ストロベリィドール 3

/* この作品はストロベリィドールに収録されています。 */


4

夏の夜に包み込まれた部屋で、私達はベッドの上にいた。

シャワーを浴びているうちに長くなると思っていた雨はもう止んでいたらしく、辺りはすっかり静まっている。陽が沈んだ後はエアコンの動きも弱くなって、隣の部屋も静寂を保っていることだろう。

向かい合ってベッドにぺたりと座る二人。自分の荒い息遣いと、文香の静かな息遣いだけが純粋に混じりあって、一つの曲のようにも聞こえてくる。

と、文香が私の頬に手を当てて自分を見るように促した。シャワーを浴びてすぐの熱い頬がひんやりとして気持ちいい。

彼女はそろそろ始めましょう、と言わんばかりに真剣な目をしている。

「ふ、文香。やっぱりこんなの、恥ずかしいよ」

「今さら? 私なりに、きちんとお誘いは出したつもりだったんだけど」

お風呂あがりの上気した顔で、文香は小首を傾げた。彼女は自分で持ってきた黄色いチェックの綿パジャマに身を包んでいる。前開きの長袖のボタンは上二つが開けられて、たまにちらちらと覗く胸元の白い肌が眩しく見えた。

どうして着替えがあるのと訊いてみたら、準備がいいでしょと笑うばかりだった。始めからこうなることが分かっていたのだろうか。

「やっぱり、お人形としてるようなことでも、私とするのは恥ずかしい?」

「だって、セフレとか良くないって言ったその日に、これだよ?」

なんか私が流されやすい女みたいで嫌だ。もちろん文香が相手だからなんだけど。

「本心からの反論じゃなかったってことでしょう? 紫織はえっちだから」

「文香には、純粋な乙女の気持ちが分からないよ」

「優柔不断な恥ずかしがり屋を乙女って言うなら、そうなのかもね」

くすくすと笑いながら、文香は私の頬から手を離して言葉を続ける。

「じゃあ、紫織が恥ずかしくないように私から脱ぐわね」

そう言って、文香は自分のパジャマのボタンに手を掛けた。ぷつぷつと錠前が一つずつ外されていって、徐々に黄色い布地の下に隠れた白い肌と淡い色の下着があらわになる。

「あ、あ……」

ちらりちらりと、ほんのりと赤くなった肌が見える度に、私の目がそちらに向いてしまう。文香もその視線が分かっているらしく、ボタンをゆっくり外したり、時折裾をめくったりして私を焦らす。へそやくびれたウエストラインを見せつけられて挑発される度に、シャワーのせいでほかほかとした私の身体に別の火照りが加えられていく。

ボタンが全て外されると、文香は最後にするり、と腕を抜いてすっかり上着を脱いでしまった。腕から肩にかけての美しい白いラインに、私は溜息が出る。

「文香、綺麗……」

「やっぱり、あのお人形とは違う?」

「当たり前だよ。文香のほうが、もっと綺麗」

「ふふっ、嬉しい」

文香の暖かそうな肉体には、人形のそれとは違って何よりも命を感じることができた。文香だってアヤだって、どちらも綺麗だけど、今は文香に見とれていたい。

「さて、私は脱いだけど、紫織はどうするの?」

「……ま、まだだよ文香。脱ぎ終わってないじゃん」

「あら、下も脱いでほしいの? いやらしい。純粋な乙女なんて、よく言ったものだわ」

そう言って文香は立ち上がり、ズボンに手を掛ける。今度は焦らすことなく、一気にその手を下へと引いた。引き締まった太ももやふくらはぎも目に入るけれど、ちょうど顔の高さにあるのは下着に包まれた彼女の聖域だ。

「ふ、文香っ!いい、よね?」

私は思わず文香の股に顔を埋めてしまう。すっかり焦らされて、もう歯止めが効かなくなっていた。鼻から空気を吸い込むと、少しだけ湿った匂いがする。

「させてあげてもいいわ。でも、条件があるの」

条件、という言葉に私は文香の顔を見上げる。蛍光灯の逆光が表情を読み取るのを邪魔した。こうして彼女を見上げて不思議そうな表情を浮かべている間も、文香だけは明るく光の当たる私の表情の移り変わりをよく見ているのだろう。

「私のことは、アヤって呼ぶの。いい?」

そして文香は、その条件を伝える。無理難題を出して諦めさせようというつもりではないらしいけど、それを受け入れるには少し抵抗があった。

「ど、どうして?」

「昔はあなたにそう呼ばれていたんだもの。呼ばれたいって思うのはおかしいかしら?」

「おかしくは、ないけど。じゃあ、人形のアヤはどうするの?」

おかしくはない。でも、あの頃を思い出すのはお互いに辛いことだと思うし、昔のあだ名だとしても今人形に付けられているような名前を欲しがったりするだろうか。まるで生き物でもない人形に嫉妬しているみたいに。

「私がいるのに、お人形さんのことを考えてるのね」

「そ、そうじゃないよ。ただ……」

「いいわよ。紫織がそんなにお人形とえっちしたいなら、今日は諦めるわ」

迷っていると、文香が脅しにも近い言葉で私を突き放そうとする。興奮しきった今の私に、おあずけの宣言は脅しでしかない。文香にもそれは分かっているのだろう。

物理的に見下されている状況が、そのまま二人の力関係になってしまったみたいだ。

「あ、アヤっ!早く、しよ?」

「いいわよ、シオちゃん。疲れちゃうから、座ってもいい?」

私は媚びるような甘えた声で彼女に擦り寄った。口から出たアヤという名も、返ってきたシオちゃんという声も、私の中を駆け巡って胸を締め付けるような快感をもたらす。

太ももに回していた腕を離すと、アヤは立ったままパンティを脱いで、それから私の前に脚を開いて座った。

あらわになったアヤの秘所は、いやらしくてらてらと濡れていた。私の視線に興奮してくれていたのだろうか。一舐めすればいくらでも甘い露が溢れてきそうな光景に共鳴したせいか、私の器からも大きな波を立てた情欲が溢れていくのを感じる。

「ほら。浅ましく犬みたいに這わないと、私の性器は舐められないわよ?」

アヤのそれにむしゃぶりつこうとしたまさにその時、犬みたいに、と言われて私の身体が動かなくなる。急にこの状況が恥ずかしくなった。

「聞こえてるの? 浅ましく犬みたいに這って、私を気持ちよくするのよ」

「ね、ねぇ? せめて、で、電気ちっちゃくして?」

「ダメよ。あなたの姿がよく見えないもの。どうするの? するの、しないの?」

「……し、します」

アヤの攻勢は止まない。結局私は、犬のように浅ましくアヤの性器を舐めることを意識させられながら、それをすることになってしまった。最終的に一番恥ずかしくて、屈辱的な選択肢を選ばされてしまったのだ。

ぺろぺろと、舌で淫らな肉に突付くように舐めまわすと、とろけた汁が口に入ってくる。しょっぱいような、酸っぱいような、甘いような、不思議な味がするけれど、決して嫌な味ではない。いつまでも口で転がしていたくなる。

でも、大事なのはそこではない。私の興奮の根源は、この味自体よりも、屈辱的な快感よりも、むしろアヤの愛液が身体に入っていっているという事実にあった。大好きな彼女と一つになれるかのような錯覚に、私はくらくらしてしまう。

愛おしくなってそこに口付けすると、唇にぬめりが絡みついてそれがまた心地いい。そのぬめりを舌で舐めとると、口の中でまたあの味が広がるのだ。

「唇に付いたのまで舐めちゃって……っふぁ、まるで変態の舐め犬ね」

舐め犬、と言われて身体が熱くなる。舌先まで熱くなってしまったような気がして、それがアヤに伝わってしまわないかびくびくする。

「犬って言われて、興奮しちゃった? 舐め方が激しくなったわ……んっ」

時折漏れるアヤの嬌声に、はぁ、はぁ、と息がどんどん荒くなる。これも犬のようだと罵られることを考えると、余計に息遣いが激しくなってしまう。べろべろとなりふり構わず舐めていると、さっきよりも白くていやらしい蜜が大量に溢れてくる。アヤも気持ちよくなってくれてると思うと、それだけで奉仕しがいがあるというものだ。

「シオちゃん、自分のを触りながら舐めてもいいのよ? 全部見ててあげるから」

ほぼ命令じみた提案に、私は素直に従う。

自分のいやらしいところに触れると、驚くほどに濡れそぼっていた。と同時に、電撃のような快感が一閃し、私は小さな悲鳴を上げてしまう。その痺れるような快楽を求めて手でまさぐりながらアヤの桃色を乱暴に舐め続けると、一人でしてる時とは――人形のアヤとしてる時とも――全く違う快感が体中を駆け巡る。

「ア、アヤぁ……」

「シオちゃん、もう飛んじゃいそう? ずっと焦らしてたもんね」

私はそれには答えられずに、快感の波に合わせて指の動きを激しくする。自分で慰めている下から、アヤのぬるぬるで犯されている上から、駆け上がってくる気持ちよさを全て絶頂のための刺激に回していく。

「っ!あっ!んっ……ぁあ……」

私のいやらしいところから全身にまっすぐ絶頂が突き抜けていって、その残り香が私の全身に残って時々弱いところを突付く。私はその間ずっとアヤの湿った唇にキスをして、その快楽が私を丸ごと覆い尽くさないように舌を蠢かし続けた。

「……っ、ふぁっ……舐めるの、もうやめてもいいわよ。お疲れ様、シオちゃん」

「はぁーっ、はぁっ……」

ばたりと、その場にうつ伏せになる。気持ち良かったみたいね、というアヤの言葉にこくこくと頷きながら、私は肩で息をする。ぞくぞくと、快感の余波が時々身体を走っていくのを感じていた。


目を瞑って快感の波が去っていくのを待っていると、頭の上からかちゃかちゃと音がした。アヤが何かしているらしい。今度は道具でも使うつもりなんだろうか。

しばらくして上を向くと、彼女は右手に何かを持って私を待っていたようだった。

「あれ、アヤ? 何を持ってるの?」

「シオちゃん。今から仕上げをするから、見ていてね」

「仕上げ?」

そう言うと、アヤは流れるように前腕の辺りをつぅとなぞる。それが小さなナイフだと分かったのは、なぞられた線が赤くなり始めた時だった。

「な、何してるのアヤっ!」

「私の血が大好きなシオちゃんに、プレゼントをあげるのよ」

私は慌てて起き上がる。それとは対照的に穏やかな表情をしたアヤは、血の付いたナイフを持たせるにはあまりに不釣り合いだった。

「ば、馬鹿じゃないの!早く手当てしないと」

救急箱を持ってこようとするけれど、さっきまで犬のように必死で動かしていた身体には思うように力が入らない。その間にも、アヤの左腕からは赤い体液がとくとくと流れている。

「あら、舐めてくれないの?」

「そんなことするわけないでしょ、ばかっ!変なばい菌が入ったらどうするのっ!」

「消毒したから大丈夫よ。唾液には消毒効果もあるっていうし」

どうしてか、アヤはすっかり落ち着いた様子で私に腕を差し出してくる。

傷口から垂れようとする雫が蛍光灯の光を反射してきらめいた。それを見た私は、早く手当てをしなきゃいけないはずなのに、ごくり、と唾を飲んでしまう。赤い条を見つめてしまうのをやめられない。

「そういう問題じゃ――」

「もっともらしいことばっかり言うのね。そんなにえっちな目、してるのに」

私の言葉を遮って、アヤはにやりといやらしく笑った。また見透かすような視線で、私自身に私を辱めさせる。

「あっ、シーツに垂れてしまったわ。もう、早く舐めとってくれないから」

せっかくシオちゃんのために出した血なのに、という言葉に、私はどうしようもなく興奮して、とうとう傷口の端から落ちようとしている雫を舐めとってしまった。

「ち、血が収まるまでだからね? ばか。ほんとに」

「馬鹿って言われたの、久しぶりね」

口の中にじわりと鉄の風味が広がる。この雫が、アヤの中をぐるぐる巡っていたものの一部で、今度は私の中を回っていくのだ。こんなに幸せなことがあるだろうか。シーツに二、三滴垂れた血痕を見て、もったいないと思ってしまうほどだ。

今度は傷口をぺろりと舐める。切れた皮膚の感触と、そこから染む体液が舌先に伝わって、私はまたぞくぞくと背中を走る快感を味わった。

丁寧に舐め続けると、段々と血の味がしなくなってくる。最後に傷に沿って一撫でしてから、私は満足して傷づくろいをやめた。

「そう、アヤは馬鹿だよ。私にこんなの、思い出させて」

「私の血の味、しっかり思い出した? 吸血鬼さん」

ちろちろと口の中に舌を這わすと、鼻から残った血の風味がふわりと抜けていく。

「すごく、美味しいよ。アヤの血。誰にも渡したくない」

「案外落ち着いているのね。あの時とはだいぶ違うみたい」

本当はそんなことはない。今だって、もっとなりふり構わずむしゃぶりつきたいけど、どうしてもアヤの意思を無視して襲ったあの時の光景が邪魔をする。

「だいたい舐めきったから、早く手当てしよ?」

唾液って口の中の雑菌が入ってて実は危ないんだよ? 腕から口を離してそう言うと、アヤがすかさずまたナイフを握って最初の傷の近くを走らせた。

「な、何してるの、アヤっ!」

「ほら、まだ傷があるから、もう一回舐めてもらってもいい?」

「ア、アヤ……」

二本目の傷から血が滲みだすのを見て、何故か涙が出た。

してはいけないことなのに、心の底から興奮してしまっている。二条の真っ赤な鎖から目が離せなくなって、まるで私がその鎖に縛られているかのようだった。

もう戻れないところまで来た異常に押し潰されそうになる。視界の中で、笑顔のアヤとその傷口から滲んだ血がさらにぼやけて広がっていった。

「こんなの、おかしいよ……アヤが笑顔で自分の腕を傷つけて、それを私が舐めとっているなんて。こんなの……異常なのに……」

「異常なのに、興奮しちゃう?」

私はそれに答えるようにして、またシーツに落ちようとする血を舐めとった。

「ばかばか。ほんとに……ばか」

「私はあなたが私の血液を舐めて興奮していても、嫌だなんて思わないわ」

「アヤは、自分の腕に傷を付けるの……嫌じゃないの? こんなに綺麗な腕なのに」

そう言いながら見上げると、彼女は私に手を伸ばし、優しく何回も頭を撫でた。立て続けにやってきた非日常の中に突然安心がやってきて、ほぁ、と小さな吐息が漏れる。

「心配してくれてありがとう。でも、言ったでしょ? 何でも差し出す覚悟はあるって」

「何でも、するの?」

さっきもそう言ったわ、と言うアヤを見て、私の中で贅沢な欲望が首をもたげた。彼女の血で口は潤っているはずなのに、次に言おうとする言葉がもたらす緊張のせいか、すっかり口がからからに渇いてしまう。

私は身体を起こして、アヤの肩に手を置く。じっ、と今度は私がアヤを見透かすような気持ちで、その穏やかな目を見つめる。

「じゃあ、私のこと、好きって言ってよ。まだ、言ってないよね?」

「シオちゃん、好きよ。心の底から、大好き」

こうかしら、とアヤがにこりと笑う。余裕そうな姿が、さらに私を必死にする。

「まだ足りないよ。私のことが好きなら、付き合ってって言って。もっと私を求めて」

なんて身勝手なことを言っているんだろうと思う。でも、彼女に対して覚えていた罪悪感は、徐々に消えつつあった。それがいいことか悪いことかは分からないけど。

アヤは少し黙ってから、口を開いた。

「シオちゃん、私と付き合いましょう?」

「う、うん。アヤ、私も――」

私の答えを待たずに、アヤは私を押し倒す。彼女の体液のフルコースを味わってふわふわとした私は、悲鳴を上げる間もなく、アヤにされるがままになって三回目の長いキスををすることになる。ちゅるちゅると愛液よりも甘い汁を流しこまれて、私はまた熱い吐息を漏らすことしかできなくなった。

「ねぇ、シオちゃん。私と付き合ってくれる?」

「つ、付き合いまぅ……ふぁ……」

やっぱりアヤには、勝てない。

5

それから何回か私達は逢瀬を繰り返し、その度に彼女の左腕の傷を増やす異常なセックスをした。アヤは長袖の服ばかり着るようになり、半袖の時も黒いアームカバーを着用している。それも当然だ。出来て数週間も経たない生々しい傷が何本も刻まれているのが見つかれば、すぐに彼女の生活にも影響が出てくるだろう。

彼女はいつも笑顔で自分の腕を傷つけた。まるで痛みを感じていないかのようだけど、傷口を舐めるときに聞こえる小さな悲鳴がそれを否定する。

アヤは、毎回のデートで舐め終わる度にありがとう、と言って私を抱きしめるのだ。私にはアヤがどうして笑顔でいられるのか分からなかった。それでも私の心と身体はアヤを求め、彼女に求められるままに流れる血を吸った。

街の中でも、赤い色を見るとドキドキした。そこからつぅ、と血が流れ出して落ちてしまうんじゃないかと思って目が離せなくなる。

こんな異常なこと、やめなきゃいけない。いつかは誰かにバレてしまうから。そんな時に白い目で見られるのはきっとアヤの方だろう。そう思っても、妖艶な笑みで自分の腕を切りつけるアヤの魅力に、ずぶずぶとハマってしまっていた。

今日もアヤとデートの予定だ。デートとは名ばかりで、いつもホテルか、私の家で抱き合ってアヤを傷つけるばかりだけど。

でも、待ち合わせの時間になっても、アヤは広場に現れない。私が遅刻するのはよくあることだったけど、アヤが遅刻するのは珍しいことだ。


「アヤ、遅かったね」

「ごめんなさい。ちょっと寝坊しちゃって」

それから十分ほど待って、アヤがやってきた。アヤも寝坊するんだ、と言おうと思ったけど、私も完璧じゃないのよ、という声を思い出して言葉を飲み込んだ。アヤだって人間だもん、遅刻くらいする。

「大丈夫だよ。アヤだって、たまにはそういうこともあるよね」

「えぇ。私が完璧なお人形だったら、寝坊なんかしないのに。ごめんね、シオちゃん」

「……どうして急に、人形の話になるの?」

ぽつりと呟いた言葉に引っかかって、私は訊き返す。

アヤが完璧な人形じゃないから謝るだなんて、そんなの変だ。私がアヤを人形の代わりにしてて、アヤがきちんと代わりを務められないから謝ってるみたいじゃん。

「あら、そうでしょう? シオちゃんは私のこと、血が出てしゃべるお人形くらいにしか思ってないじゃない」

「な、なにそれ……やめてよ」

「違うの? 私の腕をこんなにしちゃって」

そう言いながらアヤは両腕をこちらに差し出してくる。長袖を着ているから見た目には分からないけど、私が血をねだって彼女自身に付けさせた、幾条もの傷のことを言っているのは間違いなかった。

「対等な恋人が、こんなことするかしら?」

「それは……」

突き出した腕がそのままこちらに伸びて私の心臓を突くかのような想像を広げさせて、私は何も言えなくなった。

「最初の傷は私がやったことよ? でも、その後に血を啜らせてほしいってねだってきたのはあなたじゃない」

私は、往来の中で私は泣きそうになる。自分の瑕疵を責められて、責任も何もなく身勝手な涙を流す子供のように。

「私の痛みなんて気にしないで、自分の好きなだけ私を舐めまわしちゃって」

「ご、ごめん。私、アヤの気持ちを考えてなかったよね」

今すべきことは泣きじゃくって責めを回避するようなことじゃない。私は頭を下げて、素直に謝罪する。別れよう、か、距離を置こう、か。どちらにせよ調子に乗った私への罰があるのは間違いないだろう。

「でも、いいのよ。私はあなたが好きだから。気にしないで」

「えっ?」

と、思ったら、アヤの口から発せられたのは、意外な言葉だった。

「いい、の……? 怒ってたんじゃないの?」

「どうして、怒らないといけないの? 毎回激しくして、痛くしてくれて嬉しいのに」

頭を上げると、アヤは不思議そうな顔をしていた。

「痛いのに、嬉しいの?」

「そうよ。あなたの舌が傷口に当たると、脳が痺れて痛みを感じなくなるの」

痛いのに、痛くないのよ、と言う彼女の目が少しだけ虚ろになったように見えた。

「ア、アヤ……?」

「私はシオちゃんのことが、それくらい好きなの。ね、シオちゃんは? 私を人形じゃないと思ってくれてるシオちゃんは、私のこと、どれくらい好きなの? 教えて?」

アヤが私を抱きしめて、立て続けに耳元で囁いた。広場のど真ん中でアヤに密着されて身体が熱くなる。

「や、やめてよアヤ。恥ずかしいよ……」

引き剥がそうとしても、アヤは私を離してはくれない。私のことを痛いくらいに強く抱いて、諭すように続けた。

「私は、あなたなしじゃいられないくらい、シオちゃんのことが好きよ? だから、私は人形でいいの。あなたのそばにいられるなら、それでいいの」

「や、やだよ。そんなこと言わないでよ、アヤ」

「シオちゃん、泣いてるの?」

ぼろぼろと、いつもは堪えられるはずの涙が急に溢れ出してきた。私はアヤの腕の中で声を上げて泣き出してしまった。広場にはまだ人がいたけれど、もう耐えられない。

彼女が人形になって私だけを見てくれる、そんな未来はすごく幸せだ。

でも、人形に成り果てたアヤはもう二度と自分の意志で動くことはないだろう。そういう、もう元の場所に帰れない、元に戻れないような未来を想像すると、どうしても、きゅう、と心の大事な部分を握りしめられたようになって苦しくなるのだ。

アヤに付けられた傷が、ただ左腕に痛みを与えるだけじゃなくて、彼女の心も不可逆に変えていっている。それをまざまざと見せつけられて、涙が止まらなかった。


このあと、私はアヤに無理を言って、普通のカップルみたいにデートをした。映画を見て、カフェに入って感想を言い合い、夕食を食べて、公園でキスをする。私はアヤとこんな普通のことがしたかったのだろう。こんな風に、アヤを傷つけなくて済むことを。快感で胸が痛くならないようなことを。いつでも元に戻せるようなことを。

帰り際に、もう、あなたを傷つけるのはできるだけやめにしようね、と言うと、アヤは少し黙った後にそうね、と軽く笑う。

なんだ、「普通」に戻ることは、存外に簡単なことなんだと、にこにことするアヤを見ながら私は安心した。

6

あれからまた数週間が経った。

アヤは休日になると毎週のように私の家に来るようになった。恋人なんだから当然でしょ、という言葉に私が頬を赤くすることなど気にせずに。

もう腕をに刃を入れたり、血を飲んだりするような、そういう危ないことは自然にしなくなっていたから、アヤは水彩をして、その横で私は課題をするのが大半になった。遅くまで作業をした後に何度かキスやペッティングに及んだこともあったけど、彼女のラブ・ジュースは私に中途半端な潤いしか与えてくれなかった。

それでも私は幸せだった。彼女がそばにいて、何かに打ち込んでいるのを見ることが出来るなんて、ずっと前の私には想像がつかなかったから。

透き通るような世界に筆を走らせているのを課題そっちのけで見ていると、アヤは課題をしていないことに怒っている素振りを見せながらも、今仕上げている作品について饒舌に語ってくれる。川の辺りを歩いている時に、これが綺麗だったから、とか。街を歩いていたら、この奥行きがぐっときて、とか。

今描いている絵は、見た瞬間の感動をよく再現できそうな自信作になりそうだって言っていた。私はそれに素直な期待を寄せている。

でも、こういうことを楽しそうに私に告げるアヤの様子から、私にはない輝きや純粋さを見出してしまう。そこには、隣に私がいる想像ができないほどにきらきらした彼女がいた。そのままアヤが私を置いて駆け出していく様子を思い浮かべて、すごく不安になる。

「ねぇ、アヤ。アヤはずっと私のそばにいてくれる?」

画用紙に筆を走らすアヤの様子を後ろから膝立ちで覗き込んで、私はぽつりと呟いた。

「急にどうしたの? 私が水彩ばかりしてるから退屈しちゃった?」

アヤは筆を動かしながら、こちらを見ずに平然とそう返した。永遠の未来を疑うべくもないというようにして。

「そ、そうじゃないの!ただ、私は何も持ってないし、アヤにだってもう何もあげられてないから。どうして私のそばにいてくれるのかなって思って」

「ふぅん……そっか、なるほど。シオちゃんもそういうことを考えるのね」

アヤが紙から筆を離して、それからゆっくり洗ったり拭いたり、いくつか作業を終えてからパレットにぱたりと筆を置いた。

そうして、彼女は振り返って座ったまま私に前から抱きつく。私は抱きしめ返す気力も持たず、力を抜いて彼女に身体を預けると、ふわりと髪の良い匂いがした。

「良かったらお話をお聞きしますよ、紫織さん」

アヤの楽しそうな声が耳をくすぐる。私が悩んでいるのに、とは思ったけど彼女なりに気遣ってくれているのだと思うと、また身体から力が抜けた。

「嫌なことでもあった?」

「なにもないよ。幸せすぎて、だから怖いの。せっかく血を舐めるのをやめて、普通のカップルみたいにして、普通のカップルの幸せを楽しんで……」

彼女が見ていないと分かると、最近は簡単に涙が出るようになった。

「でも、結局根っこに『女の子同士』っていう絶対に逃げられない異常があるって分かっちゃって。だから、すごく怖い、怖いよ……アヤ」

普通に近づけば近づくほど、当たり前だったはずのことがどんどん異常に思えてくる。

「異常なんかじゃないわ。私達は心も身体も通じあってるって、言ったでしょ?」

彼女の手が私の頭に触れる。なだめようと思っているなら、それは間違いだ。アヤの視線がないところで、アヤのことを深く考えると、こうして私の心にはいくらでも雨が降るんだから。

「ごめんね、アヤ。私、重いよね」

「泣かないで、シオちゃん。構ってほしいなら、別に私が作業してても、後ろから抱きついて無理矢理ベッドに連れて行っていいのよ?」

「私、構ってほしいわけじゃないの。ちゃんと聞いてよ、アヤ」

耳元で囁くアヤを引き剥がすと、彼女はやっぱりいつもと変わらない穏やかな表情でいた――ただ一つだけ、目尻の涙を除いては。

「あ、アヤ……? もしかして、泣いて――」

アヤも泣くんだ。そうだよね、女の子だもん。

そう言おうとする私の口を塞ぐようにして、彼女は私を胸に抱く。無理に引っ張られて私もその場にぺたんと座り込んだ。下着の硬い感触と、その奥の柔らかいものの感触が、むぎゅりと顔を覆う。少し湿った柔軟剤の匂いを鼻に吸い込みながら、今度は私も抱きしめ返す。

「ごめんね、私がシオちゃんを手放すなんて、そんなこと考えたこともなかったから。私のことで泣くほど悩んでくれるなんて、嬉しいわ」

「悩むよ、アヤのこと好きだもん」

アヤだって泣いてるじゃん。もごもごと胸に向かって話しかけると、熱い空気が顔にまとわりつく。

「でも、あなたこそ、私から離れていっちゃわない?」

この距離でなければ聞こえないほどの、いつになく自信のなさそうなか細い声に、私はまた泣きそうになる。

「そんなこと、しないよ。どうしてそんな悲しいこと言うの?」

「私も、そんな悲しいことを言われたのよ? ちょっとくらい意地悪させてちょうだい」

胸から顔を離してアヤの顔を見上げると、もう目尻の涙は消えていた。

「アヤ、怒ってる……? ごめんね?」

「ううん、怒ってるわけじゃないの。私の不安も解消したいから、口実にしただけ」

そう言いながら、私の手を握る。アヤが私の眼を見つめながら触れる手は、私に安らぎを与えてくれた。

「不安? アヤも、不安になるの?」

「シオちゃんは本当に私を完璧だと思ってるのね。私にも、ちゃんと人間らしく脆いところがあるんだって、この前も言ったでしょう?」

「そうだったっけ? でも、なんか嬉しいかも、そういうの」

完璧じゃないアヤは、何だかすごく愛らしい。可愛らしい。何でもないことなのかもしれないけど、そんなアヤを見れたのが私にはすごく嬉しかった。

「シオちゃんに、綺麗って言われたことはあっても、可愛いだなんて言われちゃったのは初めてかもしれないわね」

言われ慣れない言葉で褒められるのはすごく照れるわ、とはにかんだ。

「じゃあ、可愛い可愛いシオちゃんの恋人から、一つ訊いてもいいですか?」

なんでしょうか、可愛い可愛いアヤさん、と彼女に合わせて戯けると、今度は一転して真剣な表情になった。

「シオちゃん、あなたは……好きなだけ血を飲ませてくれるような、とっても可愛らしいお人形さんみたいな娘に言い寄られたら、ついていっちゃわない?」

「……え? な、なにそれ」

「シオちゃんがいくら血を吸っても罪悪感を覚えないような……本当のお人形さんみたいな娘には、私はなれないみたいだから」

「私、血が好きなんじゃないよ? アヤ、あなたのだから好きなんだよ?」

普段より少しだけ濡れたアヤの目を見て、私はそう言った。アヤは少し黙って、また私を抱きしめる。うん、うんと何かに納得したように何度か頷いた。

「そんなこと、言われなくても分かってるのにね。意地悪言ってごめんなさい」

今度はアヤの方から私を離れて、私の目を見て続ける。

「やっぱり私も、血を吸ってもらえなくなってからずっと不安みたい。血を捧げて、それであなたがずっと私を見てくれる保証があるなら、いくらでも差し出したいと思ってるくらいだもの。もうしないって言ったのにね」

「……この先ずっと一緒にいるとしても、いつかは終わりが来るよ」

私はその視線に応えきれずに床に目を遣る。アヤの不安そうな顔を見ていたら、私まで泣いてしまいそうだった。

それは死という意味かしら、と訊かれて私は頷いた。

「アヤが私のお人形さんになりたいとしても、きっと本当のお人形さんにはなれないよ。私だって、いつかは絶対死んじゃうんだし」

二人の間に沈黙が流れた。死んじゃう、と口に出したせいで、私の涙は急に限界を迎えてその静寂へとぽろぽろ溢れだしてしまう。

「ねぇ、アヤ、どうしよう? アヤが先に死んじゃったら、私、どうすればいい?」

「どうしようもないわ。本当に、誰だって、どうしようも」

女の子同士だと互いの喪主にもなれないと聞いたことがある。そういうのって、あんまりだ。アヤの言うとおり、本当にどうしようもない現実に力が抜けてしまう。

アヤはまた少し間を置いて、それからぽつりと続けた。

「でも、そうね。三十五日後に、あなたも死んでくれたら嬉しいわ」

「三十五日?」

訊き返してからすぐに、八月のアヤと九月の私、二人の誕生日の差なのだと分かった。

「同じ長さを生きて死ぬんだもの、きっと天国でも一緒になれるんじゃないかしら?」

「じゃあ、私が先に死んじゃったら、アヤはどうするの?」

「あら、私の腕をこんなにしといて、私より早く死のうっていうの?」

そんなの考えたくもないことね、とアヤは冷たく言い放つ。私だってアヤのいなくなった世界のことなんて考えたくもないけど、私の欲望のためにいつ死んでもおかしくない綱渡りを繰り返させてきた手前、何も言い返せなかった。

「シオちゃんが今ここで私の胸を一突きしてくれたなら、そんな心配はなくなるのにね」

「ひ、一突き?」

「えぇ。私の胸を一突きしたシオちゃんが血を吸い尽くして、それから三十五日間の逃走劇を始めるの。逃げ切ったあなたは、私を突き刺したそのナイフで自害するんだわ」

「そ、そんなのダメだよ。いくら背徳感が好きだとしても、破滅的すぎ」

そうは言っても、そのシチュエーションは私の目にもかなり魅力的に映る。見つかってからは、きっとニュースや新聞がいかに私が猟奇的であったかを口を揃えて報じるだろうけど、そんなのアヤと私には関係のないことだ。

「大丈夫よ。今のところはただの一妄想でしかないわ。でも、興奮しない? 私の血が、私の命が全部あなたに飲まれていくの」

私が、目に光を宿さなくなったアヤの首筋に齧り付いて、獣のように血を飲んでいる。必死に、まるで私がこれから彼女と天国で出会うための儀式であるかのように。

「ふふっ。また舐めたくなっちゃった?」

こくり。私は頷いて唾を飲んだ。アヤはくすっ、と笑う。

「もうしないって言ったのに? シオちゃんのえっち」

居ても立ってもいられなくなって、アヤの手首を取って床に押し付ける。私の手がテーブルにぶつかって、床に描きかけの絵ががたりと落ちた。

私はそれには目もくれず、アヤをじっと見つめる。アヤも完成前の水彩画のことなど頭にないかのように、私の視線に応え続けていた。

やっぱり私には、普通に戻ることなんて無理なんだ。赤いものを求めるこの胸の高鳴りには、どうやっても嘘はつけない。

「アヤ、私が想像しちゃうって分かってて、わざとやってるでしょ」

「ふふっ。随分と怖い目をするのね。ちょっと挑発しただけでこんなになってくれるなら、挑発しがいがあるってものね」

私はアヤの拘束を解いて起き上がる。押し倒されたにも関わらず余裕の笑みのアヤを見て、必死に力づくで彼女を求めようとしている自分が急に恥ずかしくなった。

「そうやって誘ってくるなら、私、本当にしちゃうよ?」

「いいわよ。飲みたいの? それとも、ここ、刺しちゃいたい?」

アヤもむくりと起き上がる。右手の人差し指で、傷の残っているだろう腕を、それからまだ誰にも傷つけられていない胸の辺りを指差す。私はそれを見てまた、こくりと誘いを受け入れた。

「胸には刺さないからね?」

「知ってるわ。シオちゃんはとっても優しくて臆病なんだもの」

そう言ってアヤは、大事にしてくれてありがとう、と芝居じみたお辞儀をした。

「じゃあ、今度はシオちゃんがして。あなたが大事に思ってくれてる私を、あなたの手で傷つけて、縛り付けて」

それからアヤは彼女の鞄を指差して、中の道具を使うように伝えた。私は小さめの果物ナイフと消毒用具を取り出して、アヤにはヘアゴムを手渡す。

彼女はするりと流れるような動きで髪をまとめて、それから上着を全部脱いで下着姿になった。黒の布地が真っ白な身体を引き締めて更に美しく見せる。血が付いても目立たない黒いランジェリーは、まるでこの事態を予測していたかのようだ。

「アヤ、すごく綺麗だね」

「この前みたいに、可愛いとは言ってくれないのね」

「何でも可愛いって言うわけじゃないもん。今のアヤ、美術品みたいですごく綺麗だよ」

「ありがとう。ほら、切る前に消毒して?」

私はアヤがそうしていたように、アルコールを含んだ脱脂綿を切るようにして果物ナイフを通す。消毒を終えて輝きを増したそれは、鞄から取り出した時よりは幾分か冷ややかに見えた。それとは対照的に、服の下に隠れていたアヤの真っ白な腕には生々しく幾条にも赤い鎖が走っている。その一つ一つが熱く、痛々しく歪に盛り上がっていた。

「ほんとに、いいの?」

「もう待ちきれないんでしょう? 早く、して?」

私はごくり、と唾を飲んだ。あらわになったアヤの腕は、私にとろけきった性器を見せつけられているのと同じ気持ちを巻き起こす。

今すぐにむしゃぶりついてその樹液を味わいたい。

「じゃ、じゃあ……いくよ?」

私は差し出された彼女の左腕を取り、無数に走る傷へ加えるに最も調和が取れそうな線分を見定める。そのまま滑らかにつつ、と冷たい刃物を滑らそうとするけれど、どうしても手が震えて一歩を踏み出すことができなかった。

そんな私を見て、アヤが私の手を取って落ち着かせようとしてくれる。

「大丈夫、シオちゃん? やっぱり、私がしたほうがいいかしら」

「……ううん。ちゃんとできるよ、アヤ。ありがとう」

私は軽く息を吸って、吐いて。もう一度軽く吸って。それから、アヤの美しい前腕に煌めくナイフの切っ先を当てる。当てて、そうして、アヤが自分でしているように、一気にまっすぐな軌跡を描いた。

「っ!」

と、アヤが小さな悲鳴を上げて、腕は動かさないようにして身をすくめた。私はそれを聞いて慌てて刃を肌から離す。柔らかな肌にこのナイフは鋭すぎたらしく、思い描いていた以上に長くて深い傷を刻んでしまっていたようだ。

「あっ、ごめん!痛かった、よね?」

当然、痛いのは痛いだろうけど、アヤが自分でそれをする時はこんな声を上げることはなかったから、やはりやり過ぎたのだと思った。

「う、ううん……違うのよ、シオちゃん。ただ、びっくりして。自分以外の人に切ってもらうのが初めてだったから」

そう言いながらも、アヤの目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。涙も拭かずに、右手で左肩を色が変わるほどに握りしめるようにして、そのせいか右腕は弱々しくぷるぷると震えていた。

「ほんとに、大丈夫……?」

「ふ……ふっ、ごめんなさい。嘘ついちゃったわ。痛い、いたいよ……シオちゃん……」

ぐぐぐ、と右手に入る力が強まったように見えた。アヤがこんなにも痛がっている。アヤがこんなにも苦しんでいる。こんなにも――

「あ……アヤ、大丈夫……? ねぇ?痛いの……?ど、どうしようか……」

――こんなにも、アヤが感情をさらけ出したことがあっただろうか。

恋人が私が与えた傷のせいで痛がっている。その激しい感情の発露を見せつけられて、私はどうして興奮していられるのだろう。

「すごく、痛い……痛いわ、嬉しい……シオちゃんが……痛く、してくれた……」

だがそれは、彼女も同じだった。私が与えた鋭い痛みと鈍い痛みは、彼女を恍惚とした快感ですっかり包み込んでいた。本来危機感を刺激するはずの痛覚は、もう単なる精神的な快感を盛り上げるスパイスでしかない。

私は思わず彼女の頬を舐めた。アヤの体液は、どんなものであっても魅力的に見える。彼女の涙は思った以上に塩味が少なかった。

「涙もいいけど、せっかくしたんだからこっちも舐めて?シオちゃん」

そう言って、アヤが左肩から手を離す。さっきまで震えていた彼女の身体がいやに落ち着いて、全身から力が抜けていくように見えた。

今しがた刻まれた生々しい傷口から、浮かび上がるようにまっすぐと血が滲んで、ふつふつと真っ赤な真珠が美しいネックレスを形作っていく。その綺麗な首飾りはすぐにぷつりと切れて、床に机にぽつぽつと垂れていった。描きかけの青い水彩画にもアンバランスなアクセントが添えられていくけれど、アヤはその未完の自信作を一瞥すらしない。

「ね。ほら、舐めて?」

私は流れゆく血の一つに口を近づけて、彼女の腕に優しくキスをする。そうして、ぬるりと唇に感じる違和感を舐めとると、私の口にこびり付くような鉄の味が広がる。口の中を駆け巡るその味に、頭がくらくらした。すごく興奮した。

「シオちゃん、私の血は美味しい?」

「うん、アヤ。すごくいいよ。もっと、するね?」

口に残る血の味が無くならないように、私は何度だってキスをした。血が残っている部分を執拗に舌で突付くと、アヤは傷口の痛さに堪えきれない悲鳴を上げる。彼女の体液をずっと口に含んでいると、それさえも、次の愛撫をねだる甘えた声に聞こえてしまう。

この傷があれば、私とアヤは繋がっていられる。自分で付けた傷にさらに痛みを与えて、私のものだとマーキングしているみたいだ。

「とっても綺麗。私がそのまま、シオちゃんの口紅になったみたい」

「アヤに綺麗って言われちゃった、えへへ」

「えぇ、あなたと私が一つになったみたいで、すごく綺麗よ」

アヤが熱っぽい視線を向ける度に、私はそれに応えて腕に舌を這わす。

結局、いつの間にか私もアヤも、これなしでは生きられなくなってしまっていた。私はアヤの血を啜ることを快感だと思っているし、アヤはこれを最高の愛情表現だと言った。だから愛に純粋なアヤは、これからも私の手でどんどん傷つけられたいと思うだろうし、私もそうすることだろう。

もしかしたら純粋なアヤなんて最初からいなかったのかもしれないけど、今となってはもう分からない。少なくとも、美しい絵を描き出すあのきらきらとした純粋さは、もう私の中には見つからなかった。

「シオちゃん。だからね、私になんか、なっちゃダメ。私はあなたのお人形なんだから」

綺麗な水彩画に血が滲む様子に重なって、アヤの透き通るようなブラウンの瞳が徐々に濁っていくように見えた。アヤにはずっと血が流れているけれど、私が血を舐めていく度に生命――魂の総量が減っているんじゃないかと、そういう気持ちになることがある。可愛らしいアヤも、脆いところがあるアヤもみんな消えて、でもそれが、本当に私の求める完璧な人形なのかは分からない。

彼女が人形としての彼女に近づいていくことを想像して、私はまた彼女の腕に舌を這わせた。ぱっくりと開いた薄い赤の傷口をなぞる私の愛撫が強くなる度にアヤはぴくり、ぴくりと身体を震わすけれど、それも徐々に弱くなっていき、とうとう時折小さく漏れる嬌声が部屋に響くだけになった。

そこに私の荒い息の音が混じっているのに気付いた辺りで、私は腕から口を離し、うっとりとしたアヤの瞳を見つめた。

「好きよ、シオちゃん」

「私も好きだよ、アヤ。私のこと、ずっと見ててね」

そう言ってから、私はアヤに唇を重ねる。

彼女の唇から感じる体温が、ずっと座っている冷たい人形の唇のそれに重なって、また戻れない現実を意識してほろほろと涙が出た。その一粒がアヤに当たって、それに気付いた彼女は下から私を覗きこむ。それからアヤは軽く微笑んで、私をいたわるようにゆっくりと私の頭を撫で始めた。

「綺麗だよ、文香」

何もかもを差し出して、私はあなたに隷属するわ。だから、あなたは私に縛られるの。どこにいても、ずっと、何もかも。

私はそのまま唇を離さない。目を瞑ってアヤに涙を渡しながら、とろとろした体液を交換しあう。今ここでしっかりと彼女の眼を見つめたら、私が彼女にしてきたこと、彼女が私にくれたもの、その全部が私を押し潰してしまいそうだったから。


私の涙を全部吸い取って、彼女に魂が宿ればいいのに。

そうして目覚めてから不思議そうに私を見つめる彼女に、私の唇の熱を流しこむのだ。

この熱が彼女の身体に広がって、私の愛を知ってほしい。私も好きよと囁いてほしい。もっと私を熱い視線で見つめて欲しい。

ただ、それだけでいい。何も、見えなくていい。

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