団地

おうち


「ねぇ、ナナロク。そろそろ、子供作らない?」

「またその話?」

「センターがうるさいんだってば、ずっと」

私が76784291739271号に子供をせがむのは実に簡単な理由で、つまりは私の社会的地位の向上のためだった。

ナナロクは、綺麗な女だ。遺伝子が優良か――残す価値があるかどうか――は単なる容姿や学力で決まるわけではないとされていながらも、ナナロクは顔で選ばれたとしか思えない。それほどまでに、身体が弱くて、バカで、性格の悪い女だった。


整然と並んだ団地の大きな一棟の、小さく区切られた一室で私たちは暮らしている。画一的で効率の良い住居はどこも薄汚れたレンガ風の外壁で囲まれていて、私が移住してきてから何一つ変わっていない。とうとう足が帰路に必要な歩数を覚えてしまったのか、無意識でも家に帰れるようになってしまった。

真夜中に窓を開けると、向こうの棟に玄関を照らす蛍光灯がよく輝いているのが見えて、少し寂しい。

暮らしに不満はないけれど、変化のない毎日はそんなに楽しいとは思えない。この狭い部屋に誰かが遊びに来るわけでもないし、私だって誰かの部屋に遊びに行きたいわけではなかった。この部屋の住所は「126-021-005 02208」となっているけれど(部屋番号はこの前の都市住居法の改正で五桁になった)、実際には住民番号を入力すれば手紙も荷物も届くから誰も自分の住所は覚えていない。

人類が居住を許される区域は年々狭まっていた。私だってこんな狭い部屋で二人暮らしを続けるのは嫌だけど、抜け出したってどこに行けるわけでもない。とはいえ、そもそも百万人を一つの都市で抱えようとするのは、あまり余裕のある計画ではなかった。

聞くところによれば、地球が緩やかな絶滅(テレビではこれをよくニーマルニーマルと呼んでいた)へと向かおうとしているらしい。エネルギー資源の枯渇に異常気象、それに加えて急激な太陽変動ときた。要するに、地球に人類を養うだけの余裕がなくなったのだ。

結果として、最終的に二百数十億にまで膨れ上がった世界人口は、大量の核兵器の力で大きく減らされることとなった。始まりはその場しのぎの戦争だったけど、あれは必要なことだったと皆が言う。

確かに、暴力的な手段とはいえ地球への負担を減らすことはできたけど、やはり地球には大きな爪痕が残されることになる。放射能汚染による居住可能区域の減少と、大規模な爆発が繰り返されたことによるさらなる気象変動が引き起こされたのだ。

もはや人間が暮らせなくなった大地と私たちを分けるようにして、都市を包む巨大なドームが設置された。ドームの中にいれば、少なくとも(物理的な)生存は保障される。ただ、都市全体を快適な状態に保つには莫大なエネルギーが必要となるはずだ。この先どこからエネルギー資源を確保できるのか、この巨大なシェルターをどれだけ維持できるのかは、末端の私たちには知らされていなかった。


子供を産んで育てることは、実質的に禁じられていた。そうでもしないと、我々が我々を絶滅させることになるだろう。

ただし、自分の遺伝子を残したいという素朴な生物学的欲望は、辛うじて「生殖免許」として残されていた。そして、優良な遺伝子を除いては、自らのコピーを後世に伝える方法は残されていなかった。


「あのさ。ミミは、本当に子供が欲しいの?」

「欲しいよ。私だって、何のために育児免許取らされたか分からないし」

「いや、育児免許を取ったのはミミが不良遺伝子だったからじゃん」

「はぁ?!」

目も合わせずに答えるナナロクは、パチパチと爪を切りながらその無関心さをアピールする。悪意に悪意を重ねた「不良遺伝子」なんていう悪口に、思わず大きな声が出てしまう。

優良遺伝子保持者はみんなこうなのか? 遺伝子の「強さ」でマウントを取り合う文化でもあるのかもしれない。

とはいえ、「非優良遺伝子保持者」が「優良遺伝子保持者」に比べて待遇が悪いことは否定できなかった。非優良遺伝子保持者が出生以外で社会に貢献するには、男性なら不本意な運労をするか、女性ならそれに加えて育児に携わらなければならない。現在の問題に取り組むか、未来への投資に取り組むか、ということだ。

「うっさいな。いちいち叫ばないでよ」

ひとしきり爪を切ったナナロクが、本当に興味がなさそうな様子で落とした爪を拾い上げる。

「私はね、あんたがセンターに連行されて卵子を引っこ抜かれないように、わざわざ忠告してあげてんの!」

「あー、うん。ありがたいご忠告、本当にありがとうございます」

マグカップを持ったナナロクが、私の隣に座り込む。ソファが小さくきしんで揺れた。コーヒーの香りが鼻をくすぐって、叫びたい衝動が少しだけ収まる。私の機嫌が悪くなっていることも、放っておくと面倒なことになることも、それなりには理解しているらしい。

まぁ、もちろんそのマグカップは私の分ではないんだけど。ナナロクはたっぷりのブラックコーヒーを苦そうに啜って、その白いカップをゆっくりテーブルに置いてから、軽く伸びをする。

「だから、そろそろ子供作ろうよ。私がちゃんと育てるからさ」

「逮捕されそうになったら、その場で死ねばいいじゃん。そんなに生きたい?」

「私は苦しまずに死にたいけどね。優良遺伝子保持者さんは、人生がお気楽で本当に羨ましい」

生殖はあくまで自由意志によるものとされた。ほとんどの優良遺伝子保持者は、「自由意志で」子供を残して都市の運営に貢献している。優良遺伝子保持者が免除されている多くの責務は、その生殖能力の活用と引き換えになっているからだ。たいていの優良遺伝子保持者は複数の相手と何度も子を為し、それ以外の者たちから――特に男性からは――羨望の目で見られていた。

たまにナナロクみたいなやつもいるけど、そういうやつはとてもレアで、とても異常だ。都市運営にあんまり非協力的だと、センターが令状を発して連行した上で、精子や卵子を採取されることになる。

そして、この部屋にはそういう強制処分を匂わせる警告状が何度も届いていた。

「じゃあ、私が死ぬ時にさ、ミミも一緒に死のうよ。ミミと一緒なら苦しくないし」

私の顔を覗き込むナナロクは、まるで面白い遊びを思いついた被保護住民のように無邪気な声で私にそう提案した。

「バカ言うなって。優良遺伝子の喪失が社会にどれだけダメージを与えると思ってんの」

「……あはっ。確かに、社会は大事かもね。それなら、ミミは残していくよ」

私が優良遺伝子の喪失に関わったとなれば、どんな酷い待遇が待ち受けているか分からない。バカなナナロクでもそれくらいは知っているだろう。

笑いながらつまらない冗談を吐くナナロクは、本当に腹が立つ。


クローン技術はおそらく失われていた。より正確に言えば、遺伝子を調整する技術が発達しきっていなかった。だから、いわば「オーガニック」の優良遺伝子保持者は重宝されていた。

ドームに住む人たちは、先の見えないことに対する漠然とした不安を抱えていたから、優れた人類を生み出すことに強い期待を寄せていた。デジタル狐像を撫でても、電子線香を焚いて祈っても、どうにもならないのは分かっていた。

新たな生殖は、人類の夢を背負っていた。だから、私がナナロクに子供をせがむのは単に社会に迎合するためだ。社会の期待に応えなければ、この都市では生きていけないから。

私が死んだ後の人類の未来なんて、どうでもよかった。


「ねぇ、ミミ。もしも、ミミが優良遺伝子だったら、ちゃんと子供作ってたと思う?」

「何それ? まぁ、大喜びで妊娠してたと思うよ。もしも、なんて言われても意味がないけど」

「そうだよね。うん、ミミはそうだよね」

唐突にそう尋ねたナナロクは、そうだよね、そうだよねと繰り返しながら、納得するように何度も頷いている。

「急にどうしたの。インタビュアーの練習? そんな運労、入れてたっけ」

「いや、外には行きたくない。息が苦しくなるし」

「じゃあ、何?」

「ん? 別に、ただの世間話だよ。ミミ、なんか難しい顔してたから」

見抜かれたような心地がして、思わず頬に手を当てる。

考えてみると、テレビも付けずに二人でくつろぐ夜なんて、久しぶりだった。

いつもなら、「あの街この街まっしぐら」(もう何度も再放送されている)を観ながら適当なことを喋っていれば、いつの間にか時間が過ぎていた。もうとっくに廃墟になっている街の、もうとっくに閉店している喫茶店の内装について難癖をつける。いかにも頭が空っぽなコメントを投げつけても、タレントは何も文句を言わない。

毎日のニュースはあまり見ないようにしていた。ナナロクに付き合って見る夕方のニュース番組には、刺激的なトピックは一つもない。凶悪事件も起こらない、火山も噴火しない、逮捕も革命も起きない。だからこそ、地球が緩やかに滅びているのが分かった。

だからこそ、夜が来るのが怖かった。

「まぁね。私も、自分が優良遺伝子保持者だったらなって、たまーに考える」

もしも、私が「優秀」だったなら、喜んで社会に希望を残しただろう。そうするだけで、生きることを許されるのだから。

たくさんの優秀な遺伝子と交ざって、未来に資産を残す。それは、優秀な遺伝子の持ち主にしかできない専門運労だ。運労に必死に取り組むのが正しいことかは分からないけど、それは私に生きる意味をくれるだろう。そして、きっと今より心も生活も満たされることだろう。

「そうだね。ミミなら、きっと上手くやれたよ」

きっと上手くやれた、とナナロクは言う。私に寄せた同情か、あるいは無責任な予言のつもりだろう。ナナロクはよく、そういうやり方で私を激励していた。未来への期待が溢れる時代でもなければ、無邪気に夢を見る年齢でもなくなったのに。

「私はさ、家も出たくないし、誰かがここに来るのも嫌だから。やっぱりセンターからしたら落ちこぼれの優良遺伝子だからさ、私って」

ナナロクが、空になったマグカップをゆらゆらと揺らす。カーペットに落ちる影が、しきりに形を変えて落ち着かない。

優良遺伝子かどうかは、生まれた時点で決まっているとも、その後の人生の様子で評価が補正されるとも言われている。でも、もし私の生き様を勘案しても「優秀」ではなかったなら、どうしてナナロクの方が「優秀」だったんだろう。

「やればできる子、とでも?」

「まぁ、ヤればデキるんじゃない? 正直、誰かが代わってくれるなら、代わってほしいよ」

「何言ってんの。子供を産むだけで褒められるんだよ? そんな簡単な仕事なら、私が代わりたいくらい」

冴えない人生だったとしても、自分が残した子孫が勝手に自分の評判を高めてくれる。上手い話すぎて怪しいくらいだ。

「でも、バカな遺伝子って判定されたのはミミでしょ?」

「あっ! またバカって言ったな!」

「ちょっと待ってよ。それは事実じゃん」

「事実だから何?! いいよねぇ、あんたは! やろうと思えばすぐパコって子供産めるんだもんね!」

「ミミ! それは言うなってば!」

ナナロクが、私に応酬するように大きな声を上げる。

いつものナナロクなら、私につられて感情的になったりはしないのに、子供の話になるとときどき声を荒らげることがあった。とはいえ、子供が嫌いというわけでも、センターへの反抗心があるわけでもないらしい。どうやら、自分に課せられた生殖免許が気に入らないらしいのだ。つまり、ただただ「子供を産みたくない」のだという。

どうして社会に背いてまでその運労を拒むのかは分からないけど、確かにこの現状は彼女の遺伝子にとっては落ちこぼれというほかない。

「あーあ! セックスの快楽に出産の喜びだなんてバカな女の欲望フルセットだな!」

「ミミ。やめて」

ナナロクが立ち上がった私を止めようと腕を掴むのも構わずに、さらに天井に向かって叫んだ。

「一方の私は、生まれた時から万年処女確定! 何のためにメスとして生まれたのか分かんな――ぎぁっ!」

と、息をすっかり吐き出し終わるより前に、無理やり肺が折り畳まれて踏まれた猫のような声が搾り出される。身体を左右に動かして、ナナロクが私を抱きしめていると分かったのは、それから少し後のことだった。

「ミミ、落ち着いてよ。セックスなら私ともできるからさ」

「バカ! あんたなんかに抱かれたくない!」

「でも、ミミって私のこと好きだよね?」

「……は? 何が?」

唐突な話題の転換に、頭がついていかない。私はただ、ナナロクの喧嘩を買っただけだ。

「私が一番好きなの、ミミだし」

「あー、はいはい。そうね。あんたは家から出ないもの」

顔を合わせない問答に、少しだけ安心しながら言葉を返す。ナナロクが私をどう思っていようと構わないはずなのに、耳元がくすぐったい。

「でも、ミミって、私がどこかに行っても戻ってくるって信じてくれてるっていうか……そう! 正妻の余裕、あるよね!」

ナナロクが抱きしめた私を引き剥がす。そして、私の目を見ながら、もう一度「正妻の余裕、分かる?」と尋ねた。

彼女は面白いアイデアを思いつくと、必ず嬉しそうな表情で私の顔を覗き込むのだ。彼女のいう「正妻の余裕」というのは、昔デジタルディスクで観たドラマのセリフの引用だろう。その時も、ナナロクは私に同じようなことを言っていたから。

「正妻の余裕、ね! そうですか。私たちはラブラブで、私だけ都合のいい女って言いたいわけだ!」

「都合よくなんかないよ。私もミミを大事にするから」

「精液臭い手で触られた女が、生意気な子供連れて帰ってきて、私を大事にします? 死ぬほどつまんないジョークだな!」

「だから、それは義務なんでしょ!? 相手がいないなら、私だって子供なんか産めないよ!」

「じゃあ、私が好きとか言ってないで、もっと――」

がちゃん。私の言葉を待たずに、ナナロクの指から白いマグカップが滑り落ちた。真っ二つになったカップが、乾いたコーヒーで濡れた中身を露わにする。粉々になった破片はカーペットに潜り込んでしまって、もう取り出すこともできないだろう。

「ナナロク。それが、あんたの答え?」

「違うよ、ミミ。今のはわざとじゃなくて、ただ……」

「もういい。センターでもなんでも行けばいいよ」

「ねぇ、ミミ。私がどこかの誰かとセックスして、知らない子供を妊娠しても、本当にいいの? ミミは本当に、私のこと好きじゃないの?」

「……知らない。勝手にすれば」

ナナロクは本当にバカで、本当に性格が悪くて、本当に、綺麗な女だ。


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