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くらやみカフェ

/* この作品を親友でサークルのよき仲間だった早川一さんに捧げます。 */


おすすめの喫茶店があってさ、という高坂さんの誘いに乗って西口から十分ほど歩いていると、飲食店が密集する路地に出た。西口を出て高架をくぐり、左に曲がってから三つ目の交差点で右へ……さらに何度か外せない曲がり角があったがもう忘れてしまった。左右のビルからにょきにょきと生えた色とりどりの突き出し看板が輝く明るい路地である。明るいといっても、自らの存在をアピールしようと虚空を照らすネオンばかりで、足下まではせいぜい月が二つか三つ出ているくらいの光しか届かない。地面には心許ない暗闇が薄く取り残されていた。

その路地をさらに進むと、つやのある黒い瓦庇を備えた三階建ての古風なビルが現れる。控えめな白い看板には店名と一緒に「自家焙煎」と小さく書かれていて、それなりの設備を備えた喫茶店なのだと分かった。周囲の店より窓が大きくて、中からは温かみのある白熱LEDの光が薄く漏れている。客席があるのは二階までで、三階はおそらくバックヤードに使っているのだろう。小さなスナックやバーがひしめく薄汚れた雑居ビルに挟まれたビルヂング――周囲のビルよりずっと歴史があるはずで、なんとなくこう呼ぶべきだと思った――は昼ならその珍しい外観でそれなりに目立ちそうだが、二十一時を過ぎた夜遅くの街ではもはや意味がない。

「ここがおすすめの喫茶店ですか? たばこが吸えるっていう」

「そうそう。最近いろいろ探しててさ。吸える店ってもう全然ないんだね」

「当たり前ですよ。たばこ趣味なんて時代にギャッコーしてます」

大学生の頃の高坂さんは、たばこなんて一度も吸ったことがなかったはずだ。たばこを毛嫌いしていたというほどでもないけれど、わざわざ健康を冒してまで近寄ることもないような、ごく普通の無関心の距離感。だから、卒業から四年が経った三十代も目前の今、再会した彼女が喫煙者になっていたのはそれなりの衝撃だった。

「いやいや、喫煙者ってほどじゃないよ。私はただ香りを楽しんでるだけなんだし」

「毎週吸ってるなら一緒です。それに、たばこ臭いだけで香りも何もないですよ」

「ナナが言ってるのは白たばこのことだろう? 私のはもっと甘くていい匂いなんだ」

高坂さんの話によれば、彼女が初めてたばこを吸ったのは数ヶ月前で、それからは月に何度かこうしてたばこが吸えるおしゃれな店を探し歩いているらしい。しかし、そのきっかけはよく分からなかった。火をつけて煙を焚いて香りを楽しむんだから、お香やアロマキャンドルと変わらないよ……なんてはぐらかされたけど、そんなのは屁理屈だ。しかし、非喫煙者の私の想像では、社会人になってから大きなストレスを抱えているとか、ドラマや小説の影響か……あるいは 彼氏 の影響くらいしか思いつかない。

いずれにしても、大学を卒業してから高坂さんと会う機会はほとんどなかったし、いつからどうしてどんなたばこを吸い始めたのかなんて、どれだけ荒唐無稽な嘘でも私はそれを信用するしかないのだ。

私と高坂さんは大学の文芸サークルの後輩と先輩の間柄で、文サ棟で顔を合わせればそれなりに話はしていたし、交流会に出し合った作品の感想を交わすこともあった。でも、それだけだ。彼女にとって私はサークルの後輩の一人で、交流会だってあくまで定例会の一環でしかない。私は高坂さんとミルコに遊びに行ったこともなければ、お昼にどこで何を食べているのかも知らなかった。

しかし、私はかつて高坂さんのことが好きだった。……いや、彼女の卒業を機にしばらく顔を合わせなくなっただけで、今も好きだ。高坂さんの話は回りくどくて、独特の価値観から生み出した小説は分かりにくいし、奇妙で自由な生き方のおかげで陰口を叩かれることもあって……それが、好きだ。声も好き。顔も好き。だからといって、そんな思いを彼女に伝えたことも、誰かに話したこともない。つまり、客観的かつ外面的に見る限りでは、私にとって高坂さんはサークルの先輩の一人にすぎないというか、それ以外の関係を築くようなきっかけに欠けていた。

だから、卒業してからこうして半年に一度の同人誌即売会に合わせて二人で出かけるようになったのは、ある種の運命に思えて仕方ない。今日だって、この5月の即売会を回り終わった夕方に待ち合わせてカフェや中華料理店を巡った末に、帰り道の改札を通る直前で「ちょっとたばこ吸いに行かない? おすすめの喫茶店があってさ」なんて一見すると魅力に欠ける誘いに乗ってここまでやってきたのだ。もし誘われたのが高坂さんでなければ「たばこなら一人で吸えばいいでしょ」なんて断っていただろう。

年季の入った木製のドアを丁寧に開く高坂さんに続いて喫茶店に入ると、右側に十席ほどのカウンターテーブル、左側に三つのテーブル席を備えたレトロな内装の空間が広がっている。今はその客席の六割ほどが埋まっていて、私たちはぴったり二人分空いていた奥のカウンター席に案内された。高坂さんが手前に座ったので、私は左側の席だ。客席には新鮮で香ばしいコーヒーの匂いが運ばれてくるものの、一方で左右から流れてくる煙はまるで鼻が灰色に塗りつぶされるような痺れた刺激を帯びていて、あらゆる香りが飽和しきった複雑な空気が渦巻いている。

目の前にある漆喰の壁に打ち付けられた木製の飾り棚には、一つ一つ色やデザインの違う様々なカップとソーサーが等間隔に並べられていて、コーヒーと過ごす落ち着いた時間の演出に対するこだわりを感じさせる。大正ロマンをイメージした喫茶店なんだ、と高坂さんに聞いていたが、テーブルのシュガーポットから壁に掛けられた絵画まで予想以上に細やかな配慮が込められているのが分かった。こんなに雰囲気のいい喫茶店なら、せめて1階は禁煙フロアにしたらもう少し人気になるんじゃないか、とも思う。

席に着いた高坂さんは、コーヒーフロートを氷抜きで注文した。てっきり常連が頼む裏メニューなのかと思ったが、首を傾げた店員と「アイスクリームが沈んでしまいますが」「大丈夫ですよ」「えぇと」「沈んでもいいので」「分かりました」というやり取りを交わしているのを見ると、どうも隠れた定番オプションというわけではないらしい。私は素直におすすめのPOPにあった水出しアイスコーヒーを頼んだ。写真を見ると細いシャンパングラスで提供されるようで、氷は初めから入っていない。

「私、昔ミルコに入ってたサローでバイトしてたんだけど、あそこのコーヒーフロートが好きだったんだよね」

「そうなんですか? でも、サローにコーヒーフロートなんてありましたっけ」

「あぁ、当時の店長のオリジナルメニューだから、他の店にはなかったね。で、フロート用のアイスクリームが特注品でね、氷抜きでもちゃんとコーヒーに浮くんだ。あれ、もう一回飲みたいなー」

「結局ミルコごと潰れちゃいましたもんね」

「そうだね。だから、氷抜きコーヒーフロートは永遠に私の思い出なんだ」

一通り話し終えた高坂さんが、ショルダーバッグから黄色と黒のデザインが目立つたばこの箱を取り出した。たばこ、と聞いて思い浮かぶずんぐりした箱よりも、薄くて丸みのある清涼菓子のようなデザインである。ただ、その上から「望まない受動喫煙が生じないよう――『Sweet』の表現は、健康への悪影響が――」と大きな文字がずかずかと乗り込んでいくせいで、本来持っていただろう洗練された印象は失われていた。

そこから取り出されたのは、表面がざらざらした質感の茶色いたばこである。これもまた、たばこと聞いてイメージする白とベージュのつまらない帯グラフのような野暮ったい印象とは全く異なり、吸い口はつやのない金色で塗られていて海外のチョコ菓子にも見える。後から聞いたけれど、端から先まで真っ黒な紙で包んだたばこや、赤から紫までカラフルなたばこが一本ずつ収められた色鉛筆のような製品もあるらしい。

「これ、私が一番好きなやつ。甘くてバニラの香りがして、おまけに細くてかっこいい。非の打ち所がないよ」

「まぁ、金色のたばこはちょっとだけ……かっこいいかも」

「とりあえず、一本あげるね」

そう言って、高坂さんは私の返事を待たずにグラスの根元にたばこを一本置いた。手に持ってみると、しっかりとしたたばこの張り付くような香りの背後に、確かにバニラの気配を感じる。試しに金色の吸い口をくわえてみると……甘い。たばこや煙の味ではなく、包み紙に直接アスパルテームでも塗ってあるのだろう。コーヒーの前に置かれていると、まるでバニラ・スティックシュガーである。私がたばこをくわえたまま火を待っているように見えたのか、高坂さんがマッチをこちらに示したので、慌てて口を離してから「まだ吸わないですよ」と返した。

高坂さんは短く「そ」と答えて、私に向けて取り出したマッチで自分のたばこにサッと火をつけて吸い始めた。ふぅ、と高坂さんの口から白い煙がもやもやと漏れ出ていく。もちろんたばこの煙には変わりないけれど、周りから漂うたばこよりほんのり甘い匂いを孕んでいた。

「で、結局なんでたばこを吸うようになったんですか? 彼氏さんの影響?」

「彼氏? いや、あいつは吸わないかな。むしろ、臭いからやめてって言われてるよ」

「私もそう思います」

そう即答すると、高坂さんは灰皿にたばこを置いて大げさに肩をすくめてみせた。灰皿といっても、ガラスやステンレスの丸い皿の縁を切り欠いた専用の什器ではなく、葉っぱや生き物の形をした豆皿を灰皿の代わりに使っているらしい。私たちに渡されたのは、頭の赤い鶴が白い羽根を広げた様子を模した菱形の小皿である。

「そんなこと言わないでよ。私だって、今日はナナだからここに誘ったのに」

「私だから……って、適当なこと言わないでくださいよ」

慌てた。慌てたけど、そんな気配は一つも見せない。見せたくはない。別に「それ、どういう意味ですか?」なんて上目遣いで尋ねれば、彼女の無責任な放言にごく自然に甘えられるに違いない。バニラの匂いで頭がくらくらしたんです、なんて言い訳が一緒に浮かんでくる。しかし、半年に一度しか会えないような間柄では、ちょっとした疑念や違和感が関係の解消に繋がりかねない。こういう絶妙な距離感を歪めるのだけは避けたかった。

「適当じゃないさ。誰かを連れてきたのは今日が初めてだよ」

高坂さんがまたたばこを吸い始める。金色のたばこを口元に寄せながら楽しそうに話す姿は、彼女のクールな顔立ちによく似合っていた。この姿を私に見せたかったのだろうか、とほんのりしたときめきが浮かんで消える。

……彼氏とか、連れてくるでしょ。こんな雰囲気のいいところ」

「はは、こんなところに来るわけないよ。喫煙者のメッカだ~、って怒られるかも」

「ふふっ、そんな声なんですか? 彼氏さん」

高坂さんの彼氏も知らない秘密の場所で、私だけがバニラの煙を浴びている。彼氏も知らない高坂さんの秘密の姿を、私だけが隣で見つめている。カウンターに満ちていた灰色のたばこの香りは、今はもう黄色いバニラの匂いですっかり覆われてしまった。高坂さんが吐く煙に包まれるのが心地よく感じる。今はそれだけでもよかった。

それから高坂さんは、壁に置かれたコーヒーカップを一つずつしげしげと見つめながら、黄色い煙を吸っては吐いてを繰り返した。私もその視線を追うふりをして、シャンパングラスを揺らしながらそっと彼女の横顔に重ねてみる。心地よい二人の間の沈黙に古びたジャズの旋律が染み込んで、しっとりと光った気がした。

「さっきも言ったけど、私はたばこを吸うお香だと思ってる。たばこを吸い始めたのは、アロマを焚くのと同じ理屈だよ」

その沈黙を破ったのは高坂さんで、手元を見ると一本目のたばこを吸い終えたところだった。しかし、やっと口を開いて言うことは同じ――お香を吸ってるだけで、深い意味なんてない。いい加減な理屈。お香とアロマも、たばこと一緒にされるとは思っていないだろう。

「分からないかな? お線香を焚くのは死者と交流するため。つまり、お香を焚いている間は少しだけ死に近づくんだ」

「じゃあ、もしかして死に近づこうと思ってたばこを吸ってるんですか?」

「そう。たばこを吸い続ければ、死者の世界に行けるんじゃないかな?」

「たばこなんて吸ってたら、最後は嫌でもあの世行きですよ」

「あはは、そうだね。じゃあ、二つの意味で死者の世界に行けるってわけだ」

……変なの。たばこなんて身体に害しかないのに」

「変じゃないさ。私たちには不健康になる権利がある。ナナにも、私にも。死ぬまでずっとね」

そう言って、高坂さんが二本目のたばこに火を付ける。

じゃあ、不健康になるためにたばこを吸っているんじゃないか。ちゃんと理由があるんだ。やっぱりお香やアロマの話なんて最初から誤魔化しで、こうして真相を打ち明けるための時間稼ぎだった。なんで嘘なんて……と責めるつもりはなかったし、これだって 彼氏に言えないこと に違いない。新しい高坂さんの秘密。私だけの秘密。じゃあ、高坂さんは私に――

バチッ。――私がそう口に出すより前に、電気が行き場を失った音と共にいきなり店内の照明が全て消えてしまった。天井を見ても、キラキラと輝いていたガラスのランプシェードは押し黙って動かない。二人の間を照らしていた黄色い白熱LEDの優しい光が、地面から這い出た暗闇に覆われていく。私に笑いかけた高坂さんの姿も、そのシルエットと口元の赤い火種を残して見えなくなった。

……あれ、もう閉店でしたっけ」

「二十三時までは開いてるはずだけど。終電まで時間潰せると思って来たんだし」

店内が真っ暗になって十秒ほどが経った。急な停電なんてそこそこの非常事態だけど、高坂さんは慌てる様子もない。そう言ってしまえば私の反応も似たようなもので、さらに周りに目を向けると、店内でコーヒーとたばこを楽しんでいた客は誰一人驚いた声すら上げなかった。老舗の喫茶店ではよくあることだよ、と言われればそれまでのことのように思えて、わざわざスマホを取り出して停電情報を検索する気も起きない。店内の誰もが、照明くらいすぐに戻るだろうという程度の軽い気持ちで待っていたと思う。

別に周囲の建物一帯が停電になっているわけでもなく、周囲の雑居ビルの看板は変わらずカラフルな星のネオンを放ち続けているようだ。高坂さんの背後から窓の光が差し込んで、まるで虹色の後光を抱えたような姿である。初めは真っ暗だった店内も、外からのわずかな光に目が慣れて、暗闇の中から再び細かな陰影が浮かび上がってくる。高坂さんは黒いシルエットのままで、周囲だけがモノクロの風景で埋まっていく。

「もしかしたら、誰かの誕生日を祝う手はずだったのに、ケーキの準備ができていないのかもしれないね」

ひそひそと、いかにも冗談という口調で高坂さんがそう告げる。こんなしとやかな喫茶店が騒がしい誕生日パーティの手伝いなどするだろうか。しかし、あり得ないと言い切るには非日常が過ぎる。もし仮に、本当に暗闇の中で誰かが誕生日ケーキを待っているのなら、それを大声で指摘するのは確かに無粋というものだ。

不思議な時間だった。五分以上経っても、ケーキはおろかろうそくの光さえ運ばれてくることはない。テーブル席のグループは既に停電前と同じような盛り上がりを見せていたが、いずれも何かを待っているような会話は聞こえてこなかった。では、誰が何を待っているのか。店員は一階と二階を行ったり来たりで少し慌てているようだったが、やっぱり何のヒントにもならない。

高坂さんの表情も暗闇に隠されたまま、声だけは囁き声から普段の調子に戻っている。「このお店、彼氏さんは知らないんですよね」「知らないよ。実は、今日ここに来ることも言ってないし」「他の人は? 友達とか」「ううん。ナナが初めてだってば」「よかった」「よかった?」「だって、みんなたばこ嫌いなんでしょ?」「そうだね。でも、ナナも嫌いでしょ?」「今は、ちょっと好きになったかも」――なんて、いつもなら高坂さんがどんな顔をするのか気にしていて出ないような言葉が口をついて出ていた。暗闇に紛れた今なら、何を言っても許されるような気がしていた。

「じゃあ……ちょっとだけ、火、もらってもいいですか」

高坂さんが「うん、いいよ」と答えて、暗闇の中でも寸分狂わずマッチと側薬を擦り付けると、まるで手品みたいに赤い炎が上がった。一瞬だけ、高坂さんのほっとしたような表情が照らされて、目を奪われそうになる。それから「息を吸いながら、先端を近づけて……そう」という声に操られるようにマッチに顔を近づけると、バニラ・スティックシュガーが燃え始めた。

息を吸う。口の中、喉、気道……そこまで煙が入り込むと咽せてしまいそうになるけど、お腹に力を入れてぐっとこらえる。初めてのたばこでせき込むなんて格好悪い、なんて思ってしまうのさえ恥ずかしい。それくらい、身体中がバニラの香りで満ちていた。

……ねぇ、先輩」

「どうしたの? 先輩なんて呼ばれるの、久しぶりだね」

「私のこと、好きですか?」

「それ、どういう意味?」

「先輩が思ってるとおりの、意味です」

高坂さんの沈黙が続く。そもそも好きの定義はね、なんて回りくどい答案を練っているのだろうと待っていても、なかなか答えは出ずにいた。今、私はどんな顔をしているのだろう。もちろん自分の表情なんて鏡にしか映らないけど、暗闇でたばこをくわえていると唇の感覚も分からなくなって、自分の顔じゃないみたいだ。

そうして闇に潜んでじっと待っているうちに、いつの間にかたばこを持つ手が熱くなっていた。それに、さっきより吸い込む煙の刺激が強くなって、いかにもたばこ臭い灰色の気配が満ちている。バニラの魔法が解けかかっているようだ、と思った。慌ててたばこを口から離してみると、やはり火種が指先にじりじりと迫っている。

灰を捨てなきゃいけないんだっけ、とカウンターに置かれた灰の山に指を伸ばす。そんな気配の尻尾を掴むように――高坂さんが私の手首を押さえて、そのままぐっと顔を寄せた。手元が狂って残り短いたばこが灰皿に突き刺さる。皿の角から灰が溢れてぽろぽろと落ちていったのが分かった。危ないですよ、と言わせる隙もなく、高坂さんは私に新しいバニラの煙をとろとろと分け与えた。暗闇の中の高坂さんと目が合った気がして、片手を掴まれているだけなのに動けない。

ぐらついたイスの板材が軋む。たばこの火種がふっと消え去る。壁の大きな振り子時計が鳴り始める。高坂さんは私の手を離して、小さく「古時計に見られていたね」と呟いた。そうか、この時計は電気がなくても動くんだった。

それから、二十二時の振り子時計の音に合わせたように、店員が客席に向かって閉店時刻の繰り上げを告げた。誕生日ケーキの配送トラブルという予想は高坂さんの妄想の域を出ることはなく、結果としてただの込み入った電気系統の障害だったらしい。祝う人も祝われる人もないままに、手前の席から順に外へ導かれる。

店を出ると、やはり喫茶店の入るビルだけがぽっかりと夜の闇に飲まれていた。看板の光が消えて今はもう店名さえ忘れている。狐に化かされていたのかも、なんて口に出したら本当になってしまうくらい、奇妙な時間だったと思う。

「みんな、五分後に世界が終わるって言われてもそのまま座ってただろうね」

「ただの電力トラブルですよ。それに、私たちだって同じだったじゃないですか」

「同じだって? あんな告白をしておいて、ナナは世界を終わらせるつもりもなかったのかい?」

「いや……そう言われると、その……

「とにかく、終わりにちゃんと予告があるなんて思わないことだね。案外、さっき食べた上海チキンが地球最後の日の食事かもしれないよ」

「じゃあ、五分後に世界が終わるとしたら、先輩はどうするんですか」

「きっと、隣にいる人と終わりを迎えなきゃいけないね。初対面の人でも、嫌いな人でも、仲が悪い人でも、最後はここで一緒に過ごすしかないから」

高坂さんが立ち止まって空を見る。都会の空にはきらめく星なんか一つも浮かんでなくて、嘘みたいな色のネオンが混ざり合っているだけだ。非現実的なのに現実的で、どうしようもない運命を悟っているみたいだった。

できるなら、私は高坂さんの隣で世界の終わりを見届けたい。しかし、さっきまでこの人と煙った唇を合わせていたのだと意識すると、彼女の顔を見ることさえできなくなる。暗闇から引きずり出された私の大胆さは、幾多のネオンに焼かれてどこかに逃げ去っていた。世界の終わりなんて、こんな小さな私に背負えるわけがないのだ。

――だから、隣にいるのがナナだったら、私は嬉しいな」

でも、高坂さんと二人なら背負えるだろうか。

帰り際にそんな話をしてから、私たちは解散してそれぞれの帰途についたはずで、しかし朝起きた私は家までどう帰ってきたかも覚えていなかった。あの路地の場所も思い出せないし、喫茶店の名前さえ――「自家焙煎」というのは覚えている――忘れていた。私の中に残っていたのは、高坂さんと並んでたばこを吸っていた時間だけで、それ以外は必要なかったということなのかもしれない。

ベッドから出て後ろを振り返る。枕元には高坂さんが吸っていたバニラの薄いたばこが置かれていて、開けてみると三本分の空間がぽっかり空いていた。きっと、帰り道で何かのついでみたいに手渡されたのだろう。彼女はそういう人だ。あぁ、高坂さんはなんと言ったんだっけ。私はどんなお礼を言ったんだっけ。バニラの香りの、魔法のたばこだ。

大きく背伸びをする。バニラの魔力はまだ私の中に残っているだろうか。暗闇で過ごした夢のような時間が煙の中に消えてしまわないうちに、高坂さんに手紙を書かなくちゃ。世界を終わらせる小説みたいなラブレターを。バニラみたいにとびきり甘いやつ。それで、次の即売会で読んでもらうんだ。


/* 「薄い」「甘い」「バニラ」「シュガー」「清涼菓子」「チョコ菓子」「魔法」の表現は、健康への悪影響が他製品より小さいことを意味するものではありません。 */

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