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もみじがり

/* この作品は、2022年5月発行の光速感情デラックスに収録されています。 */


マヤ「図書館って、反政府組織なんでしょ?」

  • 考えるよりも先に行動してしまうほうだ――いいえ
  • 感情の動きがすぐ顔に出てしまうほうだ――いいえ
  • 知識やデータを深く分析するのが好きだ――はい
  • 論理的な根拠より情緒を重視するほうだ――いいえ
  • 初対面の人とすぐに仲良く話せるほうだ――はい
  • 自分は周りと比べて可愛いほうだと思う――

「うふっ。マーヤったら、嘘ばっかり」

「やだ、見ないでよ」

目的地の上中稲(かみなかい)駅まであと五分ほど。昼過ぎの到着予定を知らせるアナウンスを聞いてお手洗いに向かっていたアリスが、私のエアロ・スクリーンを覗き込んでから対面の席に戻った。どうやら共有設定を切るのを忘れていたらしい。こんな適性検査でわざわざ自分をよく見せようなんて思ってなかったのに、そうやって笑われると気になってしまう。

えんじ色のボックスシートは半分以上が引っ越しの荷物に占領されていて、私たちは通路に押し出されまいと肘掛けを支えにどうにか身体を収めていた。細っこくて飾り気のない私の服装ならまだしも、胸も身長も大きなアリスを包む黄色いフレアワンピースのシルエットを活かすには少し手狭だろう。小さな花柄の布や裾にあしらわれたレースが座席の隙間に押し込められて、窮屈そうに見える。

もうアリスに私の画面は見えていないはずだけど、赤いボタンに伸ばしかけていた指を引っ込めて、そっと「いいえ」を押した。それから、少しずり落ちたスマートグラスのつるを指で持ち上げて、次の質問にするすると目を落としながらアリスに声を投げかける。

「で、どこが嘘だって?」

「だって、マーヤってすぐ顔に出るじゃない? それに、初対面の人とおしゃべりしてるのなんて見たことないもの」

そう当たり前のように言ってみせるアリスは、私たちがもう何年も一緒に暮らしてきた記憶を旧居――あの、ネットが遅いくせに家賃の高い――にでも置いてきてしまったんだろうか。こういう心理テストは仕事仲間としての適性を測るものだし、長く一緒に住んでる前提で答えるわけないじゃない。

右目の青いカラードコンタクトに搭載されたアリスのスマートグラスは、左目の濃いアンバーの大きな瞳と並ぶと、実に不思議な雰囲気を放ち始める。まるで、お人形さんに命が宿って動き始めたみたいに。

席に戻ったアリスはポシェットから物理端末(スマホ)を出して開く様子もなく、いつものようにエアロで「かわいい写真集」を眺め始めるわけでもない。その代わりに、目線だけ上げてちらりと前を見る私の顔を眺めてにこにこと笑っている。

「あ、今のは図星って顔ね!」

自信満々の声に思わず顔を上げると、アリスは上機嫌そうににんまり笑った。コミュニケーションが苦手? 私が? 言いがかりもいいところだ。

「あのね、今どきはテキストで自己紹介できれば十分なの。出社なんて仕事が本格的に始まった後なんだから」

「そうかなぁ。最初はちゃんとあいさつしに行った方がいいと思うけど」

人差し指を頬に当てて首を傾げるアリス。左肩にしなだれかかるマロンブラウンの大きな三つ編みが揺れて、先に結ばれた赤いリボンがくるりと回った。

確かに、毎日スマートグラスも使えないオフィスに出勤している彼女にとっては、対面でのあいさつは重要かもしれない。しかし、リモートでできることはリモートで、非同期でできることは非同期で、が最近のトレンドだ。前の会社だって……まぁ、そうはいかなかったから、この期に及んで職を探しているわけだけど。

そもそも、適性検査なんて面接前のスクリーニングにしか使わないんだから、腐心するだけ無駄なこと。結局のところ、職務経歴の方が大事だと思う――はい。そんな質問が先頭に置いてあったらもう少し楽なのに。

残りの質問を適当に片付けて送信ボタンを押すと、一括リストに入れた数社の名前と共に応募完了画面が表示される。それから数秒遅れてやってきたメール着信のフラッシュ通知をワイプして、スマートグラスをエコ・モードに落とした。

「仕事、見つかりそう?」

「ぼちぼちってとこ。アリスは、もう明日から出勤?」

「好きなときに遊びに来てねって言われたよ。正式な勤務は連休明けからみたい」

何それ。オンボーディングはするけど、自主的にやっただけだから給料は出さない、ってとこだろうか。田舎特有のルーズさってやつ? だから中稲みたいな僻地には来たくなかったんだ。私の疑念をよそに、まるで転校先で新しい友達を見つけたみたいに明るくて無邪気なアリスを見ていると、なんだか彼女の分まで憂鬱になってしまう気がした。

ふと窓の外を見ると、さっきまで水が溜まって青空にきらきら輝く田んぼが所狭しと並んでいたのに、今はだだっ広い平地に四車線の道路と知らないチェーンのロードサイドショップ、そして一戸建ての民家が続いている。ずっと、見慣れない景色だ。

私は、この町で生きていけるだろうか。運よく仕事を見つけたとして、どんな日常生活が待っているのか想像できなかった。

新居のインターネットは、混雑が少なくてむしろ早いはず。そこはいい。部屋だって前より広い。でも、駅ビルのスーパーマーケットは数年前に撤退していて、今は 地元で愛される 居酒屋かスナックばかり。日用品を買いそろえるだけでも車が必要そうだ。即日配送は無理としても、通販はまだ使い物になるだろう。フードデリバリーは……マックがあるから、なんとか。

他にも、いろいろ気にしなければならないことはあるはずだ。どうしてアリスは不安げな様子をひとつも見せないんだろう。彼女の適応能力の高さは私も知ってるけど、それだけで現実的な問題が消え失せるわけじゃなかった。

「ねぇ、アリス。分かってると思うけど、中稲(ここ)に長く住むつもりはないから」

「うん……ごめんね、マーヤ。わたしの転勤に付き合ってもらっちゃって」

アリスは申し訳なさそうな表情で私の言葉を受け止めて、楽しげに外を指さしていた手をゆっくり膝に下ろしてきゅっと小さく握った。こんなこと、わざわざ言う必要なんてなかったのに。アリスの顔を曇らせるのは分かっていたはずで、しかしそんなのまるで思い至らなかったように言葉が口から滑り出ていた。

でも、彼女がこの町を気に入って住み続けるなんて言い出したら、きっと私はまた同じことを言ってしまう気がする。


「ボタンを押さないと開かないんだね。わたし、知らなかったなぁ」

上中稲駅は二路線が交わる三面五線の駅で、どちらか一方の路線しか乗り入れていない周辺の駅と比べれば大きな部類に入る。島式ホームから改札に向かう跨線橋には、バリアフリー化の波で無理やり後付けしたらしいエレベーターが接続しており、その継ぎ目がこの駅の歴史を際立たせていた。

昼下がりのホームは鉄骨の屋根で覆われて日陰になっているものの、通り抜ける風は日差しの強さを予感させる上擦った熱を帯びている。新居までは歩いたら十五分くらいかかるし、駅前にタクシーかバスが着いていることを祈ろう。

この駅に降り立ったのは地元住民っぽい高齢者や学生がほとんどで、残りはさっさと対面のホームに向かった乗り換え待ちの乗客と、観光客っぽい身なりがそれぞれ数人くらい。私たちみたいに、いかにも引っ越し中みたいな大荷物を抱えた乗客はいなかった。

「うふっ。マーヤ、荷物がいっぱいだね」

「そうね……リュックを背負って、キャリーケースも引いて、トートバッグまで抱えて。今からどこ行くのって感じ」

急な転勤辞令に端を発したこの引っ越しは、荷造りの段階で明らかになったアリスの予算不足で計画変更を余儀なくされた。私はもともと少しの服とキーボードさえあれば足りる生活だったけど、屈指の「かわいいマニア」であるアリスはそうもいかない。大量の服はもちろん、アクリルでできたつやつやしたアクセサリー類、ぬいぐるみのみなさん、その他いろいろを運び切るにはこうするしかなかった。

基本は最低限のかんたん引っ越しパックに抑えて、足りない分は私たちと一緒に運んでしまう。どうしても持ちきれない分は、事前に取っていた新幹線の切符を崩して宅配便で送ることにした。

別に私が立て替えてもよかったのに、アリスらしい変な意地で結局こうなってしまった。彼女の仕事の都合で私を振り回している、という姿勢だけは譲らないつもりらしい。重い荷物を抱えてたっぷり六時間の電車移動に付き合わせるなんて、お金を出すより状況がひどくなってる気がするけど。若いときの苦労は買ってでもせよ、ってことなのかもしれない。

「マーヤも似合ってるよ。小さな身体で大きなかばんを引くのって、なんかかわいい!」

「はいはい、私はかわいいですよ……

非力な私が彼女より軽いトートバッグに苦戦してバランスを崩しているのをよそに、アリスは涼しい顔で両手の荷物を抱えてその場をくるりと回ってみせる。彼女の仕事柄、体力が必要なのは分かっていたけど、まさか迷わず階段を上ろうとするとは思わなかった。

改札を出ると、駅前のロータリー広場にタクシーが数台と、小さなバス停の立つ乗り場が二つ。他に目を引くのは、地酒っぽい名前の大きな看板を掲げた三階建ての古いバスセンター兼観光案内所のビルと、白地に茶色い文字で「紙としおりのまち中稲」とのぼりが立つ雰囲気だけの喫茶店くらい。あとは、そば屋に中華料理店、美容室といった個人経営っぽい店舗や、全国チェーンの学習塾や居酒屋が入る比較的新しい建物が立ち並んでいるが、別に興味は惹かれなかった。

駅前を横切る道路に沿って町の奥に進むと、錆び付いた鉄柱の間に渡されたアーチに「上中稲駅前商店街」とファンシーなフォントで描かれた看板が立っている。ここからだと、入り口にパン屋があるのがギリギリ見えるくらいだ。そこからさらに五百メートルほど先からは、緑豊かな二十メートルほどの高台が続く。さっき駅で見かけた「もみじ山」と書かれた真っ赤な紅葉のポスターは、ここの観光PRだったらしい。

その丘に沿ってゆっくり上に目を向けると、頂上で銀色の大きな円形ドームが顔を出しているのが見えた。プラネタリウム? 天文台? いや、あれは確か――

「見て見て、マーヤ! あそこ、中稲の図書館! すごーい!」

「あー……元は複合型の建物なんだっけ?」

「うん! ここから見ても大きいねぇ!」

中稲図書館。かつて「図書館ネット」の総本山を務め、一線を退いた今でも図書館を守る不可侵な何かが隠されていると噂されている……と、軽く検索すればこれくらいの話はいくらでもヒットするが、実際はただの歴史ある図書館だ。もとよりこの地の住民が勉強熱心だったことから、明治初頭に町を象徴する文化施設として開かれたらしい。

図書館、と聞くと眉をひそめる人もいるだろう。電子書籍推進法が制定されてから数十年、もはや図書館は反体制的な勢力の逃げ場所になりつつあるからだ。

電書法によるプロパガンダのおかげで、今でも電子書籍はその利便性と著作権管理のクリーンさが殊更に宣伝される一方で、紙を大量に使う 旧書籍 は資源の浪費と権利運用の困難さばかりが強調されている。環境保護と権利重視という二つの無視できない課題を突きつけられ、大手出版社はいずれも旧書籍のレーベルを休止せざるを得なくなった。

ほとんどの出版物が電子書籍に移ったので、政府は作戦を新しい段階に進めている。健全で善良な文化の普及を掲げる電書法を根拠に、政権批判、差別的表現、性表現を含むコンテンツが有害図書類とされ、次々と電子書籍ストアから消え始めたのだ。当然、業界団体による声明やSNSの投稿で多くの批判が殺到し、一時は「紙に戻ろう」ムーブメントが盛り上がりを見せたものの、既にその頃の出版業界に再び旧書籍を流通させる体力は残っていなかったという。

それでも、前記のような 有害表現 を含む本は検閲・統制が容易な電子書籍ストアから逃れ、今でも旧書籍として出版されている。逆に言えば、今の時代に旧書籍で発行される本はほとんどが有害図書類ばかりという特殊な状況が続いていた。仮に流通市場が大きくなることがあれば、次は旧書籍規制法だろうな、という投稿はネビュ・ローゾ1でもしばしば見かける。

「マーヤ、これ」

アリスがポシェットからピンク色の細いファイルを取り出して、中に収められたしおりをそっと私に見せる。使われないのに本に挟まってるなんてしおりの墓場みたいだね、と冗談交じりに言ったら気に入ったらしく、それからは無用な詮索を避ける隠語として「おはか」と呼んでいた。

「中稲はオパールの名産地でもあるんだよ! 今までで一番綺麗なしおりかも」

「オパール? 随分珍しいのが採れるんだね」

「うん。全然知らなかったけど、すごいよねぇ」

虹色に輝く手のひらサイズの細長い乳白色のシートは、上に結ばれた銀色のリボンがなければしおりとは分からない。アリスがファイルを揺らす度に新たな模様が浮かび上がって、万華鏡でも見ている気分になる。下端に「中稲図書館」と等間隔の金文字で記されているのを見ると、引っ越し直前に受け取った書類に同封されていたものだろう。

「なんていうか……どう加工してるの、これ? 石をそのままローラーで伸ばしてるわけじゃないよね」

「どうかなぁ。しおりって完成品しか見たことないし、どこかに魔法のローラー工場があるのかも」

魔法のローラーなんて、怪しい美顔器のネーミングじゃないんだから。

旧書籍の排除と同時に、ブックカバーやしおりといったグッズも実用性を失って衰退してしまった。その代わりに、反体制的な思想の象徴、あるいは旧書籍保護の象徴としての意味を持ち始めつつある。特に、図書館ネットが構成員に支給しているしおりは、ある種の身分証としての効果を持つほど丈夫で美しい宝石仕立てで、かわいいマニアのアリスもとても気に入っていた。

そう、アリスは図書館ネットの職員だ。彼女が図書館に勤めているのは、各地の図書館で美しいしおりをもらうためだという。このどうしてもプラスチックには見えないオパールのしおりで、十枚目。前に住んでいた石上では、本に挟むとリボンが空中に浮かんで見えるほどに無色透明なしおりを手に入れていた。

アリスが名残惜しそうに おはか を閉じたり開いたりしているのを見ていると、ふと彼女を見失ってしまいそうな気分になる。まるで、アリスが おはか に吸い込まれてどこかに行ってしまうかのように。

「新居まではタクシーにする? 最後くらい楽してもいいでしょ。私が出すからさ」

というか、カーリースが間に合わなかっただけなんだけど。石上では選択肢にすらなかった車を持てるようになったのは、裏返せば中稲では車を持つ選択肢しか選べないということでもあった。

「ありがとね、マーヤ。わたし、助けてもらってばっかりだなぁ」

「急にどうしたの。こういうのってお互い様じゃん」

……うん! マーヤは、優しくてかわいいね」

私には、図書館ネットがこんなしおりのために所属するような組織だとはどうしても思えなかった。自由を愛する文化保護活動と言えば聞こえはいいけれど、政府と対立しがちな旧書籍保護活動が反体制組織と結びついた結果、テロ組織が図書館を隠れ蓑にする事件も多発していたからだ。

ただのかわいいマニアのアリスが誰かに利用されているみたいで、いつかしおりと引き換えに命を危険に晒したりしないか、たまに心配になる。だから、私は図書館があんまり好きじゃなかった。

それでも、図書館が近所にあって少しだけありがたいのは、ほぼ確実に量子回線が引かれていることだ。本来、この地域は物理回線を引けずに低速なWWANで妥協しなければならなかったところ、中稲周辺だけは例外的に最新の量子回線が整備されている。旧書籍を取り扱っているからといって、ITを忌避しているわけではないのだ。巷では「図書館は回線連れてやって来る」という名言でよく知られていた。

アリス「本当はAngelic Prettyで出勤したいの」

――初出勤を控えた図書館職員の朝は早い。着ていく服がなかなか決まらないから。たぶん、図書館職員の中でもわたしだけだと思うけど。

スマートグラスに映るエアロ・スクリーンを眺めてメールチェックしていたマヤは、さっき「パソコン教室なんて、私の方がお断りだっての!」と叫んで画面をどこかに放り投げていた。中稲に来た初日に応募していた求人は、どれも不合格だったみたい。

ARの外から見ると、天井に向かってぶんぶん腕を振っているだけだから、少しかわいい。

「マーヤ。この服でいいかなぁ?」

首元にすずらんレースとリボンをあしらった深緑のワンピースは、全体的に暗めの色に抑えつつ春っぽさを残した「カジュアル」なセレクトのつもり。Innocent Worldの中ではフリルも少なくて落ち着いてる方だし、古い本が詰まった書架に囲まれたらとっても似合うと思う。

意気消沈のマヤはベッドに腰掛けて身体を横に倒したまま、わたしを上から下まで二往復くらいしたところで、なぜか急に慌てて起き上がる。

「あっ……えーっと、なんだっけ?」

「今日のお仕事の服だよぉ。マーヤ、ショックで寝ぼけちゃった?」

わたしの言葉を聞いたマヤは「ごめんごめん」と改めてわたしの服を眺め始める。時折小さく息を吸う妙な間が、なんとなく彼女のリズムを乱している気がした。

「うーん……初日だし、もう少し落ち着いた感じの方がいいんじゃないかな」

巷ではお堅いイメージのある図書館だけど、実は窓口業務さえ担当しなければ髪型や服装には甘い。むしろ気にしなければならないのは、頭の固い利用者から入るクレームの方だ。仕事をちゃんとしていても、こういう苦情に対応できなければ評価が下がってしまう。評価が悪ければしおりはもらえないから、結局のところ妥協するのはわたし。服装にうるさい人って、本当にきらい。

でも、かわいい服じゃないとやる気が出ないし、オフィスカジュアルって言われてもよく分からなかった。だから、朝はとびっきりかわいい服から始めるのが鉄則だ。マヤが図書館に行くわたしの服を見て「もっとふりふりの方がいいよ」なんて言うことはなかったし。

「石上の図書館ではこれくらい着てたよ?」

「それは、みんなアリスの好みを知ってたからでしょ?」

これくらいなら大丈夫かなと思ったけど、初出勤にはまだ足りないみたい。うーん、と頭を悩ませていると、マヤがベッドから立ち上がってワンピースの襟にそっと手を伸ばした。

「でも、私はいいと思うよ。この細かいレースならあんまり目立たないから、図書館の静けさに似合いそうだよね」

「うん! わたしも、マーヤのこと大好き!」

「あ、ありがと……いや、急にどうしたの」

マヤはかわいいから好きだ。小さくってやせていて、わたしとは正反対。大きくて綺麗なブラウンの目はどこから見てもきらきらしていて、猫みたいでかわいい。でも、起きている間はいつもスマートグラスを掛けていて瞳がよく見えないから、寝る前のちょっとの時間しか楽しめないことが多かった。

真っ黒いワンレンボブにわざわざ青いインナーカラーを隠しているのは、わたしが「原宿に行くなら、髪くらい染めておかないとBANされちゃうよ」って言ったのを真に受けたから。嘘だって分かったときに、わたしをにらむ顔が猫みたいで思わず笑ったら、また怒られちゃった。でも、マヤが好きなゆったりシンプルなコーデには、いいアクセントになっている。

あ、いつもわたしがマーヤって呼んでいるのは、伸ばした方がかわいいなって思ったから。あだ名みたいなものなの。

「マーヤ。これはどう?」

……ん、いい感じかな。アリスっぽさも残ってるし」

結局、CLASSY CAROLの黒いフレアスカートとフリルブラウスに落ち着いた。スカートの裾にはネイビーのフリルがぐるりとあしらわれているし、お気に入りのクレマンハットでごまかしてるけど、なんかいつもより地味だなぁ。それに、普段は三回くらいで「いい感じ」なのに今日は四回もかかっていた。こういうときは、マヤのご機嫌があんまりよくない日だ。全部不合格だったのがよっぽどショックだったのかしら。

マヤの仕事は、セキュリティの設計とか調査だって言っていた。よく在宅勤務でキーボードを叩いては唸ったり喜んだりしながら楽しそうに作業している。スマートグラスの性能だけじゃ足りないらしくて、部屋には大きなデスクトップパソコンが置かれているし、インターネット回線も自分で手配していた。コンタクトレンズで性能が十分なわたしには、よく分からない世界。プロ仕様ってやつね。

おかげで、前のお家では夜中にインターネットが遅くてよく怒っていたマヤが、ここではいつも「テラ超え」だって喜んでいる。マヤは中稲に来るのが乗り気じゃなかったから、少しでも気に入るところがあったならわたしも嬉しい。

でも、そんなマヤのスキルを活かせるようなお仕事は中稲にはないらしい。図書館の中央コアシステムは古いし、操作画面をもっとかわいく改造するお仕事とか募集してないかな? 前にマヤも図書館で働こうって誘ってみたけど、本はあんまり好きじゃないみたい。

わたしを見上げるマヤの顔を覗き込むと、スマートグラスの反射の先に彼女の大きな瞳が見え隠れしてドキドキする。目が離せなくなるこの感覚が、いつも恋してるみたいで心地よかった。

「落ち込まないでね、マーヤ。お仕事なんていくらでもあるから!」

「いや、落ち込んでないって。まさか、町のパソコン教室にスキル不足だってバカにされるとは思ってなかっただけで……

「じゃあ、どうして元気がないの? 一緒のお布団だから、狭くて眠れなかった?」

今の新居は前の狭いアパートよりもずっと安くて広い。さらに、引っ越しの荷物を減らすために家具は最低限しか持ってこなかったから、がらんとした部屋の寂しさは過去最高を記録していた。持ってきたぬいぐるみとクッションを全部並べても、家具の少なさはごまかせない。

それぞれの部屋で使っていたシングルとセミダブルのベッドも小さい方を処分したから、わたしたちは今マヤが座っているこのベッドで身を寄せ合って寝ている。「身を寄せ合って」なんて聞こえはいいけど、実際はわたしがマヤの寝床を奪ってしまわないように身体を曲げて空間を作り出しているという、なかなか見苦しい寝姿だった。

久しぶりに一緒のお布団で落ち着かないみたいだったから、マヤが好きなおっぱいもしてあげたのにな。スマートグラスを着けずにわたしを見つめる上目遣いのマヤは、かわいい瞳が一番近くで楽しめるから世界で一番好き。

「そんなことないって。そもそも落ち込んでるわけじゃなくって、その――

と、マヤは慌てた様子で弁解していたけれど、急に視線がスマートグラスの中に向いて言葉が途切れた。出勤の日はコンタクトレンズを着けずに物理端末(スマホ)で済ませていたから、わたしには彼女の視界にエアロか何かがポップしたことしか分からない。

「マーヤ?」

……あ、いや。なんでもなかった。とにかく、うん。早く出なきゃ遅刻しちゃうよ」

「ちょ、ちょっとマーヤぁ。急にどうしたの?」

マヤは突然立ち上がると、わたしの背中をぐいぐい押して部屋の外に出そうとする。どんなにゆっくり歩いても三十分もかからないんだから、まだ遅刻なんてするわけないのに。怪しい……っていうか、これは隠しごとをしている顔だ。マヤったら、また不合格だったのかな。別に隠す必要なんてないのに。


中稲図書館は、駅を出てすぐの小高い丘の上にある。マヤは地名と図書館の間に「の」って付けるのは変だって言うけど、わたしはリズムがよくて好きだ。

頂上までの道は、アスファルトの車道と石畳の歩道がほぼ同じ幅で続いている。図書館ネットが始まった頃に「全ての人にとって平等な場所」という理念を示すために、こういうデザインが流行っていたと聞いたことがある。今はもうあまり整備が行き届いていないみたいで、ところどころ舗装が剥がれて赤い三角コーンが置かれていた。

上を見ると、道路の左右に植えられた木々から明るい若葉が顔を見せて、五月の爽やかな風に合わせて揺れている。太陽を透かした新緑色は新しく芽吹いた かえで の葉で、秋になるとこれが全部真っ赤なもみじに変わるのだから、自然って不思議だ。

「やっぱり、すっごく綺麗!」

頂上に着く。中稲図書館は、知らない人が近くで見たらプラネタリウムと勘違いしてしまうほどのおしゃれなデザインだった。円形の建物は周囲が白いタイル張りになっていて、その上に三角形の建材を組み合わせた銀色のフラードームが載っている。どこを見てもきらきら輝いていて、まるで月の基地みたい。

入り口は目の前にある利用者向けの正面入り口と、ぐるりと回って正反対に搬入口を兼ねた職員通用口があったはず。

ちょっと中を見てから事務室に行こうかな。自動ドアをくぐって図書館に入ると、ガラス張りの丸い閲覧室をぐるりと囲うように廊下が左右に続いている。中には書架が同心円状に配置されていて、真ん中には閲覧席があるみたい。二階部分も壁に沿ってたくさんの本が収められている。

このまま廊下を右側に進むと閲覧室に入れるのかな。でも、まだこっちの自動ドアは開いていないはずだし、あんまり寄り道してたら間に合わなくなっちゃう。そろそろ事務室に向かわないと。左側の通路に立てられた「関係者以外立ち入り禁止」の札をすり抜けて先に進んだ。

ちょうど閲覧室を過ぎたあたりで事務室の入り口が現れる。ガラス張りの壁がストンと途切れて、茶色いアルマイト仕上げの頑丈そうな壁に変わっていた。同じ素材でできたドアにはノブも取っ手もなく、唯一のっぺりとした手触りの横に設置されたタッチセンサーが存在を主張している。

「あれ、IDカードはまだ発行されて……あぁ、そうだった」

転勤前に聞いた話を思い出して、わたしはリュックから「おはか」を取り出した。この前受け取ったオパールの辞令しおりをセンサーに当てると、緑色のインジケーターが点滅して数秒後、キキッと小さな音を立ててドアが開く。

図書館が配る辞令しおりには、着任先の事務室に入るためのチップか何かが載っているらしい。仕組みは知らないけど、しおりでドアが開くなんて図書館っぽくていいよね。でも、しおりの効果は一回きりの使い捨てで、次回からは普通のIDカードを使う必要があるからちょっと残念。

中ではもう十人くらいの職員が仕事の準備をしていた。辞令しおりを見せて手短に自己紹介すると、佐藤さんという同い年くらいの女の人がわたしに付いてくれることになった。図書館内部の簡単な紹介と今日の仕事について説明をもらってから、自分のデスクに案内される。

「荷物を置いたら、館長にごあいさつした方がいいかしらね」

佐藤さんは、ロング丈のグレージュのラップスカートにシンプルなアイボリーのブラウス姿で、首には青い平紐でIDカードがかかっている。いつか雑誌で見たオフィスカジュアルのコーデに似ている気がした。どこのブランドだろう。

事務室の真ん中に設置された階段をトントン降りていくと、まずは薄暗い地下書庫が現れる。天井全体から長期保管対応のLED灯で照らされていて、隅から隅まで均一なほの暗さを保っていた。歩みを進めていくと、周囲の壁、通り抜ける書架、わたしを迎える本、そして自分まで……空間全体が光っているような気分になる。

佐藤さんから聞いていたとおりに書庫を進むと、さらに地下に降りる階段に辿り着く。この先に館長室があるって言っていた。

館長室のあるフロアは、先ほどまでの地下書庫とは対照的にぎらぎらとした蛍光灯が明滅していて目に悪い。でも、真っ白な漆喰にカラフルな飾りタイルの腰壁が張られていて、まるで山奥の古い別荘にでも来たみたいだった。ほんのり黄色を含んだ明るい赤の絨毯を進んで、年季の入った木製の扉をノックすると「はい、どうぞ」という落ち着いた女の人の声が返ってくる。

「おはようございます。わたし、アリスって――あれ?」

しかし、中に入っても部屋には誰もいなかった。洋館仕立てといった感じの内装に、廊下のものと同じ色の絨毯が床いっぱいに敷かれていて、奥にはどっしりとした木製のワークデスクが主人不在のままどっしりと構えている。天井には見慣れない黄色のLED灯がはまったランプシェードが吊されていて、廊下の蛍光灯よりも温かい光を放っていた。

左右の壁いっぱいに広がる大きな書棚にはなぜか本が全く入っておらず、ガラス戸は指紋一つなく綺麗に保たれている。石上図書館の館長室でも、空っぽの書架を置いていたっけ。これも「誰かが本を独占したりしない場所」という理念を示す慣習だと聞いたことがあった。

「おや、新人さん?」

館長室を見回していると、いきなり机の前に人の形をした光が現れた。わたし、何かスイッチでも押しちゃった? 突然の眩しさに目を細めて前を確認すると、徐々に光が弱くなってセーラー服を着た少女に変わっていく。くせの強いブロンドのロングヘアが揺れて、神秘的なグリーンの瞳と目が合う。あ、かわいい。

マヤが昔楽しそうに見せてくれた、ホログラム映画のワンシーンを思い出した。

「私は浦部だ。ここの館長をしている。館長なんて言わず、浦部さんと呼んでくれていい」

「あ……はい、浦部さん。わたし、アリスです。石上図書館から来ました」

「キミの勤務態度については石上図書館からよく聞いている。期待しているよ」

その姿はわたしより年下に見えるけど、口から出る言葉選びは堅苦しくて威厳を感じさせるものばかり。それでも、この若くて優しそうな声を聞いていると冷たい印象は全く受けない。むしろ、館長には似つかわしくない若さを隠すために背伸びしている健気さを感じるくらいだった。

スカートの裾をふわふわ揺らす浦部さんの姿は、いかにもデキる上司っぽい口調に全然合っていなかった。

「ごめんね。とある事情で、私は外に出られないんだ。だから、今は別の場所からキミに話しかけている」

いくら館長でも、全く外に出られないなんて聞いたことがない。ホログラムで姿を見せていることをごまかすための冗談だろうけど、それなら本物の館長室はどこにあるんだろう。もしかしたら本当に動けない事情があるのかもと思いつつ、意味もなく浦部さんの顔をじっと見つめる。さらさらと動く髪の端には、解像度の限界が宿っていた。

「わざわざ来てくれてありがとう。着任しおりはロッカーに入れて置くから、持っていくといい」

ありがとうございます、と言葉を返すと、満足そうに頷いた浦部さんの姿がぱっと消える。館長室に一人残されたわたしは、目の前に現れた不思議な館長さんについて思い出しながら、そっと彼女がいた場所に手を伸ばしていた。

マヤ「アリスってかわいいものに目がないから」

アリスに仕事が見つからないと言ったのは、半分嘘だった。いや……途中までは事実だった、という方が正しい。

数日前に一括で応募した市内のパソコン教室やら事務職は、確かに全て不採用だった。オフィススイートが一通り触れれば務まるような仕事なら、怪しげな経歴を抱えているよそ者より同郷の若者を選ぶだろうし、それ自体は仕方ない。まぁ、写真を撮って印刷したいだけのお年寄りにImageMagickの任意コード実行を教えたって何にもならないんだし。ネビュではちょっと話題になるかもしれないけど。

問題――アリスについた嘘――は、夜中に届いていた差出人不明のスカウトメールだった。件名には「図書館ネットワークに関する諜報活動のご依頼」とある。スパムに分類されていたから初めは目に入らなかったけど、転職ポータルから大量に届くお祈りメールを処理してからやっとその存在に気付いたのだ。

この件名を視界に入れたのが、ちょうどアリスのファッションショーの直後だったものだから、なかなかタイミングが悪い。アリスは画面を見て驚く私の様子に目ざとく気が付いて、不思議そうな顔をしていた。咄嗟に知られてはまずいと思ってごまかしたものの、彼女が図書館から帰ってきたらまた追及されるかもしれない。

とはいえ、迷惑メールは迷惑メールだ。図書館ネットの謎めいた陰謀論にあやかったスパムは年々増えていたし、ぴったり引っ越しを終えたその日に届いたのは偶然の一致か、せいぜいよくある標的型攻撃の一例だろう。そう思いながらメールを開くと、そこには多くの情報が記されていた。

「これ……聞いたことないな。壮大な創作?」

内容は、インターネットでいくらでも見つかるような陳腐な噂話から、昔の講演会か何かのスライドが一部だけヒットするような図書館ネットの内部組織図、さらには検証しようのない職員同士のゴシップまで。ところどころ添付ファイルの資料を参照している箇所があったものの、ホイホイとその誘いに乗って仕込まれたスクリプトを読み込んでしまうほどバカではない。

それでも、独自の情報を提示して信頼を得ようとしているのはなかなか興味深かった。本文がなぜかお嬢様っぽい言葉遣いなのも謎の信頼感がある。少なくとも、書いたのはそれなりの日本語運用者だと分かるから。

発信元は巧妙に偽装されていて、あたかもメールサーバ内から突然発生したようなログがつらつらとヘッダに残されているだけ。宛先は確かに私のメールアドレスだけど、この前転職ポータルに登録したものとは微妙に違っていて、ここもまた謎だ。

そして、以降の返信はメールではなくThreema2から送るよう書かれており、連絡先として十二桁のIDが記されていた。

仮に本当の依頼だったとして、誰がどんな目的で私に接触したのだろう。図書館ネットについて詳しく知りたい誰か。もちろん、秘匿されがちな情報を暴いてまとめたいだけの単なる図書館好きよりは、その情報を活用して図書館ネットに一計を巡らしたい攻撃者の方がありえるだろう。対価を払ってでも図書館ネットを転覆させたい誰か。警察? いや、どちらかといえば公安庁の管轄か。

さらに仮定を積み上げると、仮に図書館ネットが壊滅的な攻撃を受けたとしたら、それはアリスの職を脅かすということに他ならない。もちろん業務は長期間ストップするだろうし、システムの回復に力を注ぐために一般職員は最低限の人員まで削減されるというシナリオだって十分ありえる。つまり、アリスはクビになるってことだ。

長年一緒に暮らすルームメイトの人生を狂わせかねない作戦に手を貸すなんて、本来ならありえない。しかし、相手はあの図書館ネットだ。自らの理想が抱える反体制の毒で苦しみ続ける間抜けな毒蛇のような存在。テロ組織が潜む組織の闇を暴く作戦に協力するのだから、多少の犠牲は許されるかもしれない。

それに、視点を変えればアリスを図書館から引き離すチャンスと考えることさえできる。綺麗な素材のカードが繋ぎ止める奇妙な縁は、既に五年ほど――私とアリスが一緒に暮らした時間の半分以上――続いていた。五年前のクリスマス、駅前で街宣する図書館ネットからラピスラズリのしおりを受け取ったときの彼女の表情は、今でも忘れられない。

あの瞬間から、アリスの心は図書館に奪われたのだ。

アリスのことは好きだけど、図書館は嫌い。現に、純粋な彼女をこうして怪しい 総本山 に送り込んだのだから。

「流石に怒るかな……でも、しおりさえ全部揃えば……うーん……

アリスを無理に図書館から引き剥がしたとして、私たちが持続的で健康な生活を続けられるほどのお金はない。タクシー代で何度か見栄を張ることくらいはできても、結局は破綻する未来しか想像できなかった。それでも、アリスがいつまでも図書館ネットに囚われているのは苦しいし、いつか突然消えてしまわないか心配になる。

しかし、この仕事を受ければその両方が解決できるかもしれない。

「あー……やるか……

それから数時間悩んだ末、送金先を教えるだけなら問題ないと自分に言い聞かせながら、空っぽの新しいウォレットアドレスと依頼内容の詳細を尋ねるメッセージを送信した。最初に手数料として五万円を支払ってください、登録に保証金が必要で、ウォレットの残高が足りなくて……なんて言い始めたら無視すればいいんだし。業務内容と給料に納得いかなかったら手を引く。仕事では当たり前のことだ。

情報収集の範囲を逸脱するような破壊活動はしない。諜報活動のためにアリスを騙して手伝わせたりはしない。そして、アリスの身に危険が及びそうになったら迷わず手を切る。自分の中のルールはちゃんと守ろう。

ルームメイトの職場をちょっと調べるだけなら、それがお金になるだけなら、傷付く人は誰もいないはずだ。

私の葛藤とは裏腹に、送信から数十秒足らずでメッセンジャーの通知フラッシュが光る。まるでボットのような速度の返信には「依頼内容は、中稲図書館についての調査全般・深部コアキーの入手です」という短い本文と共に、メールに記載していた額面通り五百万円相当の送金を示すトランザクションが貼られていた。

「マジか……


中稲図書館。かつて図書館ネットの総本山として……というのは、公式ウェブサイトでも読めるありきたりな説明だ。江戸時代まではただの小山だったが、明治に入ってからこの高さ二十メートルほどの丘陵に初代中稲図書館が建てられたという。その後何度か建て替えを経て、現在は市民に「くろしゅ3プラザ」という愛称で親しまれる特徴的な銀色ドームの建物が使われている。

中稲では明治時代から長年この図書館が町のシンボルだったこともあり、比較的多くの住民から愛されていることが役所の広報などから読み取れる。それでも、統計上の利用者数は人口が近い他の地域と比しても多いわけではない。高齢者が丘の上にある図書館に集まるのは難しいという事情もあるだろうけど、あくまで実用に供さないシンボルにすぎないということか。

気になるのは、この銀色ドームの「くろしゅプラザ」に生まれ変わる前後のことだ。

電書法が制定される数年前から、多くの図書館に民間企業の商業的視点を入れようとする動きが起こっていた。各地の図書館は見栄えのいいガラス張りの建物に改装され、間接照明と木目調の建材を活かした美しく荘厳な内装に仕立てた上で、飲食可能な閲覧席を極端に拡張した複合型図書館がブームを迎える。

しかし、閲覧席の拡張やカフェの導入によって、どうしても旧書籍を収める本棚が邪魔になるケースが増えていた。多くの旧書籍は 商業的 判断で閉架書庫に追いやられ、書架はデザイン上必要なものを除いて撤去されることになる。

閉架図書として登録されているなら、本としてはまだ幸せかもしれない。より悲惨なのは、アクリル板で完全に塞がれた木製ラックに収められた旧書籍だった。殺風景な壁面を埋めるように飾られた壁紙のようなその本は、貸し出しはおろか取り出して読むこともできないのだから、あくまで読書空間を盛り上げるための小道具に成り下がる。

図書館を単なる電子書籍を読むための快適な空間として作り替え、電子書籍体験の盛り上がりを支えると共に旧書籍へのアクセスを難しくするという一石二鳥の企て。もちろん、これは電書法の施行をスムーズに進めるための裏工作だったわけだ。

この 読書広場化 の波は中稲図書館にも迫っていた。駅から見える丘の上にあることから、プラネタリウムをイメージした円形の建物と銀色のドームが目を引く新たなデザインが示され、さらに住民から愛称を募集して親しみやすいナラティブが作り上げられた。

建物は数年で完成し、臨時図書室に移していた本を戻すところまでは順調に進んでいた。この時点では地下の閉架書庫が十分に整備されておらず、展示用の本棚に収めた残りは秘密裏に廃棄するつもりだったとも言われている。そこにやってきたのが、後に図書館ネットを組織することになった浦部槭樹氏だった。彼は中稲図書館の初代館長の子孫であり、一時は中稲を離れていたが、どういうわけか完成間近で戻ってきたらしい。

そこからは怒濤の展開だった。なんと浦部氏は建物を含む周辺の土地を丸ごと買い上げ、新たな図書館指定管理者に就いたのだ。彼は当初の計画を破棄して書架の拡張を進め、全ての本を失わずに開館当日を迎えたのだった。彼が館長になった日は旧書籍保護記念日として、開館日は図書館ネットの設立記念日としてそれぞれ知られている。……と、基本的な情報はこれくらい。

もう一方の「深部コアキー」については、残念ながら何もヒットしなかった。名前から図書館内部の何かであることは想像が付くものの、依頼者だけが使っている通称なのかもしれないし、存在するかも分からない噂話の検証が目的なのかもしれない。中稲には図書館を守る何かが隠されている、というのはよくある噂のひとつだった。

アリス「スマホの充電ってよく忘れちゃうよね」

物理端末の充電が切れる音が聞こえて、ふと目が覚める。あれ……今は何時だろう。カーテンの外はまだ暗いみたいだった。

悲鳴を上げた物理端末を朝まで充電しておこうと思って横を向くと、部屋の中にほんのりと紫色の光が浮かび上がっているのが分かった。マヤが今日も頑張っているみたい。昨日も夜中まで熱心にキーボードを叩いては「やばいな……これ、どうしよ……」なんて呟いていたから、流石に少し焦っているのかな。でも、夜更かししてまでお仕事探しなんて、なんだかマヤらしくなかった。

ベッドに寄りかかるマヤの手振りに合わせて揺れる光をぼーっと見ていると、心細い夜でも自分一人じゃない気がして少し安心する。前のお家でもよく見る光景だった。マヤはたまにわたしの部屋に来て、一緒に眠るわけでもなくお仕事をしていたから。

こういうとき、頭を撫でてあげるとマヤはくすぐったそうにして振り向くから、かわいい。でも、今は余裕がないみたいだから邪魔しちゃダメだよね。

「ん……アリス、起こしちゃった?」

――と思っていたつもりが、気付くとマヤの頭に手を置いていた。わたし、寝ぼけているのかな。

「寝る前に充電し忘れちゃったみたいなの。最近、すぐバッテリーが切れちゃって……ふぁあ」

少し驚いた様子でこちらを見るマヤの頭を何度か撫でてから、その手のまま充電器に置き損ねた物理端末を指さす。引っ越しで場所が変わったのに慣れなくて、家に帰ってから充電器に置くのを忘れることが多くなっていた。

「あー……そっか。私がやっておくよ」

マヤは何枚かエアロを消してからゆっくり立ち上がって、床に置きっぱなしのうさぎさんを棚の上の充電器に移した。せっかくお揃いのルームウェアを持ってきたのに、マヤは暑いよと言ってVIVID LADYの黒い半袖とショートパンツのスウェットばかり着ている。フレアっぽい袖や裾も確かにひらひらしてかわいいけど、絶対もこもこの方がいい。

「マーヤ、お仕事見つかりそう? あんまり無理しちゃダメだよぉ」

「ありがと。でも、大丈夫だからアリスはちゃんと寝てね」

ベッドの横に戻ってきたマヤが、スマートグラスを外してそっとわたしの頭を撫でた。ひんやりとした手が心地いい。わたしを見下ろす暗がりの瞳にスマートグラスの光が反射して、あやしい紫色にきらきら光っている。わたしの目もこんな色に見えているのかなと思うと、なんだか急に恥ずかしくなってそっと目を閉じた。

「はーい。疲れちゃったら、またおっぱいしてあげるねぇ……

わたしはマヤと狭いベッドで眠るのが好きだけど、彼女はどう思っているだろう。何度かこのベッドで一緒に眠ったことがあるけど、マヤは誰かと一緒に寝るのが苦手みたい。昔、マヤの単位がかかった大事な期末試験で寝坊しちゃって、アリスのせいだよって怒られたこともあった。わたしはマヤと同じベッドで寝たかっただけなのに。

お仕事探しが終わったマヤがベッドに戻ってくるのをぼんやり夢に見ながら、わたしはまた眠りについた。


らしく ないのは、マヤだけじゃなかった。

翌朝、しっかり充電百パーセントで図書館に出勤したわたしは、ロッカーに見覚えのある封筒が入っているのを見つけた。これは、昨日も浦部さんから受け取ったピンク色の封筒だ。初代の館長さんをイメージした色だって言っていた気がする。きっと、かわいいものが好きだったのね。

渡し忘れたものでもあったのかしら。その場でぴりぴりと封を破ると……なんと、中から着任しおりが現れた。

「えっ? どうして?」

思ったより大きな声が出てしまった自分に驚きながら、きょろきょろと辺りを見回した。盗んだわけでもないんだから堂々としていればいいはずだけど、なんとなく。誰もいないことを確認してから、リュックから おはか を取り出して昨日のしおりと見比べる。

二枚のしおりは、どちらも薄く伸ばした虹色のオパールに金文字で「着任」と彫られていて、一日違いの日付が刻印されていた。着任しおりを二枚ももらえるなんて、わたしったら随分期待されているみたい。やっぱり、前の年間表彰が効いたのかしら……なんてこともなく、単に浦部さんが間違って入れてしまったのだろう。

始業までは少し時間があったし、先に館長室へ向かうことにした。

丸い建物に沿った階段をぐるぐる降りていると、 ずっと同じ場所を歩いている気分になる。館長室の扉をノックすると、昨日聞いた優しい声が返ってきた。部屋に入ると、やはり昨日と同じようにセーラー服姿の浦部さんがホログラムで現れる。

「おや、新人さん?」

そして、わたしを見た第一声まで同じだった。……って、どうして? わたしのこと、覚えてないのかな。ホログラムを通じてわたしに見せる優しい表情は、決して冗談を言ってからかおうとする様子には見えない。

「えーとぉ……アリス、です。昨日も浦部さんとお話して、こう……褒めてもらったり、しました」

「アリス……あぁ! そうだった、昨日来ていたね。すまない、少しトラブルがあって記憶が飛んでいて……

浦部さんはわたしの名前を聞いてやっと合点がいったらしく、優しい表情の後ろから困惑した顔を見せる。記憶が繋がって電気でも走ったみたいに、ホログラムに一瞬ノイズが走った。やっぱり、本当にわたしのことを忘れていたみたいだ。

「大丈夫ですか? 倒れちゃう前に、休んだ方がいいですよぉ」

まさか、忙しくて人と会話した記憶が飛ぶなんて。やっぱり、館長ってとっても多忙な業務らしい。石上図書館でも、館長さんがなかなかお家に帰れなかったみたいだし。館長になればたくさんしおりをもらえるかもしれないけど、こんな風になっちゃうなら断らなきゃね。マヤと過ごす時間も減っちゃうし。

「そうだ。着任しおりはロッカーに入れておいたから、持っていって。じゃあ、お仕事頑張ってね」

「あ、えーと……

そう言い残した浦部さんのホログラムがすっと消えて、広い館長室にわたしだけが残される。その場に鏡がなくて分からなかったけど、きっときつねに化かされたような顔をしていたと思う。休んだ方がいいですよなんて言ったら、まさか用件に入る前にいなくなっちゃうなんて。

手持ち無沙汰で館長室を出たわたしは、また おはか を取り出して、双子のしおりを右から、左から眺めてにんまりする。虹色のしおりというだけで嬉しいのに、それが二つもあるなんて。

一日違いの着任しおりなんて貴重なもの、本当はもらっちゃいけないんだろうけど、浦部さんがくれるって言うなら甘えてもいいよね。だって、しおりってとってもかわいいんだもの。

後半へ続く)


  1. 分散SNSサーバ実装のひとつ。略称の「ネビュ」の方が広く伝わりやすい。投稿自体を「ネブ」、投稿することを「ネブる」といい、利用者は「ネビスト(またはネビュラー)」と呼ばれる。 

  2. スイス製のチャットアプリで、メールアドレスや電話番号と結びつかない匿名IDのアカウントを利用して強力な暗号化通信を行うことができる。 

  3. フランス語で「鐘」を意味するclocheと、名産品である「黒酒」の音読みを掛けたもの。 

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