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「先輩、今日もいいですか?」「……ん?」
デスクで熱心に新材料の特性分析シートを仕上げている先輩に後ろから声を掛けると、肩の上くらいで短く切られたぼさぼさの銀髪がぱさりと揺れた。じっと作業を続けていた身体にまとわりついた空気が広がるように、最近買ったらしいローズの香水がふわりと私をそっとくすぐる。
振り向いた先輩は古いメタルフレームの丸眼鏡――集中したいときはいつもこの眼鏡を使っていると言っていた――を掛けていて、ピントの合わないぼんやりとした表情で私を見上げる。それから、つやのあるカルセドニーのような黒い目だけを動かして私の顔、胸元、そして書類を持っている手を見つけて「あぁ」と頷いた。
「それ、来週までだっけ。少し待っててくれ。あとは自明なところを埋めるだけなんだ」
先輩……サキさん……高宮サキは、私が所属しているラボの先輩だ。ここでは主に鉱物研究と新材料開発を主軸に活動していて、最近は見た目の綺麗な宝飾用鉱物(いわゆる人造宝石である)の共同研究にも参加している。この前の宝飾展で展示した曜変サファイア1はけっこう人気だったらしい。
四方に窓のないラボは、その致命的な閉塞感を解消するために天井に大きな天窓が据えられている。ソラ・ビジョンは、いつでも雲ひとつない青空から光を採り入れることができる優れものだ。しかし、加工炉の温度を上げると古いLEDがちらついて全く作業にならない日もあるので、なかなか扱いにくい。
ラボのメンバーは私たち二人だけで、いや、本当は壁際の大きなデスクにボスが陣取っているはずだけど、最近はほとんどここに姿を見せていない。指導といったらチャットで数日に一度進捗を報告するくらいで、細かい質問や相談は先輩に尋ねるように言われていた。ボスからちゃんと指導料をもらっているのか……もらっていたとしても、迷惑に思われていないかちょっと心配になる。
書類をまとめる先輩を待っていると、床に置かれたオノ・ホットランド2の定期監視アラームがピピッと小さな音を立てる。金属製の気密室の中で焼成されているのはお手製のホタル・マーブル3で、ちょっとしたお小遣い稼ぎのために片手間で生産しているのだ。研究の邪魔にならない限りで、自前の素材を持ち込んで加工することが暗黙的に許されていた。
もちろん、ホタル・マーブル自体はそう新しい加工法ではないものの、ラボの加工技術を活かして好みの色と細かいパターンを実現できるので割と人気がある。
「で、えーと……多孔質セラミックスのゲル活性改善のための設計だっけ?」「はい、そうです」
先輩は数ページの報告資料を受け取ると、表の数値とグラフの傾向をぱらぱらと眺め始める。自分の成果を誰かに確認してもらう間、相手の一挙手一投足に意味を見いだしそうになって落ち着かない時間も、先輩の前だとなんとなく心地よかった。
なんとなく、先輩の頭に目を向ける。特徴的な銀色の髪は過去の実験の後遺症らしい。左右の毛先をよく見ると、試薬や固定液がはねてぽつぽつと緑に着色したり白く脱色している部分はあるけれど、こんなにすっかり銀色になってしまうことがあるだろうか。バケツで薬液を頭からかぶったのなら、顔にやけどの跡でも残っていそうなものだし。
一通り資料を読み終えた先輩は、丸眼鏡を外していつも使っている黒いセルフレームのウェリントンに取り替えた。大きくて厚ぼったいフレームが顔に収まらない感じが、なかなかかわいい。
「悩んでるみたいだね。ちょっと長くなりそうだから、先に夕飯にしないか? まぁ、もう夕飯って時間でもないけど」
そう言われて時計を見ると、確かにもう深夜一時を過ぎる頃だ。全く気がつかなかった。まだまだ日の長い夏の終わりとはいえ、外はもうとっくに暗くなっている。おもむろにリモコンのボタンを押すと、天窓の風景が星の貼り付いたダークブルーの夜空に変わると同時に、室内照明が全灯に切り替わった。薄暮に街灯の光を灯す瞬間を自分で作り出しているみたいで、いつも不思議な心地になる。
最新型の照明パッケージなら、暦に合わせて日の出・日の入りと月の位置も再現できるらしい。でも、時間を忘れて研究に没頭している間はそういう照明の変化は邪魔になるし、たぶん先輩もそう思うだろう。この旧型にも朝焼けモードや夕焼けモードは搭載されているけれど、もともと天窓から降り注ぐような光ではないし、実際このラボに来てから真っ赤に輝く窓はほとんど見たことがなかった。
「エミの分も買ってきてあげるよ。何がいい?」
「んー……
先輩は「だろうね」と笑って、デスクチェアから立ち上がった。宝飾展のノベルティだったらしいすみれ色のロゴ入りTシャツを覆うように、ゆったりとしたスリットネックの黒いジャンパースカートが足首までふわりと伸びている。デスクトレイからMYU-MYUのコインケースを取り上げると、そのピンク色のハートをポケットに突っ込んだ。古い自販機を使うには必須の装備である。
それから、私より頭二つほど小さい視線を送る先輩は、
「まさか、『パーラーU/VM』が無くなってたなんて!」
それから十数分後。失望に任せて大げさに叫ぶ先輩の声と共に、ラボの自動ドアがギギッと軋んで大きな音を立てる。手には近くのコンビニ「エンジェルマート」の白いレジ袋が握られていて、中には値引きシールを貼られた大小のお弁当が二つ積まれているようだ。
私は
「あれ、サキさん。今日はホットスナックじゃないんですね」
「今言ったとおりだよ。上の
先輩は袋をそのままミーティングスペースのテーブルに置くと、ソファに勢いよく腰掛けた。レンジで急速に温められた甘辛い調味料の匂いが漂ってくる。脚を組んで不満げな表情で天井を睨み付けている様子は、まるで何ヶ月も失敗続きの加工炉でとうとう
地下にあるこのラボのほぼ真上に位置する「パーラーU/VM」は、今ではあまり見かけない食品の自動販売機を集めた小さなスペースである。自動化された精巧なメカニクスが大好きで、研究所統制の電子マネーが大嫌いな先輩のお気に入りだ。小さい頃によく食べた懐かしい味とも言っていた気がする。しかし、先輩とそう歳の離れていないはずの私には馴染みのない文化だった。
「あそこなら、先月にはもう閉店してた気がしますけど」
私も向かいのソファに腰を落として、袋からお弁当を取り出しながらそう答える。「ん?」と眉をひそめる先輩の様子を見ると、今言うべきことではなかったか――「いや、まだラウンジの自販機もありますし」――と思ったときにはもう遅い。余計な新情報が先輩の落胆に油を注いでしまったらしく、今度は飛び跳ねるように立ち上がって演説を続けた。
「私にとっては二ヶ月ぶりの地上だよ! 見てない間に大洪水でも来たのか?」
「……私の居住棟は無事でしたが」「そうか。それは良かった」
先輩のイライラがなかなか止まらない。空腹のせいもあるだろうけど、もしかしたら長い地下生活が人体に悪い影響を与えているのかも……というのも、今コンビニや
地上にはコンビニやスーパーなどの商業施設、学生や研究者向けの居住棟などが集約されていて、研究と最低限の生活を送る分には全く敷地から出る必要がなくなった。そのせいか、先輩みたいに研究に没頭してあまり地上に出なくなった人も多いと聞く。私は途中でいろいろと耐えられなくなるから、一週間に一度くらい居住棟に戻っているけれど。
改めてお弁当をテーブルに並べる。えぇと、今日はミックスグルニュイ弁当――これは私のだ――と、先輩が好きな
「私、てっきり第三レストのラウンジに行ったのかと思いました」「私もそのつもりだったよ」「じゃあ、どうして外へ?」「踏み台が見つからなかったんだ」
意外な答えに、私は思わず「踏み台?」と聞き返してしまう。踏み台というのは、背が低い先輩が食品自販機を使うために置いているグラスファイバー製の黒いステップのことだろう。ラウンジの隅にある古くて大きな自販機は、なぜかコインの投入口が上に据えられていて、丸腰の先輩では商品を選択することさえできないのだ。
「私の踏み台を片付けてしまったんだろう? おかげでコンビニに行くしかなかったんだ」
「えっ、何の話ですか?」「違うのか?」「違いますよ」
このフロアであの自販機を使うのは先輩(あるいはおつかいを頼まれた私)くらいだから、踏み台を放置しても誰も気にしないだろうと油断していたところ、どうやら邪魔に思った誰かが勝手に撤去してしまったらしい。先輩は面食らったような顔で黙り込むと、ばつが悪そうに頭を下げた。
「いや、エミじゃないならいいんだ。疑ってすまない。じゃあ、それなら一体誰が……」
あの踏み台の存在をまともに認識しているのは私くらいだろうし、先輩に疑われたこと自体はどうでもよかった。でも、いきなり秘密の場所を荒らされたようで気味が悪い。二人で隅から隅まで目を配るには広い空間に妙な沈黙が流れて、もう丑三つ時を過ぎる頃であることを思い出すと、急に不気味さが増してくる。
デスクの下まで明るく照らすこともできない室内照明さえ心許なく思えて、ほのかな助けを求めて天井を見つめながらソラ・ビジョンのリモコンを押す。朝を告げる瑠璃色の薄明がタイムラプスのように天窓を覆ったかと思うと、すぐにいつもの青空に切り替わった。
「――えーと、サキさんは今日もかわいいですね」
「ん、あぁ……うん、エミは今日もかわいいね」
「どこがかわいいですか?」「……唇かな。それ、新しいティントだろう?」「はい。先輩は、黒目がかわいいですね。いつもより大きい気がします」「そうか?」
こういうときは「なかよしルール」その五4だ。おしゃれにはあまり興味のない先輩と交わす棒読みの褒め合いでも、今は沈黙を破るきっかけになるだろう。不意のやり取りに虚を衝かれた先輩は、ううむと小さく唸ってまたソファに戻った。
「とりあえず、踏み台はもう一台買っておくよ」
「でも、放っておけばそのうち戻ってくるんじゃないですか?」
「いーや。拝借の書き置きも警告ラベルも残っていない一般資産が戻ってくることはないんだ」
警告ラベルというのは、ラボの外の公共スペースに放置された物品に貼られる撤去期限付きのステッカーのことだ。警備ロボが誤検出も気にせずベタベタ貼り付けて回っているから、すぐに剥がしておけば特に問題にならない。厳密に言えば、例の踏み台もこの細則に違反しているものの、何度かラベルを剥がしているうちに学習して放置されるようになった。要は、見捨てられた廃棄物かどうかを確認するための作業なのである。
踏み台自体は何個か買っても痛くない程度の値段だし、機密情報を含んでいるわけでもないとはいえ、こうして持ち出された以上またラウンジに放置するわけにもいかない。しかし、自販機に行くたびに毎回持ち出すのもなかなか面倒だ。
「もう、諦めてコンビニを使ったらどうですか? もう無人化してますし、使い心地も悪くなかったでしょう?」
さっき先輩がお弁当を買ってきたエンジェルマートは、商品選択検知システムの導入と電子マネー決済への一本化によって、数ヶ月前に二十四時間無人営業へと切り替わったばかりだ。
コンビニなら冷蔵ショーケースと電子レンジ、カードリーダーさえあれば出店も撤退も一日で終わるようなことを、自販機は複雑なメカニクスと芸術的な内部配置で実現しているおかげで、修理も維持も難しい綱渡りの運用を強いられる。先輩のような
私の言葉を聞いた先輩は、わざとらしくため息をつく。次に続く言葉はだいたい分かっていた。
「キミは自販機の良さが分かってないな。
なるほど、監視カメラに囲まれて手持ち無沙汰でレジの前に立っているのはなんとなく落ち着かないし、合理化ばかりを推し進めると日々が味気なくなるのだ、というのは一理あるかもしれない。しかし、あのコンパクトな自販機専用紙箱に収まるように短く切られた割り箸でちまちまと食べ進める先輩の姿を思い出すと、どこかが間違っているような気がした。
「それに、私は
「いや、そんなことはないと思いますよ……」
リサ・カードに関する当局の陰謀は、研究員の雑談の定番ネタだ。しかし、どうも先輩は言葉遊びに収まらないレベルで変な説を信じているように見える。確かに、毎月の報酬さえもリサ・カードで支払えるようにわざわざアドホックな法改正までしてしまったところを見ると、資金の流れをより深く把握する意図を否定しきれないのがなんとも痛いところで、先輩のように「だからコンビニって嫌いなんだ」と腕を組む人も多い。
研究都市再開発法によって、広大な土地を持つ郊外型の研究所は、十分な生活圏の提供とその維持を条件に地区限定通貨制を敷くことを許されるようになった。三〇五特別区にあるこの研究所を皮切りに、今では大きなところはどこも自前の経済圏を持っている。
先輩のような筋金入りの
「んー……サキさんは、今日もかわいいですね」
「はいはい、エミもかわいいよ」
「まぁ、とりあえず食べましょうよ。食事くらい私が買ってきますから」
ペットボトルと袋入りの割り箸を差し出す私に、先輩は「そういうつもりで言ったんじゃない」と口を尖らせる。「分かってますよ」と答えると、先輩は「せめて、行使のたびに偽造できればいいんだが」と呟きながら、ネギトロパックのケースを開けた。
/* (本編へ続く) */