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icon of Amane Katagiri 月から降ったクリスマス

「私は、ボーダーコリーが好きよ。頭がいいから! あなたは?」

「ボルゾイ! カッコよくて足が速いから!」

「うん、知ってた!」

「私だって知ってるよ。昔一緒に図鑑見たよね! んー……あと何の話するんだっけ?」

「アレでしょ。脳波を……ね? みなさ~ん、お手持ちのアルミホイルを頭に巻いてくださ~い!」

「えー、もう? エリはせっかちだなぁ」

「みなさん、急いでくださいね~! そろそろ始めちゃいますよ~」

「ま、今さら何人か巻き込んだって変わらないっしょ。じゃあ、まずは――


世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる?」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。これはあくまで世界に向けて公開で行われた初めてのデモで、このやり取りも事前に決められたコマーシャルコピーであった。

脳波(EEG)コミュニケーションの先駆者であったアレクサンドラと、その助手トーマシンが研究室で初めて交わした脳波は、お互いの犬の好みに関するものだったと言われている。もちろん、互いの嗜好を知らなかったのではない。同僚や上司――所長も視察に来たという――が見守る中、思いついたのが他愛もない世間話だった、ということだ。

こうして「声を感じる」という画期的なメディアとして世に出た脳波コミュニケーションだったが、数十年以上にわたって主戦場は研究室の中だけであった。「直接話した方が早い」「電話の方がコストが低い」と実用性が低く見積もられてきた脳波コミュニケーションは、AIによる脳波の選択的増幅手法と歴史的なマッチを果たすまで、既に三度の冬の時代を経ていた。

脳波の選択的増幅に耐えられる人間は限られている。古い事例では、AMラジオの電波塔の下に銀歯のある人が立つと放送が聞こえるという現象がよく知られているが、一方で強い頭痛に見舞われて立っていられない人もいたらしい。特に、先天的な脳波耐性を伸ばすには幼い頃から訓練を積む必要があった。

脳波の強力さは頭の良さであると宣伝され、脳波コミュニケーション業界の最大手「イーコム」が教育分野に進出してからというもの、それらは「脳力」と言い換えられて大金と引き換えに 実験台 の確保が続けられた。

イーコム自身は脳力訓練者を囲い込むための一部全寮制の高校を経営しているが、その候補者自体は教材を通じて入り込んだ無関係な幼稚園や小学校、児童養護施設から吸い上げ続けている。空前のAIバブルが続く中、AIというキーワードだけで発展しているイーコムだったが、実際には複数の教育機関を野放図に経営するほどの資金があるわけではなかった。

「エリ、おかえり」

「ん、ただいま。あ、マシュマロココアじゃん。もうクリスマスだもんね~」

「あのね、エリ。私、宇宙に行くことになっちゃった」

……ん、宇宙?」

「うん。まぁ、月なんだけどね」

「あぁ、月……いや、遠いよ。宇宙に比べたら近いけどさ」

「そうだよね~。遠いよね……あははっ!」

天井に向かっていやに明るい声でそう笑うのは、そのイーコムの学園に訓練者として通うメイである。十七歳。身長一五六センチ。体重四六キロ。ピンク色の検査着に身を包む白い肌は病弱そうな印象を与えるが、持久走なら昔からエリには負けない。ショートボブに入り込んだ濃い青色のインナーカラーは彼女なりのおしゃれではなく、訓練者に特有の現象である。

脳力開発部の活動中にメイと話しているのは、彼女の幼馴染のエリだ。メイとは対照的なロングヘアで、小さい頃は活発なエリの後ろに必死でついていくタイプだった。いつの間にかエリの背を追い越して、テスト前にサボりがちなメイを捕まえて勉強を教える姿はまるでお姉さんである。

エリは脳波耐性の兆候がなかった非訓練者だが、メイの脳力開発をサポートするのに効率がよいと判断されて一緒に来ることになった。どちらも養護施設の出である。自ら脳力開発を希望して入った他の生徒たちとは違って、彼女たちには安定した生活と比して選択の余地がなかったのだ。

「で、なんで月なの?」

「知らないけど、石井が言ってた。今年はちょうど満月とクリスマスが重なるから、月からイベントやるんだって」

「えっ、クリスマス? もう再来週じゃん」

「そうそう。あいつらって私たちの都合とかマジで何も考えてないもん」

「もー、どうせ自分は仕事だからって巻き込まないでほしいよね。イルミどうしよっか?」

「うーん、今年は我慢かな~……

脳力開発部は、この学園に訓練者として推薦入学した生徒が入寮と同時に所属する部活である。部活とは言いつつ訓練者に課せられた義務のようなもので、かれらは放課後になると器具を用いた脳波増幅の訓練や検査に回されるのが通常であった。しかし、メイの脳力開発に当てられる時間の六割は、こうしてエリとだらだら過ごす放課後に使われていた。

配属されたばかりの脳力研究者なら、おしゃべりが脳力を高めるなんて不思議なことだ、と言うだろう。しかし、ある程度の経験と知識があれば、これがアレクサンドラとトーマシンのエピソードと同じだと気付くはずだ。

世界初の脳波による会話を成功させたボストンの研究室では、二人と同じように脳波での会話を行おうと同僚たちがヘッドギアを着用しあった。しかし、彼女たちほどの遠距離で会話を行える者たちはいなかった。初めは脳波の男女差に注目して分析が行われたが、大きな有意差は見つからない。

最終的に見つかったのは、日常的に会話――定型的な会議や合理的な議論ではない、ただの他愛ない会話――を交わすペアにおいて、脳波コミュニケーションの成績が高くなる、という仮説だった。アレクサンドラとトーマシンはプライベートでも非常に仲がよかったと言われており、成績のよい研究者たちもその傾向が強かった。ただ、この観点を支持する公的な研究は今までほとんど残っておらず、研究者の間でも経験則に留まっていた。

この仮説が正しいなら、脳波コミュニケーションは結局のところ決まった二人の間での通信に特化していて、不特定多数と電話のように使うには向いていないということになる。実際のところ、AIによる選択的増幅が可能になるまでは、五百メートル程度の通信でさえ莫大な電力と強力な脳波耐性が求められた。

しかし、脳波コミュニケーションが役に立たないという噂が流れてしまってはバブル崩壊の呼び水になりかねない。イーコムが一発逆転の計画として長年進めているこのプロジェクトも、経営を圧迫しつつあった。だからこそ、新たな冬の時代の到来を恐れているイーコムは、月面から脳波コミュニケーションの技術力を全世界に見せつける必要があった。

「そもそも、なんでメイが行かなきゃいけないの? 他にもやる気のある推薦組なんかいっぱいいるじゃん」

「だって、私が一番成績いいんだもん。みんな脳力低いのに親に期待されて来た子ばっかり」

「はぁ、両親に期待されてても成績がそれじゃあね……

「あははっ、エリひどすぎ。なんか、石井がまた冬の時代がどうこうって言ってたし。今回は絶対成功させたいみたい」

「そんなに成功させたきゃ自分で行けっての」

「言えてる」

脳力開発は現代になっても安全なフレームが判明していない実験的なプロジェクトだ。実験台になった生徒たちをトラブルや苦痛に巻き込みながら少しずつ前に進むしかなかった。イーコムの輝かしい成果発表は、かれらの日々の苦しみを言い換えただけでしかない。

メイが関節の痛みで身体を丸めて寝込んだり、強い頭痛で起き上がれずに嘔吐を繰り返しても耐えられたのは、エリがいてこそだった。エリのことを考えているとき、確かに彼女の脳波は強くなっていた。

「で、どれくらい月にいるの?」

「分かんない。月面基地に超選択的増幅装置を設置して、地上と交信実験をするんだって。しばらくテストさせられるかも」

「え、それ……脳大丈夫かな? 流石に死なない?」

「う~ん……まぁ、ちょっとヤバいかもね。でも、私かぐや姫になれるんだってさ」

「かぐや姫?」

「地上に向かって脳波でスピーチするの。月から世界平和を見てますよ~って」

メイが両手を広げて床を見つめてから、笑顔で手を振ってみせる。

総理大臣でもない、大統領でもない、王様でもないただの女子高生が、一方通行かもしれない旅に出て月からスピーチだなんて。インパクトで投資を集めたいだけのイーコムが考えそうな計画だ。渋谷に大きなドローンディスプレイでも浮かべてスピーチでもするつもりなんだろうか。あるいは、手を振る彼女の姿がそのまま脳内に送り込まれる、ということなのかもしれない。

エリはその光景をしばらく思い浮かべていたが、十二単姿のメイがすまし顔で地球を見下ろす姿がどうにも面白かったようで、くすくすと笑ってみせた。

「ふふっ。竹取物語にそんなシーンないでしょ」

「うん、そう。なんか石井が考えたんだってさ。すごい早口だったし」

「うわぁ、やっぱおっさん先生のセンスだ」

「あははっ、本当にそれ。こういうのカッコいいと思わないか?って真剣に言われて、マジで殴ろうと思ったもん」

脳力研究者と高校教師を兼任する石井は、彼女たちのクラスの担任でもあった。こんな学生を実験台にして喜ぶ壊れた研究者――しかも、彼女たちから見れば冴えない中年教師でしかないのだ――が、ふと少年時代の夢とロマンを思い出して壮大なデモプランを練っているのだとしたら、なんて滑稽なんだろう! 本人から見れば嘲笑としか思えない彼女たちの笑い声は、若々しい感性と共に彼のつまらないレガシーを吹き飛ばしていた。

彼女たちはひとしきり笑いあっていたが、ふとメイがきゅっと口を結んで黙り込む。エリもそれに合わせてじっと彼女の顔を見つめた。それから、先に口を開いたのはメイのほうだ。

「ねぇ、正直どう?」

「どうって、だって月でしょ~……? メイがいなくなるなんてマジで無理。意味分かんない」

「じゃあもしさ、もしもだよ。一緒に来て欲しいって言ったら……どう思う?」

「私も? 月に? えっ、行っていいの?」

……あ、いや、無理だと思うけど」

「はっ? なんで一瞬期待させた?」

メイは迷っていた。幼い頃からずっと過ごしてきたエリに、ひょっとしたらここで別れを告げなければならないかもしれない。施設で脳波耐性なんてくだらない特徴を見出されて、エリと離れるなら絶対行かないと泣き喚いた日のことを、メイは絶対に忘れられない。あの日も今日みたいに、近所のコンビニに散歩しに行くみたいな顔で、「先生、私もメイと一緒に行きますよ」と答えたのだ。

エリをここに連れてきたのはメイだった。それなのに今度は、メイが先にここを去ろうとしている。私の脳力はなんて勝手なんだろう、とメイは思った。もしも私がいなくなって、エリは私に縛られないで生きていったらそれでいい……なんて心の底から思えたら、きっとメイは宇宙に行くだなんて正直には言い出さなかっただろう。

エリが私の言葉に呆れてこの学園を去れば、私だって彼女を諦められる。しかし、悩むことなく自分も月に行きたいなんて言い出すエリを見て、メイはほんの少しだけ、またあの日と同じように彼女の言葉に縋りたくなっていた。

「じゃあ、これならどう? 私が月に行ってから……ちょっとだけ、協力してほしいんだけど」

メイの声のトーンに合わせて、エリも神妙そうな面持ちのまま、無言で頷いた。よほど真剣な顔をしていたのだと、メイは自分の口を押さえて小さく息をつく。エリは彼女の表情がころころ変わるのが面白くて、声を出さずに少し笑っていた。

「地上から、私と話してほしいんだよね。私のスピーチに応えて、会話してほしいの」

「それだけ? でも私、脳力の素質ないけど」

「エリはずっと私と一緒にいてくれたから。私と繋がるだけなら、なんとかなるよ。私がエリの分のチャネルまで開く、から……

そう言い終わるより前にメイの声が詰まって途切れてしまう。どうにか涙が溢れないようにぐっと目を見開いて、きゅっと口を結んで息を止めていた。涙を目に溜めたままなら泣いたことにはならない、という小学生時代の二人の取り決めを、メイだけがまだ信じていた。

深刻そうな彼女を面白がっていたエリも、まさかメイが泣き出すとは思わなかったらしく、慌てて立ち上がって肩をさする。

「えっ、何で泣くの⁉ 本当に月で死んじゃうわけ?」

「分かんないよ! 分かんないけど……たぶん死なない! 死ぬから泣いてるんじゃないもん!」

下を向いて叫んだ拍子に涙が零れて、メイは慌てて袖でテーブルを拭った。袖の上にもさらに残った涙が落ちて広がっていく。もう泣いてたっていいや、とそのままエリに向かって手を差し出して、拗ねた声で呟いた。

「手。繋いで」

「もー、メイって泣くとすぐ手繋ぎたがるよね」

「違うって! エリの頭が痛くならなかったら、平気だから……ほら、握って?」

そんなに怒らないでよ、と言ってエリがメイの手を握る。

その瞬間だった――これは、エリの感覚である。メイの手から自分の腕を通って、不思議な色の塊がせり上がってくる気がした。それがメイの不安と悲しみの核であることが、なぜかエリにはもう分かっていた。その小さな塊がぴんと弾ける。脳が揺れる感覚と共に、中から現れたのはぬるくて青い液体だった。制服に染みこんでも濡れた感覚がない。

胸がじんわりと温かくなって、消えていった。彼女にとってはこれが三分間ほどの光景だったが、実際には数秒のできごとである。

メイにしてみれば、いつもよりちょっとだけ手に力を込めただけだ。普段の訓練でヘッドギアを通じて言葉を入力するのと根本的には変わらない。しかし、エリからわずかに逆流する温かさ、光、柔らかい毛布のような感触。脳波の相性がいい二人だけが交わせるひみつの感覚……これがトーマシンの気分だったんだ、とメイは思った。

(私ね、このデモを壊す方法を知ってるの。しかも、今すぐ月から帰れるやつ)

(えなにこれ、すごいね。私の声も聞こえてるの?)

(うん。ちゃんとエリの声を感じてる)

(で、なんだっけ。デモをめちゃくちゃにするの?)

(そう。左手、見てみて)

エリが手を広げる。手の中には黒い、しかしよく見るとわずかに青色とオレンジ色に光っている小石のような物体が握られていた。もちろん、彼女が持ち込んだものではない。じっと見ているうちに、メイがさっき自分の手を通して流し込んできた不安と悲しみの核に思い至った。

でも、あの不思議な色の塊はどんな色だったっけ……灰色かもしれない、銀色だったかも、いや、赤く光っていたような……目が覚めてから夢を掴むような覚束ない感覚のまま、目の前の現実の可能性は黒く重たい小石に沈み込んだ。海辺に転がっているような、ただの冷たい小石。これは、メイが思い浮かべた不安そのものだったのかもしれない。

(増幅AIを触ってるときに偶然見つけたんだ。この力、全部使ってデモをめちゃくちゃにするの。もっと人がいれば、たぶんもっと大きい物質が作れるから)

(へー、すご……脳波で隕石でも降らせる気? そんな壮大な計画に私を巻き込もうっての?)

(そうだよ。私、エリと一緒にいたいから)

(いいじゃん。やろうよ)

つつ、と青い光の筋がエリの手を走る。メイはその光が消えるのを待ってから、小さく息を吸ってまた思考を吐き始めた。

(でも、こんなプロジェクト失敗させたらただじゃすまないよ?)

(そりゃそうでしょ。イーコムなんて倒産確定だもん。いい気味じゃん)

……エリも私のせいで犯罪者になるんだよ? それでも――

(はー、うるさ……メイがそうやっていつも遠慮するところ、マジで嫌い!)

……っ⁉ き、きら……

(あー、面と向かって口に出せないこと、思ってるだけで言えるの便利だわ。確かに脳波ってすごいかも)

(エ、エリ……? あのね、私……

(自分だけ脳力開発してるからって、私に迷惑かけてるなんて思い込むの、今すぐやめて。私たちがただの幼馴染なんて思ってるの……メイだけだから)

そう言い捨てて、エリがメイから手を離した。その瞬間、二人の指先から大きな閃光が飛び出して、弧を描いて消えていく。驚いて顔を見合わせた彼女たちは、今度はどちらともなく笑い始めていた。


そしてクリスマス当日。地上のコントロールセンターには、イーコムの重役や学園の研究者たちが集まっている。このデモの統括である石井もいた。エリは目の前の満月を見上げて、デモ会場の群衆の真ん中でメイの言葉を待っていた。この会場にいなくたって、満月が見えているなら頭にスピーチを強制的に流し込まれるだろう。

――えー、こんにちは。私は今、みなさんの脳内に直接話しかけています」

セーラー服を着て現れたメイがそう語り出す。十二単で出てくるんじゃなかったっけ、と手を伸ばしても当然届かない。じっと見つめると、中心がぐにゃりと滲んで判然としなくなる。メイが視界を切り開いて目の前に立っている姿は、脳が普段から適当に補正して埋め込んでいる景色そのものだ。やはりある種、量子的であった。

周囲では視界がジャックされる初めての感覚におおっ、という歓声が上がる一方で、頭を抱えてうずくまる人も少なくなかった。エリにとってはもう慣れた感覚だが、本来なら一生使わないはずの脳の一部が確かに動いている。相性の悪い脳波が強力に頭を歪めるのだから、耐えられない人もいるだろう。

会場周辺では高出力電磁波反対協力連合会の行進が続けられていて、多くの人がかれらの配っていた新品のアルミホイルを持っていた。全員が「電磁波攻撃反対」「電磁波盗聴反対」と大きなスローガンの入ったアルミホイルを携えて集団幻覚を見続ける、異様な光景だった。

ふと、メイが月に飛び立つ前に「みんなに最高の思い出をプレゼントしようね」と言っていたのを思い出す。私、後半の台本見てないけど大丈夫だっけ……なんて思いながら、セーラー服のかぐや姫のつまらないスピーチを聞き流しているうちに、とうとう時間が来た。演説の流れを突然ぶった切って、メイがエリの視界に向かって一歩前に出る。

「ねぇエリ? あなたはどんな犬が好きなの?」

「私は、ボーダーコリーが好きよ。頭がいいから! あなたは?」

「ボルゾイ! カッコよくて足が速いから!」

「うん、知ってた!」

「私だって知ってるよ。昔一緒に図鑑見たよね! んー……あと何の話するんだっけ?」

「アレでしょ。脳波を……ね? みなさ~ん、お手持ちのアルミホイルを頭に巻いてくださ~い!」

スピーチが中断され、明らかに計画から外れた不気味な会話が自分たちの脳内で繰り広げられている。 何か に勘付いた群衆が怯えた声を上げて、まだ落ち着いていたはずの周囲を巻き込んで動揺し始める。エリの言葉を鵜呑みにして、慌ててアルミホイルを頭に巻き始める人もいた。メイが時折サブリミナルのように流し込んでくる不安や恐怖の感覚の前では、脳波コミュニケーションの有名な逸話のオマージュだと気付く聡明さは消え去ってしまうのが人間というものである。

コントロールセンターからも不安に駆られたスタッフが数人飛び出して、石井が怒鳴り声を上げてパニックを制止しようとする。しかし、もう遅い。そんな下界のことは気にせず、メイがじわじわと脳波の出力を高めていく。ここまで来ると、もうメイと相性の悪い脳の持ち主は自分が歩いている方向さえ分からなくなるだろう。

「えー、もう? エリはせっかちだなぁ」

「みなさん、急いでくださいね~! そろそろ始めちゃいますよ~」

「ま、今さら何人か巻き込んだって変わらないっしょ。じゃあ、まずはでっかいクリスマスツリー!」

満月から降り注ぐのは、きっと今や銀河系で一番巨大で悪趣味な、電飾でぎらぎらのツリー。視界を埋め尽くすクリスマスツリーは、視界に収められないくらい巨大なのに、頂上を飾るベツレヘムの星の輝きまで一目に収めることができた。増幅器の限界を優に突き抜け、下層にある衛星回路を焼き切り、エリというたった一人の受信機のためにメイが脳波を送り続ける。そのイメージは満月から逃げ回る全ての人類の脳へ、直接流し込まれた。

それだけではない! 人々が逃げ惑う会場の中、空をじっと見つめて動かないエリの横に本物の巨大なクリスマスツリーが建つ。もう一本。さらにもう一本。メイがエリに初めて小石を渡したように、イーコムが集めた沢山の観客が持つ脳波を少しずつ集めて物質に変換し、メイが想像したとおりのクリスマスツリーが建っていた。

しかし、今ここにいる誰も幻覚か現実か区別できない。科学を超えた魔法の力なのか、誰かが操られているだけなのかも分からない。しかし、エリが触れるモミの木の感触は確かに目の前にあった。

「次は~……でっかいプレゼント!」

ラメの入った包装紙で巻かれてリボンのかかった巨大な箱が降り注ぐ。何が入っているかは、メイにもまだ分からない、両手いっぱいで抱えられるくらいの箱が、十個……そして二十個。イーコムの幹部でさえ、既に今の状況は理解できずにいた。かれらの巻いていた最高級の脳波遮断ヘッドギアは、確かにメイの脳波を防いでいるはずだったが、全員が月から降り注ぐクリスマスの目撃者であった。これは幻覚ではない!と誰かが叫んだ。

「そして~……でっかいダブルベッド!」

ふかふかの大きなベッドの柔らかい感触が流れ込む。会場の外へ、できるだけ遠くへと逃げ惑っていた人々も、その心地よい感覚に思わず足を止めた。月面基地という、いま世界で最も孤独な場所にいる少女が、地球でただ一人待つ少女のために宇宙規模の 寝室 を作り上げていく。

と、メイが月から飛び込むための救助マットが完成するのを遮るように、石井がコントロールセンターから飛び出した。

「な、なんだこれは! 中止だ! 今すぐ装置を切れ!」

そう叫ぶ石井の脳内に、エリの勝ち誇ったような笑い声が響く。石井がさっきまで監視のためにかじりついていたモニターは既に脳波で焼き切られて、二人が犬の図鑑を読んで笑っている子供じみた記憶が何度も何度もループで再生されていた。

石井にとって、孤独な養護施設育ちの少女を月のお姫様に祭り上げることは、彼なりの救済のつもりだった。かつて純粋に宇宙を夢見た少年だった石井は、かつてそんな景色を思い描いていた。デモが大失敗に終わりつつある今この瞬間も、何光年超えても届く脳波の力にまだ夢を追い求めている。

しかし、メイが求めていたのは天上の玉座などではなく、クリスマスまで指折り数えてエリとマシュマロココアを飲む時間だけだったのだ。

「うるさい! エリに近づくな! 私たちのこと、くだらない計画の道具としか思ってないくせに!」

「な、なんで……俺は、ただみんなの夢を――

そう言い終わるより先に、石井の足元やコントロールセンターの中に次々と爆弾が降り注ぐ。いやいや爆弾ってなんだよ、と思うかもしれないが、いかにもゲームに出てくるような黒い球体に導火線が付いた爆弾だ。メイが爆弾と聞いて最初に思いついた爆弾である。人間の想像を強化することしかできない、AIによる選択的増幅装置の弱点でもあった。

そんな安っぽい爆弾がゲームみたいに全てを吹き飛ばすのを見届けてから、メイは満を持して月面基地からエリの立つベッドに向かって落ち始める。彼女の頭のイメージのまま、まっすぐ。彼女に残った脳力を全てつぎ込んで、全てのイメージを作り上げる。そして、用意していた最後の仕掛けを投下した。

「じゃあ、最後に~……リボンで巻かれた私の恋人!」

「え……ちょっと待って!」

一際明るく白い光の矢となって世界に降り注ぐのは、エリが真っ赤なリボンで身体を最低限だけ覆う裸リボン姿のイメージだった。人々を貫いて地上に降りた光の粒がエリの身体を周りながら覆っていくと、やがて彼女はメイの想像通り、リボンで巻かれた姿で大事な恋人を待ち受けていた。メイがどこに落ちるのか分かっていて、そうするはずだったように腕を広げる。

――とすん。月から落ちたとは思えない羽根のような軽さで、セーラー服姿のメイが腕の中に収まった。断熱圧縮なんて空間ごと飛び越えて着地した冬の冷たい身体を擦りつけて、メイがにっこり笑う。後ろではコントロールセンターが燃え続けていて、ここにいるのは見つめあう二人だけだ。

しかし、月の光を浴びた世界中の人類の脳裏には、恥じらいながらこちらを見つめる謎の少女のあられもない姿が焼き付いて離れなかった。かれらの記憶は少しずつ姿を変えながら、理想の裸リボンとして定着していくだろう。きっと明日は、この話で持ちきりに違いない。イーコムなんて、そのまま何の話題にもならないまま潰れてしまえばいいんだ。

「エリ、私の声が聞こえる?」

「メイ、あなたの目の前にいるわ! この変態!」

さて、世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる?」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。

クリスマスに月面から脳波をジャックし、倫理を忘れた企業を倒産に追い込み、何億人もの脳にリボン姿の恋人の姿を焼き付けた――史上最悪で最高にハレンチな少女たちの伝説の方が、インターネットでは有名だからだ。


「ねぇ、メイ。まだ消えないんだけど」

「なにがー? あー、ココアは脂肪だからさ、先にクレンジングオイルで――

……違う。メイが勝手に私に着せた裸リボンのこと!」

「あー。あれ、可愛かったね。昨日もおすすめにイラスト流れてたよ。胸がでかすぎて笑っちゃった」

「うん、そうそうそうそう。SNSでずーっと私がスケベなトレンドになってんの。メイのせいで!」

「写真なんて一枚も残ってないんだし、別にいいでしょ。みんなツリーと火災の中継ばっかりで、私たちのことは集団幻覚だと思ってるみたいだし」

「そんなThis Manみたいな都市伝説になんかなりたくないって。ねぇメイ、もう一回でっかい隕石降らせてみんな潰してよ」

「あー、あの脳力? エリの裸リボンで全部使い切っちゃった。もうすっからかん」

「無駄すぎる……グリム童話だってもっとまともな願いに使ってるよ」

「あはは! 見てこれ、私たち『月からの贈り物』って呼ばれてるらしいよ。世界で一番有名な恋人じゃん」

「バッカみたい! 私たちがいつ恋人になったって?」

「まぁ、それくらいの脚色はいいでしょ。おかげで私たち、これからもずっと一緒にいられるんだし」

「もー……そこ持ち出されたら、言い返せないじゃん。はぁ、改めて言うことでもないけどさ……おかえり、メイ」

……うん。ただいま、エリ」


百合SS Advent Calendar 2025

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