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メモリアスコープ

壁の自然写真


「じゃあミイちゃんは、ホンモノのお花の香りも知ってるの?」

……うん、ちょっとだけ。でも、コスモスはあんまり匂いのしない花だったかな。鼻をよく近づけるとね、ほんの少し爽やかな香りがするの」

「へー、やっぱりホンモノはすごいね!」

ユウはまだ興奮を抑えきれないようで、目はぽぅと熱を帯びて頬がほんのり赤くなっている。私の棟とユウの棟を繋ぐいつもの通路なのに、周囲をきょろきょろと見回してそわそわと落ち着かない。まるで自分が地面を踏みしめていることさえ疑っているように。

ユウが「ホンモノのお花」と言って指さしたのは、環境美化の名目で設置されたエクステラと呼ばれるシゼン写真である。団地を出ることを許されない住民がシゼンを身近に感じられるように、と想像力に欠けた為政者にありがちな見当違いの優しさから数年前に予算が組まれ、こうして目立たない住居棟の隅に打ち付けられたのだった。

「テンネンのお花って、あんまり匂いが強くないの? 安いシルクフラワーも、袋から出したらすぐ香りが消えちゃうよね」

「そんなことないよ。バラとか、キンモクセイとか、ゼラニューム、あとチョコレートの匂いがするコスモスがあって――

「チョコレート? バレンタインの期間限定フレーバーで売ってたことがあったよね。いつもの3倍くらい高くて、買えなかったけど」

この街でシゼンとかホンモノの話をするのはよくないことだ。ほとんどの人は、ホンモノの花の香りや海の波音や草原の広さを知らないから。エクステラは土埃のにおいが染みついたただの薄汚れた写真パネルで、秋風の音や渓流の冷たさはどこにも見つからない。ハリボテの窓の前に立っても湧き上がるのは街の外への憧れだけで、団地の住人からはとにかく評判が悪かった。

だから、これまでもう何度も横目に通り過ぎてきたはずのシゼン写真を見て、ユウがまさかホンモノの花を思い浮かべるなんて。いくら彼女の気を引きたいからって、家からメモリアスコープを持ち出してユウに見せたのは間違いだった。これではエクステラを置いた市長と何も変わらないじゃないか、と私はひどく後悔した。

私の触れてきたシゼンは、もうメモリアの中にしかない。両親が離婚して母と一緒にこの団地に越してくるまでは、もっと広くて庭のある大きな家に住んでいたし、いろいろな場所に出かけてホンモノのシゼンに触れることもできた。父が家族のためにたくさん働いてくれたから、ただそれだけで、周りよりほんの少しだけ裕福だったのだ。

離婚した母は、自由なお金と時間がぐっと減ったことに強いショックを受けていた。家ではいつも「こんな団地の人たちと一緒にニコニコ笑って働かなきゃいけないなんて」と愚痴をこぼしてばかりだし、私には「あんたはここで一生を終えるような人間になっちゃダメよ」とまるで呪いみたいに言い聞かせてくるのだ。もう5年も経ったのに今の生活を受け入れられない母にはうんざりするし、ユウみたいな子と友達になるのを咎められているようで居心地が悪かった。

でも今となっては、生まれてからずっとこの街に住むユウと暮らしぶりは何も変わらない。ここは狭くて猥雑な中下層の団地で、躾のなっていない子や頭の悪い子もたくさんいる。教室で楽しそうに交わされている会話は、狭い団地のさらに狭い人間関係のつまらない噂話ばかりで、眠気に耐えて話を合わせるのが精一杯だ。

そんな中で、ユウは特別に輝いていた。頭がよくて、本を読むのが好きで、しかもシゼンへの興味も失わずに育った強い子だ。団地の子はシゼンと切り離された生活を送っているうちに、草花や海や川への興味を失ってしまう。外の世界に興味を持っても目の前の現実を生きられなくなるだけだ。植物が描かれた絵本は幼稚園児かせいぜい小学校低学年で卒業するもので、中学生にもなってシルクフラワーなんて買う子はユウくらいしかいない。

「ミイちゃん。お花畑のメモリアって、持ってる?」

「コスモスは持ってないの。ジンチョウゲとか、あとはゲットウとかなら、あるけど……

「それ、どんな香りなの? 明日も見せてくれる?」

「う……うん。でも、毎日メモリアを見ると身体が疲れちゃうかもしれないし、明日は――

「大丈夫だよ! 今だって、屋上まで飛べちゃうくらい身体が軽いの」

ユウは期待に満ちたまなざしと共に私の手を握る。私が与えたホンモノはまだ彼女の中を渦巻いていた。同じ冬空の下を歩いているはずなのに、私の冷たい手に流れ込んでくる熱が溢れて止まらない。この手を離したら、本当に団地を飛び出して空を駆け回るのではないか、と思った。

五感全てを記録・再生できるメモリアスコープは、父が私にプレゼントしてくれた高価なVR機器だ。クラスで――いや、この団地でさえ、こんなスコープを持っているのなんてきっと私くらいだろう。シゼンが好きな彼女と仲良くするために、家族で鎌倉の海に行った思い出(メモリア)を見せてあげたのだ。

私の見たシゼンの景色をユウに教えたかった。そして、私のことを知ってほしかった。でも、今の彼女が夢中になっているのは広いシゼンそのものだ。誰が見た景色かなんてまるで興味がなくて、初めて触れる海水のにおいや砂の温かさ、夏空の色に圧倒されているのが分かった。ユウはただ目新しいシゼンを全身に浴び続けて、そこに私はいなかった。

私がユウにメモリアスコープを見せたのは、シゼンが大好きな彼女に喜んでほしかったからだ。それなのに、シゼンに夢中になる彼女を見てもやもやした気持ちになってしまうのはなぜだろう。今だって、ユウは私と遊びたいわけじゃなくて、きっと私の思い出(メモリア)に興味があるだけだ。ユウはホンモノの花に触れたことがないから、花の香りを嗅ぎたくてたまらないから、だから私と仲良くしてくれるんだ。

私が持ち帰ったメモリアを切り売りしないと、ユウはもう一緒に遊んでくれないかもしれない。明日は、明後日は、1ヶ月後くらいならまだ残っているはずだ。でも、私が彼女に見せられる思い出(メモリア)がもう空っぽになったら。ユウは今の何もない私に興味を持ってくれるだろうか。ホンモノのシゼンを見せてあげられなくなった私に。

「あのね。今日メモリアスコープを見せたのは、ユウちゃんが特別だからだよ?」

「急にどうしたの? 私もミイちゃんのこと、好きだよ!」

「ほ、本当?」

「うん! 私の知らないもの、いっぱい見せてくれるから!」

……そっか、えへへ。じゃあ明日も、新しいメモリア持ってくるね」

また明日、とこちらに手を振るユウと別れてから、階段を一段ずつ上がっていく。エレベーターをじっと待つ時間に耐えられそうになかったから。慣れない踊り場で階数を示す蛍光灯は、冷たく湿った共用階段の床を照らすには暗すぎて心細い。私は明日もユウと会うことができるだろうか、と根拠のない不安が心を覆っていく。

やっぱり、やっぱり、ユウはメモリアが見たいだけなんだ。この団地での生活にはもう慣れたはずなのに、夢みたいな生活を送っていたあの頃の私が羨ましい。ユウを好きなだけホンモノのシゼンに連れ出せたら、屈託のないあの笑顔をずっと独り占めにできるのに。

かつて花壇があった場所はコンクリートで埋められて、雑草一つ生えることすら許さないこの団地は、どこもかしこも灰色だ。今ここでシゼンが詰まったスコープを床に叩き付けたら、この団地の隅から隅までホンモノが溢れ出て色鮮やかな街に変わるだろうか。広い広い草原でユウと花冠を編む光景を想像しながら、私はいつの間にかメモリアスコープを強く握りしめていた。


百合SS Advent Calendar 2023

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