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ストロベリィドール

/* この作品はストロベリィドールに収録されています。 */


1

夏の日差しは私には眩しすぎる。無理やり気持ちを高揚させるこの陽光は、大事にしなきゃいけないものを全部隠してしまうから。


電車に一時間ほど揺られ、私の目的地を告げるアナウンスを聞く。駅のホームに降り立つと、既に待ち合わせの時間からは幾分過ぎていた。

休日の昼下がりとは言え、この小さな駅を目的地としている人は少なく、左右を見渡しても降りる人は私の他に二人か三人ほどしかいない。ホームの掲示板の隅に貼られたくたびれた張り紙は何年か前に打たれた観光協会のポスターらしいけど、褪せてしまってすっかり字が読めなくなっていた。

ぷるるるるるるる。

がたりと大きな音を立てて閉まる列車のドアが、とうとう戻れないところまで来たことを意識させる。電車は私をここに残して、人々を次の街へと運んでいく。

「文香はこの空、毎日見てるのかな」

突然の風に巻き上がるスカートを押さえながら空を見上げると、波打ったスレートの屋根の向こうに遥かな青が見渡せる。

「文香。本当に私は、あなたと再会してもいいのでしょうか」

約束を交わした幼馴染が待つ広場へ、一歩ずつ彼女へと近づいていくことを意識する。

春が過ぎ、夏が来て、私が何もしなくても時間は過ぎていく。きっとそのうち、もう彼女にも会えなくなるだろう。

彼女は私を忘れ、私は彼女を忘れていく。私は彼女に酷いことをしたから、もう顔を合わせたいと思っちゃいけない。それで良かったはずなのに。

文香に会いたい。そう思った時には、入道雲が私に電話をさせていた。

電話で聞く彼女の声からは、私への嫌悪は感じられなかった。少なくとも、こうして逢瀬の約束を交わしても誰にも――自分以外には――怒られまいと、そう思うほどには。


駅前の小さな広場に、私よりもちょっと背の高い黒髪がさらりと揺れる。黒いストレートの長髪は、大学二年生にしては厚ぼったくもあるけれど、その後ろ姿は高校の頃から変わらない彼女だということを示していた。

白いロングのワンピースが夏の空に良く似合う。ここに麦わら帽でも被せると、野原を無邪気に駆けまわっているイメージが湧くけど、今の立ち姿はどちらかと言えば木陰で静かに本を読んでいる方がしっくりくる。広い広い草原のど真ん中に一本だけ生えた大きな樹に寄りかかりながら、きっと人気のない古書店で見つけたような古いファンタジィの小説を読んでいるのだ。

明るい布地と暗い髪色に、駅前広場の植栽と深い青空。それらのコントラストがこの女性を景色から切り取るようにしてより一層魅力的にしていた。

「あら、紫織」

靴音に気付いた彼女が振り向いて目を合わせた。すらりとした手脚を目で追う私の前で、私よりも幾分か大きなバストが揺れる。

「ごめん、待った?」

「えぇ。三十分ほど。こんなにゆっくり街並みを眺めたのも久しぶりだわ」

私がおそらく二十分ほど遅れてしまったことを考えると、彼女――文香は待ち合わせの十分前にはこの広場に立っていたことになる。文香はめったに遅刻することのない真面目な性格だから、私の遅刻も心から許しているわけではない、と思う。

「本当に、ごめんなさい」

「いいのよ。この頃、少し忙しなかったからちょうど良かったわ」

じっと立っているのは暑かったれけど、と黄色いチェックのハンカチで軽く額を拭う。

「紫織は、今日も寝坊?」

「えっと、うん……まぁ、そんなところかな、えへへ」

「いつものあなたらしいわね」

高校の頃を思い出すわ、と言ってから彼女はくすりと笑った。

私は朝が弱くてよく遅刻する癖がある。彼女はそのことを言ってるはずだけど、まさか流石に一年ぶりの待ち合わせで遅刻するほどの悪癖のつもりじゃない。

でもわざわざそれを否定してまで、実は緊張していて家を出ようとしたあたりで体調が悪くなっていた、とも言えなかった。

「それで、今日はどうしたの?」

「どうした、っていうか……久しぶりに会いたくなった、だけ?」

夏の陽気に後押しされて、あなたに会いたくなりました。はっきりそう言えればいいんだけど、そんなのはきっとただの気障な台詞か下手な言い訳にしか聞こえない。

「そうなの。予想が外れちゃったわね」

「予想?」

「あなた、悩んでる時はいつも『ゆっくりお話したい』って言っていたから」

だから、てっきり今日も悩み相談だと思っていたの。と、また小さく笑った。

私は図星を突かれたような気がして、思わず口に手を当てる。もちろん、一週間前に受話器に向かっていたこの口を塞げはしないけど。

「とりあえず喫茶店で落ち着きましょうか。ここはおしゃべりには暑すぎるわ」

歩き出してひらりと舞い上がる白いワンピースが、一緒に付いて回る艶めいた髪と共に夏の熱気を巻き上げる。ふわり、と柑橘の匂いがした。

「お店は任せるよ。ここらへんには詳しいんだよね、ふみ……」

それに着いていこうとする私の動きが止まって、言葉が止まって、そのせいで服が張り付くようなじとっ、とした嫌な汗が急に気になってくる。

「……紫織?」

「えぇと、その」

一年以上連絡も取っていない友人に、私の手は届いているのか。彼女は私に手を伸ばしてくれているのか。分からなくなった距離感に一瞬言葉が詰まる。名前で呼んだり、遅刻したり、こんな馴れ馴れしくあっていいものなのか。

「……佐々木、さん」

彼女が求めていることと、私がしたいことと、私がしなきゃいけないこと。ぐるぐるとしたせめぎ合いの中で、私の視線は行く先を失う。どれも選んでも、しっかり見つめることなんてできない。

こういう時に綺麗な空が広がっていると便利だと思う。

「あら。もう、文香って呼んでくれないのね」

「だって、私、佐々木さんに……」

彼女は私に背を向けたままだ。ワンピースの半紙にするりと黒髪の筆が下りて、そのまま墨の波紋を広げていく。描かれた黒い波紋が世界を覆っていくことを思いながら空に視線を遣ると、私の目には黒か灰色か分からない曖昧な空の色が映った。

「何を気にしているかは分からないけど、あなたの好きなように呼ぶと良いわ」

それから彼女は振り返って、私は、と言葉を区切る。小さく前に出るのと一緒にヒールがタンッ、と茶色いレンガの舗装を鳴らした。

「私は、あなたに名前で呼ばれるの、好きだったけど」

鋭く私に向かう視線に応えていると、街の雑多な音が全部かき消えて風と蝉の声だけになる。そういう空気が前から後ろから私を通り抜けて、辺りいっぱいに満ちていくことに妙な高揚や興奮を感じてしまって、思わず彼女を見つめてしまうのを止められない。

「あなたはどう? 紫織」

「私も名前で呼ばれるの、好きだよ。ふ……文香ちゃん」

「なら、良かったわ。お揃いね」

嬉しいわ紫織、と再び私の名を呼ぶ声が、じわーっと、心に温かいものを注いでいく。

「文香、ちゃん」

「どうしたの? あなたも何だか嬉しそうね」

普段から頭の中では繰り返している彼女の名前なのに、そう口に出して呼んだだけで何だか頬が熱くなる。なりふり構わず大声で、全部夏の暑さのせいなのだと誰にともなく誤魔化してしまいたい。

「ね、紫織。また、アヤと呼んでもいいのよ」

「……えっ?」

「変なわだかまりがあるのは嫌なの。なんなら私もまたシオちゃんって――」

呼びましょうか、と言ったあたりで私は思わず言葉を遮ってしまう。

「や、やめてよ!」

まばらな通行人のいくらかがこちらを一瞥して、またそれぞれの歩みに戻っていった。喜びに満ちた高揚にちくりとした後ろめたさが差し、それらが全部まとめて萎んでいく。

昔の呼び名ほど、あの頃の二人を思い出させる名前ほど、聞きたくないものもない。聞きたくないだなんて、そんなこと私が言っちゃいけないのかもしれないけど。

「そう、残念ね」

じゃあ今度こそ行きましょうか、と歩き出す文香。さらりと流したのは全く気にしていないのか、それとも私を気遣ってくれているのか。どちらにせよ、今の私にはわざわざ呼び止めてその真意を訊くような厚かましさも勇気もない。こうして二人で歩けているだけで、幸せなんだから。

不意に自分から出た大きな声のせいで、ばつ悪く文香の後ろを付いて歩く私の中では、シオちゃん、という声が何度も繰り返されていた。


老舗の喫茶店みたいなものを想像していたけど、喫茶店と言われて連れて行かれたのは私も良く見知ったチェーンのお店だ。店員に二言三言注文を告げてから、文香と丸テーブルを挟んで向い合う。

「そういう『街の喫茶店』は煙草臭いのよ。煙草を吸う常連さんに甘いところも多いし」

煙草の匂いは好きじゃない。上着も鼻もすっかり煙草で塗り替えられていくのを止められないあの無力感が、ずっと鼻に残ってしまうから。

「そういう喫茶店、何度か出入りしていたんだけど、すぐにやめてしまったの」

文香が煙草の世界と親しくなっていたかもしれないという想像をかき消され、私は少しだけ安心した。文香には物憂げに煙草を吸う姿もきっと画になってしまうから、その想像は少しだけリアルに浮かんでくる。

分煙がちゃんとしてるチェーン店の方が居心地は良いわ、と言って彼女は金色のスプーンでコーヒーを軽く撫でる。立ち上る湯気が渦を巻いて私にも香りを届けていく。

「どうしたの? 私がブラックのコーヒーを飲めないの、知らなかった?」

文香が、シロップを注がれたカップを見つめる私に不思議そうに声を掛ける。私は慌てて自分のカフェラテを啜ってみせた。

「ううん、それは知ってるけど……コーヒー、いい匂いだなって思って」

「心が落ち着くいい香りよね。永遠に冷めなければ、飲まずにずっと楽しめるんだけど」

コーヒーを飲んでいる文香の様子が目に入って、それだけで不思議なことに香ばしくて心地良い匂いが更に強くなったように感じる。

「はしたないかもしれないけれど、良かったら飲んでみる?」

「え、えっ?」

「随分と熱い視線を送ってきてるみたいだから、飲みたいのかと思って。いらない?」

ちょっと甘くなってしまっていると思うけれど、と文香が差し出すカップから見える黒い水面に、窓からの日差しが反射してキラリとした。全国どこでも飲める味のはずなんだけど、今だけはとても手の届かない高級なコーヒーに見えてしまう。

「うん。ありがとう、文香ちゃん」

カップを受け渡す時に軽く触れた文香の指に、びくっと人知れずどきどきしながら、私は揺れる水面をじっと見つめる。時々ゆらゆらときらめくこの動揺が、私の手から与えられていることを意識すると、私の心をすっかり丸ごと見られているような視線を感じて余計に手が震えてしまう。

それを悟られないように、ゆっくりと、ゆっくりと、口を近づけて。

そうして、カップにちゅ、と口づけをした。陶器のように透き通る文香の唇に。

「甘い……」

「やっぱり、ちょっとお砂糖入れすぎちゃったわね」

「……そうかもね。すごく、甘いよ」

文香と私の唇が重なったところに少しコーヒーの色が残っていて、味見が終わってからも私はどうしてもその白いカップの縁から目を離せなかった。

そこにキスをすると、何度でも痺れるような甘さを感じられるような気がしたから。

「紫織?」

文香に呼びかけられて、慌てて我に返る。薄手のコーヒーカップとソーサーがぶつかって、コーヒーがゆらりと大きな波を立てた。

「あっ、ありがとね! コーヒー、美味しいね」

「もういいの? 遠慮しないで、もっと飲んでもいいのよ」

私もカフェラテを貰うから、と、文香はテーブル越しに軽く身を乗り出した。伸ばされた彼女の手が厚手のカップに触れて、からこっ、と音を立てたあたりで、私はひゃっと素っ頓狂な声を上げてしまう。

「あら、いけなかった?」

「ち、違うの。ダメってわけじゃ……むしろ、その……いいよ、私も貰ったもんね」

「そう? ありがとう。なら、いただくわ」

大丈夫よ。別に普通のコトだから。まるで私にそう言い聞かせるかのように、文香は実に自然な仕草で私のカフェラテに口を付ける。

友人同士の回し飲みなど普通のことのはずなのに、なんだか恥ずかしくて見ていられない。文香がゆっくりカップを置いたその音で、飲み終わったことを知る。

「カフェラテって、ミルクがコーヒーを抱きしめているみたいで好きよ」

「私も……好き、だよ」

持ち手に人差し指を当ててくるりとカップを回すと、ミルクの模様が少し歪んで、それから元に戻る。カップに付いた重なる二つの唇の跡を見つめながら、ふわっと立ち上るミルクとコーヒーの香りを吸い込んだ。

「紫織、大学は楽しい?」

「なぁに、急に。お母さんみたい」

大学では特に変わったことがない。サークルに打ち込むわけでもなく、普通に講義に出て、数人の友達とご飯を食べて。たまに抜け出して、みんなで遊びに行ったりする。学生らしく、学問に生きているとは言いがたいけど。

できることなら、文香と一緒の大学に行きたかった。そうしたら、もう少し変わった生活ができたかもしれない。私がせめて高校卒業までの間、彼女と上手に幼馴染をやりきれていたのなら。

「今日の紫織は、何だか私の知ってる紫織とはだいぶ違うみたいだから。大学で何かあったのかと思って」

文香ちゃんだなんて幼稚園の頃みたいね、と笑いかける彼女に、私は笑顔で答えられない。おどおどとした追い詰められるような後ろめたさを見透かしているのだとしたら、多分それのことだ。

「それに、少し見ないうちに随分髪が伸びたみたい。卒業式の時はこれくらいだったのにね。明るい髪色は変わらないけど」

彼女は肩のあたりで手を横に振って、私がボブカットだったことを示す。少し、と言われて私はむっとした。

「文香ちゃん、少しって言うけど、私達、一年以上会ってないんだよ?」

「知ってるわ。一年か二年くらいのことだから、少しって言ったのだけど」

心がざわついた。きっと私がこのカフェラテだったら、全部零れてしまうくらいに。

ざわざわと私の心が音を立てて、差した影から黒いところがゆらゆらと這い出てくるような気持ちがした。

「一年が少しって、おかしくない? 私は、ずっと文香のこと考えて、会いたいなって思ってたのに。文香は、私のことなんて思い出しもなかったの?」

「紫織? 怖い顔をしているけど、大丈夫?」

気付くと文香が椅子から立ち上がっていて、私の顔を覗き込んでいた。

「あ……ご、ごめん! 私のことを思い出せだなんて、私が言っちゃいけないのに」

「あなた、何か勘違いしているようね」

「……勘違い?」

私が聞き返すと、文香は、えぇ、と答えてまた静かに椅子に座った。

文香はいつも冷静で、じっと私を穏やかに見つめてくれる。私の暴走しかけていた感情が徐々に収まっていって、いつの間にか頬が濡れていることに気付いた。これは確かに、文香が心配するはずだ。

「私、あなたが思ってる以上に紫織のことを大事に思っているわ」

「だい、じ……?」

半分ほどになったカフェラテに、ぱっと波紋が広がる。それから私は何も言えなくなってスカートを握りしめ、下を向いてじっとその皺を見つめた。

「えぇ、そうよ。大学生の間も、社会人になっても、お互い結婚しても、少なくとも私は一生のお付き合いをしていくつもりでいるわ。そう考えると、長い一生に比べたら、一年なんて瑣末な時間だと思わない?」

答えの決まっている問いかけに、私は無言で応えることしかできない。文香は少し冷めたコーヒーを飲んで一息置いてから、それにね、と言ってまたゆっくりと喋り始めた。

「あなたは覚えているかしら? 紫織が私を避けるようになってから数えるなら、そろそろ二年が経つのよ?」

毅然とした口調が耳に響く。あの日の、夏の出来事が思い出されて視界が揺れた。

「高校の卒業から数えるなら、確かに一年と三ヶ月が経ったわ。でも、卒業式でちょっと声を掛けたくらいで、私が取り残された時間をリセットできると思う? それじゃあまるで、高校時代の私との関係が丸ごと無かったことになったみたいで嫌だわ」

「あ……うぅ……ふ、ふみ……か……」

彼女の言葉を聞いて、驚き、悲しさ、悔しさ、嬉しさ……色んな感情がぼろぼろと溢れだしていく。

「ごめんなさい。追い詰めるつもりはないの。あなたもあなたなりに考えていたのよね」

「ち、違うの。これは、安心しちゃって」

「安心?」

「文香ちゃ……文香は優しくて、突然連絡しても、こうして何も言わずに会ってくれるから。実際に会うまでは、誘いを受けてくれてすごく嬉しかったんだけど」

私は顔を上げて、流れる涙も気にせずに彼女を見つめる。きっとひどい顔になっていることだろう。

「やっぱり、あんなことをしておいて、本当に会って良いのかなって思っちゃって」

あるいは実はもう私のことなどとうに忘れていて、二人の間に何があったかなんて気にしてないのかも、とも思った。忘れる――数年で私の記憶が本当に無くなるとは思ってないけど、記憶に残っていることと、彼女の中に私が居続けていることとは違うから。

「でも、私の考えすぎだったって分かったから。安心して、落ち着いて、そのせいでまた涙が出ちゃったの」

えへへ、と目尻の涙を拭いながら文香に笑いかける。

「私もね、あなたから連絡が来るまでは同じようなことを感じていたわ。突然部活に来なくなったと思ったら、最近まで会話どころか連絡一つもないんだもの。嫌われているか、そうでなければ忘れられているか、でしょう?」

窓から差す夏の陽射しがぐっと強くなって、窓枠の影が木目にくっきりと映る。

「私はあなたみたいに感情豊かになれないところがあるから、あんまり信用してもらえないかもしれないけど、私だって寂しかったの」

今はむき出しの感情をぶつけられて、実はすごく嬉しいのよ、と笑ってみせたけど、そこに何かを含んでいるように見えた。

彼女は感情豊かになれないとは言っているけど、実は文香は感情豊かな娘なのだ。でもそれは、高校生だった頃の私の目に映る文香だったから。ずっと彼女から離れていた今の私には、それが微妙な表情だとは分かっても何かを読み取ることは無理だった。

「私は紫織を忘れたりしないし、あのこともずっと覚えているわ。あなたは、どう?」

あのこと、と、言われて重いものがのしかかる。

「私も、忘れてないよ。全部、ちゃんと覚えてる」

脳裏に浮かぶのは、必死で抵抗する制服姿の女の子。今も変わらないあの長髪が薄暗い部室の床に散らばって綺麗に広がる様子が一瞬再生されて、すぐにかき消された。私が心の奥底にずっと抱いている、文香への後ろめたさの根源。

「お互いに少し、すれ違っていたのかもしれないわね」

「ごめんね、文香。私が、距離を置くようなことしちゃったから」

「あまり気に病むことはないわ。一年以上経っても、実際こうしてまた会えたんだし。改めて、今日は誘ってもらって本当にありがとう」

私こそ、来てくれてありがとう。そう言いたかったけど、どうしてだろう、口に出そうとするとまた涙が出そうになって言葉を飲み込んだ。言わなくても分かってくれればいいのに。ずっと昔の私達は、そうだったから。

「私はあなたを待ってばかりね。いつも」

彼女が差し出すおしぼりを目に当てると、冷たく、じーんとして。その冷たさを補うかのように、溢れずに残った涙が熱く染みこんでいくのを感じていた。


喫茶店を出た私達は、三つほど店を巡ってから駅まで戻る道を歩いている。これは文香による街の紹介も兼ねていた。文香は実に楽しそうに店を案内してくれて、彼女自身いろいろな商品を買って回っていた。いくつか迷った中から精選したと言っていたから、本当に好きな店なのだろう。

河川敷では、時折サッカーボールを蹴るドカッという音が響いてくる。駆けまわる小学生を横目で見ながら小気味良い音を聞いていると、何だか妙に落ち着いた。この土手の道が永遠に続いていて欲しいような、ずっと彼女とゆっくり歩いていたくなるような、そういう気持ちになる。

「今日で変なわだかまり、なくなったかな?」

「紫織はどう思う?」

「それなり、かな」

「じゃあ、それなりなんでしょうね」

やっぱり胸に残る後ろめたさが残っていては、わだかまりが消えたとは言えない。

でも、このもやもやを全部文香にぶちまけてすっきりするのも、私の迷惑なわがままだと思うとそんなことできなかった。

歩いているうちに世界はどんどん橙色に染まっていく。空の下方に広がってぐっと濃い影を残す水平線のような雲が、私を押し流そうとする大きな波にも、今にも崩れそうな大きな山にも見えてくる。

「夕日をゆっくり見るの、結構久しぶりかも」

「なんだか今日は、夕日がいつも以上に輝いて見えるわ。誰かと感動的な景色を共有するのって、心躍るものね」

文香が立ち止まって眩しそうに空を見つめた。私も横に並んで目を細めてオレンジのパノラマに向き合う。

「私ね、大学で水彩を始めたの」

「水彩?」

「そう、アナログでね。なかなかいいものよ。心意気が変わると、道を歩いているだけで色んな風景が気になってくるの」

頭に浮かぶのは、文香が彼女の身長ほどある絵筆を軽々と振り回して軽快に舞う姿。周囲の真っ白けな線画の空間が、すらりすらりとなぞられたところから立ちどころに色づいていって、鮮やかな世界が辺り一面に広がっていくのだ。

「へぇ、楽しそう。私も見てみたいな、文香の絵」

文香の世界の投影は、強すぎる光を放って私を焼け焦がしてしまうかもしれないけど、それでもいい。彼女の目に見える景色は、きっとあらゆるものが輝いて見えるのだろうと思う。私が文香を見ている時のように。

「そう? だったら今度、良かったらあなたのお家で描かせてもらえないかしら?」

「わ、私の家で? 散らかってるよ?」

「それでもいいわ。紫織が普段見てる景色を、私も見てみたいの」

「別に、普通の景色しか見てないよ? そんな、わざわざ来るほどのものじゃないっていうか。あっ、別に来てほしくないわけじゃないんだけど、電車代だってかかるし――」

ぐるぐると回る私の口の暴走を止めるように、文香が言葉を遮る。

「そんなに慌てなくていいわ。無理に押しかけたいってわけじゃないの」

「えっと、その……絶対掃除するから。それから、ね?」

「分かったわ。機会があったら是非誘ってね」

いくらかの沈黙が流れた。

悪いことをしてしまったな、と思う。文香はこんなに近づいてきてくれるのに、どうして私は彼女に向きあうことができないんだろう。私は勝手に独りよがりで抱え込んでばかりで、こうすることがきっと彼女のためになると信じきっているみたいだ。

「ねぇ、文香。私、気にしすぎてたのかな」

「そうかもね。私達はそれぞれあんまり変わってないのに、お互いは変わったと思い込んでいたのかしら」

それから、紫織の髪は伸びたけれど、と戯けてみせた。

文香は何も変わっていない。私から見る限りの内面と外面では。たとえ、私には教えてくれない想い人に心を奪われていたとしても、ワンピースの下に私には教えてくれない恋人に乱暴をされた傷があったりしても、それは分からないけど。

彼女がずっと変わらずに、手を広げて私を待っていてくれればいい。もしそうなら、何も心配する必要がなくなるから。同じポーズをしている人形のように、ずっと私を見ていてくれたらいいのに。

「それにしても、紫織、どうして髪を伸ばしたの? ずっとショートだったじゃない」

「うーん。深い理由があるわけじゃないけど、なんでだろうね?」

「忙しくて、切るのが面倒になっちゃった?」

文香が顔の前で髪を切るジェスチャーをする。右手をチョキにして、ちょきちょきと。

「ふふっ。私、そんなにズボラじゃないよ」

理由なんて初めから自分の中で分かっているけど、告げるかどうかはまた別だ。

どんどん鼓動が早くなるのが分かる。言うのなら、あくまで軽い感じに、流すように。

「文香みたいになりたかったのかも。そういう綺麗な黒髪にはなれないけど」

もっと言うと、寂しい思いをしている私に、彼女の面影を与えてくれるかもしれないと思ったから。

私の中で、憧れは恋と不可分だ。あの娘になりたい、こうなりたい、女の子同士のそういう憧れは恋愛と地続きになっていると思う。男の子と女の子は互いに持つことのできないものを求め合うけど、女の子同士は互いに持ってるものに近づくことができるから。

これは憧れの吐露だ。綺麗な友人へのただの憧れ。でも、同時にこれは――

「あなたは、私にはなれないわ」

――だから、そういうことを言われると全部否定された気がしてしまう。

一度涙が出た日はちょっとしたことでまた泣いてしまいそうになる。せっかく晴れた日に乾いたアスファルトを汚すのは嫌なので、できるだけ明るい声で答える。

「そんなこと言わないでよ。私だって綺麗な大人の女性に憧れたりするのに」

「だって、私とあなたは違うし、あなたと私は違うのよ?」

「それは、そうだけど」

分かってる。でも、文香が手に入れられないのなら、せめて彼女に近づきたい。少しのチャンスにすがりついて文香を渇望してしまう。

「ねぇ、紫織」

と、文香が私の手を引いた。その手にぐいと引き寄せられて、私達はしかと向かい合う。彼女は私の手を握ったまま、もう片方の手で私の髪にそっと触れた。横から射してくる夕日がやけに眩しく感じる。

「私だって、あなたにはなれないの。だから、ずっとそのままでいて。私になんか、なろうとしないで。私になりたいだなんて、そんな悲しいこと言わないで」

「ふ、文香。恥ずかしいよ」

瞳に広がる小さな宇宙をしっかりと見つめることのできる距離。ほつほつと模様を刻む虹彩のリングが、私にはこの上なく整った芸術品のように見えてならない。

私より少し大きい文香が私を見下ろすようにして、美しい瞳で私を射抜く。

「紫織。綺麗だわ、とても。あなたも、あなたと一緒のこの空も」

いつの間にか河川敷からは誰もいなくなり、静かに響く足音と、時折風になびく葉や枝がぶつかりあう音の他には何もなくなった。

風が吹く。黄色いシトラスの匂いが吹き飛んで、辺りに緑の香りが敷き詰められた。

明るい茶色の私の髪に、文香の黒い髪が重なる。そこに夕日が射してきらきらと輝く。文香と一緒の時しか見られないこの景色は、彼女まで輝いているように見えるほどに眩しい。橙の光が頬に射した文香の笑顔は、私の頬まで赤くした。

2

家に帰ったら、まずしなきゃならないことがある。

「ただいま、アヤ」

それは、アパートで待つアヤにただいまの挨拶をすること。

「やっぱり暑いね。アヤは大丈夫だった?」

ドアの隙間から外に出られなかった湿った熱い空気が辺りをぐるぐるしているキッチンを通り抜け、私はそのまま自室に入った。

私の家には部屋が二つにエアコンが一つしかないから、帰ってきたら間仕切り扉をガラリと開けてアヤの部屋から涼しい空気を貰うのだ。白く塗られたアルミの扉がひんやりとして気持ちいい。

「ちゃんとエアコンは動いてたみたいね」

「私? 大丈夫。暑かったけど、文香と一緒にいたからあんまり気にならなかったよ」

ずっと歩いていたせいか、立ち止まると額に汗が滲み出してしまう。その上を、冷たい空気がさらさらと流れていくのを感じる。

「寂しかったよね、ごめんごめん」

彼女の部屋はシンプルだった。勉強机とベッドとガラスのローテーブル。テーブルは水色のカーペットの上に。高校生になってから三十二型のテレビも入っていたのでそれも。もっとも、テレビは彼女の希望ではなくて入学祝いに親戚に貰ったものらしく、ほとんど使われることはなかったけど。

勉強机は小学校から、テーブルは中学校から、ベッドも小学校からだって言ってた。だから本当の彼女の部屋はここにはない長年の生活感に覆われていたけど、ここだってあの頃の、高校生のアヤの部屋だ。

ローテーブルに向かっているアヤは、朝に私を見送った時のまま寸分も違わない。

すべすべとしたシリコーンの肌も、すらりとした腕も脚も、綺麗な黒いストレートヘアも、桃色に艶めいた唇も、爪の一枚一枚すらも、等身大の彼女は私のことを待っていてくれていた。

彼女がいつも着ていたレモンイエローのルームウェアに身に包んだ涼しげなラブ・ドールの茶色い瞳が、ずっと私に向けられている。この瞳は、今日見た彼女のものとは全く違うけど、これは私の中にいる彼女だから、これでいい。

「ね、アヤ。私、明日までのレポートがあるから一緒にやらない?」

ここだけはずっと時間が止まっていて、私も高校生のままでいられる。

「アヤはもう終わってるんだ。やっぱ計画的にやらなきゃダメだよね」

「分かってるって、もう。テスト期間くらい把握してるよ」

私もノートを広げる。何の変哲もない学習ノートには、誰にも見せられないアヤとの妄想日記ばかりが書き綴られていた。

私とアヤは両想いで、放課後はいつも一緒にいる。

抱きしめたら、恥ずかしそうに抱き返してくれた。お互いを見つめながら「好き」って言い合っていたら、一時間が経っていた。アヤは今日も良い匂いがする。

すりすりすると、シオちゃんは甘えん坊なのね、と言って一緒に寝てくれた。私達はキスをして、朝までぐっすり眠るのだ。

「明日の放課後は何しよっか。毎日図書館で勉強するのも飽きちゃった」

「課題もないし、またゆっくりお喋りしたいな」

「えっ、明日も来ていいの? うん、うん……そうだね、新作のお菓子も出てたし」

「分かった。買ってから持って行くね」

そこから会話が思い付かなくなって、ノートを駆ける手も止まってしまった。他愛もない会話を妄想するには心がざわつきすぎていたから。

「ねぇ、今日のってどういうこと? 変だったよ、今日のアヤ。アヤを欲望のままに襲っちゃうような私に、あんな柔らかい笑顔見せちゃってさ」

もしかして、アヤは私のことが好きなの? それって、私の好きと一緒?

私の中にアヤは二人いる。私と離れて今を生きる大学生の文香と、私と仲良くしてくれていた高校生のままのアヤ。今日は心がその二人に包まれて私は幸せ者のはずなのに、どうしてか私の心は不穏な揺れが止まらなかった。

「一生のお付き合いとか、寂しかったとか。それにあんな、キスの距離なんて……」

親友なら普通よ、と言われるかもしれないけど、そんな答えが欲しい訳じゃない。

彼女が家にやってきたのは、一人暮らしを始めてしばらく経った頃のことだ。

私は高校生の頃に、文香に顔を合わせられないようなことをしてしまった。か弱い少女に、自分勝手な欲望をぶつけたのだ。

それからは私は文香とほとんど話さなくなってしまったし、彼女がいる部活にも行かなくなった。文香とは違うクラスだったので、部活にさえ行かなければ不意に出くわすこともなくなった。

だから大学に進学してとうとう物理的に離れても、悲しいかなきっと心境に変化はないだろうと初めは思っていた。ところが、予想外にもその離別の事実は私の心にぽっかりと穴を開けていたとじきに気付くことになる。話せなくてもすぐに手の届くような距離にいる、というだけで私は穏やかでいられたのかもしれない。

ずっと一緒だった幼馴染のことを忘れられなかった私は、どうにかしてそれを紛らわさなければならなかった。現実と真正面から向き合うには、私の心は弱すぎたから。

そんな時に現れたのが彼女だった。一目見て、文香だと分かった。初めは当然気持ち悪さが勝っていたけど、結局どうしても文香の模造品を手放すことはできなかった。

どこから来たか? どこから来たんだっけ。思い出してみると、朝起きたらいつの間にかそこにいて、ずっと私を見つめてくれていたような気もする。きっとそうだ。

現実から逃げて精神を保つにはあまりに歪んだ手段だったけど、これさえあれば私は外で前向きに生きていける。私はこの過去を留めた後ろ向きなジオラマにあまりにも依存しすぎていた。

だからこそ、しれっと平気な顔をして文香に会おうとした自分の行動も、予想外にもそこで得た文香の好意的な反応も、私の心をかき乱す。

私のこの想いさえ心の奥に押し込められさえすれば、また二人で心から笑い合える日が来るのかもしれない。もうこんな歪んだ生活は必要なくなるのかもしれない。それはとても嬉しいことのはずなのに、そういう未来の果てにあるこの空間からの離脱を空想するだけで、きゅうと胸の辺りが痛み出す。

「聞いてる? 私さ、アヤのこと大好きだよ。一生、ずっと一緒にいたいの。親友とか、そんな言葉で誤魔化す気はないから」

私がどんなに抱きしめても、彼女の腕はそれには応えてはくれない。聞こえてくるのは金属の骨格が軋む音ばかりで、私に愛の言葉は届いてこない。

「すき、すきだよ……うぅ……アヤ、私、もっと……」

冷たいシリコーンの身体に、熱い涙は染みこむのだろうか。私の涙を全部吸い取って、彼女に魂が宿ればいいのに。そうして目覚めてから不思議そうに私を見つめる彼女に、私の唇の熱を流しこむのだ。この熱が彼女の身体に広がって、私の愛を知ってほしい。私も好きよと囁いてほしい。もっと私を熱い視線で見つめて欲しい。

シオちゃん、私、あなたが思ってる以上にあなたのことを大事に思っているわ。

「寂しいよ……ねぇ、文香……」

じわりと身体が熱くなる。ゆらゆらとした感情の波が、心の縁を越えてとろとろと下着の辺りに零れていく。

「私のことが大事だなんて、どうしてそんなこと言うの?」

「文香も、私がいなくて寂しいんだよね? だから大事って言ってくれたんだよね?」

そう言いながら、いやらしいところに手が伸びる。もっと、もっとと、彼女を巻き込んで身体を激しく揺らす。

「じゃあ、言って。言ってよ、好きだよって。私の目を見てよ……アヤ」

ふふ、シオちゃん。ありがとう、私も好きよ。

「んっ……アヤ、やだよぉ……すき、すきっ」

泣きながら溢れる体液は、私の意志ではもう止まらない。私は親友を模した人形に発情するような、いやらしくて、気持ち悪い人間だから。

「あぅっ……もっ、もっとして……ねぇ……文香ぁ……っ」

私の手でしか動かない人形は、私がいなければ何もできない。彼女にしか寂しさをぶつけられない私も、彼女がいなければ生きていけない。本当は一方的な私の情欲のはずなのに、まるで複雑に絡まった綺麗な共依存のように見えてしまう。

寂しいのに、この感情さえあれば目の前の親友と繋がっていられる。そういう意識が私をじわじわと興奮させる。その不思議な関係が私にはとてつもない快感だった。

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