サヤは砂浜を歩きながらいろいろな話をしてくれた。SNSで日ごと入れ替わるトレンドニュースの話はあんまり面白くないけど、サヤが私に向かって話してるってだけで、二人で海辺を歩いているだけで楽しい。陸に向かって吹き付ける風はすこぶる強く、星空が映る水面では光がぐるぐるに混ざっていた。ごく細かな潮の飛沫が風に乗って、顔が少しずつ白い泡で埋まっていく気がする。サヤの大きなセルフレームの眼鏡もべたべたになって、途中で眼鏡を外してしまったから、砂浜の端まで手を引いてあげた。
あの男子二人に一緒に行こうなんて言われなくてよかった、と思う。向こうから話しかけてくるほど仲良くもなかったけど、定例や飲み会では共通の話題があるおかげで盛り上がるくらいの関係。そんな彼らが、ほんのりと私たちの会話に聞き耳を立てていたことくらいは分かる。たぶん、私が誘ったら今頃一緒に四人でドライブに行くことになっていただろう。でも、サヤとの時間は邪魔されたくない。
サヤはあの気配に気付いていなかったみたいで、そういう子ほどつまらない男に騙されるものだ。親しみやすさとナメられやすさはよく似ていて、私みたいな人間はむしろ軽々しい悪意には敏感になる。その意味では、彼女はこれまでずっと誰もいない横断歩道を丁寧に渡り続けていたようなものだ。だからきっと、突っ込んできた車の避け方さえ知らない。
出発する前に落としていたレトロシティポップのプレイリストが終わって、サヤはちょっと落ち着かない様子だった。たまに闇の中から浮かび上がる派手な看板を、きょろきょろと逃げるように眺めている。新しい曲のダウンロードがほんの少し遅れていて、その小さい沈黙が彼女の視界にちらついているのだろう。
「運転、そろそろ代わろうか?」
車を路肩に寄せて車間の短い後続車を見送ると、キュイキュイとよく響くエンジン音がシュルシュルと空気が回る音に変わる。私の顔を覗き込むサヤの心配そうな表情を街灯の光がまばらに照らした。ぱさり、と揺れた前髪の影がシートベルトに落ちる。しかし、足先はそわそわと落ち着かないままだ。足元には暖かい空気を流し続けているから、寒さを紛らわせるような動きというわけでもない。
サヤの真っ黒な髪は、半年に一度の美容室で肩の上で切り揃えてもらった後はしっかり手入れされることもなく、ところどころ折れて絡んだ毛がぴょんと飛び出ている。サヤは厚ぼったい雰囲気を嫌がっているみたいで、ちょっと染めてみようかな、なんて言っていたけどやめた方がいい。きっと必要な手間とお金に絶望するはずだ。それに、この深いブラウンの目には似合わない気がする。
「大丈夫! 前に一日で三百キロくらい往復したことあるし」
「でも、そろそろ私が運転代わるから……」
「ちょっと休めば大丈夫だって。サヤは免許取ったばっかりじゃん」
「わかった……うん、ミーコに任せるね。ありがと」
言い出した割にはその提案は弱々しい。サヤはもともと夜の運転には苦手意識があると言っていたし、真面目に私の疲れを心配しているというよりは、埋まらない隙間を埋める話題の一つとして持ち出しただけだ、と思った。
初心者マークが必要な時期であることを理由に押し込めればサヤが引き下がることは分かっていて、こういう何も前に進まないおしゃべりは沈黙を埋めるのにちょうどいい。プレゼントを一回だけ断ってから受け取るみたいな、そういう時間だけ浪費する安心しきったやり取り。夜のど真ん中に向かって車を滑らせる時間はごく静かなもの、というのは私の認識で、サヤにとっては埋めるべき空欄に見えているのかもしれない。
「また今度ドライブ行こーよ。年明けに千葉とか静岡の先っちょに行きたくて――」
こういう贅沢な沈黙の埋め方は、サヤとの二人きりの深夜ドライブを
「じゃあ……日本海側には行ったんだ?」
「ちょっと前にね。富山の砂浜でシーグラスを集めようと思って。あ、それが往復三百キロのやつなんだけど――」
あの時は原付だったけど。今日だってサヤがいなかったら原付で来てた気がする。一人の車は広すぎて嫌だった。でも、この気温と強風では途中で引き返すことになっていただろう。きっと、私はメチャクチャな天気にぶつぶつ文句を言いながらコンビニ肉まんを口に押し込んでちょっとだけ泣くはずだ。やっぱり、サヤがいてよかった。
「海に行くなら、やっぱり花火とか買えばよかったかも」
「花火? 真冬なのに……」
「ドンキとか普通に売ってるよー。店員さんに言ったら出してくれんの」
「そうなんだ。なんか……店員さんに聞くって発想がなかった」
確かに、サヤが品出しで忙しくしている店員を捕まえて商品の場所を尋ねる姿は想像できない。どうにか自力で見つけようと店中を二周三周した末に、気付いた店員に声をかけられてやっと見つけられるような、そういう子だ。
久しぶりの赤信号にぶつかって、ゆっくりと停止線に向かって車を止める。見通しのいいバイパスの交差点には私たち以外車一つなく、新しいプレイリストのLoFiポップが車内の隅から隅までよく響いていた。ここで待つのに飽きたらそのまま走り去ったって、誰も何も気にしないはずだ。信号を待つことだけに意味がある無意味な時間。もちろん、そんなことしちゃダメだけど。
「ふぁ……あ、ごめん。信号って景色が流れないから、なんか急に……」
夜に沈み込みつつあった時間に流れ出した吐息。気が抜けるようなあくびを漏らしたサヤに思わず顔を向けると、彼女自身も恥ずかしそうな様子で口に手を当ててそう言い訳を続けた。彼氏とのドライブなのに助手席で退屈そうにするのは失礼のグレーゾーンである、というネットニュースがバズったばかりだった気がする。そんなことで別れるカップルは、元々別れる理由を探していたに違いない。
だって、眠そうなサヤは抱きしめたくなるくらい可愛かった。
「いやいや、ぜんぜん大丈夫! 着くまで寝ててもいいから」
「でも、あくびした時びっくりしてたし……やっぱり、気になるよね?」
「気にしてないって。むしろ、眠気を我慢される方がそわそわしちゃうから」
「う、うん……そっか」
あくびしてる無防備な姿がなんかエロかったから見てたなんて正直に言ったら、サヤはどんな顔をするだろう。少なくとも、こんな身勝手で気持ち悪い答えは全く予想していないはずだ。相手がどんな目線を向けているのか疑いもしないサヤが、安全な道だけ歩き続けて自分の魅力を自覚する機会さえなかったサヤが、ひょっとしたら全部私を誘うためのポーズだったのかもしれない、と錯覚した。
一緒のお風呂に誘うのは急すぎた。サヤはそういう子だから。今日は二人きりの深夜ドライブで満足すればいい。サヤとの関係はちょっとずつ進めればいい……なんて素直に我慢してきたさっきまでの私を返してほしい。これはどう考えてもサヤが悪い。あぁ、イライラする。もう我慢なんてしなくていい。そうなった。こっちには「海のもと」だってあるのだ。
青信号に合わせて車を進めるのと同時に、ウィンカーを出して予定になかった左折を繰り出す。こっちはインターチェンジの方面だ。サヤが少し驚いた顔をした。
「あれ……ミーコ。さっきのとこ、まっすぐ……」
「ねー、サヤ。この後だけどさ」
「うん。帰る前にラーメンでも食べる? こっちの方だっけ。確か朝五時までやってるよね」
インターチェンジ近くのホテル街に向かうのに必死で、食事のことをすっかり忘れていた。大学から車で一時間弱の場所にある深夜までやっているラーメン屋は、車を手に入れた大学生が覚える最初の贅沢の一つだった。ラーメンか……ラーメンもいいな。一緒にラーメンを食べて、ホテルに行って……朝になったらもう一回海に行ってもいい。本当は真夜中の海よりも、夜明けの海の方がずっと好きだから。
「そうじゃなくてさ、ホテル寄ってかない? 運転代わるって言っても、サヤも疲れてるだろうし」
「ホ、ホテル? えっと……でも、フランス語って一限だったよね……」
あぁ、そうだった。もう二回くらい休んでも平気だけど、サヤが体よく断れる理由がまだ残っていた。講義なんか海に比べたらどうでもいいのに。サヤが私を問いただす前に、無理やり流してしまうしかない。視界を運転に集中させれば、サヤの顔が目に入ることはないだろう。困惑した様子の声を覆い隠すように、私は詐欺師みたいな矛盾した話をつらつらと続けた。
「うん。でも、少し寝たら出てもいいし、早起きしたら間に合うと思うよ? 疲れて家に帰ったら、逆に寝坊しちゃうかも。お風呂も広いからさ、ついでに『海のもと』で遊ばない? ひょっとしたら部屋で水着は買えるかも――」
「……うん。いいよ。どこにしよっか?」
もう一言か二言付け足せば流されてくれるはず……と畳みかける前に、サヤはすんなりと私の提案を受け入れていた。何かがおかしい。話が早いのは嬉しいけど、サヤはそんなに簡単にホテルに連れ込まれるような子ではなかった。だって、いくら経験がないからって、一緒のお風呂を断るくらいの常識はあったはずだ。
「サヤ、ラブホ行ったことあるの?」
「え……あるわけないじゃん。なんで?」
「こういうの、もっと緊張するのかなって」
「だって、別に変なことするわけじゃないし……」
サヤが下を向いて指をくるくると擦り合わせる。その様子をまじまじ見てしまわないように、私はそっと息をのんだ。ラブホテルがどんな場所かは知っていて、そんな誘いを受け入れる意味も分かっていて、それでも私が そんなこと するわけないとかき消すみたいに。 変なこと を想像をする自分がおかしいと思い込むように。
そうだった。サヤは、私みたいな暴走車両なんか避けられっこない、手を上げて横断歩道を渡ることしか知らない女の子だ。きっと私が目を見て好きだよなんて言い出したら、道路の上で前にも後ろにも動けなくなるに違いない。
でもそれだって、私を誘うサヤが悪いのだ。