マス書き部、というサークルが全くまともな団体でないことは周知の事実である。しかしながら、マス書き部がその名前に比してストイックな活動をしているというのはあまり知られていない。人が一人でマスを書く、というのは思った以上に複雑である。つまり、マスを書くというのは常に自分に集中して向き合う営為であって、突き詰めると禅のフォーマットに当てはまるのは、考えてみれば当たり前だ。
そもそも、マス書き部に入部する人間は大きく三つに分けることができる。いや、もっと大きくは二つに分けられるのだが、進む方向の違いに注目すれば三つとするのが自然である。つまり、伝統工芸をベースにした技術で正確にマスを書くのを目指す「技能派」か、あるいは新作のインディーゲームを担当できるほど創造的なマスを書くのを目指す「開発派」だ。
将棋盤にマスを書く技法として、よく工夫を施した日本刀で漆を盛る「太刀盛り」という技法があることはよく知られている。単に筆で線を書くのではなく、漆を引いた刃をいったん置いて離すことで立体的になるとか……云々。要するに技能派というのは、こうしたシンプルで美しいマスを書くための研鑽を重ねている者たちだ。部室に人を集めて日々こうした練習を重ねているのは技能派たちで、つまり具象派や肉体派と言い換えてもいい。掃除当番の割り振りや設備の手入れといった部室の権利も、代々技能派が受け継いでいる。
一方の開発派は概念派、あるいは頭脳派と呼べるだろうか。開発派たちはホワイトボードを加工した練習用将棋盤や、大きな筋トレグッズが並んだ部室を必要としない。インターネット上に独自のチームコミュニティを展開していて、日々新しいマスの書き方が開発され、改良され、併合されている。紙への手書きかCGスクリプトが出力したPNG画像か、あるいはベクタ処理に適したAIの産生か……は誰も気にしない。そこにどれだけ独創性があるか、そして実用的かを研究し、必要ならその盤の上で展開するゲームルールさえ考える。この日の最新作は、体育館に引かれた大量のコートラインを再現するプラスチック製まな板であった。
技能派と開発派のどちらが優れているか、という議論が愚かなことは分かるだろう。かれらの見ている未来の向きが全く異なるのだから、マス書き部という一つの名前で統一するのさえ不自然だ。
さて、マス書き部に入部する三つの人間のうち、もう一つをまだ説明していなかった。
とはいえ、ここまで引っ張るようなことでもない。私のように耳で「マスカキ部」と聞いて面白がってやって来た人間だ。ほほうこの大学にはそんなサークルがあるのか、きっとまともな団体ではないだろうなと足を踏み入れると、「技能派」と「開発派」と書かれた説明会用の大きなスチレンボードで説明されたものだからたまらない。私は週に十回以上マスをかいてますよと言っても笑いが起きる雰囲気でもなく、なし崩しに入部が決まって開発派を選択。
そうして、一ヶ月も経たないうちにディスコードの通知音が嫌いになった。マス書き部で本当にマスを書くなんて、マジでしょうもない。私はすぐに幽霊部員になった。最後に見たメッセージは、アンモナイトのシルエットに沿ったフラクタルすごろく盤だった気がする。
だから、本来であればこうして卒業生としてマス書き部の部室を訪ねるというのは、どうにも合理的な接続のない行為のはずだった。しかし、こういう在学中のちょっとしたいざこざは、卒業して何年も経てばどうでもよくなるものだ。母校の文化祭をきっかけに集まった旧友と昼から飲酒すると、大学時代のつまらない思い出がやたら美しく飾られて次々と蘇る。一年生なんていたら、卒業生だと名乗って昔話でもしてやろう。
――あぁキミ、竹尺だねぇ、それ。しかも30cmのだ。30cmの定規も最近ほとんど見かけないのに、竹製なんてすごく珍しい。どこで手に入れたんだい?
部室で一人残って熱心にマスを書いている部員に後ろから声をかけると、彼は驚いた様子で振り向いた。この部にいた卒業生だと告げると緊張した面持ちで立ち上がったので、私のことは気にせず作業を続けてくれと告げる。しかし、マス書き部の技能派なのに、十月にもなって、しかも文化祭当日でさえ定規でマスを書く練習をしているなんて、よほどの落ちこぼれに違いない。
しばらくこの部員を見ていると、彼のマスを書く姿勢が圧倒的に悪いのに気付いた。こんなこと、マス書きの技能派どころか開発派にも入門できなかった私が言うのもなんだが、彼は指先だけでマスを書こうとしている。だから、竹尺の押さえ方も悪ければ肩の力も一定に保てない。太さがまちまちの曲がった線しか引けないのは、彼自身の姿勢の悪さという大きな問題のせいだが、当の本人は指先の力で目先の問題だけを解決するつもりでいるから、何度やっても上手くいかないのだ。
――キミは姿勢が悪いな。私が後ろから支えてやるから、もう少ししっかり力を入れて、最後に抜き切りなさい。そう、特に竹尺は親指と人差し指で節をまたいで。いやなに、ちょっと定規には詳しくてね。昔少しだけバイトしていたんだ。
彼の背中から順に姿勢を正して、最後に指先に正しく力を置かせる。こんなの小中学校の書道で教わる単純な指導だが、「あっ、ちゃんとマスを書けました!」なんて喜んでいるこの部員を相手にすると、まるで本当にマス書き部の卒業生をやっているみたいだ。
興が乗ってきたので、定規にまつわる昔話を聞かせることにした。こんな素晴らしい卒業生に聞く話なら、つまらない蘊蓄でも涙を流して喜ぶだろう。
30cm定規といえば、かつて値段の割にかなり厳重な包装で売られる奇妙な扱いを受けていたこと、そのきっかけが定規の不正利用対策にあったことはよく知られている。定規メーカーの小売店に対する圧力が忌避されて販路が衰退してしまった、というドラマティックな盛衰は、ここ数年の経済学の教科書にはほぼ確実に載っているエピソードだ。30cm定規戦争ともいえる終末期の迷走に至っては、30cm定規の長さが分からないようにランダムな長さの包装紙に包む、なんて奇行がニュースでも大きく取り上げられていた。
そもそも、大手定規メーカーTが30cm定規の不正利用として糾弾し始めたのは、客が店内で製品の大きさを測るために定規を持ち出すという行為だった。文房具コーナーから30cm定規を持ち出し、インテリアコーナーで手を広げたカピバラのぬいぐるみの背を測って、また同じ場所に戻す。ただそれだけのことである。
客が欲しいのはその定規で測ったケースやクッションであって、定規自体はもはや購入する必要性がない。小売店にしてみても、買おうと思っていたが翻意したと反論されれば泥沼になりかねないわけで、汚損どころか開封さえされず戻された定規なら、わざわざ購入するよう迫ることもなかった。
しかし、定規メーカーの側から言わせれば、これは大きな販売機会の損失である。
この「30cm定規問題」は国会でも大きな問題として取り上げられ、結果として新たな規制法を生むことになった。これが将来に遺恨を残す「ワンタッチルール」の誕生である。売り場で一度触れた30cm定規はその意思にかかわらず購入しなければならない――30cm定規に限るのは不自然だが、ロビー活動とは元来こういうものだ。
法規制を敷いた後もメーカーは対策を怠らない。まずは目盛りが見えないよう不透明な包装に切り替えたが、そのパッケージがおおよそ30cmであることに着目した不正利用が続出。定規に触れず横に当てる、じっと目に焼き付けた定規の影で測定を行う……いつの自体も規制をかいくぐる客とのいたちごっこは絶えない。しびれを切らしたメーカー側は30cm定規の売り場に監視員を設けるか、鍵付きの倉庫から客の申し出に応じて販売する方式を取るよう小売店に要求し、人件費の高騰を嫌った小売業協会連合会とも対立を深めていく。
包装されたままでは使用できないようにランダムな大きさで出荷したり、巻かれた状態から開封するとまっすぐ伸びる新素材の開発が進められたのも、まさにこの頃である。長さを測るのなら先に定規を買うべきだ、という意見広告CMがゴールデンタイムに三連続で流れたというSNSでの告発も懐かしい。CMの中身も「マンガを買わずに読むのは犯罪なのと同じです」とか微妙に的を射ない例え話が並べられていて、おそらくその点も叩かれる原因だったと思う。
さて、ワンタッチルールで必要もない30cm定規を買わされたという被害者が続出して、問題になるのはその無駄な定規の行き先である。ほとんどの客にとって定規の需要が生まれるのは店の中だけで、家に帰れば定規なんて売るほどある。ちょっとしたミスで毎回30cm定規を買わされているならなおさらだ。しかし、定価で買わされたものをすぐに捨てるのもバカらしい。しかも、エコじゃない。
――そう。その通り。売るほどあるなら、実際に売ってもらえばいいわけだ。私は昔、そういうバイトをしていたんだよ。
いらない定規を半値以下で買い取る。それだけの「回収屋」が金になる時代があった。私がマス書き部からフェードアウトした後のごく数年のことだ。今となっては、30cm定規なんてむしろ貴重な骨董品として高く売れそうだが、この当時は全く意味が違う。安い定規をさらに安く大量に買い取り、それらを裏ルートで再度流通させる。30cm定規で想像すると変な仕事だが、要は鉄屑を集めて資源に戻すのと同じだと考えればいい。紹介料目当てにこのバイトを紹介してくれた同期はそう言っていた。彼女は確か、中古の15cm定規を結合した30cm定規を納入してクビになったはずだが、友人としては信頼できる。
一度も開封さえされずに箱詰めされた新品同様の30cm定規は、卸値の六割ほどで出せば飛ぶように売れる。運が悪ければそのまま同じ店に戻ることさえあった。メーカーは製造費と卸値の差で、小売店は卸値と小売価格の差で、回収屋は客からの買取価格と小売店への販売価格の差で儲かる。これが三方よしというものだ。
この単純な再流通スキームは、その単純さゆえに定規メーカーからの圧力を受けにくく、ロビー活動で再び狙い撃ちの新法ができるまでは長い間続けられた。もちろん、副業感覚で古物商許可もなく参入した主婦などは容赦なく捕まっていたが、定規業界の売り上げのためだけに古物業界を巻き込んで法律をねじ曲げるのは、議員の協力があっても相当に難しかったのだろう。
そうして、回収屋は新たなステージに入ることになった。つまり、単なる横流しではなく30cm定規を資源として活用する方法を模索し始めたというわけだ。「ワンタッチルール」が生まれてから二年。中古市場に出回る定規の量がピークを迎えた時期でもある。ここからは規制法と定規メーカーの暴走によって、30cm定規を取り扱う小売店が徐々に減っていった。
――なぁキミ。こうして後ろから話すのはいいんだが、さっきから全然マスを書いてないじゃないか。これじゃ姿勢の指導もあったもんじゃない。私は定規の特性を理解してマスを書きなさいと言ってるんだ。分かるかい?
後輩くんは私の話に夢中になっているみたいだ。これなら話し甲斐があるというものだが、私の長話に付き合わせて彼の練習を邪魔していると思われたらたまらない。私は後輩くんの手を取って、もう一度まっすぐなマスを書かせてみる。竹尺を押さえる手が少し汗ばんでいた。今度は力が入りすぎているようだ。
さて、続けようか。
一口に30cm定規と言っても、その素材や特性は様々だ。最も大量に流通しているプラスチック製は、安さの割に扱いやすい。透明なものなら紙が透けて見えるし、そうでなくても軽くて小回りが利く。曲がりやすくて熱に弱いという耐久性のなさが最大の欠点だが、テフゼルでも使えば十年以上使えるだろう。竹尺は少し高いがプラスチックよりずっと脆いから、回収屋でも重用されていた。資源として消費され尽くしたせいか、今では存在自体かなり珍しい。
耐久性なら金属製やカーボンファイバー製のものがあるが、これは30cm定規を資源として活用する立場から言わせてもらえば、相当に扱いづらい。高価な割に運搬にも加工にも不便で、まさに定規としての用途しか考えられていない情けない存在。30cm定規市場の末期では、ディスカウントショップのペラペラゴム定規より安値を付けることさえあった。
金属製の定規が安いのはなぜか? それは、30cm定規を最も有効に活用できる方法が、定規を分割して内在するエネルギーを取り出すことだからだ。30cm定規を手に取る経験さえ減っていく中で、長さが30cmの定規にだけ非常に高いエネルギーが閉じ込められている、という知識は失われていた。事実、この後輩くんもこの貴重な竹尺をマスを書く支えだとしか思っていないようだった。
貼り合わせたガムテープを勢いよく剥がす、大きな氷砂糖を金槌でかち割る、石英ガラスの瓶をコンクリートの床に叩き付ける。30cm定規からエネルギーを取り出すのも、これとよく似た現象である。A4用紙の長辺がおよそ30cmなのも、偶然決まったものではない。
――つまり、30cmというのは人間が見つけた最適な長さの一つだ。例えばね、私のスカートに定規を当てたとする。すると股から20cmくらいにヘソがあると分かる。これは15cm定規ではできないことだ。50cm定規でも胸に引っかかってしまう。30cm定規だけが非常に高いエネルギーが持つんだ。
後輩くんが慌てた様子で突然振り向く。急にどうしたんだろう。あぁそうか、と盤に置かれた竹尺を取り上げて下腹部にあてがった。こんな感じで、つまりへそがここだ……分かるかい? そう尋ねると、後輩くんは席に座ったまま真っ赤な顔でぶんぶんと頷いた。素晴らしいね。尊敬する卒業生が自ら身を張って30cm定規の奇跡を実演しているのだから、感動するのも当然だ。
まだ話を聞きたがっている後輩くんのために、私は竹尺を手に取ってさらに話を続けた。
30cm定規がエネルギーを持つのは、あくまで30cm定規の状態である間だけだ。15cm定規をテープで普通にくっつけるだけでは何も起こらないし、50cm定規から30cmだけ切り出しても意味がない。完全な30cm定規をどう効率よく破壊するか、というのが回収屋が大量の在庫から逃げ切るための唯一の課題だった。
最も原始的には、30cm定規の両端に力を加えて二つに折ると光と熱を放出できる。しかしこのやり方では、飛び出たエネルギーが空気中に拡散してしまって無駄が多い。あちこちに設置されている太陽光パネルやプロペラ風車を見て分かるとおり、エネルギーはできるだけ電気として取り出したい、というのは現代的なエネルギー市場の要請の一つである。
エネルギーを取り出せないまま15cmの領域が二つも残るというのも、効率の面からは最悪に近い。30cm定規に含まれるエネルギーは全体にわたって均一に分布しているのに、よりにもよって半分に折ってしまうと、そのごく小さな断面からほんの少しの熱しか取り出せなくなるのだ。まさにスイカの真ん中だけ食べて捨てるような無駄さである。
30cm定規から効率よくエネルギーを取り出すコツは、全体を瞬時に細切れにするという一点に尽きる。N点で分割すればN倍のエネルギーが生まれる、というごく簡単な法則である。しかし瞬時に切り刻む、というのが難しいのだ。包丁でもってチョコレートを刻むように、右から左に細切れにするのでは全く意味がない。シュレッダーのような回転刃方式も、定規の短辺を上から下に切断するうちにエネルギーを失ってしまう。
つまり、断熱容器の中に大量の刃をごく狭い間隔で水平に並べて、均一な力で一度に切り刻む。そしてその熱を電気として得るというのが回収屋の辿り着いた結論だった。よく工夫された刃を並べた30cm定規裁断機は、正面から見ると刃が光を吸い取って真っ黒に見える。わずかな熱は散逸しやすいが大量の熱は比較的電気に変換しやすいという物理的性質も、この発電方式の確立を後押しした。
計算の上では、無限に薄い刃を無限に小さい間隔で並べれば無限のエネルギーを取り出せる。実際には刃を無限に並べることはできないわけだが、数円から数十円で買い取った30cm定規から取り出せる電力と考えれば桁違いだ。
――最終的にはね、この30cmの竹尺を粉砕して東京都庁で朝までプロジェクションマッピングできるほどの電力を取り出せたんだ。そう考えると、この竹尺もすごく珍しいものだと思わないかい?
そう尋ねると、後輩くんが少々思案してから部室の隅を指さす。欲しいならいくつか持ち出していいという。なんとそこには、30cmの竹尺が大量に詰め込まれた段ボール箱が置かれていた。まさかこんなところに宝箱があるなんて。それも、誰一人その価値を知らずに放置しているなんて。
私がマス書き部で活躍して回収屋のバイトを経験していなかったら、廃棄前の古びた定規にしか見えなかっただろう。金の延べ棒でも取り上げるような気持ちで箱の中の竹尺を一本取り上げると、後輩くんが後ろから「この竹尺は差し上げるので、少しお願いが……」と、やはり席に座ったまま声をかけた。もうマスを書かないなら、立って話せばいいのに。
――マス書きの指導をしてほしい? それくらい構わないさ。次の週末、マスを書きに来るといいよ。キミに使ってほしい定規もいくつかあってね。水道管用の特殊な定規もあるし……ウチの定規コレクションはすごいよ。私はもともと開発派でね。
そう快諾する私の言葉を聞いた後輩くんは、とても嬉しそうだ。私だって、こんな貴重な竹尺を無料で手に入れた上に、偉大な卒業生の顔をして先輩風を吹かせられるんだから気持ちがいい。たとえ幽霊部員でも、こうして後輩に頼られるのはなかなかいいものだ。
後輩くんが来るなら、私も少しくらいマス書きの練習をしておいた方がいいかもしれない。マス書きが本来自分に集中して向き合うべき行為だとしても、一緒に手伝えることもあるだろうから。