ドアスコープ

「ごめんなさい。私ったら、また寝てしまったのね」

大きなベッドで目を覚ましたユミが、ソファに腰掛けてそわそわと待つ私に気付いて声をかける。

眠っているユミを見ていたら、きっと彼女を求めて泣きじゃくってしまうだろうから、私は彼女に背を向けて待っているしかなかった。ラブホテルのつまらない有線放送さえも、今は息の詰まるような静寂をかき消す唯一の救いに思える。

「はい、薬。遅くなっちゃったから、夕食分は飛ばして。次は明日の朝だから。忘れないでね」

起き上がったユミに歩み寄って、お気に入りのケイト・スペードのポーチを差し出す。ポーチを勝手に開けるとユミはひどく機嫌が悪くなるから、薬のシートを取り出すのはいつも彼女自身の仕事だった。それでも、ユミがどんな薬を飲んでいるのか、いつ飲むべきなのか、私はよく知っている。

ユミがベッドを降りて私の隣に座った。栓を開けたミネラルウォーターのボトルを差し出すと、ユミは「ありがとう」と言って私に寄りかかる。赤や黄色の錠剤を飲み終わるのを待って、私は本題を切り出した。

「ねぇユミ、もうやめない? こんなこと、彼も悲しむよ」

「またその話? 彼は何も知らないわ。それに、セックスってこんなに気持ちいいんだもの。誰が不幸になるっていうのよ」

「元カノを捕まえてセックスのためだけに会うのって、すごく不幸なことだよ……そう、不幸だよ……」

自分に言い聞かせるように呟く私を見て、彼女は人差し指を唇に当てて考えるふりをする。「ふーん」と吐息を漏らすユミには、私の苦しみなんてどうでもいいに決まっていた。

ユミは私の全てを知っていて、私はユミのすべてを知っている。ずっとそうだと思っていた。それでよかったはずなのに。

「でも、あなたって私のことが好きでしょう? それってすごくしあわせなことだと思うの。あなたは、間違いなく私の人生に必要な人よ。何だってしてあげたいくらいに」

そう言って、ユミが私の手を握った。起き抜けのユミはいつも機嫌がよくて、まるで私を本当の恋人のような目で見てくれる。その瞬間だけは、彼女も私もお互いのために自分を捧げる夢みたいな想像をかき消さずにいられた。

「じゃあ、私……また、ユミの部屋に行きたいんだけど」

「……それはダメ。あなたも、分かってるでしょう?」

しかし、そんな時間は長くは続かない。ユミはお気に入りのティータイムを邪魔されたみたいに不満げに鼻を鳴らすと、すっと立ち上がって身支度を始めてしまった。冷たそうな背中に「ユミ、ごめんね」と呼びかけたところで、数秒前の甘い瞬間が返ってくることはない。

私だけがここに取り残されて、そっと彼女の足元を見ていることしかできなかった。


一度だけ、ユミの部屋に行ったことがある。小さなマンションの5階、東向きの1DK。紺色のテーブルクロスのかかった大きなダイニングテーブルに、背もたれのついたウッドチェアが2つ。「そこ、本当は彼が座るところなの。バレたら怒られちゃうかしら?」と言って笑った。

正面には、ティースプーンを弄ぶユミと、ガラスのクッキージャーいっぱいに詰められた手作りのカラメルビスケット。ゆったりしたオリーブ色のワンピースに身を包んだユミが、また何枚かビスケットを取り出して私の皿に置いた。その一つ一つの動きに見とれているうちに、何時間も、何日も経ってしまうような、身体がゆっくりと深い紅茶の海に沈んでいくような不思議な感覚を覚えた。

「私、そろそろ帰らないと」

「あら、泊まっていけばいいじゃない。彼には友達が来たって言っておくから」

「え、でも……」

「こんな時、私たちって便利よね。友達だとか、恋人だとか、勝手に決められちゃうんだもの」

ユミがクッキージャーの蓋を閉じる。私は彼女に何と答えるべきか分からなかった。次第に私の周囲を満たす重い沈黙から逃げるようにふと横を見ると、ドアの一点がきらきらと輝いていた。暖かい橙色を縁取って、青や緑の光条が伸びている。首を傾けると、七色の放射がゆら、ゆらと揺れた。まるで、泡のように世界が裂けて虹色の空が流れ込んできてしまいそうだ。

突然飛び込んできた強い光線のせいか、目の端からつぅ、と涙が落ちる。

「ドアスコープに夕日が当たって、部屋に光が入り込むのよ。ちょうど去年の今頃もこんな感じだったわ。ラッキーね、あなた」

日没に合わせて、ドアスコープが少しずつ輝きを失っていく。それはほんの数分のできごとだった。世界の裂け目が刺すような赤い光に変わってから、ふっと消えてしまう。テーブルに落ちていた深い影が霧散するように逃げ出して、ユミはスイッチが切れたみたいにうつむいた。ユミは薄闇の中で、何を考えていたのだろう。

なぜか、もう二度と同じ光景は見られないだろうと思った。

「不思議よね。まるで、まぶたのない瞳みたい。どうしてこんなに無防備なのかしら。見たくないと思っても、視界から消し去ることさえできなくて――」

そう言いかけて、ユミは死んだように眠ってしまった。彼女の眠り癖は、決まってこういう大事な瞬間に起こるのだ。いつだって、私を取り残して。


思い出してみると、あのテーブルに彼女と向き合って座ったのは、別れてからちょうど1ヶ月経ったあの日の夕方だけだ。それからは、喫茶店かレストランか、ショッピング、あとはホテル。ユミは、私の部屋の壁が薄いのをひどく気にしていた。

「やっぱり、彼にあなたのこと言ってみるわ。あなたと違って、私の全部を受け入れてくれるかもしれないし」

「受け入れてくれなかったら、どうするの?」

ユミが「そうねぇ……」と考え込むけど、私にとっては意味のない質問だった。彼がそんな提案を受け入れるわけがないって、分かっていたから。

こんなに魅力的な女性を独り占めできないなんて。それを自分の口から認めなきゃいけないなんて。

「もう、別れちゃおうかしら。そうしたら、また付き合えるわね、私たち」

背中にぞわり、と期待と絶望をまとった電撃のような震えが走る。ユミのセックスは、決して彼女の身体を満足させるためのものでもなければ、誰かに愛を与えるものでもなかった。自分に向けられた視線を、ユミにぶつけるはずだった欲望を、彼女と分かち合うために捧げられた人生を、ただ一方的に吸い上げるだけのある種の儀式だった。

だから、私の愛の全てを差し出したって終わらない。私では足りなくなったのなら、また他の誰かから吸い上げるのだろう。今、彼女が私の目の前に期待をぶらさげているように。そんなの、一度だって私に耐えられるわけがない。だから、私は彼女から逃げた……はずだった。

「……そんなこと言わなくていいよ、わざわざ。私は、このままでいいから」

すべてを終わらせてしまいたくなる衝動を押し殺して絞り出すようにそう告げると、ユミは「そう?」と楽しそうに笑った。

ユミはいつも、私を残してひとりでドアの向こうに消えていく。楽しい時間を唐突に奪い取るようにして。のっぺりとしたグレーのドアに付いているのは、ルームサービスを受け渡す開閉式の小さな窓だけだ。

ユミがラブホテルでしか会ってくれないのは、ここが時間で区切られた場所だから。私がお金を払って彼女のために作った場所だから。

自動精算機に一万円札が吸われていく。私の願いは、ユミと彼氏を別れさせることでも、ユミとよりを戻すことでもなかった。今はこれだけが、彼女が私にくれた輝きを失わずにいられる呪いだと、私と彼女を繋ぎ止める絆だと信じるしかなかったから。

あの日彼女の家で見た光は、私に何を教えてくれたのだろう。このドアを開けてユミを引き止めたら、彼女は私だけを見てくれるだろうか。もしそうだとしても、あのまっすぐな光が失われてしまった今では、もう私には何の希望も見えなかった。


百合SS Advent Calendar 2020

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