ふわふわ

「適当にくつろいでよ」

初めて行くB子の部屋は、一人暮らしの大学生のそれにしては綺麗だった。少なくとも、同じ一人暮らしの女子大生の私の部屋よりは整っている。フローリングの床に、ガラスのテーブルとクローゼットと、本棚にベッド。それと、もう一つある黒い棚の上に四十センチほどの水槽が置いてある。

綺麗というよりは、単にモノがないというだけかもしれない。

クラゲが泳ぐ水槽は、青い光と一緒にひときわ強い存在感を放っている。その横には、座面が丸くて背もたれの付いている黄色い折りたたみのチェアが広げられていた。ここでクラゲとおしゃべりでもしてるんだろうか。何だかメンヘラっぽいな。メンヘラなんだろうけど。

「クラゲ、ほんとに飼ってるんだね」

「意味のない嘘は吐かないわ」

B子がテーブルの近くにまるいクッションを置く。私はそれに応えるように、腰を下ろしながら改めて部屋をぐるりと見回した。

壁もほとんど綺麗なままで、エンボスの白い壁紙に照明が当たって少し影ができている。その中にピンで押し付けられたカレンダーは、二ヶ月も前の日付を示していた。ずぼらなら、わざわざ日めくりカレンダーなんて買わなきゃいいのに。

「うわ、コスプレ?」

「違うわ。高校の時の制服よ」

やば、声に出てた。カレンダーから視線をなぞるように移動させると、ハンガーにセーラー服が掛けられているのが目に入ったのだ。言われてみると、ドンキとかに売ってる薄くて安い布を使った衣装ではないみたいだし、それなりに使い込まれてる感じもする。

コスプレ衣装じゃないのは分かったけれど、結局B子がどうして過去の制服を掛けっぱなしにしているのかは謎のまま。

まぁ、高校の制服を着て女子大生のお友達同士で集まる(私はやらないけど)なんて、今ではもうありふれたイベントだ。一方で、B子にそんなイベントを楽しむ友達がいるようには見えなかった。

「あ……そうなんだ。私の、実家に置いてあるから」

「そう? 私はたまに使うから」

使う、と聞いて、彼女の「悪い噂」が頭を過った。

「でも、もう高校生じゃないものね。別に、コスプレでもいいわ」


クラゲの水槽は、普通の熱帯魚なんかを飼うものに比べていくらか工夫が凝らしてあるようだ。

立ち上がった私は、B子の横で水槽を覗き込みながら無難な質問をいくつか投げかけてみせる。中には最初から答えを知っている質問もあったし、本当に知らずに投げた質問もあったけど、B子の答えはどうでもよかった。彼女もそう思っていただろう。

水槽の隅を隠すように半透明の板が張ってあったり、ポンプのところに硬そうなスポンジが被せられている。クラゲはちょっとした水流で壊れてしまうので、吸い込まれないようにしているのだという。

じゃあポンプなんか外せばいいだろうと思うのだけれど、水流がないと今度はクラゲが弱ってしまうらしい。なんか、わがままな生き物だな。

「クラゲってさ、毒とかあるんでしょ? 平気なの?」

「まぁ、毒で有名なやつは当然危ないわ。いわゆる電気クラゲね」

ミズクラゲはあんまり強い毒はないから素手で触っても平気らしい。水槽を見つめたまま、時々B子は思い出したようにそういうこと(人工海水のこととか、餌やりの面倒さとか)を教えてくれた。ミズクラゲというのは今水槽にいるやつのことだろう。

クラゲは生きているのかあやふやなほどに透明で、その割に泳ぐ様子は意外と力強い。傘の開閉を繰り返しているうちに、スケスケの身体がバラバラになりはしないかと他人事(他クラゲ事?)ながらハラハラしてしまう。

「じゃあ、オーバーフロー式っていうのは、結局泡は出なくて――」

そう言いながら、ふと水槽に向ける視線のピントをふらつかせると、深い青色のガラスの壁にストレートの黒髪が映った。B子のアンニュイな表情が、クラゲと混じってじわと溶けていく。

「……A子?」

「いや、なんでもない。自己解決した」

なんだよ。やっぱ綺麗なんだよな、こいつ。なんで援交なんかしてるんだろ。もう一度ピントを合わせてみると、綺麗な女の横で童貞みたいな顔をして呆けている自分と目が合った。

本当に嫌になる。

「あのさ。なんでクラゲ飼ってるの?」

「んー。なんでだと予想してるのかしら?」

頬杖をつくB子はいかにも適当そうで、視線こそ水槽を向いているものの、クラゲ一体一体の泳ぎにすら興味がなさそうだ。私はのけ反ってベッドに手をつきながら、天井に視線を流しながら会話を続ける。

「あー……なんでだろ。メンヘラだから?」

「うん。まぁ、そうかもしれないわね」

B子は笑うでもなく、怒るでもなく、平坦な声で答えてみせた。笑ってほしいとは言わないけど……なんだろう。彼女はあんまり笑わない。冗談通じないのかな。

「クラゲを見ながら、セックスするセラピーがあるそうよ」

セックス、と急に直接的な単語が出てきてうろたえたけれど、その直後に自分がベッドに寄りかかっていることを思い出す。私は慌てて――でも、できるだけ自然に――手を離して、背伸びのふりで身体を起こした。

改めて水槽を覗き込むと、B子はこちらを見て笑っている。

「嫌ね。ここではしないわよ」

きら、と少しだけ光が漏れた。

冗談でも笑わないB子がわざわざ笑顔をみせるくらいだから、優しい嘘なんだろうなと思う。せっかくの提案だし、その嘘に乗っかって気にしないことにした。ベッドの縁ならそんなにアレやコレやが染み込むこともないはずだし。

クラゲを見ながらセックスすると、どんな効果があるんだろう。

青白い光に照らされながらベッドでいちゃいちゃするんだろうか。落ち着くねー、なんて言いながら。それとも、B子が今座っているあたりで、うやうやしく跪いて口でしてあげたりするんだろうか。

あの、舌で。

B子の顔が半分だけ青い光で照らされて、相手はクラゲとB子を並べて眺めながら――すごく幻想的だ、なんてありふれたことを考えてしまう。

「クラゲってさー、名前付けたりはしないの?」

「付けないわね」

意外だった。ペットどころか、ぬいぐるみにも名前を付けて可愛がっていそうと思ってたけど。名前を付けたクラゲに見られながらそういうことをするのは、気が散るのかもしれない。

「付けたくならない? クラゲとおしゃべりしたりしないの?」

「おしゃべり?」

いや、なんでもない。おしゃべりは私の妄想だった。

「自然のクラゲは分からないけど、飼ってるクラゲは割とすぐに死んじゃうの」

水槽で飼うクラゲの寿命は半年か、保っても一年。死んだクラゲは、水に溶けていなくなってしまうのだという。そんな不安定で存在も危うい生き物が、人の手で半年や一年も生きるなら上出来だと思うけど。

自然にいるクラゲは、きっともっと早く死ぬのだろう。それとも、逆かな?

「でも、わざわざ飼ってるってことは、可愛がってるんでしょ」

「どうかしら。可愛い? このクラゲ」

「可愛いんじゃない? 見てると落ち着くし」

メンヘラが好きそう、と答えてもB子にはウケないのが分かったので、無難な答えを返す。

「そうね。癒やしの効果もあるみたいだし、眺めていて気持ち悪くなったりはしないわ」

「あー、そっか! 名前を付けて愛着がわいたら、死んだ時に悲しいもんね」

なんだ、こいつも結構可愛いところあるじゃん。世界の出来事には興味ありません、みたいな顔してるくせに。ぽん、と手を叩いて納得していると、B子が呆れたようにこちらを見て溜息を吐いた。

「あなたのそういう楽観的なとこ、嫌いよ」

「なにそれ。私も、そうやって斜に構えてるとこ好きじゃないな」

私は楽観的なんかじゃない。言い返すと、B子はきょとんとした表情でこちらを見る。皮肉で返ってくるとはまるで思っていなかったみたいに。

「私、そんなに斜に構えてるかしら?」

「うん。世の中全部分かってます、って言わんばかりにね」

B子がお互い様ね、と声を出さずにいたずらっぽく微笑んだ。相変わらず、笑うポイントがつかめない。

「じゃあ、脳天気なあなたに、名付け親になってもらおうかしら」

なんだ、名付け親って。何匹も泳いでいるクラゲは、上へ下へ、右へ左へ。お互いにクロスして、どれとどれが違う生き物なのかを区別させる気がまるでない。

「あー……クラゲ、クラ、クラリ……じゃあ、これがクラリネット、とか」

「いいじゃない。じゃあ、クラリネットで」

「ほんとに興味ないんだね」

「ないわね。もうどのクラゲが『クラリネット』か、分からないもの」

なんだそれは。私が区別できないのは当たり前として、まさかB子まで分かっていないなんて。可愛いクラゲがなんだか可哀想になってきた。


私が名付けた「クラリネット」はどれだったかと意味のない探索をしながら、クラゲを眺めるふりを繰り返す。ゆったりとした動きに簡単に飽きてしまうあたり、どうもクラゲは私の性に合わないのだろう。

B子はぼーっと水槽を眺め続けているけれど、もはや目でクラゲを追っているかは分からない。

「私ね。クラゲを識別するのが怖いだけなのかも」

と、B子が唐突に沈黙を破った。

「何の話?」

私が聞き返すと、B子は水槽を見つめたままゆっくりと話し始める。

何ヶ月も飼っていると流石にある程度の区別を付けられるようになるし、よく集中すれば、どのクラゲが弱っているかも分かる。名前を付けてしまったら、その傾向はきっと強くなるだろう。

でも、B子はそれを望んでいない。一つひとつのクラゲに個性を見出したくないのだという。

B子はおおよそこういうことを言って、私の答えを待った。なんだ、やっぱり愛着がわいちゃうのが嫌なんじゃん。可愛げないな。

さっきは、私が名付けたクラゲがどれか分からないって言ってたくせに。

「どれが『クラリネット』かは本当に分からないわ。あなたの指を見ないようにしていたもの」

「なんで変な嘘を吐いたの?」

「意識したくないから、かしらね。だから、名前を付けるなんてもってのほか」

それから、自己暗示のために吐いた、意味のある嘘なのだと告げた。

元気なクラゲ、死にそうなクラゲ、と意識し始めると、クラゲに何かを期待することになってしまうから。いつの間にか死んで、何も期待しないまま新しいクラゲが投入される。それがクラゲたちの幸せなのだという。愛着とは違う、もっとどす黒いものを向けているような気がした。

「誰かに頼られたり、期待されたりするのが嫌なのよ」

そういうのって、すごく怖いわ。独り言みたいな小さな声で、噛みしめるように呟いた。

期待されるのが嫌、B子はそう言った。きっと、自分に向けられる思いのことを言っているのだろう。B子の過去は知らないけれど、彼女が信頼を向けられるのを避けて人を遠ざけているのなら、とても悲しいことだと思う。

黙ったままの私を見て、B子は頬杖をついたまま、顔だけ私の方に向ける。

「本当はクラゲに興味ないんでしょう? ただ、私の援交の噂を聞いて止めに来た。違う?」

その通りだ。口角だけで笑うB子の視線が突き刺さる。見透かされているような気がして、私は何も言えなくなった。

「あなた、やっぱり楽観的ね。誰かに関わったり、誰かを変えようだなんて」

「別に、楽観的なんかじゃないよ」

「じゃあ、私がなんで援交してるのか分かるかしら?」

「それは……」

分からないでしょ、と言わんばかりの疑問形。勝ち誇ったかのようなその声に、どうにかして反論したかったけれど、B子はそれを許してくれなかった。

「高校の制服を着て、誰でもない誰かになるのって、すごく安心するのよ」

「……安心?」

まるで予想していなかった答えに、素っ頓狂な声で聞き返してしまう。

「えぇ。援交してる時に好きって言われても、それは私に向けられた好意じゃないんだもの」

B子が壁に掛けられた「制服」に目を遣った。私もつられて視線を動かすと、水槽越しに青いセーラー服がゆらゆらと揺れているのが目に入る。セーラー服の上をクラゲが這って、きらきらと輝いているように見えた。

「私、自分がいらないの。私じゃない誰かが私になって、本当の私を消してしまいたい」

B子から、B子を消す。あの制服が背負っているものは、コスプレ衣装なんかじゃ耐えられないほどに重い役割だったらしい。まるで、心にまでしっかり衣装を着込んでいるかのように。

永遠の「高校生」のB子は、どんな風にセックスするのだろう。ベッドの上で、身体いっぱいの中途半端な幼さを隠しきれずに嬌声を上げるのだろうか。あるいは、無愛想なままで青い照明に照らされて無抵抗に男を受け入れるのだろうか。どちらにせよ、いびつで不自然な光景だ。

「お客さんにはね、クラゲちゃんって呼ばれているの」

クラゲちゃん、可愛いね。クラゲちゃん、また来たよ。クラゲちゃん、エッチだね。B子がニコニコと「接客」している様子を想像すると苦しくなる。友人が後ろ暗い仕事に手を染めた悲しさか、普段は無表情なB子が笑顔を振りまいて媚びる痛々しさか。

「身体を売るなんて、よくないよ。自分の身体は大切にしないと」

「乙女ね。いい心がけだわ」

皮肉めいた物言いに、B子らしさを感じて安心する。ここにはまだ、クラゲちゃんはいない。

「そうだよ。B子は綺麗なんだから、簡単に身体を売っちゃダメ」

「でもね、A子。私は、あなたとお付き合いする気はないけど――」

B子はそこで一旦言葉を切って、身体をこちらに向けて改めて私を見据えた。

「――クラゲちゃんは、あなたとセックスしてもいいと思ってるわ。だから、A子が私の容姿を気に入ったなら、お金で買えばいいの」

真っ直ぐな視線にたじろいで、それから「クラゲちゃん」の出現にうろたえた。

「そんなの……誠実、じゃないよ」

「誠実さも確かに大事だわ。でも、これはそれ以上に合理的だと思うの」

あなたが私を見つめて「好きよ」だなんて囁けば、あなたの誠実さも伝わるもの。

B子が好きよ、と私の目を見て言ったあたりで顔が熱くなる。それが視線や表情にも漏れ出ているのが、自分でも分かってしまう。きっとB子にもお見通しなんだろう。

「知ってるわ。私が笑うところ、もっと見たいんでしょ?」

B子が小さく舌を出して、ふふっ、と笑ってみせる。A子のこと全部知ってるよ、とでも言うようにして。なんでも見透かしてるつもりの顔で。

「今日はもう帰ったほうがいいわ。情報が多すぎて、ちょっと混乱してるでしょ? 処女のA子さん」

私には、その笑顔が本当かどうかも見抜けないのに。


B子は今、何を思って春を売っているのか。結局私には何も分からなかった。

別れ際にちろ、と舌を出して見せつけたまるい銀色が、私の頭を離れない。

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