正妻と正妻に挟まれた私のお話!

/* この作品は第3回百合文芸小説コンテストに応募されています。 */

/* この作品はまだCC BY 4.0でライセンスされていません。法律で認められている範囲を超えて許可なく複製、改変、再配布することを禁じます。 */


「春木場、久しぶりね」

画面の向こうから、神宮寺先輩が私に手を振る。凛とした顔立ちに、ぱっと柔らかい笑顔が浮かんだ。あの頃、放課後のおしゃべりの合間に見せていた、本当に楽しそうなときの表情だ。私を貫いてどこか遠くを見据えるような綺麗な瞳は、今でも変わらず綺麗なままそこにあった。とはいえ、画質の悪いビデオチャットを通すと何かを見落としてしまったような気分になる。

リモート講義のためにと両親が新調してくれたノートパソコンは、ウェビナーくらいなら余裕だからと預けられたけど、既にファンが回る音がうるさくって、このままテーブルを滑って離陸しそうだった。

「先週も話したばかりじゃないですか」

「そう? 高校の頃は、毎日顔を合わせていたから、電話だけじゃ物足りないのかもしれないわね」

制服によく似合っていた腰までの長髪は、つやのある黒曜石のような髪色をそのままに、ばっさりとミディアムボブに切り揃えられていた。卒業したら髪を切るって言っていたし、SNSに上げられていた自撮りだって何枚も見たけれど、やっぱり目の前にするとちょっと心がざわついた。髪の長さが変わったくらいで、先輩がいなくなったりするわけないのに。

先輩の部屋は相変わらず物が少ない。今座っているだろう壁際のデスクの後ろに見えるのは、シンプルなスチールベッドとマットレスだけで、他に何か置いてあるとすればデスクの横に四段くらいの本棚が一つか二つ、くらいだろうか。きっとクローゼットもよく整頓されていて、掃除も行き届いてるに違いない。

「そんなにきちんとしてないわ。最低限のことだけよ。春木場は、相変わらず部屋が散らかってるのね」

「えーと、これはまだ引っ越しの荷物の整理が終わってなくて、ですね」

「もう二ヶ月も経つでしょう? ちゃんとしないといけないわ」

「はーい……」

先輩――神宮寺小町は、高校の一つ上の先輩で、二年間同じ部でお世話になった人だ。幽霊部員ばかりで部と呼べるほどのしっかりとした活動はしていなかった気がするけれど、一方で先輩との時間はたくさんあった。背の高い彼女が部室に一人で座っている姿は飄々として見えるけど、話してみるとちゃんと不安や悩みを持っている普通の――年相応に恋や勉強に悩む――女の子なのだと実感する。

「厨川さん、今日はいないんですか?」

「お友だちと、夕食に出かけてくるって言ってたわ」

そう言ってから、先輩は「いえ、本当は飲み会らしいの」とばつが悪そうに付け足した。きっと、大学の友人には夕食だと説明しているせいで、口をついて出たのだろう。夕食でも宴会でも誰かと会うなら大きな違いはない気がするけど、呪術的な大切さを兼ね備えていた。

「えっ、この時期に? なんというか、本人の自由だとは思うんですけど。先輩は怖くないんですか?」

「気にしてないつもりだけど、病気はやっぱり怖いわね。雫は本当に気にしていないみたいだけれど、周りを巻き込んでしまわないか心配よ」

例のウイルス(インファウイルス)は、確かに私たちの生活をネガティブに変えてしまった一方で、今まで注目されなかった技術や文化の進歩で便利になった部分も多い。そうやって、多くの人々がだんだんと新しい生活に慣れていく中で、厨川さんみたいに今まで通りの生活を送ろうとする人は白い目で見られがちだ。先輩の不安げな表情には、そういう世間の視線が厨川さんに向くことへの心配も含まれているだろう。

「それに、本当は私を置いて出かけてほしくないのよ。でも、雫ってお友だちが多いから、いつでも私が一緒というわけにはいかないでしょう?」

「でも、一度きちんと伝えたほうがいいですよ。出かけてほしくないって」

「……そうね。春木場も、そうしたほうがいいと思う?」

「はい。私なら、そうします」

厨川さん――厨川雫は先輩の同級生で、私よりも先輩とずっと深い仲の、えぇと、つまり先輩の恋人だ。中学からの同級生で、私が先輩と出会うよりも前から付き合っているらしい。昔のことはよく知らないけれど、先輩からいろいろ聞いていた。

つかみどころのない性格は先輩の第一印象と似ているけれど、周囲を巻き込む身に纏ったある種の――先輩とは真逆の――親しみやすさのせいか、わざわざ「先輩」と呼んだことはなかった。卒業してからショートレイヤーの茶髪をさらに明るく染め上げて、自撮りに写る先輩といいコントラストになっている。

先輩はその自由さに惹かれたと言っていたけど、私に言わせるとあまりに違う部分が多すぎると思う。よく言えばさっぱりとした性格で、悪く言えば軽すぎるところがある。先輩が変な影響を受けたりしないか、五年目になった今でも少し心配だ。

「春木場は、最近外に出ているの?」

「近所のスーパーで、最低限の買い物はしてますよ。両親がうるさいんです。ちゃんと対策できないなら、四十二田に帰ってこいって。実家のほうが安全らしいですよ」

「愛されてるのね」

「いや、そんなんじゃないですよ。ただ、自分たちの感情を優先してるだけで」

両親にちょっと外出した話をすると、きちんと対策するようにという前向きなアドバイスから、いつの間にか私の意識が低すぎるという説教に変わってしまう。病気(インファ)にかかったらどうするんだ、孫の顔を見せない気かと言われても、孫より目の前の生活のほうが大事だと言い返したくなる。

「そうかもしれないわね。愛なんて、結局のところ自分の感情を正直に……」

そこまで言いかけて、先輩は急に黙り込んだ。消えるような尻すぼみの声と、思いつめたようなため息は、彼女がどうして突然ビデオチャットに誘ってきたのかをよく物語っていた。

「ねぇ、春木場。私って、やっぱり魅力がないのかしら?」

再び口を開くまでの絶妙な間で、あの頃の部室の時間を思い出す。沈黙からの急な話題転換は、先輩がどうでもいいことで悩んでいるときの合図だった。学食のランチが美味しくなかったとか、小テストの点数が微妙だったとか、厨川さんが誰かと親しげにしていたとか。

「どうしてですか? 先輩は魅力的ですよ」

「ありがとう。でも、こんな風に訊かれたら、そう返すしかないわよね」

それから、先輩は「春木場には、いつも気を遣わせているわね」と呟いて、デスクに伏してしまった。あんまり先輩っぽくない無遠慮な弱り方だ。後ろから現れた真っ白な壁も相まって、縮こまった先輩の身体がより小さく感じてしまう。

「何かあったんですか、先輩。いつになく弱気ですね」

「私たち、ちょっと問題が起きている……かもしれないのよ。ごめんなさい。急よね。でも、春木場くらいしか頼れなくて」

やはり、どうでもいいこと――厨川さんに関する悩みらしい。先輩の恋愛相談なら、私には慣れっこだった。しかし、起き上がった先輩にどれだけ経緯を尋ねても、直接会って話したい、の一点張りで先に進まない。

「さっきも言ったじゃないですか。この時期に外出するのは、リスクが大きいですよ」

「でも、大事なことなのよ。大事なことだから、ちゃんと春木場に聞いてほしいの」

そう言って私を見つめる先輩の目は、やはりあの頃と変わらず私を貫いていた。


「だって、あんな頼み方されたら断れるわけないじゃん」

「でも、神宮寺さんもリスクをとってまで春木場と会いたいわけでしょ。そう考えると、一種の愛なのかもしれないね」

「いや、こんなの愛じゃないって。可視化されてないだけで、おおよそ暴力の類だよ。私は巨大な暴力に従うしかないってわけ」

電話の相手――幼馴染の橋場は、私が先輩と会う約束をしてしまったことについて、おおむね好意的に評価した。ただし、恋愛相談のためだけに会うつもりなら今からでも断るべきだ、とも言った。自分が直接会いたいと思わないなら、リスクをとる価値はないという意味だ。橋場らしいなと思う。

きっと橋場は「あの二人が別れたって、春木場には関係ないでしょ」とでも言うんだろうけど、二人が別れてしまうのは困る。だって、私は二人が幸せになれるように、ずっと先輩の恋愛相談に付き合ってきたんだから。

「そりゃあ、先輩たちはいいよ。インファにかかっても、どっちかに妊孕性が残ればなんとかなるし。最悪でも里親か養子縁組でしょ? 確率では、えーと……」

「二人に両方後遺症が残る確率は四パーセントくらいかな。まだ統計が十分じゃないから、上下すると思うけど」

「そう。そして、私が発症する確率はその五倍。私がとるリスクは先輩の少なくとも五倍ってことよ」

「まぁ、五人に一人なら、しれっと当たらずに済みそうだけど。致死率はほぼゼロに近いし」

昨年の頭から広がり始めた不思議なウイルスは、形ばかりの高熱と低すぎる致死率の代わりに、生殖機能の破壊という強すぎる後遺症のおかげで不妊ウイルス(インファウイルス)と呼ばれるようになっていた。一度かかってしまえば強力な免疫を獲得できるらしいから、いつになるか分からないワクチンの配布を待つか、あとは人生をかけたガチャを回すかのどちらかだ。

もちろん、生殖機能を必要としない人にとっては普通のウイルスでしかないわけで、厨川さんみたいに平気な顔で出かけてしまう人もいる。国家の存亡を揺るがす重大な事態が起こっているけど、感染しても自分が死ぬわけじゃなかった。

目に見える影響が出るのはもう少し先の未来だ。将来何かが起こるかもしれないけど、今日明日は高熱が出るだけという特殊な状況の中で、たかだか二割、というギャンブルじみた楽観論も未だに根強い。青春が死ぬか、日本が死ぬか――極端に言えばこの二択だった。

「変な博打はしたくないなぁ。私は人並みに結婚したいわけですよ。インファで不妊になったなんて、親に説明できないもの」

「親なんて、気にしなきゃいいのに。結局、春木場がどうしたいかだよ」

「……橋場はいいよね。頭いいし、親に頼らなくてもちゃんと一人で生きられるし」

高校を卒業した橋場は、実家を離れて県内の建築の専門学校に通いながらちゃんと働いているらしい。何をしているかはよく知らないけど、お金には困っていないようだった。羨ましいことだ。

「じゃあ、養ってあげようか? 春木場の学費くらいなら出せるよ」

「唐突なプロポーズは、ノー! 私、友だちは大事にしたいから」

「……うん、冗談だよ」

橋場のほうから振ってきた冗談なのに、弱々しく呟くような反応に面食らってしまう。クロスした腕でバツを作って「ノー!」と叫ぶモーションは、私たちの間では定番だったけど、声だけじゃ伝わらなかったかな。

「橋場、どうしたの?」

「んー、リスクをとるからには、ちゃんと後悔なく会ってくるように。以上!」

そう言い残して、橋場は電話を切ってしまった。後悔なく……橋場なりの激励だったのかな。


「雫が、急に浮気してもいいからねって言い出したのよ」

駅前の喫茶店で切り出された悩みは、予想していた以上にどうでもよさそうなものだった。いや、あらゆる恋愛相談は基本的に些末で、そこにどんな意味を見出すかが大切なんだけど。

「わざわざ呼び出して、変化球のノロケですか? 先輩って、そんな人でしたっけ」

「えーと……ノロけたつもりはないの。急なことだから、私、その……ごめんなさい」

直接この目で捉えた先輩は、やっぱりビデオチャットなんかじゃ映しきれないほど綺麗だった。もちろん、顔の大部分はレースをあしらった水色のマスクで覆われているから、鼻から下が覗き見えるのはそっとコーヒーを飲むときくらい。

私は先輩の瞳が一番好きだったから、好きな場所を引き立てるように綺麗な布で飾り付けられているみたいで、むしろ嬉しくなる。それだけで、今日ここに来た価値があるというものだ。

「いや、冗談です。知ってます。高校の時からこんな感じですから」

要するに、また厨川さんの謎発言に振り回されているらしい。浮気してもいい、だなんて。普通なら気持ちが離れつつあるか、罠じみた別れの前触れか、そうでなければ罪悪感の解消、つまり――

「あの子、浮気でもしてるんじゃないかしら? どう思う?」

――そういうことだろう。先輩が心配になる気持ちもよく分かる。でも、たぶん厨川さんは違う。いつもの気まぐれか、半歩飛ばしの謎理論か。動機は分からないけど、自分の不貞の代償に相手の不貞を許して解決したことにしようだなんて、そんな不誠実な人ではないはずだ。

先輩の恋愛相談は、私が先輩の役に立てる唯一の繋がりだった。それなのに、先輩の悩みを解決しようとするたびに、いつも厨川さんにいらいらしてしまう。私だったら、そんなこと言わないのに。私だったら、もっと大切にするのに。

それでも、ここが相談の場である限り、厨川さんの肩を持たないと建設的な話はできない。私は、この大切な場所を愚痴や悪口で満たしたいわけではなかった。先輩は厨川さんが好きなんだから、それをサポートするのが私の役目のつもりだ。

「厨川さんに限って、そんなことはないと思いますけど。仮に浮気していたとしても、こんなに分かりやすく変な行動を見せたりしませんよ」

「……見苦しいわよね。ごめんなさい」

「いえ、先輩を責めるつもりで言ったわけじゃないんです」

「分かってるわ。本当は、浮気くらいなら気にするつもりはないのよ。最後には、ちゃんと私のところに戻ってくるもの。でも、たまにちょっとだけ心配になるわ」

最後には自分のところに戻ってくるなんて、言葉だけ聞くとひどい自惚れのように思えるけれど、その自信は何も先輩の美しさの自覚から湧いてくるわけではない。長い時間を過ごした二人を包む空気のような信頼感が生み出した言葉だから、見えない分悲しいほどに脆く崩れやすいのだ。信頼し合っているように見えて、実はこうやって誰かが心で泣いていたりする。

でも、その自信が目に見えないせいで、ちょっとした言葉で不安になってしまう。それでも、パートナーを信じている気持ちは嘘じゃないから、いきなり責め立てて感情をぶつけたりはしない。嫉妬をあらわにするのは、先輩のプライドも許さないのだろう。だから、待つ、待つ、とにかく帰りを待つしかない。

「なんか、正妻みたいですね」

「正妻? そうね、正妻……ふふ、そうかもしれないわね……」

ふと飛び出た言葉に、先輩はきょとんとした目で応える。それから、「正妻」という言葉を何度も頭の中で巡らせて、小さく声を漏らして笑った。表情は見えないのに、マスクの下であの柔らかい笑顔を浮かべているのが目に浮かぶようだった。

先輩って、本当に分かりやすくて簡単だな。実は、最初から私の言葉なんて必要ないんじゃないかとさえ思ってしまう。自分で自分の「正妻の余裕」オーラに気づくのは難しいのかもしれないけど。

「楽しそうですね、先輩」

「そんなことないわよ。でも、私のことが大切なら、もっと束縛するものじゃないかしら? きっと、私がどこにも行かないって安心しきっているんだわ」

正妻ってないがしろにされがちよね、と息巻く先輩の目の前に、鏡をとん、と置きたくなってしまう。束縛しないように頑張っている先輩が、自分は束縛されたいだなんて。当然、そんな意地悪はしないけれど。

「それなら、本当に浮気してみたらいいんじゃないですか? 厨川さんが、ちゃんと先輩を束縛してくれるように」

「本当に、浮気……考えもしなかったけど、雫が傷ついたりしないかしら?」

「厨川さんは、自分で言ったことに責任を持つ人ですよ。先輩も分かっているはずです」

本当のところ、厨川さんがどう思うかは分からなかったけど、自分の発言のせいで傷つくのは自業自得……そう、自業自得だと心の中で言い聞かせる。そんな葛藤を知る由もない先輩は「えぇ、そうね……確かに……」と何度か繰り返してから、ふと顔を上げてきらきらとした目で私を見つめた。

「じゃあ、春木場と私が付き合いましょうよ。春木場なら、きっと雫も喜ぶと思うわ」

「……えっ?」

持ち上げかけたコーヒーカップが思わずがちゃ、と手から滑り落ちた。先輩には知られたくなかった動揺が、辺りに響いて私に跳ね返る。気まずさを誤魔化すようにカップとソーサーに傷がないか確認しているうちに、張り詰めた緊張が私の返答を待つ重い沈黙に変わっていくのが分かった。

顔を上げると、先輩はまたマスクの下で楽しそうな笑顔を浮かべている。

「えーと……厨川さんが喜んだら、意味ないんじゃないですか?」

「でも、雫のいやがることはしたくないわ」

「じゃあ、別に浮気なんてしなくていいんじゃ……」

「だって、春木場は私のこと好きでしょう? それとも、もう誰かと付き合っているのかしら。春木場ってとっても可愛いから、ありえないことではないけれど」

突然乗り気になった先輩は、相談相手という微妙な距離感を軽々と飛び越えてきた。付かず離れずの距離で二年間上手くやってきたのに、先輩はそれを無作法にも一瞬で台無しにしてしまったのだ。やっぱり、厨川さんに悪い影響を受けているに違いない。

「決めつけないでくださいよ。恋人なんていませんけど、先輩が好きだから誰とも付き合わないとか、そんなんじゃないですから。先輩はちょっと綺麗ってだけで、調子に乗りすぎです」

先輩の話を聞いているうちに、私だったら……と思うこともあるけれど、それはあくまで厨川さんの言動を書き換えるだけの妄想だ。決して、私自身が先輩と付き合う想像なんかじゃない。

でも、私と先輩が付き合えるなら。それも、先輩に厨川さんを諦めさせずに済むとしたら。

「春木場は、私のことが嫌いなのかしら?」

「好きとか、嫌いとか、私たちってそういう仲じゃありませんよ」

「じゃあ、今からそういう仲になればいいじゃない。雫の驚いた顔が見られるまで、それだけでいいのよ。ねぇ、だめ?」

先輩が私の手を握って、困った目つきでそう頼み込む。もう逃げられない。私はこの瞳に弱かった。

「……分かりました。少しだけですからね」

不承不承といった態度とは裏腹に、心臓のバクバクが止められなくて、先輩に聞こえてしまわないか心配になる。さりげなくコーヒーカップを持ち上げるのさえ怖くなって、じっと鼓動が収まるのを待つしかない。

きっと、先輩の目には不思議に映ったろう。でも、それが私にできる精一杯の強がりだった。


「春木場、よく来たわね。自分の家だと思ってくつろいでちょうだい」

次の日、私は先輩に招かれて二人の家に訪れていた。

「あ、春木場ちゃん?」

「お邪魔してます、厨川さん」

先輩の横に、頭一つ小さい厨川さんが飛び込むように寄り添った。二人の間に私が入ると、ちょうど階段のように並ぶことになる。胸はちょうど真逆……というか、厨川さんだけが飛び抜けて大きいだけだけど。先輩がこの下品な巨乳に惹かれていたとしたら、なんて自傷じみた想像をすると、ちょっとくらっとする。

「じゃあ、春木場ちゃんとお話するから、小町は少し休んでてね」

「あら、私は仲間外れなの?」

「小町の恋人同士だけで、おしゃべりしたいこともあるよ。ね、春木場ちゃん?」

先輩は厨川さんに言い返せず渋々引き下がると、終わったら呼んでちょうだいね、と言い残して自室へと戻っていった。それに合わせるように、厨川さんは奥のダイニングチェアに腰掛けて、私にテーブルを挟んで向かい側に座るように促した。

「小町、可愛い?」

「いえ、昨日付き合ったばかりなので、あんまり分かりませんけど……瞳が綺麗な人だと思います」

「そう? 可愛いところもいっぱいあるんだよ。飄々として見えるんだけど、意外と感情がだだ漏れっていうか、この前も――」

知ってる。知ってます。私にも見せてます、それ。話を遮って思わずそう言ってしまいそうになるけれど、今は様子見に徹することにした。

「やっぱり、私が居なきゃだめっていうか、意外と抜けてるところがあるから――」

しかし、相槌を打ちながら放っておくと、厨川さんは先輩との生活の自慢を繰り返すばかりで全く口が止まらない。さばさばとした性格に見えるのは単に遠慮がないだけで、その実、かなり嫉妬深い人なんじゃないだろうか。

そうだとしたら、なぜ浮気をしていいなんて言ったのか分からないけど、もしかしたらこうやってマウントを取るためだとしたら……ゲーッ……それにしても、もしかして会うたびこれに耐えなきゃいけないのか。

「あ、ごめん。マウント取ってるみたいでいやな感じになっちゃったね。あなたが小町と深い仲なのは、よく知ってるから」

厨川さんはそう言って釈明するけれど、それだって見方を変えれば一種のマウントだ。こういうときは、何を言っても揚げ足を取られるものだと学んでほしい。厨川さんは口が上手いけど、話せば話すほど胡散臭く聞こえてくるというか、どうにも――

「えーと……恋人のよさって、他人に言ってもただのノロケになっちゃうから。話し相手ができて嬉しかったんだよ。つい喋りすぎちゃった。ごめんね」

「あ……わ、分かります! 先輩っていっぱい可愛いところがあるんですけど、友だちに話しても全然理解してもらえないっていうか……」

――そこまでまくし立てて、私は慌てて口をつぐんだ。あまりに共感できる話題のせいで、脳より口が先に出てしまったのだ。軽率だった。好意的な反応を見るや、厨川さんは追い討ちをかけるように先輩について語り始めた。

「そう、そうなの! 小町って、周りに弱さを見せようとしないから、誰も想像できないんだよね。ここでいう弱さって、もちろん可愛らしさに直結してるんだけど――」

「……そうなんですよ! 分かります、分かりますけど!」

それから、私は我慢するのを諦めて、厨川さんと先輩のよさについて語り合った。ひとしきり話したあとに「私たち、仲良くしましょうね」と厨川さんが差し出す手を握ると、先輩とは少し違った小さくてがっしりとした感触が広がる。いつの間にか、最初の嫉妬深くてネチネチとした印象はすっかり吹き飛んでいた。

意外と分かり合える人なのかもしれない。いや、当たり前なんだけど。先輩が選んだ人なんだし。

「厨川さん、先輩に浮気してもいいって言ったんですよね」

「言ったよ。どうして?」

「先輩が、意図が分からなくて悩んでました。あぁいうのやめてください。厨川さんって、自分が突っ走るばかりで、周りへの言葉が足りないんですよ」

「あちゃー、痛いところを突くね。私のこと、小町からよく聞いてるんだ」

「そうですね。まぁ……それなりに」

厨川さんは腕組みをして背もたれに身体を預ける。そして、幾許か考え込んでから、沈黙を楽しむように少しずつ言葉を並べ始めた。

「でもさ、束縛ってあんまり意味がないんだよね。私はどこにも行かない、小町もどこにも行かない、春木場ちゃんだって、そう。必要なのはこれだけなんだから」

「それって、不安になったりしないんですか? 今日は大丈夫だけど、明日はどこかに行ってしまわないかって、怖くなったりはしませんか?」

「怖くないよ。たとえ途中で離れたとしても、最後は一緒になるんだから、私たち」

根拠のない未来をずばりと言ってのける目は、少しだけ先輩に似ていた。やっぱり、厨川さんも「正妻の余裕」持ちだ。どこまでも通用する自信と信頼。中途半端な誘惑には負けない強力な守り。でも、正妻と正妻って、相性が悪そうなんだけどな。だからこそ、私みたいな存在が必要だったと思えば、辻褄が合うけれど。

「束縛は信頼の代わりなんだよ。束縛すれば誰かを自分のそばに固定できるかもしれないけど、それは人間関係をサボってるだけなんじゃないかな。私たちは、変わりながら生きているんだもの」

「なんとなく分かる気がしますけど……私にはまだちょっと難しいかもしれないです」

「私は誰にも縛られたくないし、小町を縛りたくもない。あとはひたすら信心かな。まぁ、そんなに高尚なものじゃないけどね」

手のひらを合わせて擦り合わせて笑う厨川さんは、おどけたふりをしてみせるけど、見えない未来を心の底から信じているように思えた。この人たちの間に入り込む隙なんてあるんだろうか。厨川さんを驚かすために付き合っているふりをしている自分が、馬鹿らしく思えてくる。

「あの、厨川さん。実は私、先輩に言われて厨川さんにドッキリを仕掛けようと――」

「春木場はおかしなことを言うのね。雫が勘違いしちゃうじゃない」

と、自室で待機していたはずの先輩が突然リビングに飛び出してくる。思わず立ち上がると、ダイニングチェアががたり、と音を立てて倒れてしまった。慌てて後ろを確かめて椅子を起こしているうちに、脳がやっと状況を理解し始める。

「……えっ! 先輩、聞いてたんですか?」

「聞いていたというか、聞こえるのよ。雫って悪趣味よね」

「あははっ! まぁまぁ。この家で互いの声が聞こえないように過ごすなんて、茶番みたいなものだよ。覚えておいて、春木場ちゃん」

ふと、あらゆる方向から先輩を褒めちぎるいろいろな言葉を聞かれていたのに気づいて、急に恥ずかしくなる。

厨川さんは、さっきまでのまるで何度か転生を繰り返したような達観した態度なんて嘘みたいに、涙を浮かべるほど無邪気に笑い転げていた。まさか、厨川さんはこうなることを知って、私から言葉を引き出そうとしていたのか。……やっぱり、気に食わない。

「春木場って、私のことをあんな風に思っていてくれていたのね。でも、遠慮せず言わなきゃだめよ」

「はーい……」

こんなのまるで、私の想いを確かめるための逆ドッキリだ。それにしても、厨川さんにはそんなことを言わないところを見ると、もしかして、厨川さんはいつもあんな口説き文句のような褒め言葉を、先輩に直接言い聞かせているんだろうか。なんというか……恋人ってすごいな。

「それで、春木場ちゃんは私を騙すために小町と付き合ったって言ってるけど。そうなの、小町?」

「あら、そんなわけないでしょう? 春木場って、私のことが嫌いなの?」

厨川さんがわざとらしく芝居がかった口調でそう尋ねると、やはり先輩はそれに応えて大げさに驚いてみせた。こんなの、一から十まで茶番だ、茶番。二人がその気なら、私だって歯の浮くような台詞で先輩の余裕を崩してみせる。

「好きですよ。私、先輩の瞳が一番好きです。吸い込まれそうなほどに深くて綺麗で、ずっと見ているうちに私の全部が先輩に包まれてしまうような、そんな気持ちになるんです。だから、好き……です」

「……ありがとう。嬉しいわ、春木場。じゃあ、決まりね。これから、三人で楽しく生きていきましょう?」

そう言って、先輩が私を強く抱きしめた。私も抱きしめ返そうとするけれど、初めて体感する先輩の柔らかさに身体が固まって動かない。「私も私も!」と、後ろに回り込んだ厨川さんも、新手の自己紹介だと言わんばかりに下品な胸をこれでもかと押し付けてきた。……やっぱり、気に食わない。

いや、待て。おかしいな、顔が真っ赤なの……多分私だけだ。


あの日、先輩たちの家で三人が顔を合わせた数日後、みんなで仲良くインファウイルス――もちろん、厨川さんが持ってきたものだろう――に感染して、早くて二日、遅くて四日の発熱が続いた。厨川さんが一番早く回復して、私が一番最後だ。

熱が下がった次の日、治りかけの一番油断しがちなタイミングで、二人が看病に来てくれたのは嬉しかった。一仕事終えたような清々しい表情の先輩が、心細くないようにと枕元で撫でていてくれたし。元気そうな厨川さんが「春木場ちゃん、ごめんねー」と悪びれることもなく笑っていたのは、気に入らなかったけど。

とはいえ、致死率から見れば生還できたこと自体は重要ではなかった。このウイルスの真の脅威は、強力な後遺症なのだから。

「橋場。日用品とか、いろいろ送ってくれてありがとう。助かったよ」

「で、検査結果はどうだったの?」

「私は大丈夫だった。先輩たちは、二人ともだめだったみたい」

回復後の検査は感染者の義務だった。保健所に何枚か書類を提出すると、指定病院での検査の予約票が渡される。無料のCTと採血を経て一週間後に、また保健所に行けば検査結果を受け取ることができた。感染者のための検査というよりは、国が出生率予測を下方修正するためのデータを集めるためのものなのだろう。

結果を知った二人は、私に後遺症が残らなかったことをとても喜んでいた。彼女たち自身の結果については――いい結果だったとしても、おそらく――気にしていないように見えた。あとで先輩に訊いてみたけれど、「知るまではドキドキするけれど、知ってしまうと興味がなくなるものね」と言っていた。

「よかったね。やっぱり当たらずに済んだじゃん」

そう言って、橋場は嬉しそうに最近の統計を交えて発症率の安定性について話し始めた。残りの二人に後遺症が残ったことは気にしていないようだ。まぁ、橋場にとっては面識のない二人の妊孕性なんてどうでもいいのだろう。私としても、それくらいの距離感でいいと思うけど。

「うん。そもそも二割だし、三人まとめてかかる確率なんて――」

「〇・八パーセント。よほど運が悪くないと、当たらないよね」

橋場が私の言葉を遮るようにそう告げて、「一人だけ助かる確率なら、九・六パーセント。そう考えると、割と運が悪かったのかも」と付け足した。計算が速いというか、待ってましたと言わんばかりのタイミングだ。わざわざ覚えていたんだろうか。

「私だって、それなりに心配してるんだよ。春木場の婚期に関わるんだから」

「そうだよね。いつもありがと、橋場」

両親は、感染の事後報告にこそ強く怒っていたものの、後遺症が残らなかったと聞くと崩れ落ちるように安堵していた。私だけ発症しなかったのは日頃の行いがよかったからだとか、子孫を残すのは助かったあなたの使命なんだからねとか、云々。

「これから、どうするの?」

先輩たちは、体調が落ち着いたら三人で暮らし始めようと提案してくれた。この時期に新しい暮らしを始めるのはリスクが伴いがちだけど、既に後遺症ガチャを引き終わった私たちに心配はない。両親も、「頼りになる先輩たちと暮らしたい」とだけ言えばきっと賛成してくれるだろう。

そして――これはまだ両親に伝える気はないけど――もし三人で生きていく中で子供が必要になったら、私に産んでほしいと懇願された。検査結果から考えれば当然のことだし、三人で暮らす時点で同意しているとみなして先に進めてもいいようなことだと、個人的には思っていた。わざわざ先に言わずとも、必要になったときに話し合えばいいのだから。

でも、そうやって流れのうちに誤魔化さないところが好きだ。

「まぁ、私も先輩が好きだから、やれるところまでやってみようと思ってる。別に、今すぐに大学を辞めて産めって言われてるわけじゃないし」

「厨川さんは? 春木場は好きじゃないんでしょ?」

「別に、厨川さんと愛し合うわけじゃないから。一緒に暮らすだけで、今までとあんまり変わらないよ。同じ人を好きになったんだし、きっかけがなかっただけで、たぶん仲良くなれると思うんだよね」

先輩を近くでずっと見てきたけど、今までは「ただの相談相手」という透明な壁が私の視界を遮ってきた。でも、その壁を先輩が破ってくれて、これからは二人の輪の中に私も飛び込むんだ。私も正妻みたいな顔をして、堂々と。だから、これからは少し遠慮がなくなるだけ。

「だからね、三人で暮らせるように、もっと広いところに引っ越そうって」

「……強いね、春木場は」

「そんなことないよ。物件は先輩たちが詳しいし、荷解きもあんまり終わってなかったから、開けた分を詰め直したら終わりかな。かなり省エネって感じ」

三人の新居は、先輩たちの家から近い物件に決まりつつあった。荷物の少ない私の家から遠い物件になるのは問題ないし、むしろ大学には近くなるので好都合だった。今よりも防音のいいところを探したせいで、バイトは増やさなきゃいけなくなりそうだ。

「いや、春木場のそういう強さ、私はいっぱい見てきたつもりだよ」

「そう……かな。なんか、照れるね」

まるで達観したような口ぶりで、橋場はそう呟いた。橋場が私を褒めるなんて、インファにかかって熱でも出ているんじゃなかろうか。私の強さだなんて、些か過大評価の気がするけれど。

「じゃあ、そろそろ切るね。厨川さんに呼ばれててさ。なんか、また二人で話したいって」

「あ……うん。ねぇ、春木場。もしもの話なんだけど……」

「何?」

「ううん、やっぱりなんでもないや。引っ越し、頑張ってね。私が――」

橋場が何か言っていたような気がするけど、訊き返したときにはもう電話は切れてしまっていた。大事なことだったら橋場からかけてくるだろうし、また明日話せばいいか。


「はー、お疲れ様。夕飯はピザでいいよね? 引っ越しの定番ってことで」

「雫、今日はチーズを足しちゃだめよ。食べたあとに動けなくなっちゃうから」

「了解。春木場ちゃんは?」

スマホを握った雫さんが、腰をぐるりとひねってこちらを向く。すっぽ抜けそうに大げさなアクションは、今日の彼女が特に上機嫌なことを意味していた。荷解きと整理を繰り返してぐったりした私たちとは対照的に、雫さんは荷物を運ぶたびに元気になっている気がする。不思議な人だ。

「えーと、シーフード以外なら何でもいいです」

「オッケー。じゃあ、頼んじゃうね」

雫さんは、ピザ休憩を挟んでまだまだ荷解きを続けるぞと言わんばかりに動き回っているけれど、私たちはもうギブアップ寸前だ。正直、ピザなんて食べたらチーズを増さなくても動けない気がする。

「いつか、私たちだけの家を建てたりしたいね。庭付きで犬付きの大きな家をさ」

「いいわね。子供部屋も広くして、三人で愛を注いであげましょうね。きっといい子に育つわ」

小町はよく子供のいる未来を語って聞かせてくれるから、それまでは私はちゃんと役に立てるんだと実感できる。きっと、近い将来のうちに私はこの家に大きな貢献をすることになるだろう。初めは少し不安だったけど、今ではもうわずかな高揚心を以て迎えられるほどの現実になりつつあった。

「ちょっと、電話してきます」

あの電話から今日まで、引っ越しの準備やバイト探しが忙しくて橋場に電話をかける隙もなかった。一段落したタイミングで一報入れておかないと、ズルズルと引き伸ばしてずっと連絡できない気がしたから。

「あれ……通じない」

しかし、おかけになった電話番号は現在使われておりません……使われておりません。番号を変えたなんて言ってなかったのに。どうしたんだろう? 何度か試してみたけれど、もちろん結果は変わらない。何かあったんだろうか。

「春木場ちゃーん! 管理人さんの応対お願いできるー?」

「あ、はーい。今行きます」

それから数日待っても、橋場からの連絡が来ることはなかったけど、きっとまたいつかふらっと会いに来るだろう。橋場はそういうやつだ。たまに橋場のことを思い出して心配になるけれど、そのたびに確信めいた自信がふっと湧いて、私を日常に引き戻していった。


四十四田ダム~厨川~春木場~神宮寺

More information...