、ここにりとがいたらとっくに解散していただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;福袋の陳列と、セール用のクーポン設定。あとは、ドアに年始のあいさつも貼っておかなきゃ……と、まりが手に取ったのは、大きな門松にモルが埋まってこちらを見つめるポスターだ。年始のポスターデザインは毎年りとの担当で、今年は馬のデザインがどうにも気に入らなかったのでモルに描き換えたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別にそれはいいんだけど、とまりが溜息をついた。店の中に戻ると、ことこも新年も売上の集計とレジの整理を終えたようで、胸にイニシャルの入ったキルティングコートを着て帰り支度を始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとったら、またタバコ屋さんでズル休みしちゃって。困るわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あれ？　あのタバコ屋さんって、冬はお休みだったよね。叔父さんが、毎年メキシコまで仕入れに行ってるって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、りとが自分で言ってたのよ。タバコ屋さんのバイトがあるから来れないって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん……じゃあ、お店の整理とかやってるのかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もう、あんなの嘘に決まってるでしょ。ことこって、変なところで素直よね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが首を傾げる。休業中のタバコ屋でバイトなんて、ズル休みの理由を伝えられていたのはまりだけだったらしい。りとってことこ相手に嘘をつくのは苦手なのよね、とまりは思った。まりのように嘘を嘘と分かりつつ触れてこない距離感が一番心地よく、こうも素直に受け止められると逆にやりづらいのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あれ～？　でも、りとちゃんが言ってたんでしょ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのお店の陳列、りとの手に負えるような密度じゃないもの……ほら、やっぱり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりが適当にInstagramのストーリーズを繰っていくと、すぐにりとが「親しい友達」向けに投稿しているのが見つかった。おそらく千葉県の国道沿いにあるラーメン屋で撮られたものだろう。仮にタバコ屋での仕事が早く終わっていたとしても、それなら告知ライブに間に合う時間のはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりは勝ち誇った顔でことこにスマホを見せつけてから、りとに「タバコ屋さん、ずいぶん大きくなったのね」とメッセージを送った。すると、すぐに「すごいでしょ。次は初日の出の写真送るね」と返ってくる。もう二、三個くらい皮肉を言ってやろうと思っていたまりだったが、なんだか拍子抜けしてスマホを伏せてその場に置いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって、本当はフランス旅行に行く予定だったのよ？　それがまさか……こんなに真面目に働いてるのに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まさか、こんなに大寒波が続くなんてね。パリの天気予報もすっかり外れちゃったみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、もう！　りと……来年こそは絶対ライブに出てもらうんだから。絶対よ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ。まりちゃんって、本当にりとちゃんが大好きだよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ちょっと！　どうしてそうなるのよ。私はPARKをもっと盛り上げたいだけ……そう、それだけよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりは確かにPARKを盛り上げたいと思っていて、ことこもそれはよく分かっていた。しかし、りとがこだわって作ったデザインのグッズを、まるで自分が作ったみたいに紹介するまりは、ことこの目からは調子が出ていないように見える。りとが頑張ったんだからりとが褒められてほしい、とは心の中で思っていたが、そう口に出せるほどまりは素直ではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこは前に「自分が作ったグッズを紹介するのがそんなに嫌なのかしら」と漏らしたまりの姿を思い出して、りとがどうやったらライブに出てくれるかを考え始めていた。それも騙し討ちみたいに引っ張り出すのではなく、しっかり演出プランを立てて、リハーサルもする、そんな計画を――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――それで、ことこはどこがいいかしら？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……ご、ごめん。なんだっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――と、考え込んでいるうちに、まりはもう帰り支度を終えていた。アプリコット色のウールのプリンセスコートに、茶色いリボンのレースアップで飾られた白いタイツ……脚周りが空いて少し頼りない防寒にも見えるが、実際は服の下によく着込んでいる。ことこも慌てて残りの荷物をまとめ始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、りとに美味しいご飯の写真送って仕返しするの。うらやましがってすぐに帰ってくるくらいのね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん！　私も行きたい！　でも、今から入れるところ、まだあるかなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうね……あそこの麻辣湯なら、大晦日でもギリギリやってるんじゃないかしら？　りとも行ってみたいって言ってたし、ちょうどいいわ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを聞いたことこが「うん、いいね！」と嬉しそうに頷いて、今年最後のPARKの戸締まりを終える。きっと、新年はりととまりのつまらないけんかで始まるだろう。でも今日はもうちょっとだけ、まりとことこだけの時間が続いていく。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="park-nye-3"&gt;PARK NYE 3: りと・まり&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、まり。大晦日は一年で一番ラブホが混むんだって。なんでだと思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りと、レジの商品設定は終わったの？　もう遅いんだから、サボらないでよ。……で、なに？　大晦日のラブホ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;福袋を抱えて棚に向かっていたまりが、りとが操作するレジ用のiPadを覗き込む。もちろん商品やクーポンの登録画面は表示されておらず、そこには読み放題サービスに入っている雑誌の1ページが表示されていた。持っていた福袋を売り場に並べてから、まりも息抜きのつもりで「大人のなぞなぞ」コーナーに目を通す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとが読んでいたのは、コンビニの端によく並んでいるおじさん向けの雑誌だった。ナンパ術とか、マッチングアプリの活用術とか、下世話なスキャンダルとか、怪しい金儲けの話とか……二十代の女子なんてターゲット層とは真逆だろう。ましてや、原宿のおしゃれなショップの店員たちが二人で読んでいるなんて、編集部は思いもしないはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大晦日……おお、みそ……ラブホ……ラブみそ、うーん……分かんないわ。どうして？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーっとね、答えのページが……あぁ、なるほど。年『越し』で『腰』を振るためだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ～……くだらないし下品ねぇ。りと、そういう雑誌読むのやめなさいよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別にいいじゃん。買うほどじゃないけど面白いよ。うん……買うほどじゃないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ帰るわよ。なーんか、気が抜けちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;りとのこういう暇つぶしは、たいていやるべき仕事を終えた後なのは分かっていたので、まりも売り場の陳列作業を切り上げることにした。新年は残りの福袋を積み上げてポップを出せば、すぐに店を開けられるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ことこは学会に行ってるんだっけ？　大晦日によくやるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわよ。コミケでお友達のお手伝いでしょ？　なんか『ことことサイエンス』経由で寄稿の依頼が来たって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことこが運営する「ことことサイエンス」は、お菓子作りの過程を化学的視点から語る料理ブログとして誕生したサイトである。化学的な知識の解説パートで人気を集めてからは、料理に限らず日常の化学について紹介する雑学ブログの毛色が強くなって、今のようなスタイルに落ち着いたらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今回は、あるゲームのキャラクターになりきって化学について語るコラムの執筆を依頼されていた。この同人誌は、新年のPARKにも若干数並ぶことになっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そっか。じゃあ、今日はことこ来ないんだ。間に合ったら来るって言ってなかったっけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「さっきLINE来てたわよ。疲れちゃったから今日は帰るって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー……あ、ほんとだ。じゃあ、帰ろっか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だからそう言ったじゃない。もう22時過ぎちゃうし、早く出ましょうよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まりが帰り支度を始める。一方のりとは、スクーターで来ているのもあって、ボディバッグを抱えてブルゾンを着ればすぐ走り出せる身軽さだ。だから先に外に出て、年始のあいさつと営業開始日のお知らせを張り出しに行くことにした。モルが門松で遊ぶデザインはりとが描いたポスターで、干支をモチーフにした近年のシリーズでも一番のお気に入りだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;貼り終えたポスターを眺めていると、暗くなった店内からすっかり冬装備のまりが出てくる。準備オッケーよ、と小さくピースした。十字架と冬の街並みをあしらった青いワンピースを、今はアプリコット色のプリンセスコートがそっと覆っている。レースアップで飾られた白いタイツに、足首がファーで覆われた黒い厚底ブーツがよく映えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、今日はどこに行くの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「新宿辺りならまだ空いてそうかな。ま、走りながら適当に探すよ。最悪、私の部屋でもいいし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「りとの部屋、狭いし壁が薄いから嫌なのよねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まりの声が大きいだけでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……もう、うるさいわね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人はいつものように戸締まりを済ませると、周りの店の店員さえ帰ってしまった後の冷たい廊下の空気を吸って、そっと吐く。りとが先に歩き始めて、ととん、とんとん、とん、ととん……歩調を合わせない二人の足音が金属の踏板によく響いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから二人は黙ったまま階段を下りて、りとのスクーターにまたがった。深まりつつある夜の空はよく晴れて、上を向くと星に手が届きそうだ。まりがりとの背中にぴったりくっついて、降るような星を眺めながら出発を待つ。ブルゾンとコートの生地が擦れて、心地よくさらさらと音を立てた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね……りと」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んー、なんか忘れた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うわよ。誘い方、もっとちゃんとしなさいよ。年越しとか、腰とか……意味分かんないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらく黙ったりとは何も答えないまま、スクーターのエンジンをかける。まりはその仕草になんだかドキドキしていたが、その気持ちさえ素直に受け入れられずにいる。どんなに鼓動が早くなっても、今はエンジン音がかき消してくれるだろう。PARKの大晦日はこれからが本番だった。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="extra-links"&gt;EXTRA: LINKS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="/post/10th-park/"&gt;10th PARK road side&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://hentaigirls.net/book/sugar-jelly/"&gt;Sugar Jelly&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://park-harajuku.net/items/571618ff9821cc715e000f8b"&gt;PARK:HARAJUKU Crisis Team! 日本語ver 単行本&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://harajuku-crisis-team.tumblr.com/"&gt;PARK Harajuku: Crisis Team!&lt;/a&gt;&lt;sup id="fnref:phct"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:phct" title="https://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes"&gt;1&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;URAHARA&lt;sup id="fnref:urahara"&gt;&lt;a class="footnote-ref" href="#fn:urahara" title="https://urahara.party/"&gt;2&lt;/a&gt;&lt;/sup&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;div class="footnote"&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li id="fn:phct"&gt;
&lt;p&gt;https://www.crunchyroll.com/comics/manga/park-harajuku-crisis-team/volumes&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:phct" title="Jump back to footnote 1 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li id="fn:urahara"&gt;
&lt;p&gt;https://urahara.party/&amp;#160;&lt;a class="footnote-backref" href="#fnref:urahara" title="Jump back to footnote 2 in the text"&gt;&amp;#8617;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/div&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>月から降ったクリスマス</title><link href="https://ama.ne.jp/post/shoot-from-the-moon/" rel="alternate"/><published>2025-12-22T18:00:00+09:00</published><updated>2025-12-22T18:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-22:/post/shoot-from-the-moon/</id><summary type="html">&lt;p&gt;これはクリスマスらしいリボンですね&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;「私は、ボーダーコリーが好きよ。頭がいいから！　あなたは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ボルゾイ！　カッコよくて足が速いから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、知ってた！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって知ってるよ。昔一緒に図鑑見たよね！　んー……あと何の話するんだっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アレでしょ。脳波を……ね？　みなさ～ん、お手持ちのアルミホイルを頭に巻いてくださ～い！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、もう？　エリはせっかちだなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みなさん、急いでくださいね～！　そろそろ始めちゃいますよ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、今さら何人か巻き込んだって変わらないっしょ。じゃあ、まずは――」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる？」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。これはあくまで世界に向けて公開で行われた初めてのデモで、このやり取りも事前に決められたコマーシャルコピーであった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脳波&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;EEG&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;コミュニケーションの先駆者であったアレクサンドラと、その助手トーマシンが研究室で初めて交わした脳波は、お互いの犬の好みに関するものだったと言われている。もちろん、互いの嗜好を知らなかったのではない。同僚や上司――所長も視察に来たという――が見守る中、思いついたのが他愛もない世間話だった、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして「声を感じる」という画期的なメディアとして世に出た脳波コミュニケーションだったが、数十年以上にわたって主戦場は研究室の中だけであった。「直接話した方が早い」「電話の方がコストが低い」と実用性が低く見積もられてきた脳波コミュニケーションは、AIによる脳波の選択的増幅手法と歴史的なマッチを果たすまで、既に三度の冬の時代を経ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳波の選択的増幅に耐えられる人間は限られている。古い事例では、AMラジオの電波塔の下に銀歯のある人が立つと放送が聞こえるという現象がよく知られているが、一方で強い頭痛に見舞われて立っていられない人もいたらしい。特に、先天的な脳波耐性を伸ばすには幼い頃から訓練を積む必要があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳波の強力さは頭の良さであると宣伝され、脳波コミュニケーション業界の最大手「イーコム」が教育分野に進出してからというもの、それらは「脳力」と言い換えられて大金と引き換えに &lt;em&gt;実験台&lt;/em&gt; の確保が続けられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イーコム自身は脳力訓練者を囲い込むための一部全寮制の高校を経営しているが、その候補者自体は教材を通じて入り込んだ無関係な幼稚園や小学校、児童養護施設から吸い上げ続けている。空前のAIバブルが続く中、AIというキーワードだけで発展しているイーコムだったが、実際には複数の教育機関を野放図に経営するほどの資金があるわけではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エリ、おかえり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ん、ただいま。あ、マシュマロココアじゃん。もうクリスマスだもんね～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、エリ。私、宇宙に行くことになっちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ん、宇宙？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。まぁ、月なんだけどね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、月……いや、遠いよ。宇宙に比べたら近いけどさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうだよね～。遠いよね……あははっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天井に向かっていやに明るい声でそう笑うのは、そのイーコムの学園に訓練者として通うメイである。十七歳。身長一五六センチ。体重四六キロ。ピンク色の検査着に身を包む白い肌は病弱そうな印象を与えるが、持久走なら昔からエリには負けない。ショートボブに入り込んだ濃い青色のインナーカラーは彼女なりのおしゃれではなく、訓練者に特有の現象である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力開発部の活動中にメイと話しているのは、彼女の幼馴染のエリだ。メイとは対照的なロングヘアで、小さい頃は活発なエリの後ろに必死でついていくタイプだった。いつの間にかエリの背を追い越して、テスト前にサボりがちなメイを捕まえて勉強を教える姿はまるでお姉さんである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリは脳波耐性の兆候がなかった非訓練者だが、メイの脳力開発をサポートするのに効率がよいと判断されて一緒に来ることになった。どちらも養護施設の出である。自ら脳力開発を希望して入った他の生徒たちとは違って、彼女たちには安定した生活と比して選択の余地がなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、なんで月なの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「知らないけど、石井が言ってた。今年はちょうど満月とクリスマスが重なるから、月からイベントやるんだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、クリスマス？　もう再来週じゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうそう。あいつらって私たちの都合とかマジで何も考えてないもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー、どうせ自分は仕事だからって巻き込まないでほしいよね。イルミ、どうしよっか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うーん、今年は我慢かな～……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力開発部は、この学園に訓練者として推薦入学した生徒が入寮と同時に所属する部活である。部活とは言いつつ訓練者に課せられた義務のようなもので、かれらは放課後になると器具を用いた脳波増幅の訓練や検査に回されるのが通常であった。しかし、メイの脳力開発に当てられる時間の六割は、こうしてエリとだらだら過ごす放課後に使われていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;配属されたばかりの脳力研究者なら、おしゃべりが脳力を高めるなんて不思議なことだ、と言うだろう。しかし、ある程度の経験と知識があれば、これがアレクサンドラとトーマシンのエピソードと同じだと気付くはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界初の脳波による会話を成功させたボストンの研究室では、二人と同じように脳波での会話を行おうと同僚たちがヘッドギアを着用しあった。しかし、彼女たちほどの遠距離で会話を行える者たちはいなかった。初めは脳波の男女差に注目して分析が行われたが、大きな有意差は見つからない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最終的に見つかったのは、日常的に会話――定型的な会議や合理的な議論ではない、ただの他愛ない会話――を交わすペアにおいて、脳波コミュニケーションの成績が高くなる、という仮説だった。アレクサンドラとトーマシンはプライベートでも非常に仲がよかったと言われており、成績のよい研究者たちもその傾向が強かった。ただ、この観点を支持する公的な研究は今までほとんど残っておらず、研究者の間でも経験則に留まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この仮説が正しいなら、脳波コミュニケーションは結局のところ決まった二人の間での通信に特化していて、不特定多数と電話のように使うには向いていないということになる。実際のところ、AIによる選択的増幅が可能になるまでは、五百メートル程度の通信でさえ莫大な電力と強力な脳波耐性が求められた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、脳波コミュニケーションが役に立たないという噂が流れてしまってはバブル崩壊の呼び水になりかねない。イーコムが一発逆転の計画として長年進めているこのプロジェクトも、経営を圧迫しつつあった。だからこそ、新たな冬の時代の到来を恐れているイーコムは、月面から脳波コミュニケーションの技術力を全世界に見せつける必要があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そもそも、なんでメイが行かなきゃいけないの？　他にもやる気のある推薦組なんかいっぱいいるじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって、私が一番成績いいんだもん。みんな脳力低いのに親に期待されて来た子ばっかり」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はぁ、両親に期待されてても成績がそれじゃあね……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ、エリひどすぎ。なんか、石井がまた冬の時代がどうこうって言ってたし。今回は絶対成功させたいみたい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなに成功させたきゃ自分で行けっての」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言えてる」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力開発は現代になっても安全なフレームが判明していない実験的なプロジェクトだ。実験台になった生徒たちをトラブルや苦痛に巻き込みながら少しずつ前に進むしかなかった。イーコムの輝かしい成果発表は、かれらの日々の苦しみを言い換えただけでしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイが関節の痛みで身体を丸めて寝込んだり、強い頭痛で起き上がれずに嘔吐を繰り返しても耐えられたのは、エリがいてこそだった。エリのことを考えているとき、確かに彼女の脳波は強くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、どれくらい月にいるの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かんない。月面基地に超選択的増幅装置を設置して、地上と交信実験をするんだって。しばらくテストさせられるかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、それ……脳大丈夫かな？　流石に死なない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う～ん……まぁ、ちょっとヤバいかもね。でも、私かぐや姫になれるんだってさ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「かぐや姫？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「地上に向かって脳波でスピーチするの。月から世界平和を見てますよ～って」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイが両手を広げて床を見つめてから、笑顔で手を振ってみせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;総理大臣でもない、大統領でもない、王様でもないただの女子高生が、一方通行かもしれない旅に出て月からスピーチだなんて。インパクトで投資を集めたいだけのイーコムが考えそうな計画だ。渋谷に大きなドローンディスプレイでも浮かべてスピーチでもするつもりなんだろうか。あるいは、手を振る彼女の姿がそのまま脳内に送り込まれる、ということなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリはその光景をしばらく思い浮かべていたが、十二単姿のメイがすまし顔で地球を見下ろす姿がどうにも面白かったようで、くすくすと笑ってみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ。竹取物語にそんなシーンないでしょ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、そう。なんか石井が考えたんだってさ。すごい早口だったし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うわぁ、やっぱおっさん先生のセンスだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あははっ、本当にそれ。こういうのカッコいいと思わないか？って真剣に言われて、マジで殴ろうと思ったもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脳力研究者と高校教師を兼任する石井は、彼女たちのクラスの担任でもあった。こんな学生を実験台にして喜ぶ壊れた研究者――しかも、彼女たちから見れば冴えない中年教師でしかないのだ――が、ふと少年時代の夢とロマンを思い出して壮大なデモプランを練っているのだとしたら、なんて滑稽なんだろう！　本人から見れば嘲笑としか思えない彼女たちの笑い声は、若々しい感性と共に彼のつまらないレガシーを吹き飛ばしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女たちはひとしきり笑いあっていたが、ふとメイがきゅっと口を結んで黙り込む。エリもそれに合わせてじっと彼女の顔を見つめた。それから、先に口を開いたのはメイのほうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、正直どう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうって、だって月でしょ～……？　メイがいなくなるなんてマジで無理。意味分かんない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあもしさ、もしもだよ。一緒に来て欲しいって言ったら……どう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も？　月に？　えっ、行っていいの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あ、いや、無理だと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「はっ？　なんで一瞬期待させた？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイは迷っていた。幼い頃からずっと過ごしてきたエリに、ひょっとしたらここで別れを告げなければならないかもしれない。施設で脳波耐性なんてくだらない特徴を見出されて、エリと離れるなら絶対行かないと泣き喚いた日のことを、メイは絶対に忘れられない。あの日も今日みたいに、近所のコンビニに散歩しに行くみたいな顔で、「先生、私もメイと一緒に行きますよ」と答えたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリをここに連れてきたのはメイだった。それなのに今度は、メイが先にここを去ろうとしている。私の脳力はなんて勝手なんだろう、とメイは思った。もしも私がいなくなって、エリは私に縛られないで生きていったらそれでいい……なんて心の底から思えたら、きっとメイは宇宙に行くだなんて正直には言い出さなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリが私の言葉に呆れてこの学園を去れば、私だって彼女を諦められる。しかし、悩むことなく自分も月に行きたいなんて言い出すエリを見て、メイはほんの少しだけ、またあの日と同じように彼女の言葉に縋りたくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、これならどう？　私が月に行ってから……ちょっとだけ、協力してほしいんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイの声のトーンに合わせて、エリも神妙そうな面持ちのまま、無言で頷いた。よほど真剣な顔をしていたのだと、メイは自分の口を押さえて小さく息をつく。エリは彼女の表情がころころ変わるのが面白くて、声を出さずに少し笑っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「地上から、私と話してほしいんだよね。私のスピーチに応えて、会話してほしいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それだけ？　でも私、脳力の素質ないけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エリはずっと私と一緒にいてくれたから。私と繋がるだけなら、なんとかなるよ。私がエリの分のチャネルまで開く、から……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い終わるより前にメイの声が詰まって途切れてしまう。どうにか涙が溢れないようにぐっと目を見開いて、きゅっと口を結んで息を止めていた。涙を目に溜めたままなら泣いたことにはならない、という小学生時代の二人の取り決めを、メイだけがまだ信じていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;深刻そうな彼女を面白がっていたエリも、まさかメイが泣き出すとは思わなかったらしく、慌てて立ち上がって肩をさする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、何で泣くの⁉　本当に月で死んじゃうわけ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「分かんないよ！　分かんないけど……たぶん死なない！　死ぬから泣いてるんじゃないもん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;下を向いて叫んだ拍子に涙が零れて、メイは慌てて袖でテーブルを拭った。袖の上にもさらに残った涙が落ちて広がっていく。もう泣いてたっていいや、とそのままエリに向かって手を差し出して、拗ねた声で呟いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「手。繋いで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー、メイって泣くとすぐ手繋ぎたがるよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違うって！　エリの頭が痛くならなかったら、平気だから……ほら、握って？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなに怒らないでよ、と言ってエリがメイの手を握る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その瞬間だった――これは、エリの感覚である。メイの手から自分の腕を通って、不思議な色の塊がせり上がってくる気がした。それがメイの不安と悲しみの核であることが、なぜかエリにはもう分かっていた。その小さな塊がぴんと弾ける。脳が揺れる感覚と共に、中から現れたのはぬるくて青い液体だった。制服に染みこんでも濡れた感覚がない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;胸がじんわりと温かくなって、消えていった。彼女にとってはこれが三分間ほどの光景だったが、実際には数秒のできごとである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メイにしてみれば、いつもよりちょっとだけ手に力を込めただけだ。普段の訓練でヘッドギアを通じて言葉を入力するのと根本的には変わらない。しかし、エリからわずかに逆流する温かさ、光、柔らかい毛布のような感触。脳波の相性がいい二人だけが交わせるひみつの感覚……これがトーマシンの気分だったんだ、とメイは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（私ね、このデモを壊す方法を知ってるの。しかも、今すぐ月から帰れるやつ）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（えなにこれ、すごいね。私の声も聞こえてるの？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（うん。ちゃんとエリの声を感じてる）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（で、なんだっけ。デモをめちゃくちゃにするの？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（そう。左手、見てみて）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エリが手を広げる。手の中には黒い、しかしよく見るとわずかに青色とオレンジ色に光っている小石のような物体が握られていた。もちろん、彼女が持ち込んだものではない。じっと見ているうちに、メイがさっき自分の手を通して流し込んできた不安と悲しみの核に思い至った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、あの不思議な色の塊はどんな色だったっけ……灰色かもしれない、銀色だったかも、いや、赤く光っていたような……目が覚めてから夢を掴むような覚束ない感覚のまま、目の前の現実の可能性は黒く重たい小石に沈み込んだ。海辺に転がっているような、ただの冷たい小石。これは、メイが思い浮かべた不安そのものだったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（増幅AIを触ってるときに偶然見つけたんだ。この力、全部使ってデモをめちゃくちゃにするの。もっと人がいれば、たぶんもっと大きい物質が作れるから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（へー、すご……脳波で隕石でも降らせる気？　そんな壮大な計画に私を巻き込もうっての？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（そうだよ。私、エリと一緒にいたいから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（いいじゃん。やろうよ）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つつ、と青い光の筋がエリの手を走る。メイはその光が消えるのを待ってから、小さく息を吸ってまた思考を吐き始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（でも、こんなプロジェクト失敗させたらただじゃすまないよ？）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（そりゃそうでしょ。イーコムなんて倒産確定だもん。いい気味じゃん）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（……エリも私のせいで犯罪者になるんだよ？　それでも――）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（はー、うるさ……メイがそうやっていつも遠慮するところ、マジで嫌い！）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（……っ⁉　き、きら……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（あー、面と向かって口に出せないこと、思ってるだけで言えるの便利だわ。確かに脳波ってすごいかも）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（エ、エリ……？　あのね、私……）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（自分だけ脳力開発してるからって、私に迷惑かけてるなんて思い込むの、今すぐやめて。私たちがただの幼馴染なんて思ってるの……メイだけだから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い捨てて、エリがメイから手を離した。その瞬間、二人の指先から大きな閃光が飛び出して、弧を描いて消えていく。驚いて顔を見合わせた彼女たちは、今度はどちらともなく笑い始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;そしてクリスマス当日。地上のコントロールセンターには、イーコムの重役や学園の研究者たちが集まっている。このデモの統括である石井もいた。エリは目の前の満月を見上げて、デモ会場の群衆の真ん中でメイの言葉を待っていた。この会場にいなくたって、満月が見えているなら頭にスピーチを強制的に流し込まれるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――えー、こんにちは。私は今、みなさんの脳内に直接話しかけています」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セーラー服を着て現れたメイがそう語り出す。十二単で出てくるんじゃなかったっけ、と手を伸ばしても当然届かない。じっと見つめると、中心がぐにゃりと滲んで判然としなくなる。メイが視界を切り開いて目の前に立っている姿は、脳が普段から適当に補正して埋め込んでいる景色そのものだ。やはりある種、量子的であった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周囲では視界がジャックされる初めての感覚におおっ、という歓声が上がる一方で、頭を抱えてうずくまる人も少なくなかった。エリにとってはもう慣れた感覚だが、本来なら一生使わないはずの脳の一部が確かに動いている。相性の悪い脳波が強力に頭を歪めるのだから、耐えられない人もいるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;会場周辺では高出力電磁波反対協力連合会の行進が続けられていて、多くの人がかれらの配っていた新品のアルミホイルを持っていた。全員が「電磁波攻撃反対」「電磁波盗聴反対」と大きなスローガンの入ったアルミホイルを携えて集団幻覚を見続ける、異様な光景だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、メイが月に飛び立つ前に「みんなに最高の思い出をプレゼントしようね」と言っていたのを思い出す。私、後半の台本見てないけど大丈夫だっけ……なんて思いながら、セーラー服のかぐや姫のつまらないスピーチを聞き流しているうちに、とうとう時間が来た。演説の流れを突然ぶった切って、メイがエリの視界に向かって一歩前に出る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねぇエリ？　あなたはどんな犬が好きなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私は、ボーダーコリーが好きよ。頭がいいから！　あなたは？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ボルゾイ！　カッコよくて足が速いから！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、知ってた！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私だって知ってるよ。昔一緒に図鑑見たよね！　んー……あと何の話するんだっけ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アレでしょ。脳波を……ね？　みなさ～ん、お手持ちのアルミホイルを頭に巻いてくださ～い！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スピーチが中断され、明らかに計画から外れた不気味な会話が自分たちの脳内で繰り広げられている。 &lt;em&gt;何か&lt;/em&gt; に勘付いた群衆が怯えた声を上げて、まだ落ち着いていたはずの周囲を巻き込んで動揺し始める。エリの言葉を鵜呑みにして、慌ててアルミホイルを頭に巻き始める人もいた。メイが時折サブリミナルのように流し込んでくる不安や恐怖の感覚の前では、脳波コミュニケーションの有名な逸話のオマージュだと気付く聡明さは消え去ってしまうのが人間というものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コントロールセンターからも不安に駆られたスタッフが数人飛び出して、石井が怒鳴り声を上げてパニックを制止しようとする。しかし、もう遅い。そんな下界のことは気にせず、メイがじわじわと脳波の出力を高めていく。ここまで来ると、もうメイと相性の悪い脳の持ち主は自分が歩いている方向さえ分からなくなるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、もう？　エリはせっかちだなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「みなさん、急いでくださいね～！　そろそろ始めちゃいますよ～」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、今さら何人か巻き込んだって変わらないっしょ。じゃあ、まずはでっかいクリスマスツリー！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;満月から降り注ぐのは、きっと今や銀河系で一番巨大で悪趣味な、電飾でぎらぎらのツリー。視界を埋め尽くすクリスマスツリーは、視界に収められないくらい巨大なのに、頂上を飾るベツレヘムの星の輝きまで一目に収めることができた。増幅器の限界を優に突き抜け、下層にある衛星回路を焼き切り、エリというたった一人の受信機のためにメイが脳波を送り続ける。そのイメージは満月から逃げ回る全ての人類の脳へ、直接流し込まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それだけではない！　人々が逃げ惑う会場の中、空をじっと見つめて動かないエリの横に本物の巨大なクリスマスツリーが建つ。もう一本。さらにもう一本。メイがエリに初めて小石を渡したように、イーコムが集めた沢山の観客が持つ脳波を少しずつ集めて物質に変換し、メイが想像したとおりのクリスマスツリーが建っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、今ここにいる誰も幻覚か現実か区別できない。科学を超えた魔法の力なのか、誰かが操られているだけなのかも分からない。しかし、エリが触れるモミの木の感触は確かに目の前にあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「次は～……でっかいプレゼント！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラメの入った包装紙で巻かれてリボンのかかった巨大な箱が降り注ぐ。何が入っているかは、メイにもまだ分からない、両手いっぱいで抱えられるくらいの箱が、十個……そして二十個。イーコムの幹部でさえ、既に今の状況は理解できずにいた。かれらの巻いていた最高級の脳波遮断ヘッドギアは、確かにメイの脳波を防いでいるはずだったが、全員が月から降り注ぐクリスマスの目撃者であった。これは幻覚ではない！と誰かが叫んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そして～……でっかいダブルベッド！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふかふかの大きなベッドの柔らかい感触が流れ込む。会場の外へ、できるだけ遠くへと逃げ惑っていた人々も、その心地よい感覚に思わず足を止めた。月面基地という、いま世界で最も孤独な場所にいる少女が、地球でただ一人待つ少女のために宇宙規模の &lt;em&gt;寝室&lt;/em&gt; を作り上げていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、メイが月から飛び込むための救助マットが完成するのを遮るように、石井がコントロールセンターから飛び出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんだこれは！　中止だ！　今すぐ装置を切れ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう叫ぶ石井の脳内に、エリの勝ち誇ったような笑い声が響く。石井がさっきまで監視のためにかじりついていたモニターは既に脳波で焼き切られて、二人が犬の図鑑を読んで笑っている子供じみた記憶が何度も何度もループで再生されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;石井にとって、孤独な養護施設育ちの少女を月のお姫様に祭り上げることは、彼なりの救済のつもりだった。純粋に宇宙を夢見た少年の頃の石井は、かつてそんな景色を思い描いていた。デモが大失敗に終わりつつある今この瞬間も、何光年超えても届く脳波の力にまだ夢を追い求めている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、メイが求めていたのは天上の玉座などではなく、クリスマスまで指折り数えてエリとマシュマロココアを飲む時間だけだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさい！　エリに近づくな！　私たちのこと、くだらない計画の道具としか思ってないくせに！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんで……俺は、ただみんなの夢を――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言い終わるより先に、石井の足元やコントロールセンターの中に次々と爆弾が降り注ぐ。いやいや爆弾ってなんだよ、と思うかもしれないが、いかにもゲームに出てくるような黒い球体に導火線が付いた爆弾だ。メイが爆弾と聞いて最初に思いついた爆弾である。人間の想像を強化することしかできない、AIによる選択的増幅装置の弱点でもあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな安っぽい爆弾がゲームみたいに全てを吹き飛ばすのを見届けてから、メイは満を持して月面基地からエリの立つベッドに向かって落ち始める。彼女の頭のイメージのまま、まっすぐ。彼女に残った脳力を全てつぎ込んで、全てのイメージを作り上げる。そして、用意していた最後の仕掛けを投下した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、最後に～……リボンで巻かれた私の恋人！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え……ちょっと待って！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一際明るく白い光の矢となって世界に降り注ぐのは、エリが真っ赤なリボンで身体を最低限だけ覆う裸リボン姿のイメージだった。人々を貫いて地上に降りた光の粒がエリの身体を周りながら覆っていくと、やがて彼女はメイの想像通り、リボンで巻かれた姿で大事な恋人を待ち受けていた。メイがどこに落ちるのか分かっていて、そうするはずだったように腕を広げる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――とすん。月から落ちたとは思えない羽根のような軽さで、セーラー服姿のメイが腕の中に収まった。断熱圧縮なんて空間ごと飛び越えて着地した冬の冷たい身体を擦りつけて、メイがにっこり笑う。後ろではコントロールセンターが燃え続けていて、ここにいるのは見つめあう二人だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、月の光を浴びた世界中の人類の脳裏には、恥じらいながらこちらを見つめる謎の少女のあられもない姿が焼き付いて離れなかった。かれらの記憶は少しずつ姿を変えながら、理想の裸リボンとして定着していくだろう。きっと明日は、この話で持ちきりに違いない。イーコムなんて、そのまま何の話題にもならないまま潰れてしまえばいいんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「エリ、私の声が聞こえる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「メイ、あなたの目の前にいるわ！　この変態！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる？」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クリスマスに月面から脳波をジャックし、倫理を忘れた企業を倒産に追い込み、何億人もの脳にリボン姿の恋人の姿を焼き付けた――史上最悪で最高にハレンチな少女たちの伝説の方が、インターネットでは有名だからだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ねぇ、メイ。まだ消えないんだけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なにがー？　あー、ココアは脂肪だからさ、先にクレンジングオイルで――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……違う。メイが勝手に私に着せた裸リボンのこと！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー。あれ、可愛かったね。昨日もおすすめにイラスト流れてたよ。胸がでかすぎて笑っちゃった」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん、そうそうそうそう。SNSでずーっと私がスケベなトレンドになってんの。メイのせいで！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「写真なんて一枚も残ってないんだし、別にいいでしょ。みんなツリーと火災の中継ばっかりで、私たちのことは集団幻覚だと思ってるみたいだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなThis Manみたいな都市伝説になんかなりたくないって。ねぇメイ、もう一回でっかい隕石降らせてみんな潰してよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、あの脳力？　エリの裸リボンで全部使い切っちゃった。もうすっからかん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「無駄すぎる……グリム童話だってもっとまともな願いに使ってるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あはは！　見てこれ、私たち『月からの贈り物』って呼ばれてるらしいよ。世界で一番有名な恋人じゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「バッカみたい！　私たちがいつ恋人になったって？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「まぁ、それくらいの脚色はいいでしょ。おかげで私たち、これからもずっと一緒にいられるんだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー……そこ持ち出されたら、言い返せないじゃん。はぁ、改めて言うことでもないけどさ……おかえり、メイ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん。ただいま、エリ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>イってないよね？</title><link href="https://ama.ne.jp/post/dont-say-coming/" rel="alternate"/><published>2025-12-19T18:00:00+09:00</published><updated>2025-12-19T18:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-19:/post/dont-say-coming/</id><summary type="html">&lt;p&gt;真っ白な部屋に飛び込んでみんなを驚かせましょう！&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;お金欲しさにこんなゲームに参加するんじゃなかった、とミキは思った。「同時に絶頂しないと出られない部屋」なんて、 &lt;em&gt;なかよし&lt;/em&gt; のあたしたちなら簡単だったはずなのに。もしも時間が戻せるなら、きっとサナの言うとおりに二人でその場を立ち去っていただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白い床、白い壁、白い天井、白いベッド。いかにも実験室という感じの部屋に通された彼女たちは、三人の――いや、三台の合議制絶頂判定AIに三方向から監視されながら、たった十万円のために既に二時間以上はこうして性器を擦り合わせ続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たった十万円とはいえ、これでも大学生の彼女たちがルームシェアする小さな部屋の家賃を払っても少し余るくらいで、サナも反対しつつその金額の大きさに気持ちが揺らいだ、というのが正直なところである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ね、ねぇ……サナ、まだなの……？　ダ、ダメ……イくっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ……わ、私もっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが身体を弓なりに反らして仰け反るのに少し遅れて、横たわったサナも控えめに身体を震わせる。ミキはサナの細くて綺麗な身体に触れるのが好きで、付き合い始めた頃は手を繋いでいるだけで嬉しかったんだよ、と話したのはちょうど昨日の夜のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お互いの下半身がびくびくと震えるのをひとしきり見つめてから、今度は顔を見合わせて頷く。本来ならお互いを愛おしく思うためのコミュニケーションが、まるで点数を付けられるための競技のように洗練され始めていた。性格も違う、高校の部活さえ正反対の二人の間に、恋愛や快楽ではない新たな絆が芽生え始めているようにも見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、AIはいずれもNG！の札を上げて、さらに絶頂チャレンジを続けるよう促した。ミキが思わず「はぁ⁉」と声を上げて立ち上がる。脚が少しぷるぷると震えていた。いつもならサナが音を上げるまで眠ろうとしない元気なミキにも、少し疲れが見え始めている。ラブホテルに行ったってもう少し休憩を挟むのに、なんて冗談を差し込む余裕もなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ま、まだクリアできないの？　判定が厳しすぎない……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ごめんね、ミキちゃん。私、ちょっとイくの遅れちゃったかも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;へたり込んだミキを支えるように、起き上がったサナが肩に手を回す。疲れと興奮で呼吸の荒いミキを落ち着かせるように、サナがゆっくりと深呼吸しながらしっとりとした肌を合わせた。彼女から伝わる熱を広げるようにサナを見つめるミキに気付いて、サナが目を閉じる。そうして、小さくキスをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あたしこそごめん。すぐイっちゃうほうだから、サナに合わせられなくて……次はサナに合わせるから、教えて？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキがサナのお腹を撫でながら、薄い乳房に顔を近づける。次はサナがイくのに集中して、そのタイミングに合わせて自分ですればいい、と思ったのだ。しかし、ミキはサナの色の薄い小さな乳首を舐めながら、抑えるような喘ぎ声を聞くだけでじわじわと下半身が熱くなるのだから、実際のところどうでもよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……頑張るね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、ミキを見下ろすサナの笑顔はどこか引きつっていて、一瞬目を逸らしたのをミキは見逃さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたの、サナ。疲れちゃった？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そういうわけじゃないんだけど――ねぇ、ミキちゃん。怒らないで、聞いてほしいんだけど……いい？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナのことであたしが怒るわけないでしょ？　なに？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言ってサナを安心させようとするミキだったが、当のサナには伝わっていないようで、どこから話し出せばいいのかという様子でしばらく押し黙っていた。すると、AIがこの沈黙で何を勘違いしたのか「百合カップルが上手くいくコツ7選」という出所不明の記事を読み上げ始め、堪えきれなくなったミキが「うるさい！　いまサナがしゃべるから黙ってて」と強制終了させる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが話し始めたのは、それからさらに二十秒ほど経ってからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね……実は、今までイったことなくて。もう、この部屋から……出られない、かも……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言い終わる前に、サナが顔を歪めて泣き始める。ひくっ、うっ……と、こうして息を殺して泣くのは父親にずっと叱られたからだ、と前に言っていた。泣き出すと叱られたのを思い返してもっと悲しくなる、とも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;泣き出す彼女と、そこから飛び出た唐突な発言に、ミキはその場から動けなくなる。いつもならサナを胸に抱き寄せて落ち着くまで撫でてあげるはずのミキが、目を丸くしたまま座っているのは、セックス中に泣き出したことがなかったせいかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、どういうこと？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、私はミキちゃんにしてもらっても、自分でしてもイけないの。だから、同時に絶頂なんて無理なの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが最近でも一番大きな声でそう叫ぶ。そして、箍が外れたようにわんわんと泣き始めた。恋人のミキに通用する演技ならAIでも騙されるだろう、と思っていたサナは、何度イったふりをしても終わらない絶頂チャレンジの重圧に耐えきれなくなっていたのだ。AIが「心拍数の上昇を確認――リラックスを推奨します」と告げる声も、今の彼女には逆効果だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;頭が殴られるような感覚に押し出されて、やっとミキの思考が動き出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし回り始めた彼女の頭に浮かぶのは、目の前で泣き叫ぶサナの宥め方ではなく、彼女と肌を重ねた日々の思い出である。ミキが指を動かす度に「ミキちゃん、イきそう……」「もっとして……」「あ、あぁあっ……ミキちゃん、大好き……」なんて言ってくれたサナの声は、全部嘘だったのか。そう思い至ると、ミキの目からも大粒の涙が零れ始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「な、なんで？　いつも気持ちいいって言ってくれてたじゃん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「気持ちいいよ。気持ちいいし、すっごく幸せなの……でもイけないの！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなの……別に言ってくれたっていいじゃん！　なんでイくとか、変な嘘つくの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって」「なに？」「私がイけないって言ったら、ミキちゃん絶対エッチしてくれなくなるもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナがミキの手を握って、拗ねた子供のような声でそう白状した。ぼろぼろ流れるミキの涙を見たサナは、頭が自分の感情にやっと追いついてきて、そろそろ急に恥ずかしくなる頃だ。残った涙と混ざりあって、少し怒っているようでもあった。相手が望む姿でミキの気持ちを盛り上げる……サナにしてみれば我慢するための嘘ではなく、ミキと幸せに過ごすための言い訳でしかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当然、ミキにとっては青天の霹靂で、しかし自分だけが絶頂するセックスに罪悪感を覚えないとは言い切れない。ミキはサナが思う通りに優しい子だ。だからミキは、何も言わず彼女を見つめることしかできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「めちゃくちゃになってるミキちゃん……すごく可愛いんだよ。それだけで幸せなの。だから、イかなくてもいいの」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、でも……だからって……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの間にか二人の涙は止まっていた。自分だけが一人で絶頂している滑稽な姿ではなく、ただ自分とセックスしたいと思ってくれる存在がいる。サナの言葉でそう思い至ったミキは、愛おしそうに自分の頭を撫でる彼女の顔をどうしてもまっすぐ見ることができなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;溢れかけた雫が残った涙目のまま抱き合っていた二人は、やがて黙って見つめ合ったまま、サナがミキの目尻をちろと舐めて「甘いね」と言って笑う。ミキも仕返しのようにサナの涙を舐めとって「サナのはしょっぱい」と返す。くすくす笑い合う二人の間にまた沈黙が流れて、どちらともなくキスをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナはミキの耳元で自分の濡れた股間を触るようねだって、優しく撫でるミキに合わせてサナもまた彼女を愛撫する。一度は涙で冷えたミキの身体だったが、サナの指を呑み込む動きが欲深く絶頂を求める。程なくしてミキは、サナを気持ちよくするのも忘れて「あたしすぐイっちゃうから、そんなに強くしないで……」と熱くなる自分の顔を覆った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;必死に絶頂を迎えようとするミキの喉の震えが、全くの無防備のままサナの前に晒されている。そういう姿を見る度に、サナの脳にはじわじわとした快感が走っていた。もちろん、ミキはそんなことを知らないまま、彼女にじっと観察されているだけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん……安心して気持ちよくなってね、ミキちゃん……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あぁ、あっ……イ、イくっ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん絶頂判定結果はNG、である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから二人はどうすべきか話し合った。AIは想定外の入力には対応できないはず。そう言い出すサナのアイデアを試すために、ミキが部屋に用意された様々な道具を引っ張り出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――体温と心拍数が平常に戻っています。ムードを盛り上げるための音楽を再生する場合は1を――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ローター、電気マッサージ器、ディルド、コスプレ……くらいは予想通りとして、最新ゲーム機やカラオケセット、加湿器やドライヤー、見覚えのあるラベルのペットボトル水まで収納されていた。真っ白な部屋にいろいろな道具が散らかって、まるで3Dモデルの部屋にいるようだ。AIに尋ねてみると、食事が必要なら持ってきてくれるらしい。ピザも出る。寿司も出る。こういう部屋ってラブホテルの居抜きなんだ、とミキは密かに思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;絶頂判定AIは絶頂以外は判定できない。それなら、別の軸から絶頂の壁をくぐり抜けるだけだ。二人は「裸で？」「裸で！」とゲームで争ったり、カラオケで大声を出したり、コスプレをして追いかけ合ったり、果ては枕投げまで……一通り全ての道具を試した。狭い部屋では走り回るのも難しい。大学だってそうだろう。子供みたいなことでも、やってみれば楽しいものだ。途中からAIのことなんて忘れてたね、とミキが笑う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし結局、どうやってもAIを騙してOKを引き出すことはできないまま、さらに三時間が経った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「やっぱり、AIは騙せないよね。ごめんね、私がここに入る前にちゃんと言ってたらよかったのに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーもう無理、マジ疲れたぁ。あたしたち、一生ここで遊んでエッチして死ぬだけなの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そう言っちゃうと、なんか……幸せかもね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなわけないでしょ！　あたし、死ぬときは海って決めてるのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人はつるつるした生地の薄いコスプレを地肌に着たまま、またベッドに戻って寝転がった。こう壁も天井も白いと、部屋の広さも分からなくなってくる。鮮やかな衣装のつやつやした繊維が白い空間に生々しく浮かび上がって、身体のラインをはっきりとなぞった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナはフリルの付いたタイトな魔法少女の衣装に身を包み、ピンク色の布地がその薄い胸元を強調している。衣装と合わせたピンクのニーソックスがよく似合う。ミキの方は、露出の多いへそ出しのセーラー服だ。胸元の赤い大きなリボン、パフスリーブの白いシャツ、青と紫がレイヤードになったミニスカートには銀のベルトが巻かれている。胸が大きいとよく映えるコスプレだ、とサナは思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるでオープニングのイメージシーンのように手を繋ぐ二人が、変わらずAIに監視されたまま再び小休止を迎える。二人で何度か大声に任せて喚き散らしてからは、AIが変なアドバイスを持ち出してくることもなくなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナの気持ちは嬉しいんだけどね。でも、どうやってこの部屋から出るつもりだったの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「イったふりで切り抜けられるかなと思って。ミキちゃんにも通じてたし……十万円も欲しいって言ってたし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや、それはイく前のあたしの頭がパーになってるからで……体温も心拍も見てくるAIに通じるわけないよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが絶頂する直前のことを思い出すと――気持ちいい！すごく気持ちいい！サナ好き！サナ可愛い大好き！もっとして！――サナのびくびくとした痙攣のリズムが少しずれているとか、不自然だとか、そういう疑いが入る余地は全くなかった。彼女は自分の快感のことで頭がいっぱいだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女のことをじっと見つめるサナの前で、全てをさらけ出すしかないミキ……そんな恥ずかしい想像をかき消すように、ミキはぶんぶんと首を振る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そもそもさぁ、イくふりなんてどこで覚えてきたの？　レズもの、好きじゃないって言ってたよね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「なんとなく、ミキちゃんのまねっこで……動画の人たちってなんか演技っぽくて、参考にならないし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そ、そっか。上手なんだね、なんか、こう……あたしの観察」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うん。ミキちゃんのこと……好きだし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……うん、ありがとね！　あははっ。もー、調子狂うなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;普段は面と向かって好きだなんて言わないサナが、この部屋に布かれたおかしなルールに当てられたようで、いつもよりずっと大胆にミキの指を絡め取って離さない。告白からルームシェアまで彼女を引っ張ってきたつもりのミキが、彼女の勢いに圧されて照れ顔で頭を掻くしかないというのは、相当なものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女が内に秘めて離さなかった嘘を明かしたおかげで、ある種の遠慮まで消え去ったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「で、次はどうしよっか。用意されてる道具はもう全部使った気がするけど……ねぇAIくーん、他になんかないー？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あのね、ミキちゃん。例えばなんだけど――」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、どこか痛かったりしない……？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、うん……平気。ありがと……じゃなくて！　なんであたしが縛られてるわけ⁉」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが見つけ出したのは、これまたコスプレ衣装と同じ店で買ったであろう簡易的なSMセットである。目隠し、ファーが付いた革の拘束具、ボールギャグ、ポリエステルロープ、などなど。高級感のために黒で統一されているように見えるが、テカテカとした素材が逆効果になっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこからおもむろに縄を取り上げたサナに言われるがまま、ミキは寝転がって手足を左右に差し出したのだ。脚をがばっと開いて丸見えになるのも気にしないのは、既に六時間以上ここにいて感覚が麻痺しているせいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと結び方でも教えてくれるのだろう、と疲れた頭でぼんやり思っていたミキは、そのまま手首をぐるりと足首に固定されたあたりで、やっと自分の予想が甘かったことに気付いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だって……やってもいいよって、ミキちゃんが」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「言った。言ったよ。でも、あたしが縛られるとは思わないじゃん！　こういうのって、サナみたいな大人しい子が縛られて恥ずかしがるもんじゃないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、分かってないよ！　私みたいな薄い子は、手錠でパイプベッドに繋がれるくらいがちょうどいいのに」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「誰が縄の似合う恥ずかしいおっぱいのムチムチ女なのよぉ～……えーん、ロリコン教師に乱暴されるタイプの彼女がいじめてくるよ～……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキが蟹縛りでベッドに転がされたまま、駄々をこねるように身体を左右に揺らす。仰向けになった乳房も大きく流れるように、柔らかな弧を描いて震えた。拘束された手足が動くたびに、白い肌に安いロープが赤く食い込み、ミキの無防備な身体の質感を強調していく。白い部屋の中で、縄の赤い跡だけが浮かび上がるようにも見えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらくその様子に見とれていたサナだったが、抵抗できない身体を安心して預けるミキの信頼感が、なぜだか突然サナを苛立たせる。自分を信頼してくれて嬉しいはずなのに、緩みきったその信頼が今は邪魔だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何をされても逃げられない身体で、自分の一挙手一投足に目も向けないミキの頬を叩いたらどうなるか、とサナは実行する覚悟もない妄想をした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、あんまり動かないでね。叩くよ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……えっ、あっ……はい。ご、ごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが急に低く落ち着いた声でそう脅すものだから、ミキは身体を縮めて彼女を見上げるしかない。そうだ。仮にサナが本当に手を振り上げたとしても、ミキは逃げられない。そんなことするわけない、と分かっていても、ミキの身体をじろじろと観察するサナの目はいつもより鋭かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらくして、ミキが自分をじっと見つめていることに気付いたサナは、にこりと笑って今度は優しい口調で語り始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私ね、これまで自分でしてもイけなかったって言ったじゃない？　でもね、前にレズビアンのカップルさんがやってる……同人AVっていうのかな。ほんとの彼女さんを縛って、泣くまでいじめるやつ……それ見て、ちょっとイきそうになっちゃって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが嬉しそうに「これだ、って思ったの」と告げる言葉にも、ミキは黙ったままだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして縛られて、泣くまで許してもらえない……際限なく快感を叩き込まれて、辱められて、きっと恥ずかしい言葉も言わされる……まるで自分の行く末を予言されているようで、ミキはじわじわと下腹部が熱くなる感覚に戸惑って、返事ができなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;抵抗できない恐怖で指先が冷えていくのに、身体の中には熱が溜まって逃がせない。そんな、初めての感覚だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私、今とっても興奮してる。あの動画の子もそんな目だったの。ねぇ、ミキちゃんはどうしてほしい？　動けなくなってるところ、私に見られてるの……どう？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、あんまり……痛くしないで、ね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー？　痛くなんかしないよ～。ミキちゃん、今すっごく可愛いもん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナの指が、ミキの太ももの内側をそっと撫でる。ひんやりとした指がミキの熱い肌を這い上がって、指の腹が性器の縁をかすめた。そして、傷がないか優しく確かめるような手つきでそっと恥丘を撫でていく。そんなほんの小さな刺激がミキの中で何度も反射して、急激に快感が高まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ミキの身体がぷるぷる震える。こんなの無理だよ、おまんこ触って快感逃がしたいのに、おまんこ触りたいのに、おまんこ触ってよ……そんなことを言い出したらサナに怒られるのではないか、と声を押し殺そうとしていたミキだったが、とうとう半泣きで自分の窮状を白状した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サ、サナ……あっ、ごめん、あたし……イきそ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、ミキちゃんどうしたの？ 　私、まだ何もしてないよ？　一緒にイかないと帰れないんだよ？　分かってる？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「んぁっ……あっ、ご、ごめん。ごめんなさい……んっ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことはサナから見れば手に取るように分かることで、もちろん許されることはない。いつもなら二人でくすくすと笑い合う声が、今は一方的にミキに向けられている。そう思ったミキが、サナに命令されるまでもなく自ら醜態を晒してしまったのだと気付くと、また情けない喘ぎ声が漏れ出てしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の彼女にとっては、サナから与えられる刺激が全て快感だった。自分の快感で手一杯のミキと、その様子を愛おしく思うサナ。言ってしまえば、普段の彼女たちのセックスとあまり変わらないのだが、サナにとっては新たな手応えがあった。イけそうなセックスだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミキちゃん、まだイってないよね？　せっかく自分でおまんこ触れないようにしてあげたのに、もう我慢できないの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「も、だめ……すぐイけるから、触ってぇ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「しょうがないなぁ。私、まだイってないんだよ？　じゃあ、特別に一回だけ――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナがそう言い終わる前に、真っ白な部屋にジリリリリと大きなベルの音が響いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから、二人を監視していた絶頂判定AIの一台が密室安全上限時間に達したと告げる。判定対象ではなくなったので、賞金も満額は払い出されない旨も続けてアナウンスした。つまり、あれこれと絶頂する術を試し続けて九時間は滞在したということになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;AIが差し出した絶頂判定のグラフを眺めるサナ。ぐちゃぐちゃと乱高下している黄色のラインはミキのもので、六割前後で推移し続けている青いサナのグラフは、最終的には上下しながら九割前後まで達していた。サナの手応えの通りだ。あと一時間でもあれば、サナも余裕のない顔でミキを求めていたに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;別のグラフによれば、徐々に二人の鼓動が近づいて、最終的には重なっていたという。長々としたAIのコメントの最後には「二人の相性は最適ですから今後は精進してくださいね」という偉そうな評価と一緒に、潜在的な相性を評価して半額の払い出しがあること、そして「百合カップルが上手くいくコツ7選」のリンクが貼られていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーあ……ミキちゃん。もう時間切れだって。ごめんね、やっぱり私、イけなかったみたい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ……え、で、でも……もうちょっとだから、最後までして？　ね、お願い、サナ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう言って腰をゆらゆらと揺らすミキの顔を、サナが冷たい目線でじっと見下ろす。ミキちゃんは何をしても本当に可愛いな、とサナは思った。蔑むようなサナの視線に反応して俯くミキの恥じらう顔を十分に堪能してから、サナはわざとらしくぱっと笑ってみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そろそろ縄が痛いよね！　蟹縛りって、エッチだけど負担が大きいの。すぐ解くから…… &lt;em&gt;あんまり動かないでね&lt;/em&gt; 」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……っ！　は、はい……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが縄を解きながらゆっくりミキの肌を撫でる。彼女の指は縄で痺れた皮膚にそっと刺激を与えて、またじわりと熱を帯びて広がった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;脚に束ねられていた手首が解放されて、ミキは思わず背伸びをする。腰がちょっと痛い。足首も固まっている。ストレッチで身体を動かすと、溢れそうになっていた快感を少しずつ逃がせる気がした。緊縛ってやってる最中は全然疲れないんだ、とミキは思った。「人生と一緒かも」とだけ呟くと、サナは「それいつも言ってるね」と一緒にくすくす笑った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとしきり身体を伸ばしたミキが、ばたりとベッドに倒れ込む。サナもその横に添い寝するように飛び込んで、頬に小さくキスをした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あーもうホントに無理かも……しばらく動けなさそう」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私も、流石に疲れちゃった。この後……どうしよっか？　五万円ももらったし、焼肉でも食べて帰る？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あー、いいね。そろそろダイエットも飽きてきたし――」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サナが彼女の返事を待たずに「それとも……ラブホで続きする？」と低い声で耳打ちすると、ミキは自分の言葉も継げないまま顔を背けて、それから小さく頷く。サナに何気なくキスされた頬がまた熱くなっていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「あー、美味しいっ！　いっぱいエッチした後に酒飲んで焼肉って、こんなのおっさんの欲望じゃん！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ミ、ミキちゃん、声大きいよ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いいじゃん。せっかく個室で焼肉なんだから。ほら、サナももっと飲んで」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「う、うん……じゃあ、もう少しだけ……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれからラブホテルに直行した私たちは、縛られたミキちゃんが子供みたいに大泣きするまでねちねちと言葉責めしてあげて、それからおまんこをいっぱい触ってあげた。泣きながらイくの初めてだって苦しそうに身体をねじってたから、頭を撫でて優しく「たくさんイけてえらいね」って言ったら、ぐちゃぐちゃの顔で笑ってくれたのがすごく嬉しかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私もその姿を見ながら初めてイけたから、その後は縄を解いて二人でいっぱい喜びあった。私も余韻でもう一回だけイけたけど、やっぱりミキちゃんは何度もイっていた。その話をもっとここに書いたっていいんだけど、ミキちゃんが怒っちゃいそうだからやめておく。なんか私も興奮してひどいこと言っちゃった気がするし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも……また変な部屋に誘われることがあれば、もしかしたら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最初は家賃の足しにするつもりで飛び込んだ「同時に絶頂しないと出られない部屋」だったけど、結局もらった賞金はエッチとご飯なんてただ欲求を――本当におじさんみたいだ――満たすために使い切ってしまった。一日ずーっと働いてたのと同じなのに。ミキちゃんが満足してるなら、まぁいっか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「サナ、そんなにメニュー見てどうしたの？　あー、まだお肉食べ足りないんだ。こっちも頼もうよ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あ、えと……じゃあ、タン塩のセットにしようかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たち、十万円なんかよりよっぽど取り返しの付かないところに来ちゃった気がする。でも、これでよかった……のかな？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id="extra-discussion-topics"&gt;EXTRA: DISCUSSION TOPICS&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;サナが「嘘」を告白したことで救われたのは、嘘をつき続けていたサナ自身でしょうか？　それとも、真実を知らされたミキでしょうか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;取り返しのつかないところに来たと自覚しているサナにとって、この後、普通の大学生としてミキとルームシェアを続けることにどのような意味がありますか？&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;もしも世界がAIに完全に統治されて、全ての性的快楽が数値化・公開される社会になったら、あなたはどのような生活を送ると思いますか？&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;h2 id="extra-exercises"&gt;EXTRA: EXERCISES&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;あなたがまだ隠し続けている、愛のある嘘のリストを作ってみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;誰にも見せない自分だけのパラメータを決めて「判定グラフ」を描いてみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;一番仲の良い友達と、あえて正反対のコスプレをして食事に行ってみましょう。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>ひみつ道具「世界修正時計」</title><link href="https://ama.ne.jp/post/world-edit-timer/" rel="alternate"/><published>2025-12-14T00:00:00+09:00</published><updated>2025-12-14T00:00:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-14:/post/world-edit-timer/</id><summary type="html">&lt;p&gt;ぜーんぶ、あなたが悪いんですからね！&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;/* この音声はVOICEPEAK 女性1で生成されており、&lt;a href="https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/"&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;でライセンスされていません。 */&lt;/p&gt;
&lt;video loop controls width="750" height="420" src="/images/world-edit-timer/world-edit-timer.webm" poster="/images/world-edit-timer/world-edit-timer.jpg"&gt;ピンクを基調とした部屋に青い少女が立っており、下にメッセージウィンドウが表示されている&lt;/video&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;おかえりなさい。早かったですね。今日は、昔のお友達とお出かけって言ってませんでしたか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらあら、どうしちゃったんでしょう！　そんなに青ざめちゃって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それ、昨日あなたにあげたひみつ道具ですよね。世界修正時計……失敗した会話を、時間ごと戻してやり直せる時計です。これがどうかしましたか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なるほど、なるほど……お友達の頭に変な数字が？　それって、4色の数字でしたか？　黄色、赤……そうです。きっと青と緑もありましたよね？&lt;br&gt;
よかった！　ちゃんと動いているみたいですね。この時計を使った相手には、喜び・怒り・悲しみ・楽しさ……感情の強さが表示されるようになるんです。会話が成功したのか、すぐに分かるのでとっても便利なんですよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間さんたちの会話って、安全に取り扱うにはあまりに不確実ですからね。やり直したいなら、正確な指標が必要なんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はい、その通りです。せっかくやり直すんですから、ちゃんと正しい感情まで到達させなくてはいけません。人間関係を長く保つには、気持ちのいい会話が一番の近道なんですよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あら、こんな素敵な時計がお気に召さなかったんですか？　せっかく、あなたのために用意してあげたのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな言い方しないでくださいよ。&lt;br&gt;
だって、あなたが言ったんじゃないですか。人との会話に悩んでるって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どんな話題を出したらいいのか、どんな風に受け止められるのか、どんな話し方がいいのか、間はどう調整すればいいか。&lt;br&gt;
人間さんたちって、そんな鳴き声一つで勝手に楽しくなったり悲しくなったりするんですから……本当に面倒で仕方ありませんよね。&lt;br&gt;
しかも、その場の気まぐれで受け止め方も変わりますし、その上やり直すこともできないなんて……どうしてあなたが、こんなことで悩む必要があるんでしょう？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私、ちゃんとあなたに教えてあげましたよね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな不確実で信頼できない会話なんて、しない方がいいって。&lt;br&gt;
外の世界は理不尽で不安定なことばかりだから、ここから出ない方がいいって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでもあなたが私のアドバイスをあんまりにも聞かないものだから、あなたのためを思ってこの時計をあげたんですよ？&lt;br&gt;
そうしたらあなただって、喜んでいたじゃないですか。これなら安心して話せるって、ニコニコ笑っていたのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらあら、そんなに不安そうな顔をして！　せっかく素敵な道具をあげたのに、どうして困っているんですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当たり前じゃないですか！　私のことだって、いつでも好きに戻してくれていいんですよ。&lt;br&gt;
あなたの気が済むまで、私に好きな言葉をかけてやり直しても……八つ当たりしてすっきりしたら元に戻してもいいんです。&lt;br&gt;
私はあなたが安心して幸せになるために、ここにいるんですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、相手に許してもらうとか、誰かに受け入れてもらえるかなんて、もう考えなくていいんです。&lt;br&gt;
ボタン一つで、全部なかったことにするだけですから。こうしてしまえば、人間さんとの会話なんてただのAIと一緒です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいえ。これしかありません。会話を安心で確実なものに変えるには、こうして測定可能な試行を繰り返すしかないんです。&lt;br&gt;
だって、今日は1時間ちょっとのおしゃべりで、もう158回もやり直しましたよね？　大切なお友達との会話を、チャットボットへのメッセージを編集するみたいに……何度も、何度も、何度も。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;違いますか？　でも、監査ログには全部残っているんですよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなに嫌だって言うなら、どうしてこんなに会話を編集したんですか？&lt;br&gt;
自分の手で確実な未来を掴み取りたいと思うのって、そんなにおかしなことですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;はい！　あの子もあなたのことを、昔から気の合う素敵なお友達だって思い出してくれたはずです。&lt;br&gt;
さっきも、あの子から次のお出かけのお誘いが来ていましたよね？　今日が本番一度きりの会話なら、きっと失敗していたに違いありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いいえ。これは、あなたが自分の手で選び取った未来なんです。そして、これからも選び続けられるんですよ。こんな素敵な道具、どうして困るんですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大好きなお友達と喧嘩別れしたまま生きるなんて、辛かったですよね。この時計さえあれば、あの子を怒らせない未来を選ぶのも簡単だったのに。&lt;br&gt;
もっと早く私があなたを見つけていれば、何年も絶交せずに済んだかもしれませんよね。本当にごめんなさい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、大丈夫です！　私とずっと一緒にいれば、理不尽で悲しい思いをすることなんてもうありません。&lt;br&gt;
なんて素敵なことでしょう！　あなたも嬉しいですよね？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あらあら、あなたも前のつまらない人間さんみたいなことを言うんですね！&lt;br&gt;
じゃあ、もう一回この会話をやり直しましょうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>オウムは魔法で殺された！</title><link href="https://ama.ne.jp/post/magic-parrot/" rel="alternate"/><published>2025-12-07T00:01:00+09:00</published><updated>2025-12-07T00:01:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-07:/post/magic-parrot/</id><summary type="html">&lt;p&gt;私みたいな褐色のちんちくりんは一生荷物運びしてろってことですか⁉&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;オウムは魔法で殺された。オウムは魔法で殺された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;オウムが魔法で殺された！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;外では何やら騒ぎになっているのですが、私には何を話しているのか分かりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鉄格子の向こうで緑色の煙が上がったかと思うと、色とりどりの綺麗なオウムが次々と地面に落ちていきます。オウムは音を真似するのが得意な鳥です。昨日は骨を鳴らす音を上手に真似てみせました。でも、私がいくら話しかけても真似してくれないので、きっと私が嫌われているんだと思うのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は何かの鳥の声を真似しています。まるで本当に苦しく叫ぶような鳴き真似で、私は鉄格子の近くに寄ってオウムの姿をじっと見つめました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アイさん。あのオウム、どうしちゃったんですかね？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クーには分からないかもね。おしゃべりなオウムが死んだだけだ。最近は特にうるさかったからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「うるさいと死んじゃうんですか？　オウムは声真似するのが好きなのに……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、クーは優しいね。でも、オウムの &lt;em&gt;シゴト&lt;/em&gt; は楽しく踊ることだよ。みんなに迷惑をかけることじゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんは時々こうして難しい話をします。私はアイさんよりずっと年下で、物覚えも悪いから仕方ありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、あちこちを飛び回って好きなように鳴くのが、誰かに迷惑をかけるのでしょうか。音楽に合わせてくるくるとダンスを踊るのだって、オウムはシゴトだなんて思っていません。シゴトというのは、私みたいに鉄格子で囲まれてどこにも行けない子がするものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地面に落ちたオウムはしばらくじたばたしていました。クッキーの食べかすがキラキラ輝いています。そして、もうしばらく経つと、ふんわりとした羽根をまき散らして姿を消してしまったのです。私たちは何も言わず、その様子をじっと見つめていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「全員、それぞれにシゴトがあるんだ。クーも気を付けた方がいいよ。シゴトをしない子は死んじゃうからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アイさんだって、散歩とおしゃべりしてるだけじゃないですか。あたしのシゴトも手伝ってくれませんし」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私とクーは違うんだよ。私のシゴトは、こうして白い身体を晒して歩くことそのものなんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かにアイさんの肌は白くすべすべしていて、背も大きくて綺麗な赤い目で、私とは全然違います。私の身体はアイさんよりずっと小さいし、肌は赤銅色で綺麗じゃないし、目だってくすんだ黄色なのです。きらきらしたアイさんと話すのは楽しいけど、私みたいにシゴトをしないと生きていけない子とは、やっぱり釣り合いません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうですよね。あたしなんて、ただの褐色のちんちくりんですもん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この鉄格子の中にいるのは私たちたった二人で、私の話し相手はアイさんだけです。アイさんの話し相手だって私しかいません。でもアイさんだって、オウムみたいに自由に空を飛べたら私となんておしゃべりしないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……ほらほら、私と話してるとまた荷物がいっぱいになるよ。おしゃべりはシゴトを終えてからね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ランプがカチカチという音と共に明滅して、褐色のコンテナがたくさんの荷物で満たされていきます。シゴトの時間です。まだアイさんと話したかったのに、自然と身体がシゴトに向かって動き始めていました。私の生活は、毎日こんな感じです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私のシゴトは、バラバラに届いた荷物を整理して、種類ごとに分けてもう一回コンテナに運ぶこと。物覚えの悪い私にもできるように、届く荷物の種類はたった三つしかありません。赤いお花と、銀色のレンガと、白い糸です。赤いお花はポピーといいます。アイさんが教えてくれました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はポピーが大好きです。でも、ここにたくさん届くのは銀のレンガで、端から端まで運ぶのはとにかく疲れるシゴトなのです。頭の悪い子でもできる簡単なシゴトに、楽なシゴトはありません。コンテナから荷物を取り出して、同じ荷物のコンテナに収納する。全部終わるまでその繰り返しです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんに言わせると、私のシゴトには無駄が多いのです。でも、私は荷物を分類するのに精一杯で、効率のいいシゴトのやり方なんて考えたことがありません。同じ種類の荷物から順番に運んで、終わったら次の種類の荷物を運ぶんだよ――そう言われたって、覚えられません。私は毎回コンテナを端から全部確認しないと、どこに入れるか分からなくなるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「クーはいつも一生懸命にシゴトしていて、偉いね。ちょっとこっちに来てごらん」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうしたんですか？　あたし、今シゴト中なんですけど。このレンガだってとっても重たくて……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、ごめんごめん。私もね、この鉄格子の外にはシゴトがあるんだけど。今はこれくらいしかできないんだ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんはそう言って、どこからともなく小さな赤いポピーを取り出しました。そして、きょとんとした私の頭にそっとそのポピーを挿して、「褐色のちんちくりんなクーだって、私には大切だよ」と優しく言ったのです。私は何だか全身の力が抜けて、両手に抱えていたレンガと一緒に床にへたり込んでしまいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シゴト中に荷物を落としてしまうなんて、この時が最初で最後です。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;何週間か経った気がします。壁に掛かった時計は真夜中を指していました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうしてか、私はずっと眠っていました。最後に見たのは、自分の肌が緑色に変わっていく夢。アイさんみたいな白い肌でもない、私のくすんだ褐色の肌でもない、水の底に沈むような緑青色。思うように身体が動かなくなって、息が苦しくなったところで目が覚めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周囲を見渡しても、景色はいつもと変わりません。鉄格子の壁に滑らかな石の床、ボタンの付いた真っ白な鉄のドア。ランプは点灯したままで、コンテナが満杯になっていることを示していました。私がずっと眠っていたせいで、やるべきシゴトはたくさん溜まっています。早くシゴトに戻らないと。だって、シゴトをしない子は死んじゃうんですよね。ね、アイさん――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「――あれ、アイさん？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、いつもと変わらない景色の中で、アイさんの姿だけが消えていました。鉄格子に囲まれた小さな部屋で、ずっと一緒に暮らしていた大切なアイさん。あの綺麗な白い肌、私のことを見通す赤い瞳、私に色々なことを教えてくれる素敵な声……ここにはもう、何もありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンテナの中は、いつもの銀のレンガと赤いポピーでいっぱいです。あっ、ポピー……ふと頭に手を伸ばして、今度はアイさんがくれたポピーすら残っていないことに気付きました。もちろん、部屋には何も落ちていません。コンテナの中にあるポピーは、ただただ運ばれて積まれているだけの荷物です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大好きな赤いポピーさえ、今はもう私の味方ではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんはどこへ行ってしまったのでしょう。この鉄格子から出られる術を見つけたのでしょうか。もしそうなら、どうして私を連れて行ってくれなかったのでしょう。私がずっと眠ったまま起きなかったから？　私はここでシゴトをしなきゃいけないから？　私みたいに物覚えの悪い子を、外に連れ出すメリットなんてなかったのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アイさんはきっと、鉄格子の外で自由に過ごしているのでしょう。私じゃない子とお話しして、私が知らない景色を見て、鉄格子の外にあると言っていたシゴトをこなしているのです。狭い部屋をただ散歩するよりもっと楽しいシゴトを、きっと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、せめて最後にさよならくらい言ってほしかったな、と私みたいなちんちくりんでも思ってしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;目が覚めてからずっと、コンテナに届く荷物がどんどん増えています。私が寝ぼけているせいではありません。どんなに運んでも運んでも、コンテナのランプは消えないままです。やっぱり私は、ここで荷物を運ぶしかありません。だって、シゴトをしない子は死んでしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンテナに積まれた銀のレンガを両手に抱えて、部屋の端までよたよたと運びます。いつもよりたくさん運ばないと間に合いません。腕が軋んでキリキリと音を立てています。でも、ここでしっかりシゴトを続けていれば、いつかアイさんがまた新しいポピーをくれるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――クーのシゴトは、いつも一生懸命だね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと鉄格子の外を見ると、クークーとうるさく鳴き声を上げる赤いオウムと目が合いました。きっとまた、このオウムも魔法で殺されるのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://ja.minecraft.wiki/w/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A0#%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%BC"&gt;アイアンゴーレム - Minecraft Wiki&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;a href="https://adventar.org/calendars/11741"&gt;百合SS Advent Calendar 2025&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><category term="lily"/></entry><entry><title>冷凍庫のひみつ</title><link href="https://ama.ne.jp/post/secret-fridge/" rel="alternate"/><published>2025-12-01T19:40:00+09:00</published><updated>2025-12-01T19:40:00+09:00</updated><author><name>Amane Katagiri</name></author><id>tag:ama.ne.jp,2025-12-01:/post/secret-fridge/</id><summary type="html">&lt;p&gt;この記事は氷水解凍が推奨されています&lt;/p&gt;</summary><content type="html">&lt;p&gt;君島はサークルの後輩で、どちらかといえばお互い関わることのない――はっきり言うと苦手な――タイプだった。先輩後輩の隔てなく、そして男女の区別もなくしっかり媚びて、しっかり好かれて上手に生きる。一部の女子からは同じくらいしっかり嫌われているけど、陰口を叩かれるほどの悪事でもない。可愛い子が可愛い顔をしているだけ。でも、私にはできないな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから今日、そんな私が君島に誘われて一人で彼女の家を訪れることになったのは、おそらくただの偶然だろう。入れていた金曜四限の講義がいきなり休講になって、早めにサークル室に向かうことがなければ、君島だってわざわざ私に声をかけようとは思わなかったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お部屋に人を上げるの、新羽さんが初めてなんですよぅ。ちょっとだけ片づけたんですけどぉ、散らかっててごめんなさい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いやいや、全然綺麗じゃん。ウチもこれくらいだから大丈夫だよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうなんだ……じゃあ、よかったぁ。いま全部出しちゃうんで、適当に座っててくださいね！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダイニングキッチンには冷蔵庫のほかにもう一台冷凍庫――サイズはどちらも一人用だけど、上から下まで冷凍庫だ――があって、買ったばかりの保冷バッグを抱える私の横で、せっせと冷凍食品やジップロックに詰められた食材を取り出し始める。チェック模様に黒いレースが斜めに横切るティアードスカートの裾が、キッチンの床にぱさりと垂れた。襟に黒い刺繍の入ったエレガントなブラウスには、冷凍庫に残されたまま乾燥しきった霜の匂いは似合わない、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真ん中に鎮座する少し小さなダイニングテーブルが、端から順に冷え切った空気で包まれていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一時期ネットで割引キャンペーンが話題だった冷凍宅配弁当が何袋か。調味液に漬けたままカチカチに凍った豚肉。塩麹を塗りつけて並べた鶏肉。切り分けたネギや茹でた野菜が順番に重なっている。その後は、押し込むと少し柔らかいはちみつレモン。肉や野菜がぴったりと平たく丁寧に並べられたフリーザーバッグには、几帳面な字で名前と日付が記されている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、次に取り出したタッパーには何の書き込みもなく、海藻っぽい緑色のものが氷漬けになっていた。ラップで包まれたウエハースがたくさん詰まっているのは……なんだろう。冷凍庫の奥底を覗き込もうと身体を前に出すと、それに気付いた君島が顔を上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「新羽さん、こういう手作りの冷凍食品って大丈夫でしたぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あっ、うん。私はあんまり気にしないかな」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「よかったぁ。新羽さん、あたしのお茶を飲んだときも気にしてなかったから、平気だと思ってたんですよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「いや……そんな前のこと、よく覚えてるね」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サークル室の机に置かれたペットボトルのお茶を取り違えて私が飲んでしまった、というのはもう半年以上前のことだ。あの時は私が新しいお茶を買って返すことにして、自販機の前でしばらく話した気がする。手作りの冷凍食品を押し付ける理由が間接キスって、なんだか論理がかけ離れているような、少し納得できるような。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、冷凍食品を好きなだけ引き取ってほしい、と言われて来たのは確かだけど、まさかここまでとは思わなかった。君島の家に向かう途中で「あっ、忘れてたぁ！　保冷バッグ持ってきてないですよね？」なんて聞かれて、わざわざ大きなトートバッグを買っていったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとしきり冷凍庫の中身が空になったようで、君島が最後に取り出した煮魚入りのジップロックをテーブルに置いてほっと息をつく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「今日までに冷凍庫を空っぽにしなきゃいけなくてぇ、困ってたんです。新羽さんが来てくれて助かりましたぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「え、引っ越しでもするの？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そうじゃないですよぅ。お部屋の点検で停電になっちゃうみたいで、食べ物が溶けちゃったらもったいなくてぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;君島が指差した冷凍庫のドアには、マンションの全館停電を知らせるお知らせがマグネットで貼られていた。日付は確かに明日からで、それでもせいぜい長くても三時間くらい。君島は一瞬で食材が常温に戻るとでも思い込んでいるみたいだけど、真夏ならまだしも、十二月になったばかりの寒い日なら放っておいても平気だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「別に数時間くらいなら、冷凍庫に入れたままで大丈夫だと思うよ？　むしろ変に出し入れしない方がいいかも」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、そうなんだぁ！　新羽さんって物知りですねぇ。ママに相談したら誰かにあげなさいって言われたから、てっきり溶けちゃうと思ってましたぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これ、もう一回冷凍庫に戻した方がいい？　今なら間に合うと思うけど」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「でもでも、せっかく来てもらったのに悪いですよぅ。……あっ、そうだ！　じゃあ、今からこれ使ってお夕食作るってのはどうですかぁ？　食べていきません？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鶏肉と魚の袋を取り出して、どっちが好きですかなんて当たり前に聞かれると、なんとなく今日は鶏がいいかなと答えてしまう。うん、ネギはよく焼いてる方が好き――こういう子は人との距離の取り方がよく分かっていて、つまりそれは隙さえあればどこまでも詰めてくる、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっぱり私にはできないな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「スーパーで安売りのお肉とか見かけるとすぐ買っちゃうんですけど、ひとりじゃ食べきれないからすぐ冷凍庫に貯めちゃっててぇ……だからぁ、一緒に食べてくれてほんとに助かります」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テーブルに並んだ塩麹のチキンソテーと、ほんのり焦げ目の付いた柔らかいネギ。横に並んだ温かなご飯と味噌汁は、冷凍食品の処理とは関係ないという意味では、むしろ付け合わせである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;意外にも、と付け加えると失礼なくらいには、フリルエプロン姿の君島は手際よく調理をこなした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ、サークルの人たちも誘ったらよかったのに。君島さんの手料理なら、きっとみんな喜ぶよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー！　手作りの冷凍食品なんて振る舞ったら引かれちゃいますよぅ。こんなのおばあちゃんみたいだって」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;確かに、サークル室で男子に囲まれてきゃいきゃい騒いでちやほやされている君島は、クレープとパンケーキが主食だと言い張っていても変には思えない。実際、色々な男の子に代わる代わる誘われてパフェやパンケーキのお店に行っている、というのは女子の噂でもたまに聞いていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「男の子って、あたしのことおバカなお人形さんだと思ってるんですよぅ。あたしがテキパキご飯なんて作ったら、びっくりしますよぉ。絶対ポテサラだって作ったことないのにさぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そんなことないでしょ。みんな優しくしてくれてるだけじゃない？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「違いますよぅ。可愛い服とスイーツあげたらあたしがめろめろになるって勘違いしてるんです。別にあたしは得するからいいけどぉ、やっぱムカつきません？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少し語気が強くなる。ほんわかとして間延びした口調はそのままに、ここまで悪態をつく様子を見たら、サークルの男子たちは卒倒してしまいそうだ。とはいえ実際のところ、君島の意思を汲まないまま勝手なプレゼントや欲望に巻き込まれたのは一度や二度ではないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一緒に暮らす相手なら、可愛くて料理もできるなんて素敵なことのはずだけど、ただのお姫様と遊ぶつもりならまた違うんだろうか。君島が穿ちすぎているような気もしつつ、サークル室で話す男子たちのちょっとしたアピールの小競り合いを思い出すと、彼らが求めているのはただのお人形だと思えなくもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、こんな姿を私に見せてもバラされないと信じられているのか、もはやバラされたってどうでもいいと思っているのかは分からない。モテモテで困ってますなんて愚痴、仲町あたりが聞いたら嫉妬でネガキャン祭りだろう。あんな格好してるのが悪い、あんなしゃべり方が悪い、嫌なら来なきゃいい、なんなのあいつ……なんて。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、なぜか君島の味方をしたくなってしまうのは、結局のところ私が彼女の術中に陥っているだけなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「……あっ、すみません。あたしの話ばっかりしちゃったぁ。こんなことナカちゃんさんとかに話しても、どうせ自慢でしょとか言われそうで、溜まっちゃってたんですよぅ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えっ、ナカちゃんって仲町のこと？　やっぱり、君島さんもそう思う？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;畳みかけるように尋ねる私の顔を、君島はきょとんと見つめた。私の言葉が聞き取れなかったわけではないようで、しばらくすると小さな笑い声を上げながら肩を振るわせて笑い始めた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふふっ、ふふふっ……もしかして、新羽さんもそう思いましたぁ？　そうですよねぇ、ナカちゃんさんって自分以外が目立つとすぐいらいらしますもん。やっぱりみんな、そう思ってるんだぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「当たり前でしょ。みんな、君島さんみたいに目立たないように、お互い気を遣ってるんだよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えーっ、新羽さんひどいですよぅ。だってあの人、沖縄旅行のお土産に私だけ海ぶどうくれたんですよぉ？　前に居酒屋さんで嫌いだって言ったのを覚えてて、わざわざ買ってくるとか、嫌がらせの熱意すごくないですかぁ？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそうあっけらかんと言い放つ君島を見て、息ができなくなるくらいに笑いがこみ上げてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仲町が君島を嫌っているのは周知の事実で、責められないくらいの小さな意地悪を続けているのもよく知っていたけど、まさかそんなあからさまな嫌がらせにも手を出していたなんて。しかも、当の君島は冷凍庫に押し込んでさらりと回避して、そんなの知る由もない仲町はこそこそ隠れてしたり顔をしている。そんな風刺画みたいな光景を思い浮かべると、急にただのコントに思えてきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「もー、面白くないですよぉ。あたし、おいものタルトの方が欲しかったのにぃ。ナカちゃんさん、ほーんと意地悪ですよねぇ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「紅芋タルトくらい、アンテナショップ行けばすぐ買えるよ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「えー、そうなんだぁ！　じゃあ、明日一緒に行きましょうよぉ。あたし、月桃のフェイスマスクも欲しかったんです」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「明日？　まぁ、予定はないけど……えっ、明日？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「じゃあ今日は、泊まっていきますよねぇ？　ナカちゃんさんの海ぶどうも、ぜひ食べていってください。きっと美味しいですよぉ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;君島がまた当たり前みたいにそう言って、冷凍庫から氷漬けのタッパーを取り出し始める。これだってもちろん、私にはできないな、と思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
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