:heart: :heart: :heart: :white_heart: :white_heart: :white_heart: :white_heart: :white_heart: :white_heart: :white_heart:

しあわせガイドライン 2

/* この作品はしあわせガイドラインに収録されています。 */


5

居酒屋バイト判定機は実に上手く動作していた。全体で見ればそうだろう。


私が持っている「しあわせガイドライン」には、こう書いてある。

幸せなみなさんのうち、満十八歳になった人は一ヶ月以内に職業適性テストを受けなければなりません。適性テストには当日のテスト結果に加え、これまでの学業や部活動の様子などが用いられます。不正を防ぐために判断基準は一部を除いて非公開になっています。

適性テストの結果はコンピュータが自動で算出します。これらの結果は、幸せなみなさんの職業選択を強制するものではなく、企業が採用活動を行うときに参考にする程度のものですから、安心して適性テストを受けましょう。

しかし、適性テストの結果のうち、第三十三種職業適性基準、通称「居酒屋バイト判定機」だけは、事実上「企業が採用活動を行うときに参考にする程度のもの」ではなくなっている。

居酒屋バイト判定を受けてしまうと、おそらくそれ以外の職種で採用は見込めない。つまり、テスト結果が有効な間は、居酒屋で働くか、さもなくば働くことを放棄しなければならない。しかし、労働は幸せを実現する重要な手段とされているから、事実上選べる選択肢は前者だけになっている。無職への風当たりは強かった。

そういった職業選択上の事情もあり、居酒屋バイト判定機に引っかかったことを知られると、それ以外の場面――当然、恋愛や結婚でも――しばしば不利益を被ることがあった。


どうしてサキが居酒屋バイト判定機に引っかかったのだろう。見ている限り、成績は良いとは言えないまでも大きな問題はなかったはずだ。では、明るい性格のせいだろうか。志望学科のせいか、文理選択のせいか、成績のせいか。判定機は点数を示してくれないので、私はこの憤りをどこにぶつけるべきかも分からない。

サキが居酒屋で働く分には問題ないだろう。彼女はどこにでも馴染める快活さがあるから。

問題は別にあるのだ。これからの私たちのこと。

あんな女の子と付き合うのはやめたほうが良い。どうせ親もまともな人間じゃないんだから、きっとろくなことにならない。もっと普通に男の子と付き合いなさい。

それが幸せだからと、両親は口を揃えてそう言った。

原因は分かりきっている。サキが居酒屋バイト判定機に引っかかったからだ。そして、私が引っかからなかったからだ。


サキと近くの公園で待ち合わせた。彼女の誕生日から一週間後のことだ。

日暮れの公園が生ぬるい空気でいっぱいになり、そこに街灯の光が差して羽虫が集まってくる。その下で、私とサキがベンチに座っている。よくある夏の終わりの風景と違うのは、彼女が赤く目を腫らしていることか。

待ち合わせの十分前にはもうサキはそこにいて、私はうずくまる彼女を見てはいけない気がしてその場を離れた。

やって来た私を見て、彼女は――そうするのが当然であるかのように――にこりと笑って、遅かったね、と言った。わざとらしい笑顔が、今日は一段と痛々しい。

「ごめんね、ユキ。ダメだったみたい」

「サキが悪いわけじゃないわ」

居酒屋バイト判定機があるのが悪いのよ、と言うと、面白い冗談だね、と彼女はまた笑った。

「今日で、共同戦線はおしまいだね」

少し間を空けて、おしまいだよ、とさらにサキが言った。

もともと「しあわせガイドライン」から逃げるための偽装カップルなのだから、私たちが一緒にいることによって逆に不利益を被るとなれば、解消するのが当然だろう。

当然なのだけれど。

「あなたは、それでいいの?」

「仕方ないよ。ユキには迷惑かけたくないし」

「私、迷惑なんかじゃないわ」

「迷惑だよ。ユキだってよく分かってるでしょ?」

家族にだって反対されちゃうし、生徒指導も受けなきゃならなくなるかもしれないんだよ。ぽつり、ぽつりとサキが続けた。

彼女もきっと家族に何か言われたのだろう。ユキは当事者だから、私よりも責められたに違いない。

「ユキのパパやママにも、迷惑がかかっちゃうんだよ」

「そんなの……」

「分かってるよね。ユキは私と違って、頭が良いもの」

しあわせガイドラインを意に介さないしっかりとした強さを持っていたように見えたサキでも、今はすっかり弱っていた。

でも、それも当然だ。一介の高校生にはどうしようもない現実なんだから。いざ向き合うとなれば、こうして疲弊するしかない。

「そんな卑下するようなこと言わないで。いつもの元気はどうしたの?」

「ユキは、強いね」

サキはそう言って寂しそうに笑う。黄昏に似合う優しい表情だと思ったけど、言わなかった。

「私は別れる気なんてないもの」

「どうして? どうして、そんなこと言うの?」

ふと、彼女の顔を見る。つぅと頬に一雫流れてからは、もう決壊するしかない。ぽろ、ぽろぽろと次第に激しく溢れる涙は、きらきらと彼女の手の甲や膝に落ちていく。

サキは唇を噛んで、声を出さないように泣いている。ずっと見たかった泣き顔は、案外簡単に見ることができてしまった。こんな時に見れたって、何も嬉しくないのに。

「居酒屋バイトの私となんて、一緒にいたいはずないよ」

「そんなこと言わないで。しあわせガイドラインから一緒に逃げようって言ったじゃない」

「どうして? 情が湧いたの? それとも、次の相手を探すのが面倒だからかな? そうだよね、せっかく――」

ぱしっ。一瞬、何の音か分からなかったけど、目の前でサキの涙が散る。思わず手が出ていた。

痛い。いたい。苦しい。手が痛い。心が痛い。

「ばかっ!」

頬に付いた赤い跡は、彼女の言葉を遮るには十分すぎた。サキはひどく驚いた顔で、私を見ていた。

「なんで、叩くの……?」

「あ、いや、違うの……私、そんな……」

「私だって、ユキのこと好きなのに。ただ、ユキの幸せを考えて……私が退けば、ユキが幸せで……」

サキはとうとう、声を上げて泣き出してしまった。私もそれにつられて、ぽろぽろと流れる涙を止められない。

私も、サキが好きなのに。なんで、なんで、なんで。

「ユキ……私が嫌い? 嫌いだから、叩くの?」

「違う。違うわ。私、サキがひどいことを言うから……」

サキが私の胸に飛び込んで、泣きじゃくる。私はどうすればいいか分からないまま、定まらない手つきで彼女の髪を撫でることしかできない。

「じゃあ、好き? 好きって、言ってよ……」

「サキ。ねぇ、サキ。好き、好きよ。だから……別れるなんて、言わないで……」

「好き……ユキ、好きだよ。もっと、もっと強く抱いて」

彼女の頭に手を回して胸に押し付けると、サキの泣く声が心臓に直接響いてくる。その叫び声にも似た歌が、私をもっと悲しくさせた。


「……ごめん。言い過ぎた」

「私も、感情的になりすぎたわ」

赤く目を腫らしたサキが、やっと落ち着きを取り戻す。私はまだ、ちょっと突付かれたらすぐに涙が零れてしまいそうだけど。

「ちゃんと、待っててくれる? 私が居酒屋バイトじゃなくなる日まで」

「えぇ、きっと。誓うわ」

次の検査は、最短で三年後。彼女だけが居酒屋バイト判定機に引っかかってしまった今となっては、卒業後に同棲するのも難しくなった。それまでの間、サキは居酒屋バイトであり続ける必要があるし、私は大学に通いながらサキの帰りを待ち続けなければならない。

それが長いのか短いのか、私にはよく分からない。今はとても長くなるだろうと思ってるけど、きっと振り返ってみると短かったと思うはずだ。

「サキ、好きよ」

「うん、ありがと。私もユキが大好きだよ」

熱い視線がぶつかって、私たちはどちらからともなく唇を重ねた。ゆっくり舌を絡めて、歯をなぞる。互いの感触を忘れないように、口約束に判を押すように。

暖かい彼女の頬からいつもより悲しい味が舌に伝わって、それを舐めとる私まで感情が溢れてしまいそうだ。

「私たちは、自分が思ってるよりずっと弱いよ」

「でも、また会えるわ。きっと」

そうだね、と言って笑ってみせるサキ。その拍子に、目の端から涙がつつ、と一雫だけ流れていった。

それから私たちは、辺りがすっかり暗くなるまでずっと手を繋いでいた。何も言わずに、最後になるかもしれない穏やかな時間を味わうようにして。


「そろそろお別れしないとね」

立ち上がって、そっとお互いの身体に腕を回す。脆くて弱い二人が壊れてしまわないように、優しく力を込めた。

「ユキは、幸せでしたか?」

「はい、幸せでした。サキと出会えて。とても」

彼女はずっと、私の胸で声を出さずに泣いている。せめてサキを抱きとめる私は絶対に泣くまいと思ったけど、そんなの無理だった。

いっそ私も、居酒屋バイトになれればよかったのに。

7

あれから私は大学生になって、実家を離れて一人暮らしを始めた。サキとは「別れた」から、卒業してからはもう連絡を取っていない。

何度か夏を過ごしているうちに、夜の公園でじっとベンチに座って誰かを思うこともなくなった。

大学生活はそれなりに楽しいし、週に何度かはサークルで仲の良い友達とご飯を食べに行ったりしている。講義だってしっかり出席しているし、成績だってそんなに悪くない。

サキのいない世界はそれなりによく回っていて、私はもう彼女なしでやっていけるのではないかと思うこともある。日常の隙間に少しだけ残った空っぽの部分にわざわざ目を向けさえしなければ、だけど。


遅くまで起きている夜は、私が孤独であることを思い知らされる。私の隣から空っぽの部分が滲み出てきて、じわじわ周りを包み込んでいくのをただ感じていると、最後には私まで空っぽになってしまう。

私はサキがそんなに好きだったのだろうか。

誰かに――サキに――私の何かを埋めて欲しいと思っている。あるいは、何かに――何でも良いから――私を慰めて欲しいと思っている。

彼女たちだってそれなりに仲は良いけれど、その唇や、その髪に特別な意味を持って手を伸ばすことはできない。もし誰かに触れることができたなら、私はサキを忘れられるだろうか。

私がサキを「好き」だと思っているのは、その程度の意味しかないのかもしれない。それでも、みんなが当たり前のように受け入れているしあわせガイドラインからずっと逃げてきた私には、今さら何事もなかったかのようにガイドラインに寄りかかる勇気はなかった。


サークルの新歓で、居酒屋に行くのだという。

飲み会で居酒屋に行くことは何度かあったけれど、いつもその場所に行くまで憂鬱な気持ちが消えない。一瞬だけでも彼女のことを思い出してしまうからだ。もしもこの街で働いていたらどうしよう、もしもばったり会ってしまったらどうしよう。そう思うこと自体はたぶん悪いことではないけれど、そんな事情を知らずに楽しそうにしている今目の前にいる友人たちに悪い気がした。

もし全国にあるたくさんの居酒屋の一つにサキがいたとしても、偶然その店を選び取ることはないだろう。そんなことがあるのなら、むしろ運命なのかもしれない。


お酒は好きだ。ふわふわとした心地がする。

氷が唇に当たると気持ち良くて、いつもそのまま口に放り込んで溶かしてしまう。薄くなった氷をかりりと噛むと、飴みたいに砕けてすぐに消えていく。酔いが回っている時はいつもより早く飴が無くなってしまう気がして、子供みたいに何度もグラスを呷って頬張っていた。

綺麗な水で作った氷は綺麗だけど、口に何も風味が残らなくて少しだけ物足りない。だから、本当は家で飲むお酒が一番好きだ。

今年の新入生は穏やかでいい子そうだ。私はもう直に引退してしまうので、あまり関係ないんだけれど。みんなが自由に好きな時間を過ごしていて、こういう安心できる時間にお酒を飲むと少しだけでもよく酔える。

それなのに今日は、ほとんど酔った感じがしない。アルコールだけは身体を回っていて、どうしてか妙な焦燥感と気持ち悪さで胸がいっぱいになった。


不思議な予感は、すぐに的中することになる。

「ユキ……だよね。久しぶり」

お手洗いを出ると、背中から懐かしい声がする。誰ですか、とは訊かなかった。訊かなくても分かった。

「ここで働いてたのね、サキ。元気だった?」

私は一瞬動けなくなって、ハンカチをしまおうとするその姿勢のまま、独白のように空中に向かって話しかける。驚きと歓喜と、少しの緊張を隠して平静を装った私の声は、それでも少し震えていた。

「私はずっと元気だよ。ユキのこと、ずっと考えてた」

思い切って振り返ると、あの頃よりも少し大人びたサキが立っている。

汚れの目立たなさそうな黒い作務衣に、店のロゴの入った紺の前掛けをしたサキは、えへへ、と軽く声を出して笑った。若さだけでどこまでも連れて行ってくれそうな昔の元気は感じ取れなかったけど、その表情は私が知っているサキそのものだ。

「私だって。サキのことを忘れたことはないわ」

「あのね。私、そろそろ検査を受けなおせるんだよ」

「えぇ。もうすぐ誕生日だものね」

サキのいう検査というのは、職業適性テストのことだ。彼女を拘束して、私と引き離した居酒屋バイト判定機。

大学に進学してからもずっと頭を離れずにいたその最悪のシステムは、少なからず私の研究テーマに影響を与えていた。

「それでちゃんとした結果が出れば、また付き合えるね」

「……なによ、それ」

サキの言葉を聞いて、私は少しいらいらした。

「私は、居酒屋バイトだからって別れたわけじゃないわ」

「うん。知ってるよ」

居酒屋バイトだからって避けていたわけではない。ただ、サキとの約束を守っていただけで。

そもそも、彼女が居酒屋バイト判定機から逃れるのは難しいだろう。居酒屋バイト判定機は、一度陽性と判定した対象を再び陽性と判定する割合が非常に高いことが知られている。特定の職業に就くとその職業適性基準を満たしやすくなるのは当然なのだけれど、それでは十分に説明できない面もあった。

「今だって、すぐにサキの手を引いて連れて帰りたいと思ってるわ。検査なんて関係なしに」

「あはは、ありがと。でも、やっぱりサキは私の――」


と、突然後ろから低い声がした。

「おい、████! 知り合いか?」

「あ、███さん。はい、高校……その、友人で」

今、サキをなんと呼んだ? 聞き取れなくて私は一瞬耳を疑った。呼び名と思われる部分はどの音も曖昧で、むしろ鳴き声のように聞こえたのだ。

ヨ……もしくは、キ、だろうか? 次の音も、ウともオともつかない何とも気味の悪い発音である。

怖い、と思った。私の知らない発音を聞き取って、お互いにコミュニケーションを成立させている二人が、どうしても私と同じ人間とは思えなかった。

私が怪訝そうな表情をしているのに何を思ったのか、サキは笑顔で男を手で示して口を開く。

「ユキ、こちら店長の███さんだよ」

自分の名前が理解できる音で耳に響く安心感と、耳が拒否する不気味な音が生み出す言いようのない恐怖感が同時に襲い掛かってくる。それなりの覚悟を持っていたけれど、目の前ではっきりと口の動きを見てしまってくらくらとした。

居酒屋バイトには、お互いをあだ名で呼びあって信頼関係を深めるという文化があると聞いたことがある。何度か居酒屋に行ったことはあるけれど、彼らがどんな風に呼び合っているかに耳を傾けたことはなかった。本当はどの店員も、こうして鳴き声のような何かでやり取りしているのだろうか。

店長と紹介された男は、それから私が聞き取れる日本語を一言か二言だけ放ってから仕事に戻っていった。

「店長、見た目はアレだけど悪い人じゃないんだよ?」

「そ、そうなの」

「うん。███さん、この前は――」

「じゃ、じゃあ……急いでるから。またね、サキ」

次にその音を耳に入れると気が狂ってしまいそうで、もう無理やりにでも会話を遮ってその場を去らずにはいられなかった。

「うん……そっか。じゃあね、ユキ」

私は何事もなかったかのように軽く手を振ってその場を足早に去りながらも、心臓はばくばくとその鼓動を速めるばかりで、気を抜くと脚が震えて歩けなくなってしまいそうだ。足がもつれて転んでしまわないように、一歩ずつ前に進んだ。

ねぇ、サキ。あなたは誰になってしまったの?

私がサキに向けている目は、高校の時みたいに綺麗なものじゃなくなったと思う。彼女はそれに見合うくらい、もっとずっと汚くなったのだろうか。


ふらふらと家に帰って玄関に座り込んだ時には、私はもうすっかり疲れ切っていた。

サキがいて、私がいた。サキは私を見ていたけれど、私は誰を見ていたのだろう。その視線に、しあわせガイドラインをしっかり脳みそに吸い込ませたあとの子供のような、無邪気な汚さを自覚した。だからもう、私は彼女と一緒にいることはできない。

もしサキが居酒屋バイト判定機から逃れられたとしても、きっとそれは変わらないだろう。

「変わったのは、私? それとも、サキ?」

もう、何もかもがだめになってしまった。しあわせガイドラインはこうして人を幸せにするのだろうか。

逃げたとしても、受け入れたとしても、最後に振り返った時にはいつもしあわせガイドラインが私たちを見下ろしているのだ。逃げ切れなかったことを悟らせるように、逃げようなんて思いが芽生えないように。

しあわせガイドラインが生み出した居酒屋バイト判定機が、一番憎むべきだった最悪の概念が、いつの間にか私の心に根を張って視界を曇らせている。

「どうして? ねぇサキ、どうしてあなたはこんな風になってしまったの? 気持ち、悪い……」

高校時代の自由で魅力的だったサキと、私とは違う世界で違うことばを使っているサキが、もう同じ人間には見えなかった。

そうだとしたら、誰もしあわせガイドラインを捨てようとしない理由がやっと分かった気がする。

気付くと私は、引っ越し用のダンボールに乱雑に放り込まれてそのままになっていたしあわせガイドラインを、まるで聖書を紛失した狂信者のように探し回っていた。これまでどこかに置いてきた幸せを取り戻したいとでもいうようにして。

「どうすれば、いいの? どうすれば、幸せに……」

ぱらぱらとページをめくりながら、何度か挿絵のインクがじわりと滲むのを見て、私はやっと自分が泣いているのに気付いた。表紙のカップルがみんな私を見物してあざ笑っているような気がして、見つめているうちに視界がぐにゃりと歪んでいく。

いつの間にか私は、自分が一番嫌いなしあわせガイドラインなしでは自分自身の幸せさえも支えられなくなっていたのだ。

「さよなら、サキ。本当に好きだったわ」

さよなら、サキ。お互い「しあわせ」になりましょうね。

More information...