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セックスメーター

/* この作品はnext kawaii inversionに収録されています。 */


1

「あー、もしもし、ピンクキャブです。今から『リリ』が伺いますんで、準備お願いします」

床やテーブルのあちらこちらに転がった空き缶を片付ける土曜の昼下がり。やっとのことで掃除を終えた私に、電話口で輸送係の若い男の声がそう告げた。

ベッド、オッケー。ソファ、オッケー。都心の狭いマンションの一室が、いつもより数段広く感じる。

部屋着はいつものジャージではなく、おろしたてのライトグリーンのルームウェアにした。ゆったりした前開きの七分袖とショートパンツで、さっと着やすくてすぐ脱ぎやすい。フリルが少なくてもこもこしてないシンプルなものを選んだし、無理して頑張ってる感じもなくて自然な演出……のつもり。

インターホンが鳴ったので玄関に向かって、小さく深呼吸をする。

「……よし」

ドアを開ける。

むわっとした夏の熱い空気と共に目に入ったのは、淡いピンクの短いワンピースと、ウエストをきゅっと締める大きなリボン結びの白いベルトだった。それから、裾からちらちら覗く健康的な太ももに、さわやかな印象の布地を押し上げてセクシーを添える胸元に視線が移る。飾り気のないキャンバストートと細いベルトのかかった白いフラットサンダルは、いかにも夏らしい透き通ったイメージを与えていた。

シルバーグレーの長髪は、紫のインナーカラーをそっと隠してその毛先だけがくるりと内側にカールしている。前髪は短く切り揃えられていて、PR-B世代1に特徴的な太めの眉がよく見える。やっぱり可愛い。

「こんにちは。リリといいます」

サービスロイドっぽい甘めの顔が私を見上げて、値踏みするような目を向ける私を気にも留めないふうに、うやうやしく一礼した。声帯型発声器ではなく喉のスピーカーから鳴る声も、この世代の大きな特徴である。

リリと名乗る少女を派遣した「ピンクキャブ」は、無店舗型性風俗特殊営業(一号の二)――いわゆるデリヘル――だ。キャストをホテルや自宅に呼んで性的なサービスをしてもらうことができる。

ただ、ピンクキャブに所属しているのは人間ではなく、みんなセクサロイド……いや、サービスロイドなのだ。

セクサロイドというのは、カタログには明記されない非公式の分類である。正しくは、人間として接する必要のある仕事2のために作られた人間型のロボットを、広くまとめてサービスロイドと呼ばなければならない。ただし、ほとんどの仕事には全く必要のない装備にかなりのコストがかかっているので、どんな呼び名であれ大抵は性産業に従事しているのが現実だ。

「お姉さん。私、入ってもいいですか?」

「あ、えと……『リリさん、入ってください』」

名前を呼ばないと部屋にも入ってきてくれないのってコミュ障には厳しいですよね、と思いながら棒読みで呼びかける。いつもながらなかなか慣れない。リリは私の言葉を認識してから、小さく三歩で玄関に入ると同時に私の胸に飛び込んできた。

「本日は、呼んでいただきありがとうございます」

うわ、うわっ、いい匂いする。

バニラの香りの後ろにそっとシトラスを添えて、爽やかな甘さが目の前に迫ってくる。さらにその奥から、ほんのりミルクっぽいミステリアスな香りがそっと私を包み込んで、彼女にシリコンの身体とは思えない奥行きと実在を与えていた。

「え? ちょ、ちょっと……」

いきなり押し寄せる「女の子」の感触に、思わず一歩後ずさりしてしまう。やっぱりセクサロイドってすごい。

まだコースも決めてないし、触っちゃったら輸送係が出てきて怒られるのでは、と行き場を失った両腕はふらふらと揺れるだけ。そして「あ、えっ……?」と慌てているうちに、ばたりとドアが閉められた。外を通る車の音さえ聞こえなくなって、突然静けさの中に二人きり。単なるサービスなのは分かっていても、ドキドキしてしまう。

「り、リリさん……?」

よし、そっちがその気ならと決心を固め、そーっとリリを包むように腕を……と同時に、リリが私をすり抜けた。そのまま奥に進んでサンダルを脱ぎ、くるりと向きを変えて揃える。そしてまた私の動きを待つ状態に入った。その丁寧な一挙手一投足が、まるでこれは単なるあいさつですよとでも言っているような気がして、急に顔が熱くなる。

いや、そんなオプションは頼んでないんですが!と思いながら、私も慌ててぶかぶかのつっかけを脱ぎ捨てた。サービスロイド式のあいさつに内心高揚しつつも、自分の童貞っぽい振る舞いを思い返すと情けなくなる。私の後ろを歩くリリに「あ、アプリのクーポンって使えますか?」なんて、ムードもへったくれもない質問をしてしまうくらいには、まぁまぁテンパっていた。

「『リリさん、ソファに座ってください』」

許可を得たリリは、数時間前まで私が眠り込んでいたソファにふわりと腰を下ろす。顔面騎乗オプションのときはこんな感じかなんて思いながら隣に座ると、リリがトートバッグからタブレットを取り出して操作を始めた。

「お姉さん、コースはどうしますか?」

「えっと……『あまあま』で、クーポンで目隠しも」

何度かタップしたのち、「細かい指定はこちらでお願いします」とタブレットを私に手渡す。パステルピンクを基調としたポップなメニュー画面をタップすると、性格・プレイスタイル、プレイ内容、オプション……と、どんどん細かな指定に進んでいく。

独特なネーミングのオプションについて尋ねると、慣れた様子で淡々と解説してくれる。それでも、可愛い子の口から飛び出す下品な言葉の暴力は、もはや前戯と言っても過言ではない。しかも、プレイ時間に入ってないからさらにお得だと思う。

「――こっちは、私の指を使って……えっと、どうしました? 何か変ですか?」

「へ、変じゃないよ。可愛いね……白くて、腕とか」

「ありがとうございます。脚も、可愛いですよ?」

そう言って照れ隠しのようにぱたぱたと揺らす生脚に、思わず視線が移ってしまう。

「お姉さん。よければ、クーポンこっちにしませんか?」

リリが横からタブレットを覗き込んで、さっと画面をスクロールする。私が選んでいたのは、クーポンを使えば無料になるAレンジ。リリが指さす「黒ストッキング着用」オプションは、同じクーポンでは半額止まりのBレンジだ。 使う 範囲が広いほど整備の手間が増えるので、もちろんレンジも高くなる。その理屈でいえば、脚全体を自由にできるオプションが高くなるのは当然だ。

しかし、レンジに応じて満足度も上がっていくとは限らない。そもそも、ストッキングを履かせて撫でたり舐めたり破いたりなんて、抱恩3の変態おじさんじゃあるまいし。脚なんか撫でたって――

「ストッキングを履いた私の脚、とっても触り心地がいいですよ? お姉さんの脚と絡め合ったりしたら、もっと気持ちいいと思うんですけど」

「じゃ、じゃあ、そっちでお願いします……」

2

ピピッ、ピピッ、ピピッ――タブレットが放つ無機質な電子音で目覚める。待機モードのリリを眺めていたらいつの間にか眠っていたらしい。やっぱり二時間コースは長かったかな。

「そして、まだ見つかっていない各地の砲台跡には、既に失われたはずの兵器の残骸が残っていると言われています。人々を引きつける霊的な力と呼ぶほかないパワーが無条件に我々の感情に訴えかけ――」

タイマーを止めると、安っぽいナレーションのバラエティ番組が聞こえてくる。土曜の夕方はこういう低予算の微妙な番組ばっかり。失われたはずの兵器の欠片をすべて集めると……なんて、こんなのもう流行らないでしょと思いながら、さっとテレビを消す。

リリはまだ待機モードのままだ。眠っているように見えるのはただのモーションで、実際に電源が切れているわけではない。だから、アラーム音くらいならすぐに反応して目覚めるはずだけど、センサーが鈍い個体なのかもしれない。

「『リリさん、起きてください』……あれ?」

しかし、それから何度か名前を呼びかけても、リリは目を覚まさない。どうしたんだろうと思いながらそっと顔を覗き込むと、右目の下に三つ横に並んだインジケータが緑色に光っていた。内部ストレージへのアクセスを示す真ん中のランプが頻繁に明滅しているのを見ると、何かトラブルが起きて再起動しているようだ。一般的なサービスロイドは、人間と遜色ない動作を実現するためにエラーが起きても異常終了しないように設計されているので、こういう現象はなかなか珍しい。

キャスト起因のトラブルならちょっとくらい時間オーバーしても大丈夫だろうけど、仮にこのまま起動しなかったら、私が壊したと言いがかりをつけられてもおかしくない。まだアクセスランプの動きは変わらないままだ。お願いだから早く目を覚ましてよ、と思いながらリリの手を握った。

「あれ、ここは……?」

しかし、その心配は杞憂だったらしく、数分のうちにリリが目を開けた。インジケータは緑色に光ったまま、目だけがキュルキュル動いて周囲を探索している。そして、リリはそのまま身体を動かさずに「あっ」と小さく呟いた。

「どうしたの? えっと、『リリさん、起きてください』」

「お店、摘発されたみたいです。たぶん、セントラルサーバごと消されたんだわ」

リリは一瞬私を向いて短くそう言い放ち、上半身をまっすぐ起こして辺りを見回した。ベッド、壁、床……空中を見つめて静止、床、壁、ベッド……空間認識フェーズからやり直しているところを見ると、オンサイトデータまでクリアして完全に再起動したらしい。

「セントラルサーバ?」

「ピンクキャブのキャストは、業務中のデータをセントラルサーバにしか置かないことになってるの。だから、勤務記録とかお客さんの情報は私たちのストレージには載ってないんです」

さらに話を聞くと、管理ネットワーク(セントラルサーバ)からの特権アクセスで通信プロファイルを削除されたという。緊急時に通信を遮断する可能性があることは、前々から伝えられていたらしい。当局の捜査がサービスロイドや機密情報にまで及ばないように切り離すための処置なのだろう。

「GPSも使えなくなってるみたい。どうしよう……」

さっきまでお店との連絡に使っていたはずのタブレットは、もう使い物にならないらしい。リリが画面をなぞる手に焦りがにじむ。さっきとキャラが違うけど、これが素のリリってことなんだろうか。

インターネットに接続できなくて状況が分からないというので、スマホの背面にタッチしたリリの青く光る指先に、近接通信(ニアバイ)で無線LANのパスワードを渡した。

「けど、なんで摘発されたの?」

しかも、用意周到に証拠隠滅の準備まで。まるで、初めから捕まることを見越していたかのようだ。

「知らないわ。もしかしたら、倫理規定違反かも。少なくとも、時間外使用はもはや言い逃れできないレベルだったから」

倫理規定――サービスロイド使用倫理規定は、ピンクキャブのようにセクサロイドを扱うデリヘルが最も気を遣う規則だ。サービスロイドを守るという建て付けで、一定の条件を満たすあらゆる自律型ヒューマノイドに対して、一律に 人間風の 強い保護を与えることを定めている。しかし、メンテナンスやパーツ交換が容易で疲れることもないロボットを守るという視点では、理不尽で無意味な規制というほかない。

だから、サービスロイドをもっと活用したいと思っていても、まるで人間が行う旧式の労働に歩みを合わせるように、ルールのためにルールを守るという状況が続いている。特に、サービスロイドを性処理に使うことについてはまだ世間からの風当たりが強く、少々強引な処罰の適用も容認されているのが現状だ。

「ねぇ、私、どうすればいいの? 警察行かないとダメ?」

リリの声が涙ぐむ。涙を流せないサービスロイドは、こうやって声をフィルタしたり、手で顔を覆ったりすることでしかその感情を表現できない。そのせいで、ロボットとの交流に不慣れな層からは「大げさな嘘泣き」と揶揄されることもある。

しかし、今私の目の前にいるのは、帰るべき場所を失って途方に暮れる小さな女の子でしかなかった。

「最終的には、行かなきゃダメかもね」

「私、警察に調べられて、残骸データ(ファントム)を抜かれたら……もう、いらない子になるの?」

「リリはいらない子なんかじゃないよ。でも……」

警察。なんとなく覚悟はしていたつもりだけど、リリ自身からその言葉を聞くと急に現実味を帯びてくる。セントラルサーバがどれほど強固なものかは分からないけど、警察だっていつまでも重要な証拠を野放しにしておくほど甘くはないはずだ。

仮にリリが証拠品として押収されれば、返ってくるのはどんなに早くても裁判の後、最悪の場合は没収されてそのまま処分されてしまうことだってありうる。逮捕された経営者がまたデリヘルを開業できる可能性はかなり低いだろう。そうなれば、リリ自身の言う通り彼女はいらない子になってしまうかもしれない。

「私、いらない子になるのはいやだわ。ねぇ、少しだけここに置いてくれない? なんでもするから」

リリがすがりつくように私に抱きついた。不安そうなか細い声に合わせて、その背中も小さく震えている。まるで身体を対価に宿を探す家出少女みたいなセリフだけど、今はそれを楽しむ余裕もない。

「あー、落ち着いて。分かった、分かったから」

リリの頭を何度か撫でる。

こんな可愛い子が引き取り手も見つからずに廃棄されてしまうのは心苦しいし、仮に警察が親身になって次の行き先を探してくれるとしても、やはり時間はかかるだろう。

それに、このまますぐに引き渡してしまうのは少しもったいない。もう伝票は支払い先もろとも消えてしまったわけだし。届け出るのはもう少し後でよさそうだ。

「リリ。とりあえず、お風呂に入らない? その……いろいろ、汚れてるだろうし」

リリが私を見上げて、小さく頷いた。


「狭くてごめんね。熱くない?」

「ううん、これくらいなら平気。確かに、二人で入るとちょっと狭いけど……なんか、安心するわ」

声が水面に響く。普通の単身向けマンションの浴槽では、髪をまとめた身体の小さなリリを前に抱きかかえるように浸かるのがやっとだ。

リリはさっきまでのよく訓練された接客態度なんてすっかり忘れてしまったように、肩を落としてため息をつくばかり。「お風呂に入らない?」なんて自分でもかなり突飛な提案だったと思うけど、傷心のサービスロイドにも優しさは効くらしい。

昔はカラスの行水くらいのシャワーを浴びることができれば防水性能としては十分だったという話を聞くと、サービスロイドと一緒にお風呂に浸かれるなんて本当にいい時代になったと思う。もちろん入浴剤は使えないし、湯上がりは体表からシャッターの溝までよく乾かす必要があるけれど。

リリが腕を動かして、ちゃぷちゃぷと波を立てる。まるで自分の居場所を確かめるかのように。体表にかかった水はすぐに弾かれて、小さなしずくとなって流れていく。まさに玉のような肌といった感じだ。

しかし、よく見ると左肩から上腕にかけて、ぐるりと帯のように二本の傷跡が走っているのが分かった。左腕だけだ。もちろん、人間のようにみみず腫れや変色があるわけではないけれど、水がかかるたびにその溝につぅと染み込むせいで、細い筋のように光って目立つ。

サービスロイドが自傷行為なんてするだろうかと思いながら、その切れ目をそっと撫でると、リリが「どうしたの?」と振り向く。

「いや、えーと……リリはもう、ピンクキャブのお客さんのことは忘れてるんだっけ?」

なんとなく、傷口のことを掘り下げるのはやめた。誰かがリリに傷を付けた話を聞きたいわけではなかったし、そもそもリリはもう覚えていないだろうから。

「そうね。さっき誰かの運転でここまで来て、サナとベッドでいろいろしたことは辛うじて覚えてるけど、これも残骸データ(ファントム)だもの。まるで、私の記憶じゃないみたい」

リリが手の甲に頭を当ててこつこつと軽く叩く。一人称視点の映像は残っているけど、記憶のリンクが途切れて中途半端だから、他人が撮ったように感じるのだろうか。

「セックスは、まだ好き?」

「前は好きだったと思うけど、今はあんまり分からないわ」

きっと、彼女が私の部屋に来た経緯さえも、いずれ新しい記憶に再マークされて消えていくはずだ。夢のように、ぼんやりと。少し寂しいけど、警察に引き渡すことを考えれば少しの痕跡も残らないほうがいいのかもしれない。


浴室を出たリリの肩にバスタオルをかけると、「ありがと」と言って笑った。

くたびれたライトグリーンの布地が、首から肩の丸みを帯びたラインに沿って彼女の身体を隠している。タオルに包まれてくしゅくしゅと身体を拭く姿がどうしようもなく愛おしくなって、身体が濡れているのも気にせずにリリを抱きしめていた。

「拭いてくれるの?」

「んー……そうだね。そうしよっか」

バスタオルの上から起伏に合わせてそっと背中を撫でる。それから、脇、谷間、下乳、へそ、……と水が溜まりそうな場所を順番に拭いていった。セクサロイドは他に比べて凹凸が多いから、整備にも手間がかかる。

「ちょっと、くすぐったいわね」

ドライヤーは体表からおよそ二十センチ離してまんべんなく、一箇所に当て続けないように、とにかく動かし続ければ大丈夫……と、古い入門書に書いてあった気がするけど、最近の肌素材はどうなんだろう。ちゃんとサービスロイドを迎えられるような家なら、少なくとも型落ちのボディドライヤーくらい置いてあるはずだから、あんまり褒められたやり方ではないのかもしれない。

「サナ、ありがとう。私は何を着たらいいかしら?」

「えーと、ちょっと待ってね……」

リリがここに来たときのワンピースは、部屋着にするには流石にもったいない。とはいえ、せっかくなら可愛い服を着てほしいけど、私の在庫にはそんなもの……と、そういえば。

「じゃあ、これ着てみて」

手に取ったのは、さっきまで私が着ていたルームウェアと一緒に買った、少し高めのもう一着だ。紺色のサテン生地を使ったセーラーっぽい襟のワンピースで、控えめな光沢で大人の女性にもおすすめと紹介されていた。

届いてすぐに試着したものの、思った以上にテラテラする生地が私にはどうにも似合わなかったので、そのまましまっておいたのだ。

「えぇ。ありがとう」

リリは私がいるのも気にせずに、パンツを履いてブラを着け、ルームウェアに袖を通していく。こういう着替えの瞬間って、裸よりも魅力的だからどうしてもまじまじ見てしまう。

そもそも、サービスロイドの下着って機能的には不要なものだから、もはや生着替えの相手を興奮させる布切れでしかないのだ。彼女のアンダーヘアが濃いのだって、誰かが魅力的だと思ったからわざわざそう手を加えたわけで、私の心を掴んで離さないのも当然といえる。

じっ……と見つめる視線に気づいたリリが「どう?」と裾をつまんでみせた。サテンのルームウェアに包まれたリリはきらきらしていて、やっぱり控えめな光沢のサテンなんて宣伝文句は嘘だったことが分かる。夜の相手を喜ばせるために着るやつだ、これ。


リリのお手入れを終えて部屋に戻ると、窓の外がすっかり暗くなっていた。

落ち着いたら、何だか急にお腹が空いてきた気がする。とりあえず何か食べておこうと思いながら戸棚を開けると、買い置きの常備食はまだたくさん残っている。わざわざ料理を作るような気分でもないし、適当に缶詰とか温めて……後はお酒でごまかそう。

「お夕飯? 私も手伝うわ」

リリが冷蔵庫と戸棚から取り出した夕食の列を覗き込む。期間限定のストロング缶に続くのは、ツナ缶、コーン缶、焼き鳥缶……およそ手伝ってもらうことはなさそうなラインナップだけど、盛り付けくらいちゃんとしておくか。

「これ、どうするの? こっちからぎゅっと引っ張れば底ごと外れるけど、流石にそれは違うわよね」

皿を出しておいてと言うより先に、リリが怪訝な表情でコンビーフ缶を取り上げて私に渡す。缶の側面を切り取るいわゆる「巻き取り鍵」は、意外にもサービスロイドの標準ナレッジには載っていないらしい。彼女の言う「ぎゅっと引っ張る」はおそらく人間の力ずく以上のパワーだから、やはりそれは流石に違う。

「知らないわ。だって、私は食べ物なんて食べないもの」

「この鍵を横の爪に挿して、帯に沿って回すと開くの。やってみる?」

渡された缶をそのままリリに戻すと、しばらくいろいろな角度から缶を観察して、やっと合点がいった様子で爪に鍵を引っ掛けた。そして、帯を巻き取らずに器用に鍵を引っ張って帯を剥いていく。まるで、練ったピザ生地でも引っ張って細長く延ばしているみたいだ。注意して引っ張らないと帯がちぎれてしまいそうだけど、彼女の四肢制御はその曲芸を危なげなく遂行している。

「――と、これでいい?」

「えーと……ちょっと違うけど、結果は同じだから大丈夫だよ。ありがとう」

だらしなく伸びた帯と一緒に、開封されたコンビーフ缶が渡される。小さく丸めようにも切り口で指を切ってしまいそうだし、そのままごみ袋に入れたらビニールが破れてしまいそうだ。缶詰を開けるたびにごみの処理を気にしなきゃいけないのも面倒だし、後でちゃんとした開け方を教えてあげなきゃ。

各々の中身を皿に空けて、レンジに突っ込んだ。背後から、リリが箸や調味料をテーブルに並べる音が聞こえてくる。なんかこういうの、同棲してるみたいで落ち着くな……と考えてから首を振った。リリとの時間を楽しむのも大事だけど、今後どうするべきかについてちゃんと考えないとね。

3

「だからさぁ……リリみたいなセクサロイドなら絶対に妊娠しないじゃん。それって、ある種の救いだと思わない?」

リリの今後についてちゃんと考え……と思っていたはずが、気づいたときには完全に飲みすぎていた。人間相手だろうがサービスロイド相手だろうが、初対面で開陳すべきではない見解を述べている自覚が、私にもある。

食べ物はもちろんお酒も飲まないリリは、晩酌の始まりと変わらない様子で、時折相槌を打ちながら私の話を聞いている。たぶん軌道修正したほうがいいんだろうなと思いつつ、これも一種の感情労働だし、きっとリリも慣れているだろうと勝手に結論づけて、その心地いい雰囲気に身を委ねてしまっていた。

「プレグロイドなら子供を産めるわ。それに、私は子供を育てたりしてみたいって思うけど。変かしら?」

「もちろん、リリみたいな人もいると思う。でもさぁ、私は子供なんて産みたくない。育てるのも、たぶん無理。私と同じように考えてる人も、たくさんいるよ」

言い切ったけど、本当のところはどうだろう。個人主義の発展と未婚化・晩婚化の進行は止まらないけど、少子化はむしろ改善の兆しを見せている。ある程度の収入があれば、独身でも配偶子バンクで足りない精子や卵子を購入し、妊娠から育児はプレグロイドに任せっきりにできるようになったからだ。

おかげで、自分が産みたくなくても、自分が育てたくなくても、子供だけは 製造 できるようになった。でも、そこまでして子孫を残そうとする理由が、私には分からない。

「だって、人間って結婚して子孫を残さないと滅亡するんでしょ? じゃあ、結婚したほうがいいじゃない」

「いや、まぁ……乱暴に言えばそうなんだけどさ」

リリが不思議そうに首をかしげる。言ってることが全部間違っているわけじゃないんだけど、話が微妙に噛み合っていない気がする。結婚、出産、夫婦円満、子孫繁栄……うーん、初期化の時に古い結婚願望が埋め込まれてたのかもしれない。ピンクキャブはいったい何を考えてるんだろう。悪趣味だなぁ。

「だから私、サナと結婚するわね」

そう言って、リリがぽすん、と私に寄りかかる。記憶喪失のデリヘル嬢に求婚されるなんて……悪趣味だなぁ。

「……リリって、ちょっと急だよね」

「だって私、サナが好きよ?」

ほんのり残ったバニラの香りが不意に鼻をかすめて、数時間前まで彼女とめちゃくちゃなセックスをしていた光景をありありと思い出させる。「いっぱい孕ませてね♥」「サナの赤ちゃんできちゃうっ♥」……いや、言ってないだろ。

結婚したって子供はできないよ、どこかでもらってくればいいじゃん、みたいなやり取りを何度かしているうちに、一本、また一本と缶が空けられていく。サービスロイドの接待ってすごい。

「ところで、サナ。このお腹の模様、何か分かる? お風呂のとき、じっと見てたよね」

スカートの裾をめくって下腹部を撫でるリリ。パンツと一緒に見せつけられた彼女のお腹の模様(コネクタシンボル)は、ピンクのハートに百合の花だ。予約のとき、顔写真から全身写真に切り替えて物色していたのでよく印象に残っている。

同じ型番のサービスロイドは外見がよく似ているから、服や髪を取り外したり電源を落としても区別できるように、肌にシリアルナンバーやバーコードを刻印するのが一般的だ。大抵は肩や腕に飾り気のない黒いバーコードがプリントされている。

しかしセクサロイドだけは別で、管理上の利便性と 人間っぽさ への配慮との兼ね合いから、下腹部にタトゥーのような華美なデザインを彫り込んでいることが多い。しかも、ピンクや紫といった いかにも なカラーリングを多用することで、むしろ客の興奮を煽るデザインとして評価されるようになったという。

「――だから、ちょっとデリヘルに慣れてる人は、みんなその模様(シンボル)が好きなんだよね」

「そっか……セクサロイドの、マークなんだ……」

リリは、もう消えてしまった記憶に思いを馳せるように、模様(シンボル)をしみじみと撫でている。

こうして私がリリの過去に触れなかったら、彼女はもう自分がセクサロイドであることすら忘れていたのだろうか。消されるはずの残骸データ(ファントム)を、彼女の知らないぼんやりとした過去で上書きしたところで、リリを縛り付けるだけなのに。

「そういえば、バッテリーはまだ平気? 充電しようか?」

ふと、リリがここに来てから一度も充電していないことを思い出す。お腹の模様(コネクタシンボル)は、名前通り充電コネクタのシャッターにプリントされているのだ。

「じゃあ、お願いするわ」

リリが手をかざすと、宇宙船のハッチのようによくコントロールされた動きで、ハートマークの周囲を四角く切り取ってシャッターが開く。そして、中から16.8ミリメートルの標準電源ジャックが現れた。

サービスロイドの内部にアクセスできる充電コネクタは、 本来の 使用目的に耐えうるように作り込まれている性器よりもむしろ大事な場所で、ちょっと強い電流を流せばすぐに壊れてしまう。だから、そんな部分に充電ケーブルを挿すことを許されるのは、ある種の信頼の現れとされている。

プラグを挿し込むと、右目のインジケータがゆっくりと赤く点滅し始めた。

「ねぇ、サナはどうしてデリヘルを使ってるの? パートナーはいないの?」

「あー、いや……昔、リリみたいな可愛い可愛い風俗嬢に入れ込んじゃって……あ、人間のね」

別に面白い話じゃないけどさ、という前置きの割には、原稿でも用意していたのかと思うほどすらすらと言葉が出ていく。

ミキはいろいろな顔を持った人だった。お店では私を優しく包み込んでくれるお姉さんのように、外では友達みたいに一緒に楽しく遊ぶこともあれば、恋人みたいにベッドで甘え合うこともあった。つぎ込んだお金はお店のときと変わらないか、それより多かったと思う。それでも、誰かに心をさらけ出して、それを受け入れてもらうのはとても幸せだった。

ミキは運転席が似合う人だった。遊園地、砂浜、温泉……彼女の運転で(もちろんほとんどオートパイロットだけど)いろいろなところに出かけた。途中からいちいちレンタカーを借りるのも煩わしくなって、ミキと出かけるためだけに小さな車も買った。

夕日のきれいな岬の展望台で、遠い目をしたミキが「私たち、十年後もこのままだったら一緒になろうよ」と言いながら、なぜか少しだけ泣いていたのをよく覚えている。

でも、そんな日々は、ミキが「私、結婚するんだよね」という一言で突然終わりを告げる。だって、私たちって所詮お金の関係じゃん。サナならこんなことしなくても、もっといい人が見つかるから。そんなありふれた別れの言葉を残して、ミキは私の前からいなくなった。

「相手は風俗嬢だもん。客として出会ったら、もうそれ以上にはなれないよ。そんなの分かってる。でも、私だけは違うって思ってた。それから、人を好きになるのがちょっと怖くなっちゃったんだよね」

「嫌なこと思い出させちゃったわね。ごめんなさい」

リリが私の頭を撫でる。最後に会ったあの日も、ミキがこんな風に慰めてくれたっけ。ぼんやりする意識の中で、まるでミキに包まれているような錯覚に包まれて、視界にじわり、と涙がにじむ。

「セクサロイドなら私を裏切ったりしないし、セックスは気持ちいいし……もうこれでいいかなって。あー、好きだったんだけどね……」

勝手な自分語りを披露した上に泣き出すとか、最悪の酔っぱらいだな。泣いているのをごまかすようにごろりとソファの端に寝転ぶと、隠れていた眠気が現れて急に視界を暗くする。

「ごめんね、自分の話ばっかり。でも、どうせリリだって、私のことただの客だと思ってるんでしょ? 結婚しようとか、適当なことばっかり――」

矢継ぎ早に飛び出す私の言葉を遮るように、リリが自分のルームウェアの袖で私の涙を拭う。私に覆いかぶさるリリの顔を見上げると、彼女はじっと唇を噛んで私を見つめていた。


「久しぶりね、サナ」

「ミキ。今さら、どうしたの?」

夢を見ているのだ、とすぐに分かった。目の前にいるはずもない人が立っていたから。辺りを見回すと、自分が海辺の展望台でベンチに座っていることに気づく。ミキは私の前で手すりに寄りかかっていて、その後ろで夕日が沈もうとしている。

展望台を満たす空気はあの日よりもきらきらで、自分の姿さえもはっきりと見えない。

「どうしたのって、あなたが呼んだんじゃない」

「あれ、そうだっけ……ごめん」

立ち上がると、光の粒が顔にあたって気持ちいい。手すりから身を乗り出すと、記憶よりもずっと高くて、思い出よりもずっとぼんやりとした大海原が広がっていた。

「風が気持ちいいわね」

ミキが私の隣に立っている。彼女と同じ景色を分け合えるだけで、私は幸せだった。それが永遠に続いてほしかっただけなのに、どこで間違ったのだろう。ちらと横を見ると、やっぱりミキは泣いていた。

「ミキ、どうしていなくなったの? 私、信じてたのに」

「ねぇ、サナ。私は裏切らないよ。だから、ずっと一緒にいよう?」

突然、隣にいたはずの声が前から聞こえてくる。そして、ふわりとバニラの香りが鼻をくすぐった。あれ、ミキってこんな香水つけてたことあったっけ……と思いながら顔を上げると、なぜかリリが私を見下ろして泣いている。ぼろぼろとこぼれ落ちる冷たい涙が、降り注ぐたび私の顔を熱くする。

リリは顔を歪めて私に何か訴えているけど、何を言っているかは聞こえない。待ってリリ、私はただ――何か、大事なことを叫ぼうとして、そこで目が覚めた。

4

「昨日午後、都内の派遣型風俗店『ピンクキャブ』が摘発され、経営者の男が逮捕されました――」

次の日の朝。目覚めると、テレビでピンクキャブの摘発について報道していた。

「――この風俗店では、従業員の確保のために組織的なサービスロイドの拉致が繰り返されており、改造を加えた上で性的な業務に従事させたとして、窃盗とサービスロイド使用管理法違反の疑いで――」

「えっ……えっ?」

寝起きのぼんやりとした頭に届いた衝撃的なニュースに、私は思わず起き上がっていた。サービスロイドの拉致、改造……これ、倫理規定違反どころの騒ぎではないんじゃないか? 私が匿っているリリは、ピンクキャブの実情を暴く重要証拠であると同時に、本当の所有者が探し続けている被害品かもしれないということだ。

「これ、結構マズいことになったなぁ」

「どうしたの、サナ?」

隣を向くと、リリが布団にくるまって私を見上げている。枕元に目をやると、紺のサテンと下着がきれいに畳まれていた。あれ、布団の下は裸ってこと? おかしいなと思いながら自分の姿を確認すると、私もパンツしか着けていない。かなり飲みすぎていたような気がするけれど、何をしたんだっけ……と、頭を働かせ始めると徐々に後ろから頭痛が追ってきた。

「えーと、だから、リリはピンクキャブが所有しているように見せかけて、実際のところ本当は別のところから来たんだって。そのせいで――」

リリは頷きながら要領を得ない私の説明を聞いていたけど、インジケータ4を見るに、たぶんほとんどの内容をネットニュースから補完していたと思う。

「でも、私はサナと一緒にいたいわ。ピンクキャブのことも、それより昔のことも、もう覚えてないから」

「リリの気持ちは嬉しいけど、もう二人だけの問題じゃないよ。前の持ち主がリリを探してるかもしれないし」

「……そうよね。私みたいな犯罪者の道具をずっと匿っていたら、あなたまで逮捕されちゃうものね」

いじけた口調で答えるリリが膝を抱えてころん、と横に転がった。「サナって薄情だわ。私がセクサロイドだから?」と私を見上げる姿はどうしようもなく可愛いし、今すぐにでも愛してあげたくなる。

でも、今はそうも言っていられない。

「違う……って言いたいけど、確かに警察はちょっと怖いよ。今のリリはどうやっても盗品なわけだし、警察が本気を出したら見つかっちゃうと思う」

ちょっとしたデリヘルの摘発の証拠品なら、一週間ほど恋人気分を味わってから警察に引き渡したって、厳重注意くらいで済むだろうという期待があった。しかし、組織的な窃盗事件の被害品ともなれば、きっと本腰を入れて捜査するだろう。そうなれば、リリを隠していたことで協力者として疑われる可能性だって出てくる。

「誰にも見つからなかったら、私はここにいていいの?」

「そりゃあ……絶対に見つからないなら、私だって一緒にいたいよ」

「じゃあ、私の身体をちゃんと調べてよ。誰にも見つからないように、私の過去を全部消して」

私の言葉に応えるように、リリがにわかに起き上がった。そして、ばさりと布団を脱ぎ捨てる。全身があらわになった彼女はやはり何も身に着けていなかったが、その気迫に押されてもはや気にもならなかった。

リリがテーブルから私のスマホを取り上げると、指先から青い光を送り込む。およそ五秒。それが終わると「私の深いところまでアクセスできる鍵、送ったから。早くして」と私に手渡して、リリはそのまま仰向けに横たわった。

スマホには見慣れないアプリの起動画面が表示されている。PR-B向けの開発者向け管理アプリらしい。既に英数字を組み合わせた数十文字のシークレットが設定されており、タップすると利用可能な情報が一覧で表示される。

「えっと、何から手を付ければいいの?」

「とりあえず、プライバシーとかセキュリティとか、そのあたりかしら。終わったらストレージと身体を順番に見ていってくれる?」

えーと、Security and Privacy……英語は得意じゃないけど、これくらいは読める。メニューを開くとズラリとチェックボックスのリストが表示されるので、有効になっていない項目を探してチェックしていく。ランダミ……ワイファイ? よく分からないけど、有効にしておこう。

次に、ストレージ。サービスロイドが搭載する高密度三次元ストレージは、超高性能のLPUと共にサービスロイドをサービスロイドたらしめる中心部だ。身体を構成している 外側 のデバイスはチェックボックスやボタンで制御できるけど、ストレージの構造はそんなに単純ではない。

ストレージには、記憶の実体とそれらを接続する複雑なリンクが含まれている。簡単に言うと、端緒となる実体から大量のリンクを辿ることで、順番に記憶の流れを読み進めていくことができる。記憶は細切れに書き込まれていることが多いし、よく知られた形式で表現されているとも限らない。

その複雑なデータ構造のせいで、ごくまれに残骸データ(ファントム)と呼ばれる閉じたリンクが残ることがある。今回のように突然サーバから切り離されれば、サーバ上のデータを指すリンクや役に立たないキャッシュは全て残骸データ(ファントム)になってしまうだろう。それらを別のデータを上書きすればサービスロイドは 忘れて しまう。

最後は全身か。まず、Device Informationによれば、リリのシリアルナンバーは……ゼロだけが十五桁続いているらしい。この分だと、ありふれた番号に見える端末番号も書き換えられているのだろう。流石はサービスロイド専門の窃盗団と言うほかない。このあたりはそのままでよさそうだ。

「リリ、これって何?」

それから、デバイス一覧で上から下まで眺めていると、腰とお尻の間のあたり――ちょうど充電コネクタの裏側に不自然な空間があるのを見つけた。リリをうつ伏せに寝かせて、指でなぞってシャッターの溝を探す。

「ちょっと、くすぐったいからあんまり触らないでよ」

「ごめんね。でも、一応見ておかないと。えーと……」

よく見ると、人間でいう仙骨――やはり、充電コネクタの裏だ――のあたりにシャッターくらいの大きさの四角い溝があった。

画面上ではグレーアウトしていて一見アクセスできないように見えるけど、タップするとメニューがポップアップする。続けて「不明なデバイスに関する警告」やら「互換性に関する警告」をいくつかスルーすると、あっけなくキュイッと小さな音を立ててシャッターが開いた。

中を覗き込む。シャッターの内部は浅い空洞になっていて、黒く塗られた金属板で空間が四角く区切られている。突き当たりの壁からは、きつくよじった黄色い被覆の針金が、鈍い銀色の丸いコインのようなパーツを貫いて五センチほど飛び出していた。コインには四つの数字が二桁ずつ刻まれていて、上から順に年と月だとすれば、およそ五年前の日付と読める。

「ここ、デバイス一覧に見当たらないんだけど、リリは何か知ってる?」

「アプリから見えないなら、私にも分からないわ。私が持ってる鍵より深いアクセスが必要なのかも」

リリも知らない場所なのか。よく見ると奥が扉になっていて、小さなラッチで閉じられているのが見える。ただ、ラッチの穴に針金の端が通されており、開けようとすると針金のループに引っかかってしまうようだ。分解禁止シールのようなものだろうか。

「ここ、開けてみるね」

でも、鍵が掛かっているわけでもないし、とりあえず針金を解いて中を確認してみよう。コインを回して黄色い螺旋を解こうとする……と、突然リリの身体が大きく跳ねた。

「い、痛っ! う、あがっ……ちょ、ちょっと待って――」

身体をねじってのたうち回るリリ。手足が打ち付けられるたびに、ベッドが大きな音を立てて軋んだ。慌ててコインから手を離すと、リリの発作は急激に収まっていく。

「リ、リリ! ? どうしたの?」

「そ……そこは、大丈夫だから。お願い、もう触らないでちょうだい」

リリは苦しそうに肩を上下させ、絞り出すような声でそう告げた。彼女は今…… 痛がって いる?

サービスロイドに痛覚を与えるときは、それが目的に適しているか、痛覚を与えることによる利益が不利益を上回るか、痛覚以外に実現する手段がないか5について、十分な検討とレビューが必要とされている。常識的な利用範囲であれば、却下されるのが当たり前だろう。痛みは自己維持機能に対する最大級の警告であり、程度によっては制御を失うことさえあるからだ。

それにもかかわらず、リリは確かに強烈な痛みを与えられていた。このまま無理に針金を解き続けていたら、私さえも巻き込んで暴れまわっていただろう。

しばらくしてカシュッ、と肌が擦れる音が聞こえた。穏やかに揺れる背中を見て、リリが自分でシャッターを閉じたのだと分かる。

「……リリ、大丈夫?」

「ごめんね、サナ」

起き上がって私に抱きつくリリが、何か言いたげな表情で伏し目がちに私を見上げた。私は何も答えずに、震える彼女の手を背中に感じながら抱き締め返すことしかできない。どうしてか、気づくと私も声を出さずにぼろぼろと泣いていた。

5

それから数日経っても、捜査の手が私に迫ることはなかった。気を抜かずに、リリを家から出さないよう注意していたおかげかもしれない。家にいる間、リリはテレビでやっていた砲台跡の都市伝説――例えば、十五島の封鎖騒ぎは核兵器回収のためだった、とか――を調べたり、結婚情報誌のブライダルフェアで熱心にチャット相談をしたりしていた。あの様子だと、きっと後で私のメールボックスが結婚式場の広告の嵐になることだろう。

その日は、いつもより飲み過ぎていた自覚があった。缶詰と缶チューハイを流し込みながら、リリと他愛のない会話を楽しむ。それが、ここ最近の夜の過ごし方だった。

「そういえば、この鍵ってどこまでアクセスできるの?」

発端は、そんな些細な疑問だった。リリからピンクキャブの痕跡を消し去るために与えられた鍵は、その役割を終えた後も管理アプリとともにそのままスマホに残されている。たまに見返してみるけれど、そもそもサービスロイドにバンドルされているだけの非公開のアプリだから、マニュアルも不十分で全貌がよく分からずにいた。

「私が知覚している場所なら、どこでもアクセスできるわよ。私自身では操作できないけどね」

例えば、と前置きして、リリは説明を始めた。

基本的には、ストレージを操作すればサービスロイドの挙動はいかようにも変更できるらしい。しかし、ストレージは極めて複雑な構造をしているので、人為的に手を加えたところで、データが消し飛ぶか残骸データ(ファントム)に変化することがほとんどだという。これにより、サービスロイドの恒常性や一貫性がある程度担保されている。

ただし、中には多くの開発者が繰り返し試すことで確立された手法もいくつか存在する。比較的簡単なのは、感度の調整だという。身体中のセンサ値にフィルタをかけることで、あらゆる刺激を快感に変えたり、思考レベルを操作したりできるようだ。これが本当の電子ドラッグってやつだろうか。……合法だといいんだけど。

「あ……やばっ♥」

リリの指示通りに生成した操作用の疑似スライダーの値を上げていくと、突然リリの身体が跳ねる。あからさまな変化に静かな興奮を味わいながら「可愛いね、リリ」と頭を撫でてあげると、今度は私に抱きついて股間を擦り付け始めた。

「あー……サナ、結婚して……♥」

リリは脳が幸せで満たされたような表情で、貪るように腰を振り続けている。まるで、目にハートマークが浮かんでいるのが見えるようだった。世のセクサロイドオーナーは、きっとみんな毎晩こんなことをしているのだろう。やっぱり、悪趣味だなぁ。

「うん、とっても幸せ……」

うっとりとした表情のリリの手を握ると、また何度かびくびくと震えた。


「……とまぁ、こんな感じね」

よわよわなリリをひとしきり楽しんでから感度調整を解くと、彼女は何事もなかったかのように説明を再開した。

「ねぇねぇ、リリ。そこには何が入ってるの? どうして私には教えてくれないの?」

それからは、そっとリリの腰を撫でても、もう彼女は平然と座ったままだ。一方、私にはリリのように簡単に切り替えられるスイッチはないから、彼女が平熱に戻ってからもすっかり調子に乗ったままだった。

「別に、面白いものなんて入ってないわ。わざわざ見る必要なんてないわよ」

「いいじゃん。教えてよ~、リリ」

「サナ、やめて! 急にどうしちゃったの?」

リリが私の手を振り払う。普段なら、私の言う通りに家事でもセックスでもこなしてくれるはずなのに、今日はちょっとしたお願いさえ聞いてくれない。まるで、いつも当たり前に使っていたはずの椅子が突然壊れたみたいに、ちょっといらいらする。

「リリ、私の言うことが聞けないの?」

私の言葉を聞いたリリの動きがぴくん、と止まった。

さらに下を向いて数秒じっと考え込んでから、きっ、と私を睨みつける。今まで見たこともないような、強い拒否感を示すだけの表情を突きつけられても、あのときの曖昧な思考の私ではもう引き下がれなかった。

「……分かったわ。好きにして。その鍵なら、痛みだって消せるはずだもの」

「ほんとに……やるからね」

ベッドにうつ伏せになったリリの腰で、シュイッという小さな摩擦音とともにシャッターが開く。ぽっかり空いた黒い空間の中には、前と同じように黄色い針金の封印が転がっていた。

痛覚の調整は、ほとんど快感レベルの調整の応用だった。あの日私を驚かせたリリの痛覚はいとも簡単に遮断され、もう針金に触れたことにすら気づかない。くる、くると根本から螺旋を解くうちに、今度は鉛色のコインが引っかかることに気づく。そうか、ラッチの近くで切らなきゃいけないのか。

工具箱に向かう足、ニッパーを探す手、おそるおそる封印を切り落とす切っ先……気づくと全身が震えていた。私はとんでもないことをしようとしているのではないか。今思えば、ここで目を覚ませばよかったのだろう。彼女の中で最大級の痛覚とリンクしている針金を無痛のままで取り外し、インシュロックでも装着しておけばよかったのだ。

しかし、私は好奇心のままに中を覗き込んでしまった。

扉の向こうは意外にもシンプルだった。中には数字が刻印された機械式のラチェットドラムがいくつか並んでいて、古い電気メーターのように何かをカウントしていた。よく見ると、それぞれの数字の意味を示す小さなラベルが無造作に貼られている。

「総使用時間、――秒。総使用人数、――人。ノック、――回。リリ、これって……」

「セクサロイドの私がどれだけお客様に ご奉仕 したか、ちゃんとカウントしてるのよ。売上高が届け出た料金表と合っているかを突き合わせるためにね」

くぐもった涙声が、顔を見せないリリの悔しさや悲しさを直接私に突き立てる。軽率に開かれた黒い箱の中から、彼女の不安や憎しみが飛び出していく気さえした。

リリが隠していたのは、腰に埋め込まれたセックスメーターだけではなく、セクサロイドとしての自分そのものだった。しかし、それに気づいたときにはもう遅い。彼女は過去さえも忘れようとしていたのに、私の手で扉がこじ開けられてしまったのだから。

「どう? 私の秘密を暴けて、面白い?」

まるでバケツいっぱいの水を浴びせられたように、急激に酔いが覚めていく。

「えーと、リリ……」

今さら意味のないことだとは理解しつつ、慌ててシャッターを閉じる。リリはむくりと起き上がって、じっと私を見つめた。いや、見つめているというには無感情すぎて、今はただ目玉をこちらに向けているだけと言っても過言ではなかった。

「……どうしたの? 早く好き勝手に私をいじりまわせばいいじゃない。どうせ、私はセクサロイドだもの。受け入れるしかないんでしょ?」

6

リリはあの日から、何も話さなくなった。彼女には飲食も排泄も入浴も必要ないから、放っておくとずっと部屋の隅に座ったままだ。膝を抱えて座っていてもインジケータは動作したままなので、まるで隣に置かれたルーターと会話しているようにも見える。

彼女が身体を動かす唯一のタイミングは、バッテリーが切れる直前だけ。サービスロイドは自らを充電できないように制限されている6ので、「サナ、お願い」と私に充電プラグを挿すように頼まなければらないのだ。

私は、リリに何と言うべきか分からなかった。酒に酔ってやったことだから仕方ない、なんて言うつもりはなかったけど、どうしてあんなことをしてしまったのか、私にも分からない。ごめんねリリ、でも過去なんて気にしないで、私には隠さなくていいから……何を言ったとしても、彼女は悔しそうに私を睨みつけるだろう。

あるいは、リリだって苦しんでいるんだから、彼女の言う通り強力な鍵で好き勝手にストレージを操作して、記憶ごと消せばいいんじゃないか? サービスロイドの忘れる権利は倫理規定でも保障されている。私の手できれいさっぱり無かったことにしてあげたほうが、彼女だって幸せなんじゃないか……と、どこからともなく浮かぶ身勝手な考えを振り払うように首を振った。

その一線は、超えちゃだめだ。そんなことをしたら、私とリリは人間と道具の関係に成り下がってしまう。


黙ったままのリリを眺めて三日ほど経った昼。ピーンポーンと、突然インターホンが鳴った。リリが初めてここに来た日を思い出すけど、今日は誰かが来る予定はもちろん、荷物が届く予定もない。

ドアスコープを覗くと、スーツ姿の中年男が一人立っている。何だか嫌な予感がした。

「こんにちは。今、お時間よろしいですか? 私、こういうものです」

ドアを開けると、刑事を名乗る男が警察手帳を広げてみせた。とうとう、来てしまったのか。リリは……部屋の奥でルーターの隣に座ったままだから、たぶん大丈夫。

「今、行方不明のロボットを探してまして。こんな外見なんですが、心当たりありませんか? デリヘルで使われてまして……あ、デリヘルって分かりますかね? 部屋に入っていくのを見たとか、すれ違ったとか」

渡された写真は、茶髪のリリ……正確には、PR-Bのカタログ写真だろう。と思ったが、これは最新のPR-BXのものだ。「防犯カメラでも付いてれば、髪型や服装も分かったんですが」と言っているあたり、正確な型番やどのようにカスタマイズされているかは、まだ分かっていないらしい。それほどピンクキャブの後処理が優秀だったということか。

「下の階のアクセスポイントにロボットのシリアルナンバーが残っていたとかで、来たとしたらこの辺りらしいんですよ。あぁ、もちろん全戸回ってるんですがね。私は機械に疎いものでよく分からんのですが」

適当に「そうなんですか。お疲れさまです」なんて相槌を打ちながら、後ろでぎゅっと手を握る。リリのシリアルナンバーは抹消されていたはずだけど……何が見つかったんだろう。画面から隠されているだけで、本当はどこかに番号が残っていたのかもしれない。

いや……でも、そんなセンシティブな情報を簡単にネットワークに送信したりするだろうか。聞き込み捜査に携わるような刑事が常に真実をもって私に接するとは限らないし、まだ隠している情報もあるはずだ。

こんなことで動揺しちゃ、ダメだ。

「普段からリモートワークなもので、あまり外出してなくて……すみません、ちょっと分からないです」

「そうですか。お仕事は何を?」

それから、何度か意味のなさそうな質問――回答の中身よりは応答の態度や挙動を見るような――を繰り出した後、手帳に何かを書き込んだ。聞き込みはそれであっさりと終了し、刑事は「わざわざお時間取らせてすみません。もし何かありましたらこちらまで」と名刺を渡して去っていった。

ゆっくりとドアを閉めて鍵をかけ、目を閉じてさらにゆっくり息を吸い、吐き……その場にへたり込む。よかった。なんとかなった。リリにも教えたほうがいいだろうと思いながら顔を上げると、目の前にリリが立っていた。

「私、もう警察に行くわ。サナに迷惑かけたくない」

久しぶりに聞いたリリの声は、いつもよりずっと平坦で、ずっと悲しい声だった。そうだ。一番苦しんでいるのは、警察に追われている彼女自身だ。

立ち上がってリリを抱きしめる。彼女の身体はいつもよりずっと小さくて、ずっと冷たい気がした。 苦しい感情を一つ一つ捨てていくたびに、彼女は少しずつ機械に戻っていくのだろうか。そうだとしたら、私はリリのために何ができるのだろう。

「リリ。車、運転できる?」

「……え、えぇ。オートパイロットのサポートくらいなら、標準ナレッジにあるけど」

「警察に行く前に、十五島に行こうよ、リリ。きっと、楽しいからさ」

気づくと、私はつんのめるようにリリの肩を掴んでいた。彼女は面食らった表情で私を見つめている。「楽しいから」なんて言いながら、私は笑顔でぼろぼろ泣いていた。

私はただ、リリとの思い出が欲しかったのかもしれない。リリが捨てた感情を一つ一つ拾い集めて、楽しい時間で上書きしたかったのかもしれない。それが独りよがりな願いだとしても、リリに受け入れてほしかったのかもしれない。そうでもなければ、十五島なんて言い出すわけがなかった。

リリはきょとんとした顔つきで数秒固まった後、「いいわね。楽しいなら、すぐに行きましょうよ」と言って、少し笑った。


「リリ、ごめんね。勝手に秘密を開けちゃって。もう、あんなことしないから」

「私、怒ってないわ。サナがずっと黙ったままだから、どうしたらいいか分からなくて」

日付が変わる頃に出発したのは、人目を避けるのはもちろん、夜のドライブが好きだったからだ。静かな車内と情報のない夜景を、馴染みのないラジオで満たしていく。リリの運転なら、昼も夜も関係なかった。たまに喋って、それからまた黙って、そういう空気が好きだった。

リリは穏やかな表情でハンドルに手を添えていた。その姿がミキに重なって見えたのが、たまらなく嫌になる。

「……そっか」

「私、サナに嫌われたくないの。知らない人といっぱいセックスする子だって、思われたくない」

リリは運転に集中したふりで、呟くようにそう告げる。そして、前を向いたまま「セクサロイドのくせに、変よね」と自嘲した。

彼女が抱えている過去は、大きすぎるものなのかもしれない。リリを救うためだと言えば、それを順番に消していくのは簡単だろう。でも、私はその記憶の一つ一つを認めてあげたかった。リリがセクサロイドだとしても、私が彼女を大事に思う気持ちは同じだから。

リリはきっと泣いていた。「ごめんね。私はずっとリリの味方だよ」と言って抱き締めたかった。シンセサイザとサンプリングにまみれた曲が、たっぷりと沈黙を塗りつぶしていく。

「ねぇ、リリ。このまま進んでも、きっとまだ暗いうちに着いちゃうから……ちょっと、休まない?」


「このまま1729線をまっすぐ進んで、十五島大橋を渡ったらすぐ駐車場があるから、そこで降りようか。小銭は……あれ、去年から無料化されてるみたい」

結局、十五島が見え始めたのはちょうど日が昇りきった少し後だった。橋の入口に建てられた料金所は、ゲートが上げられたままもう動かない。

左右にきらきらと輝く海が広がって後ろへ流れていく。そっと窓を開けると、ほんのり潮の香りを帯びた空気が通り抜けていった。

「リリ、お疲れさま」

「ありがとう、サナ。ベッドで音楽を聴くのって、あんなに楽しいのね」

車から降りて、ぐっとアスファルトを踏みしめた。夏の朝の涼しくて湿った空気が身体にまとわりついては、朝日が当たるたびにふわりと消えていく。

まだ、他の車は停まっていない。まだ朝だからというのもあるだろうけど、すっかり寂れているのは明らかだった。昔は人気の観光地だったけど、三年前に砲台跡封鎖の騒ぎがあってから、もうテレビでその名前を聞くことはなくなった。もちろん、今の私たちには好都合だ。

「歩くんでしょう? ちゃんと準備しないとね。今日は暑くなるみたいだし」

リリが鼻歌を歌いながら、荷物を取り出す。タオル、スポーツドリンク、かたい丸パン、缶詰……持ち物をリュックに詰めると、来る途中に買ったつばの大きな麦わら帽子を頭にかぶった。サービスロイドの髪は生え変わらないので、傷まないように帽子や日傘で直射日光を避ける必要があるのだ。

「ピンクの麦わらってさ、趣味悪くない?」

「どうして? 可愛いじゃない。それに、ミキさんはこんなの着けてなかったでしょ?」

リリがその場でくるりと回ってみせた。白い肌とシルバーの毛先が、朝日に照らされてよく輝いている。パステルピンクの麦わら帽子を淡いピンクのワンピースに合わせると、まるでmoemoe emoTIONのジャケットアートみたいだ。

ペットボトルを一口。深呼吸をして、海岸に続く遊歩道を歩き始める。案内板には遊歩道と書かれているものの、人がやっとすれ違える幅のぼろぼろの舗装に、左右は伸び放題の背の高い雑草が作る大きな壁で圧迫されているので、気分はまるで秘密の抜け道だ。

「サナ、今日はとっても天気がいいわ。楽しくなりそうね」

リリに倣って振り返ると、道の向こうにぐっと深い青空と輝くような白い雲が見える。このまま、どこまでも行けたらいいのに。

遊歩道を抜けると、海浜植物でびっしり覆われたなだらかな崖と、大きな入り江に広がる岩場が私たちを迎えた。崖はゆるやかなカーブを描いてずっと向こうまで続いていて、空との境界を見つめると吸い込まれそうになる。島で一番人気のスポットだったけど、今は誰もいない。

年中吹き付ける強風で形成された最果てみたいな景色は、やはり今の私たちに似合っていた。

岩場に降りたリリが、きょろきょろと歩き回る。風化してでこぼこになった岩場を、あちらこちらへ進んではその隙間を覗き込む。立ち止まったリリがこちらを見ると、「お花が咲いてるわ!」と言って足元を指差した。あのオレンジ色の花は、たぶんスカシユリだ。

もう少し歩き進めると、今度は白い大きな建物が現れる。かつて宿泊客を迎えていた大きな門は、トラロープと高いフェンスで塞がれていた。直射日光と雨風のせいで、柱に貼られた「立入禁止」の札はもう色あせてよく見えない。ここは、広い海を望む流行りのホテルだった。

このホテルも、もう廃業してしまったのか。島の衰退を考えればそんなの分かりきっていたことなのに、目の当たりにするとなぜか力が抜けてしまう。大きなため息をつきながら、思わずその場に座り込んでいた。

「全部、なかったことにできたらいいんだけどな」

「この島を残して、私たち以外全部消しちゃえばいいわ。砲台跡、探しましょうよ」

そう言って、リリがペットボトルとタオルを差し出す。じりじりと夏の日差しが強くなってきていた。汗一つかかないリリを見ていると、まるで彼女が本当に全てを消し去ってくれそうな、妄想じみた希望が浮かんでくる。

「あんな話、嘘に決まってるじゃん。今日はただの旅行のつもりだよ」


入り江を抜けて少し内陸に進むと、徐々に古いコンクリートで覆われた足場が増えてくる。さらに坂を降り、階段を登って島の中心部に向かうと、伸び放題の植え込みでぐるりときれいな円に区切られた場所にたどり着いた。内側は比較的新しい輝きを放つ白いコンクリートタイルが敷き詰められており、真ん中にはよく磨かれた四角い黒御影石が据えられている。

「……で、ここが砲台跡だったんですが」

「きれいな公園ね。廃墟だなんて嘘みたいだわ」

いや、確かに数年前まで廃墟マニアの間では奥が入り組んだ大迷宮として知られていたはずだ。しかし、目の前の砲台跡はやはり既に埋め立てられていて、砲弾庫や要塞への入り口はすっかり消えていた。スマホで現在地を確認すると、地図上は「砲台跡」のままだけど、石碑にはしっかりと「十五島砲台跡記念公園」と書かれている。

おかしい。兵器回収説はただのデマや陰謀論の類だったはずなのに。

「リリ、ちなみに……空間エネルギーは?」

「下の方から、微かに反応があるわ。たぶん、ずっと深くまでコンクリートで塞がれてるから、天然由来のものと区別がつかないレベルだけど」

リリはおもむろにしゃがみ込むと、敷かれたタイルの一枚をこつこつ叩いた。コンクリートは効率よくエネルギーを遮蔽するだけではなく、自ら天然由来のエネルギーを放つので隠匿にも有効だと聞いたことがある。

「もしかしたら、そのまま放置されてるかもしれないわね。もしかしたら、だけど」

曖昧な口調は、いつものリリらしくない。可能性は残されているということか。しかし、本当にここで何か重要なものが見つかったとして、回収せずに放置することなんてあるだろうか?

例えば、移動できないほど大きくて、破壊できないほど堅固だとしたら。あるいは、もはや安全に破壊できないほどのエネルギーを溜め込んでいるとしたら。長期間にわたって島を閉鎖するよりも、誰も使えないように塞いでしまうほうが簡単なのかもしれない。仮にそんな兵器を持ち出したとしても、現代では持っているだけで危険に晒されるだろうから。

「ねぇ、サナ。あれ、何かしら!」

――と、コンクリートの地面を見つめて考える私をよそに、リリが公園の奥に向かって駆け出した。

リリが走った先を見ると、三段ほど高い ステージ に人がくぐれるくらいの金属製のアーチが立てられていて、真鍮の鐘が吊るされている。これは……いわゆる愛の鐘だ。ひょっとして、この公園は風評被害を打破するための最後の切り札だったってこと?

「この鐘を鳴らすと永遠に結ばれるんですって! サナ、ここで結婚式しましょうよ!」

私に向かって手を振るリリには、「あーあ、ばっかみたい」と呟く私の声は聞こえない。こんなセンスのない観光スポットに、失われたはずの兵器なんて隠されているわけがない。

「結婚式なんてしなくていいじゃん。今からみんな消しちゃうんだから」

「どうして? 私、一度でいいから結婚式してみたかったのよね。他に誰もいなくたって、別にいいわ」

そう言って、嬉しそうにその場でくるくると回ってみせる。「鐘、鳴らしましょうよ」とアーチの下で待つ彼女について石段を登ると、こんこんと軽い足音が響いた。汗ばむ額を拭ってから彼女の前に立つと、リリは帽子を取って私を見上げる。

「私、コンビーフだってちゃんと開けられるようになったもの。きっと、あなたの役に立つわ」

リリが鐘に繋がった綱を握った。その手に右手をそっと重ねて鐘を鳴らすと、その伸びやかな響きを島中に伝えるように、さらさらとした風が吹いていった。


  1. 匿名掲示板ではたくあん世代と呼ばれている。 

  2. いわゆる接客、保育(または教育)、看護(または介護)の三大感情労働をベースに説明されることが多い。 

  3. 今から二世代前の元号。君主の即位に合わせて定める旧来の元号とは関係がなく、元号協会がおよそ二十五年ごとに制定・発表している非公式のもの。 

  4. 通常は左から電源状態、ストレージアクセス、ネットワークアクセスを示している。制御が簡単なので開発時はよく使用されるが、工場出荷後は充電中を除いて消灯されていることが多い。 

  5. サービスロイド・ペイン三原則という。 

  6. ただし、鍵のような凹凸パターンが施された固定型の充電アダプタを取り付けることで、プラグを設置した場所でのみ自ら充電できるようになる。通常は、腰部の拡張用空間(リリは既にセックスメーターが入っている)に鍵穴のようなコネクタを取り付ける。 

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